近代社会システムの揺らぎとNEET人口増加の問題


「ニート」2002年で85万人、定義見直しで膨らむ――YOMIURI ON-LINE


内閣府の「青少年の就労に関する研究会」(委員長・玄田有史東大助教授)は22日、学校に行かず、働かず、職業訓練にも参加しない「ニート」と呼ばれる若者が2002年には85万人だったとする集計を公表した。

厚生労働省は2004年版労働経済白書で、ニートの定義に「家事の手伝いもしない」ことを加え、2003年で約52万人と試算していた。

これに対し、内閣府の研究会は「『家事手伝い』は就労意欲のないケースが多い」としてニートに含めたため、数字がふくらんだ。

同研究会では、ニートは1992年より18万人増え、85万人のうち就職を希望しながら求職活動をしていないのが43万人、就職を希望していないのが42万人だったとしている。

NEETとは、“Not in Education,Employment or Training(雇用・教育・職業訓練を受けていない無業者)”の略語であり、ひきこもりや失業者という呼称に代わって使われることの多くなった比較的新しい社会学領域の用語である。
NEETを、『雇用・教育・職業訓練を受けていない者=受動的な社会義務を放棄した者』と表記すべきなのか、『就労せず、勉強せず、就職の為の訓練を行っていない者=能動的な行動意欲を喪失した者』と表記すべきなのか若干躊躇したのだが、今回の記事では、近代国民国家あるいは資本主義社会の根幹を支える“勤労道徳と国家財政の維持継続”という観点から考えてみたいと思い、受動的な社会義務として労働・教育・職業訓練を捉えてみた。

国家の最高法規である憲法には、国民に3つの義務を規定しているわけだが、その初等教育において子ども達に教えられる3つの義務とは『労働の義務・納税の義務・子女に普通教育を受けさせる義務』である。
何故、私達が働かなければならないのかという法的根拠は憲法第27条『すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ』にあるわけだが、当然、27条の労働の義務は、国家への無償奉仕や有無を言わさぬ就労の強制という意味合いではなく、憲法第25条などに掲げられる国民個々人の“健康で文化的な最低限度の生活”の実現や国民の納税によって実現される社会福祉社会保障・公衆衛生の向上増進”の為の労働の義務と解釈すべきものである。

しかし、NEETという用語を一つの社会問題のスキームの中で持ち出しているのは、急速に進行する少子高齢化や都市と地方の人口格差など人口動態学的な変化と800兆円に迫らんとする膨大な国の国債残高(借金)の拡大を睨んでのことだと推察できる。
常識的に考えても、若年層のNEET人口が増加する流れが続けば、国家歳入の源泉である税収が確保できなくなるため、公的な社会保障制度(年金・医療・介護・教育の公的負担)や社会福祉政策を維持向上させていくことが困難になっていくのは論理的必然である。
国の政策的観点からは、財政破綻社会保障制度の破綻を回避する為には、NEET問題解消による納税者のパイの増大が必要であるということである。

また、未就労のNEETの大部分は、一生涯働かずに生活できるだけの資産を持っていないことが想定される事から、今、就職支援活動や職業訓練支援をしておかないと、将来的な社会不安を招来する懸念があると政府側や有識者は考えているのかもしれない。
現在、親の扶養や資産などによって最低限の衣食住が賄われているNEET達が、数十年後に膨大な人口の生活困窮者となる可能性は否定できない。その段階に至って、それまで納税や社会活動を行っていなかったNEETに対して、巨額の公的資金投入による救済政策を取る必要性に迫られた場合に、相当に大きな議論が巻き起こることも予想される。

生死に関わるような究極的な経済的貧困層が無視できない人口割合を占めるようになれば、正に、経済階層の二極化によるマルクス的な階級闘争の様相を呈する恐れがないともいえないわけで、極端な経済格差の拡大が教育・職業・経済力の世襲的状況に接続される事態は、社会秩序の維持や国民相互の連帯協調という観点からは望ましくないものであるとは言えるだろう。

社会通念としての勤労道徳として、『働かざる者、食うべからず』という格言めいたものがあるが、これは日常、不本意なやりたくない仕事であっても生活を維持する為に必死に働いている人に対しては非常に説得力のある道徳規範であり、一般の人たちがホームレスや金銭目的の犯罪者などに対して冷ややかな視線や態度を取りやすいのは労働意欲を持たず社会参加をしない者や不当な手段で金銭をせしめようとした者が、経済的困窮に陥るのは自業自得であるという認知が働いているからである。

社会心理学で、人間が他者の状況と責任をどのように認知し判断するのかという心理過程を分析した理論に、『原因帰属理論』というものがあるが、人間は相手の現在の危機的状況(結果)が、相手の行動・選択に原因が帰属すると考える場合には、その人の自己責任を厳しく追及する心理機制が働くようになっている。反対に、現在の危機的状況(結果)が、本人の行動・意志・選択と無関係な、予測不可能な突発的な事件・事故、経済情勢の悪化による失職などに基づく場合は、本人に対して自己責任を問われることは少なくなっていく。

原因が、“意欲・意志・価値観・行動・選択・趣味嗜好などの個人的要因”に還元されれば、相手に対する公的な支援・援助を行うべきだという社会的コンセンサスは得られにくく、“経済情勢・雇用環境・社会構造・時代状況・経済政策などの環境的要因”に還元されれば、相手に対する公的な支援・援助を行うべきだという気運が高まっていく。
つまり、誰にだって予測できない突然の状況変化や事件事故といった環境的要因によって、不幸で困難な事態に追い込まれる可能性があるのだから、相互扶助の精神で助けてあげたいという気持ちが高まることによって、社会的コンセンサスは形成されやすくなるのである。

同時に、相手の現在の成功や幸福の原因が、相手の行動・意志・選択に帰属すると認知する場合には、その相手に対する高い評価や快い称賛が送られやすくなってくるとも言える。
つまり、原因帰属理論を検証する為の膨大な実験結果が示唆するのは、経済的困窮の原因が、『自分が働きたくない。自分にふさわしい仕事がないから働かない』という意志や選択に帰属する場合には、同情や共感といった肯定的反応はまず起きず、相手に対する嫌悪感や抵抗感が生じやすくなってくる。
予期せぬリストラをされた失業者に対しては同情や共感が起こりやすく、公的資金を投じてでも生活を支援し再就職しやすい雇用環境を整備すべきだという世論が形成されやすいが、自分自身の感情や選択によって自発的に退職し、なかなか仕事を探そうとしない人に対しては同情や共感は起こり難く、公的支援は行われ難い。

NEETの場合には、『心身に特別な障害がない若年層であるにも関わらず、何らかの個人的要因によって就職活動や労働行為を行わない人たち』という認知が先行している為に、現在の就労支援や職業訓練といった形態以外の公的負担を行う事に対しては強い世論の反対が湧き起こることが予想され、将来的な生活困窮者の飛躍的増加に対してどのような政策的対応を取るのかに対して議論紛糾する可能性は高くなるのではないかと思う。
臨床心理学や精神医学の分野において、“非社会的問題行動”と定義されてきた就職拒否、ひきこもり、不登校(登校拒否)、社会的義務責任の放棄などの問題の正確な理解には、個人の気質性格や精神の発達段階、心理特性、価値観などに目を向ける心理学的・医学的アプローチだけでは足りないだろう。

全ての社会問題を、個人の心理的原因に還元することを、私は自然主義の誤謬になぞらえて、心理主義の誤謬と呼びたいと考えている。
非社会的な問題行動だけではなく、うつ病抑うつ感・不安感を伴う適応障害などの精神障害の原因を考える場合には、個人の内面的原因や価値観だけに原因を求めるのは公正客観を欠くと言わなければならないし、正確に人間精神の構造と変容過程を理解し、精神の本質に接近する為には、絶えず“心理と環境の相互作用”“国家統治システムと個人の生活状況の動態”を考慮しなければならない。
私が、各種精神障害を考える場合に、脳神経科学的原因のみを重視する薬物優位主義に懸念を感じるのは、精神障害の総合的な原因理解を軽視して、人間個人の脳内環境の異常が精神症状の出現と殆ど同義のものと考えている極端な精神病理観についてである。

情報伝達物質の分泌バランスの障害の問題に全てを還元する傾向があると、社会構造の歪みや経済環境の問題といったより広範な環境改善的視点が忘れられやすい。しかし、こういった問題を精神科医臨床心理士が取り扱うというのは現実的ではないというのもまた確かであり、複雑性を増す現代社会の精神病理の解明と克服は相当に至難な道となっていくであろう。
行動面での社会不適応性という伝統的精神医学の異常性解釈を適用すれば、NEETという行動形態そのものが、フーコーが危惧した近代の異質性排除のメカニズムにより精神病理学的な異常とラベリングされる危険もある。

そういった問題行動と精神病理性の結合の問題は、ひきこもり問題においても散々議論されたことでもあるが、行動の不適応性と精神の健全性をアナロジーで観察することには十分な注意と慎重さが必要である。その意味で、行動科学的な精神理解が一般化することには、一定以上の差別や排除の危険性を内包しているという事が出来るだろう。

無論、私は脳神経科学に関する理論や知見も十分に説得力があると思うし、人間の精神機能は脳内現象や脳内の神経活動によって成立していることはほぼ疑いないと考えているが、自然科学的な人間理解だけではどうしても現象の一部分だけを切断して分析するという部分的な分析主義への偏りが起きてしまうとも思う。
自然科学の世界観は、基本的に要素還元主義に基づいており、全体的な現象や出来事が幾つかの構成要素に還元できるという強固な信念を有している。

脳内のセロトニン系やノルアドレナリン系の情報伝達の改善によって全ての精神症状や心理的苦悩が解決するわけではなく、薬物療法は症状緩和に非常に有効ではあるが、絶えず、環境改善や環境調整といった政治的努力や社会構造の改善努力も同時に行っていかなければならない。

人間の心理的諸問題の客観的な解明には、心理学的アプローチだけではなく、社会構造や経済メカニズム、雇用環境と教育制度などを総合的に考察する社会科学的・経済学的なアプローチも必要になってくるのではないかと思う。

個人の複雑な内面世界の力動的葛藤や近代の画一的な経済活動のシステマティックな普及と近代先進国家の制度枠組みによる個人の監視管理体制などに興味を持つような人たちにとっては、NEET心理的葛藤や苦悩に対して共感的アプローチを図ることも可能であるが、社会の大多数を占める人たちにとって、そういった心理学的・社会学的・哲学的な理屈や解釈はおそらく通用しない可能性が高いという事も留意することが必要かもしれない。

論理整合性や無矛盾などによって正当性を主張できる余地のあるインターネット内部の世界とは異なり、プラグマティック(実利的・実際的)な行動・能力や価値観が重視されるのが現実世界であり、複雑精緻な観念的思考がどれほど完成度や説得力が高くても、NEETであるという立場そのものに対する自己言及を迫られる事により、経済的に自立できていなければ自己責任を問われる可能性が高くなる。
というよりも、NEETの最大の問題点は、『経済的な自立性と社会的な責任意識の欠如』にあるわけだから、そこさえクリアできていればNEET問題そのものが発生しないとも言い換えることが出来るわけである。

つまり、NEETに対する批判可能性が開けてくるのは、『NEET自身が、自分の生活を自分の力で維持できない』という一点に尽きるのであって、その根底には『将来の窮乏する財政下において、NEETに対する公的扶助政策を行うことなど認められない。真面目に働いた人が馬鹿を見る社会はおかしい』という一般的な勤労道徳に妥当性を感じる多くの国民の嫌悪や抵抗があると言えるだろう。
この事から言えるのは、NEET自身が、将来にわたって国家が行う公的な生活支援・生活保護などの社会保障政策を受ける必要性がないことを示せば、NEETへの批判や反論が鎮静化するということであり、あるいは、所得税などの直接税から消費税などの間接税へと税制をシフトさせていくことで不公平感を緩和させられるかもしれない。しかし、間接税の強化は、一般的に低額所得者層の生活を逼迫するので、この税制シフトはあまり歓迎されないだろう。

もしくは、公的年金制度を、個人責任を明確化しない徴収方式に変更するという対応策も考えられないではない。
消費税などによる公的年金の積立て方式を採用することで、誰がどれだけ支払ったかを不明瞭にすることで、結果として高額消費を行う層が高い税負担をすることになる累進課税的な公的年金制度となるが、これは社会主義的な行き過ぎた平等主義であるとして中流階層以上の国民から反発を受ける可能性も高い。
自由・平等・友愛が、フランス革命で掲げられた人権思想の根幹であり、自由民主主義社会の基本理念であるが、人はその本質として(実現可能な条件が整ったとしても)完全な結果の平等は望まず、一定の自己責任と自律性による格差を求めるものであるし、それがなければ社会秩序や経済水準の維持と社会の進歩発展が成り立たないとする見解も有力なものである。


これから、飛躍的に増加していく高齢者層への年金給付や公的保険制度による医療・介護の負担が、ますます国家財政を圧迫していく事が予想されていく中では、現行の国民年金・厚生年金が採用している賦課方式ではいずれ制度そのものが存続不可能になることは明白なのだから、それに代わる長期にわたって継続可能な高齢者扶養の社会制度を熟慮検討していく必要があるだろう。
巨額の赤字の膨張による国家財政破綻の危機に陥る可能性を考慮して、病的側面や心理的内閉性がクローズアップされ過ぎたひきこもりに代わる、未就労者の定義が必要となってきたのではないか。
その結果、就労のための再教育や職業訓練が可能な層としての『NEETという概念』が政治的な社会防衛の意図をもって提示されてきたと考える事ができるように思える。


また、時間のある時に、心理学的な若年層の非社会的行動の分析、近代資本主義国家と経済活動などを再考してみたいです。