ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

現代の反イスラエル意識

現代におけるユダヤ人差別や社会的迫害なんて、ムスリム世界と一部の悪意的(かつ無教養)な人々の間だけの現象かと思っていたのですが、ダニエル・パイプス先生の邦訳作業およびその他を通じて、とんでもなく根深い問題が生じていることを、再確認させられています。
実は、イスラエル国家の自衛権を批判したり、イスラエルの存続そのものやユダヤ史の誤認を平気で振り回して得意になっている日本のメディアや一部の大学人なる層も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120608)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121202)、その中に含まれるようです。
私なんて、子どもの頃から無意識のうちに相当に恵まれていたらしく、直接的にも間接的にも、いいユダヤ系の人々としか出会っていなかったので、表面ではわからない世の中の複雑怪奇さ、人々の自己中心性に、改めておののいています。
昨年のちょうど今頃から徐々に始まったダニエル先生との出会い(映像やご著書購入)および、実際に信じられないような展開で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)、ダニエル先生との頻繁なメール交流が継続するようになって、さまざまな面で多くを学び、考えさせられています。このブログでも率直に綴ってきているように、宗教も民族も国籍も世代も言語も異なる方ですから、私が一筋縄に盲従しているわけではないことはご理解いただけるかとは思います。しかし、果たして私がどこまで理解できているかは別として、評価や価値判断がこれほどまでに二分する問題の困難さを痛感しています。

自分が思う以上に違和感のあるとおもわれそうな思想の持ち主たちと接してきたのではないかとおもっています」というメールを最近、ある友人からいただきました。どういう意味かと問い返したのですが、今のところ、お返事はありません。私に言わせれば、その友人だって、日本の基準で考えれば、必ずしも凡庸な思想をお持ちだとは思っていません。だから、立場が異なるだけでお互い様だということになりますが、いわゆる欧州左派の思想の影響は意外に日本でも根強く、そのことが、かえってダニエル先生やお仲間活動家を追い詰め、頑なにさせている面もあるのではないか、と考えさせられてもいます。「反イスラエル」の内実は、それほどまでに難しいのです。
今朝方、ドイツのZDFを見ていた主人が言いました。「ドイツってさぁ、結構、極端な考えの人達が前面に出て、環境問題とか反原発運動とかやっているんだね」。そうなんです。ドイツの反原発運動が日本でも肯定的に紹介されている一方で、ドイツが実はフランスから原発エネルギーを購入できる可能性を知っている者にとっては、何だかなぁ、という感じ。(イラク戦争反対運動だって、その裏側ではドイツがイスラエルとタッグを組んでいた、という...(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109))。それが現実なのに、無辜の庶民には、一方だけが善意として伝えられている面もあるのです。
例えば、廣淵升彦氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121007)のブログにも、以下のような話が掲載されていましたので、一部転写いたします。

http://hirobuchi.com/archives/2012/12/post_572.html
December 06, 2012
公約の実現可能性で政党を選ぶと? その1 -


この基準で「原発」についての態度を見てみましょう。最も実現しそうにないのが、社民と共産です。「原発を即時撤廃する」という意気込みは分かりますが、それは不可能です。代替エネルギーをどうやって確保し、それにはいくら費用がかかるのか。中東で戦争が起きた場合、石油の大量輸入をどうするのか? それを運ぶシーレーンは本当に安全なのか? 考えるべきことを全く考えていないと思います。次に実現しそうもないことを言っているのが未来の党です。10年後に原発を全面的に停めるというのは、耳ざわりはいいですが、そんな短期間で日本が生き延びてゆける代替エネルギーが開発できるわけがない、と理性で物事を考える人々は見破っています。6日付けの朝日や読売が、この党の「苦戦」を伝えていますが、有権者は冷静に現実を見ているのだと思います。嘉田代表は「ドイツは10年後に原発をゼロにすると言っている。やればできるのだ」と強調していますが、ドイツの場合は隣国フランスが原発で起こした電力を買うことができるのです。日本とはまったく事情が違います。それを言わないで、「ドイツがこうだから日本も大丈夫」というのは、大きな嘘(あるいは無知)です。「30年後の原発ゼロを目指す」という民主の案は、一見「妥当な線」に見えます。しかしこれも「最も抵抗が少なそうな線を選んだな」と見ている人が多いのではないでしょうか。

廣淵氏が右翼だとか何とか、レッテルをつけて済ませようとするなら、話はそこまで。ただ、原発の問題を痛感しつつも、(では、代替エネルギーをどうするのか?)という点になると、単に主婦感覚の節約モードでは済まされないのが現実。そこが、ほとんど隔靴掻痒なんです。
ダニエル・パイプス先生の言論活動だって、ご本人が最もよく世論の波風をご存じでしょう。結構、私も強気で先生にメールで意見を出しています。本気で議論を始めたら、火花が飛び散る寸前まで行くかもしれません。でも、その一方で、だからといって、「違和感のあるとおもわれそうな思想の持ち主たち」という至極失礼な表現が該当するほど、パイプス氏が切って捨てられる極端な人だと私は思っていません。この物の言い方が失礼なのは、発信者が自分を高見に置いて、平気でそういう表現を使う態度にあるのです。

だから、インターネットは恐ろしいし、怖いのです。ダニエル先生は、最初から私におっしゃいました。

ネット上には、僕に関して事実に基づかない文章が溢れている。もう数え切れないほどだ。それは訳す必要がないからね。依頼しているのは、僕のサイトに掲載された原稿だけだよ。」

ユダヤ系だから皆が皆、そのような悪意の対象になっているというのではなく、言論活動が華やかで率直な意見表明だからこそ、批判も浴びやすいということだと理解しています。知り合いのユダヤイスラエル人の先生も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120804)「相談に来てくれてよかったわ。彼と私は考えが違う。あの人はいい学者よ。本当にイスラエルの友なのよ。最近は本を書いてないけど、でも、経歴としてはすごい人。言っていることは正しいし本当なんだけど、ただ、やり方が問題なのよね」と私におっしゃいました。第一、かくいう私も、長い時間をかけて慎重に検討してみましたし、この分野には全くの素人の主人にもいつも相談していますが、「人の評価なんて当てにならんよ。パイプス氏が、アメリカ人にしては癖のあるタイプだって、最初から言っているでしょう?(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120405)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)それより、信念を持って、体を張って発言して批判浴びるのは、アメリカではよくある話。箸にも棒にもかからん相手だったら、そんなことにはならないしさ」と、平然としていました。

しかし、マレーシアで話が弾み、「ダニエル・パイプスはいい学者だ」とニコニコと賛同されたのみならず、面会直後のメールでも「あんたがダニエル・パイプスと共にやっていることを賞賛する。我々は、彼のことを広く知らせる必要がある。特に、西洋の学究人達が故意に盲目であり、彼らのアジア人学究人達への影響が善ではない時、特にそうだ。良き業を続けなさい」と書いてくださり、帰国後も「彼(ダニエル・パイプス氏)の関心事を、もっとあんたの同胞達に翻訳を通して伝えなさい」とメールで親切に繰り返してくださったDr. Ng Kam Wengの言葉の方が、私にとってはもっと励まされることです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)。だって、日本でのように、いわば抽象的に間接的にイスラーム主義の問題を高等教育で教えられて理解したつもりになっている人々とは違って、マレーシアで現実にイスラーム化問題の脅威を日々肌で感じながら暮らしている方の言葉には、何より力がこもっています。ケンブリッジ大学で博士号を授与された後、香港で博士論文を出版し、オーストラリアやアメリカのシカゴやプリンストンでも教鞭を執っていたDr. Ng Kam Wengが、いかに切実な気持ちで私にメッセージを託されているか、と思うと、今年も時間をやり繰りして、もっと勉強して、もっと関連書籍の読書に励み、訳文を作っていかなければと決意を新たにしているところです。

ダニエル先生のお父様のリチャード先生のインタビューや映像をご覧ください。(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130104)(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Richard+Pipes+)(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Daniel+Pipes+)(注:25 June 2012, 18 July 2012, 30 July 2012, 31 July 2012, 30 November 2012の項目も参照のこと)
ポーランドで迫害を経験したのみならず、ナチからかろうじて逃れ、奇跡的に生き延びてこられた幸運なパイプス家。移民として受け入れられた米国に深く感謝して暮らす中で、学生紛争時も、健全で幸せな親子関係を通して、いかに基本的な知識伝授がなされているかがおわかりではないでしょうか。こういうリチャード先生が、90歳にならんとする今も大変にお元気で、イスラエルにも積極的に出かけて講演をされ、若い人々を叱咤激励し、ユダヤ人同胞のために全力を挙げて尽くしていらっしゃる姿を思うと、上記の「違和感のある思想」なる言葉を発すること自体、私には相当な違和感があります。(自分が謙遜で発するのと、それをオウム返しに相手に返してくるのとでは、全く意図が違ってきます。)

ここ数日、ダニエル先生とメールでやり取りしていたのは、「自爆テロ」を「自縛テロ」と誤変換したのに気づかなかった私が、新たな修正原稿を出した直後、仕事の進め方が「念入りで正確(conscientious and accurate)だね」というお褒めをいただいたことに対する返答と展開です。

「‘conscientious’ であることは、むしろ主観的でもあるかもしれませんが(ユーリ注:「誠実な、良心的な」という意味も含まれるため)、‘accurate’ であることは、事実と客観性に基づきます。私は、できる限り後者でありたいと思います」。
「(女性と子どもの自爆テロについて、パレスチナ人受刑者との親密な会話を通して一冊にまとめた)アナト・ベルコ博士の本を入手しました(http://www.danielpipes.org/12227/」。

ダ「ベルコの本は優れた資料だ」。

(ユーリ注:ダニエル先生が書かれた序文の邦訳を提出した11月下旬、「女性研究者の中には、時々、とてつもなく勇敢なテーマを選ぶ人がいますが、自分では気づかない無意識の理由があるのだと思います。例えば、ジェシカ・スターン博士がそれに当てはまります。彼女の『神の名におけるテロ』を、2005年8月にハーヴァード大学の書店で購入した時、単に私は(凄い研究だな、パキスタンまで出かけて、ムスリムのテロリストに会うなんて)と驚いていました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080507)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080510)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080513)。ところが、しばらく前に、彼女が“Denial”と題する自己告白本を出した時には、もっと仰天しました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110520)。ここでは詳述を控えますが、少女時代の経験を書いていたのです。アナト・ベルコ博士の本の内容は、先生が書かれた序文から大凡想像がつきます。そんなことを考えながら訳しました」と別メールに添えたのですが、そのお返事には、「おもしろい観察だね」とありました。)

私「この本は、ヘブライ語からの英訳だと思います。もし私に現代ヘブライ語がよくわかるならば、英訳から受ける印象とはまた異なるかもしれません。
(1)主要な点は、なぜユダヤイスラエル側ではなく、パレスチナ側からあのようなことが起こるのか、もっと詳細に理解する必要があるということです。ベルコ博士が私達に明らかにしようとしたことは、ほとんど尋常ならざる世界のようです。それは、私達が知る必要のあるものです。
(2)なぜ私が本書を入手したかというもう一つの動機は、先生のフランス語とイタリア語の翻訳者達が、恐らくは日本語の借用語であろうと思われる「神風」という語を、仏訳と伊訳に用いたことです(http://fr.danielpipes.org/12252/femmes-attentats-suicide)(http://it.danielpipes.org/12291/donne-kamikaze)。手持ちの仏和辞典(ロワイヤル)によれば、「カミカゼ」は違った意味です:「向こう見ずな[命知らずの]勇気」(ユーリ注:正確には、①「神風」②「神風特攻隊員[機]」③「向こう見ずな[命知らずの]人」とありますが、簡略化して英訳しました)。日本では、もし私の理解が間違っていなければ、 「神風」という語は、1944年10月20日から1945年8月15日までの特に選抜された男性兵士達にのみ適用されました。ですので、私は他言語に関してコメントする立場にはありませんけれども、あの方達の翻訳を見て少し驚きました。それに、「神風」行為そのものは、宗教に基づくものではなく、もっとイデオロギー的にコントロールされたものでした。もちろん、性的動機では全くありませんでしたが、それは、ベルコ博士が本の中で記述したものとは一つの明らかな相違を示しています。あの当時、兵士達の中には事実、あまりにも正気で意識が高かったので、あの戦争は最初から全く誤っていると、よく理解していた人もいました。非常に優秀な学生達も「神風」特攻隊に含まれていたのです。あの頃にはかなり恵まれた家庭背景の、教養ある中流階級の出身でした。この辺りの事情については、今は日本国籍である、ドナルド・キーン名誉博士が、ずっとよくご存じだと思います
」。

我ながら力の入ったメールだと思いましたが、これに関しては、さすがにダニエル先生ならぬ「パイピシュ先生」も、昔の日米関係の微妙なところは避けたいのか、過去の苦い経験(ムスリムを治安の観点から日系人収容所問題と絡めて論じてしまったこと)を思い出して焦ったのか、それとも純粋にご多忙なので省略したかったのか、数年以上に及ぶフランス語とイタリア語の訳者達との関係に余計な口をはさみたくないのか、単に簡潔にこう書き送ってこられました。

ベルコは、パレスチナ人の自爆テロ者の動機を理解することに優れている」。

この短い一文で、パイピシュ先生の察知の早さと洞察力の鋭さが表明されているかと思います。内容こそが重要だと主張したためでしょう。(同時に、仮に恣意的に理解するならば、アメリカ人としての私に対する気遣いをも示唆しているように感じられます。)
ただし、私のメールの主題は、アナト・ベルコ博士の本のことではなくて、実は、韓国教会協議会が11月に出したイスラエル非難の声明だったのです。たまたま、1月3日に届いた、マレーシア教会協議会の定期刊行物の冊子に、2ページに及ぶ英語の声明が掲載されていて、あまりに一方的な粗雑な内容に驚愕させられたのでした。
最初は、ダニエル先生に関連ページをPDF文書化して送るつもりはなく、ボールペンで線や疑問符をつけながら読んでいたのですが、ふと(これは大変な声明だ)と直観し、即座にパソコン操作を始めた次第。声明を出した文書責任者の名前とメールアドレスも掲載されていたので、必要ならば公表可能だと思ってのことです。
一番の問題は、イスラエル歴史認識が非常に不充分で、偏りがあることです。また、パレスチナ人を「アラブのイシュマエル」として偏見を植え付けたのは、韓国に福音をもたらした西洋人クリスチャンであって、それを盲目的に受容した韓国人クリスチャンとしての罪を認識していること、ユダヤ人としてローマ軍に2世紀初頭、追放されたイスラエルが迫害の内に1800年間生きてきた苦難はわかるし遺憾だが、だからといって、パレスチナの土地に住んでいたアラブ人を追い出し迫害して、ユダヤ人が住み着くのは「罪」だと責めているのです。差別、植民地化が問題だ、とさえ論じていました。
この文書を添付した上で、私はダニエル先生に書き送りました。

今日、マレーシア教会協議会から届いた冊子にあった文書です。そのキリスト教団体は、世界教会協議会(WCC)とつながっています。これをお送りするのは、主流のマレーシアと韓国のクリスチャンの中には、今やパレスチナ人達に対してもっと同情的になっている人々がいることをお知らせするためです。イスラエル人に対して「罪」という語を用いていることは、あまりにも強過ぎ、完全に行き過ぎていて不正確だと、私は強く思います。彼らは明らかに一方的で、政治的に動機づけられています。私がこう言えるのは、エドワード・サイードやジョン・エスポジトに賛同する、日本人のあるクリスチャン達に大変似ているように思われるからです。彼らもまた、自らを「キリスト教徒」だと主張しているのですが」。

そのお返事。

その韓国教会の声明には仰天させられている。僕は、主流教会が韓国に影響を及ぼしていたとは知らなかった」「その情報を僕に知らせてくれて感謝している」。

ダニエル先生だって、まさかパレスチナ人全員を憎悪しているのでは全くありません。むしろ、綿密な独自調査を通して、いまだ少数派ではあるものの、確かにイスラエルを認めているパレスチナ人達も存在することを確認していて、そこに希望を託しているのです。
それに、いつも相手を善意で信用しては裏切られることの多かったイスラエルにとっては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120702)、慎重に慎重を期さなければ、簡単に平和の呼びかけと自己の悔い改めだけでは到底解決しない問題だということが、骨の髄まで染み込んでいるはずでしょう。
それなのに、まるで子ども騙しのような粗雑な聖書物語ごときの歴史認識から筆を起こしているばかりでなく、イスラエルを「罪」呼ばわりするなんて、それこそ、福音精神に反するというものです。第一、土地と結び付いたユダヤ教で言うところの「罪」の内実は、キリスト教とは異なっている面もあるのです。ネタニヤフ首相が、自己の「罪」のうちに、イスラエル破壊を試みるイランの核問題を解決できなかったことを挙げていたことからも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)、それはうかがえます。つまり、キリスト教徒がユダヤ教徒に「それはあなた方の罪です」と言い放つならば、それこそ、欧州で長らく続いたクリスチャンのユダヤ人迫害の現代版を再現しているようなものです。異教徒に関して、自分達に特に実利の上で害が及んでいないのであれば、自分達の考える範囲内で相手を見て「罪」だと指摘するのは、控えた方がいいのではないかと思います。(ならば、私のマレーシアでの聖書問題の批判的リサーチはどうなのか、という愚問に対しては、「文脈をよく考えなさい。しかも、私はマレー当局の措置を問題として扱っているのであって、ムスリム全体を罪人呼ばわりなどした記憶はありません」とお答えします。)
イスラエルの自衛行為を「罪」とするならば、イスラエルには生存権はないのでしょうか。「いや、あの軍事行為が強過ぎて、パレスチナに見合っていない。釣り合った防衛行為をせよ」というのであれば、イスラエルを畏縮させようとしているとしか思えません。なぜならば、アラブの学校教科書やテレビ番組やイスラーム雑誌などには、本当にひどいとしか思えないような記述が、ユダヤ人、イスラエル人、シオニスト(定義は、ユダヤ人が自らの国家を持つ権利を主張する人)に対して向けられているからなのです。これを一端知った以上、私としては、黙ってはいられません。
それは、現在までに存している対立に、更に加担することになりはしないか、という質問に対しては、こう答えます。「ガザとの紛争後、イスラエルパレスチナ人に対して、どのような援助行為を繰り返し行なってきたか、確認されましたか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130102)」「先の紛争だって、仕掛けたのはガザのハマスの方でしたよ」「何をしようとも、いつだって責められるのは、アラブ人ではなくて、ユダヤ人の方なのです」「ユダヤ人は常にアラブ・ムスリムから襲撃され、殺害の対象になってもいいということでしょうか」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130102)。
この件については、折を見てまた書ければと願っています。
それでも私、「特定の思想にこりかたまらないようにないたいものです」に反しているでしょうか。他人に対して、「こりかたまる」という表現が使えること自体、実に不思議です。イスラエルの行為は、極めて常識的な自衛判断だと思うのですが....。誰もが自分で考え、いつも独創的であらんとし、教育と家族を重視し、中東では高度に自由主義で民主主義的なハイテク国かつ宗教を大切にする国なのに。