もっと声を上げて、もっと多くの人に知ってもらいたい現実

臨時教員:不安定な地位に低給与…「待遇改善を」 有志が名古屋できょう集会 /愛知

 民間での非正規社員の増加が社会問題となっているが、教育現場にも臨時教員と呼ばれる“非正規教員”が増加しつつある。県の場合、90年度には4000人前後だった臨時教職員が、06年度には約1万人と倍増。不安定な地位、低い給与にも負けず、教壇に立つ教師たちの有志が17日、名古屋市南区のサン笠寺で、待遇改善を求める集いを開く。【山田一晶】
 臨時教員の経験があり、この問題に詳しい愛知教育大講師(教育学)の山口正さん(50)の調査によると、全国約110万人の公立小中高校の教師のうち、少なくとも13・8%にあたる約15万人が教員免許を持ちながら、正規採用されていない臨時教員。60年代には臨時教員の割合は約2%だったが、80年代後半から急増し始めた。
 山口さんは「少人数学級の拡大などで、必要教員数が増えているが、予算が追いつかない。1人の正規教員の人件費で3人は雇える非常勤教員が増えている」と分析する。県内では約1万人の臨時教員中、7割が非常勤だ。

 教育再生だ。教員の質の向上だ。不適格教員の排除だ。などと大声を張り上げて主張しながら、こういう実態を知ろうともしていないし、何とかすべきということもない。
 『週刊 東洋経済』で、「増え続ける“臨時教員”学校現場も「ワーキングプア」」としてこの問題を取り上げている。
 給料や待遇のことなどに拘泥せず、子どものためを考え、がむしゃらに働くのが「聖職」としての教員の姿だと言われるだろうか。教育再生などというお遊びの影になり、見えなくなっているこういう状況について、教員はもっと率直に語られていいい。そして、多くの人に知ってもらいたい。
 佐久間亜紀氏が『世界』2月号で、日本では他国とは異なり、教員不足が慢性化していないのは、戦後の教員の待遇の改善の賜物であることを指摘している。また、佐久間氏は、教員の給与の引き下げと、身分の不安定化が今後さらに進むなら、他国同様、教員は若いうちだけの腰かけ程度の仕事となり、それこそ、教員の質は明らかに低下するだろうと指摘している。
 最近の教員バッシングは、こういう実態を覆い隠し、見えなくしている。いくら働いても働き甲斐のない。教員はそういう仕事になりつつある。それでいいと思われるだろうか。

犬山市教委の判断は尊重されるべき

国学力テスト:私立の4割が不参加 一部公立も

愛知・犬山市が学力テスト不参加

全国学力調査、公立は犬山市を除き参加 私立は約6割

4月の全国学力テスト、私立参加6割にとどまる

 おそらく、この報道によって犬山市教委に全国学力テストへの参加を求める声や圧力が高まるだろう。しかし、それはおかしいことだ。
 全国学力テストには参加義務がない。教育委員会が、必要がないと判断したなら、それは最大限尊重されるべきだ。安易に参加を促したり、参加を強制するようなことはすべきではない。
 毎日新聞の記事には、

 文科省は全国一律の調査が不可能な状況について、「できるだけ多くの人に参加してもらったほうが正確な数字が出てくる。ただ、(テストの)中心は公立学校だと考えている」と話している。

という文場科学省の意見があるが、文部科学省の言う「正確な数字」とは一体何か。また、なぜ正確な数字が必要なのか。私には全く理解できない。文部科学省が正確な数字を把握したところで、子どもの子別な問題にどれだけ対処できるというのか。あまりにも馬鹿げた考え方だ。
 また、産経新聞の記事には、

 全国学力テストは4月24日、学校教育の現状や課題を把握するため43年ぶりに実施される。小6と中3が対象で、試験科目は国語と算数・数学。生活習慣や学習環境も同時に調べるため、「早寝早起きの子供は成績が良い」といった生活習慣と学力の関係の分析なども可能になる。

などという解説がされている。「「早寝早起きの子供は成績が良い」といった生活習慣と学力の関係の分析」したければ従来の地域ごとの学力テストで十分ではないか。また、そういうものが分かったとして、それがどれほどの意味を持つというのか。このようなことが書けるのは、学力テストの意味を全く理解していないからだ。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070210/1171089401で書いたことをもう一度繰り返し書いておく。
 犬山市はこれまで独自の教育目標を掲げ、様々な施策を実施し、実績を上げてきている。それをわざわざ全国学力テストに組み込まれる必要は無い。
 犬山市教委は、これまで実施してきた施策の実績と、その施策を実施するのに、全国規模の学力テストは必要が無いこと。そのことを保護者にも住民にも丁寧に説明することが必要だ。そういう過程も無く、全国学力テストへ参加することを決めてはいけない。
 犬山市のように独自の改革を行っていて、全国学力テストに参加しないという判断を行っているのは、そう多くはない。少数派だ。そういうところが、「全国学力テスト・学習状況調査は、自治体間や学校間を競争させるものでなく、児童生徒の全国的な学習到達度・理解度の把握を検証し、教育指導の改善や教育環境の充実を図るもの」という理由で、独自の改革を止めたり、できなくなる可能性を高めるのは間違っている。
 全国学力テストなるものが、なんとなく魅力的に見えるのかもしれない。しかし、独自の理念を持ち、改革を行っている自治体にとっては参加するメリットは無い。
 また、全国学力テストには参加しなければいけない、というある種の強迫観念というか、思い込みが強くある。しかし、全国学力テストという大規模な調査が必要なのは、国が教育施策を見直すために必要なのであり、それならば、従来のサンプル調査で事足りる。
 地域ごとに子どもの課題を見つけ、対策を行うのであれば、その地域ごとの学力テストで十分だ。そういうことを犬山市教委はきちんと説明してほしい。
 これまでも何度か書いてきたことだが、学力テストが子ども、教員、行政にとってそれぞれ異なる意味を持つということ。それは、同じテストによってカバーする必要が無いこと。何より、大規模になり実施時期や内容などが必要に応じて選択できないような柔軟性の無いものより、必要なときに、必要な内容で実施できる小規模の柔軟性のある学力テストのほうが子どもや教員にとっては重要なことだ。
 最後にもう一度、書いておく。犬山市は全国学力テストに参加する必要は無い。市教委は、丁寧な説明と、議論をきちんと行ってほしい。そして、他の自治体でも自分たちは本当に全国学力テストが必要なのか、きちんと議論をしてほしい。国がやるから参加するとか、反対すると批判されそうだからとか、そういう馬鹿げた考えを捨てるべきだ。[asin:418223510X:detail]

教育基本法改正の悪影響がここにある

「教委へ国の関与強化」で大筋一致 自民特命委

 自民党教育再生特命委員会(委員長・中山成彬文部科学相)は16日、党本部で開いた会合で、政府が今国会への提出を目指す教育再生関連3法案のうち、教育委員会制度を見直す地方教育行政法案の内容について協議し、「教育委員会に対する国の関与を強化すべきだ」との見解で大筋一致した。

 改正教育基本法は、政治の介入に対して歯止め規定がない。だから、国の権限を強化することは、いつでも政治が介入するすることが容易になるということだ。
 矢内原忠雄氏は、

 教育に対する国家責任を明確にする。で、これは簡単に申しますと、戦争前においては、日本においては国家と教育があまりにも緊密に結びつき過ぎておりました。それで教育に対する国家の監督、指導というのが非常に力強く行われておりました。そのために、事のないときは大へん教育の能率が上ったように見えましたけれども、一たび事が起ってきますと、たとえば戦争前の状況とか、戦争中の状況とか、戦後の混乱とか、そういうことを考えると、政府が指導し、監督するその教育というものが、人間を作るのにはなはだ不十分である。

と述べている。
 おそらく、戦前のようになるはずがないなどと言い、それは杞憂に過ぎないと笑うだろう。では、そう言える根拠がどこにあるのか。
 戦後制定された教育基本法、その中でも、第十条の教育行政に関する規定は、戦前の経験を生かしたものだった。その規定が本当に必要なのは、ことが本当に起こったときだ。しかし、改正教育基本法はその経験から学んだことを捨て去り、歯止めとなる規定を削除した。戦前の経験はそこに全く生かされていない。

 中山氏は席上、「規制改革会議から横やりが入ったように感じる。規制改革会議の議論を進めると、義務教育も要らないことになる」と、規制改革会議の姿勢に不快感を示した。

というが、教育に対して横槍を入れてきているのはそう言う自分たちではないか。
 「国が責任を持つ」ということを都合よく解釈し、国が何もかも口出しできる仕組みを再構築しようとしている。それは時代錯誤も甚だしい愚行だ。
 以前、引用した小林節氏の言葉をもう一度引用しておく。

 人間というのはみんなで共同生活をするに当たって、専門の管理会社みたいなもの、国をつくるわけです。人間は一人ひとりバラバラでは生きていけないから、国家というサービス管理会社がある中で共同生活をして生きていくわけです。そうすると、国家というものは、個人の次元を超えた強大なる統制権を持たないと、交通違反一つだって取り締まれない。
 かつては、その強大な権力を、一人の個人や家が独占していた時代がありました。すると例外なく、権力は堕落していきます。それは人間が不完全なものだからです。そういった失敗の歴史を経て、我々は学び、長く放っておけば必ず堕落する権力というものに、たがをはめるために、憲法が作られたものなのです。
 しかし、自民党の二世、三世議員、世襲で権力者の階級になっているような人たちは、「自分たちは間違えない」と勝手に思い込んでいる。なぜかというと、自分たちこそが権力であり、判断基準だから。民主主義の制度の中では、権力は永遠じゃないのに、自分たちは永遠に権力の座にいる気なんですね。
 生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。
 そうこうしているうちに、社会ではさまざまな異常な事件が起こる。そうすると、「世の中が間違っている、国民を躾けなきゃいけない」政治家は法律をつくるのが仕事で、法の法たる最高のものは憲法だから、憲法で取り締まればいい――となる。そして、国民は国を愛する心を持つように・・・とか、家庭における役割分担をきちんと考えよう・・・とか。これでは明治憲法下で神たる主権者=天皇が「告文」に始まる大日本帝国憲法で、国民に説教をしていたのと同じです。
 そういった最低限の歴史的教養も、国家論的教養もないんですよ。それで憲法改正を論じているのは、傲慢以外の何物でもない。

 自分たちを縛っていた教育基本法を改正し、その縛りを無くした。そして、法律で国民を縛ろうとしている。「教育は崩壊している。国民を教育し直さないといけない」だから、政治家が法律を作って国民を再教育しなければならない。それは自分たちの役割なのだと、政治家は傲慢なことを考えている。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060623/1150992750で引用した、佐貫浩氏の

 日本の場合、学校管理職によるマネージメントは、ただちに統制(の効率化)と結びつく性格を持っている。日本では「ガバナー」はまさに国家そのものであり、行政である。その性格は、一九六〇年代の学校経営近代化論が、教師への統制論として機能したことにも現れている。このような構造の下では、マネージメント効率、教師の業績競争は、ただちに権力支配への忠誠競争となり、官僚支配の方法となり、学校と教師の自由の剥奪となる。

という指摘は重要だ。国の権限強化は、地方の教育委員会や教員の忠誠競争を招くだけであり、戦前へと回帰することに他ならない。そして、そういうことが、日教組批判などによって国民の視線を逸らしながら行われようとしている。

犬山市教委の取り組みをきちんと見てほしい

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070217/1171639122で取り上げたような報道によって、犬山市教育委員会が、全国学力テストへの不参加方針を示していることに対して、日教組などの影響ではないかとかという誤解や、学力テストへ参加しなくても大丈夫なのかという不安な声が上がっている。
 犬山市教育委員会がこれまで取り組んできたことを、なぜ全国学力テストへの参加によって失わなければならないのか。犬山市教委の取り組みは、それこそ多くの教育委員会が学ぶべきことだ。その取り組みを安易に捨て去る必要は全くない。犬山市教育委員会がこれまでどのような取り組みをしてきたか。それをきちんと見てもらいたい。
 犬山市教育委員会のこれまでの取り組みを知っていただくために、いくつか紹介したい。

検証・地方分権化時代の教育改革 教育改革を評価する―犬山市教育委員会の挑戦 (岩波ブックレット)

検証・地方分権化時代の教育改革 教育改革を評価する―犬山市教育委員会の挑戦 (岩波ブックレット)

[asin:418223510X:detail]
[asin:4654017577:detail]

中嶋哲彦 「犬山市教育委員会による外部校長任用の試み」
児美川孝一郎 「地域教育改革の教育学的検証 : 愛知県犬山市と東京都の「改革」事例から」
加地健 「「学びの学校づくり」と犬山市の教育改革」
井深雄二 「地方分権改革と教育行政秩序の変容 : 愛知県犬山市の教育改革に関する一考察」
谷口篤 杉江修治 仲律子 「犬山市の教育改革に関する保護者の意識と評価 : 改革実施2年目と3年目の資料からの検討」

全国学力テストを何のために行うのか

学力診断テスト:国語基礎など設定正答率下回る????京都市除く府内の中2 /京都

 府教委は16日、府内の中学2年生を対象にした今年で4回目の学力診断テストの結果を公表した。国語・数学・英語の3教科で昨年11月に行い、京都市を除く府内99校の約9700人が受験。国語の基礎・基本と数学の応用・総合で府教委の設定正答率を下回った。

 まず、考えなければならないのは、今回の学力テストで明らかになった、「国語の基礎・基本と数学の応用・総合で府教委の設定正答率を下回った」というのは、全国学力テストでなければ分からないことなのかということだ。答えは、全国学力テストでなくとも子どもの学力の課題は把握できるということだ。
 全国学力テストがなぜ必要なのか。今まで各地域ごとに行われてきた学力テストと何が異なるのか。地方ごとのテストではなぜ駄目なのか。なぜ、全国一斉でなければならないのか。そういうことがほとんど問われないまま、全国学力テストは実施されようとしている。
 学力低下の問題は、確かに不安だと思う。しかし、そういう不安に駆られて、必要な議論を欠いたまま、次から次へと必要かどうかも分からないものが導入されようとしている。
 もし、犬山市教委の不参加を撤回せよと主張されるなら、なぜ犬山市だけで行えてきたことを、全国学力テストという制度(犬山市独自の取り組みよりも明らかに劣る制度)に組み込まれなければならないのか十分に説明すべきだ。
 学力低下が不安だから、文部科学省がやるから、みんながやるからそれに参加しなければいけないというのは間違っている。
 一番重要で、必要なことは、必要なときに必要な学力テストが実施でき、その結果に応じて対策を講じることのできる仕組み。そして、個別の問題にもきちんと対応できる仕組み。そういうものをきちんと構築するということだ。全国学力テストはそういう仕組みではない。
 全国学力テストには多額の予算がつぎ込まれている。だから、一度動き出すと弊害があってもすぐに止めることはできなくなる。そういうものが議論を深めないまま実施されようとしている。
 犬山市教委の判断は、そういう動きに一石を投じるようなものだ。しかし、その石はそんなに大きな波紋を広げていない。各地の教育委員会は、全国学力テストへの参加の是非をどれほど議論したのだろうか。国がやるから参加しないとね。という程度の認識なのではないか。
 いじめの問題にしても学力の問題でも、国が対策を講じなければならないという考え方があって、それに従わないと駄目なんだと一方的に非難される。しかし、それは逆転した議論であり、間違った流れだ。
 教育は国が責任を持つという言葉が、国が何もかも考え、実施なければならないという意味へと転化している。そういう流れが強めれば強まるほど、そういう方向へ行けば行くほど、地方や現場は何も考えなくなるのであり、国に頼ろうとする。それは、地方や現場の不能化を招くことになる。それでいいと思われるだろうか。
 全国学力テストがなぜ必要なのか。もう一度問い直してもらいたい。