2012-01-31
第二回連携研究会のお知らせ
下記PDFの要領で研究会を開催致します。参加希望の方は事前に告知文PDFにある連絡先までお願いします。会場がそれほど広くないので、万が一希望者多数の場合は参加制限することもございます。ご了承ください。
ワークショップ「人文学・社会科学における質的研究と量的研究の連携の可能性」第二回研究会( http://goo.gl/Ya1Ej )
- 日時:2/25(土) 12:45〜
- 会場:立命館大学衣笠キャンパス学而館第3研究室
- 主催:立命館大学人文科学研究所/立命館大学大学院社会科学研究科筒井淳也研究室
2012-01-26
説明と選抜:統計学における2つの「関心」
社会学者や経済学者にとって、統計学をベースにした計量分析とは、何かを因果的に説明する道具であるという側面がある。賃金を学歴で説明するというとき、それは他の条件が同じで学歴が変化したときの賃金の変化量を推定する、という意味である。
(記述的な分析手法を含めて)統計学を学ぶ人のほとんどは、この「説明(explanation)」のためにそれを学んでいるのだと考えられる。
しかし統計学には、それとは全く異なった目的が託されることもある。それは「選抜(selection)」である。統計学を選抜に使うというのは、それをアカデミックに活用している研究者からみても、実はあまり馴染みのない考え方である。というのも、あとで詳しく述べるが、選抜は学問的説明とは相容れない考え方だからだ。
しかし選抜は、実践家においては大いに意味がある考え方である。「限られた回数の耐久力テストの結果から、真に優れた個体を選抜する」「限られた回数の学力テストの点数から生徒の真の能力を推定する」など、プラクティカルな選抜の場面はいくらでも考えることができる。
もしあなたが大学の入試担当者だとして、「限られたテスト回数から基礎的な能力の高い生徒」を選抜するという関心を持っているとしよう。また、テストは複数回(最大で10回)実施することができるが、個々の生徒の受験回数にはムラがあるとしよう。1回しか受験していない生徒もいれば、10回すべてのテストを受験している者もいる。
このとき、複数回のテストの結果を受けて、適切な選抜を行うにはどうしたらいいだろうか。あるいは、どういう追加の情報が必要になるだろうか。
すぐに思いつくのは、複数回の観察(テスト)結果の平均値を計算し、平均値の高い順に上から合格を出す、というソリューションである。しかしこの選抜方法だと、たまたま一回の試験でよい点を取った者が有利になってしまい、「基礎能力が高い」者を合格させるという当初の理念は達成できない。たとえば一回きりのテストで80点を取ったAさんと、8回受験して78点の平均値であったBさんとでは、どちらを合格させるか迷うところであるが、安全を取るならテスト結果に信頼性のあるBさんを合格させたほうがいいだろう。
また、「基礎能力」の定義によるが、恒常的な才能を評価したいのならば、短期的な要因、たとえば試験前の勉強といった要因の影響は除去したうえで能力を測定したいものである。もし追加的な情報として、試験前の勉強量を観察できたとすれば、評価者は試験前勉強の影響を統制したうえで個別の受験者の能力を推定したいと考えるだろう。
これが育種、つまり家畜を繁殖させる実践となると、選抜という関心はもっとはっきりとしたものになる。なぜなら、育成環境のせいで後天的に身についた能力を元に個体を序列化し、上から優先的に繁殖させるようなことをしても、全く意味がないからだ。育種にとって、育成環境による影響は、除去(統制)すべき邪魔な情報なのである。
ここでは詳述しないが、このような選抜向けの推定を可能にする統計手法が、他ならぬ家畜育種の分野で発達した統計手法である「混合効果モデル」である。混合効果モデルでは、環境要因を統制した上で、また観察回数の影響を考慮した上で、「真」の個体の特性が推定できる。
さて、社会学や経済学(そしておそらく心理学)の関心として、「個体の選抜」がありえない理由はもうお分かりだろう。たいていの学問では、「優れた個体の選抜」ではなくて「ある個体が優れている要因の説明」に関心があるからである。だから「個人の養育環境の影響を、生まれつきの才能の影響を除去して推定し、その後の教育制度改革に活かそう」という発想になるのであって、育種分野のように「個人の養育環境の影響を除去して、生まれつきの才能の影響を推定し、その個体の遺伝子を残そう」という発想にはならない。
統計学を説明と選抜のどちらに用いるのかは、私たちの社会の合意や価値観に基づいて決定されている。
育種の分野では、遺伝子による選抜はたとえば「より乳産出力の高い牛」の遺伝子を残すことで人間の生活を豊かにすることが目指されるのだが、動物愛護の観点からそういった選抜に異を唱える人達がいることも想像可能である。
品質管理の分野では、環境要因に左右されない「個体の真の品質」を測定することに関心がある。そうすることで人間の生活が豊かになるからである。廃棄される製品がかわいそうだ、という声はあまり聞かない。
人間の場合、努力の影響を完全に除去して血筋の影響を判定基準に選抜をすることは、私たちの社会の価値観に合致しないだろう。他方で、短期的な努力(試験前の一夜漬け)や偶然(たまたま昨日やった問題が試験に出た)の影響を除去して基礎能力を推定することには---公平性の観点から---合意が得られるかもしれない。
ところで、一発勝負の学力テストであるセンター試験は、受験者の実力をどれくらい反映しているのだろう? 日本では、一般に選抜試験で統計学の力が発揮されているような気がしないのだが、実際はどうなのだろう?
追記
一応追記です。妥当性・信頼性の理論は選抜にも使えますが、選抜以外の説明の作業でも使えます。いずれにしろ最初から「関心」が選抜にあるということはあまりないような気がします。
2011-12-27
Max OS X Lionで日本語LaTeX環境
※若干修正しました(追加ファイルやbib、bstファイルの置き場所)。
OSをLionに変えてLaTeX環境も再構築したとき、少し手間取ったのでメモしておきます。私自身「ど」つく初心者ですので、初心者がひっかかりやすいところを少しカバーできていると思います。詳しい情報は奥村先生の関連サイトにもあるので、そちらをみていただければ。
以降は、MacTeX(2011)+TeXShopという環境です。
- Ghostscriptをインストール。
- MacTexをインストール。非常に重いファイルなので、ミラーサイトを適宜利用。
- インストールされたら、Applicationフォルダに「TeX」というフォルダができていて、そこに(おそらく)最新版のTeXShopが入っています。
- TeXShopの設定は以下のとおり。(最初に「設定プロファイル」を「TeXShop標準」にして、そのあとで文字コードをutf-8に変更しておきます。残りは図のように。)
いちばんややこしい「内部設定」については、「TeX+dvips+distiller」のLaTeXの部分を「simpdftex platex --mode dvipdfmx --maxpfb --extratexopts "-file-line-error -synctex=1"」に、BibTeXエンジンを「pbibtex」に書き換えるだけだと思います。
自前のファイルは以下のフォルダに置くといいでしょう(参照)。
- bibファイル:~/Library/texmf/bibtex/bib
- bstファイル:~/Library/texmf/bibtex/bst
- スタイルファイル:~/Library/texmf/tex/latex
「~」はホームフォルダを意味します。Lionになってから「Library(ライブラリー)」フォルダは不可視になっていますが、optionキーを押しながらFinderメニューの「移動」をクリックすると見えるようになります。
これで基本的に動くはずですが、UpTeXなど他環境から移行する場合、いくつか留意点が。
- TeXShopの文字コード設定がutf-8になるので、以前のTeXShopで作成したソースファイルがs-jis等である場合、utfに変換してから表示させます。(Jeditなどを使えば簡単に変換できます。)ついでに、円記号の場合、バックスラッシュに変換しておきます。
- 実はよく分かっていないのですが、日本語を含むbibファイルやスタイルファイルの文字コードがs-jis等の場合、これらもutf-8にしておいた方がいいような気がします。(実際、bibtex関連のスタイルファイルの文字コードがs-jisだったときbibアイテムの出力にトラブルがありましたが、スタイルファイル自体をutfに変換したら直りました。)
- 邦語文献管理にBibCompanionを使っている人は多いと思いますが、以前にs-jis等で作成したbibファイルをそのままBibCompanionで読み込もうとしてもエラーが出ます。このときは、bibファイルをutfに変換するとき、最初の方にあるエンコーディングの指定を「textencoding = {4}」に変更してからBibCompanionで読み込んでください。
- 作者: 奥村晴彦
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2011-12-21
社会保障の「気前良さ」は政府支出の大きさでは測れない
政府は増大する社会保障支出を背景に、いよいよ増税に向けた調整を本格化させている。他方でアカデミズムにおける社会保障論(福祉国家論)をみると、日本は基本的に社会保障に関して低い水準にあるということがたいていの議論の出発点となっており、現在の政府の政策展開とアカデミズムのあいだには奇妙なズレがあることが分かる。
このズレはいかにして生じているのだろうか?
ある国の社会保障の手厚さを測る指標としてしばしば社会保障支出のGDP比が用いられる。また、日本政府はしばしば国民負担率という指標を用いる。しかし、たとえば年金支出は高齢化率にしたがって上昇するので、「年金支出の規模が大きいから社会保障が充実している」ということにはならない。失業率と失業手当の関係も同じで、失業率が高ければ失業手当支出も増えるが、かといって雇用関連支出が「充実している」というわけではない。
図は2007年のOECD諸国の社会支出GDP比だが、日本は18.7%で中位程度であり、高福祉国家と言われるノルウェイの20.8%と大きく異なるわけではない。やはり、あまり実態に即していないことをうかがわせる数字である。
社会支出をマクロデータで説明する学術的研究では、高齢化率や失業率を同時に回帰モデルに投入することで「水増し効果」を除去した上で社会支出の寛容さを推定するが、社会保障の手厚さを指標化する際には、より直接的に「福祉支出の寛容さ」を観察するというやり方もある。それは、たとえば年金や雇用保険であれば支給に要する加入年数や所得代替率を指標にするというやり方である。このやり方だと、極端な話高齢者が社会に存在しないために老齢年金支出がゼロであったとしても、受給要件等の条件が良ければその社会は「高齢者に寛容」だということになる。
こういった指標はなかなか作成することが難しいが、ウェブ経由で入手できるものを使ってグラフ化してみた(ここではComparative Welfare Entitlements Datasetを利用)。以下、しばしば言われているように「近年の日本の社会保障支出の増大は高齢者の増大によるものであり、日本が社会保障に関して寛大な国になっているわけではない」ということを数字によって示してみよう。
グラフ本体はこちら↓
Graph Chart of Social Expenditure and Welfare Generosity using Google Motion Chart
横軸はGDP比の社会支出、つまり支出の規模である。縦軸は給付要件や所得代替率から構成された「社会保障の寛容さ(気前良さ)」の指標である。
1980年時点では、日本(橙色)の社会保障は社会支出(10.4)、気前良さ(17.4)ともOECDで最低レベルである。
左下の矢印をクリックして時間スケールを動かしてみると、2002年までの動きがわかる。
日本のマークは右に移動するが、上には移動していない。2002年時点では、社会支出は17.8まで上昇するが、気前良さは19.8とあまり変わっていない。この時点で、日本の社会支出の増加は人口および経済条件の変化によるもので、支出の寛容さが増えた(社会保障が充実した)ことによるわけではないことがうかがい知れる。
次に軸の数字を変えて、横軸に「高齢者向け社会支出(Social expenditure (old age))」を、縦軸に「年金についての気前良さ」指標をとって、時間を動かしてみよう。(軸その他の設定は自由に変えられるので、ぜひ各自いろいろやってみてください。また、少なくとも日本の数値はいわゆる「(2000年と2004年の)年金改革」を反映しているようには見えないので、数値の算出方法については少し気をつけるべきかもしれませんが、他国との対比については概ね信頼できるように思います。)
横軸だけ見ると、2002年時点での日本の高齢者向け社会支出は(ダントツの高齢化率を反映して)OECDでみても高いレベルにあることが分かる。しかし「年金の(給付条件や所得代替率などの)気前良さ」の面からは、決して気前が良いとは言えないこともわかる。
失業手当の気前良さがOECD最低レベルであるのに比べれば、相対的には年金は気前良く支払われているということもわかる。とはいえ年金の給付条件が現時点で決して恵まれている部類に入るわけではない以上、「気前良さ」をこれ以上下げずに社会支出割合を減らす方策に力点を置くべき、というのが基本になる。
むろん、経済成長と労働力率の上昇が根本的な解決法である。短期的にどうこうといった戦略は難しいだろうが、かといって小手先(パイの分け方)の調整の余地はますます小さくなっていることから目を反らすことはできない。税収を増やす手段が増税だけではないように、社会保障を充実させる手段は保険料の増大や給付条件の厳格化のみではない。社会保障改革は、最初から雇用制度改革と連携して議論すべきなのである。
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2011-12-03
『平等と効率の福祉革命』
以前共著で論文を書いた訳者の一人の方から頂きました。ありがとうございます。エスピン=アンデルセンは2000年前後からジェンダー格差を意識した論考を続けていますが、本書はその一つの到達点であり、重要な著作であると言えます。
- 作者: イエスタ・エスピン=アンデルセン,大沢真理
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Incomplete Revolution: Adapting Welfare States to Women's New Roles
- 作者: Gosta Esping-Andersen
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実はこの本、原書を読んだあとでとある出版社に翻訳企画を持ち込んだのですが、「岩波に版権がある」と言われてたのであきらめたのでした。(そのあおり?で某ノーベル経済学賞の人の本を訳すことになったのですが...。)原書の出版から3年で立派な翻訳が出版されたので、日本の読者のみなさんにとっては幸運だったと、ところでしょう(笑)。
2011-11-02
反事実的状況のマクロシミュレーション
(授業やら会議やらでバタバタ気味で、誤字などある可能性もありますが、とりあえずあげておきます。)
性別賃金格差の研究では、しばしば「男女の◯◯構成が同じだと仮定すれば賃金格差は△△だけ縮小する」といった、マクロレベルでの反事実的状況の想定が行われている。マイクロデータを使った研究では因果志向の推定モデル(回帰分析は一般にそうだが、ヘックマンのセレクションモデルや各種パネルモデルが典型だろう)が試みられるが、データの蓄積の面からも、マクロデータの活用方法が工夫されることへの要請は小さくないといえる。
利用の蓄積が多いのはブラインダー・ワハカ分解だろう*1。様々なところで解説がされているので詳しくは説明しないが、男女それぞれの賃金関数を
- 男性賃金=ΣβmXm+ε
- 女性賃金=ΣβfXf+ε
とする。βmは個々の要因の男性における係数、Xmは要因の観察値である(女性についても同様)。この式を、差をとって変形すると、
- 男性賃金−女性賃金=Σβm(Xm-Xf)+Σ(βm-βf)Xf
となる。Σβm(Xm-Xf)の部分は、(職階その他の)観察された要因の男女構成の違いによって説明できる部分であり、それに対してΣ(βm-βf)Xfの部分はそういった構成の違いによっては説明できない男女の賃金格差である。ブラインダー・ワハカ分解を使った多くの研究では、後者をさしあたり「差別による可能性が高い部分」として解釈している。
小川は、ブラインダー・ワハカ分解が、理論的にはベッカーの差別論と整合的であることを指摘している。ベッカーの立場からすれば、男女賃金価格差のうち差別に起因すると解釈される先のΣ(βm-βf)Xfは、同時に限界生産性が賃金に一致する点からの乖離の指標ともみなせる(もちろんそのためには観察された要因には人的資本要因を投入すべきである)。(いわゆるインデックス問題やその解決法についても同論文を参照。)
こういった要因分解的手法自体に留保をつける立場も少なくないが、それは「考慮されている要因を仮に男女同じものとして計算しても、女性の賃金は男性に比べて最大で8割程度になる(つまり残り2割のうち一部は差別の結果である可能性がある)」といった方向性での差別論アプローチが、そろえられた要因の性別構成の違い自体に注目しない(むしろそこにこそ性別格差の核心がある)という意味だろう。逆に言えば、賃金格差へのマクロアプローチは、職階や勤続年数といった規定要因の構成の男女差がどういうメカニズム(少々単純に言えば選好なのか差別なのか)で生じたものものか、という問いと独立に生じている格差を問題にしている、といえる。
(↓参照。)
- 作者: 森ます美
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2005/06
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山口は、これらに対して独自の分解=推定手法を提案している。心理学や社会学の分野で発達してきたパス解析的手法に見られる要因分解的アプローチが(要するに男女と賃金とのあいだの変数がこれらの間の関係を「説明/媒介」するわけなので)性別賃金格差の分析には適切であると述べる。一方で、介入(媒介)要因の除去が他の要因や要因間関係に影響しないという強い仮定が要請されることも指摘されている。
山口の手法は、まず賃金格差を分解する際に、従来の分解手法では標準化(たとえば「女性の職業構成が男性と同じであれば...」)されるのみであった要因を、(性別と賃金との関係のあいだにあってそれを説明する)媒介要因としてモデルの中に位置づけている。その上で、現実的には特定の因果(たとえば性別→職業)を除去することが、その他の間接的パス(たとえば性別→学歴→職業)自体に影響する可能性(それによって、特定パスの除去による性別→職業の総合効果の減衰効果が相殺される可能性)を考慮する必要性を確認する*2。
(↓手法の簡単な解説はこの本にも。)
- 作者: 山口一男
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2009/12/02
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既存のデータ制約の中で要因間の関係および交互作用的関係をモデリングする際に、計量社会学ではしばしばログリニア分析が使用されるが、これは要因間関係について様々な制約を加えたモデルのあいだでの尤度を比べるという分析である。同じように、要因間の(複雑になりがちな)関係の制約をログリニア的にモデリングして賃金格差を分解するというアプローチがとられている(賃金格差の分析では、要因は典型的にはカテゴリーになるので、確かにこのアプローチ法と親和的だろう)。
この分解方法にはメリットが大きい。山口自身は「どちらかの性別、たとえば男性の(多変量)分布を標準化の基準にする、といった作業が必要ない」といったメリットを上げているが、ポイントはやはり「ログリニア的アプローチを採用することで、従来は反事実的推定において単純に除去されていた要因を媒介要因としてモデリングした」ということにあるのではないだろうか。それを前提として、様々な制約条件下での最尤法分解が可能になる。
因果志向の強いタイプの回帰分析、それがモデルとする実験的アプローチでは、そこから導かれる知見の外的妥当性の確保が課題となる。
(↓実験/観察に関しては、その対立の問題に直面しやすい疫学が参考になる。中でも以下の本は多く参照されているし、実際かなり勉強になる。)
- 作者: Kenneth J. Rothman,Sander Greenland,Timothy L. Lash
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(↓最近の因果推論の動向については、下記参考。)
統計的因果推論―回帰分析の新しい枠組み (シリーズ・予測と発見の科学)
- 作者: 宮川雅巳
- 出版社/メーカー: 朝倉書店
- 発売日: 2004/04
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- 作者: Judea Pearl,黒木学
- 出版社/メーカー: 共立出版
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ある手法から提示された因果推論の外的妥当性を追求する手段には様々なものがあるが、以上のような考え方もあるのだ、という意味でも紹介できるかもしれない。余裕ができたら山口の提起した最尤法分解の詳しい解説とその適用例も書くことにする。(いまはちょっと時間が無いので。)
2011-10-17
社会学における「理論の実証」
(以下は二〜三カ月前に書いたメモですが、寝かせておいてもあまり意味がなさそうだし、稲葉先生もシノドスの論考を公開されたのでいいタイミングだと思うのもあり、ちょっと手を入れた上で公開します。)
社会学の問いの特徴
私は、学部のゼミでは(大学院でも基本的にはそうだが)、いわゆる「標準的な研究プロセス」に従って個人研究をするように指導している。標準的な研究プロセスとは、問いを立て、それに対する理論仮説をデータ(質的・量的)で検証するという手続である。
その際、しばしば「社会学的な問いの立て方」というものを説明する必要が出てくることがある。学生は基本的に社会学の授業をいくつか受けているので、そうしたほうが効率がよいからである。それに、意外に「社会学的な問いの立て方」を説明するのは簡単なのだ。
それは、「注目する現象/人間行動が、性別、年齢、学歴で違いを持つかどうかをまず考えてみたら?」というものである。たとえば「友人の作り方」に関心を持つ学生がいるとする。典型的にはその学生は、人間のパーソナリティに注目しようとする。大学生の多くは年齢的に多感な時期であり(40代のオトナからすればかなり些細な人間関係で大いに悩んでいる)、どうしても性格や心理というものに注目しがちであり、社会構造的な視点を取れないことが多い。そこで、「そもそも現実問題として男女差ってあるでしょう?なぜだと思う?」のように切り出し、目を向け変えるのである。
社会学の計量分析では、性別、年齢(/コーホート)、学歴、そして職業は、説明項の重要な部分を占める。つまり、経済学者と違って意図的に設定される政策の影響を見るのではなく、十年単位でしか変化しないような長期的(かつインフォーマルな)制度に注目する傾向が強い。そして、性別や父職といった外生要因の効果に関心があるので、交絡/内生性によるバイアスについては相対的に無頓着になり、かわりに外生要因を媒介する要因による「説明」が計量分析の主な作業となる。「所得に対する職業効果の一部は性別効果によるバイアスであった」ではなく、「所得の格差に対する性別の効果の一部は学歴で説明できる」というストーリーを作るのである。
どういう制度に注目するのか
現にあるこの社会学の特徴は、制度という概念についてのスタンスの違いから説明できる。制度や規則については、経済学では個人の行動を制約する(それによって市場の失敗をカバーする)側面を強調するのに対して、社会学者は「規則や制度がなければそもそも『個人』が存在しないし、個人が思考したり行動したりすることさえできない」と考えるであろう。
(↓河野先生による分野横断的視野からの制度の考察。)
- 作者: 河野勝
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さらにいえば、多くの社会学的研究において「理論(モデル)を検証(実証)する」ことがそれほど意味を持たないのは、(サールの言い方だと)構成的規則の記述をしているからである。人々が実践において参照している規則については、研究者はさしあたっては記述することができるだけであって、研究者が立てたモデルとの乖離をそこに見出したりできるのは、そういった記述が成立するからである。チェスのルールを合理的に「改訂」できるのは、それに先立ってルールによってある行動がチェスというやりとりとして理解されているからである。
(↓筒井による、社会学における制度の論述。)
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比較的長い(歴史的)スパンで制度の変遷をみる傾向が社会学にあるのは、政策ですぐに変更できる制度ではなく、変化しにくい構成的制度、たとえば世代を超えた階層構造や家族制度に関心がもたれやすいからである。個人が家族を形成する以前に、個人は家族の中に埋め込まれて形成される。そしてその家族もまた、無数の長期的制度によって「構成」されている。社会の基礎的構成単位であると考えられやすい「個人」は、以前には現在と同じようなかたちで存在しているのではなかった。
フーコーの研究の一部が社会学者の間で根強い人気を持つ理由もここにある。社会学が伝統的に「無意識の構造」や「社会構築主義」といった科学的に正当化することが難しいアプローチに引き寄せられやすいのも、このことの裏返しであろう。構成的制度は「見えにくい」がゆえに、その把握においてショートカットを使いたくなる誘引は常にある、ということだろう。
経済学の分野でも、長期的変動に関心を持つ研究者の間では、制度に関する見方が社会学に近いものとなる。グライフらによる経済学的歴史/比較制度分析の多くが(合理的個人を構成要素とする)繰り返しゲームの理論に依拠しているということは、裏返してみれば制度の生成自体は多かれ少なかれ自生的なもの(少なくとも自己執行的(self-enforcing)なもの)として説明される、ということである。主流派の経済学が「制度は合理的個人が取引する市場の失敗に対処するための事後的な仕組み」だと考えるのだとすれば、比較制度分析では制度は「(特定の形の)取引自体を可能にする」構成的な位置づけを与えられている。「市場もまた制度」ということである。
- 作者: 中林真幸,石黒真吾
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「理論」という社会記述の仕方
ここで、自生的・構成的な制度については研究者は研究プロセスを通じてただ単に「記述」することしかできない、というわけではもちろんない。たしかに、理論モデルはそういった記述によって成り立っており、それを無視してモデルを構築することはできない。それでも理論構築が制度の記述とは相対的に独立した作業として存在しているように見えるのは、ひとつには、そうすることによって理論から---通常の思考では思いつきにくいような---意図せざる結果やデリベーション(派生体)を取り出すことができるからである。モデルを数理的に表現するのはそのためであって、何も「対象の普遍的な構造を表現」しているからではない。
マクロ経済学のモデルは、数理的に表現される理論の独自の意義をよく表している。そういったモデルは社会のある側面をかなり的確に記述するものであり、そのおかげでモデルに則った介入(財政・金融政策)が予想通りの効果を持ちうることも多い。しかしその成果を導くためには、人々の行動を観察して意味的に理解すること以上の(言ってみればかなり不自然な)作業を必要とする。
私たちは、学問的な営みをしているときではなくても、(数理表現をしているわけではないが)社会の理解枠組みをいくつも持っている。そしてそういった「日常生活の理論」は、それを参照すること(それをもって生活に「介入」すること)によって日々その効果が検証されているようなものである。社会科学の理論もその延長上にあるものであって、それ以上の特権的な地位を理論に付与しようとする向きもあるが、それは無用の試みであろう。
計量分析において「仮説が支持されない」とはどういうことか
次に、計量分析(特に回帰分析)は基本的に制約的制度の効果(制度による介入の因果的効果)を測定することに適しているとはいえ、構成的制度についての分析ができないというわけではない。社会学での典型的な仮説は、「日本では学歴や職種等の媒介要因で説明できる部分を除いても、女性は男性よりも所得が低い」のようなものである。もし性別による所得の差が統計学的に認められた場合、それはもちろん到達点などではない。いまだに考慮されていない媒介要因(組織内の差別意識など)によってそれをさらに説明していくことが目指されるのである。
最終的に性別という外生変数の効果がゼロになったときに説明は完了するが、実際には性別と所得を媒介する仕方はそれこそ無数にある。仮に性別と所得の関連性のほとんどが学歴によって説明できたとしよう。すると、今度は性別が教育達成(学歴)に影響する仕組みを説明するために、さらなる媒介要因の探求が始まることになる(実際にそういう研究はすでに無数になされている)。
そういった因果の連鎖は、当事者からして(したがって研究者にとっても)「意味が通じる」ものであり、そういう意味では構成的制度の記述から独立して行われる作業というわけではない。他方で実際に計量分析をやってみるとわかることは、意味的に理解できる説明の多くが、数字の上では微々たる(最悪の場合は偶然と区別できない)現れ方しかしない、という現実である。要するに「仮説が支持されない」のである。
「仮説が支持されない」とは、少なくとも社会科学的計量分析の分野においては、関心を持つ要因と同方向の効果を持つその他の要因の効果が大きいので、観察の際の偶然と関心要因の効果が区別できない、ということがひとつ(誤差および共線性の問題)。もうひとつは、重要な抑制要因を観察できていない可能性である。いずれにしても、仮説が支持されないということは、注目する部分、対象の見方を変更する必要を分析者に示唆する。
したがって支持されなかった仮説は「理論として意味をなさない」から捨てられる、というわけではない。「もっと他に重要な要素があるかもしれない」「観察されていないプロセスによって当初の意味連関がデータに現れていないかもしれない」と理解すべきなのである。
とりあえずの結論のようなもの
- 理論モデルの構築、対象の数量的表現の根底には記述できる(理解可能な)意味連関があり、したがってこれらの作業は意味連関を前提として行われる。(ここまではデュルケムの『自殺論』をネタによく指摘されていること。つまり「自殺をカウントするためには、それに先立って自殺というものが概念的に記述できるのでなくてはならない」。)
- 他方で理論の数理的表現は、通常では理解しにくい意味連関や「社会の記述」を導く手続きとして利用できる。(しばしば「意図せざる結果」「合成の誤謬」などと言われる。)
- 計量分析も、仮説の検証を通じて、(より重要かもしれない要素への)視点の転換や表面的には観察しにくい意味連関に目を向けさせる手続きとして利用できる。
以上は断片的な考察だが、理論構築や計量分析の「意味」がわからなくなったら、「それと似たようなことは学問の文脈でなくとも行われている」ということをまず想起し、その上で学問という制度の独自性を考えていくと、よりうまく整理できるように思う。たとえば、計量分析のメタ理論を構想するくらいなら、「私たちは日常生活において因果関係をどのように理解しているのだろうか?」ということについて考えてみるほうが、少なくともとっかかりとしてはよほど実りがありそうである。
2011-10-13
献本御礼
ICPSR国内利用協議会でお世話になっている東大社研の前田先生より下記のご著書を恵投いただきました。ありがとうございます。先日政治学会のセッションにもおよびいただいたこともあり、徐々に政治学分野の研究者の方と交流が増えてきたように思います。いろいろ勉強させていただく所存です。
- 作者: 上神貴佳/堤英敬
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2011/09/02
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また、以下の本も頂いております。非正規、高齢化、ジェンダー格差など重要な論点が網羅されており、さっそく読ませていただいています。
2011-09-26
「家族福祉論の解体」感想
先日の研究会にも参加してくれた久保田さんの最近の論文です。
久保田裕之、2011、「家族福祉論の解体」『社会政策』3(1): 113-123.
非常に示唆的な論考で、興味深く読みました(今年一番の収穫だったかも)。私なりに内容をまとめると...(下手なまとめかもしれませんが...)。
- 家族を作ることが当たり前であったのは過去の話、結婚するかしないか、子どもをつくるか作らないか、個々人が選んでいく時代になっている。
- それなのに、福祉供給の対象を「家族」に設定すると(つまり「家族福祉」)、あえてその選択をしなかった人に対しては不公平だ、ということになる。
- 「じゃあ福祉供給を個人単位にすればいいじゃない」と言いたくなるかもしれないが、そうはいかない理由がある。家族を作るか作らないかにかかわらず、人が生活していく上で必要である条件はあるはずだから。たとえば「(非対称的な)ケア」。誰だって子どものころは他人(親)から一方的に世話になって育ってきたのだし、この先の人生で(障害や痴呆など)非対称的なケアを必要とする可能性は十分に考えられるだろう。
実は事前にご本人とメールのやりとりをしておりまして、ここまでのまとめは(おおむね)合っている、ということでした。これを受けて久保田さんは、「依存関係のケア」が個別の場面で発生しているかどうかを、政策的支援の基準にするのが適切だろう、という結論を導かれています。
したがって恋愛関係におけるメンタル・サポートなどは、ギデンズが描いているように基本的に「自立的で対称的」なものなので、その限りでは「範囲外」ということになります。また、家族やコレクティブハウス等の「ケア・ユニット」が支援対象となるのではなく、そこに依存的ケアが含まれているかどうかを、個別のニーズとして把握して、それがあると認められれば支援対象となる、ということになります。
最初私は、家族やコレクティブハウスなどを含む「ケア・ユニット」が公的支援対象となるという結論かと読んでしまったのですが、そうではなく、非対称的ケアの実践(あるいはそのニーズ)そのものが援助対象となる、という見解のようです。
(久保田さんのご著書↓)
- 作者: 久保田裕之
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以下、感想です。
まず考えたのは、「ケア」の概念の範囲です。久保田さんは主に痴呆や子どもなどを想定してられるようですが、たとえば「対称的ケア/非対称的ケア」という区別は日常生活者にとって一般的に共有されている言葉ではないので、EM的手法を使えばより精緻に分析できそうな気がします。(結果、「非対称」より適切な記述が見つかるかもしれない。)
次。多かれ少なかれ制度化されたケア・ユニットではなく、個別のニーズを見るべきだというのは久保田さんの議論の核心ですが、考えてみればどうして私が最初それらを混同してしまったのか不思議です。思うに、私が長い間考えてきた問いに関わるので、自分なりの枠組みに間違って引きつけて理解してしまったからじゃないかと思いました。
その問いとは「恋愛や結婚がなぜ公的支援の対象にならないのか」という問いです。そしてこの問いは「恋愛や結婚によって満たされる欲求は、なぜ政府や市場によって提供されにくいのか」という問いのバリエーションです。
「非対称的ケア」の存在は一つの答えだと思います。誰しも子どものころは非対称的なかたちでケアを受けないと生存不可能な状態であったし、またこの先そういう状態になる可能性は否定できません。したがってそういったケアに公的支援を与えるべき、という社会的合意が作られやすいでしょう。逆に自発的に構築される親密な関係性(ギデンズのいう純粋な関係性)は基本的に自立した個人どうしの関係なので、それが得られないことに対する公的保障の合意が作られにくい、ということになります。
私自身は、ある状態に置かれていることが自己責任かどうかは、実際にはもうちょっとアドホックに決まっているんじゃないかと考えています。ある人が「結婚できない」ことは自己責任かもしれませんが、そうではないという主張も理屈上は成り立ちます。たとえば「たまたま男子校に進んで、そのために女の子と交流する仕方を学べず、そして理系に進んで、さらに女性の少ない職場に入って...」といった要因の蓄積をすべて自己責任で片付けてよいものかどうかは、異論の余地があるでしょう。「無知のベール」のもとでじっくりと討議すれば、もしかしたら「そうか、自分も同じ境遇になっていたかも...」と思う人が出てきても不思議じゃありません。
そもそも公的保障の範囲は、実際には、それぞれの社会(国や自治体)で統一的な合意が得られないまま「エイ」っと確定されています。たとえば失業補償などは、医療保険よりもう少しコントロバーシャルでしょう。医療や介護の補償範囲にしても、かなりガチャガチャした議論のなかで無理やり制度化されている部分があるでしょう。
親密性に話を戻します。議論の余地はあるはずなのに、親密な関係性を築くことができないことから生じるロスに対する公的補償(あるいは支援)があまり議論されないのはなぜか。
もっともシンプルな答えを与えるとすれば、「金銭補償は額の合意が作りにくく、実物(サービス)支給は効率が悪いから」となるでしょうか。後者はどういうことかというと...
親密性から得られる心理的利得(相手が自分を理解してくれる、話を聞いてくれる、好きでいてくれる...まとめて「親密財」と呼んでおく)については、サービスを与える側は、サービスを受ける側の性格や置かれた状況を個別に詳しく理解していればいるほど、より効率的にそれを与えることができる、という側面があるのでは、と思います。そういう想定を置くと、親密財の供給は、市場や政府などより親密な関係においてより効率的に提供される、ということになります。
(筒井の「親密性」に関する論考↓)
親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR)
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いわゆる「非対称的ケア」についても、親密な相手にケアされることによるエクストラの利得があるのでは、と考えています。その度合いに応じて、ケアは現実問題として結局何らかの形の「ユニット」を形作る、と説明することができるのではないでしょうか。(もちろんケアを親密なユニットから受けることには、はっきりとしたデメリットもあります。)
「非対称的ケアを個別のニーズとして把握する必要性を説く」ことと、「それが現実問題として親密な関係のユニットを形作る際のしくみを議論する」ことは、特に衝突しない話ですので、以上の論述は久保田さんの議論に「接木」したものです。
ただ、公的支援をめぐる合意のあり方については、私はもう少し突っ込んだ検討が必要になるだろう、という感想を持ちました。ケアのやり取りを巡っては、様々な社会で、公平性と効率性の観点から様々なあり方が実現されており、また模索されているのだと考えています。たとえば最も「対称的」だと考えられている恋愛関係にしても、対称的ではあるが不公平な(ある意味では公的保障がないことが不思議な)親密財配分システムだという理屈が成り立つと私は考えています。
毎年毎年、クリスマスに多くの人が深刻に悩む制度なんて、どこかに欠陥があると思いませんか?
2011-09-22
第一回「連携」研究会を終えて
「来ても10人くらいだろうから、ちっこい部屋でいいや」という予想を大幅に上回る30名の方が参加された「人文学・社会科学における質的研究と量的研究の連携の可能性・第一回研究会」を、無事終了致しました。(無事、といってもちょっと研究会本体の時間を長く取りすぎて、最後はみなさんお疲れでしたが...。)
備忘録として、ここに当日の様子を書き留めておきます。
午前11時からは筒井の報告。研究会が始まる前から、午後に報告してくれる酒井泰斗さん(id:contractio)をすぐに認識できなかったり(6年ほど前にお会いした時と多少違って見えた)、予告なしに姿を見せられた稲葉先生(id:shinichiroinaba)をこれまたすぐに認識できてなかったり(ウェブの写真と違う...)、多少の焦りはありましたが、報告(「計量分析はどのようになされているのか:回帰分析を中心に」)自体はまあうまく行ったかなと思います。
大雑把に言えばこういうことをお話ししました。
- 回帰分析、あるいは計量的因果関係の分析の世界では、さしあたりX→Yの(バイアスのない)因果関係関係が立証されていれば、それがどんなに理解不可能な関連性であっても、間違いなく政策的含意を引き出せる。
- とはいえ計量研究者はこのような場面に出くわすことはあまりない。なぜなら、理解できない関連性を、媒介要因分析によって意味的に理解可能な関連性に置き換える試みがなされるだろうから(たとえそういった「説明」が政策的に意味を持たなくても)。たとえば調査データの探索的分析(マイニング)によって理解不能な関連性が見つかったときは、その関連性はバイアスの観点から「除去」されたり、媒介の観点から「説明」されたりするでしょう。調査データにおいてはバイアスは完全には取り除けないので、できる範囲でバイアスを除去した上でも意味不明な関連性は、未知の要因による擬似相関として考えられるのだと思います。
稲葉先生がご指摘のように、一口に計量分析といっても広大な世界が展開されています。特に最近は構造推定、ベイズ統計、SEMなど多様な広がりを見せており、私が説明したような古典的回帰分析の世界はそのなかのほんの一部です。とはいいつつも、回帰分析が(不十分ながら)目指してきた無作為化実験を範とする因果推定も、DAG/マルコフ独立/ベイジアンネットワークなどの新たなモデル展開のもとになっている根本概念であることに変わりはないでしょう。また、報告の中で触れたように、回帰分析は因果推定の域を超えた「意味的に理解できる説明」の道具として使われているという現状があります。
酒井さんの方からは、今後の研究会で論点になるであろう議論をいくつか整理してもらいました。同時に、「実証主義」の登場以降、社会科学でも方法を説明するために用いられている考え方(「法則定立による因果説明」など)が、自然科学を含む研究の実践を上手に記述できていないということについて説明がありました。この研究会は、(何年後かわかりませんが)ふたたびこの議論に立ち返っていくでしょう。
フロアからも貴重なコメントが多数ありました。ひとつだけ紹介すると、ここ最近インタビューで話題の岸政彦先生には、二日酔いで途中で帰られる前に、フィールドワーク研究において知識の妥当性がいかに確保されているのかについてコメントをいただきました。(フィールドワークは、それを通じて提示される知識の妥当性を、関連する様々な人々の「チェック」によって得ているという側面がある、など。)
振り返ってみれば、私や小杉考司さんなどの計量研究者、岸さんや久保田裕之さん、井口高志さんなど、それぞれ最前線で活躍されている若手の質的研究者、そして(司会してくれた)前田泰樹さん・酒井さん・(新刊が好評の)小宮友根さんなどのEM陣営が一堂に会した、非常に貴重な場になったと思います。
第二回研究会は、来年2月ころに予定しています。(内容は検討中。)














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