Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


※すべての記事は上の「記事一覧」で見られます。
※上の「日記」で検索すると当ブログ内の検索ができます。
※旧サイトはhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-taです。
コメント・トラックバックには普段は反応・返答しませんのでご了承ください。
※メールはcbl03270(at)pop06.odn.ne.jp  ←(at)を@に直してください。
※うまくメールが送れないときはこちらからどうぞ。
※お仕事の依頼や回答が必要なことなどはメールでお願いします。

2017-03-31 新たに町内会本『どこまでやるか、町内会』を出します(告知用)

新たに町内会本『どこまでやるか、町内会』を出します(告知用リンク)

 (このリンク用記事は3月末までトップに置いておきます)新たに町内会の本を出します。『どこまでやるか、町内会』です。ポプラ新書からです。

※前著『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)もよろしく。

2017-03-17 実録からの逸脱 『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』

山本直樹『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』



レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(1) (イブニングコミックス) 連合赤軍事件をモデルにした実録『レッド』は、第二部も大詰めである。

山本直樹『レッド』1巻 - 紙屋研究所 山本直樹『レッド』1巻 - 紙屋研究所

 最初の書評でも書いたが、『レッド』は実録に徹している。どんな小さなセリフやしぐさも手記や記録に根拠を求めている。

 追い詰められた集団が狂気の暴走を続け、密室的な内部で凄惨な暴力をふるう「興奮」は、もともと山本が『ビリーバーズ』で虚構として描こうとして果たせなかったものだ。

 虚構を脱して愚直なまでにドキュメンタリー手法に徹したのが『レッド』である。

 山本の創作史的には、(ぼくに言わせてもらえば)『ビリーバーズ』の破産の上に、築かれたのが『レッド』なのだ。

山本直樹『ビリーバーズ』 - 紙屋研究所 山本直樹『ビリーバーズ』 - 紙屋研究所

 さっき(2017年3月16日)ぼくがNHK浦沢直樹の漫勉」で山本直樹の特集を見たとき、『レッド』を軸に作画の解説がされていたのだが、山本のタッチを“どこか突き放したようなタッチ”だという趣旨に解説していた。

 しかしそれは山本作品に共通のものというより、山本作品の中でもまさに『レッド』の手法である。

 『あさってDance』にせよ『ありがとう』にせよ『ビリーバーズ』にせよ、どこかけれん味があるのがむしろ山本の特徴ではないか。

 茶化し。ニヒル。大げさ。諧謔。そういう演出を以って閉鎖集団の狂気を描こうとしたが、その狂気の(好奇心的な意味で)一番のスピリットを取り出すことはできず、一切の主観を交えずに(実際にはそんなことはできないが)客観的に描くことでそのエグさが描けるのだと判断したに違いない。


 そういう意味で、『レッド』は第二部にあたる『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』に至るまで、ストイックなまでに手記や記録に依存して描かれている。エロもほぼない。


 山本的な好奇心から見て、連合赤軍事件の中で一番「興味」を引くのは、やはり「総括」の名によるリンチであろうが、その中でも「死刑」と称される殺し方であろう。

 ぼくも以前の記事の中で書いたが、このくだりは、記録を読んでいても本当に「不思議」で、例えばもはや殺されることがほぼ決定されている被害者は尋問される中でこんな問答をする。

森氏は追及を再開した。

「組織を乗っ取ったら、どうするつもりだったんや」

「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」

「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」

商社から金を取るつもりだった」

「いくら取るつもりだった」

「数千万円取るつもりだった」……

「そんなに金をとってどうするつもりだったんや」

「宮殿をつくって、女を沢山はべらせて王様のような生活をするつもりだった」

「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」

「そうしたことはないが、いろいろな女性同志と寝ることを夢想する」

「誰と寝ることを夢想する?」

「大槻さんです」(永田洋子『十六の墓標』下p.278〜279)

レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(4) (イブニングコミックス) 明らかに異常な答えである。

 しかし、そのまま「死刑」は執行される。驚くべき残酷な方法で。

 これは山本『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』3巻で描かれる。

 ということは、この第二部の3巻こそ山本の一番描きたいものではなかったかと思っていた。


 ところが4巻を読んで奇妙なものを見つけた。

 白根(大槻節子がモデル)が今度は「総括」の対象となり、暴力による衰弱の後、厳寒の中で柱に縛られている中で、意識が遠のいていくシーンがある。

 そこで、なんと、白根の意識のな流れのようなものが描かれるのである。

足の感覚がない

いつからこうしているんだっけ?

総括?

私 死ぬの?

ここどこ?

私 死ぬのかな

死にたくない

革命のための死?

いやだ

死にたくない

(山本『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』kindle4巻、講談社、45/195)

 ぼくの調査不足かもしれないが、これは手記や記録にはないものではないか。

 そもそも死にゆくものの意識など記録に残しようがない。

 これは、山本が『レッド』において守ってきたドキュメンタリーに徹するという手法を逸脱してしまう決定的な瞬間ではないのか。


 いやぁ、「実はこんな記録があるんですよ」とか「他でも記録にないセリフや展開はすでにいっぱい使ってますよ」ということであれば、ぼくのとんだ赤っ恥であるけども、あえてそうではないということで話を進めていく。


 もしそうだとすれば、これは山本が矩を超えてまでその叫びを描きたかったという瞬間であり、作者山本の気持ちの絶頂を紙に落とした一瞬ということになる。


 ぼくは『レッド』1巻が描かれたときに、

 個人的には、大槻(『レッド』では「白根」)の造形に関心が高い。『レッド』では妊娠したまま殺害された金子(『レッド』では「宮浦」)の描写が目立っているが、大槻=白根のように詩を書いたり、恋愛もし、元恋人の殺害に加担したことを耐えきれないほどのまとな精神をもちながらも、やはり活動家として指示を愚直にこなし、殺害に加担しつづけ、そしてやがて殺されていく悲劇性の高い人物にこそもっと焦点をあてて描いてほしい気持ちがある。大槻=白根の描写は1巻では数えるほどしかないが、ぼくはその数コマをまじまじと見てしまっている。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/red.html

と記した。

 まさに、山本『レッド』は白根の死を作品中、最も逸脱したフォーカスを当てたのである。

 閉鎖集団としての狂気と、常識的な人間感覚が交差する一点が、この白根の死であったということができる。

2017-03-08 町内会は貧困に向き合えるか 『貧困と地域』

白波瀬達也『貧困と地域 あいりん地区から見る高齢化と孤立死』


まず「あいりん地区を知る1冊」として

貧困と地域 - あいりん地区から見る高齢化と孤立死 (中公新書) 正直なところ、「釜ヶ崎」、あいりん地区がどうなっているのか、ぼくはよく知らなかった。

 「日雇い労働者の街」というイメージもあり、少なくともぼくが左翼運動に加わった1980年代にはたしかにそういうイメージ通りの活動が行われていた。


 だけど、今でもそうなのか?

 これが素朴な疑問。


 建設現場で人手不足が聞こえる現在、若い日雇い労働者がどんどん供給されて、建設現場で調整弁のように吸い込まれ、吐き出されているのか?

 うーん、そんなことないだろう。

 となれば、日雇い労働者がいなくなり、街はゴーストタウン? それとも、かつての日雇い労働者高齢者になって生活保護受給者の街に?……というのが、うすうすの予感。このあたりまで想像してみた。


 まず本書には、「釜ヶ崎」、あいりん地区が戦前から戦後にかけてどういう街として変化したかが、研究をたどる形でコンパクトに書かれている。

 著者から、「だからそういう単純化してはいけないって書いてあるだろ!」と怒られそうだけど、本書を読んで街の変遷としてぼくが読み取ったのは、

  1. 戦後の高度成長前までのスラムの時代……(1)貧困家族、(2)貧困単身者、(3)反社会的集団、(4)高齢者障害者などの混合(簡易宿泊所)。
  2. 高度成長期ドヤ街への変化……(2)が急速に膨らむ。建設現場などへ流れる日雇い労働者
  3. バブル崩壊後の福祉受給者が多くいる街……あいりん地区住民の40%が保護受給者。

という変化だった。

 ぼくにとって本書の何よりの収穫はこの点。あいりん地区がどういう変遷をたどっているかがコンパクトにわかる点だと思う。



「現代のコミュニティ論」として読む

 しかし、あいりん地区とかドヤ街に関心のない人には、どうでもいいことかもしれない。

 ただ、本書のオビの紹介には「現代のコミュニティ論である」とある。こうした普遍的な意義を持った本としても読める。

 具体的には、貧困が集中している地域で行政、町内会、NPO市民団体がどう協力し合っているか(もしくは協力していないか)が書かれているのだ。

 評価はどうあろうが、「新左翼」的な運動など、「行政とは連携しない社会運動団体」(本書p.84)が複数存在し、教会の救援活動など、「類似の支援が過剰に供給」「あいりん地区の無料の食事の機会はとてつもなく多い」(p.85)。「自立を阻害している」と言われようがどうであろうが、

複数の担い手による支援が多層化している状況は、あいりん地区に暮らす野宿者や生活保護受給者に大きな安心をもたらしていることも事実だろう。(本書p.86)

ということなのだ。そして、

身寄りがなく単身で生きることに困難を抱える者たちにとって、生活上のリスクに対応した社会資源が豊富なあいりん地区は暮らしやすい地域だ。(本書p.90、強調は引用者)

という一文は、読みようによっては衝撃的な一文とさえいる。


専門家行政主体でない使い勝手について思いを馳せる

 本書の中に「サポーティブハウス」について書かれたところがある。

 保護を受けながら支援が必要な人が集まって住み、スタッフの支援を受けながら生活しているところである。共用部分を除くと一人当たりの居住面積が5平方メートルしかなく*1一見「貧困ビジネス」のように思えてしまうが、囲い込まず、自由であり、お金の取り方も違うのだという。

 住居費用と別にスタッフの料金は取られていないので「無償」である。保護費から対応するお金が出ないからだ。しかし、そのためにここにいる支援スタッフは「ソーシャルワーク専門家ではない」(本書p.118)。「支援の質を客観的に証明することは容易ではない」(同p.119)。

 ここからは想像。

 こうした支援は、NPO市民団体としての素人が持っている、気さくさ、気楽さ、居心地のよさ、勝手気ままな交流、というものがいかにもありそうな雰囲気だ。しかし、専門家としての明確な「質」はない……こんな感じだろうか。

 こういう想像をするのは、ぼくが関わってきた無料塾なんかはまさにこんな感じだから。手弁当で講師も集めてくるが、それは講師としての「質」を意味しない。しかし、そこが楽しいから、子どもが集まる、親が居場所にする、となる。

 それでもいいのではないか、とふと思う。

 専門家行政が来て四角四面になってしまうよりも。

 とはいえ、そこにはやはり限界がある。どこかで行政としての責任が関与してここにいる人たちの生存権が保障されねばならないはずだ。その限界を踏まえて意義を考えるなら、こうした自生的(かつソーシャルビジネス的)な社会資源の果たす役割は大きい。


宗教原初的な姿

 他に印象的だったのは、「釜ヶ崎見送りの会」の取り組みだった。身寄りのない人々が、人生の最終段階でコミュニティを作り、死に際してコミュニティが見送る。

 同会がある会員を見送った時の浄土宗僧侶(杉本好弘)の「引導文」が心に残ったので引用する。

飲食業を営むなどしてこの町に根を下ろしかけたあなたは、ほどなくして病を得て生活保護で暮らすようになりました。あなたの周りにはいつも飲み友達が集まり、あなたの部屋にはいつも飲み友達が訪れていました。あなたの酒は、人生の最後のひと月ほどを病院のベッドに縛り付けることになりましたが、同時に人生の宝である友達をあなたに贈ってくれました。酒と共にもうひとつあなたが好きだった博打のことで、あなたの友達がこんなことを言っていました。「博打は勝ったり負けたりだから面白い」。これは本当のことかもしれません。だとすれば「人生も平かな一本道ではなく山あり谷ありの曲がりくねった道だから面白い」と言えるでしょう。あなたの人生はまさに山あり谷ありの曲がりくねった人生でした。あなたはこの人生を十分楽しみましたね。(本書p.159-160)

 名文である。

 その人の人生が、その人に即して見事に肯定されている。

 アルコールギャンブルというそれ自体を社会的に取り出せば十分な管理が必要な、はなはだ危険な代物も、一人の尊厳ある個人の生き様の中では、しっかりとした位置を占めている。酒が人生を楽しくさせ、人生が博打のような興奮であったと。保護受給者からこれらをとりあげ、通報し、監視する思想と対極の眼差しがここにある。


 このような「引導」こそ、宗教原初の姿ではないのか。

 例えば仏教は、心に湧き上がってくる不安や悩みをどうコントロールするかという宗教だが、その中心にはやはり「死」の不安がある。死んだらどうなってしまうのか、ということもそうだが、一人で死んでいくこと、特にその死を迎えることや、死を意識したときにどのような生を送るのかを考えていき、心の平安を与えられるものが宗教なのだとすれば、これはまさにそれではないのか。


脱線=引導文「白骨の御文章」

 ちょっと脱線して申し訳ないけども、最近、『この世界の片隅に』つながりで井伏鱒二黒い雨』を読み直した。その中に、主人公が原爆で亡くなった人たちのために、にわかにお経を読む役割を言いつけられ、近くの寺から覚えて来た「白骨の御文章」(蓮如)を引導文として読む場面がある。

 映画でもこのシーンは印象的だ。

 特にこの一節。

われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。


〔私が先か、人が先か、今日かもしれず、明日かもしれず、おくれたり、先立ったり、人の別れに絶え間がないのは、草木の根本にかかる雫(しずく)よりも、葉先にやどる露よりも数が多いと、いわれています。だから、朝には血気盛んな顔色であっても、夕方には白骨となってしまう身であります。〕

http://www.hotokuji.com/hakkotunosyo.html

 ぼくは、この時初めて「引導」(葬儀の際に導師が棺の前に立ち、死者が悟りを得るように法語を唱えること。また、その法語――デジタル大辞泉より)というものの役割を知った。

 と同時に、上記のサイトに

「白骨の章」といわれるこの御文章は、一般的には葬儀を通して拝読され、絶大な影響力を持っています。

この御文章を耳にすると、胸しめつけられる想いがする、と口にする人が少なくありません。

特に身近な人との別離において、そこにしめされる無常観には共感の嗚咽が広がることにもなります。

http://www.hotokuji.com/hakkotunosyo.html

とあるのだが、『黒い雨』でこの引導文に出会った時、原爆の投下という不条理に対する「怒り」とか「憤り」のようなものが、確かに「無常」といった世界観に絡め取られて、鎮められてしまう自分に気づいた。だが、たぶん、それは投下直後の、ある種の人々にとって必要なことだった。

 ぼくはそこで宗教が機能している姿を感じたし、今この本の中で僧侶・杉本が読んでいる引導文にもそれを強く感じたのである。


再開発は追い出しになっていないか

 さて、本書に戻る。

 本書の後半では、あいりん地区再開発に触れている。

 ここには、強く疑問が残った。

 著者は、対立意見がかなり出され、それが透明・可視化され、「合意形成」へと進んだことを評価しているように読めるのだが、本書にも「従来と同じように生活困窮者を吸収し続けることは困難になりつつある。あいりん対策で設けられた生活保護施設は次々と閉鎖されている。公園でテントや小屋を建てて暮らすことが禁じられるようになり、野宿者のためのシェルター(臨時夜間緊急避難所)も規模が大幅に縮小した」(p.203-204)として、簡易宿泊所ドヤ街的なものから、インバウンド観光客を吸収するためのものに変貌しつつある状況が描き出されているように、単に追い出しが進んでいるだけではないのか。


 ……と書いてみたが、実際のところは、西成あいりん地区をよく調べてみなければわからない。本書を読んだ限りでは、とりあえず疑問を持った、という程度にとどめてみる。



貧困に向き合えない町内会

 最後に、町内会について書いておく。

 本書では、あいりん地区の町内会加入率はわずか6%だとされている。

 「匿名」のドヤ街だったところではさもありなん、と思う。

 そして、前述の再開発にかかわる合意形成の一角に町内会がいて、もしそれが「追い出し」という流れと結びついていたら……と思うと少し暗くなる。いや、そのあたりについても実際どうなのか、よくわからないけどね。

 本書の「終章」には、

したがって、真正面から貧困問題に向き合うならば、あいりん地区が経験してきたように、支援のあり方をめぐって対立や葛藤が生じる可能性が少なくない。

 たとえば北九州市に拠点を置くNPO法人抱樸は二〇一二年、新しいホームレス支援施設の建設に着手したとき、町内会・自治会からの反対が噴出した。地域には反対ののぼり旗が次々に立った。旗には「取り戻そう!静かで安心して住める街」と書かれた(奥田二〇一六)。(本書p.203-204)

とある。

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書) ぼくは、『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)の中で、“防災や防犯は町内会の「必須」の活動だというくせに、なぜ「貧困対策」は「必須」と扱われないのか”として、行政や町内会側が従来「必須」「必要」「不可欠」などと言ってきたジャンルがいかに恣意的なものかについて論じた。

 これについて、町内会問題に詳しい中田実(名古屋大学名誉教授)は、次のように述べている。

町内会・自治会は、住居=世帯を単位として組織されています。そして、世帯内の問題は世帯内で処理し、地域組織は、地域環境整備や交通安全・防犯の活動、そして住民総出の地区行事という、世帯を超えた領域で活動を行えばよい、という役割分担ができていました。(中田「町内会・自治会の特質と現代的課題」/「住民と自治2016年1月号所収、強調は引用者)

 つまり従来の町内会は、基本的に「家庭内」には踏み込まなかったのだという。このような町内会の旧来的なあり方が、社会的包摂ではなく、社会的排除のしくみとして町内会を機能させてしまう根源になってきたのではないか。

 何を隠そう、ぼくも『どこまでやるか、町内会』の中で、「非行少年」を警察を使って団地から「追い散らす」ことしかできなかった反省を書いている。対比的に、近くの団地自治会で、彼ら・彼女らの学習支援や行事参加にとりくんで逆に「包摂」を成し遂げたことにも触れた。

 中田は、世帯がいよいよ少人数化し、高齢化非正規化・貧困化が進む中で、町内会の活動参加自体が難しくなるとともに、地域課題が変わってきたとする。つまり「家庭内」に踏み込むようになってきたのである。

 例えば高齢者の見守り。

 これまでは町内会とは近いけども別の組織、民生委員ボランティア公務員)がその仕事をしてきたが、現在この課題にとりくむ町内会は増えている。

 また、『どこまでやるか、町内会』では貧困対策の一環である「子ども食堂」の取り組みを拒否した町内会の話を書いているが、2017年1月10日付西日本新聞には「子ども食堂 全27自治会に 大野城市公民館を活用」という記事が1面トップを飾った。

 町内会は原理そのものを変え、新しい装いにしないと「貧困問題」には対応できないだろう……と、本書を読んで、そんなことも思った。


 なるほど本書はあいりん地区の個別問題を超えて、「現代のコミュニティ」について考えさせてくれた一冊であった。

*12017年現在最低居住水準は単身者で25平方メートル

2017-02-17 「ちゃお」的なものと戦う 「ユリイカ」東村アキコ特集

「ちゃお」的なものと戦う 「ユリイカ」東村アキコ特集


少女マンガ的つまらなさ」との対決としての東村作品

ユリイカ 2017年3月臨時増刊号 総特集◎東村アキコ ―『海月姫』『東京タラレバ娘』から『雪花の虎』『美食探偵 明智五郎』までユリイカ 詩と批評」2017年3月の臨時増刊号の東村アキコ特集に「『雪花の虎』のカッコよさはどうやって成り立っているのか」という一文を寄せました。


 『雪花の虎』を「宝塚」と関連して論じるのは同号の中で吉村麗がやっていて、『雪花の虎』は他にも鷲谷花などが論じています。ぼくは、別の角度から議論しました。*1


 ぼくの『雪花の虎』論は、「小学生女子を対象にしている『ちゃお』に連載されている少女マンガの少なからぬ部分は、なぜあれほどまでに(ぼくにとって)つまらないのか」という問題意識から出発しています。

 そのことは、ぼくの論考の冒頭に書いたし、結論部分でも書いています。


 へ!? 「ちゃお」!?


……と思うかもしれません。「ちゃお」って、小学生女子が読む少女マンガ雑誌でしょ? 東村アキコと全然関係ないやん、と。

 が、ぼくの問題意識はこうです。

 東村アキコの作品とは、「ちゃお」に見られるような「少女マンガ的つまらなさ」との対決にあるのではないのか、と。

 「少女マンガ的つまらなさ」の批判者としての東村アキコ

 実は、「ユリイカ」の同じ特集の中で岩下朋世が「パロディと思うなかれ――東村マンガに『少女マンガ性』は見出せるか」という考察を書いており、「少女マンガ的定番との真っ向勝負」という節を設けています。

 読んで見て、ぼくの問題意識と重なる部分がある、と思いました。


「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」

 ぼくは自分の一文の最後で、東村が『ひまわりっ』という自伝的要素をからめた作品の中で「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」という劇中劇ならぬ「マンガ中マンガ」を使って、女性マンガ家のありがちな傾向を揶揄批判しているのを紹介しました。

 東村は、少女マンガの中にある無根拠な「美しさ」「カッコよさ」と対決し、堅牢な条件を積み上げて、時にはそれを「笑い」によって批評し、時にはロジカルに「美しさ」「カッコよさ」を示そうとします。


 東村は、ギャグ=笑いを導入する中で(『きせかえユカちゃん』で飛躍的に取り入れられるようになった)、格段にこのロジカルさが増していきました。

 それは、ギャグとは、対象の客観視であり、批評性の発露だからです。

 東村が「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」で批判対象としていたのは、おそらく東村が活躍していた「ヤングユー」や「クッキー」で頻繁に掲載されていたものが想定されているのでしょう。

 「ヤングユー」や「クッキー」は、「ちゃお」的な少女マンガから、オトナのマンガである「ユー」などへの過渡として存在していましたが、少女マンガの中にある「無根拠性」がむき出しになった作品(ぼくが論考の中で言った「雰囲気だけで描いちゃうマンガ」)と、論理性が堅固なオトナの作品が混在しており、東村はその一方の雄であり、他方への批判者でもありました。


 ぼくが東村アキコの作品を初めて観たのは、「ヤングユー」誌での「のまれちまうぜシュガウェーブ」という短編でした。

 ぼくのその時(2003年)の感想が、ホームページ上に残っています。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou.html#nomare


エッセイコミック的絵柄

 この作品を読んだ時、まず絵柄に惹きつけられました(下図*2)。

f:id:kamiyakenkyujo:20170217144725j:image

 ちょうどその頃「ヤングユー」に移ってきた羽海野チカハチミツとクローバー』に抱いたワクワク感を、内容やセリフとは別に、絵柄そのものから、持ったのです。

 あまりうまく表現できませんが、

  • 少年誌的なもの。
  • ギャグが入り込んでいるんじゃないか。
  • リリカルではなくリアルな真情が出ているっぽさ。

ということを予感させてくれる絵柄なのです。

 「エッセイコミック的」と言ってもいいでしょう。


女性作家の中での「物語作品」と「エッセイ作品」の出来の良さの差はなんなんだ

 ぼくは(当時のぼくにとっての)女性マンガ家の一つの傾向として、作品ではかなり叙情的な絵柄を使うのに、エッセイコミックでは全く違う、上記のような絵柄を使うことへの違和感を抱いていました。

 絵柄が違うことそのものではありません。叙情的な絵柄の「本体の作品」の方は、「ふわっ」としていて「雰囲気だけ」で描かれていてつまらないのに、エッセイコミックの方は無性に面白い。なんで本体の方の作品もエッセイコミックみたいに面白くできなのかなあと。ふわふわした無根拠なものをなんで書いちゃうんだという苛立ち。

 例えば、高橋由佳利は『トルコで私も考えた』というエッセイコミックがものすごく楽しみで、そこで高橋の物語系のフィクション作品もいくつか読んだのですが、少なくともぼくにはピンときませんでした。

 初期のかわかみじゅんこなどもそうです。

 かわかみが登場して来たとき、世間で絶賛されていた『ワレワレハ』や『銀河ガールパンダボーイ』にぼくはあまり馴染めずに、そのまま忘れていたのですが、パリ暮らしを綴った『パリパリ伝説』に出会って熱狂しました。『パリパリ伝説』を経た後で発表されている物語作品であるところの『日曜日はマルシェでボンボン』や『中学聖日記』は、エッセイコミック的な諧謔が随所に生きています。


 このような「エッセイコミック的なもの」という絵柄を装備した東村は、登場からすでに(ぼくのなかで)アドバンテージを持っていました。

 ただ、最初は東村自身が苦戦していたとぼくは思います。

 つまり「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」は東村自身の反省ではないのか、少なくとも自分の中にその要素があったのではないか、という自戒・自虐を込めているのではないでしょうか。


 東村の初期作品『白い約束』に、ぼくは不満があります。

 これも、ぼくのホームページに当時(2004年)の感想が残っているので、紹介しましょう。

 この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。

 ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。

 結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。

 3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。

 同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0407.html#shiroi

ギャグが担保する客観

 東村はぼくの中では「ギャグの人」です(羽海野チカもぼくの中では長い間そういうポジションでした)。対象を冷徹に客観視して笑いものにする批評性は、『ママはテンパリスト』のようなエッセイコミックで本領を発揮しますが、そこから派生して『東京タラレバ娘』『海月姫』『ひまわりっ』のような物語フィクションにも生かされます。


 逆に言えば、ギャグとは別に、陶酔感が入り込む「カッコよさ」「叙情」「懐古」のようなものを扱うときは、危険さがつきまといます。

 つまり、下手をするとギャグやロジックのような客観性を担保する武器が封じられて「ちゃお」少女マンガのような「雰囲気だけで書いたもの」、陶酔感全開のものになってしまう恐れがあります。


 この点で、『かくかくしかじか』と『雪花の虎』は本来危うい要素を含んでいます。「先生との涙のエピソード」や「宝塚みたいにカッコいい謙信」というところに流れかねないからです。しかし、その危うさを乗り切って、この2作品は傑作に仕上がっています。



 そこをどうやって、ロジカルに支えているのか、ということをぼくの稿では書いたつもりでいます。まあ、成功しているかどうかは、読んだ人にお任せします。



「女性性の批評と追求」には成功していない『雪花の虎

雪花の虎 4 (ビッグコミックススペシャル) なお、その論考でも書きましたが、謙信が女性であること、女性が男性化するのではなく、女性のまま、その人のままで輝きうる、というテーマについては『雪花の虎』は成功しているとは思えません(ただしそれはこの作品の魅力を減じるものではありません)。

 そのテーマは、本来は論理的に追求されねばならないものですが、そこはあまりうまくいっていないのです。

 そのことが論理的に追求されるには、男性性や女性性に対する客観的な批評が必要で、東村の最大の武器がここでもギャグだと思います。

 しかし、謙信が生きた時代の男性性・女性性への批評は相当に難しい。

 東村が得意とするのは、『東京タラレバ娘』に見られるような、今生きて動いているアラサーたちの生態を観察し、批評すること、すなわち「ほじくり出して笑うこと」です。この現実の生々しさから離れている「歴史もの」の中では、今のところ、東村が武器は封じられたままです。

 これを全く新しい形で示すのか、それともそこは未開花のままで終わるか、どちらになるかは、今後にかかっています。

*1:もちろん『雪花の虎』と宝塚の関連については拙稿でも触れています。

*2東村アキコ「のまれちまうぜシュガウェーブ」/『きせかえユカちゃん 10』所収、集英社りぼんマスコットコミックスDIGITAL、159/216

2017-02-12 谷口ジローの死

谷口ジローの死


 谷口ジローが亡くなった。

 特に感慨はない、と思っていたが、自分がこの14年間のブログ人生(?)で書いたものを振り返って、結構とりあげていることに気づいた。


神々の山嶺

 「山の量感」と「登山という近代個人の登場」を描き切った『神々の山嶺』は中でもすごい作品であった。

谷口ジロー・夢枕獏『神々の山嶺』 - 紙屋研究所 谷口ジロー・夢枕獏『神々の山嶺』 - 紙屋研究所



孤独のグルメ

 ぼくの本(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)の中でも紹介させてもらった『孤独のグルメ』は、今でもなんども読む。

 「関係を食べている」と指摘した関川夏央の反『美味しんぼ』レビューを紹介しながら、『孤独のグルメ』こそアンチグルメであると書いた、ぼくの『孤独のグルメ』評。

 本を読みながら食事をするという「悪風」は、娘に文化的に遺伝してしまった。

『孤独のグルメ』 - 紙屋研究所 『孤独のグルメ』 - 紙屋研究所


『犬を飼う』

 動物を飼うことについてほとんど思い入れのないぼくであるが、飼っていた動物が死ぬということの人の心に与える影響についてあれこれ考えるきっかけになった。そのことを須藤真澄の作品の比較で書いた。

谷口ジロー『犬を飼う』 須藤真澄『長い長いさんぽ』(紙屋研究所) 谷口ジロー『犬を飼う』 須藤真澄『長い長いさんぽ』(紙屋研究所)



「狼王ロボ」

 「動物との知恵比べ」というジャンルの面白さとして書いたのが、「狼王ロボ」評である。


谷口ジローシートン』第1章「狼王ロボ」

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/seton.html



センセイの鞄』ほか

 谷口が取り上げる、恋情や感傷のような感情には、どこか古臭い感じがあって、それがぼくの心に実によく引っかかった。


川上弘美・谷口ジロー『センセイの鞄』 - 紙屋研究所 川上弘美・谷口ジロー『センセイの鞄』 - 紙屋研究所

内海隆一郎・谷口ジロー『欅の木』 - 紙屋研究所 内海隆一郎・谷口ジロー『欅の木』 - 紙屋研究所

谷口ジロー『ふらり。』 村上もとか『JIN-仁-』 - 紙屋研究所 谷口ジロー『ふらり。』 村上もとか『JIN-仁-』 - 紙屋研究所


遥かな町へ谷口ジロー

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/kansougun.html#anchor19


 いや…取り上げすぎだろ。

 相当好きだったんだな、と自分にびっくりした。


 こうして眺め直して見て、そこに『「坊っちゃん」の時代』がないことに気づく。ぼくにとって谷口は、圧倒的に「自然を描く人」であったのだ。「自然と人間(個人)」という近代の構図をこれほどまでに描き出す人は、今度もなかなか現れまい。