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オネミリエ このページをアンテナに追加

2018-06-25

[]幻月パンドオラ (60) 幻月のパンドオラ (60)を含むブックマーク

 こころリスタとこころナビは大変楽しませてもらったが、こちらはいまいちだったかな。この2作にとっての電脳世界に比べると、本作でのゲーム世界はあまり魅力的に感じなかった。個人的にそれほど豊かなゲーム体験を持っているわけではなく、アクションゲームは好きではないので仕方ないか。エロゲー以外で思い入れのあるゲームといえばドラクエ3ファイファン3くらいだが、RPGは本作にはあまり関係なかった。どんなことでも楽しめる精神ウニ先輩は説くが、そこまではちょっとついていけなかったっす。そういうことも含めて、ウニ先輩のまっすぐな若さはよかったけど、口癖とCVがいまいちだった。真切役の成瀬未亜さんはさすがで、安心して聞いていられた。魅力的な女の子として描かれていたし、絵も大変きれいでした。特にベランダに座っている一枚はいいですね。

 最後に途中まで撮っていたスクリーンショットでも貼っておくか。а, б, в.

 次は姫さま凛々しく。他のもやりつつのんびり進めていきます。

2018-04-18

[]森薫乙嫁語り』10巻 森薫『乙嫁語り』10巻を含むブックマーク

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

 どのヒロインもそれぞれ魅力的だが、一番引き込まれるのはやはり3巻のタラスの話だ。神がかった構図や視線の動きのコマがいくつかあって、思わず息を止めるようにして見入ってしまう。タラスというヒロインの性格を絵によってここまで表現できるのだなと感心する。

 それと比べると、この間で登場するタラスのエピソードは絵の技術的な観点からすると3巻の強度には及ばず、彼女の幸せを描くためのファンディスク的な位置づけに見えてしまうところもあるが、作品のよしあしは絵が芸術として優れているかどうかだけで決まるわけではないので、タラスというヒロインにやられてしまった読者にとっては多少のご都合主義的な軽さでさえも彼女のためにむしろ喜んでしかるべきだ。ともあれ今回はタラスを描いたコマの数が圧倒的に足りていないので、次巻ではこうした強引な正当化をしなくても存分に作品を味わうことができると期待したい。

 それにしても、作者もどこかのあとがきで書いていたと思うが、タラスとかアミルといった名前は男性名っぽく響くのだがどうなんだろう。

 ちなみに、10巻ではカルルクと動物とのふれあいを通じて、アミルが人間の範疇を超えたヒロインであることが明瞭になってきた。そのように説明されていたわけではないが、絵として読み解けるようになっていて、そこがこの作家さんの力だ。アミルの水際立った目力やたたずまいは、人間というよりはイヌワシのような半野生動物に近いものを思わせ、その意味で嫁として迎えられたアミルは、鶴の恩返しや羽衣伝説の天女のように、半ば神話的な嫁である。この先の物語がそのまま神話的展開になるとは思えないが、絵からそのような気配が常に伝わってくるのが面白い

 このシリーズを読み始めたのは、どうやらちょうど2年前だったようだ(http://d.hatena.ne.jp/daktil/20160404)。そう考えると大した時間がたったわけではなく、何の偶然か今度本作の舞台のあたりを旅行することになってしまったのは不思議に思える。当時はトゥルケスタンは、ブハラとホラズムの田舎豪族が小さな競り合いをしながら緩やかに衰退していく時代であり、1900年代になると中央アジアアールヌーヴォーともいうべき繊細な近代イスラム美術が花開きかけて死産されるらしいのだが、アミルの実家が属するモンゴルトルコ系の遊牧部族のあまり痕跡も残っていないらしいので、本作の空想が面白く感じる。どうしても観光となると宗教建築めぐりショッピングが中心になってしまう。幸い、中央アジアのこれらの地域工芸メッカでもあり、絨毯、刺繍陶器はさみなど見ていて飽きないものが豊富にあり、観光客向けに整備されてもいる。今回は有名な人間国宝級の陶磁器師の工房にも行ってみるつもりだが、貧乏外国人旅行客であっても、事前にロシア語で見学を申し込んだら丁寧に返事をくれて恐縮してしまった。よき巡り合いがありますように。

2018-04-15

[]息抜き 息抜きを含むブックマーク

 久々にだらだらブログを書いて声を整える余裕ができた。といっても何か書くべき新しいことがあるわけじゃない。思いついたままを適当に。生活人生には建設的な方向に持っていこうとする力がことあるごとにしつこく顔を出し、復讐してくるので少し気晴らししたいだけのことだ。すっかりブログを書かなくなってしまった。最近に限ってのことではなく、5年くらい前から仕事で書く文章の量がどんどん増えていって、今では2ヶ月に一冊新書が出そうなくらいのペースになっていて、書くことに追い立てられながら新しい仕事もやることになったりして、仕事以外のインプットが少なくなった。少し空いた時間があっても、なかなか気楽にエロゲーアニメに沈潜していけない。最近はもっぱら今度の旅行先の中央アジア歴史とか、ロシア旅行ブログとかを読むこととか、旅のしおりを手作りする手伝いとかに費やされていた。イスラム建築ゾロアスター教やナントカ・ハン国の栄枯盛衰歴史など僕の人生にはこれまでもこれからも何の関係もなく、そこまで準備することは求められていないけど、いざ旅行するとなればできるだけそこで意味を回収したくなる貧乏性だ。仕事の出張とは関係のない純粋な海外旅行は20年ぶりくらいだし、この先も何回もする気にはならないと思う(連れて行かれるかもしれないが)。

 エロゲーには自由安心がある。すべてが画面の中に限られているという制約がある一方で、画面の中からは常に明るい欲望に満ちた現在がこちらにつながってくる。新作を追いかける余裕すらないが、積んでいるゲームを時折起動して読んだりすると、自分が今どんな時間の中を生きているのか忘れられるような、人生の別の時代に飛ばされるような気がする。先日、だいぶ前にやりかけて止まっていた『私は女優になりたいの』(Chloro、2012年)をクリアした。ゲームの長さやテンポも、青臭いSF設定も、親切に説明しないテキストも、殴り書きのような荒々しい勢いと楽しさが詰まっていて良かった。今は『幻月パンドオラ』(Q-X2009年)を少しずつ進めたりしている。古いゲームだけど、今の自分にはあまり新しさは関係ないし、古いゲームのほうが気軽に中断したり的外れな感慨を抱いたりしやすいのでよいかもしれない。エロゲーはあまりに完成されすぎているので、エロゲー自分生活人生を適合させることができなかったことが惜しくなる。エロゲーを選ぶことで捨てなければならなかったものの価値はいまだに確定されていないが、逆の場合に切り捨てられるエロゲー価値否定できないくらいにエロゲーにはいろいろなものをもらった。両立の道は思っていた以上に難しいと実感している(特にきちんと考えてたわけではないけど)。

 渇き。カクヨムで『イリヤの空、UFOの夏』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795)の掲載が始まった。横書きの見苦しいレイアウトで読むのは冒涜的な作品であり、そんな形で読むことで自分の大切な読書体験を壊していくのは間違っている気もするが、それでも読んでしまう。画面からはやはり現在が飛び込んでくる。いずれにせよ、電子データとしてこの作品が公開されるのは喜ばしいことだ。いつか暇になったら自分の好きなレイアウト編集しなおして、製本することすらも可能になるではないか。

 人生はやりかけの連続で、そんな無責任復讐されることの連続だ。そこから逃げるために、何かを生み出し、残したいと思うのだろう。文字通り子供だったり、何かの文章作品だったり。仕事お金をもらいながら、義務として何かを生み出していくことのようなねじれのない、若くて自由無責任創造を夢見る。人を本当に愛したり、大切にしたりするには欠陥のある性格だと思う。自分が本当に満足できるのは、自分クローンだけだろうというくらいに、ことあるごとに他人とぶつかったりすれ違ったりして、生活の精度が下がっていく。もはや単なる愚痴だが、2人で暮らすようになると助け合うので効率がよくなるのかと思っていたが、2人のすれ違う部分が多いので、それにいちいち足を取られて金銭的にも時間的にも効率は大幅に悪化する。お互い様だが、できることがずいぶんと少なくなった。一人暮らしエロゲーマーや本読みの生活の完成度は高かった。それと引き換えにできるようになったのは、生きた人間との感情の交換だが、そこには一義的価値はなく、いろんなことが未確定だ。自由解釈できる可変的なシナリオだからまだいい。とはいえ、少しずつ未確定を消費しながら、先送りの未来を、逃げ道を作り出していくのが人生なのだとバフチンもいっているのかもしれないが、そんな風に戦略的に考えないで、ただただまぶしくて楽しいものに翻弄されていきたいという欲望もある。子供であり続けたい。現在の中にとどまり続けたい。またエロゲーにどこかに連れ出して欲しい。ことごとく受け身の願望だ。まずはゲーム読書家族時間をつくるところからかな。考えてみれば、嫁は身体が弱くて僕以上に生活能力が低いので、一緒にいて楽しいけど生活を楽にしてくれないという意味エロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない。エロゲー主人公ヒロイン生活価値観をあわせようと努力し、小さな喜びを育てていくのを眺めるのは(やがて主人公ヒロインは静かな個人生活の沼の中に小さな幸せに包まれて沈んでいくが、そのことは描かれない)、聖者伝の偉業を読むのと変わらないのだろうか。実現されたメタファーの例でいうと、エロゲーヒロインがおいしい食べ物に感激したりテレビ好きだったりポンコツだったりするのは安全圏の記号的な振る舞いだが、現実の嫁が本を読むのが苦手で食べ物や買い物の話ばかりするのは、控えめにいって精神の鍛錬だ。そしてそれはお互い様だ。エロゲー主人公の変容は、どれだけ頭で分かってもなかなか実践にまで至らない神秘であり、秘蹟なのかもしれない。そうした聖者伝をたくさん読んだおかげで、僕も立ち向かっていけるのかもしれない…。

Sek8483Sek8483 2018/05/04 01:39  お久しぶりです。Sek8483です。
 vostokさんのことを勝手ながら先輩エロゲーマーみたいに思い、学ばせていただいておりましたゆえ、こうして書かれている文章へと、生活の立体感ある陰影が少しずつ付いてくると、寂しいような納得するような不思議な気分にて、読ませていただいております。
 ところがしかし、そこから『イリヤの空』みたいなどん詰まり感ただよう小説へと話題が飛んで、なんだかんだいってそれに目を落としてしまわれるあたり、やはり素晴らしく業が深いですよね……! また、『ノラとと』関連のお話などは特にわたし好みで、面白く読んでおります。詩や音韻について語っていながら「むしろ便秘としての母親でしょうかね。」とか出し抜けにこぼされるものだから、クスリと笑ってしまいます。エロスケなどで感想を読んでいるさい、わたしに "笑いの発作" を引き起こす文章をもっともよく書いてくださるお一方というのがvostokさんです (もうお一方あげるとすれば、vicinityofobscenityさん)。ボソッと一言「世界ヤバイ」とおっしゃるだけで笑わされてしまったりと、vostokさんの文章ならではの風貌というのは、もういっそ卑怯なほどでして。最初の頃にはやはり恐縮しいしい拝読していたきらいもあったのですけど、その文章にいくらか親しんだ近ごろでは、意外なほどに茶目っ気を含んでいらっしゃるなぁという印象がむしろ強かったりします。

 それにしても、奥さまのことを「エロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない」というのは、あんまりにもあんまりな字面なので笑ってしまいました。そして、迂遠ながら惚気のたぐいなのだろうかと、共感めいた気持ちになったりもします。
 はしたなく身の上話をしますと、最近、仲よくなってる子がおりまして。仕事上がりに連れ立っては、そこらのビルのてっぺんから夜景を見下ろしつつ、食べたもののこととか、前職での話だとか、家族の病のことだとか、よく飽きもせずしゃべってたりするのですけど。そうしたときに、彼女がふと「コンテナ眺めてるのとかも好きなんですよ」と言い出したところで、わたしの脳裏に反射的に浮かんじゃったのが、鈴木さんちの佳奈すけ。『大図書館の羊飼い』です。エロゲです。初対面あたりのシーンで「ジャンクション写真集とか好きなんです」みたいなことを言ってきて、うわぁコイツあざといなぁと感じ入りキュンと来た記憶がわきおこってきちゃいまして。わたしのエロゲ脳がたいへん手遅れでした。
 今ここに居てくれる人の顔を見やりながら、うつつを抜かしてエロゲヒロインの極彩色イメージを重ねてしまったわけでして、なんとも救いがたい話なのです。こんなふうにうつつを抜かしていたら、そのうち足をすくわれることだろうと思います。思うのですけれども、そうした自分の人生のシーンに感じ入ったときを、これなんてエロゲとばかりに関連づけて、スクリーンショットをとるように記憶していくのが面白くもあります。エロゲが現実から自由になりきれぬように、わたしの現実もまたエロゲから自由になりきれていなくて、十年余りのエロゲーマー生活のうちに脳みそについた戦傷というのがなかなか根深い。
 わたしなども、人を本当に愛したり、大切にしたりすることは (あるいはされることも) むずかしいだろうなと痛感している、この頃なのですけれど。せめて、「でもこの人は "自分の"人生を愛しているんです」と誰かへ声をかけたり (あるいはかけてもらったり) だけでも出来るようになれればという、漠然とした希望もいまだ手放せずにおり厄介なものです。

 さて。
 ひょっとしたら、ちょうど中央アジアへとご旅行されている頃合いなのでしょうか。傍目からは、ぶつくさしつつも準備がとても楽しそうに見えてしまいお羨ましいです。わたしなどもプライベートな旅行をしなくなり久しくて。かねて以前より、たとえばキジー島あたりには行ってみたいなとか、漠然とした憧れをもっていたりしたのですけれど。最近では、そうした願望も、願望のままにしてしまいそうな予感がしています。なにとぞvostokさんの今回の旅には、よき巡り合いがありますように。

 返信などは、どうぞ急がれず、まったく無くとも結構です。
 ではでは。

daktildaktil 2018/05/12 20:36 ご無沙汰しております。もったいないコメントをいただき恐縮です。
Sekさんのいい話、嬉しく思います。文章の端々からうかがわれる細やかな気遣いや知的な魅力は、きっと彼女さんにもよく伝わっているのではないかと思います。僕が女だったら惚れている!(気持ち悪くてすみません) 佳奈すけの影を見せられるのは大変でしょうが楽しそうですね。
エロゲーヒロインと現実のパートナーを重ね合わせるのはルール違反であり、おそらく悪趣味なことかと思いますが、それでもごく私的なブログならいいかなということでやっちゃいました。エントリのタイトルどおり、気を抜いて勢いで書いたところ、嫁に見つかって大変なことになった。Sekさんは迂遠な惚気と好意的に解釈してくださいましたし、僕もそういうニュアンスの余地を作っていたつもりでしたが(私的なブログということでご容赦ください)、変な甘えが通じないケースもあるようで、旅の1日目に世界遺産になっている青いタイルの搭の下で「一人で見るからついてこないで」と泣かれてしまい大変でした。今となればいい思い出ですし、嫁は本気でまた行きたいと考えているようなので旅行としては成功でしたが、このエントリのことはまだ完全には許してもらっていません(笑)。しかしSekさんもおっしゃるとおり、僕たちの現実をエロゲーから完全に切り離すこと、なかったことにすることというのは建設的な方向ではないと思います。知らない人に説明しても理解してもらうのは難しいでしょうけど、やはりエロゲーをたしなんだ人間だからこその強さや優しさもあると、少なくともこうしたブログのような場所でくらいは愚痴っておきたいです。こんな風に書くと窮屈ですね。愛煙家にとっての喫煙所みたいだ。

「エロゲヒロインの極彩色イメージ」というのはうまい言い方ですね。日常という違うモード、違う現実の中におかれると、単純な視覚現象のようなものまで後退して格下げされてしまう儚いけれどきついイメージという感じでしょうか。
今回、シルクロードの中心地としてかつては世界最先端の天文学や文学や工芸を生み出していた中央アジアの乾燥地帯を観光するにあたって、僕はどこかでねこねこソフトの「朱」の影を探していました。朱の舞台は中央アジアというよりは北アフリカのような気がしますが、いずれにしても現実の中にエロゲーの世界を探すことは、直接的な類似を探そうとすればするほど意味がないということを早々に確認しました。ひょっとすると、朱を再プレイしても同じような気持ちを味わうのかもしれません。僕はきっと聖地巡礼をしてもつまらないことをいってしまいそうです(ちなみに、実際に中央アジア最大のイスラム神秘主義の聖地にいって文字通り聖地巡礼をしている人々もみましたが、チベット仏教の五体投地のような過酷な法悦の境地とは程遠い雰囲気で、晴れ上がった青空の下で白く輝くモスクの建物や庭の脇で、頭巾をかぶったおばあちゃんたちが花を植えている中、たくさんの老若男女が和やかにおしゃべりをしながら散歩してしている庭園のようなところで、アジア人を珍しがる現地JCたちに一緒の記念写真をせがまれたりなどしました。比較的貧しいイスラム圏の国だからかわかりませんが、いたるところで素朴に話しかけられたり記念写真を頼まれたりしました)。
個人的には、今回の旅行でオタクとしてのひとつ印象に残ったのは、古い建物の中庭で行われた民族舞踊ショーの踊り子でした。中央アジアらしく胸や腰や腕の曲線を艶やかに際立たせる動きの踊りで、僕を含めた観光客たちが夕食を食べながら眺めているという不条理な催しなのですが、ところどころで「アッ!」という元気な合いの手の声を出す小さな踊り子がいて、意図せずネルリを見つけたような気がして嬉しくなりました。騎馬民族系のネルリとはぜんぜん違いますが、類似点が少なくとも楽しい発見もあるのだなと思いました。

というわけで相変わらずオタク生活への未練が尽きませんが、何とか生きております。Sekさんの文章も楽しみにしております。ではまた。

daktildaktil 2018/05/14 15:28 「朱」については、ちょうどSekさんが「砂の城」について投稿されたのをみてなるけどと思いました(/ero/toukei_kaiseki/music.php?music=2657)。印象的な楽曲が多いというだけでなく、音楽的手法が音楽の外にまで広がっているように見えるからこそ、作品外の現実に朱の影を探すのが難しいのかもしれない。朱に限ったことではないでしょうが。そして、音楽のように耳(?)に残るからこそ現実の中に痕跡を探したくなるのかなと。僕は英語とか洋楽がだめなので、「砂の城」はあの焦燥感とその先にもう終わりが見えてもおかしくないような眩しさにくらくらするばかりで、大概ナイーブに浸りきって聴いています。本当なら英語の歌であることに違和感を覚えるべきでもあるかもしれませんが、なまじ音楽を知らない方が勝手な抒情性や音楽性を読み込めるかなと開き直り気味です。勝手だから固有性の強度がありますが、外部の情報で砂の城のように簡単に崩されちゃうわけですが。ちなみに旅先の民族音楽は、当然ですがまったく別の現実の中にありました。

2017-12-31

[]ノラと皇女と野良猫ハート2 (75) ノラと皇女と野良猫ハート2 (75)を含むブックマーク

 前作の感想は何だかやや中途半端なままになってしまい、その後、マルセルさん、残響さん、こーしんりょーさんとの討議(残念ながら中断)でも個人的に準備が不十分だったのだが、続編である本作は期待したとおりの佳品だった(特に言葉と詩的イメージが元気なアイリスルート)。2017年にクリアしたのはわずか3作(+ロシア製1作)。2018年積みゲーを崩すだけで、1本も買うことすらなく終わる可能性もあるが、噛み締めてプレイしていきたい。とりあえずは聴き飽きなそうなOP曲とピアノアレンジ曲集にも感謝


アイリス

 本が好き勉強が好き、絵本を声に出して読み聞かせたときに立ち上がってくる場が好きなエクリチュールパトリシア。彼女が目指すものと同じものに、別の入り口から近づいていくのがパロールアイリスというとりあえずの対置


−−ねぇってば、ねぇおぼえてる? おぼ? ねぇおぼ?


 音声としての記憶は、固定するための媒体を持たず(再生装置エクリチュールのような多様性を持たないまがい物として、過去の亡霊として示される)、雪に吸い込まれて消える。消えるたびに新しくやり直し、「よろしくお願いしまーーーーす!」 声と印象とぬくもりが全ての生き方であり、CV花園めいさん(アニメの方で多少なじみあり)の元気な声がよく合っていた。雪とぬくもりの特別な関係については前にも「雪影」の感想とかで書いたけど、この笑顔と声と格好のアイリスではコントラストが一層強まって印象に残る。金髪娘的な露出スタイルが好みに合わず何とかしてくれと思う一方で、肌寒さと元気さの奇妙なバランスが取れている。それは単に気温的なものだけではなくて、時としてアイリスの心が感じる寒さを視覚的に表してしまっているように思える。記録ではなく記憶という不安定なものに存在規定されていることは、生きた感覚的なものを優先する存在だという一面もあって、生き生きとした幽霊という両義性を見せてくれる。即物性と抽象性を行ったり来たりする。正確には、アイリスの性格からして生き生きの方が中心で、幽霊はその周りを漂う気配のようなものに過ぎないけれど。


−−もし涙がヒトの鳴き声なら……それは目に見える音なのだから……/あなたはそれが瞳からこぼれても、決して大地にこぼれないよう、すくってよ


 文字(形)を持たなかったために歴史を残さなかった文明というのがあって、それは存在しない歴史ロマンをかきたてる。歴史が語り継がれたものを意味する言葉であるなら、語り継ごうという欲望をかきたてるものは歴史未満のもの、弱者のものであると同時に、歴史化されたものから切り捨てられた欲望であり、何か本質的なものを含んでいるように思える。毎年訪れる雪にかき消される痕跡。消えるぬくもり。冥界のあり方としてはアンクライ家の方が本質的であり、エンド家はアンクライ家に対して派生的/反省的に存在するもののように思える。その関係はそのままパトリシアアイリスの力関係に反映されているようでいて(「バカはきらい!」)、その点からするとむしろ恋愛物語ヒロインとしてはどうしようもなくアイリスが魅力的に見えてしまう。隙のなくきまった立ち絵のポーズはあまりに隙だらけで、弱くて、惹きつけられる。


−−アンクライの涙は、忘却のしるし。あなたの涙は呪いすらも忘却させる


 雪の白さと青さ、アイリスの金色の髪と白い肌と青い目は、エロゲーでこそ美しく表現できるように思えた。


ノエル

エッチシーンの絵がよい(表情とか姿勢とか)。

・元々声がかわいい系らしいので崩れたときがきれい

・見せ場に恵まれていないな。

ノエルエピソードも含め、ヒロインによっては箸休め程度のボリュームしかないことは残念がっても仕方ない。前作メインヒロインについては、それだけ前作の完成度が高かったのだと思いたい。


ノブチナ

 母親の不在あるいは欠損のモチーフが繰り返し登場する本シリーズにおいて、父親という本来エロゲーではタブー存在が描かれたわけだけど(同じく父親が服役していたクラナドでも父は欠損した父親だった…)、その父親は半分母親としての父親であることが判明し、ノブチナに「親の指図に苛立つことはあるだろう。しかし、親の気持ちは察して行動すべきだ。子は親の信用というものを察して、行動すべきなんだ」とぶつけて巻き取ろうとする。黒木ルートデフォルメされた親子関係よりも踏み込んだ親子関係の再演だ。信春がダメ人間として描かれていることはストレスを与えないための表面的な見せ方の問題であり、やっぱり本シリーズはこのテーマの変奏なのだった。ノブチナの場合は、「あ゛ーーーーーーー!! あ゛ーーーーーーー!」と暗い夜空に向かって叫び、夜空は空虚であり、だからこそ自由に呼吸できる空間があることを確認するような強い女の子であることを自らに背負わせていることが示される。

 息の詰まる(気を抜けない)空間である家の問題対置される、夢のひと時としての文化祭演劇。ネルリでも印象的だった構図だ。もともとノブチカたちとの日常はそういう時間だったのだろうけど。

 こちらを振り返るようにして話すノブチナの立ち絵が印象的。大事なことを話す時の絵だ。おちゃらけキャラであることをやめて素の表情を隠していないが、そのときも身体はどこか別の方向、外の世界に向き合っている。向き合っていることをプレイヤーに示している構図。色の強い赤髪であることがとても正しく思われる構図だ。ノブチナとアイリスは、立ち絵とセリフが補完しあっているように思えた瞬間が多かった。

 叱ってくれる親との邂逅というモチーフは、それだけ見ると陳腐かもしれない。まあでも、近年真面目に叱られ、心配され、助けられ、それでいてろくに孝行らしいことも面倒でしていない自分としては、ちょっと引き込まれてしまうのであった。本シリーズでノラはうっとおしいくらいに繰り返し母親への負債を語るわけだけど、それは一定の年齢に達したプレイヤーにとっては何がしかの問いかけにならざるを得ない原罪のようなものであって、もはや作品の巧拙とは関係ないとさえ言えるのかもしれない。お気楽な恋愛コメディ作品根本にそれを据えたことの是非は、プレイヤー個人問題として処理するしかない。あと個人的に、他の家のことを他の文化として尊重する姿勢(漫才部の取材に対して井田とか田中ちゃんが不快感を示すとことか)に面倒だなと思った。ノブチナは面倒だと跳ね返せるけど、そんなに強くあることができない局面もあることを思い出して(自分が身につけた思考や文化がまったく通じない人々と親戚付き合いをしなければならなくなったとき、どちらをどう否定して顔を潰さず妥協させるかみたいな面倒な話)、ノブチナはいいなと思うのだった。

 まあ、それにしても。「付き合ってみるか。私たち」。えっ、これからノブチナと恋人になるの?という展開ではあった。こういう論理的必然性のない恋愛展開は、なんらおかしくはない。むしろ、感情の論理ではなく、人生バイオリズムのような論理としてはしご自然な展開といえるのかもしれない。「私が気持ちを伝えたのはな。お前が逃げなかったからだ。お前は一度も、私か逃げたことがない」。これで納得させられてしまうような真剣な女の子なんだな。というか、いまさらながらノブチカは女の子であるという文脈が持ち込まれてしまうんだな。持ち込まれたら仕方ない。ノブチカを見ていてもエロい気分になることはないけど、彼女の生き様は近くで見届けなくちゃいけないから……。だから、ノブチカが急にしおらしくなったりせず、肩車されて上機嫌になるような友達感覚の付き合いが続くことにほっとするのだった。「あなたはきっと、勇気の生まれ変わり。勇気は皆の足元を照らすし、あなたは前を見て進まなきゃ。そうでなくては、私はなぜあなたにノラを渡したのか分からなくなってしまう。不思議ね。私、あなたとそこまで遊んだことないのに。ずっと一緒だった気がする」。アイリスルートと並び、本作でもっとも熱量の高いシナリオ恋愛以上のことが物語られており、その意味で前作を正しく継承している。おっぱいは強調された飾りだからな。飾りがないとノブチナだからな。

 トラックのみにゲームは古いノートPCでやったこともあり、1時間くらいかかった。


ルーシ

 物語としては割と薄くて、悪役も薄くて茶番だったりするけど、彼女の抱える問題母親との問題が、何度も不器用に繰り返されることでそれなりの実感を持たせていた。「光などとは名ばかりで、立てる舞台もなく、堕ちた伝説しか与えられず、そうやって誰も彼もが!!あの子ばかりを選ぶんだ!!」「知らねぇよ!!そんなものよりも、俺と地上で!」 この「知らねぇよ」をはったりではなく、正面から言えるノラがうらやましい。「きっとあなたが来なくなったら、話しかけることをやめたら、わかっちゃうと思うんです。来てくれてたときのほうがよかったって。そういうものだと思うんです。そしてそれは、わからせちゃいけないと思うんです。あなたが生きている間は」。この手の刺してくるセリフは本作では家族関連のやりとりで多くて、イチャイチャするための恋愛物語にとっては必須ではないのかもしれないけど、ヒロインへの感情移入にとっては重要な役割を担っている。

 しかし、やはり姉さんのあのサクラメントの衣装にすべて持っていかれた。ウエディングドレススカート部分を履き忘れた花嫁みたいな露出度の高い衣装だけど、決して痴女ではなく、姉さんの本質はあの乙女チックな花をあしらったヴェールの方であることは明白。そもそものヘアバンドからして女の子らしい。下がパンツ丸出しになっているのは、少し喜びが大きすぎて開放的な気持ちになってしまったからにすぎない。多分姉さんはパンツ丸出しであることに気づいてもいない。そういう素敵な女の子なのだ。




−−ねぇ、これからたくさんお話しましょう!未来のこととか、今までのこととか、語り継ぐくらいたくさん、だってあなたは私を忘れないもの!


 印象的なシーンの一つに、共通ルートの最後のほうで、アイリスパトリシアがお互いに一つだけ質問したはずが、なぜか海と空の色彩と、波の音の採譜と絵本読み聞かせをめぐる問答になる流れがある。それはいずれも、「いのち」への驚きと「いのち」を見てみたいという願いのことなのだけど、そういう眩しさがつまった作品だ。

2017-11-19

[]石川博品先生とそのお布団』 石川博品『先生とそのお布団』を含むブックマーク

先生とそのお布団 (ガガガ文庫)

先生とそのお布団 (ガガガ文庫)

 どこまでが事実でどこからが創作なのか厳密に考えてもしかたないので自分にとって自然で都合のよい読み方をするしかないのだが、飄々としているように石川先生がこれほど苦労しているのをみるのは正直なところ素直に喜べない。僕が好きなラノベ作家は寡筆であるか廃業気味である人が多く(秋山瑞人中村九郎唐辺葉介田中ロミオ)、石川先生も順調そうではないけど、それでも書くことに対しては純粋な気持ちを持ち続けていて、スランプなどとは無縁であるように思っていたいからだ。同人誌も含めれば佳作というわけではないし、売れっ子作家のように3ヶ月に1冊くらいのペースで刊行されて枯渇されても困るので、今のようなペースであっても創作に集中できるような環境があってほしい。そのためには何が必要なのかはわからない(ちなみに、石川先生ラノベなら商業なら1冊1000円、同人なら1冊2500円くらいにしてもらってもかまわないけど、代わりに複数冊買うのは何だか気が進まない)。

 「先生」が四人制姉妹百合物帳を高く評価しているくだりがあって、これは異論ないと思った。平家さんもいい作品なので、読者にとっては同人商業の差はない。どちらでもいいので後宮楽園球場の続きを待ちたい。

 あと、石川先生は「趣味(テイスト)の作家」、好きなものを外から集めてきて文章にする作家であって、内側に抱える大きくて重いテーマを何度も掘り下げていくような「宿命作家」ではないと意識するくだりがあったけど、この二分法にはこだわらないでほしいなと思った。最近人から勧められて村山由佳『星々の船』、三浦しをん『光』といった直木賞作家小説を読んだけど、勧めてくれた人との関係を除いて小説そのものとしてみれば、こうした広く大衆に向けて書かれた(?)現代人の心(?)を扱った作品は、何だか人間の暗くて嫌らしくて疲れた部分を集めてあらかじめハードルを下げた上で感動を描いているようで(おそらく昔ソログープの『小悪魔』もそういう批判を受けた)、僕の好きなライトノベルエロゲーに比べて時代遅れで低級な文学であるように思われた。こんなふうな見方社会主義リアリズム批評だと言われるのかもしれないけど。あと、唐辺作品のような暗い作風も好きだし、それは直木賞作家に近いのかもしれないな。いずれにせよ、ラノベは「男子中学生」向けに書かれているなんていう認識無能ラノベ出版社のたわごとだと思いたいし、ラノベが描ける「若さ」の質は一般文芸よりも先鋭で特権的なものだと思いたい。石川先生文章の美しさや抒情性は趣味的なものなのか、悲劇に根ざさない美というのは存在しないのか、ということに関しては、先の四人制姉妹百合物帳が答えの一つだと思うし、そもそもそんな問いを無意味にするような小説をこれからも書いていってほしいと思う。

2017-10-15

[]大迷宮&大迷惑 (65) 大迷宮&大迷惑 (65)を含むブックマーク

 そこにはいつも本があった。

 自分物心ついてから本の世界に引かれていったのには、ファンタジーの導き手があった。最初は母親に読んでもらったナルニア国物語とかエルマーの冒険とかだったかな。それから自分でもはてしない物語とか読んでみた。小学校2年生くらいの頃にドラクエ2が出て、ファミコンを持っている友人の家に見に行っていた。小学校3年生くらいの頃にドラクエ3が出て、まもなく自分ファミコンを買ってもらって、クリスマスプレゼントでサンタさんに3をもらった。ドラクエ3のプレイは、僕たち兄弟にとっては神聖な儀式となり、赤色の公式ガイドブック枕頭の書だった。ドラクエ4の頃にはそれほどの熱はなくなっていて、主に弟がプレイしていたが、僕は2や3のゲームブック小説を読んで、ゲームの外や隙間に広がる冒険の世界に驚いていた気がする。ファイファンも3ははまったけど、アダルトな感じにどこか距離を感じていた。

 中学生になって、何かの偶然で、町の本屋さんの片隅に置かれていたロードス島戦記を手に取った。自分ファミコンの中に求めていた世界が、こんなにもどんぴしゃで濃密に広がっていてびっくりした。深淵が広がっていた。初めてエロゲーに手を出したときと同じで、こんなにも欲望の解放されたものがあってよいのかと罪悪感すら感じた。ロードス島は後に文体問題があることに気づいたけど、クリスタニアやソードワールドシリーズも含めてけっこう読んだ。同時にフォーチュンクエストにもはまった。TRPGD&Dをはじめとする海外ファンタジーという更なる深淵があることも知ったが、中学高校当時は富士見ファンタジア文庫のコーナーにこそこそといくのがやっとで、さすがにそこまで踏み込む勇気はなかった。雑誌を買ったり、罪深いファンタジー小説について人が話しているのを聞く機会などなかった。世の中にこうした小説を買う人が存在していることが信じられないまま、自分エロ本を買うようにこっそり買い続けていた。こわもてのトールキン小説ですらいかがわしかったし、ハリーポッター(未読)がブームになったのには戸惑いを覚えた。


 とまあそんなわけで、辿り着くべくして辿り着いた大迷宮、ジ・アビスだった。やり始める前は特に意識していなかったけど、さすがは希氏の作品ということで、作品名からしてD&Dだし、最近のいわゆる異世界生物などとは一線を画した、古典的なハイファンタジーTRPG(僕はレベルの低い冒険者なので想像でしか知らないけど)の楽しさを詰め込んだゲームになっていた。魔的詩人なんて聞いたことなかったけど、昔本屋に大量の翻訳ファンタジー小説があって、その広がりに溜息をついたことを思い出した。星継駅シリーズもそうだけど、こういう懐かしいファンタジーSFって、多分歴史的にはそんなに古くないのだろうけど(せいぜい戦後か)、僕にとってはその源泉が分からなくて、とても不思議存在に思える。

 しかし、そういう個人的な感慨を除くと、今の僕から見るとこの作品はいろいろと問題が多くて、手放しで喜べるようなものではなかった。何よりもまず、どうにも若々しさがなくて、くたびれた感じが拭いきれていないように感じた。以前にレイルソフトデビュー作である霞外籠逗留記をやったときの感想にも書いたけど、あれをもっとひどくしたような感じだった。ファンタジーなのに何だか落語でも聞いているような台詞回しが多くて参った。

 その厳しさは音声で増幅されていたように思う。ハクメイ丸と黒塚の声はそれ自体としてはよいのだけど、やはりセリフが厳しくて、落語的なボケとツッコミやオチの流れが多くて参った。声そのものも厳しいニコライトは、正直なところ苦痛だった。あのだみ声で姉さん女房ヒロインをやられると破壊力がありすぎる。エッチシーンでは残念ながら音声をオフにした(キャラの顔のデザインはすっきりしているので、音声を切るとだいぶ違った印象になる)。救いはアーテだけだった。

 また、この作品で攻略対象になっているのはダンジョンであり、ヒロインではないのも参った。ヒロインは既に攻略済みであり、エッチシーンはちょっとくたびれた夫婦の営みを見せつけられているようで盛り上がりに欠けた。

 ビジュアル演出も厳しかった。冒険者の話なのでアクションシーンが多いのだが、戦闘にしてもドタバタにしても、数少ない絵を手で動かしているような貧弱な演出で盛り上がらず、文章に負けすぎていた。Fateシリーズというかなりがんばっている例もあるけど、基本的エロゲーのビジュアルシステムはアクション向きではなく、恋愛物語向きなのだということを再確認。それをいったらTRGPなどはもっと絵がないのだが、あれは能動的にプレイするものだから違うんだろうなあ。

 あと、希氏以外の人が書いたと思われるパート、特に最後のシナリオダイジェスト感がひどかった。せっかくの締めなのに残念な二次創作のようになってしまっていた。

 基本的文句ばかりの感想になってしまったが、どのシナリオも終わり方は爽やかで、冒険者という実在しない(らしい)人々の生き方が眩しくみえ物語だった。僕がファンタジーを見つけてしまった頃とは世の中の成り立ちも僕自身世界観も大きく変わってしまったようだけど、こういうファンタジー世界はまだどこかに息づいているのだと思いたい。

2017-08-20

[]甘夏アドゥレセンス (40) 甘夏アドゥレセンス (40)を含むブックマーク

 テキストが壊滅的なので楽しめる人はかなり限定されるけど、自分はかろうじて対象になったかな……。ナツというヒロインが、ロックが嫌いだといわれて「もうっ、ロックが嫌いってなんなのぉ!! それって同じ人間なのっ?!」と癇癪を起こしたり、ロシアで道行く人にボルシチピロシキとかいいながらハイテンションで話しかけようとするんだけど、そういう残念さに満ちた作品だった。ロシアロックバンドの話は一切出てこなかったけど、そんな贅沢は言うまい。エロゲー作品キリル文字が出てきただけで、我々はその恩寵に頭を垂れて感謝しなければならない。

 そのロシア語だが、ひょっとしたらロシア人の協力も仰いだのかもしれないけど、きちんとチェックしていないからиとнが混同されていたり、スパイ通信の最後に「高き志の為に。Пока」(Покаはフレンドリーな別れの挨拶)といってみたり、ロシアネタっぽい歪なコミュニケーションにうならされる。ソ連やその中での生活現実失望して自殺したマヤコフスキーと同じ名前の人が大統領で、プーチン政権人間国宝扱いされて天寿を全うしたカラシノコフと同じ名前の首相クーデター企図されるというなにやら思わせぶりな設定は筋書き以上のものではなく、その筋書きもなにやらロシアというよりはウズベキスタントルクメニスタンのような独裁者小国家を思わせる。そのウズベキスタンでは昨年亡くなったカリモフ大統領ボクシングを嗜む荒くれ者だったので、首相が顔に青あざをつけて執務していたという逸話があるが、そういうおとぎ話のようなステレオタイプだけで構成された解像度の低い現実は、へぇと思いはしても流し読み程度の距離感である。マトリョーシカのようなお土産物というか。没入していって恋愛物語を楽しむのはなかなか難しい。小倉結衣さんのロシア語を聴ける貴重な作品ではあるのだが。小倉さんに限らず、声優はみなさんしっかりしていて、絵もまあまあよいので、シナリオ機能が後退するエッチシーンだけは普通の作品並みに達していた。あと、掛け合いがなくストーリーが動かず、小倉さんの声だけを堪能できる特典ドラマCD「サーシャママのロシアよりバブみをこめて」もよかった(作品に45点をつけたが、そのうち15点分くらいはこのCDだ。サーシャが甘やかしてくれるという内容も悪くないが、特にサーシャが30秒くらいロシア語で歌うレールモントフ作詞の「コサックの子守唄」の1番である。多少思い入れのある詩なので驚いた)。同じロックでもキラ☆キラライター個性ロックテーマとよく合っていて引き込まれたが、こちらはロックの反骨精神とは無縁(?)のすべてを許す「バブみ」。そのありえなさに見出せるのはロックというよりはエロゲーの業なのだろうか。ちなみに、ロック(рок)はロシア語「運命」意味する言葉だったりする。

2017-07-16

[]泉鏡花『由縁の女』 泉鏡花『由縁の女』を含むブックマーク

 読み始めたのは何年前だったか。トノイケダイスケの書くのろけシーンのような文章が、トノイケダイスケ文章のような鷹揚なテンポで続いていくのについていけなくなり、いつの間にか挫折していた。今回は2か月くらい前に読み返し始めて、モスクワに向かう機内でようやく読み終わった。分厚い小説だからあのまま冒頭のトノイケ的文章が続いていたらと思うと良い意味でも恐ろしいが(泉鏡花なので当然、地味豊かな字面をどうにか追っていくだけでもある程度楽しめる)、まもなく物語が動き出して、のろけた掛け合いが延々と続くのではなく、終盤に向かって空間的にも時間的にもどんどん日常から逸脱して、折口信夫死者の書のような凄みのある話になっていって引き込まれた。

 この小説は誰に勧められたんだったか。泉鏡花の本を何か読みたいと思ってたまたま古本屋にあったのがこれだったのかもしれない。いずれにせよ、一度挫折した僕が言うのもなんだか、エロゲーマー必読の作品ではないでしょうか。解説種村季弘も書いているが、物語は4人のヒロインが順番に登場する一本道ルートエロゲーのような構造をしており、ヒロイン属性日常現実から次第に非日常幻想へと移っていく。

 読むべきと言っておきながら、ネタバレ的な感想を書く。最初は妻のお橘で、これはいわばトノイケダイスケの幼馴染ヒロインシナリオのような章だ。トノイケ作品では過去と未来が後退して現在ばかりが延々と続くように、妻との掛け合いが顕微鏡的な細かさで描かれる。2番目は人妻となった幼馴染のお光で、お店を切り盛りする勝気なヒロインだ。子供時代ほのかな感情のやり取りが回想される。どのライターとははっきり言えないが、青山ゆかりの声が似合いそうな感じもする。3番目はエタサーの姫という感じのマージナルな娘・露野。子供時代から苦労を重ね、ぎりぎりの日常を過ごしながら、主人公と再会したことで日常の外側に出てしまう。この辺から舞台は墓掘りたちの部落民コミュニティ避難所としての寺、山家の集落への道行きへと移っていく。強いて挙げるなら、ねこねこソフトの描くようなヒロインだ。当然ながらエッチシーンはないが、色気のあるシーンが多く、エロゲー化したら映えそうな感じがする。最後は子供のころに憧れていた娘で、今は人妻となって奇病に罹っているお楊で、ここでは現実は思い出と神秘侵食されていて、舞台も山の中や夜ばかりの印象だ。そして、まるでヒロインたちを描くことで目的を達成したかのように、物語は急に終わってしまう。エピローグで描かれるのもヒロインたちだ。

 これをいまさらゲーム化しなくても、すでにこの作品にかなりインスパイアされたらしい希氏の「花散峪山人考」があり、山岳民俗学可能性の豊かさを感じさせる。

 とはいえ、設定とストーリーだけ追っていても仕方なく、この作品の魅力は何といっても泉鏡花文体エロゲー的な物語が展開されているところにある。僕にとってははっきりとわからない語彙が多く、語りのリズムも半分江戸時代みたいだったりして独特に思えるけど、もちろん同時代の人にとっては違った風に見えたはずで、反対に視点トリックや英詩や民謡引用方言や様々な社会階層言語に敏感というモダニズム文学の仕掛けも同時代の人には違った風に見えたと思う。僕としては、同じくモダニズム作家女性的なものを愛した象徴主義者だったアンドレイ・ベールイの、(特に後期の)いかれた小説文体ごと日本語に訳したら泉鏡花みたいになるのかなとふと思った。

 鏡花小説はまた暇を見て読んでみたい。

2017-06-12

[]Бесконечное лето (Everlasting Summer) (85) Бесконечное лето (Everlasting Summer) (85)を含むブックマーク

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 公式サイトSteam公式ブログファンダム

 たぶんロシアで最初の本格的な美少女ゲームということで、開発段階から楽しみにしていたんだけど、できた頃(2013年くらい)には忘れてしまっていて、昨年に気がついてから少しずつ進めてようやくクリア。

 Steam配信されているゲーム英語版があるので、既にプレイした日本の方も多いらしいけど、少し紹介的なことも交えた感想にしておこう。


○あらすじ

 ネット廃人引きこもり気味の20代青年。ある日、冬の町に出てバスに乗って居眠りすると、目が覚めたら夏の平原を走るバスの中。到着した先はラーゲリ(子供サマーキャンプ場)「ソヴョーノク」(“フクロウの子”)で、ソ連時代そのままのピオネールたちがキャンプしていた。主人公ソ連時代のピオネールに若返っており、集団生活を送りつつ、ヒロインたちと接近する……というタイムスリップ物のエロゲー

 なぜ自分タイムスリップしたのか分からず、世界がどのような時空にあるのかも分からないまま(他のキャラクターたちは答えをはぐらかし、主人公内向的なのでなかなか真っ直ぐ聞こうとしない)、ミクという初音ミクそっくりの音楽好きでおしゃべりのヒロインが出てきたり、昔の核シェルターのような場所に迷い込んで男友達が発狂しかけたり、一瞬現代に意識が戻ったり、世界ループ構造であることをほのめかす主人公分身に出会ったり。7日で1周してキャンプが終わることになっており、迎えのバスに揺られて居眠りすると現代に戻っているというパターンのシナリオが多い。


オタク文化ミーム

 ミクというヒロインもそうだが(ボーカロイドを使ったBGMもある)、キャラクターの造詣にオタク文化ミームが見受けられて興味深い。ロシアオタクスラングでオヤシ(ОЯШ)という言葉があって、「普通の日本の学校生徒」という言葉のイニシャルなのだが、これは「一般的ラノベまたはアニメ主人公的な平凡な高校生で、平凡とか言いつつも羨ましい状況にいる人間」を意味しており、この作品主人公もそんな位置づけの掛け合いをヒロインたちとする。

 ロシアのようなマッチョメンタリティの国で日本オタク的なずるい性格設定がどこまで通用するのか気にしたくなるところだが、ロシア日本という国と国の比較をしてもあまり意味はない。ロシアでもそういう感性に反応する人たちはいるけど、あちらではやはりあちらの文化的土壌があって、日本と同じようにはいかないことがことあるごとに感じられて、ちょっとした異化効果を始終感じられる。通常は僕らにとっては、こうした異文化要素はPretty Cationのレーチェやこころリスタのメルチェのように留学生ヒロインという設定を通して触れられるが、本作は外国人が作った外国人のためのゲームなので濃度が段違いになっている。


グラフィックなど

 技術的な部分を見ると、立ち絵改善余地ありで、姿勢や表情がオーバーでテクストあっていなかったり、一枚絵は全体的に質が低くて悲しいので、いつかリメイクして欲しいのも本音だが、味がある、といってもよいくらいには慣れてしまう。Steamなのでエッチシーンはないのだが、ちょっとファイルをいじるとエッチ絵は開放されることに終わってから気づいた。といってもきれいな絵に甘やかされた目にはちょっときついし、テクストがなくてブラックアウトするシーンに一瞬差し込まれるだけなので、物好きな紳士のための心配り程度だ。活字信仰が強かったロシア文学は昔から禁欲的で、象徴主義時代にはさすがに婉曲的な官能表現は広まったけど、基本的に豊かな放送禁止用語口承文学財産であり、プーシキンが書いたポルノ詩もきちんとした活字になったのは20世紀末になってからだったくらいなので、急にロシア語の喘ぎ声だらけのエッチシーンとか読まされても困る。奥ゆかしさはかえってありがたかったのかもしれない。いつかは、という期待はもちろんあるけど。

 他方で背景画のレベルは相当高いといっていいと思う。僕はあまり詳しくないけど、日本メーカーでこの水準に達しているところはあまりないような気がする。背景画に本気を出しすぎて、キャラ絵がおろそかになった感があるくらいだ。テーマテーマだけに、カバコフの絵のタッチとか色合いが近いように思えるが、いずれにしても背景画というよりは一幅のソツアートっぽい風景画という感じがするものもある。そういう画風で、ラーゲリの広場に立つ銅像ゲンダという革命家(?)のもので、メガネをくいっと持ち上げる碇ゲンドウだったりするので感心する。

 音楽ロックっぽいものが多くて僕の好みとはずれているが、overdriveBGMみたいにエモーショナルものも一部あったりしてけっこうよかった。サントラは70曲くらいある。

 ついでに画像を少し。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22


ロシア語記述されたエロゲー

 僕にとっては、エロゲー的な掛け合いや恋愛ロシア語で描くとどうなるのかというのが、というのが大きな関心の一つだった。語学的な意味でも、言葉に付着した文化的な引力に対人関係の距離感や思考の筋道が引きずられるという意味でも、エロゲー的な物語文法ロシア語モノローグ文体はマッチするのかという意味でも。昔、ロシア語勉強し始めてインターネットに触れた頃、ドストエフスキー言語である聖なるロシア語が、別の意味で聖なるエヴァンゲリオンを熱く語るのに用いられているのをみて驚いたものだ。その後、ロシア新聞ニュースを頻繁に読むようになってからも同じで、おっさんくさい日経新聞記事を面白く読めるようになったのは、ロシア経済紙ロシア語によるビジネスニュースに親しんで身体を慣らしたからだった。そういう新たな回路を開く体験をできるのが外国語の醍醐味の一つだ。

 結論としては、論理的でありながら柔軟で瞬発力もある(語順の自由度や一語の表現力など)というロシア語長所は、エロゲーでも十分威力を発揮していて読み物として楽しめた。モノローグがややくどく感じられるところもあったけどオヤシなので仕方ないといえるし、引きこもりダメ人間の設定とは裏腹に、モノローグも掛け合いも結構ウィットが効いていて飽きなかった。ロシアでは別にプロの物書きでなくても雄弁・能弁な人が多いが、本作のライターもそうした例に漏れず地力の高さを感じられた。なんでもないやり取りにどれだけ神経を通わせられるか。言葉の流れとBGMが心地よいうねりを作っているように感じられた場面も少なくなかった。多分、僕が外国人だから、ロシアハーレクイン的な小説シャブロンや日本アニメフレーズの露訳であっても、新鮮に思えてしまったところもあるかもしれないが、そのせいで僕が損するわけでもない。どんだけエロいかとか、エッチシーンが見たくなるかとか、そういう直接的な欲求とは別に、このヒロインとずっと他愛のないけど退屈しないおしゃべりをしていたい、疲れたら一緒にごろっと寝たい、と思えるような親密さの雰囲気があった。ロシア語の掛け合いは、芸人漫才のようなネタをいじって演じている感がなくて、純粋に対等に頭を使って、言葉を転がしたり飲み込んだりしているようで、健康的でやさしい感じがした。

 舞台として想定される1980年代ソ連。その想像の彼方のピオネール少女たち。ロシア人にとってのアニメ的な楽園は隙が多くて、皮肉の対象にもなってしまう品質楽園なのだとしたら、今の若い人たちにとってはアニメ世界と同じく遠い世界となったソ連レトロの中の夏の少女たちとの距離は、遠いとはいっても近いのかもしれない。異国文化としてのアニメとは嫌が応にも距離があって、その距離を埋めるのがアイロニー手続きなのだとしたら、ピオネール少女たちは国産品であり、自分たちのものだという喜びがある。そうした明るさがラーゲリ日差しにも感じられるように思えた。本作にはファンによるmodがたくさんあったり、スピンアウトアイテム調合RPGトラヴニッツァ」(The Herbalist)があったりして、ループ世界との別れという作品テーマに沿った楽しみ方をされているのもよい。製作中の次回作はソ連時代日本舞台にしたロシア人主人公の話だそうだが、正直なところテーマ選択に関しては本作のほうがずっと洗練されていると思う。


ヒロインたち

 ネタバレありで。

 シナリオ展開は割と手堅く古典的な感じで、各シナリオがかぶらないようになっていて飽きない。アリサはレーナとの三角関係現実帰還後の音楽での出会い、レーナはヤンデレ展開とラーゲリ世界に残ってその後の半生、ウリヤーナはいたずら騒ぎと現実帰還後の復学と再会、スラーヴャは優等生振りとつかみどころのない大胆さが現実帰還後も続いてそうな結末、ミクは性格反転の劇中劇ホラーシナリオユーリャはハーレムシナリオと対の最終ルート

 恋愛ゲームとしてヒロインとのやり取りをリラックスして楽しめたのは、どちらかというと絵も安定していたスラーヴャとユーリャだったかな。他は読み物としては退屈しなかったけど、最後のシーンをのぞくと疲れる展開が多かった気がする。スラーヴャは最後まで謎めいた感じがして引き込まれた。ユーリャは主人公との立ち位置の近さと無防備さがなじみの感覚だった。最後のシナリオだから楽しみ方に慣れたということもあるかもしれないが。すべての並行世界に同時に存在する不思議ヒロインが、原作者チェブラーシカと同じの国民アニメプロストクワシノ村」(邦題フョードルおじさんといぬとねこ」)のセリフを知らずと引用して、身近な女の子になる。そういう小さな発見を積み重ねていく喜びに僕も与らせてもらったような気がした。僕は外国人なのでロシア人のようには楽しめないだろうけど、ロシア人エヴァンゲリオンでおかしな電波を受信してしまうように、僕もこの作品に浸りきることができる。いつにも増して孤独作業だからこそ、静かで自由な没入を楽しむことができる。

残響残響 2017/07/12 00:40 力の入った記事で、とても面白いです。様々に言及したい箇所がありますので、うまくまとまっていなく、箇条書きにて失礼させてください。

・サラっと舞台説明でシェルターの中で男友達が発狂とかいうのをノッケから書かないでくださいw

・「オヤシ」の受容における差異……異化・異文化要素の濃度の段違い、の部分ですが。日本でも二次元文化は「二次元」とわざわざ表記するだけあって、ひとつの一般カルチャーからの異文化要素があります。ましてロシアだと「二次元」かつ「日本原産」という二重構造。この、重ね合わせによる落差の重層は結構あるのだろうな、と読んでいて思いました。

・「かくあるべきエロゲの姿」から離れているからこそのキッチュな愉しみかた……という路線なんか当然vostokさんは取られませんね、このゲームにおいては。最後に「浸りきる」と書いていらっしゃいますが、ところどころで「異文化的【?】」はあっても、それでも自然に浸ってらっしゃる。

・なんだかこの記事読んでいて、むしろ「2017年の今、ゼロ年代初期の凡ゲーに妙にハマってしまう」的な記事の牧歌性、みたいなものに似たフィーリングを感じ取ってしまいました。今となってはいろいろ古いし、それが時折キッチュにも見えるけども(PHSとか今更言われてもねぇ)、なんだか読んでいて心が和む、みたいな。ゼロ年代初期のエロゲって結構「ギラギラとした夏の日差し」みたいなものがあって、もちろんそれは当時のCG表現の限界でもあったのですが。でも、「そのギラギラな太陽の日差し故に、妙に心に寂しくクる」みたいな感情があったように記憶しています。

・ラーゲリの日差しの明るさ。「ともかくこの感情風景は自分のものなんだ」っていうこと。

・技術的に洗練されていないものに見られる、妙なパセティックさや率直さ、みたいな現象。決して「ギャー!」のパンクロックではありませんが……いや、そんなパンクロックにおいても、見られる「あの時のあいつらでなくては演れなかった」っていうやつ。多分vostokさんは「神聖かまってちゃん」というバンドを好まれないでしょうが(ほんとに)、でもこういうパセティックさだけは通底してるような気がする。

https://www.youtube.com/watch?v=Dgkmw1pKbqE

・ロックンロールが鳴りやまないように、エロゲオタクミームも伝染を止めない。伝染が止まってしまったミームなど、伝統であるだけの固着した伝統芸能の異名に他ならない。

・しかしこの背景画の胸を打つ感情は何でしょう。決して「技術的に洗練されてない」ってレベルでない、きちんとしたものです。素描性を残しつつ、細部まできちんと描かれている。というか……「感情」をたっぷり盛り込んでいる。うん、そう。感情。「背景はクオリティをどんどん高めていけばよろしいのだ」式の現在日本エロゲ背景よりも、よほど胸にきます。とくに夕焼けと鉄塔の背景はよかった。

・最近、「残響さんの文章って戯言がかなりの量占めてますね」と言われて、妙に納得してしまって。自由がなくなると死んでしまう魚のように文章を紡ぎます。(これがZAREGOTOだ)
ロシア語の「引きずられ思考引力」とエロゲの「一人称・僕語り」は、このゲームでフィットしていましたか。その「文体」が……ほんとに、日本産エロゲをやるのと同じような「僕にはこのゲームの文体が合っているのだ」というvostokさんの思いが伝わってくるような、そんな穏やかさと静かなパセティックさが、伝わってくるような。

・誰が戯言を必要としてるのか。誰がロシア製エロゲを必要としているのか。わたしは戯言を通して何かの意味性を拡散/貫徹させたかったはずだ。この作者たちがわざわざエロゲを作ろうとしたことが、なんだかまぶしく見える。

・全く関係はありませんが、最近柴田元幸が編集している雑誌「MONKEY」の最新12号(翻訳特集)で、「明治翻訳史」と題して、ロシア文学と二葉亭四迷(の小説文体)のことが書かれていました。
ツルゲーネフの「あいびき」など、「ロシアの自然なる口語小説文体」を四迷が日本語翻訳することにより、「未だ江戸読物文語調なる日本文体」から脱していく、という過程を、実際に版を重ねた各翻訳を比較しながら見る、ということをやって。
このあたりの「先進を咀嚼すること」「おれたちもやってやるんだ」の精神。あるいは「口語の自然さ」とかいう問題は、翻訳文化において本当に喫緊の……それこそ、「おれたちの文化にとって、自然な娯楽・芸術を作るんだ!」の意気込みと言うか、精神というか。
それはキッチュ狙いなどではなく、詩に他ならない。

・一編の詩としてのエロゲ。

daktildaktil 2017/07/30 04:52 コメントどうもありがとうございます。
英訳の品質はわかりませんが、多分そんなに悪くないと思いますので、いつか時間のあるときにやってみてください。Steamプラットフォームはゲームの起動までがちょっと面倒ですが、ソ連レトロと二次元文化をテーマにした作品で、これを超えるものはもう出ることはないと思いますので(出るとしたら、この作品のリメイクくらいか)。僕はやってよかったと思いました。

神聖かまってちゃんは、提供曲ですが「コタツから眺める世界地図」(ボーカル大亀あすか)という歌が好きで、今でもたまに聴いています。Os-宇宙人というアニソンのカップリング曲で、アニメはちょっと肌が合わなかったのですが歌がよかったのでCDを買ったら、本体の曲よりも気に入ってしまいました。大亀さんの歌い方も見事です。かまってちゃんの活動はロック過ぎてついていけないと思いますが(年取ってしまった)、また女性ボーカルのいい曲があれば聞いてみたいですね。の子さんの歌い方もよいと思いますし、ボイスチェンジャー曲もあると読んだ気がしますが、やはり女声曲だと安心です。

翻訳文体については、二葉亭四迷の作品はきちんと読んだことはないのですが、明治大正期から原卓也くらいまでの翻訳者たちは本当にすごかったのだなと思います。ロシア文学を読み始めたばかりの学生時代、岩波文庫でゴーゴリの「ネフスキー大通り」や「イワン・イワーノヴィチとイワン・ニキーフォロヴィチが喧嘩をした話」を読んで自然に楽しんでいましたが、今考えるとゴーゴリの文体を血の通った日本語に移すのは途方もない作業だというような気がします。通勤時にたまにゴーゴリのウクライナ物の朗読を聴いたりしますが、ゴーゴリの文章は面白すぎて当時の植字工が笑いこけていたという逸話が残っているくらいで、頭の中で訳語が思いつかない。それを中村白葉のような昔の翻訳者たちはとんでもないスピードで翻訳していたそうで、恐ろしいことです。そんな当時の人たちであっても、詩の翻訳では大局的にはうまくいかなかったように思います。後世の柳瀬尚紀のような奇才を除き、韻律の問題にきちんと立ち向かえた人はいなかった。和歌の伝統はあるはずですが、語呂あわせが低級なジャンルとみなされがちだった日本文学の壁は高いですね。現代では文学の翻訳で生計を立てるのは困難らしいので、そんな時代はもう来ないのでしょう。そんなことを言う前に自分で一つでもきちんとした翻訳をしてみろよって話ですけど(笑)
強引に話をつなげると、この『永遠の夏』はロシア文学としてもエロゲー作品としても質が高くて、習作とかのレベルではないし、作品としての翻訳として成立していると言ってもまだ失礼かなと思います。そんな作品の作者たちがまだ活動してくれているのがありがたい。

2016-12-30

[]総括とそれをすり抜けるもの 総括とそれをすり抜けるものを含むブックマーク

 一応、今年は7本クリアできたのか。こころナビこころリスタと出会えたのでよい1年だったのかもしれない。秋以降に急に生活環境が変わって、最近はほとんどゲームをプレイできていないので(Бесконечное летоが止まったままで、他にも積んだままの作品がいくつか)、今年のことではないように感じられる。本もあまり読めておらず、仕事の資料以外の情報といえば、帰宅して寝る前に見るアニメまとめサイトくらいで、ツイッターすら最近はあまり目を通せていなかった。時間を捻出しようと思えばできたのかもしれないが、仕事みたいにきつきつにこなしていくのはあまり気が進まない。ゆるく付き合っていきたい。

 独りに戻り、肉親と死別し、また婚約した。子供の頃の自分家族、成人してからの自分を細切れに、生活の合間に振り返る。仕事バカになって残業代給料が1.5倍になり、いやな緊張感から解放されないまま正月も家で仕事をしたり、婚約者のご両親に挨拶に行ったりする。バック・トゥ・ザ・フューチャーのように、あるいは並行世界物のエロゲー小説のように、いくつもの時間の中を行ったり来たりしているような気がする。自分属性を増やし、足場を増やし、逃げ道を作っていくことは、生きることを楽にしてくれる。でもそれぞれの属性をうまくつないで回していく余裕がなくなると、頭を切り替えていくだけで精一杯で、それぞれの属性を実感を持って生き、伸ばしていくことができなくなって、責任を背負いきれなくなり、人格統一しきれなくなり、多極性に復讐される。言葉欲望実体がないから無限に増幅していけるものだけど、物理的な自分はついていけない。何かを雑にしなくてはならなくなり、何かや誰かを傷つけてしまう。それを許してしまう雑な人間自分だ。

 年末年始のつかの間の休日に、久しぶりに学生の頃の感覚を思い出させてくれる本を読んだ。本というよりは雑誌か。「ゲンロン4」。仕事の資料を買いに行った本屋で偶然手に取った。ゲンロンカフェには昔一度用事があって顔を出したことがあるけど、それきりだった。2001年から現在までの批評特集2000年代半ばからはてなダイアリーエロゲーの感想を書いている者、しかも動物化するポストモダンを読んで何かこじらせた挙句にエロゲーを始めた者、その後の彼のオタク批評活動に救われた者、そのような残念な青春にしがみつき続けている者、東浩紀スレファウストゼロアカ道場の盛り上がりを「観客」として横目で見ていた者、オタクとしての自覚を深めながら必ずしも愉快ではない同時代性の感覚ぬるま湯につかっていた者、今は思うようにオタク活動に邁進できていない者にとっては、ちょっと感慨深い本だ。この15年間、いろんなものが生まれたり、生まれかけたりして、そして死んでいったのね。そんな風なら、僕はせいぜい観客でしかありえない。なにしろ世界社会だけでなく、自分人生に対しても観客になっちゃっている。ストリート思想は確かに自分とは縁がなかったし、今も近寄りたいとは思わないけど、でもKey物語が進んでいったのはそっちのほうだったよなと思う。だからこそ、「運動」、共同体が中心に据えられる前の、OneとかKanonとか方が美しいと感じられるのだろうか。田中ロミオは単にサバイバル物が好きというよりは、時代の空気を器用に読んでいるのだなとか、「運動」や社会から身を守る砦としての聖域、ユートピアを果敢に描いた最果てのイマはやはり美しいなとか思う。東浩紀は15年前のようにはじけてはおらず、この先もはじけることはないかもしれない。共同討議の他の参加者たちは、何だかフォロワーみたいな小粒な人ばかりで、討議の対象もあまり前向きとはいいがたく、新しいものの誕生の予感はない。何かを横断することは難しくなくなったのだろうけど、今残っているのは安全な横断ばかりだ。そんな中から新しいものは生まれてこず、文学社会学より経済学政治学の方が重要だと浅田彰は言う。誰もワクワクしていないけど、それでも東浩紀が楽観と責任感を捨てようとしないから、観客たちはまだ待つことができるのだと思う。特集以外のいくつかの連載は、質も文脈もバラバラで、問題意識に多少の共通性が見られる程度の雑誌コンテンツだ。韓国タイロサンジェルスは少なくとも僕にとってはまったくアクチュアルには感じられない。東北もだ。知的さざなみグローバリズム幻想に過ぎない、というと言いすぎか。自分ロシアのことばかり知ったかぶっているだけだし。雑誌というのは個々のコンテンツはバラバラでも、一冊の中にまとめると何だか単純合計以上のものを表しているように見せてしまう器なので当然ではある。とはいえ連載や寄稿の種類はそれほど多くなく、雑誌としてはミニマムだ。発行部数が少ないだろうから仕方なく、その辺の厳しさが垣間見えるのは切ないが、東浩紀にはそんな瑣末なことは気にしないでほしい。巻末の海猫沢めろん小説時代性を無視したロック衝動小説バタイユのような衝動を現在ぶちまける意味があるのか不明だが、ロックにとっては時間は現在でしかありえないので、そんな問い自体意味がない。)くらいやけくそでもいい。何かと叩かれることが多いし、確かに失敗もしただろうし、大抵の批判は間違っていないのだろうけど、2000年代に彼よりも夢のある仕事をした批評家、夢のある課題体当たりでぶつかっていった批評家は僕にとってはいない。それがすべてだ。彼がオタク批評でやらなかったことは別の誰かがやるしかないし、実際にやった人もいるだろう。そういう意味では僕にとっても過去の人なのかもしれないが、過去は現在の中にも潜んでいる以上、そのことはあまり問題にはならない。そうして2017年はやってくる。