文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優論(2)キリスト教とマルクス主義。


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近代日本で大きな影響を持った世界観的な思想にキリスト教マルクス主義があるが、佐藤優は、この二つの大思想から決定的と言うべき影響を受けている。言い換えれば、佐藤優的思考を理解するためには、この二つのの世界観的な思想を理解しなければならない。世界観的な思想とは、「思想家の生き方」や「革命運動」のような実践活動と直結しているということだ。


佐藤優は、キリスト教を学問や思想として学んでいない。あくまでも個人的な救済問題として、あるいは信仰問題として学んでいる。橋爪大三郎(東工大教授、社会学)との対談『あぶない一神教』でも、それは顕著である。橋爪は、「宗教社会学」の問題として、つまり社会現象としてキリスト教を論じているが、佐藤優は違う。

「現実に影響を与えず、いたずらに殉教を求めるような抵抗運動は無責任だと思うのです。たとえ日和見主義者、転向者と罵られようとも、現実に影響を与えるように最後の瞬間まで努力するのがキリスト教徒に求められる倫理と思うからです。和田先生の姿勢と僕がいま勉強しているフロマートカ神学が重なり合うのです。」
(『獄中記』6ページ)


佐藤優は、鈴木宗男事件で逮捕された時、キリスト教の信仰とマルクス主義の社会分析の理論に救われたという。佐藤優にとっては、キリスト教マルクス主義も、「思想家の生き方」の問題と直結している。


佐藤優は、「社会学」と「社会科学」を区別している。そして社会学ではなく、社会科学を重視する。佐藤優にとっての社会科学は、思想を、主体的、実践的な価値判断と直結した問題として受け止める学問である。佐藤優にとってマルクス主義は社会科学である。社会学ではない。


だから、佐藤優は、社会学者=橋爪大三郎と同じく社会学者=大沢真幸の対談本『ふしぎなキリスト教』を評価しつつ、全面否定する。

近代社会の背景にキリスト教があるという大澤氏、橋爪氏の指摘はその通りです。このような社会学者の指摘を、キリスト教神学を勉強する私たちも真摯に受け止めなくてはなりません。ただし、社会学者の視座をとっていては、キリスト教神学を理解できません。神学においては、客観的にとらえるのではなく、キリスト教への主体的なコミットメントが求められます。(中略)キリスト教が説こうとしている事柄を、単に知識として知ろうとするのではなく、自らの人生の問題として受け止めることが、神学を学ぶ人に要請されているのです。私たちは、橋爪氏、大澤氏たちがとる社会学的方法論
をとりません。
(『神学の思考』33ページ)


私は、ここで佐藤優が言おうとしていることは、神学と社会学との差異という問題だけにとどまらない。私は、この問題は、文学や思想、哲学にも通底するように思われる。たとえば、文学や小説においても、主体的なコミットメントが求められている。しかし、ポスト・モダンやライト・ノベル、オタク・・・に占領された最近の日本の文学は、「社会学的」になってしまっているの



たとえば、佐藤優は、外交官として外国にいたために、「バブル」の時代と「ポスト・モダン思想」の流行を知らないという。ポスト・モダン思想は、世界観や国家論、人生、生き方・・・という「大きな物語」を捨象し、瑣末な、どうでもいいような「小さな物語」に限定して、思想や学問を論じる。


浅田彰の『構造と力』以後、思想家や学者、ジャーナリストの多くは、このポスト・モダン思想の流行に流されてきている。政治や政治思想を、あるいは市民運動や革命運動を、嘲笑するのが、カッコいい事だと思っている。その政治的、思想的空白に登場してきたのが、「国策捜査」で政治犯として逮捕され、有罪の判決を受けた佐藤優である。


そこで、佐藤優が重視するのは、浦和高校時代から、取り組んだ実践的学問、つまり社会科学としてのマルクス主義である。佐藤優にとって、キリスト教神学がそうであったように、マルクス主義もまた「救済」や「生き方」、つまり「革命運動」に直結している。単なる社会分析の道具ではない。


佐藤優は、『廣松渉論』で、廣松渉マルクス主義は、革命とういう実践的な目標を持った学問であった、と言いている。これに対して、たとえば廣松渉の弟子に当たる熊野純彦(哲学者、東大教授)のマルクス主義や哲学は、学問のための学問や哲学でしかない。言い換えれば、廣松渉熊野純彦の差異は、佐藤優とポスト・モダン思想家や社会学者との差異に等しい。佐藤優の登場で、ポスト・モダン思想家や社会学者たちの仕事が色褪せていったのは当然であろう。


佐藤優の『私のマルクス』や『いま生きる「資本論」』などを読むと、マルクス主義の理論やイデオロギーにこだわっていることがわかる。たとえば、「労働力の商品化」理論、宇野弘蔵の「恐慌論」、あるいは「日本資本主義論争」・・・などに対する深い執拗な論評を見ていると、佐藤優の関心がマルクス主義の理論にあることがわかる。


ここで、私の立場と感想を述べておく。私は、高校時代はいうまでもなく、大学時代も、それ以後も、つまり、つい最近まで、ほとんどマルクスマルクス主義に関心を持ったことがなかった。むしろ、小林秀雄などの影響で、マルクスマルクス主義には、反目教師的な関心しかなかった。


私が、マルクスに関心を持ち出したのは、柄谷行人が『マルクス その可能性の中心』を、「群像」に連載はじめた頃からである。「あ、これは、小林秀雄マルクス論だ」と思い、読みはじめたのである。もう一つは、当時、不思議な縁で知り合い、酒呑み友達になっていた対馬斉(マルクス哲学者)の影響である。


柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』は、小林秀雄からの影響と対馬斉からの影響が濃厚だった。柄谷行人は、対馬斉の遺著『人間であるという運命』(作品社)の推薦文で 、「マルクスの読み方を対馬斉から学んだ」と書いている。柄谷行人対馬斉は、「東大新聞募集論文」の投稿者で、論文応募仲間だった。


そいうわけで、私は、遅ればせながら、マルクスマルクス主義に関心を持ち始め、柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』と対馬斉の『人間であるという運命』を、同時に読み始め、今も読んでいる。それが、私の「月刊日本」に連載中の「マルクスエンゲルス」である。私は、そこで、小林秀雄柄谷行人対馬斉の影響を受けて、「マルクスマルクス主義の差異」に興味を持ち、マルクスを論じている。


私と佐藤優の違いは、誤解を恐れずに言わせてもらうならば、「マルクスマルクス主義の違い」ということになる。「マルクスエンゲルスの違い」と言い換えることもできる。唯物史観唯物論弁証法は、マルクスの影響を受けて、エンゲルスが体系化したものである。


マルクスの哲学、あるいはマルクス的思考は、それとは違う。マルクスマルクス主義者ではない、というのが私のマルクス論であり、思想的立場である。小林秀雄は、「考えるということ」というエッセイで、「考えるとは、精神が物そのものと直接的にぶつかり合うこと」だと言っっている。尺度や体系で理論武装し、対象を分析していくことは「考えること」ではないと。


私は、「心と物が直接的に向き合って対話すること」、それこそが唯物論だと思う。柄谷行人は、それを「唯物論的転倒の哲学」と呼ぶ。それが、私の立場である。


佐藤優論」に戻る。佐藤優は、強力な理論家であり体系的思想家だが、単なる理論家、凡庸な体系家ではない。つまり、習い覚えたばかりの、ありきたりの理論や体系に全面依存し、それらを、知らないものはないかのように、自信満々に振り回すだけの偏差値エリート型理論家ではない。


私が、佐藤優を現存する思想家として、柄谷行人とともに高く評価するのは、佐藤優は、この世には、人間理性では、「語りえないこと」「知りえないこと」が無数に存在することを知っている思想家だからである。それでは沈黙するのか。それでも、間違いや誤解を恐れずに語ろうとする。佐藤優の『神学の思考』は、まさにそういう思考である。

語ることができず、沈黙しなければならない事柄について語るのが神学という学問の特徴なのです。/人間と神とは質的に異なります。有限な人間が無限な神について、本来、語ることはできません。それにもかかわらず、人間は神について語らなくてはなりません。この緊張関係から神学が生まれるのです。
(『神学の思考』14ページ)


竹内久美子との対談(近著)でも、こう言っている。

私は、全知全能の神によって造られたこの世界を、それ自身制約がある人間の理性によっては解明することはできないと考えている。この世界は、人知の及ばぬ神秘によって構成されているのである。結局、神学的アプローチは、独断論の構えを取らざるを得なくなる。しかし、自分の独断が正しいと主張する権利は、人間にはない。

独断論の構えを取らざるを得なくなる。」これは、佐藤優の根底的な思想的立場である。無論、思想家=佐藤優の魅力はそこにある。たとえば、私がもっとも敬愛、畏怖する文学者の小林秀雄は、しばしば論争相手や批判者たちに「独断家」「逆説家」「印象批評家」などと言って批判、罵倒された。小林秀雄も、モノを考えることをしない偏差値エリートたちを前にすると、「独断家の構えを取らざるを得なく」なったのである。


「見える人には見えるだろう」というのが小林秀雄の立場である。佐藤優小林秀雄は意外に近いのかもしれない。

(続く)






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