ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シンガポールの宗教間対話問題

シンガポールから送られてきたハートフォード神学校の修士論文1965年独立以降のシンガポールにおけるクリスチャン・ムスリム関係史』(2007年)を読んでいます。実際には、タイトルに反して、6章立ての4章分が独立以前の話で、マラヤ/マレーシアの事例がかなり含まれています。また、全体的に、二次文献の切り貼りもどきの文章が並び、最近のシンガポールの宗教間対話の事例をのぞけば、参考文献のかなりの部分が私の所有と重なっています。それにもかかわらず、筆者は「これはシンガポールで初の学術的試みだ」と述べています。
シンガポールやマラヤ/マレーシアのムスリム事情やイスラーム関係の記述に関しては、日本の研究者が既に10年以上も前に数多くの論文で記述と検討を試み、岩波の『イスラーム辞典』でも事例が載っているものなので、この場合、一体どのように解釈すればいいのか、戸惑っています。「進歩的」なアメリカで、「シンガポール人がまだ試みていない」テーマを勉強して論文に仕上げたつもりで意気揚々としているのに、日本に送ったら、生意気にも「もうその話については、私達は日本語文献で知っている」と返事が戻ってくるとしたら....??
でも、この事実を知った時、東南アジア(史)学会の諸先生方の先見の明を感じましたし、やはり何でも勉強しておかなければならないなあ、と改めて思いました。
そこで勇気を得て、昨日は、英文で9ページほど、思い切って、率直な私の感想と、ハートフォード神学校と内村鑑三の関係、神学的保守性の問題と人々のニーズ、シンガポールやマレーシアでのリサーチ体験などを書いて送りました。見解は異なりますが、使っている資料やフィールドが同じなので、筆者がどのように受け止めるか、心配でもあり、楽しみでもあります。もしかしたら、機嫌を悪くして返事なんてこないかもしれない、ですね。
今や、かつて莫大な援助や技術移転を受けたシンガポールもマレーシアも、政治家自らが、日本の指導者層や大学の疲弊状況やモラル低下を、批判したりあざ笑っている有り様です。「我々は、もう既に日本を抜いた」「日本から学ぶものは、もはや何もない」と。内心、(いくら何でも、そういうモノの言い方はないのではないか。歴史的背景も違うのに)と思う一方で、(指摘は確かに当たっている。そこは謙虚に受け止めよう)という気持ちとが交錯しています。
振り返れば、エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本が世間を賑わせていた頃、私は(そんないい加減な持ち上げにうかれていたら、すぐにしっぺ返しがくるのに)と思い、結局は読みませんでした。当時、「ヨーロッパから学ぶものは、もはや何もない」などとも、よく耳にしました。
しかし、それが間違っていたことを、現在の日本社会を見て思います。人間社会はいつでも活力があり、大小さまざまなダイナミズムが交錯する場です。立ち止まったり、いい気になっていたら、すぐに追い越されてしまいます。いえ、単なる競争社会とか格差社会のことを言っているのではありません。文化の接触と交流による刺激がもたらす変化も含めているのです。
話を冒頭に戻しますと、シンガポールでも、「ムスリム・クリスチャン対話が重要だ」とは言われるものの、実際には、プロテスタント教会の方が「対話よりは伝道活動を」という姿勢だったり、「シンガポールムスリム・クリスチャン関係は、すなわちマレー人と華人の民族問題だから、センシティヴなので関わらないようにしている」というのが、本音だったりします。カトリックの方がその点で活発なようですが、それも、あるシスターが非常に熱心に推奨し、資格を得て相当の地位に就いたから人々が従っている面も否めないようです。
現在のシンガポールの宗教人口比は、次のようです(2000年統計)。
・仏教42.5% 無宗教14.8% キリスト教14.6% イスラーム13.9% 道教8.5% ヒンドゥー教4% その他1.6%(ユダヤ教ジャイナ教ゾロアスター教バハイ教シーク教など)
・マレー人の99.5%がムスリムだが、0.4%が「その他の宗教」で、0.1%が無宗教
・インド系ムスリムは、インド系人口の21%を占める。華人ムスリムもいるが数値は不明。

なお、最近のオンライン新聞で読んだところによれば、最近では、キリスト教よりも仏教の方がシンガポールでも人気が高く、人口が増えているそうです。
上記の統計によるならば、71.5%が「ムスリム・クリスチャン関係」以外の人口を占め、ムスリムとクリスチャンの人口比はほぼ拮抗しています。

さて、シンガポールでは、1949年にようやく宗教間対話組織ができたものの、実際の参加者は限られており、その翌年には有名な「マリア・ヘルトーフ事件」が発生しています(参考:『岩波イスラーム辞典』(2001年)p.932およびHaja MaideenThe Nadra Tragedy: The Maria Hertogh ControversyPelanduk Publications, Selangor, Malaysia, 1989/1991/2000)。
そして、1964年には、マレー人と華人の間で民族衝突事件が発生しました。現在は、表面的には平和で落ち着いているかのように見える関係も、一皮めくれば緊張があり、いつ対立が表面化してもおかしくはないのだそうです。
そのような背景に基づき、この論文で筆者が主張したいのは、キリスト教が対話に加わると、相手の改宗を密かに試みているのではないかという懸念が非キリスト教人口から生まれていること、シンガポールにおけるプロテスタントの神学は保守的であって、クリスチャン達は「植民地的メンタリティ」をまだ保持しており、自らを「文明的」だと「優越感」を抱いているが、ムスリム側は対話を望んでいるのだから、現行の「キリスト論」修正を含む「新しい諸宗教の神学」が必要だ、とのことです。特に、9.11以降は、急速に宗教間対話の催しが増えたそうです。(それは世界的傾向だと私は思いますが。)
主張はわかるのですが、現実面を見れば、これはアカデミアの枠内でのかけ声に過ぎませんし、結局のところ、アメリカの神学校から教えられたやり方を持ち帰っているだけの、「新たな代替的植民地主義的メンタリティ」だとは言えないでしょうか。
シンガポールやマレーシアのキリスト教が保守的なのは、私の観察からもその通りで、大がかりな大衆伝道の事例を知った時には、とてもびっくりしました。どうやら自由主義神学を持ち込もうとした宣教師は、結局の所、地元のクリスチャン達によって拒否されてしまっているようです。その理由は、地元の人々のニーズに合致しないからだろうと思います。日本では、自由主義神学福音派との対立という面がありますが、地域的に見ても、大方、北の方が思索的哲学的な複雑な神学で、南の方がまっすぐに自分のニーズを満たすような神学が好まれるような気もします。
一つ気になるのが、キリスト教側ばかり自己批判と反省と改革を求められ、他の宗教、特にイスラーム側は他者に理解を求める姿勢が目立つということです。もっとも、ムスリム内部では、相互批判や分裂対立などもあるそうですが、それは、ムスリムの姿勢が問題なのであって、イスラームという宗教批判そのものではないように思われます。

ともかく、東南アジアのイスラームムスリムの分野に関しては、日本人研究者の方が遙かに先をいっていて、もっと個別に細かく水準の高い研究を進めているという印象を持ちました。願わくば、英語でももっと書いて、世界的にアピールすることでしょうか。そうすれば、「日本から学ぶものはもはや何もない」などという声が少しはトーンダウンするようにも思います。