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オネミリエ このページをアンテナに追加

2016-05-15

[]星空めておファイヤーガール星空めてお『ファイヤーガール』を含むブックマーク

 いつの間にか最終巻が出ていたんですね。感想は2年前に書いたものとそんなに変わらなかったと思う。設定を最後まで語りつくすこともなく(この辺はタイプムーン的なノウハウもあるのだろうか)、キャラクター物語を最後まで推し進めることもなく、1年という区切りで終わらせてしまったので、自分探しとかモラトリアムとかというのがこの作品の主なテーマのように見える結果になったと思う。その意味では、主人公たちの物語卒業まで描ききって終わらせずに、あるいは卒業した先輩たちについても別に何も終わっていないことを暗示しつつ、中途半端なところで終わらせてくれたのは、このふわふわした青春の時間に浸っていたい読者への慈悲なのかもしれない。

 未知の世界センス・オブ・ワンダーで圧倒するのではなく、組織運営や折衝や人事の地味な話をひたすら描く。誰がどういうふうに動いて何を届けるかということ、その決定のプロセスを執拗に描く。その話し合いは理詰めではなく偶発的なところもあり、そのおかげで無駄に動き回ってほとんど宇宙に出てしまったりもする。何かを達成するにはたくさん無駄な動きをしているものなんだな。地味な話といえば、『大図書館の羊飼い』もそういうところがあったが、あっちは主人公クールイケメンなので生々しさがなく、年寄り臭い裏方フェチのように思えて、ヒロインを「受け止める」というプロセス、というかテキストそのものが息苦しくて読むのが疲れた(だからこその達成感も合ったのかもしれないが)。多分、前の感想で書いた視線の高さの問題なのだろうけど、『ファイヤーガール』は世界に対する関心と隣人に対する関心が等価に置かれているように思えて、若さを感じた。地味でよく分からないことを熱意を持ってやり続けるには、一緒にやる仲間が必要で、だから彼らはあれだけ大きなコストを払ってまで仲間たちとのコミュニケーションを維持しているのかもしれない。こういう非効率さは、作中では欧米式や中国式に対する日本式教育的な「探検部」という概念だと説明されていた。真に受ける必要はないのだろうけど、そういうシステムには何かきれいなものを生む可能性があるのかもしれない。歳をとると、あまり人に関心を持てなくなり、対人関係に頭を悩ませるのが面倒になり、だらしのない子供大人になる。なった。仕事ではコミュニケーションにそんなにコストをかけていられないし、仕事外ではとにかく快適さと静けさを求めてしまうので人から遠ざかる。生活単純化してストレスを減らす。ストレスとか言い出すともはや老人である。本作の登場人物の数が多すぎて、読んだ時期にも間が空きすぎたということもあるが、彼らが何をあてこすったり悩んだりしているのかよく分からない箇所があっても、そのまま読み進めてしまう。そもそも、悩みとか分かりやすくまとめて語ってくれず、何かの拍子にこぼれるだけで、しかもすぐに誰かが来たりして中断されて、言いよどんでしまう。そうやって恥ずかしい言葉は腹の底にたまっていく。その代わり、言いよどんだ瞬間や言ってしまった瞬間の空気が印象に残る。誰かと共有した瞬間だからだ。そういう断片が流れていく。動いているから流れていく。冒険はどこにでもある、のだそうだ。

2016-04-04

[]森薫乙嫁語り森薫『乙嫁語り』を含むブックマーク

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

 ヒロインの身体を覆い尽くす装飾文様が緻密であればあるほど、それを追う視線はじっくりとヒロインの身体の上を這い回り、その装飾文様抽象化された意匠であればあるほど、視線はひたすらその線と模様の運動にとらわれる。そうした装飾文様と、その文様を自ら布地に刺繍して刻んでいった、これから嫁になる、あるいは嫁になったばかりの女性たちの若々しい表情のコントラストが鮮やかで、「語り」とは銘打たれているものの、どちらかといえば物語や音声を聞くというよりは視線運動であり、鑑賞であるような作品だった。エロゲーにおける微細に描き込まれた瞳や髪、服のテクスチャなども同種だ。こちらは健全な内容だけどエロい。時々裸体の描写も出てくるけど、あくまで衣装を着た身体が本体だなという感じがする。

 だからこそ、せりふが少なくて抑制気味だけどじっくり鑑賞できるエピソード、アミルとタラスの話がよかった。特に新しい何かがあるわけではないのだろうけど、小さな夫に一途なアミルと、悲しい未亡人タラスの美しさには抗えない。双子姉妹キャラデザはよいのだけど話の展開の仕方にデフォルメ感が強すぎて、ドタバタと落ち着きがなくて疲れたし(ただし、双子独立した人としてではなく、二本の線のような一種文様としてみるとその運動に嘆賞できるし、爽やかな読後感ではある)、男どもの戦いの話は男どもの身体に視線を這わせても仕方ないので普通のアクションマンガとして読まざるを得ず、アニスの話はなんかもう絵的にも別ジャンル過ぎてハラハラした。パリヤさんは表情はいつも落ち着かないけど、嫁になるために一生懸命な姿は素晴らしい。

 作者が自分と同年代で、中央アジア衣装フェチであることが作品動機になっているというが親近感が沸く。中央アジアはこの作品時代からだいぶ変わってしまい、それは作中でも影を落としている西洋文明、というかロシアソ連のせいであり、今では石油・ガスが出る国と出ない国に二分された感がある。出る国(カザフスタントルクメニスタン)はオイルマネーで今のロシア都市部ような殺伐とした景観を保っており(農村部とかはソ連農村的な何か)、出ない国(ウズベキスタンキルギス)は貧しいまま、人々はロシアなどに出稼ぎにいってどうにか生きている。知り合いでキルギス人の嫁と結婚した日本人がいるが、嫁の村での結婚式は大層な見物だったそうな。この作品19世紀ウズベキスタン辺り(ブハラとか)がモデルになっているそうだ。僕は中央アジアカザフスタンしか行ったことがなく、中央アジアで一番経済規模の大きなカザフスタンは上に述べたとおりの有様だったので(料理は確かにああいうのが出てきたけども)、もう少し南の方、サマルカンドとかブハラとかタシケントとかフェルガナとかをいつか旅行者としてみてみたいというのはある。昔、ウズベキスタン国歌の詞を作ったという詩人来日したときに話を聞いたことがあるが、かの国は中世イスラム詩人アリシェル・ナヴォイの故郷であるとか古めかしい話ばかりしていて却って好感が持てた記憶がある。中世イスラム詩といえば、花や女や酒をテーマに、編み物のように脚韻やフレーズが反復されて絡まりあった典雅な様式で、まさにモスク唐草模様女性衣装文様イメージである。といってもそれは素人外国人オリエンタル妄想であり、よく資料を研究している本作であっても果たして19世紀一般人日常的にあれほど美しい服を着ていたのか分からない気がするが(着ていたとしたらかなり裕福な人たちだったように思う)、そこは優しい幻想であってもいいのかな。嫁入りという出来事はいつの時代にあっても重要な人生の転換点だったし、とても美しい何かだったのだろうから、それを主題に据えただけで本作は正しさを手に入れている。結婚に至るまでを描いたモンゴメリの小説も昔たくさん読んだが、こうした話は何度繰り返してもその度に美しく、その意味では抽象的な美しい文様のパターンと同じなのかもしれない。

 森さんがわざわざ中央アジア取材に行かれたというのは嬉しいことで、次巻以降にその成果を期待できるそうだ。僕も以前、有名なマンガ家(本人ではなく出版社の担当編集の方だが)のロシア取材に協力したことがあるが、ロシア編はいつ始まるのだろうか。ともあれ、現実を美しい幻想に作り変えられるのは羨ましいことで、ありがたいことだ。

2016-02-14

[]山本弘『アイの物語山本弘『アイの物語』を含むブックマーク

アイの物語 (角川文庫)

アイの物語 (角川文庫)

 山本弘といえばソードワールド短編集の作家という認識。といっても、ソードワールド小説を読んでいたのは中学生から高校生くらいの頃だけで、当時はラノベを知っている人なんて周りにほぼいなかったし(一人友達でいたけど、僕と違って明るくてひょうきんなキャラの人だったのでとても共有しようなどという気にはならなかった。というか、当時の僕の性格では、ラノベの楽しさを誰かと共有することは不可能だったと思う)、フォーチュン・クエストロードス島戦記よりもさらにディープな感じのするソードワールドシリーズは、エロ本のように人から隠れて嗜まねばならないものだった。僕以外に世界で読んでいる人などいないような気がしていた。町の本屋さんとか、立川フロム中武の大きな本屋とかでこっそり探していたあの頃が懐かしく思える。ソードワールド短編集は複数作家が(妄想を共有して)書いているというそのシステムが当時の僕にはとても夢のあるシステムのように思えて、作品の出来には波があったけど、たいてい一作か二作はけっこう面白い話が入っていて満足したものだった。雑誌原理と同じで、個別コンテンツの単純な総和よりも全体の方が面白く見えるというやつだ。そして面白い一作か二作というのは山本弘作品であることが多くて、自然にその名前を覚えていた。当時はネットなんてなかったからその名前を検索することなんてのもできず、短編集の目次を見て、あ、またいるな、と思うだけである。もう内容は忘れてしまったけど、――「ナイトウィンドの影」「マンドレイクの館」「スチャラカ冒険隊、南へ」「ヒーローになりたい!」「君を守りたい!」「愛を信じたい!」――ウィキペディアをみたら懐かしい作品名が並んでいた。後半3つのサーラの冒険シリーズは確か恋愛要素があるんじゃなかったけ?結構ドキドキした、というか性的興奮さえ覚えて何度も読み返していたかもしれない。絵もけっこうエッチだったはず。

 その後、ソードワールド小説を読まなくなって、自然山本弘の名前も忘れた。と学会の人だったことも知らなかった。今回はブックオフでたまたま手にとって買ってしまった。

 というわけで、二十数年ぶりにこの人の小説を読んだ。さすがに衝撃的な斬新さは感じなかったけど、読みやすい文章で萌えるポイントをうまくとらえつつ、爽やかで夢のあるお話を語るのは、ソードワールドの頃と変わっていないように思えた。「ときめきの仮想空間」のジュブナイル感とか、ストレートすぎて無事に終わってくれるか心配になったくらいだ。「詩音が来た日」では、昔老人ホームバイトしていたときのことを思い出した。終盤の章では、AIにとっては僕たちの現実こそが仮想現実であり、人間というキャラ幸せにするためのゲームであるという構図は元長的というかエロゲー的で小気味よく感じた。人間理解することは出来ないけど許容することは出来る、そして自分たちなりに愛することも出来る、というのは、別にAI人間の間だけの話ではなく、普通に人間同士でも起こっているようなことで、この「そして自分たちなりに愛することも出来る」の根拠の不安定さが見方によっては不穏でもあるのだけど(愛せない場合には、「許容」という言葉ニュアンスが寒々としたものになる可能性が高い)、この作者はそんな嫌らしいところをほじくらずに、主人公少年を素直に納得させ、美しく話を締めるのである。明快だけど夢がある。それにしても、人類は衰退しましたでもあったけど、宇宙はもう有限の存在である人間には物理的に届かないものになってしまったというは寂しい。アイの世界ではどうやら人間デジタル化とかできなかったみたいだし、見事に衰退していたし。あと人類欠点、愚かさが単純化されていて、そんなにバカばっかじゃないような気もするけど、そんなところつついても仕方ないかな。高度なAIアンドロイドの普及まで何とか生き延びたい。

2016-02-11

[]どうにもならなそうなこと どうにもならなそうなことを含むブックマーク

 趣味の壁は三次元の壁と同じくらい高い。言葉で伝わること、説明して説得できることのさらに先に趣味の領域がある。

 以前に仕事でご一緒させていただいた関係で招待券をもらい、上坂すみれさんのライブに行ってきた。オタクイベントに行くのは2,3年前のかわしまりのさんのトークショー以来で、当然ながらライブは初めて。上坂すみれの歌やキャラクターについては2年前に苦しげな感想を書いた通りで、その後もまだ取っ掛かりをつかめずにいる(つかもうとしていない)。アニメ声優としもアイドルとしても成功していってるのは喜ばしいけれども。

 ライブの歌は、多分ありがちなことなのだろうけど、演奏の音量が大きすぎて声がよく聞こえなかったところが多くて残念だった。大半がアップテンポな曲なので声が荒れてしまうし、曲自体もいまいちなものが多いので、声を良く聞けたとしても楽しめたかどうかは分からないが。知っている曲では唯一の割と好きな曲である「テトリアシトリ」(作詞作曲桃井はるこ)は、視覚的な演出も含めてけっこう丁寧に聞かせてくれたので嬉しかった。あとは何というかしょっぱい曲が多いのだが、上坂さんの前向きな性格とファンの人たちのエネルギーの勢いで乗り切った感じだ。サイリウムの統率感や野太い声の必死さはむしろ心地よく、「かがやきサイリューム」とかこんな感じなのだろう。けっこう危ういバランスだと思うが、ラジオとかでしゃべり慣れている声優だから、若さでごまかさなくても、音楽だけじゃなくてホスピタリティみたいなところで楽しませてくれるのがよい。いまいちであっても、なんかMCでしゃべるためのネタとかちゃんと考えているみたいで、そこは応援したくなる。あと、やっぱ整った美人なので踊り回っているのをただ見ているだけでもそれなりに絵になってしまう。三次元の壁がとか何とか言っても、アイドルが太ももや腋を惜しげもなくさらして動き回っているのには目を奪われてしまうおじさんである。上坂すみれの声は張りがあって弱くない、お姉さん声なので萌えるのが難しいのだが、それなのにひらひらの服を着てアイドルをやっているという論理が飲み込めず混乱するおじさんである。その若さ、美しさは涼しげで、意味が分からないけど(まだこれぞというはまり役を見たことがないからかもしれない)、分かろうとせずになんとなく視線を奪われて置けばよいのだろう。どうもありがとうございました。以上。

 徳が高いエロゲーマーであり、素晴らしいアジテーターであるtempelさんの素晴らしいエントリを読んでエロゲーをやりたくなり、挙げられたゲーム体験版をいくつかやってみたけど、自分でやってみるとあんまり面白くないんだよな。大図書館の羊飼いもそうだった。とても説得力のある感想なのに(特に僕がけっこうひどいことを書いてしまったCationシリーズに関する指摘には唸らされたし、女の子をチヤホヤできない男としては耳が痛いところもあった)実際にプレイしてみると合わないという趣味の壁。自分の許容幅が狭すぎて情けない。もっと楽しんだほうがいいよと人から言われることも多いのだが、趣味だからこそ無理して何かを受け入れたりはしなくてもいい。絵がきれいな星織ユメミライなら何とかなるかなと思って買いにいったけど、高かったので結局事前情報ゼロで美少女万華鏡というの選んできた。八宝備仁氏の絵は以前に能天気抜きゲーをやったら失敗して苦手意識を持ってしまったかも知れず、このシリーズで楽しめるように慣れるかもと期待している。

2016-02-07

[]言葉の上滑り 言葉の上滑りを含むブックマーク

 描かれていることよりも描かれなかったこと(わざと黙っていたことではなく)が気になるときというのは、何か別のものを欲して無いものねだりをしているときであって、読み手としてはだめなときなのだけど、一期一会なのでたまには覚え書きくらいは残しておこう。

 これまで何度か名前を見かけて気になっていた長野まゆみの本を探しにブックオフに行ってきた。『上海少年』と『鉱石倶楽部』を買ってきたけど、これがこの作家の中でどういう位置にある作品なのかはよく分からない。『上海少年』は僕の目には、映像美に優れていて印象的なシーンはあるけれど、それは視覚的な美しさであって精神的な美しさは衰弱していて、退廃的なように映った。長野まゆみ宮澤賢治を愛読しているとのことで、確かに言葉遣いにはこだわりを感じる。でも宮澤賢治が持っていたような苛烈さがなく、世界に対して生産者ではなく消費者としてしか関われないように見えた。少年同性愛という美学の儚さ、無意味さにもつながり、それが悲劇ではなく居直っていることの後ろめたさを感じる。『鉱石倶楽部』で石をひたすらスイーツに喩えているのは(スイーツ以外に幻想風景に喩えていた場合もあったけど、スイーツが特に目に付いた)、バブル時代の軽薄さを感じるし、後書き部分で作者がそんな自分の頭の悪さを揶揄してみても開き直りに見えてしまう(ファンの方が不快な思いをされたら申し訳ないが、あくまで僕の個人的な感想なので)。でも僕が、こんなふうに形ある意味、結果を出すものにしか意義を認めないのは粗野で下品な根性なのかもしれない。僕自身デカダンスは好きなはずだけど、たぶんただのスノッブなので小市民の地が出てしまうのかもしれない。革命理想人生を捧げたデカブリストの話を読んだ後では、ことさらそうなのかもしれない。とはいえ、『鉱石倶楽部』はいさぎよく視覚的な美の表現に自らを限定していたので、まだ性質がよかったかもしれない。鉱物の美しさは単なる化学現象であって、精神的な美しさは人間が外部から読み込むものだ。だからたとえその外部の美を共有できなかったとしても、そこに美を求めようとする姿勢には共感できるという最低限の保険がある。

 あと、以前人に勧められていたウディ・アレンの『アニー・ホール』のDVDも見つけたので買ってきた。見てみたら、20歳くらいの頃に一度レンタルショップで借りてきたけど、初めの部分を見て寝落ちしてそのまま返却した映画だったことを思い出した。離婚どころか女性と付き合ったことすらなかった当時の自分には、まったく意味が分からないし不要な映画だったので、当時全部見なかったのは正解だった。今回は最後まで見た。コメディアンにもいろいろあるのだろうが、人の上に立って他人を笑い飛ばすインテリコメディアンは悲しい。人をおとしめて、自分もおとしめて、残るのは若かった自分たちに対する感傷だけである。ダウンタウンとかのお笑い文化も同じようなもので(ウディ・アレンダウンタウンと同じく楽屋裏物が得意らしい)、切れ味は鋭くても、俺もバカだけどお前もバカ、の世界では何も(生きては)残らないので好きになれない。それどころか、テレビで見ている者には感傷すらほとんど残らない。まあ、こんなふうにぐちぐちいうのは息苦しく凝り固まった人間なのだろう。言葉は裏切るから、賢い人は言葉をつぐむのだろうが、コメディアンは常にしゃべっていなければならず、言葉インフレで重みを失い(ラブレーの笑いの増殖性とはまた違うが、アルビ自身、アニーに「多型倒錯的だね」と言ったけど自嘲的に響くしかなかった)、それを補うために更にしゃべる。それはユダヤ的な去勢感覚だなんて、ロシア系ユダヤ人ウディ・アレンは言われ慣れているのだろうな。そんな呪いのようなものであっても、騒々しくて疲れるばかりであっても、アニーの家族健全アメリカ痴呆生活よりはずっと魅力的なのかもしれない。感傷が残るだけでも素晴らしいし、それは大切にしていいものだろう。でも本当の理想生活は、その二択とは別の答えなのだろう。何だか笑えるけれど美しいものだ。アルビーはアニーの笑顔にそれを求めていたのかもしれない。アニーの方はどう思っていたのかは分からないが、アルビーが真剣に何かを求めて、一緒に夢を見ようとしていたことは伝わっていたのだろう。

 あと、ついでに新井素子の『もいちどあなたにあいたいな』も買ってきた。解説で大森望が絶賛していたので騙された気になって。正直なところ、そんなにたいしたお話じゃなかった。エロゲーでも十分ありそうな設定だ。大森氏の言うようにこれが新井素子の最高傑作のひとつなのだとしたら、実はあまりすごい作家じゃないのではという疑惑が。和の運命の孤独ばかりが強調されていて、それはそれで正しいことなのだろうけど、一番救われないのは陽湖(主人公の母)だと思う。まあ、それは野暮なつっこみだ。もいちどあなたにあいたいな、という言葉の響きはよく、さすが新井素子なのかもしれないが。

 ふと、久々にフォーチュン・クエストを読みたくなった。途中からパーティ内の恋愛話っぽい要素が強くなっていっていつしか読むのをやめてしまったが、中学の頃に読んだはじめの数冊、海洋冒険譚の「隠された海図」くらいまでは素晴らしく面白かった。たぶん、2005年に出た「キットンの決心」というやつまでは読んでいたと思う。あの世界に浸りたくなるというのは心が弱っている証拠だと思うのだが、まだ読んでいないのがたくさんあるというのはありがたいな。読むかは分からないけど。


上海少年 (集英社文庫)

上海少年 (集英社文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

2016-02-01

[]Ю.Тынянов "Кюхля" Ю.Тынянов "Кюхля"を含むブックマーク

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 いろいろと生活の方は息苦しくて面倒なのだが、悲劇作品を受け入れられるのだから精神状態は悪くないのだと思う。190年前のことを書いた80年前の小説、しかも1987年ノヴォシビルスク出版された古本だけど、ずいぶんと近しく感じながら読んだ。特に最終章が恐ろしかった。キューヘリベッケルの頑固さ(僕も頑固だと言われることが多い)、高潔さ、コミカルな不器用さは生来のものであり、デカブリストの乱を経てもそれを貫いていけると期待していたけど、独房を出てシベリアでの流刑生活が始まると、生活という名の虚無にすり潰され、信念や理想を失った虚ろな人間になってしまう。恋人との再会の夢を忘れ、粗野で空っぽな女と温もりのない騒々しい所帯を持ち、親友たちに先立たれ、自らの文学作品に幻滅する。熱が失われていき、シベリアの寒さの中で人から物になって命が停止するような最後だ。展開としては『オブローモフ』に、あるいは『罪と罰』にも近くないともいえないが、ロマン主義革命思想まっただなかの時代で、プーシキンやグリボエードフのような個性と過ごした青春のきらめきと苦さは、まったく別の苛烈さを持っている。こんな風に鬼気迫る小説になったのは、トゥイニャーノフにそういう同時代的な問題意識があったのだろう。人の流れ、兵士たちの流れをネヴァ川の街ペテルブルクを流れる血液に喩え、ひたすら橋と広場と通りの名前とうごめく群集ばかりでダイナミズムを描いたデカブリストの乱の章などは、十月革命を描くエイゼンシテインを彷彿とさせた。誰が誰に対応するというわけではないが、トゥイニャーノフが描いた『キューフリャ』、『ワジル・ムフタルの死』、『プーシキン』の3作は、シクロスキー、エイヘンバウム、トゥイニャーノフというフォルマリスト三人衆の青春時代を感じさせるとか。『キューフリャ』を書いたとき(1925年)のトゥイニャーノフがまだ31歳だったというのは驚きだが、同時に納得もできる。『プーシキン』は以前に読んで、49歳で病死する直前まで書いていた未完の小説としての迫力があったが(プーシキンの『オネーギン』も未完だ)、『ワジル・ムフタルの死』は確か持ってなかった気がする。次はいつトゥイニャーノフの小説を読めるのやら。エロゲーでは不足してしまう悲劇成分は、たまに青春を描いたロシア文学を読んで補うのがいいのかもしれない。

2016-01-24

[]乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊』 乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊』を含むブックマーク

 時折雑誌現代思想」とかに掲載されていたロシア批評家の文章も、ましてやНЛОとかЖурнальный залとか人文書出版動向などは長いこと追いかけていないので、この本がどの程度の新しさやカバー領域の広さを持っているのか分からないけど、個人的にはついに出会ってしまったなあという感じがする。できれば避けたかったかもしれない。ペレーヴィンソローキンやグロイスやカバコフの作品や著作は早くから翻訳が出ていたし、北大スラ研の人たちがかなり詳しく紹介していたので触れる機会はあったけど、どちらかといえば一回触れればいいやという感じだった。殺伐としすぎていたのだ。取り上げられている問題系はどれもロシアインテリゲンツィヤの伝統的な問題系に回収されてしまいそうなものばかりで(他者ユートピアロシアアイデンティティetc)、新しい時代のための建設的な価値観インスピレーションの予感はなかった。そういえば、恒例の投票をみていて「見上げてごらん、夜空の星を」という作品にちょっと興味が出たけど、宇宙といえばペレーヴィンのオモン・ラーをまだ読んでいなかった。星や宇宙世界を本当に楽しむには、それを夢見たソ連ロシア怨念をどこかで一度くぐってみたいものだ。といっても今の自分なら、ロシアでも普通の娯楽っぽいSFを探したほうが楽しめるのかもしれない。そして、そういうのは日本語でも間に合ってしまいそうだ。

 新しいものがないのなら、若者よ、まずは過去に学べ。というわけで、ソ連ロシアの「温かい」人文科学伝統、ヴャチェスラフ・イワーノフがソ連記号論史として跡付けたような、人類学から脳科学に至るまでの学者たち(アファナーシエフ、フロレンスキー、フォルマリストたち、エイゼンシテインヴィゴツキーフレイデンベルグ、メレチンスキーバフチン、ギンズブルグ、アヴェリンツェフ、リハチョフ、ガスパーロフ…)の著作に夢を見ようとした。本書で言うなら「文学中心主義」の世界なのかもしれないが、イデオロギーの「深読み」に回収されないきらめきがあるように思えた。そしてその中には、当然ながらロトマンウスペンスキーを含む記号論者たちもいたけど、記号論は扱っている領域が広すぎるので後回しにしているうちに、何だか学術研究進歩が遅く見えてきて、気の遠くなるような根気を必要とすることについていけなくなった。ロトマンは「詩的テクスト分析」で文学作品秘密を暴くための鋭利なツールを紹介し、事実その後でたくさんの研究者人海戦術作品分析に当たったけど(ロトマンヤコブソン的な分析方法学生向け教科書もけっこう見かけた)、それもてんでんばらばらな印象でいつまでたっても終わりは見えず、ロトマンのような一部の優れた研究者の名人芸の域を出るのはなかなか難しいように見えた。そうして、ソ連崩壊後には記号論自体も新たな価値観を生み出す力を失ってしまったのか、あるいは地味な学究的土方作業に埋もれていったのか、予算不足という現実にぶつかったのかわからないが、何だかどこへいったのか分からなくなってしまった。もちろん2000年代以降も素晴らしい名人芸的な著作は出たようだけど、まだ道半ばのものばかりだったと思う。

 つまり、ミーハーな僕は現代ロシアに勝手に失望し、自分にとっての新しい価値は得られないと思ってしまった。かつての人文科学の隆盛(?)を思えば、残ったのはエプシテインやおそロシアネタばかりというのは寂しい。それに現代文化は古典よりも、少なくとも外国人にはハイコンテクストすぎて難しく、クーリツィンがなんかいろいろやっているといっても関心は持てない。

 ロトマンの『セミオスフェーラ』(記号圏)は直接的に文学を論じたものではないので入りづらく、ヴェルナツキーのノオスフェーラやグミリョフのエトノスに関する本と一緒に、いつしか本棚で埃をかぶっている。そのロトマンを「深読み」で葬ってくれたのが今回の本だ。著者が断っている通り(開き直っている通り?)、この本では現代ロシアを語る言説がかなり狭い範囲限定されていて、インテリゲンツィヤの繰言ばかりで生産性がないように見える。フィクションが後退して、平板だったり殺伐としていたりするノンフィクションばかりになって憂鬱だ。後ろ向きなテクストプーシキンやカラムジンの研究書を読んで無駄な知識を蓄えたり、グネージチ訳のイリアスやジュコフスキー訳のオデュッセイアを読んで古代ギリシャ現実逃避したり、クズミンやアフマートワの詩を読んでなんか想像界的なものに浸ったり、ゴーゴリ小説を読んで語り芸を楽しんでいたりするほうがましなような気がする。現実から逃げ切るためには、僕にはもう少し堅固な城が必要だ。

 本当に2000年代に入ってから、プーチンオイルマネーのおかげで、特記すべき新たなことは何もなかったのか。今回のような本は貝澤氏が書くのかと思っていたけど、乗松氏はもっと若い世代だ。現代日本にも目を配りつつ、しつこく書いてくれたのはありがたかった。他にもロシア現代思想を追いかけている人は2〜3人くらいはいるらしい。そのうち何かもっと前向きな本は出るだろうか。ロシアは本当に天才を生まない普通の国になってしまったのか、自分で確かめなければダメってことなのかもしれないな。最近エイヘンバウムの「不死へのルート」を読んだ。19世紀半ば、あまり才能に恵まれなかったがバイタリティのある変人がたくさん現れて、はた迷惑創作活動に勤しんだという。そんな偏執狂の一人に光をあてた伝記小説だ。変人だから天才に近いということはないけど、現代ロシアにも本当はもっといろんな人がいるんだと思う。

2016-01-11

[]西暦2236年 (75) 西暦2236年 (75)を含むブックマーク

 人をちゃんと見ていないから、人をちゃんと好きになることができない。だから自分の悪いところ、悪い感情を大切な人にも見せられない―――。人間として未熟で青臭い悩みだが、耳が痛いところがある。そういう人間は、好きという気持ちの純粋さだけを問題にすれば、大抵は失敗してしまうのだろう。二人で同時に失敗できれば、なんかもう運命共同体になって、天使のいない12月みたいに奇跡的にうまくいくのかもしれないが、そうでなければ結局エンディングのない現実エヴァ的「気持ち悪い」の後にも続く日常回帰するしかない。でもその日常はそれ以前とは少し変わっていて、少しは息苦しくなくなっているし、またやり直せる可能性がないわけじゃない。だからハルも泣き笑いだった最後のシーンは、そんなに悪い終わり方じゃないと思う。

 いくらヒメ先輩との方がうまくいくといっても、僕はジャケット絵にもなっているハルの美しさに惹かれてしまったので、シオソでもいいからハルとの夢を見たい。アスカよりはレイだ。というか、別の宇宙暗号を送ってきたハルでもやっぱりだめなのかな(往生際が悪い)。ヨツバ自身ハルエンドで別の宇宙にいけたのは、ピアノの夢は叶わないと分かった上でピアノの楽しさを認めて自分和解できたからであって、一度は答えを見つけているわけだ。そこからもう一度ということなら、シオソになるのか……。

 まあこうして恋愛をめぐる図式だけに還元すると単純な話になってしまうのだが、この作品の面白さはそれを時間や可能性といった抽象的な概念に乗せ、フラクタル図像豊富視覚的・文字演出で魅せ、(音声がないおかげもあって)テンポのよいテキストで引き込んでいく、読み物としての楽しさにある。あとマスコの可愛さにある。何気にマスコ可愛いんだよなあ。自分も傷つかないですむし、いいことずくめじゃないのか。といっても恋愛の純粋さということならおとぎ話にでもしない限りマスコでは無理だし(自己愛になる)、そのことが分かっているからハルという不可能な対象に憧れるのかもしれない。

2016-01-05

[]こころリスタ! (75) こころリスタ! (75)を含むブックマーク

 Q-Xの作品をやるのは初めてで、正直なところ体験版をやっても特に強い個性が感じられたわけでもなく、引き込まれたわけでもなかった。絵が結構可愛くて、仮想世界のBGMが飽きの来ない曲だなあ程度の印象しかなかったのだが、一部で高く評価されていたので騙されたつもりで手を出してみて、結果としては後悔しなかった。

 気に入ったBGM(モノクローム、HEART RESTARTER、happinessful angel仮想現実系3曲と、バレンシア風に吹かれて)はやっぱり飽きず、何度も聞いている。こういう曲がもっとあればよかったのだが、気に入った曲ができるとそれだけで作品に親しみがわくのでともかくありがたい。

 本作の評判で、視点が安易にヒロイン視点に切り替わったりせず、ヒロインが何を考えているのか明示されていないとの指摘があったことも、手に取ったきっかけだった。明示されていないからといって別に推理ゲームになるわけでもなく、適度な緊張感があって読み心地がよかった(なぜ緊張感があるのか説明するには、エロゲーテキストテンプレとは何かについて考えて例証せねばならず、面倒なので放っておく)。ヒロイン視点への切り替えとは、ヒロインの心を覗き見て、侵食することであり、その裏切り行為によってプレイヤーヒロインに近づくどころか遠ざかってしまうからだ。本作のエンドロール後のエピローグはすべてヒロイン視点に切り替わっていた。僕たちはキャラクター世界、ラウンダーの世界に生まれ変わって、いつまでも幸せ暮らしましためでたしめでたし、になりたいという欲望を抱えている。くそまじめに考える必要はないのかもしれないが、そうしたダメ人間の更正の物語がこの作品なのだとしたら、ヒロイン視点への切り替えは更正後の約束された大地のようなものでまだまだ道は長いなあと遠い目になる。そんな変な勘繰りをしなくても、この作品で示された幸せを味わわせてもらっていればいいのかもしれないが。

 文章のうまさについては、こういう地味にいい文章、丁寧でよい文章というのをうまく語れる言葉を知らないので、ひとまず宿題にするしかない。シナリオ構成については、ヒロインが変わるたびに共通ルートを読み返したりはしない怠け者なので、選択肢でいっせいに分岐する本作では共通ルート個別ルートの分断を強く感じて、共通ルート感覚を忘れてしまったのがやや残念。あと、メルチェ以外のルートに進むときには必ずメルチェを振らなくてはいけないのが申し訳なかった。というわけで後は個別ルートの感想など(アルファ以外はほぼ個別エントリの再掲です)。

  • 1月13日追記。思いつきだけど、共通ルートが長くて最後に急に分かれるというのは、再プレイしたときに気兼ねなくみんなとの日常を楽しむための配慮なのかもしれないと思った。最後の方までルート分岐とか気にせず浸ることができるのかもしれない。そう思ったほうが生産的かな。

【メルチェ】

 某麗知恵さんの時は発音がなってないなどと生意気なことを書いてしまったが、スペイン語は分からないの、メルチェがエッチシーンでスペイン語で何かしゃべりだしても余計なことを考えずに楽しめた。メルセデスという名前がスペイン語的に女性名としてどう響くのか、また乗り物由来か、と思ってみてみたら、そもそも自動車メーカーの方がスペイン風の女性名をブランド名にしたとかで、メルセデス・ベンツブルジョアマフィアが乗る車というイメージロシアでもメルスといえば役人成金が乗る庶民には無縁の車だ)を持っていた自分としては、ミロセルドナヤ、「慈悲深い人」という本来の方の意味認識を改めねばならない。

 それはともかく、メルチェの登場シーンは現実感のなさが素晴らしかった。ラッキースケベおっぱいクッションで、最初の一言が怪しげな日本語の「ダイジョ〜ブ? 頭。ダイジョ〜ブ」。これで頭が大丈夫でなくなったのかもしれない。体験版でもメルチェは登場していなくて、片言日本語キャラだから大して期待はできないだろうと思っていた。でも背は小さくておっぱいは大きくて、柔らかそうな表情と不思議な光る目をしたヒロインということで気にはしていたのだけど、実際にプレイしてみるまでは分からないなと思っていた。そして変な関西弁である。関西弁は個人的に苦手で、しかもさらに苦手なお笑い芸人の物まね好きとあれば、普通なら悲しみしかないはずなのだが、メルチェはどちらもへたくそで、しかもそれを気にせず一人で楽しそうにしているので、こちらも関西弁が本来持つ(?)威圧感を受けることなく、メルチェ独特のやさしい浮遊感を味わうことができるのである。多分、メルチェも母国語ならばもっと普通のイントネーションで話すはずなのだが、おかしな日本語でしゃべっている限りは、ある種の猫撫で声のような、あるいは詩の朗読のような、モノトーン気味な高い声になり、そのちょっと変な優しい声に現実観が揺らぐ。

 個人的な印象(昔マドリードトレドグラナダ観光したときの印象)では、スペイン人というのは全体的に背が小さくて(ロシアの後に行ったからか、平均身長は160cmくらいに感じた)、そのくせに老若男女みなが彫りが深くて濃い顔をしているので、ただ歩いているだけでなんともいえないユーモアが感じられて、ドン・キホーテの国だなと思ったものである。しかしながらロシアと同じく今はヨーロッパの辺境であり田舎であり、共産主義独裁者に振り回された過去を持ち、ガルシアロルカを持ち出すまでもなく情念の国である。ラテン系スラヴ系はノリが違うし、スペインの夏の熱風とロシアの秋のぬかるみはまったく別の精神性を育むような気がするけど、それでもこの二つの民族は互いに惹かれあうという話は聞いたことがある。カルメン(原作者フランス人だが)をペテルブルクの吹雪の中で歌い上げた某詩人の作品とかも印象的だった。

 それはともかく、メルチェはスペイン人なのに彫りが深くなく(主人公の観察によれば深いらしい)、滑稽ないかつさがない。そして彼女は日本に夢見る留学生であり、つまり普通の生活をしていては見えないものを見ている。夢に守られている。時々外国人的な間合いの大胆さを見せて驚かせる。こういういろんな記号、記号の不確かさ、キメラ的な混淆、やさしい嘘が、メルチェというヒロインの非現実感や儚さにつながっているようで、丁寧に描かれているとはいえテンプレ的なキャラばかりのこの作品において、独特の軽やかさと存在感を持つように思えたのだった。BGMも軽やかで良かった。

 といっても、この不思議時空は不確かなもので、軽くアルコールを入れてプレイした登場シーン以降は、あまり強く感じられなかった。個別ルートのストーリーはバイクレースというさらに非日常的なものでありながらも短く、手堅く終わってしまった。僕は何を見たかったのだろうか。彼女はネットの中ではなく現実キャラという設定でありながら一番不確かであり、その意味現実的でもあるヒロインだったわけで、この作品の奥ゆかしさによく合っているのかもしれない。


【マリポ】

 あの口みたいな栗をしているときの立ち絵。あれほど防御力の低い立ち絵は見たことがない。こちらを指差し、攻撃的な威圧感を与えようとしつつも、体をひねって半分横向きになっていて、腰が引けているような、当て逃げをしようとしているような弱気さが思わず出てしまっているような絶妙なバランスが、笑えるし可愛すぎる。そして――マリポ先輩に限ったことではなくこの作品のヒロインはみんな多かれ少なかれそうだが――身体のねじれによる動きの感覚も素晴らしい。Carnivalの絵にもあったようなダイナミックな感覚だ。

 すぐに言葉に詰まる防御力の低さも素晴らしい。「じゃ、じゃあ、これより……ち、契りの儀を執り行う」じゃないでしょ。うろたえすぎでしょ。「これより」ってなんだよ、というような感じでつっこみどころばかりで幸せになる。落ち着いて話すときも実感がすごく伝わってきて、ライターさんがよい仕事をしているということもあるが、声優(卯衣さん)の声音や間、スピードが心地よくコントロールされていて、聞いていて気持ちがいい。高島ざくろ神とか須磨寺雪緒神とかもそうだが、独り言気味の言葉をふわっと話す女の子の声には、いつも耳を澄ましていたような気がする。マリポ先輩の声は、自分に向けられているはずなのに思わず洩れちゃった感があるというか、こちらも、そういう人に聞かせるためのものではない言葉を思わず聞いてしまった気がするというか。「ふふっ……はぁ……こんな若くて激しいカレシ……これから大変だよ……バカ……」って、あなたと1歳しか違わないでしょ!というか嬉しそう過ぎてこっちまでニコニコしてしまう。声の質も、芯がなくて弱そうで夢想的で素晴らしい。純度的なものに惹かれるオタクとしては当然落ちざるを得ない。魔性というやつだろう。

 そもそもマリポ先輩は、何気に健全で如才ない主人公などよりもずっとディープでいじけたオタクであることが、可愛さの元凶になっている。告白されてうろたえて散々逃げていたのに、主人公がやけになってナンパしていると聞いて、速攻ですっ飛んでくる。早歩きのオタクのようなもので、初デートでの行動がいちいち唐突で笑える。「破局的な案件」になると想定しすぎて、聞かれてもないのに悪いところばかり告白しようとする。いきなり深刻そうに身長を低くサバ読んでたことを告白する。いきなりプールにいって水着になり、パッドのことを言い出そうとしていた節もあるが、普通に雰囲気に流されてプールを楽しんでしまう。映画を見たらご機嫌でせりふをまねする。唐突に部室に行って捲り上げる。バトルシーンでピンチになっても、主人公との絆を思い出すとかではなく、「ああ……二次元男子たちに……癒されたい……」とか弱気なことを言っている。見ていて飽きることがない。こんな風に自分のことだけでもいっぱいいっぱいで、とても相手をリードする余裕などないくせに、本人はそのつもりで幸せ。余裕がないのは自分なりに一生懸命理想を追い求めているからだ。これこそオタク幸せなのではないか。エピローグ前の最後のせりふが「あ、母さん? 昨日は…………ごめん」でフェードアウトしていくのが印象的だった。7年たってすっかり大人になったマリポ先輩は、それでもきっと、まだどこか抜けたところがあるのだろうと想像して温かい気持ちになる。


【星歌】

 大昔の記憶なのであやふやだけど、トルストイの『復活』でネフリュードフがカチューシャ斜視の目に惹かれていくというのを読んだとき、斜視という言葉意味が分からないまま読んでいて、なぜか黒目の大きな目(カチューシャの目は黒くなかったっけ)、どころ見ているのか分からないほどに大きな黒い目のことだと思っていた。

 この作品では星歌とさちがキャラデザ的に黒目キャラ(性格には目の色は黒じゃないけど)になっていて、そこに惹かれてしまう。大きな黒目(なんか正確な日本語がありそうだが恥ずかしながら知らない)はそれだけで無条件にこちらとの距離を縮めてしまうところがあって、とても美しいのに、なんだかあるだけで目の持ち主を傷つけているというか、痛ましく見せるようなところがあって、全く余計なお世話なのだが同情のようなものを誘うところがある気がする。目の黒さに陰を感じるということなのかな。それとも無防備さか。そんな目をした妹が部屋にこもって、スマホの合成音声で会話していて、自称が「ぼく」で、着ぐるみの中に隠れていたりすると、いくら兄に生意気な口をきこうがやはり微かな痛ましさを感じざるを得ず、普通の他人という距離感は崩れてしまう。星歌は勝手に内面化されて、他人ではなくなる。家族なのだから当然なのかもしれないが、雪音とは違って、あの視線でそうなってしまうのだからお兄ちゃんとしてはこちらの方が業が深い気がする(雪音シナリオは未プレイ)。だからあの告白、自室でのコンサートのシーンの奇跡のようなやさしい雰囲気にはすっかりやられた。

 ところがこれが大層性欲が強い子で、お兄ちゃんは参った。目が黒い女の子が、おっぱいが大きくて性欲が強いとか!もともと自他の境界が揺らいでいるところで、性欲の話をされたら、一緒に変態性を認め合って依存しあうしかないじゃないですか。まあでもこの作品の主人公は割かししっかり者だ。星歌もなかなか他人を信用できない臆病者なので(オナニーを見せるのとは別次元の信頼についていつも考えているのだ)、二人っきりで留守番になっても、「でも我慢しているんだよ」と言いつつも、もどかしげなそぶりすら見せずにソファに寝ているだけである。ただし着ぐるみの下は全裸で。ボクっ娘に関する認識を改めねばなるまい(あと、なぜ星歌がボクっ娘になったのか想像してみると楽しい)。腫れ物に触るみたいなのは嫌、と主張してみても、やっぱり自分からは言い出せない。二人でいられる時間は短く、終わりがある逃避行のようなもので、そんな中で妹はどうしたらよいのか分からずソファに転がっているだけ。甘くてもどかしい刹那的時間である。キスをしたいと言ったら、「すれば」って。そして夢中になって「おにいちゃん」だ。部活にも兄妹で参加したいと言い出す。はじめは好きなのかどうか分からないとか強調していたくせに、気がついたらべったりです。本当はただ二人で部屋なり仮想空間なりにずっと引きこもってしまってもよさそうだし、星歌もそのことをよく知っているのだろうけど、それでも社会復帰を選ぶところに感慨深いものがある。花開いていく感じがする。

 個人的にアイドルというシステムが好きでないので、星歌と主人公の選んだ道についてはいろいろと想像すればついていけないところも出てくると思うが、物語自体はとてもきれいなところ、花が開いたところを見せて終わっていたので、面倒なことは考えず気持ちよく彼女の幸せ想像することにしよう。


【雪音】

 雪音はあんまり書くことがないんだよな……。コンプレックスのお話だ。顔が主人公と似ていて地味で眼鏡で、胸が双子の妹よりも控えめで、そういう意味では星歌よりもずっと妹らしい妹なのだが、実は夢見る女の子で、地味な自分が何かに長じたいと思ったら「姉キャラ」になってしまい、なぜか家族や全校生徒の面倒を見るという貧乏くじを引いていた。地味だからがんばるしかない。強迫的なキャラクターだ。「だって……重い奴と思われるし。や、違う、ほんと思い出して欲しいと思ったわけじゃなくてだね……」というツンデレイントネーションのせりふにも、そんなコンプレックスの影が見える。この物語の展開で、主人公の周りに急に美少女たちが現れだしてからさぞかし焦ったことだろう。自分は姉役をがんばってきたけど、兄への気持ちは表には出せず、自分の部屋でこっそりコラや音声を楽しむことや、胸が大きくて包容力あるミューティのマスターとして振舞うことで満足していたら、そんな慎ましい喜び、妹サイズの喜びの日々さえもいつの間に色あせてしまうことだろう。

 その雪音だが、そういう風に思いを秘め隠していたからか、エッチが何気に過激になった。初めてが寝込みを襲う痴漢まがいのプレイで、最中の会話がやけにシリアスだとか、2回目がぶっかけてその後で見て欲しいだとかで、3回目はもうウエディングプレイである。妹力を返すための装置がなぜか大人のおもちゃになっている。地味っ子なのにどうしてこうなったかといえば、それはやはり地味っ子だからだろう。

 星歌もだが、雪音も兄との恋愛であることを真剣に考えていて、公に結婚するのは無理だし、子供を作ることも多分できないけど、せめて一生をずっと一緒に生きていければ幸せだと思っている。けっこう悲壮人生観である。そして、「……簡単に言うわね。長年連れ添ってきた積み重ねはそんな……」という言い間違いに現れた無意識は、雪音の願いなのだろう。月並みな感想だが、なぜか犬耳メイドになってしまった妹に(またもや過激)、そんなふうに深く慕われてみたい、そしてそんな妹の願いに応えてみたいものだ。


【さち】

 メインライターとは別の人が書いたということと関係があるのかどうか分からないが、さちシナリオは結局最後までどこかちぐはぐな印象が残った。さちがなぜあそこまであの丸っこい兄にべったりなのか分からないし、主人公がお兄ちゃんと呼ばれる感覚もよく分からない。車の人の声が強すぎたのだろうか。それっぽいエピソードがなく、丁寧語ということもあり、妹感も幼馴染感もあまりしなかった。露出プレイに走るのも唐突な感じがした。あとペンペがエロくて参った。

 とはいえ、そのギャップを楽しめた部分もある。特に目を大きく見開かずにフラットに開けると、吊り目気味の不機嫌そうな黒目っ子になって可愛い絵師さんは全体的にぷっくりしたほっぺを描くのがうまいが、そのほっぺがいっそう引き立つように見える。肩幅が狭くて撫で肩なのも素晴らしく、元気なポニーテイルもすっきりしたうなじ可愛い。要はさちの姿かたちが好きなのだと思う。車の人の声はキャラクターのビジュアルイメージとややずれていたのだが、無理やり合わせようとしないで、まずはさちの性格や姿かたちを思い浮かべて、告白した後で急に舞い上がってチャット魔になってしまうような幼さを思い出す。そしてその後で本来はそうした幼さとは遠いはずの車の人のあの声をかぶせると、なにやらそのギャップを意識してこそさちの個性が浮かび上がってくるような気がして味わい深い。絵だけを見ていると結構妹感がある気がするが、声も合わせると違ってくる。そんな揺らぎがあるから、きっと一緒にいて飽きないのだろうなと思う。一緒にジョギングとかしてこころをムキムキしたい。


アルファ

 はじめは散々ごねていたアルファが、「君が必要としてくれるから、人間として生きるという選択肢が生まれた」と言うに至るまでには、アルファ自身にも整理がついていない葛藤があって緊張感があったが、それと同時に、自分の考えを変えて相手を受け入れるときの素直さが美しく感じた。そして、お約束と分かってはいたんだけど、やはりイヤリングをつけて感情が急に溢れ出てきて以後のアルファは可愛かった。「セックスをするのです」「(性的な快感を)ただ分析すればよいのです」とか言っていたあの子が、顔を赤らめたり恥ずかしがったりと色気づいたりして。同時に、急に子供のように無防備な存在になってしまって、部室でこっそり寝泊りしてもらうとか、ほとんどプラスサーバールームでこっそり飼うのと同レベルである。そりゃあクレープもグワ――――ッとくるし、おいしそうに見えるわな。でも子猫とは違って、自分が消滅してしまうことも考えながら主人公を待ち続けていることを考えると、何がしたいかと聞かれて、泳いでみたい、シャチの鼻で押されて水中からジャンプしてみたい、とまっすぐに答えたことに思わずはっとする。こんなふうに明確なイメージがすらっと出てくることから、アルファが一人のときに何を見たり考えたりしているのかがちょっと覗えるからだ。別れの決意を秘めたまま、外に出て雪と戯れ、プラスのためにスカートの裾を抱えて「ここに溜めて……部屋の中で降らせてみるのです」と言ってフィンランド旅行想像してみたときもそう。見方によってはあざとかったりありがちだったりするのだろうけど、感情だけでなく記憶の解放の際のやり取りにしても、主人公の突っ込みや反応が適切なこともあり、アルファ言葉や心の動きの一つ一つが注意深く描かれているようで素直に読めてしまう。他の方も書かれているが、アルファ真実の恋や感情の発露といった非効率的価値に対して臆病であるところに共感して、感情移入しやすいのかもしれない。あるいはテキストだけではないのかもしれない。絵がきれいな作品であることはこれまでも書いたが、アルファルートイベントCGはとりわけ気合の入った美麗なものが多いように感じた。プラスを肩に乗せているアップの絵は美術品といっても差し支えなく、こういう言語外の質感がアルファ存在感を支えている。最後のCGは笑っちゃうようなベタな構図なのだが、どこか写実的な(人間的な?)アルファの素直な表情に吸い込まれ、会話や音楽を聞いているうちに雰囲気に流され、恥ずかしながら泣きそうになった。


 というわけで皆さんいい娘さんたちだった。彼女たちが可愛いければ、そしてそこに「真実の恋」があれば、現実とか仮想とかどうでもよくなる。それは作品の趣旨からもそんなに外れていないはずだ。


Sekさんにありがたいコメントをいただいた:http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=19980&uid=vostok 

2016-01-04

[]こころリスタ! (さち) こころリスタ! (さち)を含むブックマーク

 メインライターとは別の人が書いたということと関係があるのかどうか分からないが、さちシナリオは結局最後までどこかちぐはぐな印象が残った。さちがなぜあそこまであの丸っこい兄にべったりなのか分からないし、主人公がお兄ちゃんと呼ばれる感覚もよく分からない。車の人の声が強すぎたのだろうか。それっぽいエピソードがなく、丁寧語ということもあり、妹感も幼馴染感もあまりしなかった。露出プレイに走るのも唐突な感じがした。あとペンペがエロくて参った。

 とはいえ、そのギャップを楽しめた部分もある。特に目を大きく見開かずにフラットに開けると、吊り目気味の不機嫌そうな黒目っ子になって可愛い絵師さんは全体的にぷっくりしたほっぺを描くのがうまいが、そのほっぺがいっそう引き立つように見える。肩幅が狭くて撫で肩なのも素晴らしく、元気なポニーテイルもすっきりしたうなじ可愛い。要はさちの姿かたちが好きなのだと思う。車の人の声はキャラクターのビジュアルイメージとややずれていたのだが、無理やり合わせようとしないで、まずはさちの性格や姿かたちを思い浮かべて、告白した後で急に舞い上がってチャット魔になってしまうような幼さを思い出す。そしてその後で本来はそうした幼さとは遠いはずの車の人のあの声をかぶせると、なにやらそのギャップを意識してこそさちの個性が浮かび上がってくるような気がして味わい深い。絵だけを見ていると結構妹感がある気がするが、声も合わせると違ってくる。そんな揺らぎがあるから、きっと一緒にいて飽きないのだろうなと思う。一緒にジョギングとかしてこころをムキムキしたい。