2012-05-27
■[少女]Rewrite (70)

エロゲーマーは地球の心配をしなくてはいけないのか?確かに、地球が滅びるからその危機を救えみたいな話はマンガとかによくありそうだし、実際にエロゲーでもHello, worldとかそんな感じだったし、最果てのイマだってそういう舞台仕立ての話だったと説明することが出来ないわけじゃない。ただし通常こういうのはあくまで舞台仕立てに過ぎないもので、本当に書きたいのは別のもの、エロゲーであればヒロインとの恋愛やそれに伴う深く親密な関係のほうだろう。だから「地球の危機」は単純で分かりやすい悪でも別に文句はないし、むしろあまり主張してこないほうがいいのかもしれない。
田中ロミオは家族計画にしてもクロスチャンネルにしても最果てのイマにしてもやや特殊で、ヒロインとの一対一の関係という主軸に匹敵するほどの重みをつけて、主人公と社会(あるいは単に周囲)との関係という主題を描く。図式化してみると、家族計画からRewriteにいたるまで、当初は問題のある主人公が健全な社会に溶け込めない話だったのが、主人公が自分の周囲に自分でも許される社会を作る話へと、そしてさらに社会のほうが実は問題を抱えており病んだ終末観を漂わせているという方向へ進んできたといえるのかもしれない。いずれにせよ、主人公と社会をめぐる問題系は自意識や人間関係の難しさなど、ソフトな性格のものだ。最果てのイマでは衛生思想やネットワーク社会のセキュリティのようなサイバーパンクなモチーフも大量に動員されてハードな社会設計の話のように見える部分もあったが、そうしたものも他人との距離感の話に回収されるものだった。
僕がネタにマジレスをしているだけなのかもしれないが、Rewriteはこの文脈では恋愛ゲームとしての一線を越えてしまったように見える。原案云々はひとまず措くとして、ホットな社会問題に敏感な田中ロミオが環境問題というテーマに反応したのは理解できるが、これは自意識とか他人との距離感とかいうような恋愛ゲームと親和性の高い社会問題からはかなり離れたテーマだ。エロゲーマーならずとも、静かな日常を送っている一般人にとっては「地球の心配をしろ」といわれても違和感を覚える人は少なくないと思う。もちろん、エコバッグは普及しているし、政府は国民の税金の中から電気自動車やエコ家電への補助金を出しているだろう。環境に気を使うために少し手間をかけたり少し余計にお金を出したりしたら、少し気持ちいいだろう。しかし僕のようなダメな人間の中には、こういうのに偽善や商売の匂いばかりを嗅ぎつけて、環境保護のような曖昧な活動でいいことしたような気になるのを嫌がる人もいるだろう。むしろこれをドライに商売の話と割り切って、人があまり住んでいないシベリアでは発電所で低品質な褐炭を燃やしまくって大気を汚染していたとしてもそれは仕方のないことだし、資源が枯渇するといっても別に自分が生きている間は関係のない話だし、採掘会社が資金がないから地質調査を十分していないだけでまだ未開発の資源はあるかもしれないしなどと自分に言い聞かせて倫理的な問題から切り離したほうがいいと思う。環境保護のテーマはそれほどまでにハード面に関わるモチーフであり、僕らの営みの多方面に影響する未解決の問題系であり、クリーンとかグリーンとかの爽やかなイメージとは違い、主に政治とお金の話だからだ。
こうしたテーマをフィクションが消化するための処理として適切なのは、朱音シナリオのパターンだ。つまり、環境保護をサブカルチックに宗教的なカルトのテーマに引っ張って心理化する方法。というわけで朱音ルートは暗くて心理的で恋愛的で面白かった。
他のルートでは、環境保護のテーマは取扱が難しいのに、特に何の処理のされないまま剥き出しの素材としてバトル話や地球救済話のようなフィクションの道具として使われていたため、この作品が本気で環境保護を訴える気があるのか、それともただの感動話のネタとして活用しているだけ(それはそれで不躾だ)なのか分からず不審な感じがした。間違いなく凝った面白い話なのに本作に違和感を感じてしまうのはその辺りが原因だと思う。あと50年くらいしないと成熟しないような新しすぎるテーマなのだ。
どういう事情があったのかは知らないけど、本作の発売は震災で遅れたという。同じく震災の影響(こちらは偶然ではない)を感じさせるフィクション作品に、西尾維新の『悲鳴伝』がある。地球の人口が増えすぎてしまったために、地球が「悲鳴」を上げて人類の3分の1とかを抹殺してしまう世界の秘密結社とかの物語で、地球の化身として幼女が主人公の前に姿を現したりするところもRewriteに通じるものがある。環境問題という人災ではないく天災が元ネタになっているためか、西尾維新はこの小説では環境保護団体のような難しいテーマには手を出さず、いつもの自我をめぐる文学的な話に仕上げている。
Rewriteでは上記のようなよく分からないスタンスのために、肝心の篝との関係を恋愛話として読むことが難しく、最後までどこか落ち着かなかった。おとぎ話としてのMoonやMoonと他のシナリオとのつながり方は面白かったけど…。あとは最果てのイマの変奏のような小鳥シナリオ。退廃感と諦念と、希望と意志と。あの中毒的な文体をどう表したらいいものか。
とはいえ話を戻して見方を変えると、フィクション作品というのはテーマの選択をもって全てが決してしまうような簡単なものではない。なんだかんだいって、物語やヒロインたちに引きづられて親しみを持つ。テーマが新しすぎるのなら、物語のプリズムを通して詩化してしまえばいい。夏の日差しや冬の空気だってAirやKanonをやった後ではそれまでと違った親しみを持つようになったわけで、同じように環境保護という今はまだあまりにも抽象的な事象だって少しは身近なものになったのかもしれない、といったら社会主義リアリズム小説の効能みたいな話になるか。なんだかんだ言ってかなり楽しんだのに微妙な感想になってしまった。BGMでも聞いて落ち着くことにしよう。
(ESでコメントを頂いたのでそっちのリンクも貼り)
2012-04-30
■[diary]西尾維新『悲鳴伝』

- 作者: 西尾維新
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/04/26
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 294回
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『ハーモニー』を読んだときと同じで、いろいろ設定の話はあるけど、結局は女の子たち(在存、花屋、剣藤)と主人公の少年が互いをぶつけ合う様を見る小説なのだなという感想。ぶつかり合う度合い順ということにしてしまうのはまずい言い方かも知れないが、一番印象に残るのはやはり剣藤だった。救いのない設定の世界観の中では、逃避行は解放に行き着くという意味では唯一の救いになるのかなあといまさら。『少女不十分』の感想は書かずになんとなく流してしまったので、とりあえず一言だけでもメモ代わりに。
2012-04-25
■[少女]猫撫ディストーション Exodus (85)

以下、プレイ順の感想です。ネタバレ多し。
とてもやさしく心地よい作品だった。書き尽くした感のある見事な出来ながら、これで猫撫の物語が終わりになるのは名残り惜しくもある。
●Exodus (この項は再掲)
キリスト教を内側から、情念の側から取り上げたのが一連の瀬戸口作品だったとすると、猫撫Exではキリスト教は外側から、あるいは知性の側から扱われる(ライターが本当に信者だったかとかそういう話ではなく)。あえて悪く言い換えれば、意匠としてのキリスト教。または、骨組みとしてのキリスト教。なけなしの信仰心の萌芽のようなものを15年ほど前になくして以来、貪欲で弛緩した、神様のいない生活を続けてきた自分にとっては、出エジプト記をなぞる形で進行しながらも、中沢新一がよく使ったような言葉と流動体に関するニューアカ的なメタファーが、ししおどしの禅的な幸福感礼賛にスイッチしていく懐かしい展開は、どこかに悪意ある皮肉が仕込まれているのではないかという不安も感じさせる後味かも。それは今の自分には信仰がないという架空のかもしれない罪悪感、大げさに言えば原罪の意識から来ているものかも知れず、だとすると言葉の罠にはまっている自分はますますししおどしに頼らなければならないのではないかという袋小路。不安は強まる。十戒の契約を交わしたと思ったら、金の小牛もヨシュア記もなく出エジプトの物語は終了し、あっというまに黙示録の千年王国に、7つの封印の解放もバビロンの崩壊もなく飛ばされたのだから。僕がヨハネの黙示録を消化できていなくて気づかなかっただけならいいのだけど、深読みせずに普通に読むと、猫の十戒の辺りから先は聖書とのつながりが単なる脱力系のこじつけみたいになってきていて、あの神経症的な黙示録の恐ろしいイメージはどこにいったの、というかギズモとのエッチシーンに「千年の夢」(だっけ)というサブタイトルをつける、その冒涜的とも思えるセンスが怖くなった。・・・というのはまあ偽善的な身振りで、次の日にプレイ再開したら普通にするする読み進めてしまったという。
前に論集向けの小文で、前作について「物語性の貧困さ、言葉のバイタリティの弱さというのは『未来にキスを』をプレイしたときにも感じたことで、同じ観測者のモチーフを扱いながら、観測者を空に浮かぶ不気味な目玉として描き、それに内側から反抗する青春物語だった『素晴らしき日々』とは対照的だ。しかし、本作の静的なたたずまいを「家族は揺らがない」というキャッチフレーズに重ね合わせて見るならば、ヒロインたちがそれぞれ見せてくれるものの価値が改めて浮かび上がるように思える」などとなにやら知った風なことを書いたけど、猫撫Exで持ち込まれたのはまさに定番中の定番とも言える劇的な物語構成の枠組みであり、組み立て方も凝っていて読んでいてとてもスリリングだった。誰がどの役どころを演じるのか、モーセは誰なのか?アロンは?ファラオは?神様は?というよう様なところを追いかけているだけでも楽しかった。小道具を見るなら、例えば、時間の空間化を因果性の崩壊や言語の融解とつなげるのとか(ゴミ、中国語の部屋装置、ギズモの新聞を読む振り、琴子のとんちんかんな受け答え)、それを旧約聖書的な「〜と言った。そのとおりになった」の仕組みにつなげ、言葉で全てを埋め尽くして言葉自身を瓦解させてエデンの園に還ろうとする目論見とか。
モーセは神様から預言者に指名されたとき、はじめは自分は口下手だからダメだと尻込みする。それを支えるのが神の奇跡であり、アロンの助けだ。アロンは琴子のはずだった。そして、40年間流浪を続けながらもカナンを前にして道半ばで死んでしまうアロン(とそしてモーセ)のように、琴子は脱出を果たせない。無実の琴子が楽園の礎となり、遠い時空を隔てて子羊ならぬ子猫として復活するのはイエスにもなぞらえられるのかもしれないが、そういう連想はエロゲーとしてはやはりしないほうがいいのかな・・・
聖書では家族というのは、現代的な家族の絆とかいう意味ではあまり問題にならない。そもそもヨセフ、マリヤ、イエスという家族プラス神様と聖霊という組み合わせ自体が「内側」や「身内」というじめじめ属性と無縁で、きれいさっぱり概念の骨組みに漂白されている。女性といえるのは1人で、究極の処女崇拝的な世界観に守られているものの、エロゲー的なベクトルとは合わない部分がある。黙示録パートでの樹の言動に少しの違和感を感じるのはそのせいなのだろう。その意味で出エジプト記に取材するというのは題材の選択で失敗しているところがあるが、逆に言えば、失敗(=言語)を所与のものとしてそこから出発するのがこの作品のやり方であり僕に与えられた選択肢でもあるのだから、まったくの最短距離におもいきり直球を投げてくる話だと見てもいいだろうと思う。
●結衣 −Time is Money−
認識にまつわる現象学的世界観の話が出て、結衣が悪魔から人間になったなあと思っているうちに終わってしまった。
余談ながら、この作品をプレイする前に百貨店で安く売っている鉱石を集めだして喜んでいたので、石の話が出てきてなにやら嬉しかった。パイロープは見つからなかったけど、ガーネット(柘榴石)の一種は500円で売っていた。他にも薔薇水晶、水晶玉、珪化木、オレンジ方解石など、それぞれ猫撫のヒロインたちのイメージに合った石を集めて悦に入っていたという。手持ちの石でさらに強引にこじつけるなら、深い空を思わせるラピス・ラズリは電卓、のっぺりした、それでいて天上的超越感を漂わせるトルコ石は樹か。
●柚 −Awareness Human−
邪道ながら、個人的には夏野こおりさんの声の魅力は前作では理解できなかったが(どちらかというと可愛くない汚れ役だったし)、Scarlettのアメリアの可愛い声で教育を受けたので今作ではフォローできた。シナリオ的にもそこは抜かりがなかったかも。
作品世界に対する抗議者の役割を割り振られている柚が家族として取り込まれてしまうと、誰も抗議するものがいなくなる。常識的にも柚と結ばれるのが一番まっとうな落としどころであって、柚が受け入れられていく様子が描かれた終盤は、不協和音のない調和と充足感の雰囲気に満ちている。人は人と違うという大人の前提に立っていた柚は、家族になる過程であたかも少し子供なってしまったかのようで、偶然だけど、終盤の座ってカップを持っているCGでは柚は少し幼く見える。家族のロールプレイングをして、自分が相手と断絶があることを認識して、その儀礼を経て受け入れられていく、というとなんだかありきたりな話のようだが、前作で彼女が抱えていたものを考えるとようやく静かな入り江を見つけた柚を見て素直に喜べる。
●式子 −Role playing Organism−
俺は、膝の上の母さんの下着を引き下ろしていた。/母さんの下半身は、月明かりの下にあらわになっている。
恐ろしいのは、主人公が式子を「式子さん」ではなく「母さん」と意識的に呼ぶのは本作ではたぶんこのシナリオだけだろうということ。母親と恋人が分かちがたいものとされており、しかも結婚式を挙げて皆に祝福されるという展開にはくらくらする。人妻コスプレ喫茶2で感じた近親相姦の妖しい雰囲気が濃くて大変素晴らしい。この不穏な空気は、平行する「現実世界」の式子本人からも祝福されるにいたってほとんど不条理とも言える域に達し、そこまで突き抜けたおかげで、本当に式子の願いと幸せというものを考えさせられるという流れはきれいだ。認識ではなく想像力が世界を構成し、祝福の連なりが人を結びつけるという式子のメッセージはとてもあたたかい。ほんわりした性格の合間に見せる立ち絵の真剣な表情も印象的で、賢くて正しい人だなあと。その彼女が選ばれるヒロインとしての喜びを伝え、独占欲を見せる。これ以上の完璧な母親ヒロインはありえないような気がする。
●琴子 −琴子色−
下世話な話、琴子に関して一番思ったのは琴子頭でかいよということだった。大人びた造詣の顔なのにでかいからかなりおかしい感じの絵もちらほら。しかしそこを無理やり納得すると、琴子は体が小さくてやはり妹なんだなあとあらためて感じられたり。
あと、このシナリオでは特に大きなイベントもなく、家族が出かけていなくなったらいつの間にか二人が結ばれてしまうのだけど、この含みを持たせたプロット進行が照れているのか策士なのか不明な琴子らしくて可愛い。
●ギズモ −メイド in world−
言葉を覚えて世界を構築していくギズモをめでる、前作のシナリオを焼きなおしたものなのかなあと漠然と雰囲気を楽しみながら進めていた。ちょっと言語論的な話がくどいなあ、現代思想の概説書みたいだと思いつつ油断して、何で(ブレザーではなく)セーラー服が出てくるんだろう、これはどんな文脈のフェティシズムだろうかとか暢気に考えていた。今思えばフェティシズムが象徴するずらされたエロス、遅延されたエロスというのは言葉の構造そのものとも言えるし、反対に言葉を封じて沈黙や感覚に閉じ込める反言語的な方法とも言える、とかこじつけられるのか。
ともあれ、全てはいわゆるフラグだったわけで、ギズモという存在の設定からして一番「もっともらしい」結末へ向かうことになったシナリオだった。そして同時に、言語を通じてしか進行させることのできないこの物語の限界を残酷なまでに鮮やかに見せつけられた。なにしろ、「選択肢」は言語で出来ていて、世界を選択肢に分割するということ自体が言語的な行為で、言語以外のものを選択することは出来ないのだから、あのギズモが人間になることは決してできない。
ではなぜギズモはあのまま文字を覚えて人間になっていくことがなかったのだろうか。実は覚えていっていたんだけど、結局はああした形で残っただけで、当初の目的を果たすことはなかった。ギズモは樹の趣味の塊で、その欲望を反映して生み出されたものだから、あのままのギズモと結ばれることは近親相姦にも勝る、自己循環という最悪の禁忌だから罰が当たった、というような説教くさい説明はこの作品にはふさわしいものではない。Kanonの真琴シナリオと同じ泣きゲーの文法で書かれているからだというのは説明になっていない(真琴シナリオの説明にもならないかもしれないが)。子供たちに拒絶されて、追いつめられて言葉を捨てる前のギズモと慰めあうように交わるというのは樹が卑怯なように思われたし、閉塞間の漂うエッチシーンだったけど、それはあくまで結果の話。エクソダスシナリオがハッピーエンドだったからこちらはバッドエンド風にしたという説明はもちろん論外で、うまい方法は本当になかったのだろうかと沈鬱な気分になる。言葉がもともと挫折を前提としたものだから、言葉の構築を象徴するギズモの成長はそのままでは「ゴール」を迎えることは出来ない、言葉を越える「奇跡」なしに「ゴール」に辿り着くことはできない、だから沈黙せねばならない、沈黙した後に残るのは視覚情報と言葉以前の音だけ(確かにギズモは姿も声も可愛くて、このシナリオを終えたらますます可愛く感じるような仕掛けになっている;自転車の乗るギズモ、服を試着するギズモ、歌を歌うギズモ、そして寂しげに鳴くギズモ・・・)。
そうすることによってしかこの物語を終わらせることは出来ない。そんな物語を「受け入れますか」と猫神様に問われたら、僕は言葉で答えなくてはならないのだろうか。
2012-03-31
■[diary]猫撫ディストーションExodus1 (エクソダスシナリオ)

キリスト教を内側から、情念の側から取り上げたのが一連の瀬戸口作品だったとすると、猫撫Exではキリスト教は外側から、あるいは知性の側から扱われる(ライターが本当に信者だったかとかそういう話ではなく)。あえて悪く言い換えれば、意匠としてのキリスト教。または、骨組みとしてのキリスト教。なけなしの信仰心の萌芽のようなものを15年ほど前になくして以来、貪欲で弛緩した、神様のいない生活を続けてきた自分にとっては、出エジプト記をなぞる形で進行しながらも、中沢新一がよく使ったような言葉と流動体に関するニューアカ的なメタファーが、ししおどしの禅的な幸福感礼賛にスイッチしていく懐かしい展開は、どこかに悪意ある皮肉が仕込まれているのではないかという不安も感じさせる後味かも。それは今の自分には信仰がないという架空のかもしれない罪悪感、大げさに言えば原罪の意識から来ているものかも知れず、だとすると言葉の罠にはまっている自分はますますししおどしに頼らなければならないのではないかという袋小路。不安は強まる。十戒の契約を交わしたと思ったら、金の小牛もヨシュア記もなく出エジプトの物語は終了し、あっというまに黙示録の千年王国に、7つの封印の解放もバビロンの崩壊もなく飛ばされたのだから。僕がヨハネの黙示録を消化できていなくて気づかなかっただけならいいのだけど、深読みせずに普通に読むと、猫の十戒の辺りから先は聖書とのつながりが単なる脱力系のこじつけみたいになってきていて、あの神経症的な黙示録の恐ろしいイメージはどこにいったの、というかギズモとのエッチシーンに「千年の夢」(だっけ)というサブタイトルをつける、その冒涜的とも思えるセンスが怖くなった。・・・というのはまあ偽善的な身振りで、次の日にプレイ再開したら普通にするする読み進めてしまったという。
前に論集向けの小文で、前作について「物語性の貧困さ、言葉のバイタリティの弱さというのは『未来にキスを』をプレイしたときにも感じたことで、同じ観測者のモチーフを扱いながら、観測者を空に浮かぶ不気味な目玉として描き、それに内側から反抗する青春物語だった『素晴らしき日々』とは対照的だ。しかし、本作の静的なたたずまいを「家族は揺らがない」というキャッチフレーズに重ね合わせて見るならば、ヒロインたちがそれぞれ見せてくれるものの価値が改めて浮かび上がるように思える」などとなにやら知った風なことを書いたけど、猫撫Exで持ち込まれたのはまさに定番中の定番とも言える劇的な物語構成の枠組みであり、組み立て方も凝っていて読んでいてとてもスリリングだった。誰がどの役どころを演じるのか、モーセは誰なのか?アロンは?ファラオは?神様は?というよう様なところを追いかけているだけでも楽しかった。小道具を見るなら、例えば、時間の空間化を因果性の崩壊や言語の融解とつなげるのとか(ゴミ、中国語の部屋装置、ギズモの新聞を読む振り、琴子のとんちんかんな受け答え)、それを旧約聖書的な「〜と言った。そのとおりになった」の仕組みにつなげ、言葉で全てを埋め尽くして言葉自身を瓦解させてエデンの園に還ろうとする目論見とか。
モーセは神様から預言者に指名されたとき、はじめは自分は口下手だからダメだと尻込みする。それを支えるのが神の奇跡であり、アロンの助けだ。アロンは琴子のはずだった。そして、40年間流浪を続けながらもカナンを前にして道半ばで死んでしまうアロン(とそしてモーセ)のように、琴子は脱出を果たせない。無実の琴子が楽園の礎となり、遠い時空を隔てて子羊ならぬ子猫として復活するのはイエスにもなぞらえられるのかもしれないが、そういう連想はエロゲーとしてはやはりしないほうがいいのかな・・・
聖書では家族というのは、現代的な家族の絆とかいう意味ではあまり問題にならない。そもそもヨセフ、マリヤ、イエスという家族プラス神様と聖霊という組み合わせ自体が「内側」や「身内」というじめじめ属性と無縁で、きれいさっぱり概念の骨組みに漂白されている。女性といえるのは1人で、究極の処女崇拝的な世界観に守られているものの、エロゲー的なベクトルとは合わない部分がある。黙示録パートでの樹の言動に少しの違和感を感じるのはそのせいなのだろう。その意味で出エジプト記に取材するというのは題材の選択で失敗しているところがあるが、逆に言えば、失敗(=言語)を所与のものとしてそこから出発するのがこの作品のやり方であり僕に与えられた選択肢でもあるのだから、まったくの最短距離におもいきり直球を投げてくる話だと見てもいいだろうと思う。
2012-03-20
■[少女]Scarlett (65)

ねこねこソフト作品で個人的に一番思い入れがあって、タイトル的に本作と対比させることが出来そうな「朱」を基点に、感想的なものをつらつらと。朱が徹底的に情念の動きの上に組み立てられた物語であり、「現実味」に乏しく、登場人物たちの行動は不条理なほどに現世的なルールから逸脱した、求道者たちのものだったとすると、スカーレット(1、2、4章)では反対に、現世的なルールに縛られながらもその中でゲームを楽しむ登場人物たちの姿を見ることができる。朱における赤い色は銀糸という幻想的な宝物を示していたけど、スカーレットにおける赤い色は、家柄に由来する権力や家族の絆というような地上的な関係性を指すもの。
「高級諜報員」が君臨する世界というルールはその世界のプレイヤーたちには受け入れられており、その中でみんなが権力を求めて動く。野暮なつっこみをいちおう入れておくと、今の時代に政治的な権力に肯定的なイメージを持つ人はどちらかというと少なく、政治家や外交官というのはその実際に持つ力とは逆にかなり卑しい職業とのイメージが強いと少なくとも個人的には思うわけで、その意味で九郎はやはりどこかうさんくさいし、それに憧れる明人が愚かに見えてしまうところはある。(半分被害妄想だが)政治とは基本的に経済の邪魔をするものであって、経済の調整役に回っているときは見えないので意識されず、経済の邪魔をするときだけ意識されて煙たがられる存在になっていることは政治家自身がよくわきまえていることでもあり、だからこそ例えば、皇帝と揶揄されるプーチンはトップセールスに熱心なビジネスマンとしての活動や経済政策が評価されたりしているのだろう。そうした意味で、この作品で政治とか外交の駆け引きとかが描かれているのはハリウッド映画のような娯楽の一要素、僕らを脅かすことがないおとぎ話の世界のことであるのは仕方がないし、それは製作者の戦略的な選択なのかもしれない。とはいえ逆に経済のテーマに走られたら、いくらおとぎ話的なご都合主義と混ぜたとしても、それはNG恋のようなこちらの精神に負荷がかかる話になって疲れるから困るということもある。
朱にしろスカーレットにしろ、登場人物たちが世界のルールを受け入れているからといって、世界がやさしいわけではなく、残酷な機械のようにじりじりとすり潰そうとしてくる。少なくとも普通の意味での平穏な「日常」はない、というか、ないものとして描写されない。「日常」は「非日常」に脅かされつつ獲得される特殊な日常としてしか存在しえない。象徴的なのは、明人としずかの島での生活のエピソードで、それだけ取り出してみると浅羽と伊里野の南海の楽園逃避幻想の実現との見たくなる魅力的なシチュエーションのはずなのに、その期間は思いがけず短くされて終わる。というか、3ヶ月だからそんなに短くはないともいえるのだけど、描かれるべきことが起こらなくて短く感じられてしまう。やさしくない世界においては、自分たちが存在しているだけで罪の連鎖はどこかで続いていってしまうから、完全に自律した楽園はない。押し潰されないためには動き続けるしかない。ねこねこソフトのシリアス系の作品では、運動が止まったときというのは描かれない空っぽな日常か、そうでなければ残酷な機械のすり潰しをじっと我慢して耐えているときであり、そのうちに耐えられなくなり、完全に押しつぶされる間際に「日常」が幻視される。世界と折り合いをつけられて、実際にその日常が手に入ればハッピーエンド。そうでなければ「日常」の幻想は他の誰かに手渡される。
自分は馬鹿なので朱やスカーレットをプレイした後の感覚をどうやったらうまく言葉に出来るか、さっきから試しているけどなかなかうまくいかないが、たぶんこの「幻想を手渡される」感覚が全てなのだろう。それはそのためのいわゆる泣き所のシーンにしてもそうだし(久しぶりに泣かされ)、それ以外の「移動の痕跡」としてのプレイ後の記憶にしても。どうやっても自分には言葉に出来ないので諦めたほうがいいのだかそれでも敢えて言うと、BGMの曲調とか、あとは特に立ち絵の顔の表情とか、何か絶妙なものがあるのだろう。そらいろの感想でも少し書いた気がするが、ねこねこ作品は立ち絵の表情、特に子供のように素直な女の子が不安を感じたり喜んだりするのを表す表情がとてもうまくて、デフォルメやわかりやすく強調された表情が安易に用いられがちな昨今、ONEの時代のような落ち着いた品のある顔を見せてくれる。ニネットなどはサブキャラなのにもかかわらず、あの表情のおかげで無駄にといっていいほど存在感があったり(反対に美月は目の色が残念だった。レコンキスタにもあったけど、表情の落ち着きがなくなるので目の色はあまり妙なのを使わないでほしい)。顔の表情だけでなく、体の線とか肌の質感とかも繊細で、痛々しくさえある。narcissuに自分が思ったほどのめりこめなかったとしたら、それはたぶん絵が違うことが大きいのだと思う。まあ、ねこねこ作品の叙情性と絵の関係については誰かエロい人にきっちりと説明してほしいところ。
そういうわけで、つらつら書いたまままとまりのない感想になってしまったけどまとめると、朱とはいろいろとつくりが違う作品だけど、ねこねこらしい情感は健在でよかったなと。
2012-03-08
■[少女]はつゆきさくら (65)

入学式を9月にしようとしている大学もあるけど、年度を4月に始めるのはどういう経緯なんだろう。3月末に桜が咲いて散るからというのが理由だとしたら日本はすごい。どっちがいいとか言わないけど、1年が終わって夏休みだとか、休暇だとかいう欧米ののんきさとは違う美的な感覚がある。
もはや遠き記憶のかなただけど、受験のシーズンが始まって時間割や登校が不規則になっていったときには、それまで当たり前に流れていた時間や周りの世界が崩壊していくようで、なんだか世界から急に見捨てられたような不安感のようなものがあった気がする。与えられた自由度とか多様性が大きかったという意味では大学受験のほうがこの不安感は深刻だったかもしれないけど、それまでずっと意識せずに縛られてきてはじめて解放されてしまったという意味では、高校受験もそれに劣らずすーすーした感じはあったのだと思う。中学生が合格発表を見に行くと、高校の校舎は中学校などとは全然違って、なにやら広くて、がらんとしていて、役所のように機能的できれいだった。こんなすーすーした空間で、自分の運命を決するようなことが起きるなどとは到底想像できない。初めて受験をした中学生がそんな実感のこもった覚悟で合格発表に臨めるはずがない。
シロクマもそんな感覚だったんじゃないかなあ。確かに、学校からはちょっとドロップアウトした。でも、人生の本当の過酷さ(というか薄情さ)みたいなのはまだ知らない年齢だっただろうし、中学生ではそんなものは知らずにすめばそれに越したことはない。そんなことより、店長と一緒に喜べたら、一緒に遊びに行けたらと想像するほうがよっぽど楽しかった。そんな当たり前の子供らしい浮ついた心に、急に頬を張られたように冷水を浴びせられるのが一次試験の結果だ。シロクマの真似とかしてる場合じゃなかったよ・・・。
シロクマが不憫なのは、何も公式の扱いとかそういう部分だけではない。というか、それはそれで残念だし、dovさんの憤慨もわかる部分はあるけど、嘆いても仕方ないので乗り越えたいところ。シロクマは「子供」としてこの作品で命を与えられたから、必然的に傷つけられる存在、不憫であることが僕らに訴える存在とされてしまった。後期試験でいい結果が出ても、店長と会って喜び合うことも出来ない。店長はシロクマを裏切るような形で姿を消すetc, etc, etc。
だから僕らは、喜びにすがろうとするシロクマに何も言えないし、シロクマの幻想を信じようとする。ちょっと考えてから、「グルル・・・シロ!」と初雪に答えるシーンの彼女はとてもきれいだ。この声を聞いて初雪がシロクマに何も感じなかったというのはさすがにありえない。そして彼女が嘘を本当にしたいというのなら、それについていくしかない。
強引なこじつけである上に、とんでもない駄文だけど、
勝手に想像でシロクマの話を付け足してみる。
(以下、たぶん読まないほうが身のためのシロクマアフターSS)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やあ、シロ。久しぶりだね」
「あやや、本当に来てくれたんだね」
6年前とあまり変わっていないようで、私もすぐに昔の感じを思い出す。
「シロはずいぶん変わったみたいだね。
ロシア人になっちゃったのかな。でもまあ、6年も経てば変わるか」
「そうかな。背が伸びただけだよ。あと、ロシア人なのはもとからだよ」
「あはは、そういえばそうだったね。祖国での暮らしはどうなの?元気にしてた?」
「うん。ロシアにもいい人はいたよ・・・」
そういって私はあややをうながして、手荷物を持ち、空港の出口に向かって一緒に歩き出す。
群がるタクシーの客引きをかき分け、市内行きの安いバスの乗り場に向かう。
外はすっかり夜。薄暗いオレンジ色の街灯に、不機嫌な郊外の風景が浮かび上がる。
その中を私とあややは話し続けた。
彼女が内田川邊を離れてからも、何度かやりとりはした。
でも私がロシアに来てからは、お互いのことはほとんど知らないまま3年が過ぎた。
お互いの近況を伝えて、私の夏休みの予定を言ったら、
「それはちょうどいいかもしれない。私もご一緒していいかな」
といって、あややも合流することに。
バスから地下鉄に乗り換えて、そのあとまたバスに乗り、そして学生寮へ。
あややがなぜ、急に私の卒業研究のための調査旅行に合流すると言い出したのか、
簡単な話は聞いていたけど、詳しい事情は会ってから話すよということだった。
あややの専門テーマの話を聞きながら、私はそれが自分のものと似ていることに気づいて、
彼女も6年間、内田川邊でのことを抱え続けていたことを知った。
「本当は個人的なことは研究に持ち込んじゃいけないんだけどね。
それにこんなことをやったって、私とゆきちに起こったことが分かるようになるわけでもない。
でもこれは、決着をつけるための儀式みたいなものなんだ」
「私も同じだよ」
「え?」
「一緒にゴーストにお別れを言うの」
夏休みの調査旅行の目的は、カムチャツカ西岸のイテリメニ族の集落、
ハイリューゾヴォ村でのフィールドワークだった。
毎年夏の終わりには、この集落ではクマの精霊を呼び出すクマ祭が行われる。
結局ロシアに来てみても、私はなにかまったく新しい自分になれたわけではなかった。
日本から遠く離れてみると、かえって日本のことが気になりだした。
自分の子供っぽい嘘が忘れられず、留学当初はロシア語の勉強の合間に、
シロクマに関する本を集めては読んでいた。
シロクマの鳴き声はグルルシロではなかった。
オットセイは食べるみたいだけど、シャケが遡上するところにはあまり住んでいなかった。
だからシャケクマ、「シャケにのっとられた、エラ呼吸するシロクマ」はいない。
そんなことを考えては、河野初雪と、店長と話したことを思い出していた。
遠い国で1人で暮らしていると、そんな小さなことが支えとなった。
だからクマがロシアでは人間に一番近い動物として昔から親しまれてきたと知って、
クマの精霊と交流する文化があると知って、私はこれを自分のテーマにしようと思った。
店長はもういなくなってしまって、ゴーストも内田川邊から消えた。
それでも私は昔のことをどう整理していいか分からなかった。
店長がついた嘘、本当のことにしたかった、いい方の嘘のことばかり考えていた。
私が自分の嘘を本当のことにできれば、店長の嘘も本当になると思い、ロシアに来た。
そんなことを話していたら2人ともしんみりとしてしまった。
ひといきついたところで、元気を出すために私は景気づけを提案した。
「え。シロはウォッカとか飲んでるの?」
「ほとんど飲んだことはないんけど、元気出るかも知れないよ」
「確かに景気づけにはいいのかもしれないけど・・・」
「店長もお酒飲むの好きだったし、店長を偲ぼう」
「あはは、それじゃ景気づけにならないよ。
しかもなんだか負け組のヤケ酒っぽいよ」
そういうと私はすばやく、ウォッカのビンと小さなグラスを取り出し、
ここからは元気を出そう。
隣室のロシア人の女の子も呼んできた。
日本語が得意で、ロシア人には自分は日本人だと嘘をついている子だ。
私たちは、クマの精霊の健康のために元気よく乾杯して、壮行会を始めた。
明日から3人でロシアの地の果てに向かう。
カムチャツカに行ったって、何もないかもしれない。
むしろ、ないほうがいい。
私はこの卒業研究をまとめて、私の冬を終わらせる。
神様いないこと、死者には会えないことなんて知っている。
全部人間がつくり出したもので、自分で自分に言い聞かせているだけのものだ。
でも、それを知っているからといって、それは知っているだけのこと。
そのこととどうやって付き合っていけばいいのか、それは自分で見つけなくてはいけない。
見つけたとき、嘘は嘘ではなくなり、本当と嘘の境目はなくなる。
桜の木にも久しぶりに会うんだ。
2012-02-09
■[少女]朝からずっしりミルクポットSPECIAL (85)

エロゲーヒロインの位相は基本的に作品中、つまり物語中に定位されるものだけれども、人体から魂が抜けるように、物語中でも僕らの住む三次元世界の中でもなく、どこか境界的な場所にヒロインが抜け出してたゆたっているように錯覚することがある。ヒロインが物語の外に飛び出すのがメタ的なトリックによるものではなく、意図せず幽体離脱しているような場合。それはヒロインが「開ききっている」場合、完全に開放されている状態。自他の境界が後退しており、その場に立ち会うプレイヤーは、じかに幽霊に接触されたかのようにヒロインに吸い込まれる。
本作のヒロイン・伊織はふたなり美少女であり、ぶっこきエンジェルであり、どっぴゅんアイドルである。つまり、もともと現世的な肉体を持った人間というよりは、霊体に近い存在である。
貴方のハメたい願望をかなえるための理想肉になりたがっちゃう……うぅあああぁ……
「理想肉」とは肉ではあっても理想、つまり存在し得ないものであり、また、理想であっても肉たることを希求するもの。こうして地上の重力から解放されている彼女が物語の磁場からも自由であるように感じられるのは、彼女の快楽の叫びには設定とか物語とかを突き破って、どこかの虚空にとどまるような力があるから。この快感の前には、何もかもが作り事めいた馬鹿馬鹿しいものになる。全ては彼女に快感を与えるための小道具に過ぎなくなる。しかし彼女は「理想」だから、そんな肉の快楽に溺れてもまったく意味がないのだ。天使のくせに、何のためにアヘってるんだ?空しいだろう?まったくの無駄。まるで虚空に無駄な精液を放つようなものだ。それでもその快楽はやはり本物だと思えば本物になるようなものであり、そこにすがらずにはいられない。その必死さは、レトロなファミコン風(ドラクエ4の天空城のBGM風)のうつろできれいな響き、子供時代の必死で楽しかった思い出の、ほの暗い琴線に触れる音楽と組み合わさってなんとも切ない感じを催させる。
ふたなりっこが野獣のように喘いでいる様子から切なさを感じるわけだが、これは感染であって、伊織もやはり(普通の意味で)切なさを感じているに違いないのだ。「俺たちに翼はない」のファミコン音は中途半端だったためノイジーだったが、この作品の音はかなり純度が高くて参った。本当はドラクエ3のように根気よくプレイすべきところを、最終ステージまで一通り終えてからセーブデータをあててしまったのは情けなかったが後の祭り。自力で辿り着いていれば、上記のシーンの感慨もひとしおだっただろう。このシーンでは櫻井ありすさんの演技も入神の域に達していた。ありがたいという他はない。
余談ながら、このシーンの絵は図像学的にも神々しくて笑えた。
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このアンドレイ・ルブリョフによる15世紀のイコン「トロイツァ(三位一体)」では、それまでの伝統的なイコンの構図とは違い、主人公たるアブラハムが画面中に描かれず、彼の家を訪れた3人の天使に対し、アブラハムは画面の外に出されてプレイヤーと同一化されている。朝からずっしりミルクポットで主人公キャラが存在せず、作品は伊織のモノローグで進むが如しである。また、このイコンでは、天使たちの頭と両脇の天使の背中・腰、足で描かれる曲線が円を形成しており、三位一体の完全な調和を表していると同時に、2対1の顔と体の向きが動的な運動性をつくり、調和と永遠の運動という神の御業を示しているとされている。
みさくらなんこつによる21世紀のイコン「理想肉」では、伊織のお尻の線とニーソの上端の線と亀頭とアヘ顔で描かれる曲線が円を形成しており、切ない永遠の運動を示している。合掌。
2012-01-08
■[diary]秋山瑞人『Dragon Buster 02』

- 作者: 秋山瑞人,藤城陽
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2012/01/07
- メディア: 文庫
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昨日から一日、内容を忘れかけていた01と今回上梓された02を連続で読んだ。薬物を摂取しているのと変わらないだろう強烈で濃密な読書。2012年は1月8日で終わってしまったと言ってもいいような楽しさだった。これだけの本が出るのならきっと誰だってどれだけ待たされても許してしまうだろう。傑作というのは、読者にとり、それだけで新たなジャンルを作り出し、終わらせてしまうような作品のことだ。これからは幻想中国史とか武侠小説とか、これまでろくに知らなかったジャンルの中に、このDBシリーズの読書体験の影を追いかけなくちゃならない羽目になるのだろう。学生の頃に中国語と中国文学にはまっておかなかったことを後悔するけど、その豊かさの遠いこだまを秋山小説がいまさらながら聞かせてくれたことに感謝しよう。
ただし、薬物的な魔法の文体の熱がひとたび去ってみると、作者自身があとがきで言っていることも気になってくる。中国武術アクションとしてのこのシリーズは、この2巻で一番の山場は越えてしまった。武術は強いか弱いかの話なので、あとはインフレに流されていくのみだ。そんなことを続けても仕方ないので次巻ではもっと違うものを期待したいが、それとも作者はまた何か思いもつかない形で武道小説としての魅力を見せてくれるのだろうか。いずれにしても、この方向では期待するのも期待に応えるのも業の深いことにしかならない気がする。それよりもこの元都の風物詩的なディティールや、月華がそれらを見聞していく様子をずっと追いかけていくほうが楽しいように思えるのだがどうだろうか。『イリヤの空、UFOの夏』では鉄人定食や旭日祭や新聞部の日常、秋山的な異常な日常がずっと続き、「夏休み」はいつまでも終わらないほうがよかったのではないか?あまりにも力強い虚構の中の世界と、言語や物語という残酷な枠が、どちらが悪いわけでもないのにぶつかり合う。回転する月華はその構造の可愛らしいミニチュアだ。そしてその相克に読者を巻き込み、幻惑するのがこの作者の小説。あと1冊とは言はずもっと書き続けてほしいのだが、何とかならないものだろうか!
2012-01-01
■[diary]then-d編『恋愛ゲーム総合論集2』とか

毎度のごとく、コミケが終わったらすぐに読んで簡単に感想を。
- Rewrite各論:Keyのゲームはクドわふたーを除くと智代アフターを最後に脱落してしまったので未プレイ(クドわふたーに入っていた体験版だけ)。ネタバレを含む考察なのでちょっともったいなくはあったけど、この先もプレイするか分からないので読んでしまって、ずいぶん神話的な構造が強調されているんだなという印象を持った。未プレイゆえ、瀧川さんのが一番面白く読めた。
- wry dread(星の王子くん):あえて書くと、説明でなく規定する戦前の評論のようなタイプの文章で、個人的には非常に読みにくかった。自分はサン=テグジュペリの小説のよさがよく分からない人間なのとも関係あるのかな。
- 遠山悠夏(天使の羽根を踏まないでっ):けっこうな力作だった。新約聖書との比較が多くて、全然エロゲー批評らしくない。というか美少女の可愛さが全然論じられてないのに面白いとは…。とはいえ、いくら設定は面白く仕掛けられていても、メッセージの提示の仕方がくさくて、掛け合いはちょっと寒い、というのが朱門優作品の個人的な評価なのはやはり変えられない。絵や音楽や声とのシナジーを別とすると、その辺の短所があまり目立たないラノベのほうが読後感がいいのも確か(エロゲーだと短所もシナジー効果で増幅されるし)。自分はあまり高く評価できなかった作品である以上、これほど自信と熱をもって論じられている文章があるのは好ましく思った。この作品に性的な香りがあまり感じられないのは、ここまで聖書に準拠した作品であるのならば正解なのかもしれない。
- 川崎水姫(恋ではなく):欲望の対象が僕のようにヒロインではなく、カップリングに向いているようで女性的な(といっていいのか)感じがする。伏線回収の話では、自分はどちらかといえば伏線は放置されたほうが好きで(あるいは頭が鈍いので自分では気づかないか気づこうとしないことが多い)、最果てのイマのように詰め込んだり抜け落ちたりして穴が開いていたり、あるいはキラ☆キラのように通り過ぎたら振り返らないというのが風通しがよくて居心地よく感じる。好みの問題か。
- then-d(キサラギGOLD☆STAR):未プレイながら、麻枝准と関連付けるこの文章のおかげで、はつゆきさくらプレイへのモチベーションがまた少し上がった(もともと気になるヒロインがいる)。とはいえ、新島夕のインタビューを見ると、自分はカリスマライターではないとわざわざ断っていたりして、麻枝テキストの文体的な魅力を期待するのは無理かなという気がする。主題やシナリオ構成ではやはり、CLANNAD以降の近作は切れ味が落ちていると感じているので、麻枝後の新たな作家として期待できるのなら楽しみだけど。体験版をやったほうがいいのかな。
- 遅れてきた大物(太陽の子):ポスト葉鍵世代(というと語弊があるが)で人気が高いという以外にあまり共通項がないように思っていた作家3人が、トラウマという視点でうまくくれるのが興味深い。
- もりやん(「恋愛ゲーム」の周縁):自分が実際にプレイするかどうかはともかく、読んで面白いゲーム紹介。みさくらなんこつの新作(ふたなりアクション?)もこんな心構えでやればいいのだろうか。
- 雪駄(二次創作という解釈):二次創作はおそらく広大な領域なのだろうけど、葉鍵板を除くと個人的にはあまり触れる機会がないので、こうした本の中でよい作品がきちんと分析・紹介されるとありがたい。Renaissance、やったなあ。でもあの絵柄でKanonのキャラクターは受け入れられるか分からない。
then-dさんの音頭取りありきで続いたようなシリーズだったので、無理がたたっていったんお休みとなるのは残念だけど仕方ない。then-dさんの論考自身の質の高さが、他の寄稿者の方たちにもよい緊張感とモチベーションを与えていたように思えたシリーズだった。今後はきちんと睡眠もとりながらエロゲーをやって、面白い文章を発表されるのを楽しみにしています。イラストや編集の方々のおかげもあり毎回楽しませていただきました、お疲れ様でした。
あとはKaned Fools「しえいのそんなにいる」を読んだ。可愛いリリィがいっぱいでAも満足のボリューム。エリシアもよかった…。
瞬旭のティルヒアも。続きが楽しみな幕末期のスチームパンク。やはりちょっと暗くてさびしい話になることを期待。
他のものの感想はまたあとで。
2011-12-27
■[少女]りとる†びっち (65)

幼女の言葉が僕を解体する。
作品の構造として折込済みといえるのかもしれないけど、今回は単調に感じてしまったというのが素直な感想。
この汚らわしい存在である自分というものを消し去るために、主人公をあまりでしゃばらないようにしたり、傍観者の鴉にしたり、百合ゲーにしていなくしたりといろいろあるけど、この作品では主人公は選択肢と絵でのみ存在を許されている。選択肢といっても1つしかなく、しかも最後のほうでは勝手に選択されてしまうので、選択肢という意味での選択の自由はなく、プレイヤーはただ豚の鳴き声を上げながらヒロインから与えられる選択肢を受け入れるのみ。
語り手として主人公はいないけど、だからといってヒロイン視点になるわけでもなく、またエロゲーとしては珍しい(90年代にはあったのだろうけど)2人称になるわけでもなく、「地の文」は台詞と実質的には同じようなヒロインの主人公に対する語りかけになっている。通常のヒロイン視点の語りの場合には、主人公には見えない心の中の独白という形で、ヒロインの「内面」が存在することが演出され、それは口に出す台詞とは違う「本音」のステータスを容易に与えられるため、ヒロインのモノローグの安易な使用は安っぽい演出として忌避される。本作では地の文と台詞との内容的な差異がなく、違いは実質的にはカギ括弧の有無のみで、しかも特に「内面」の存在を意識させるでもない、頭のねじがゆるんだS攻めの台詞ばかりなので、ヒロインの造形は極めてフラット。プレイヤーは文字通り動物化。もうひとつ別のレイヤーとして、ヒロインのバックグランドさざめき笑いとバックグランド喘ぎ声があり、主である台詞や地の文との差異ゆえに、こちらには若干の内面の気配を感じることができるかもしれない。声は文字とは違い、単純に直接的に、聴覚的な快感に訴えかけるからなのかも(えりなの声がわりと好き。というか同じ声優さんだったのが驚き。お世話になりました)。
台詞及び地の文の仕組みをもう少し見てみると、HAINさんの文体的な傾向の中で作品を追うごとに強まりつつあるような気がする、実況文と擬態語の多用が特に目立つ。ロリヒロインが攻めるMゲーだからということもあるのだろう(そして苦手な文体なのに慣らされる自分)。この多用によりヒロインの台詞は口語からは程遠いものになっていて、語彙的にもロリヒロイン、というかそもそも女の子が口にするにはあまりに不自然なものになっている。これは女の子に下品な台詞を言わせて解放感と羞恥心からプレイヤーも快感を得るというような通常の回路というよりは、ヒロインの台詞がヒロイン以外の「語り手」(この作品にはいないはずだが)に侵食されていると見たほうが適切な気がする。また、2人のヒロインが外見的には左右を反転して色違いにしただけのそっくりさんであるということも、ヒロインの「人間らしさ」を損なっている。
HAIN氏は一貫して「物語」を描くことに抗ってきた。物語とは時間の経過であり、時間の積み重ねであり、歴史の領域である。安易な分類だけど、その意味では、円城塔と同じく理系の作家なのかもしれない。
人間というのはそんなふうに積み重ねなくても、解体された要素の端々に立ち上がるものだということなのかもしれない。有機的な統一体ではなく、寄せ集めの集合体。解体されることに快楽を見出す姿勢がマゾヒズムへと向かうのは、自然な流れなのであろう…。というようなことを予約特典の女児ぱんつを眺めながら思いました。かぶってみたけどサイズが小さいし、股布の幅が広いので視界が隠れてしまい、やはりかぶるためのものではないということを理解でき勉強になった。