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雲の向こう側

2010-06-06

「タブコン」の地位を確立できるか―iPadの挑戦

10日ばかりiPadを使って思ったのは、Appleはついに「まったく新しい製品カテゴリ」に挑戦するのだなあ、ということだ。これはApple II以来のことではないだろうか。

もちろん、これまでにもAppleは全く新しい製品を数多く出してきた。

しかし多くの場合、製品よりも前に製品カテゴリが存在していた。

Macintoshはパーソナルコンピュータだった。

iPodは携帯音楽プレーヤーだった。

iPhoneは、iPod+ブラウザ+携帯電話だった。

ジョブズはiPhoneの発表のとき、「携帯電話を再発明する」と宣言した。

そして実際に、携帯電話のポジションを占めることができた。

つまり、Appleの製品が登場する前に、製品カテゴリが存在し、Appleはそのカテゴリの製品を「再発明」してきた。

しかし、iPadとは何か?

iPadは、携帯電話ではない。

テレビでもない。

ノートPCにはやや近いが、WindowsのPC を置き換えるには汎用性が低い。

電子ブックには近いが、そもそも電子ブックは製品カテゴリとしてはまだまだ確立されていない。

つまり、iPadは「カテゴライズできない」デバイスだ。

この大きさで、こういう使い方ができるコンピューター、という、まだ確立していないカテゴリの製品なのだ。

そこが、MacintoshやiPodやiPhoneとは違う。

これまでにも「ウォークマン」「パーソナルコンピュータ」「ゲーム機」「携帯電話」といった、それまで無かったカテゴリが出現した例はあった。

それぞれ、70年代、80年代、90年代、2000年代を代表する製品カテゴリだ。

新しい製品カテゴリが生まれ、大きく育つのは5年、10年に一度のことなのだ。

パーソナルコンピュータという製品カテゴリを作り出したのは、Apple IIだったが、iPadはそれに近いエポックメイキングな、野心的な製品だと言えるだろう。

OSやユーザーインターフェースがiPhoneと共通だということは重要ではない。

ただ、新しいカテゴリの製品としてはやや有利な点は、店では、iPadはiPodの隣に置かれて販売されるだろうということだ。

売り場が確保されていることは重要だ。カテゴライズできない製品は、どの売り場で売るべきかすらよく分からないものだが、iPadはその心配は無さそうだ。

しかし本質的には、iPadは明らかにiPod/iPhoneと異なるカテゴリの製品だ。

そのカテゴリを名づけるなら「タブレットコンピュータ」ということになるだろう。

このカテゴリには、電子ブックやフォトフレームなどの製品も吸収されていくことになるかもしれない。

今後、「タブレット」という新しいカテゴリが今後定着するかどうかは分からない。iPadは「大きいiPod Touch」として、ちょっと売れたニッチな商品で終わるかもしれない。

iPadがiPadではなく、より一般的な「製品カテゴリ」へと脱皮できたとしたら。

ヨドバシカメラやヤマダ電機に「タブレットコンピュータ売り場」ができ、略して「タブコン」と普通に呼ばれるようになり、そして「タブコンは家の中でこういう場所にあって、こういう使い方をするもの」という共通認識ができあがってくる。

タブコン市場という新しい市場の誕生だ。

一方で、タブコンと近い用途に用いられていたPCや携帯、テレビや雑誌等、他のカテゴリの製品/サービスは、自らの用途や役割を再定義しなければならなくなるだろう。

しかし、それは新しい市場の出現に比べれば、瑣末なことだ。

新しい市場を立ち上げていくために、自分も何かやってみたい…と思う今日この頃である。

2008-11-16 日本語が亡びるとき このエントリーを含むブックマーク

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

梅田さんや弾さんが激賞していたので、「日本語が亡びるとき」を読んだ。

まず、なんとも見事な日本語・日本人・日本論だ。日本語、特に書き言葉としての日本語の成立についての解説は普通に読み物としても興味深いし、日本語の行く末についての考察の説得力もすごい。

同時に、著者の日本語に対する痛切な思いも伝わってくる。最後の2ページは涙してしまうほどだ。

いかに素晴らしい文学を抱えていたとしても、日本語と英語が素手で闘えば、本書のタイトルが示す結末から大きく外れることはないのだろう。

これはITの世界におけるプラットホーム同士の競争に似ている。

この本が訴えているのは、「日本語という書き言葉プラットホームが終わろうとしている」ということだ。もちろん、その上の数々の素晴らしいアプリケーション=文学作品もろとも。

ここで「終わる」とは、

  • 日本語というプラットホームで誰もアプリケーションを書かなくなる
  • すると、日本語というプラットホームから魅力が失われ、プラットホーム自体も進歩しなくなる
  • その結果、日本語というプラットホームとその上のアプリケーションが使われなくなるだろう

ということを言っている。

したがって、たとえ日本の文学作品全てがインターネット上にアーカイブされようと、何の救いにもならない。それは住人のいない街であり、やがては遺跡としての意味しか持たなくなる。

なぜ誰も日本語書き言葉プラットホームのためのアプリケーションを書かなくなるのか?

もちろん、英語という、よりユーザ数の多い書き言葉プラットホーム向けにアプリケーション=読み物を書くようになるからだ。

この流れはもう止められない。

しかしアプリケーションはプラットホームに制約される。英語で書かれた読み物は英語というプラットホームによって自ずから規定される。日本語というプラットホームにしかない機能を使うには、日本語で書くしかない。日本の文学は日本語で書かれたからこそ成立し得た。正確に同じ内容を英語で表現することはできない。

だが、英語と日本語のユーザ数の比は、WindowsとMacどころではない大差であり、しかもインターネットによって今後確実に、ますます差が開いていく。遠からず、世界の言語は1番とそれ以外−つまり英語とその他の言語、という形に落ち着く。日本語はマイナーな一プラットホームとなり、ますますユーザ数が減っていく。

では日本語を護るにはどうすればいいのか? 著者の提言はこうだ。

1.日本語というプラットホームのアプリケーション=文学作品の素晴らしさをきちんと日本国民に教え、日本語のみを使い続ける、強力なユーザー集団&開発者集団として育てつづける。

2.日本語と英語の優れたバイリンガルを少数でよいからきちんと育てる。彼らのミッションは日本が英語プラットホームから隔絶しないよう、掛け橋になることだ。

これは論理的には全く正しい。

けれども、日本語を護るために、結果的には一部の人達を除いた平均的な日本人を、ますます英語オンチにすることになる。グローバル化は言語のプラットホームだけではなく、全ての産業、全ての職業で同時進行している。英語を使える人をより多く、という要求はますます高くなるだろう。そういう流れの中で、この提言がまともに検討されることは、おそらくない。

こういった保護主義的なやり方でなく、「日本語で書くこと」が書き手にとって経済的なメリットとなるような、うまい手はないものだろうか。

英語は読み手の数では圧倒的だ。読み手の数以外のところで勝負できないものだろうか。著者は、本書で、書き言葉の成立と資本主義が深い関係にあったことを指摘している。資本主義の仕組みに沿うやり方で、日本語を護ることはできないものだろうか。

2008-05-27 著作権団体の陥る「被害者の呪い」 このエントリーを含むブックマーク

著作権関連の団体が、意見を発表するそうだ。目的は消費者に対するアピールであるという。おそらく、家電メーカーを糾弾するような内容になるのだろう。「消費者の利益になるダビング10」の開始を遅らせている「犯人」は、著作権の権利者側ではなく、約束を破ったメーカーだ、と言いたいのだろう。

その約束は正当なものだったのだろうか。そもそもデジタル放送の録画に対して補償金を求める根拠が腑に落ちない。無名の一知財政策ウォッチャー氏が述べているように

  • HDDレコーダ自体は複製を一つしか持てない。これはダビング10以前と以後で全く変わらない。したがって課金する理由が無い。
  • ダビング10ではレコーダでDVDに複製できるが、現状DVD媒体には既に課金されている。したがって追加で課金する理由が無い。

という状況だからだ。

もう一つ不快なのは、権利者側が「被害をこうむっている」と主張していることだ。では加害者は誰か。複製を行っている消費者だろう。権利者は(仮にもお客様である)消費者を直接に批難してはいないが、メーカーは消費者が権利者に加えた害を、消費者に代わって補償している。消費者は、実は加害者として糾弾されているのである。

しかし消費者は、iPodのような機器を使うことで、著作権者に害をなしている、というような後ろめたさは微塵も感じない。なぜならそれは複製ではないからだ。家庭内において、たとえばCDをiTunesやiPodに移すのは、CDがメディアとして利便性を欠くからである。PCやiPodへ複製する目的はコンテンツをより小さく・軽く・検索性の高い別メディアに移すことであり、複製になってしまうのは副作用だ。実際、CDとiPodを同時に別の場所で再生することはほぼ無いだろう。

こんなことは、著作物のヘビーユーザでもあるはずの著作権者なら、当然分かっていることだろう。ならば彼らはなぜ、「補償」を求めるのか。

内田樹さんの書かれた「被害者の呪い」という文章がある。これを読んだとき、これはまさに著作権の権利者が陥っている状況そのものだ、と思った。

「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。

もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。

「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。

けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。

「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

著作権の権利者は、まさにこの状況にあるように思う。彼らは永遠に、「被害者」として振る舞わねばならない。被害者でなければ補償金を受け取る理由が無いし、補償金を受け取るのが権利者団体の存在意義の一つだからだ。補償金という制度が存在する限り、おそらく彼らはこの呪いから自力では抜け出せない。権利者自身にとっても、メーカーにとっても、消費者にとっても不幸な状況だと思う。

多くの人が言っているように、この状況を解き放つにはまず「補償金」という名称を廃し、「権利者は被害者ではない」というところから出発しなければならないだろう。権利者が収入を得られるのは家電製品のおかげだし、家電製品が売れるのは権利者のおかげだ。もちろん消費者は恩恵をこうむっている。

そのためには著作権法を一度リセットしなければならない。知的財産戦略本部の専門調査会に期待したい。時間はかかるかもしれない。「北京五輪でダビング10」どころか、「アナログ放送終了前にダビング10」も無理かもしれない。しかし、本田雅一さんも書かれているように、ダビング10なんて正直どうでもいいのですよ。ずっと「加害者」として「補償金」を支払い続けるくらいなら。

2008-05-22 魔法使いの育て方 このエントリーを含むブックマーク

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944)

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944)

充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。ケータイは今やこの言葉に相応しい存在だ。水晶球とiモードの間に、もはや違いは無いだろう。

ケータイは子供を魔法使いにする。魔法使いになった子供の中の、ある者は悪い目的に魔法を使い、またある者はより強い魔法使いの毒牙にかかる。ケータイに限らず、テクノロジーは人を強化し、その結果起こることはいつも光の部分と影の部分がある。

良いことも悪いことも、その原因は魔法そのものではなく、使い手の心にある。だから心の成長に合わせて、だんだん強い魔法を身につけていくようにしなければならない。一方で、悪い魔法使いの力を押さえ込む工夫も必要だ。

本書「ケータイ世界の子どもたち」は、「いかに子どもを良い魔法使いに育てていくか」をきちんと論じている。ケータイという魔法のダークサイドについて詳しく解説しつつ、しかし魔法否定論でもなく、もちろん自由放任でもない。問題の全貌を俯瞰しつつ、極端な対処策からは一定の距離を置く。

ケータイと子どもの問題に関わりがあるなら、本書はぜひ目を通すべきだ。この問題について政・官の動きと業界団体の動きがそれぞれ報じられているが、「そもそも子どもたちにとっての問題は何なのか」がきちんと整理できていないと、憲法談義から個別の事件の対処策にまで、話は容易に拡散あるいは矮小化する。そのどちらにも陥らず、中立的な立場で問題全体を俯瞰するという重要な仕事を本書は見事に成し遂げている。

どう対処していくのか、具体論はこれからだが、本書を読めば、「とにかく魔法を全て封じろ」というガチガチの規制論も、「悪いのは使い手であって魔法に罪は無い」とする放任論も、等しくナンセンスであることが分かる。大人は、子供を子供のままに押し込めるのではなく、良い魔法使いに成長できるようにしなければならない。一方で未熟な者は指導し、道に外れた者は排除することも必要だ。見習魔法使いを導けるのは、制度でも技術でもなく、分別を持った大人の魔法使い達なのである。

2008-05-15 梅田塾、齋藤道場 このエントリーを含むブックマーク

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

齋藤孝×梅田望夫「私塾のすすめ」を読んだ。

ここのところでお茶吹いた。

(梅田) 結局、アメリカの会社に十年つとめることになったのですが、研修は全部欠席して、一度も受けたことがないんです。全員並んで人の話を聞くというのが、どうにも駄目なんです。それに、大の大人が、いつ必要になるかはっきりしない知識やスキルを強制的に勉強させられるという枠組みに耐えられない。 (p.173)

個人的にはとても気持ちが分かるのだけれど、本当にそれやっちゃったということは、会社員としての梅田さんはかなり変人だったんだなあ、と。

さて本書は教育論、というと漠然としているが、他者(主により若い世代)との一対多での交流のあり方、みたいなものを齋藤さんと梅田さんがぶつけ合うという内容だ。

齋藤さんの著書を私は読んだことがなかったのだけれど、齋藤さんは、身体的なものも含めた訓練を活用する、ということを非常に工夫されているようだ。たとえば、この喝采体験の話などは本当にとても良い。

(齋藤) 僕は「喝采浴びゲーム」というのを考案したことがあります。(中略)学生に一人ずつ一分間話をしてもらって、他の人全員がその学生に喝采を浴びせかけるというゲームです。そうしたところ、喝采を浴びた学生は皆。「クセになります」「喝采を浴びるためだったら、何でもしたくなります」と言います。 (p.97)

誉められ体験も重要だが、この訓練には自分の体を使って声を出して何度も人を誉めるということが含まれていて、これがすごく重要だと思う。

一方、梅田さんが志向しているのは、おそらく訓練ではなく対話だ。一対多ではあるけれども、自著の感想を読みまくるというのもある種の対話だと思う。冒頭のお茶吹いたところに戻ると、新入社員研修というのはまぎれもなく訓練そのものだ。私もそうなのだが、訓練ではなく対話を志向するタイプの人間にとって、訓練を強いる研修というのは忌々しいものだ。(もっとも、きちんと設計された研修には訓練と対話がうまく織り込まれているものだが。)

さてそんな二人が私塾的な教育についてあれこれと意見を交わしているのだけれど、二人のスタイルは違っているから、特にネットの使い方という部分で微妙にすれ違う。現時点でネットに親和性が高いのはやはり梅田さん。「ネットで私塾」という話を振っているのも梅田さんなのだけれど、考えてみればブログというのは明らかに対話的なあり方に向いている。

でも、齋藤さんの訓練型スタイルが今後ネットの中で広がる可能性も、実はあるのじゃないかと思う。ベタすぎる例だが、Wiiみたいな身体を使うゲームをネットで使う場合とかを考えてみれば、訓練的なものとネットとの親和性も可能性はありそうだ。身体性という意味では、端末の形態も重要な要素になってくるから、ツールはPCとブラウザではなく何か別のものになるかもしれない。

そういう訓練型の場は、私塾というより道場のようなものになるのではないかと思う。たとえば「喝采浴びゲーム」をやる道場。稽古を繰り返すと、参加した人のエネルギー値が上がっていく。自然に人を誉められるようになる。

ネットでそんなことができたらいいなあ。できないはずはないよなあ。そんな妄想が湧き上がった一冊だった。