Hatena::ブログ(Diary)

Classic 8-bit/16-bit Topics

Classic 8-bit/16-bit Topicsでは、海外での出来事を中心に、旧世代のコンピュータ/ゲーム機に関する雑多な話題を書き散らしています。ただしゲームミュージックやチップチューンなどに関してはVORCで専門に扱っていますので、ご興味がおありのかたはそちらもどうぞ。

2014/05/29 長年放置しておりまして、申し訳ございません。ここやVORCで書いていたような研究は現在、主に各種『ゲームサイド』誌に書き綴っております。よろしければご覧くださいませ。またそのほか最近の動向に関してはtwitter:@hallyvorcにてお知らせしております。いずれ更新を再開したいとは思っております。



2004 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 |
2014 | 07 |
2015 | 12 |

10.31.2004

[] ソ連の独自コンピュータ技術の衰退

先日の「プロジェクト・オーガス」に続いて、再び航天機構より。サイバネティクス弾圧期以降の紆余曲折が詳しく語られています。ソ連のIBM360クローンはリバースエンジニアリングで生み出されたものだと思い込んでいたのですが、実は背後に英独企業の姿があったのですね。

それにしても、クローン路線に転換したあとのソ連の歩みは、ルーマニアと対照的です。ルーマニアもほぼ同時期に、仏CII社からIris 50の製造ライセンスを取り付け、西側製コンピュータの国策的クローンを始めていました。技術こそ借り物ですが、その普及にかける共産党指導者たちの意気込みは、西側諸国を凌ぐものだったといえます。政府は1972年に、コンピュータを活用した経済コントロールの国家計画を発動しています。これはをあらゆる産業活動にコンピュータを導入しようというもので、その実現のためには、大量の技術者を育成することが急務でした。そこでまず、大学や研究機関におけるコンピュータ教育が著しい発展を遂げることになります。現代のコンピュータ技術者立国ルーマニアは、ここに端を発しています。

しかし1981年からチャウシェスク政権は巨額の外債償却を敢行し、ルーマニアの国家経済は急速に悪化。コンピュータ分野への投資は一気にしぼみ、そればかりか研究者の外遊さえ禁止されました。ルーマニアのコンピュータ技術は完全に孤立し、1989年の革命で自由を取り戻したときには、国際競争力を完全に失っていたといいます。コンピュータの大衆化に大きく遅れを取っていたソ連が、この間に態勢の建て直しを図っていたのとは、まるで逆の構図です。

1985年以降ルーマニアでZXスペクトラムのクローン機の開発が熱を帯びるのは、このような悪条件下でも、少しでもコンピュータ教育を進めようという苦肉の策だったのでしょう。共産党指導者も低価格なパーソナルコンピュータ誕生を幸いに思ったらしく、民衆が食うに困るような極貧にあえいでいた1987年に、それを押してまで高校でのコンピュータ授業を実現させています。

[] コンピュータ博物館一式がオークションに出品中

二週間ほど前にebay史上最大のコンシューマ機オークションなんていう話題をお伝えしました。あれで古パソコン補完計画のオークションを思い出されたかたもいらっしゃると思いますが、今度はまさにそのもの。本当にコンピュータ博物館まるまる一式のオークションです。出品者はカリフォルニア州のデヴィッド・フリーマン氏。フリーマンPC博物館というウェブサイトを運営しておられたかたで、その30年にわたるコレクションはおよそ600台に及びます (計算機、プリンタ、ゲーム機を含む)。残念ながら維持管理できなくなってきたので、まるごと買い取ってくれる人を探しているということなのですが、なかなか稀少なものも多いようですよ。

  • 数台しか現存しないといわれるScelbi-8Hの1台, ドキュメント付き。
  • アルテア製品の完全なコレクション: Altair 8800 (2台), TVTタイプライタとデュアルカセット, そのドキュメントとソフトウェア, Altair 8800b (TNT放送「シリコンヴァレーの海賊たち)で使用された機体), Altair 680, Pertec/MITS 8800ビジネスコンピュータ.
  • クロメムコ, ゴッドバウト, ターベルなどの、100種を超えるS-100ボード。
  • 『BYTE』誌全号ならびに、『Popular Electronics』『Kilobaud』『ReMark』『Amazing Computer』『IMSAIder』『Altair Computer Notes』『Processor Tech』『TI/99』『 Commodore』といった人気雑誌の大半。
  • 計算機: 30種を超える旧い電卓、計算尺、加算機など。
  • その他無数のソフト、マニュアル、雑誌類。

オークションは99ドルからスタート。399,000ドルで即決となっています。残すところあと一日あまりですが、どこに引き取られていくのかも気になりますね。

情報提供: id:idrougge

MoliceMolice 2004/10/31 11:39 御無沙汰です。もうすっかりヘタレ状態ですが。(^^; こういう具合にみんなまとめてカタをつけられたらどれだけ楽なことか……と我が身を顧みつつ心底思います。ハイ。

hallyhally 2004/11/06 04:14 Moliceさんならではの重みがあるコメントですね(笑 なにはともあれ、お身体をお大事に〜。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20041031

10.27.2004

[10/30]アルカディア2001について加筆。
[10/29]スクリーンショットによる解説を加筆。
[10/28]VC-4000/1292 PVSに関する記述を大幅に訂正。

[] スプライトの起源 (2)

第一回では、アタリがいかにしてスプライト技術を完成させ、敷衍させるに至ったかを解説しました。アタリが存在しなければ、あれほどの勢いでスプライト技術が発展・普及することはなかったでしょう。しかし実をいうと、そのアタリも唯一無二の発明者だったわけではありません。ヴィデオゲームメーカではないにも関わらず、アタリより早く同じ構想に辿りついていた人々が、ほかの企業にも存在していたのです。その企業とは、あの商用マイクロプロセサの祖・インテルです。

[] Odyssey2

スプライト技術を導入した最初のヴィデオゲームがアタリの「タンク8」(1976) だったことは間違いありません。しかし半導体レベルで話をするなら、先に製品化に漕ぎ着けていたのはインテルだったことになります。彼らがスプライト機能を持つヴィデオチップ・8244、通称VDC (Video Display Controller) を完成させたのは、1975年のことでした。その当時インテルで働いていたエド・エヴェレット氏は『ハルシオン・デイズ』 (ジェームズ・ヘイグ著, 1997) のインタビュー中で、以下のように回顧しています。

まだ「ポン」が最先端で、マイクロプロセサも誕生したばかりという太古の時代に、私はインテルに勤めていました。この頃インテルは、マイクロプロセサが活躍できる市場の開拓を進めていました。1975年のことです。ヴィデオゲームがボールを打ち合うだけのものからプログラム方式へと自然進化するだろうことは、そしてそれが完璧にマイクロプロセサ向けの市場になるだろうことは明らかでした。当時Pentium Proのような最新鋭CPUの座に位置していたのは、4040と呼ばれる4ビットのプロセサです。しかしその処理速度だと、ヴィデオゲームで必要となるピクセル単位の描画処理をさせることは、荷が重かったのです。私たちインテルが8244、つまりスプライトを基盤とする初のプログラマブルなゲーム用チップを開発したのは、大雑把にいってそういう理由からです。これはインテルの最も優秀な人材たちが技術を結集して作り出したものでした。開発にはニック・ニコルス、サム・シュワルツ、スタン・メイザーらが重要な役割を果たし、テッド・ホフも理解を示していました。

8244は2系統のスプライト表示機能を備えた、ユニークなチップです。ひとつは自由にデザインしたキャラクタを横方向に4枚まで表示できる、ごく普通のスプライト機能で、インテルの関連特許はこれを「マイナー・システム」と呼んでいます。もうひとつはチップ内部に収められた64個の固定キャラクタセットを、横方向に12個まで同時表示することのできるもので、こちらは「メジャー・システム」と呼ばれています。「メジャー・システム」はスプライトとしての用途より、得点の表示や、背景の補助を意図したものでした。8244の背景描画機能はなんとも粗末なもので、できることといえばグリッド表示、つまり縦横ラインやボックスを描くことだけだったのです。

せっかくのプログラマブルチップでありながら、自由にデザインできるのは結局「マイナー・システム」の4キャラクタのみ。したがって8244の最大の弱点は、どのゲームも似たような画面になってしまうことだったといえるでしょう。しかしこの弱点は、裏返せばコスト面の強みにもなりました。いわゆるビットマップ・グラフィクスを完全に排除したおかげで、当時きわめて高価な部品だったメモリチップを浪費することなく、そこそこの解像度 (といってもファミコンの半分以下ですが) を確保することができたのです。

まだ家庭用の「ポン」が出るか出ないかという1975年の時点で、マイクロプロセサ時代の家庭用ヴィデオゲームに必要な技術をこれほどまで見通していたインテルのスタッフは、恐ろしいまでの慧眼だったというほかありません。エド氏は続けてこう語っています。

次の問題は、このスーパーヴィデオチップを何処に売りつけるかということでした。アタリか、マグナヴォックスか? 選ばれることになったのは、ゲームに関係する重要な特許を握っている、フィリップス傘下のマグナヴォックスのほうでした。

しかしマグナヴォックスが8244を組み込んだ家庭用ゲーム機・オデッセイ2を完成させたのは、それから三年も後のことでした。なぜそれほどまで遅れることになったのか、詳しいところは分かりません。「スーパーヴィデオチップ」だったはずの8244も、その頃にはアタリやジェネラル・インストゥルメントの技術に追い着き追い越され、むしろ時代遅れのレッテルすら貼られかねない立場に置かれています。なんとも皮肉な話ですが、マグナヴォックスはそんな状況下でも北米だけで100万台のオデッセイ2を売り捌いたといいます。その健闘ぶりは、エド氏の意地に支えられたものだったといっても過言ではないでしょう。

オデッセイ2が生産に入ってから半年で、マグナヴォックスはゲームデザインの壁に突き当たりました。もう新しいゲームのアイデアが出てこないというのです。私は手伝いを買って出ることにしました。インテルに留まっているよりオデッセイ2のゲームをプログラムしたほうが、結果的にインテルの半導体セールスを伸ばすことができる、とアンディ・グローヴ (訳注: インテル創業者の一人で、当時の製造責任者) には説明しました。オデッセイ2には8244だけでなく、インテルのROM, RAM, 8048マイクロプロセサが入っています。つまりインテル満載だったわけです。

エド氏は以降五年の間に、24本ものオデッセイ2用ゲームをデザインしました。これは当時発売されたオデッセイ2用カートリッジの、ほぼ半数にあたる数字です。実のところフィリップスは、最初の数本のソフトをリリースした段階で、ヴィデオゲーム事業からの撤退を決意していたのですが、エド氏の孤軍奮闘で売り上げは好転し、やがて決意を翻さざるをえなくなりました。彼はオデッセイ2の、そして8244の救世主ともいうべき存在だったのです。

エド・エヴァレット氏が手がけた「K.C.Munchkin」。主人公キャラ (スカイブルー) とモンスター3体 (レッド、ブルー、グリーン) の4点が、自由にデザインされた「マイナー・システム」によるスプライトで、四隅のドットと下段の数字が「メジャー・システム」にあらかじめ登録された文字記号によるスプライト。迷路はグリッド機能による縦横ラインだけで構成されている。デザインは限られるものの、大量のスプライトを一括処理できるので、オデッセイ2はちらつきと無縁なシステムとして有名だった。ちなみにこのゲームは、オデッセイ2最大のヒット作でありながら「パックマン」の著作権を侵害したとして市場から消されることになったいわくつきの一作。コードに類似性のないゲームプログラムが著作権侵害判決を受けたのは、これがはじめてだった。

[] Interton VC-4000 / Radofin 1292 PVS

8244はオデッセイ2で使用されたのを最後に、ヴィデオゲームの世界から消えていきました。インテル自身も、これ以降ヴィデオゲーム用チップは開発していません。16枚同時処理という、時代を考えれば驚異的なそのスプライト技術も、結局後の世に受け継がれることなくロストテクノロジと化してしまったわけです。

しかし興味深いことに、ヨーロッパでは8244と非常によく似たヴィデオチップが、人知れず繁栄を遂げていました。フィリップス傘下の半導体メーカ・シグネティクスが開発した2636N, 通称PVI (おそらくProgramable Video Interface) です。2636Nには、8244との表面的な互換性はありません。しかしそのスプライト機能は、8244の「マイナー・システム」と酷似していますし、背景の描画方法がグリッドのみという点も同じです (もっともグリッドの構成方法はやや異質で、8244と違ってラインの太さをある程度変化できるようになっています)。最大の違いは「メジャー・システム」に該当する機能がないことですが、代わりに得点表示機能があり、その目的はある程度までカバーされているといえます。

シグネティクスの当時の製品については情報量が著しく少ないため、2636Nがいつ頃リリースされたものなのかはよく分かっていません。しかし、これだけ8244と設計思想の似通ったチップが、同じ時期にまったく独自に生み出されたということはないでしょう (両者は1チャンネルのサウンド出力機能を持っていることまで共通しています)。どちらかがどちらかを参考にしたと考えるのが自然ですが、だとするとオリジナルは、おそらく8244のほうです。8244の開発に携わった人々は「自分たちこそ世界最初のスプライトチップの生みの親である」と誇らしく語っていますし、もし2636Nのほうが先に完成していたのなら、マグナヴォックスもオデッセイ2の開発時に、グループ企業であるシグネティクスの製品を優先していたはずです。

2636Nを用いた最初のヴィデオゲーム機と考えられているのは、VC-4000です。これはドイツ最初のヴィデオゲームメーカとして知られるインタートン社が1978年に発売したもので、CPUにもシグネティクス製の2650Aを使用していました。日本や北米ではまったく無名ながら、同地ではアタリVCSに迫るほどの好セールスを記録していた人気機種です。

VC-4000の「Monster-Man」(スクリーンショットはClassic Consoles Centerより引用)。内容は「パックマン」を真似たものだが、背景はラインやボックスしか描けないうえ、スプライト枚数も限られているので、画面内にはたった1個のドットしか表示することができなかった。1個食べると次の1個が現れるという寸法である。迷路はグリッド機能で描いたもの。縦ラインと横ラインが交互に配置されるため、切れ目のない縦線が描けないという2636N特有の制約を見ることができる。なお得点の表示位置はどのゲームでも固定されている。

VC-4000はフィリップスからライセンスを受けて製造されたものだったようで、かつてVC-4000のゲームプログラマだったハンス・ハインツ・ビーリング氏は、BIOSとゲームソフトの大半がフィリップス製だったと証言しています。どうもヨーロッパの本家フィリップスは、オデッセイ2を展開する北米フィリップスとはまた別のヴィデオゲーム市場戦略を考えていたようです。

2636Nを最初に用いたとされる機種が、実はVC-4000以外にももうひとつあります。ラドフィン社の1292 PVS (Programable Video System) です。こちらも同じくドイツを中心に出回っていたものですが、VC-4000と内部構造がまったく同じであるにも関わらず、カートリッジスロットの形状が違うため、同じゲームソフトを使用することはできないようになっています。

1292 PVSの初出荷は、VC-4000より2年早い1976年だったといわれています。ラドフィンは香港を開発拠点とするイギリスの会社で、当時はポケット電卓を得意分野としており、ヴィデオゲーム分野にはようやく進出したばかりだったはずなので、にわかには信じがたい話です。しかしラドフィンの影響力がインタートン以上に強かったことは確からしく、1292にはヨーロッパ各地で20種類近い互換機が登場していました。

1979年にはドイツの『エレクトル』誌が、同じチップセットを用いたTVシュピールコンピュータ (ゲームコンピュータ) の自作方法を紹介しました。これを皮切りに、2636Nと2650によるゲームシステムは、オープンアーキテクチャの様相を呈しはじめます。翌年にも同路線の書籍が刊行されていますし、カートリッジスロットの仕様が異なる互換機も、その後さらに増えました。こうした2636N互換システムの隆盛は、VC-4000の製造が終了した1983年頃まで続いたようです。

[] Emerson Arcadia 2001

ヨーロッパにおける2636Nマシンの活況を受けて、シグネティクスは2636Nの上位チップ開発に着手しました。次世代チップは遅くとも1980年までには完成しており、2637Nという型番を授かっています (通称はUVI。Universal Video Interfaceの略でしょうか?)。

2637Nには2636Nと直接の互換性はないのですが、2636Nの基本設計を踏襲しつつ、さらに幅広い表現が可能になるよう工夫されています。まず背景用のグリッド機能は、パターンブロック機能へと進化し、正方形のキャラクタを自由にデザインして、背景画面に敷き詰めることができる仕組みになりました。また縦横方向のハードウエアスクロール機能も盛り込まれています。

しかし2637Nは、致命的な弱点をひとつ抱えていました。肝心のスプライト機能がまったく進歩していなかったのです。画面に5枚もキャラクタを表示すればちらつきが発生するなど、むしろ2636Nのほうがしっかりしていたとさえいえるくらいですから、スプライト時代の趨勢を明らかに見誤った設計だったというほかありません。

この不幸なチップを採用したゲーム機の代表が、エマーソンのアルカディア2001 (1982)でした。日本でもバンダイから発売されていたので、貧弱なスプライト機能がゲーム内容をどれほど寂しいものにしていたか、ご記憶のかたもいらっしゃるでしょう。背景キャラクタを無理矢理スプライトのように使おうとしているゲームの数々は、目に涙すら誘うものでした。

「エイリアンインベーダー」(1980頃)。フィリップス自らデザインしたと思われる初期の一本。スプライト機能で描画されるのはプレイヤ, UFO. ショットのみ。インベーダーやトーチカは、背景用のパターンを並べたもので、大量に配置できるのは良いものの、動作はスプライトのキャラクタに比べてはるかにぎこちなかった。アルカディア系システムのゲームはおしなべて、このぎこちなさと、少ないスプライト枚数に翻弄されている。

アルカディアはエマーソのオリジナル機ではなく、そのルーツを辿ると、1980年にドイツで発売されたパラジウム・テレシュピールというマシンに辿りつきます。開発元であるパラジウム社は、家庭用「ポン」のムーヴメントに乗ってヴィデオゲーム市場に参入してきた会社で、とりたてて技術的な蓄積があったわけではないのですが、そんな彼らが2637Nを使ったゲーム機をいち早く発売することができたのは、フィリップスがVC-4000のときと同様に、2637Nと2650をセットにしたゲームシステム一式を構築し、他社にライセンスしていたためです。パラジウムはその権利を最初に手に入れたに過ぎません。

パラジウム社に続いて、カナダのレジャーダイナミクス社も1980年ごろにラインセンスを獲得し、2637Nベースのゲーム機・レジャービジョンを売り出しました。エマーソンが目をつけたのはこの機種です。廉価家電の大手として知られていたエマーソンは、空前のヴィデオゲーム人気に沸くアメリカのヴィデオゲーム市場に参入する機会を覗っていました。彼らの眼には、アタリVCSよりは見栄えのする、しかしインテリヴィジョンよりは多少見劣りのするこのマシンが、両者の隙間を突くのに最適と見えたようです。エマーソンもまたフィリップスと契約し、1982年にレジャービジョンとまったく同じシステム・デザインのゲーム機を、アルカディア2001として売り出そうとしたのです。しかしそのリリースを目前にして、コレコビジョンやアタリ5200といった格段に高性能なマシンたちの発売がアナウンスされ、ヴィデオゲーム市場のトレンドは急変。エマーソンの出端は見事に挫かれました。

エマーソンはもうひとつ、アーケードのビッグタイトルを用意しそこなったという点でも、アタリやコレコに遅れを取っていました。ゲームセンタと理想郷をかけた「アルカディア」という名前が示すように、もともとエマーソンは「パックマン」や「ディフェンダー」をはじめとするアーケードの人気タイトルを続々投入する戦略を立てていました。しかしどうもライセンス交渉に失敗したらしく、そういったタイトルのほとんどは、北米では販売見送りになっています (ヨーロッパや日本ではタイトルを変えて一部流通)。アルカディアは「ジャンプバグ」「レッドタンク」「ジャングラー」など、他機種にはない妙に通向けな移植タイトルが多いことで知られるマシンですが、これらはいわばその穴埋めだったわけです。

発売前から死に態になってしまったエマーソンは、販売価格を当初予定の200ドルから一気に100ドルまで引き下げ、発売するやいなや在庫の一掃を急ぎました。エマーソンは翌1983年に、早くもアルカディアの権利を他社に売却してしまいます。

北米や日本では大失敗に終わったアルカディアの系譜は、しかしヨーロッパではそれなりに健闘しました。エマーソンと同じころ、オセアニアやヨーロッパに展開する大手ディストリビュータ・ハニメックスも、2637Nのゲームシステムに目を留めていました。アルカディア互換機は彼らの手でフランス、イギリス、ニュージーランドなどにももたらされています。ヨーロッパ各地では、その後もさまざまなメーカから多くの互換機が生み出されました (そして2636N互換機たちがそうだったように、またもカートリッジ規格が乱立することになります)。VC-4000のインタートンもまた、2737Nチップセットを使った次世代機を構想していたようですが、製品化をまたずにヴィデオゲーム市場から撤退しています。

先にも述べましたが、アルカディアなどの2637Nゲームシステムは、2636Nのそれと同じく、CPUにもシグネティクスの2650Aを用いていました。したがって、VC-4000などに慣れ親しんでいだプログラマにとって、2637Nゲームシステムはたいへん扱いやすいものだったのです。おかげでアルカディア互換機もやはりドイツで特に繁栄し、三種類もの互換機と、北米に倍する数のソフトが発売されることになりました。

[] フィリップス・ヨーロッパのヴィデオゲーム市場戦略

それにしても、フィリップス・ヨーロッパ自身はなぜ2636Nや2737Nをベースにしたゲーム機の完成品を発売しなかったのでしょうか。アルカディア2001研究の第一人者であるウォード・シュレイク氏は、フィリップスは2737Nベースのゲームシステムを幅広くライセンスすることで、いわば業界標準をでっち上げ、それによるヴィデオゲーム市場の制覇を狙っていたようだと述べています

アタリがフィリップスとあれほどまで激しく争った理由は、フィリップスが1982年に立てた計画が、まさに市場独占を狙ったものだったからです。彼らはゲーム機を創造し、それと一緒に出せるゲームを創造して、ライセンス料を払うものすべてに売ってやろうと考えていたのです。フィリップスはおそらく「ポン」全盛期の、ヴィデオゲーム特許に関する違反や裁判から、こういうやりかたを学んだのでしょう (訳注: ヨーロッパや日本では、マグナヴォックスが持つヴィデオゲームの基礎特許をフィリップスが管理していた)。もし首尾よくいっていたなら、3DOを思わせるお膳立てになっていたはずです…20年早すぎたという点以外は。設計はこちらもち、製造はあちらもち、そういうかたちで収益をあげることができたわけです。もっとも3DOと違って、ゲーム機は安上がりに製造できます。フィリップスの計画は巣晴らしかった…しかし数年遅すぎました。

フィリップスは同時期にCDやLDの標準規格を確立していたわけですが、そうした発想がヴィデオゲームの世界にも及んでいたとは驚きです。仮に2637Nの推進が数年早かったとしても、怒涛の低価格化を遂げたテキサス・インストゥルメンツのチップセット (TMS9918 VDP + SN76489 DCSG) に抵抗することが出来たかどうかは怪しいですが、このようにして早くから互換機構想に血道をあげていた経緯を見ると、フィリップスがのちにMSX構想に惹かれたのにも合点がいくというものです。

[] Magnavox Odyssey3

ヨーロッパで2637Nのゲームシステムが出回りはじめた頃、マグナヴォックスもまた、ポストVCSの座を狙った新鋭機・オデッセイ3の開発を進めていました。マグナヴォックスは再びインテルにグラフィクスチップの開発を依頼しようと考えていたようですが、インテルはすでにヴィデオゲーム市場への興味を失っていたらしく、これを辞退しています。マグナヴォックスは代わりに、グループ企業であるシグネティクスに新チップの製造を委託したようですが、結局製品化には至りませんでした。ここに至って8244の血脈は、完全に途絶えることになったわけです。

オデッセイ3は、それでも一応完成することはしました。ただしいぜん8244主体で、拡張ヴィデオチップにより背景描画だけを強化したマイナーバージョンアップ機としてです。これは過熱する北米ヴィデオゲーム市場を避けて、ヨーロッパでのみ少数がリリースされました。

マグナヴォックス後期の隠れた傑作「Killer Bees」 (1981)。左はそのオデッセイ2版で、右がオデッセイ3版。MSXなみに強化された背景は、フランス・トムソン社のテレテキスト用チップによるもの。オデッセイ3のグラフィクス強化は、これを8244の画面にオーバーラップさせただけだった。アタリやコレコの新鋭機に立ち向かうにはあまりにも非力で、北米市場を嫌気するのも無理はなかったといえる。

名称 解像度 色数 スプライト 背景
Intel 8244 (NTSC)
8245 (PAL)
144x96 8 横方向に16キャラクタ (8x8/単色, ROMに64キャラクタ内蔵) グリッド (9x8ブロック)
Signetics 2636N 128x200 8 横方向に4キャラクタ (8x10/単色) グリッド (16x20ブロック, 形状可変, 2ピクセル高と8ピクセル高を交互に配置)
Signetics 2637N 128x208 / 128x104 9 画面内に4キャラクタ? (8x8/単色) パターン (8x8/単色, 16x26または12x13ブロックに配置)

次回はアタリに話を戻し、その家庭用機のスプライトについて綴ります。

参考:

idrouggeidrougge 2004/10/29 12:48 シュピール
エレクトル又はエレトア
(続)

hallyhally 2004/10/29 13:22 ご指摘どうもです。つい英語読みしてしまいます(-_-;;

idrouggeidrougge 2004/10/29 20:27 訂正どうも。
ところで、本記事と関係なくても、先程の大量オークション編に続いて、これはどうですか。http://cgi.ebay.co.uk/ws/eBayISAPI.dll?ViewItem&category=4193&item=5133926413&rd=1

idrouggeidrougge 2004/10/29 23:25 この際、話は期待しなかった転換を遂げましたが、いつも通り大変興味深かったんですよ。以前全然知らなかった太古の事情について習えて、まるでスプライト教室の様でした。
次はマイナー氏の出番でしょうから楽しみにしてますよ。

krackmaniakrackmania 2004/11/05 19:31 ぬお。画像が増えてるッス。次が楽しみです。

hallyhally 2004/11/06 02:22 あまりにも日本に縁の薄い話なので、さすがに画像くらいないと訳が分からないかなと思いまして。一応次で完結の予定ですが、完結できるかな。

10.23.2004

[] プロジェクト・オーガス

ソ連製コンピュータの歴史に関する情報は英語ですら乏しいのが現状で、ましてや日本語の史料などほとんど皆無に等しかったわけですが、最近になってついに日本にも、その方面の歴史を精力的に掘り下げているかたが現れました。水城徹氏です。

旧ソヴィエト連邦でコンピュータ技術がなかなか発展しなかったのは、技術者たちの才気や力量が足りなかったからでも、開発資金が乏しかったからでもありません。岩上安身氏の「ペレストロイカとコンピューター」で読むことのできるように、1950年代から猛威を振るうようになった政治的な抑圧により、伸ばせるものも伸ばせなくなったということが、最大の問題だったのです。

もしそれがなければ、ソ連はいったいどのようなコンピュータ技術を発展させていたでしょうか。「ペレストロイカと〜」に登場するBESM-6や、過去に水城氏がメモしているSETUNなど、西側とはまったく異なるコンピュータ世界を開花させたかもしれない独創的な試みが、ソ連ではいくつも不遇のまま潰えていきました。水城氏が先日紹介したプロジェクト・オーガスは、そのなかでもとくにショッキングなものといえるでしょう。実現していればソ連はARPANETより早く国家規模のコンピュータネットワークを生み出し、究極の産業オートメーション化に突き進んでいたかもしれない―――そんな驚くべき構想が、実現寸前に挫折するにいたった顛末を記しています。

mgkillermgkiller 2004/10/24 08:49 ソ連時代のコンピュータ情報は興味深いです。プロジェクトの名前は30代のアニメ世代はちょっとニヤリとしてしまったり。

水城徹水城徹 2004/10/24 17:53 はじめまして。
元々は、同人誌シリーズ”宇宙の傑作機”の別冊くらいのつもりで調べ始めたものだったのですが、奥が深すぎて大変です。一応、纏めたものを冬のコミケで出す予定にしています。
8bit機やゲーム関連の話題、非常に楽しみにしています。元々MSX1/2/TurboRユーザだったもので。

hallyhally 2004/10/28 17:35 mgkillerさん: ははは。あっちのオーガスはどういう意味なのですかねえ。
水城徹さん: わざわざコメントいただきありがとうございます。しかしMSX1からTurboRまでとはまた筋金入りですね、驚きました。同人誌のほうは、コンピュータ史家必読のものになるのではないでしょうか。いまから楽しみです。コミケにほとんど縁のない身ですが、何としても読ませていただきます。

mgkillermgkiller 2004/10/29 11:45 あっちの綴りはOGUSだったと思うんですけど、ムックがもう手元にないので語源はちょっと分かりませんでした、残念。
水城さんの本は私も欲しいです。友達に冬コミでの代理購入頼もうかなあ。

ゴチゴチ 2004/11/12 08:27 究極の産業オートメーション化に突き進んで・・・まさかぁ〜と思うがT-34中戦車とかをヒョッコリ生み出す共産主義もしかして!?
PC本体より半導体製造が上手く行かなかったのが原因と何かで
読んだんですが・・・政治以外にそれは関係ないのカナ?

hallyhally 2004/11/13 13:21 ソ連の半導体技術は、少なくとも1970年代前半まではそんなに遅れていたわけではないんです。1974年には、K145IP1という独自開発のマイクロプロセサを備えたポケット電卓がリリースされていたくらいです。しかしフィールドはあくまで電卓なのですね。その成果はコンピュータ方面では活かされなかったみたいです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20041023

10.18.2004

[] Astrocade On A Chip

日本では「ワンチップMSX基板がついに完成か」なんていう話題が出ていますが、いっぽう海の向こうではバリー・プロフェッショナル・アーケード (バリー・コンピュータ・システム/アストロケード) のワンチップ化計画が大詰めを迎えつつあります。コモドールVIC-20やさまざまなアーケード基板などをワンチップで再現してきたFPGA Arcadeが開発しているものですが、コーディングそのものは完了しており、現在デバッグ段階とのことなので、まもなくお目見えするのではないかと思います。

バリー・プロフェッショナル・アーケードなんて言われても、名前すらご存知ない方が大半ではないかと思います。カジノ/ピンボール最大手のバリーが1977年より売り出したこのマシンは、位置付けとしてはアタリVCSやマグナヴォックス・オデッセイ2の対抗馬にあたる家庭用ヴィデオゲーム機ということになるでしょう。しかし同時に、入門者向けホームコンピュータとしての性質も兼ね備えていました。オデッセイ2もそういう方向性のマシンですが、プロフェッショナル・アーケードは輪をかけてコンピュータ寄りです。初期はコンピュータ関連ショップが主要な販路でしたし、途中からはBASIC言語のカートリッジが標準で付属するようになったくらいです。ゲームとコンピューティングのバランス配分を、当時としては実にうまく考えていたシステムで、低価格ゲームパソコンの元祖といえる存在かもしれません。しかし同クラス機ではもっとも高価だったうえ (高価なことで有名だったアタリVCSより更に50ドル〜100ドル高い)、バリー自身がマーケティングにひどく消極的だったため、歴史の狭間に消えて行くことになります。バリーは1980年にアストロケードの展開から手を引きました。しかしそのコンピュータ入門機としての完成度の高さを惜しんだユーザたちがアストロヴィジョン (のちのアストロケード) 社を設立して権利を買い取り、1985年頃まで販売を引き継いだというくらいで、ユーザには本当によく愛されたシステムだったのです。

[] ふたりのNutting

プロフェッショナル・アーケードのハードウェアは、1970年代のバリー/ミッドウェイを影で支えたデイヴ・ナッチング・アソシエイツ (DNA) 社の、高度なマイクロプロセサ技術の結晶とも呼べるものです。社名でお気づきかと思いますが、このDNAというのは、最初のアーケードヴィデオゲームのひとつとして名高い「コンピュータ・スペース」を世に送り出した、あのナッチング・アソシエイツと縁のある会社です。ナッチング・アソシエイツはもともと、ビル・ナッチングとデイヴ・ナッチングの兄弟が設立したものだったのですが、やがて両者の間に不和が生じ、会社は分裂。ビル氏の本家ナッチング・アソシエイツはシリコンヴァレーへと向かい、デイヴ氏のもうひとつのナッチング・アソシエイツは中西部へと向かいました。

ビル氏はその後、ノラン・ブッシュネル氏と邂逅してヴィデオゲームに開眼し、「コンピュータ・スペース」を発売。「ポン」ブームの渦中にも、亜流ゲームをいくつか繰り出しました。世界最初のカラーヴィデオゲーム「ウインブルドン」もそのひとつです。しかしその後の行方はよく分かっておらず、一説によるとビル氏は間もなく会社を畳んで、キリスト教の布教活動に従事するようになったといいます。

いっぽうデイヴ氏側のナッティング・アソシエイツ=DNAは、当初ヴィデオゲーム産業には関わろうとはしませんでした。中西部といえばピンボール産業の一大拠点です。DNAは「ポン」ブームを尻目に、この地でピンボールのソリッドステート化に取り組んでいました。1974年9月、デイヴ氏らは世界で初めてマイクロプロセサ方式ピンボールの実用化に成功し、その成果をバリーに披露しています。それまでの常識では考えられないような省スペース化を達成したその筐体は、バリーの度肝を抜いたといいます。

しかしDNAの技術力に着目したのはバリー以上に、そのアーケード部門子会社であるミッドウェイでした。彼らはマイクロプロセサを使うことで、同じようにしてヴィデオゲームの回路も単純化できるはずだと気付かされたのです。ミッドウェイといえば、当時すでにアミューズメント最大手の一角ではありましたが、まだどちらかといえばエレメカに力点を置いており、オリジナルなヴィデオゲームの開発にはたいへん消極的でした。「ポン」以降彼らが製造していたのは、おもにタイトーやラムテックのライセンス品です。そういうミッドウェイにしてみれば、面白いゲームを考え出すことより、製造工程の効率化のほうがよほど重要だったわけです。そこでミッドウェイはまず、タイトーの「ウエスタンガン」 (1975) をDNAの技術で再設計させることにしました。こうしてTTL基板の「ウエスタンガン」は、アメリカではマイクロプロセサを採用した世界初のアーケードヴィデオゲーム「ガンファイト」へと生まれ変わることになったのです。

[] Midway 8080 System

DNAは翌年バリーに吸収され、完全にそのシンクタンクとして機能するようになりました。これによりミッドウェイはアタリにも劣らぬ最先端ヴィデオゲーム技術の担い手として、大きく飛躍することになります。「ガンファイト」を手がけたデイヴ氏とトム・マクヒュー氏は、次に完全オリジナル新作「シーウルフ」 (1976) の開発に取り掛かっています。潜水艦ゲームという新しいジャンルを切り拓いたこの作品は、「ガンファイト」をも上回る人気作となり、およそ1万台を出荷。ミッドウェイにおけるDNAチームの評価は確固たるものとなりました。

ところで「シーウルフ」は「ガンファイト」の基板をベースにしています。「ガンファイト」は、同じ基板を複数のゲームで使い回せるようにする、いわゆるシステム基板の先駆けでもあったのです。この通称ミッドウェイ8080システムボードは、1980年頃まで使用されていました。

元祖システム基板的なものは「スペースインベーダー」ではなかったかと思われるかもしれませんが、実はその「スペースインベーダー」にしてからが、ミッドウェイ8080システムで生み出されたものだったそうです。デイヴ・ナッチング氏の証言によると、タイトーは「スペース・インベーダー」を完成させるにあたって、このシステム基板を無断でコピーしていたということです。現にミッドウェイは、同システムを使ってオリジナルと寸分違わぬ「スペースインベーダー」を動作させていますし、そもそも三年前の基板で動いてしまうこと自体が (ドーターボードでいくらか性能アップしていたとはいえ) 不自然なことですから、デイヴ氏の言葉は事実と考えて差し支えないでしょう。ミッドウェイはおそらく、このことを黙認する代わりに、北米における「スペースインベーダー」の製造販売権を独占する契約を結ばせたのではないかと思います (スターンも「スペースインベーダー」をライセンス製造していたことが知られていますが、これもミッドウェイの管理下にありました)。タイトーがミッドウェイに独自の続編制作を許していたことなどから見ても、ミッドウェイがいかに強い立場にあったか分かるというものです。こういった抜け目のなさで、ミッドウェイはアタリを凌ぐ北米最大のアーケードブランドとしてのし上がっていくわけです。

[10/23追記]: タイトー版とミッドウェイ版のゲームプログラムは、バイナリレベルでも酷似していることが分かっています。この事実もまた、ハードウェアの差異がいかに少ないかを示唆しているといえるでしょう。

[] Professional Arcade

バリーは1977年までに家庭用コンピュータ/ヴィデオケーム市場へと進出することを決意し、DNAチームはこの開発を担当することになりました。これがプロフェッショナル・アーケードとなるわけです。その設計思想は、最大のライバル機といえるアタリVCSとは対称的なものでした。アタリが拡張性を極力排除し、ヴィデオゲーム機としての性能だけを追求したのに対して、DNAチームは拡張次第でなんでもできるような、非常に柔軟なシステムを目論んでいました。実は1977年秋の試験的な通信販売の段階では、プロフェッショナル・アーケードは「ホーム・ライブラリ・コンピュータ」という名前を冠され、教育デバイス、ゲームマシン、ビジネスツール、ホームコンピュータとしての性質を等しく強調していたのです。「アーケード」の名でヴィデオゲーム機を強く匂わせるようになるのは、翌年以降のことです。

プロフェッショナル・アーケードの中枢部ともいうべきカスタムヴィデオチップもまた、VCSのそれとは性質を異にします。アタリVCSはハードウェアスプライト機能を持たせることにより、ゲーム用に映像の最適化を図ったわけですが、プロフェッショナル・アーケードはより多彩な画像処理を可能にする、いわゆるビットブリットに近い仕組みを持たせ、スプライト処理はソフトウェアに任せています。この方法だとハードウェアスプライトのようなキャラクタ同時表示数の制限がない代わりに、軽快な描画にはより多くの処理速度が要求されるわけですが、DNAチームは十分実用に耐える速度でソフトウェアスプライトを実現させていました。

このチップは本来、アーケード機でも家庭用機でも通用するように設計された多目的チップでした。プロフェッショナル・アーケードの名前は伊達ではなく、実際アーケードでも「GORF」「ウィザード・オブ・ウォー」「ロビー・ロト」ほかいくつかのゲームがこのチップを使用しています。「ロビー・ロト」のROMイメージは幸いにも合法的にフリー公開されていますので、MAMEを用いれば、このカスタムチップの性能を簡単に確認することができるでしょう。

ただしアーケードで使用される場合は、大量のグラフィックRAMを必要とする高解像度モード (320x204) で動作していました。このモードはRAMの少ないプロフェッショナル・アーケードでは封印されているのですが (いずれRAMが安価になるとは想像していなかったのでしょう)、ミッドウェイはその真価を引き出すべく、プロフェッショナル・アーケードをビジュアル志向の本格的なホームコンピュータとして使えるようにするためのアドオンユニット・ZGRASS-100の開発も進めていました。これはバリーが家庭用機ビジネスから撤退したため未完に終わりますが、1980年にはデータマックスという会社が、同じチップセットを用いたUV-1という業務用コンピュータを開発し、CGアーティスト向けに少数を製造していたようです。

ちなみにプロフェッショナル・アーケードはサウンドにも特徴的なカスタムチップを用いていました。これは最高3音の矩形波を同時出力するもので、その点では同時期に誕生したPSGチップに近いものですが、非常に強力なノイズジェネレータを搭載しており、往時のどの音源チップよりも豪快かつ表情豊かな効果音を発することができるようになっていました。

[] その後の Dave Nutting & Associates

バリーが家庭用ゲーム/コンピュータビジネスから撤退したあと、DNAの面々は再びアーケード方面に戻っています。前出のアーケード作品は、その頃に開発されたものでした。彼らの手がけた作品では、「GORF」や「ウィザード・オブ・ウォー」のほか、ミッドウェイ唯一のヴェクタースキャンゲームである「オメガレース」などが、ある程度の人気作となっています。しかし1983年から1984年にかけてのアーケード不況到来で、バリーはついにDNAを閉鎖してしまいます。以前「パックマン・ファミリの舞台裏」で述べましたが、このころミッドウェイはもうひとつの主戦力だったナムコとも疎遠になっています。かつての二大ヒットメーカーを手放したミッドウェイは、非常に地味なメーカへと変質し、1988年にはバリーもろとも、ウィリアムスに買収されることになります。「モータル・コンバット」で再びアーケードの覇者に返り咲くのは、これ以降の話です。

参考:

krackmaniakrackmania 2004/10/20 00:25 一瞬Asteroidsの方かと思いましたよ。
http://www.fpga-games.com/astdlx.htm
しかし、インベーダーが海賊基板とは話に聞いてましたけど・・。

hallyhally 2004/10/20 03:04 おや、FPGA Arcadeとはまた別に挑戦している方がいるのですね。これは知りませんでした。インベーダ基板の出自については、やっぱり日本でも噂があったのですか。

krackmaniakrackmania 2004/12/01 00:02 http://oguri-195.cis.nagasaki-u.ac.jp/~sakamoto/nes/index.html

あと、いつかは書こうと思ったんですが、NES on FPGAでましたね。

10.17.2004

[][] Nintendo 3-in-1 Arcade 登場

「ドンキーコング」「ドンキーコングJr.」「マリオブラザーズ」といった任天堂のアーケードヒット三作品がセットになって、アーケードに復活します。筐体まで含めて非常に高い再現性だという話ですが、「ドンキーコング」シリーズはモニタが縦、「マリオブラザーズ」は横なので、100%完全再現ではないだろうという指摘も出ていますね。

興味深いのは、リリース元がまたもナムコだという点ですね。ナムコは今年すでに復刻版「スペースインベーダー/QIX」のアーケード筐体を発売しているわけですが、自社の過去資産をいたずらに復刻するのを控え、あえて他社の (しかしもっともリバイバル需要のある) 製品に狙いを絞っているあたり、かなり本気でアーケードのレトロ市場支配を考えている様子が伺えます。最近になってウルトラケードと袂を分かった理由もそのあたりにあるのでしょう。米国市場では復刻版「ギャラガ/Ms.パックマン」が、発売から五年を数える今年に入ってもまだまだ好調だそうですが、こんなロングヒットは昨今のアーケード市場では例がないわけですから、真摯になるのも当然といえそうです。

from slashdot

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20041017

10.10.2004

[][] スプライトの起源 (1)

背景グラフィクスの処理とキャラクタグラフィクスの処理をハードウェアレベルで切り離し、あとから合成する―――という、いわゆるハードウェア・スプライト技術の確立は、ヴィデオゲーム史上もっとも重大なブレイクスルーのひとつに数えられます。1980年代のゲームが1970年代に比べて飛躍的に表現力を向上させることになったのは、この技術によって何十個ものキャラクタたちを縦横無尽に行き交わせることができるようになったためでした。1990年代にフレームバッファ方式が主導権を握るまで、ヴィデオゲームの進化は、スプライトの描画性能をどこまで伸ばせるかに懸かっていた―――といっても過言ではありません。

日本でスプライト機能が注目されるようになったのは、おもにファミコンの登場以降でした。それゆえファミコン以降のスプライト事情はよく知られているわけですが、逆にそれ以前の時代については、今日に至るまでまったく整理されていません。そのせいでスプライトの起源についても、誤った認識が定着してしまっています。

まずはっきりさせておきますが、最初にスプライト技術を実用化したのはナムコの「ギャラクシアン」でも、テキサス・インストゥルメンツのVDP (TMS9918) チップでもありません。たしかにこの両者は、スプライト技術の浸透に筆舌しがたく貢献しましたが、技術としての下地を整えたのは、実はアタリなのです。この事実が見過ごされがちな理由は、アタリが自らの発明について不思議なくらい寡黙だったためでしょう。アタリ自身はこの技術を「モーション・オブジェクト」と呼んでいました。「スプライト」という用語はVDPチップの設計者たちが後から考え出したものなのですが、それが一般名として根を下ろしてしまったことからも、アタリの寡黙ぶりが分かると思います。アタリ以外では唯一ナムコだけが「オブジェクト」という呼称にこだわっていました。彼らはスプライトがどこから来たのか心得ていたのですね。

[][] Steeplechase

アタリがスプライト技術を編み出したのは、1975年頃のことです。この当時、アタリをはじめとする最先端のゲームメーカたちは、画面上で複数のキャラクタを効率的に描画するにはどうすればいいかという課題に頭を悩ませていました。「ポン」ぐらい単純なゲームなら、キャラクタごとにいちいち表示回路を組んでいても、それほど負担にはならなかったわけですが、ゲーム内容やキャラクタグラフィクスが複雑化してくるにしたがって、そういうやり方では設計面でも製造コスト面でも無駄が目立ちすぎるようになってきたのです。アタリは1975年に、画面内周回型レーシングゲームのヒット作「インディ800」をリリースしていますが、これなどは八台のプレイヤ・カーひとつひとつに、まるまる基板一枚を割り当てていたといいます。

アーケード各社はそれぞれのやりかたで最適化に挑んでいたわけですが、アタリがここに賭ける意気込みは、他社とは一線を画していました。そうなるきっかけを作ったのは、ステフェン・ブリストウ氏です。彼は「ポン」のヒット後にアタリが雇い入れた最初のエンジニアで、1974年頃からずっと、アメリカンフットボールをヴィデオゲーム化したいという野望を抱いていました。その当時のヴィデオゲームといえば、移動するキャラクタはどんなに多くても5個程度しか登場しません。しかしフットボールとなれば、最低でも20個近くのキャラクタを一度に処理する必要があります。これを実現するためには、単なる最適化にとどまらず、表示技術を根本的に革新する必要があったわけです。

1975年10月、彼はその最初の成果を「複数イメージ位置コントロールのシステムと手段」という特許にまとめています。おそらく「スティープルチェイス」 (1975) あたりから実用化されたものでしょう。これは「インディ800」のおよそ半年後に登場した6人対戦ゲームですが、キャラクタ表示を含むすべての機能を一枚の基板に収めることに成功しているのです。そのうえ全キャラクタに継続的にアニメーションまでさせているのですから、まさに革新というほかありません (ヴィデゲームにおけるパターンアニメーションもまた、ブリストウ氏による同時期の発明で、この直前にリリースされた「シャーク・ジョーズ」で初採用されています)。しかし「ハイパーオリンピック」のハードル競技をもっとシンプルにしたようなゲーム内容は、当時としても単調すぎたのか、それほど注目は集めなかったようです。

ブリストウ氏の特許には、キャラクタを背景と合成するという概念はありません。つまりまだスプライトと呼べる技術にはなっていないわけですが、このキャラクタ表示の徹底的な合理化は、スプライトへの第一歩となりました。

[][] Tank-8

まだアタリを興す前、ノラン・ブッシュネル氏はヴィデオテープを発明したことで知られるアンペックスという会社に勤めていたことがあります。彼はそこでスティーヴン・メイヤーという凄腕エンジニアに出会い、その才能に感銘を受けていました。

アタリ設立後の1973年、メイヤー氏は同僚のラリー・エモンズ氏とともにアンペックスを辞し、シアン・エンジニアリングというコンサルタント会社を設立します。アタリはすぐに彼らの技術を積極的に活用しはじめ、やがて独占契約を締結しました。シアン・エンジニアリングはアタリのシンクタンクとして、技術的な難問の解決に大車輪の活躍を見せ、まもなくその所在地「グラスヴァレー」が愛称として使われるほど身近な存在となっていきます。

前述のブリストウ氏による発明も、実はメイヤー氏との共同研究によるものでした。ブリストウ氏はその後アーケード部門のエンジニアリング責任者に任命され、表立ってゲームデザイナとして活躍することはなくなるのですが、キャラクタ表示に関する研究は、メイヤー氏とグラスヴァレー・チームがしっかりと引き継ぎました。そして1975年の終わり頃までに、背景とキャラクタの処理システムを二分化し、水平帰線期間を活用してこれらを合成するというスプライトの基礎を、ついに確立するのです。この技術はのちに「ヴィデオ画面に移動オブジェクトを多数生成する方法」という特許になっていますが、製品としてはじめて実用化したのは、メイヤー氏らが自らデザインした「タンク8」 (1976) でした。アタリが初めてマイクロプロセサを採用したことで知られる、8人対戦型の戦車ゲームです。

[][] Sprint 2

グラスヴァレー・チームはこれ以降アーケードゲームから遠ざかり、家庭用機でのスプライト実用化に心血を注いでいます。アーケード方面での研究を継いだのは、ブリストウ氏とならぶ古株であり、「インディ800」や「スティープルチェイス」を手がけたライル・レインズ氏です。彼はグラスヴァレーの技術をさらに発展させ、まず複数のスプライトキャラクタを重ね合わせて表示できるようにしました。この成果は「タンク8」と同じ年にリリースされた「スプリント2」に現れています。「スプリント2」は、マイクロプロセサとスプライト技術で「インディ800」を再構成したような作品で、いわゆるアタリフォントを用いた最初のゲームでもありました。以降スプライトを使用するアタリのゲームは、たいていこの系統のフォントを用いていますから、アタリフォントはスプライト技術の象徴的存在ともいえるでしょう。

[][] Atari Football

レインズ氏は、ブリストウ氏の抱いていたフットボールゲームのアイデアに共感していたようです。彼はこの実現のためにもう一段改良を重ね、ついに最高16個のスプライト同時表示を達成しました。これで開発に弾みがつき、ブリストウ氏の夢見たゲームは1978年、ようやく「アタリ・フットボール」として完成するのです。このゲームは日本でこそまったく無名ですが、アメリカでは同年最大のヒット作となり、NFLシーズン中は「スペース・インベーダー」をも凌ぐ人気を誇ったといいます。このゲームはまた、トラックボールを採用した最初のヴィデオゲームとしても歴史に名を残しています。

「アタリ・フットボール」で用いられたスプライトシステムは、のちにMOC-16 (Motion Object Control, 16 objects) という汎用スプライトシステムへと発展しています。「アタリ・フットボール」の開発に参加していたマイク・オルボー氏は、「MOC-16は日本のヴィデオゲームメーカたちの手で広くコピーされ、そして改良された」と述懐しています。やがてスプライト技術の旗手となるナムコが、その最初のヴィデオゲーム「ジービー」を世に送り出したのは、ちょうど「アタリ・フットボール」がお目見えした1978年10月でした。その時から彼らはMOC-16を徹底的に研究していたのでしょう。「ギャラクシアン」を世に送り出し、最高4個のカラースプライト同時表示という技術を披露したのは、それからわずか一年後のことです。ナムコが積極的にアタリフォントを使っていたのは、もしかすると自分たちの技術の礎を築いたアタリに対する、隠れた賛辞だったのかもしれません。

参考:

idrouggeidrougge 2004/10/10 13:00 おぉ、さきBBSでジェイ=マイナーのことが取り上げられてからスプライト技術の起源について語ってほしかったんです。これがサービスってもんですね!

hallyhally 2004/10/10 19:35 次回は家庭用機編、いよいよジェイ・マイナー氏の活躍に踏み込んでいきますよ…と言いたいところなのですが、アタリ800の開発エピソードって、充実しているようで意外と少ないですね。ちと悪戦苦闘中です。

寺町寺町 2004/10/13 21:10 今回も有用なテキストを公開していただき感謝です。勉強させていただきます。私も先日別方面からなんですが、スプライトの考え方はそもそもATARIが考え、特許をとったものも同社であるとうかがいました。何でもファミコンは、その特許にひっかからないようにすごく工夫されているとか。

hallyhally 2004/10/17 13:02 なるほど、やはり知っている人は知っていることなのですね。たしかに、ファミコンは描画専用プロセサという発想ひとつとっても、アタリと衝突しないための工夫にも見えます (原理的にはアタリ800やTI-99/4が先にやっていたことではありますが、特許はあくまでゲームについてのものですからね)。ところでスプライトには実はもうひとつルーツがあります。アタリが自社の発明を喧伝しなかったのは、その辺にも理由があるのかなと邪推しているのですが…これについては次回触れます。

s-yamanes-yamane 2004/10/23 20:28 勉強になります.
bit誌(http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bit/bit.html)の1996年12月号を読んで,スプライトはTIチップのユニークな機能だと思っていました.
なお,同誌記事によればスプライトを「オブジェクト」とも呼ぶ事例として,1979年にマテル社から発売された Intellivision (日本ではバンダイ「インテレビジョン」)の資料の中に「Moving Objects」という表現がある,と書いてありました(ただしそれが最初の用例ではないかと書いている).参考までに.

hallyhally 2004/10/29 14:31 bit誌がそのあたりを考証していたことがあったのですか。参考になります。IntellivisionはGIのGimini 8900というチップセットが土台になっているわけですが、そのパンフレットにもすでに「Moving Objects」と記されています。当時のGIはアーケードゲームの家庭用化にどこよりも積極的でしたから、アタリの特許は十分に熟知していたことでしょう。

10.09.2004

[] Dreamcast On A Chip?

当雑記が通常扱う範囲からは外れますが、ゲーム機のワンチップ化テクノロジもここまで来たかという目安として、ちょっとご紹介させていただきましょう。

「ワンチップドリームキャスト」と噂される新チップの名前はSH3707。開発元は日本のルネサス・テクノロジ。ドリームキャストとともに一度は衰退したSH系CPUを、携帯電話方面で盛り立てている会社ですね。で、実際のところはドリームキャストをそのままワンチップ化するわけではなく、おおよそドリームキャストの二倍以上の性能にするのだそうです (コアプロセサは360MIPS/1.4gigaflopsから560MIPS/2.1gigaflopsに高速化、グラフィックスもPowerVR2相当から PowerVR MBX相当に変更)。ほかにMPEG-1/2/4および8チャンネルPCM/ADCPMの再生機能が組み込まれるそうですが―――8チャンネル? 音源はヤマハのAICA (64チャンネル) とは別物のようですね。ということは、別にドリームキャスト完全互換を狙ったものではなく、あくまでおおよその基本仕様を踏襲したものというこということなのでしょう。「ワンチップドリームキャスト」という表現は、性能の基準線くらいに捉えたほうが良さそうですね。といっても実際にゲーム機などのエンタテイメント用途を想定したものではあるそうなので、謎のTreamcastあたりがこれを応用してドリームキャスト互換機を繰り出してくる可能性は、ないとは言いきれません。果たしてドリームキャストの遺産がどういう形で復活しますか、出荷開始予定の2005年第一四半期を待ちましょう。

from slashdot

[] ebay史上最大のコンシューマ機オークション

ゲーム1300本に本体300台。内訳はアタリ2600が42台、NESが78台、SNESが60台、ジェネシス42台、プレイステーション37台…。115,00ドルで終了しています。

from slashdot

林雨林雨 2004/10/10 09:02 そう言えば、少し前ですがPC博物館を作ろうと蒐集してらっしゃた方が、挫折してYahoo! オークションで百台以上のPCをまとめて出品しておられました。あの時もVORCで報告しようかと迷ったんですが、周知の事でしたら申し訳ありません。

hallyhally 2004/10/10 23:34 ご思案いただきありがとうございます。あれは各方面で反響を呼んでいましたので、さすがに聞き及んでいます。ぜひ活かされるべきところで活かされて欲しいものです。

ごちそうひぢきごちそうひぢき 2004/11/12 08:56 ワンチップDCが気になってしょうが有りません!!ルネサスのリンクは英語だし;
何か情報ほかに有りませんか?
確かに8bitワンチップ器の話も楽しいのですがレトロフューチャーぢゃ無ヒですか;
トゥルーフューチャーも欲しいんです(涙)そしてどうかクローズドな物ミニモニカラオケ;
でなく、PC互換機の様ナ、オープンアーキテクチャにして下さい!!
ルネサスがデバイス製造という所に一条の光を感じるんです!!
コメントに長文失礼しました;h

ごちそうひぎきごちそうひぎき 2004/11/12 09:04 ↑文末のhには何の意味もありません;ノートから書き込んでるので投稿をクリックする時、力を込め過ぎて暴発したみたひ;熱苦しい文でごめんなさい。

hallyhally 2004/11/12 15:33 記事中にはほかに「最大解像度1024x768, 秒間1000万〜1300万バーテックス/500万〜600万ポリゴン, シーンにつき最大20%の透明度」という説明もあります。しかしルネサス自身のプレスリリースがないので、これ以上は依然不明ですね。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20041009
旧世代機専門ニュースサイト (日本語) :

         
Connection: close