雑感

午前2時頃起床し、いまMonty Alexander "Solo"を聴いている。その前にYouTubeハイドンの初期の交響曲集を1時間ほど聴いていた。お茶やアクエリアスをガブ飲みしてシャワー。久しぶりにお湯を出してのんびり浴びてみた。そしてまだ3時40分くらいだから、朝までは時間があり、のんびりである。今日は図書館にでも行こうかと思うが、正直余り読書意欲も湧いてこない。

起きてからiPhoneFacebookを開いてみたら「友達」が一人減っていたが、どなたが去ったのか全く分からない。致し方がないと諦める。ネットに多くの出会いや交流は求めないほうがいいという思いを日々強める。

毎日それほど大したことを考えているわけではないことは申し上げるまでもないが、疑似科学的・陰謀論的トンデモをバカにするだけではしょうがないだろうとも思いつつ、僕の主要な関心は認識や理解というところ以外には少しもない。昨日中心的に検討したのはNagi Windというネット論客の投稿だが、彼はあからさまなトンデモというよりは、週刊誌などの報道や公刊されているまともな著書からの引用に「イルミナティ」「三百人委員会」など独自というかわけのわからぬというか、そういうことを織り交ぜる手法である。

僕はそれについて疑問を呈したが、以前Nagi Windと直接やりとりして憤慨したという人からコメントがあった。そして少々考えてみたが、脱原発派からは評判の悪い菊池誠氏らのシノドスのアレ、もうダマされないための科学講義とか何とかにも3.11以後の状況に触れて述べられていたような事態が当て嵌まると思った。

それは要するに専門用語の氾濫である。専門の物理学者かまたはチェルノブイリ以来の反原発脱原発派でもなければ日常的に親しんでいなかったと思われる放射能関係の専門用語が2011年以降我々の情報空間に溢れた。まあ物理学に限らず、上述の知人が言及していたのは瓦礫広域処理の「仙台方式」についてNagi Windが何も理解していなかったということでしたが、基本的な状況や問題、テーマはそれこそ古代などの遥か昔から全く変わらないけれども、人は自分がほとんど分かっていないことを雄弁に語ってしまう、しかも他人たちや社会に影響を与えるオピニオンリーダーというか、それこそ古代だったら宗教なら預言者、世俗ならデマゴーグ(民衆煽動者)ですか。そういうものとして振る舞おうとしてしまうというところにあるだろう。

僕は元々哲学や文学などの人文が好きでして、そうすると、その関係で詭弁(ソフィズム)や修辞・弁論・弁証などにも関心を持った。20世紀のアレだったらディベートというかね。言論や言説の効果ということですが、勿論みんながみんな弁論家とかソフィストとか詐欺師になる必要なんかはないが、最低限ダマされないために手法をちょっと知っておく必要はあるだろうと思った。

まあ3.11から2年以上経過しているわけですが、この期に及んで、あたかも中学・高校に戻って理科(物理)を学び直すべきだという陳腐でつまらない結論しかないとしたら誠に遺憾である。だがしかし、本当にそうかもしれないのだ。3.11直後というか数ヶ月しか経過していない段階だったと思うが、よくあかねにいらしていたhizzzさんというフェミニストと、あともう一人どなたかよく知らない方とTwitterで話したことがあったが、彼女は当時たんぽぽ舎の主張に疑問を呈して、みんな一から物理学を学び直すべきだとおっしゃったのである。そのとき僕は彼女のおっしゃることは余りにも迂遠だと感じた。だけれども、結局それが一番の早道というか、「急がば廻れ」とか「学問に王道はない」ということを想い出しますが。

我々の日常生活や個人的な人生であれ、社会的な生、政治であれ、別に「学問」とか科学そのものではないだろう、と反駁されそうだ。それはその通りである。それはそうなのですが、だけれども、或る程度一定は客観的に、そして必然的に妥当する何か、ちょっとは確実な(確実っぽい、または蓋然性が高そうな)何かを判断や選択の根拠にしたほうが、個人としても社会全体としてもよろしいのではないでしょうか。

僕は昔の、数十年前の文献とか雑誌を趣味で読み返すことがよくありますが、そもそものはじめからそういうものはあったけれど、科学知の権力性や支配関係を暴くとか拒否するとか抵抗する、というのは数十年来の定番だな。68年(革命)なんか心底下らないと思うが、そういうアレ、日本だったら全共闘とかですか。それの余波というかね。ロマン主義的反動と断じたほうがよろしいものだが、生命とか生活の復権とかね。そんなもの復権とか復活しなくてもみんなごく当たり前に生きてるじゃないかと思うが。

昨日フーコーを一行だけ引用したが、それは彼が亡くなったときに出版された論集ですよ。だが、その山本哲士などは、フーコーイリイチなどとひきつけてしまう特殊な偏った読み方だった。それはあからさまにおかしいと思うが、そういう読解は当時かなりあったと思うし、全く根拠がないわけではない。つまり、彼の権力論が余りにも過度に単純化されたのです。学校や病院、監獄(刑務所)などの制度的な実践、そこにおける規律・訓練と漠然と総称される営み/実践のすべてを拒否するといった大雑把な「オルタナティヴ」。フーコーは科学であれ哲学であれ、どんなことであっても、特定の知を絶対化していない。そういう意味で懐疑論的・相対主義的な契機もあれば、政治的・社会的な拒否のポリティクスと親縁性は確かにある。それはそうだが、フーコーと(イリイチ的な)脱学校とか脱病院とか。フリースクールとか医療否定・拒否とか。自称「キチガイ医」内海聡とか。おんなじですか? 同じはずがないだろう。僕はそう思うが、科学であれ医療であれ、ありとあらゆる権威の頑固で執拗な拒否というロマン主義的反動、反知性主義、蒙昧主義が、3.11以降わけのわからぬ意味不明なエコロジーもどきと一体になって爆発してしまったのだ。これはみんなの感情や情念がすべてだというようなことなんですか? 僕には分からないが、神でもなければ独裁者でもない以上、世の中がどうなろうと自分自身の信念や決意を貫いていくしかないであろう。そう思いました。

雑感

という絶対合理主義/懐疑論相対主義/不可知論傾向を強めるばかりの僕だが、社民党のO-tsuka氏という知り合い(知り合いの知り合い)に言わせれば何となくそれはおかしいらしい。氏はセクシュアル・マイノリティのパレードなどに関与していなかっただろうかと思うが、氏によればそもそも地域通貨がまさにトンデモであり、それにディープに嵌っていた僕がそういうことを言い出すのは不思議だというか隔世の感があるとおっしゃるのですが、僕に言わせればそれは違う。

僕は大体世の中にある/あった地域通貨運動については知っています。確かにトンデモの要素は濃厚にある。だがしかし、それは主に次のふたつの方向である。まず第一に、エコロジーというよりもほとんど宗教ではないかというようなスピリチュアルやオーガニックへの傾斜である。例えば、誰でもモンサントなどの遺伝子組み換えには不安や疑問を持つ。食品添加物、化学物質、またジャンクフードだってそうですよ。だが、そこから余りにも極端な……。

それは目指されるコミュニティの中身というか方向性がどうなのかということですが、もう一つは、あたかもその代替貨幣が国民通貨を駆逐するとか取って代わるとか、一つのムラやコミュニティ、それのみならず日本国内全体、世界全体さえも「利子のつかない」新しい民主的貨幣などで廻っていくはずだという誇大妄想である。

地域通貨システムがトンデモであると正当に言われるとしたらその二つに関してであり、ほんのちょっとした物々交換や不要品交換リサイクルシステムの延長ということだったらそれはごく普通で当たり前のことである。だがしかし、そういうことだったら大して意義も面白味もないのも事実です。だから、ゼロ年代には、それまで長年地道に地域通貨に取り組んでいた人が、これではダメだ!といきなりそれを投げ棄て、それは別に構わないのですが、いきなりユダヤ陰謀論に走って狂人の本性を露わにしてしまう残念なことが沢山ありました。僕が地域通貨系から足を遠ざけたのは、地域通貨システムそのものがトンデモやユートピアだからというよりは、その手の世界の「隠された真実」がどうのというタイプの陰謀論が嫌いだからです。