Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


※すべての記事は上の「記事一覧」で見られます。
※上の「日記」で検索すると当ブログ内の検索ができます。
※旧サイトはhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-taです。
コメント・トラックバックには普段は反応・返答しませんのでご了承ください。
※メールはcbl03270(at)pop06.odn.ne.jp  ←(at)を@に直してください。
※うまくメールが送れないときはこちらからどうぞ。
※お仕事の依頼や回答が必要なことなどはメールでお願いします。

2016-09-30 文学フリマ福岡に参加します

文学フリマ福岡に参加します


 2016年10月30日(日)都久志会館福岡市天神)で開催される文学フリマ福岡に参加します。

http://bunfree.net/?fukuoka_bun02


 以下はぼくが出す本の目次(およびその回に言及したマンガ作品や参照にした本など)と、その本の「はじめに」で書いたことです。

 「人間と教育」誌で連載しているマンガ評論をまとめたコピー本です。

 ぼく自身、福岡でだけでなく、同人誌を出すこと自体初めてです。なので、どういうクォリティの本を売ればいいのか、どれくらい売れるものか、見当もつきません。

 ネットとか本を見ると、最初は10冊売れれば御の字だということなので、献本分を除いて10冊だけ作っていくことにします。


1 大人と幼児が同時に楽しめるマンガはあるか?

2 いわさきちひろはどう批判されたか

3「ダメ人間マンガ」はなぜ増えているのか

4 「スポ根」マンガは死んだのか?

5 ヤンキーマンガと「an・an」の接点は?

6 「気持ち悪い」「グロイ」という『はだしのゲン』の読みの強さ

7 『ONE PIECE』はなぜつまらないか

8 エロマンガは規制されるべきか?

9 少女マンガエロマンガよりも「有害」か

10 なぜ女性向けエロマンガ強姦シーンがあるのか?

11 『このマンガがすごい! 2015』第1位のマンガを読む

12 「漫画家になりたい」という子どもを待ち受けているもの

13 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(上)

14 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(下)

  • 『あとかたの街』
  • 『凍りの掌』
  • 『夕凪の街 桜の国』
  • 竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく』

15 鶴見俊輔は『サザエさん』をどう論じたか

16 その美少女の中身はおっさん、もしくはオタク男子である

  • shirakaba「初音家の食卓」
  • 苺ましまろ
  • 『自分がツインテールのかわいい女の子だと思い込んで、 今日の出来事を4コマにする。』

17 『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』は「道徳教材」たるか


はじめに  絵本とマンガはどう違うの?

 ぼくは、「紙屋研究所」というマンガ批評のブログをやっています。ブログ形式になる前と合わせると、もう13年間、ネット上でそうした批評の活動を続けています。ときどき雑誌のような紙媒体でもレビューや評論を書かせてもらっていますし、マンガ以外の本の書評や、政治や社会について感じたことを書いたりもしています。

 この本は、学校の先生など教育関係者が主に読む雑誌である『人間と教育』(民主教育研究所編集、旬報社)に2012年から書いている「マンガばっかり読んでちゃいけません!」という連載17回分をまとめたものです。連載は今も続いています。転載にあたり、同編集部の許可を得ました。快く応じていただいた編集部の皆さんにこの場を借りてお礼を申し上げます。

 学校の先生たちに向けて書いたものですから、一般の読者の皆さんには少し違和感があるかもしれません。しかし、それが逆に面白いんじゃないかなと思い、本にしました。

 マンガというものに、子ども・若い人の考え・価値観がどう反映しているのか――そんなことを学校の先生たちに議論してもらいたいと思って書いた文章です。だから、わざと論争(問題提起)的に書いてあるし、教育のネタが多いのはそのせいです。

 ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)について書かれたものも目立つと思いますが、それは教育が正しい価値を伝える営為だという側面があるからです。昔は、マンガが学校や教育の現場では「俗悪なもの」とされ、ひどいところでは「焚書」の対象となって校庭で燃やされたこともありました。

 今ではさすがにそこまでの話はあまり聞かなくなりました。しかし、現在でもマンガのセックスや暴力の描写をめぐり、自治体条例や国の法律で規制しようという動きがあります。

 早い話、依然として絵本を子どもに与えるのとは違う感覚、「不安」がオトナにはあるのです。

 でも、そこがマンガのいいところではないでしょうか。

 学校関係者でもないあなたに、この論集をどういう気持ちで読んでほしいかといえば、そうですね、例えば「絵本とマンガはどこが違いますか?」という問いを念頭において読んでいってもらうと、本書は一つのまとまったテーマを持った本として読んでいただけるかもしれません。

 まあ、そんなに堅苦しく考えず、気に入った見出しやコマのところから、拾い読みしていただいても、十分楽しめると思います。

 なお、本書に掲載されているマンガなどのコマは、著作権法の引用の原則(出典・区分・分量・必然性)にのっとったものですが、お気付きの点があれば、ご指摘いただければ幸いです。また、文中の年代や表現は掲載時そのままにしてあります。

2016年10月1日 紙屋高雪

2016-09-18 女の分断 『ずっと独身でいるつもり?』『格付けしあう女たち』

おかざき真里・雨宮まみ『ずっと独身でいるつもり?』・白河桃子『格付けしあう女たち』


(010)格付けしあう女たち (ポプラ新書) 白河桃子格付けしあう女たち』は、女性たちがそれぞれに分断された社会の中でさらにカースト化し、分断し合う様をルポしている。そして、「なぜ女同士はつながれないか」という問いを立てている。

 一見すると白河のルポは、分断を憂え、なんとかつながろうと努力しているように見える。

 「鍵は多様性と未来思考」などの文言が踊る。

 だが、ぼくは違和感を覚える。


 白河は「多様性」を訴えながら、根底には専業主婦という生き方への批判が見え隠れするからである。

これからは専業主婦という選択はどんどん滅んでいくはずです。その選択を否定するわけではなく、もう無理なのですね。結婚を夫の単一インカムで維持していくのは。(白河p.70)

すでに現在ですら、専業主婦は「裕福」と「貧乏」に二極化しています。そして今一番裕福なのは専業主婦世帯ではなく「共働き世帯」です。……専業主婦を否定するつもりはないのですが、今後、豊かで満足な子育てができる専業主婦は「希少な存在」になるでしょう。同時に専業主婦によるママカーストは、やはり希少な存在になるでしょう。(白河p.74-75)

 「鍵は多様性と未来思考」とする節では、37年後のGDP経済予測を示しながら、

専業主婦とかやっている場合じゃないと思う人、いますか?」(白河p.223)

という問いかけを女子学生たちにしている。そして、女子学生たちが自分の将来の「子ども」たちのことに思いを馳せ、考えを変えていくさまを肯定的に描き出している。

 白河の言葉は柔らかいが、専業主婦のゆるやかな絶滅を予測し、そうした生き方の事実上の否定ではないかと読みながら思う。


 これに対して、言葉や展開は激烈なのに、よーく読めばストイックなのが本作『ずっと独身でいるつもり?』である。

 雨宮まみのエッセイを、おかざき真里がストーリーをつけてコミカライズしたものである。タイトルが示すように、30代独身女性の抱える違和感や幸福感をテーマにして、4つの短編からなるオムニバスに仕上げている。


ずっと独身でいるつもり? (FEEL COMICS) 例えば、story1で展開されるのは、葬式のために田舎に帰った独身女性が、子どもを次々産んで「次のステージ」に行っている親戚の同世代女性たち、そこで彼女たちが身につけた「オトナの振る舞い」、仕事を持ち独身のままでいる自分への親類縁者たちの声のかけづらさなどに直面する姿である。

 その中でわずかに「救い」のように提示されるのは、親類の中で気ままな独身(バツイチ)で過ごし、親族社会の中での適切な振る舞いもできないような「叔父さん」の「かっこよさ」である。

 その叔父さんから、「サバンナ」に立っているみたいだとホメられる。

 早い話が、田舎の親戚社会の空間には、独身者・独身女性ロールモデルがいないということだ。

 結婚もせず子どもも持たない女性を「許さない」のは、田舎の親戚たちであるが、その根源にあるものが示されるのは、story4である。

 2人の独身女性食事をしている時、税金や公共サービスは30すぎについては「夫婦・子ども2人」に最適化されてんだぜと会話するシーンがある。独身・子ナシは「サポート対象外」なのだと。つまりは独身女性という生き方を国が許そうとしてないのである。許されない生き方にはサポートはなく、ロールモデルになりそうなものは根絶やしにされる。畢竟、そういう存在を普通に扱う言葉は、生まれにくくなる。


 おかざき真里は、巻末の雨宮との対談で、

雨宮さんは女を分断しない

と高く評価しているが、もし雨宮が分断しない感覚を持っているとすれば、その根源を見極めているからだろう、と左翼のぼくは思う。


 にもかかわらず、本書は「女を分断」せず、「独身だからといって既婚者を敵視」(雨宮)しないだろうか。

 一読すると、本作から放たれている強烈な戦闘モードの雰囲気に、たじろぐ人は少なくなかろう。


 例えばstory3では、同窓会において同世代女性から受ける「なんで結婚しないの?」的なセクハラモラハラ批判。30代になると、周囲のオッサンが黙るのと入れ替わりに同世代女性が攻撃してくる、と登場人物たる独身女性は内語する。

 それと対照的に示される、職場(DTP的な仕事)の居心地のよさ。

 深夜労働がある。クライアントからの無茶な変更はある。報われないこともある。

 それでも楽しいだのだという比較。


 あるいはstory2のラストで示される、既婚同級生の告白。

 独身者たちが老後になったら互助会みたいなの作って暮らそーぜと盛り上がるのを、私も入れてほしいとつぶやくのだ。

 「孤独死」をする大半は既婚者なのだという情報を添えて。

 考えてみれば不思議ではないことだ。子どもが独立して別居するのが当たり前になっているのだから、パートナーが死ねば独居になるからである。

 この当たり前の「気づき」は、しかし、既婚者の敗北宣言、「既婚者、独身女性の軍門に降る」のように読めてしまうのは、ぼくだけだろうか。


 あるいはstory4で、独身ではない選択、すなわち結婚という選択をすることが、無理を重ねることと同義となり、やがて劇的に破綻する展開。そのラストで無理を押し付けてくる周囲に対して不満の言葉を爆発させるくだり。そして「怒っているんだと思う」と自分の感情を言い表す主人公。


 このようなものは、すべて独身女性の(既婚女性その他に対する)闘争宣言のように読める。

 既婚者を敵視し、分断を持ち込むエッジ。

 おかざきや雨宮が言っているのは、逆じゃねーの?


 だが、もう一度立ち止まって考える。

 例えば今ぼくは自分の学校のPTAに対して「任意加入であることを明白にしてほしい」と総会で要求した。そうしたら、総会の終わりの挨拶で、「PTAはますます大事だと言われています!」とキレ気味に対抗された。また、校長にこの旨を請願したら「紙屋さんは、PTAの意義をどう思ってらっしゃるんですか?」と反問された。

 「ぼくはPTAを否定しているんじゃありません。少しだけ改革して、よいPTAにしたいだけです」というのがぼくの叫びなのだが、それを断固として貫こうとすると、たちまち周囲との軋轢を生み出し、あたかもPTAを否定しているかのような勢力とみなされるのである。


 同じだろう、と思った。

 公正にしてほしい、という願いは控えめなものだが、それを断固として貫こうとすれば、たちまち危険な「革命思想」となる。「貧困は嫌だ」ということをハッキリ言おうとすればたちまちバッシングに遭うのと似ている。フェミストなどもそうだろう。女性であるという平凡で普通の生き様をしようと思うこと自体が闘いとなり、あたかも極端な過激思想を持っているようにみなされる。

 ぼくの左翼人生上の恩師は、「平凡であり続けることが最もラジカルなことである。ただし断固として」という弁証法を教えてくれたが、ここでもそれは適用されている。

2016-08-30 絶対非戦は「お花畑」か  『ペリリュー・沖縄戦記』

ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』



「戦争はいやだ」という感情に対して

 「戦争はいやだ」という反戦厭戦的感情に対して、ネット上では(あるいはリアルでも)よく「そうだよな。だれも戦争なんか望んでいない。だから攻められたときにはそれを押し返す軍事力で対抗するんだよ(もしくは「だから」ではなく「だけど」でつなぐ場合もあるだろう)」という返事が返ってくるのをよく見る。

 たしかに、ぼく自身も個別的自衛権行使、すなわち自衛戦争を否定する人間ではない。

 不合理な侵略があれば、憲法9条のもとで合憲組織として存在している自衛隊が反撃すればいいではないか、と思う。

 しかし、9条を擁護する人のなかには、絶対非戦を主張する人もいる。そのような人を「お花畑」と揶揄する空気があることも承知している。*1


 「自衛戦争大義がある。そのための戦争は仕方ないではないか。黙って降伏せよというのか」。こうした意見にたいして、絶対非戦論は、真正面から「戦い」を挑むことになる。自衛戦争に代表される「正しい戦争」(正戦)であっても、決して戦うべきではない、という主張をする絶対非戦論には、ひとつの倫理的な優位がある。戦争は莫大な犠牲をともない、勝者も敗者も深い「傷」を負う愚かしい行為だと主張するからである。むろん、絶対非戦論者は、アメリカベトナム侵略にたいしても、ベトナム側が立ち向かったような戦争はすべきでない、と主張することになる。


 「どんなことがあっても戦争という愚かしい行為はすべきではない」。

 この主張・感情は、まずたいていは戦争被害を一方的にうけた人たちから起こりうる。たとえば空襲をうけた住民とか、原爆で人生をめちゃくちゃにされた家族とか、侵略兵に蹂躙された村人とか、そういう人たちである。

 敗戦国側の兵士からも起こりうる。絶望的な戦況のなかで無残な死を感じるであろうから。

 しかし、戦勝国側からは、どうだろうか。戦勝国にとっては、その戦争は「正戦」であったはずであり、戦争の記憶や記録は、輝かしく彩られることになるのは、容易に想像がつく。戦勝国から「どんなことがあっても戦争という愚かしい行為はすべきではない」という主張は出てきにくいように思われる。


「戦争はすべきでない」とは言わないが…

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫) しかし、ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』はそうではない。本書は、第二次世界大戦太平洋の島であるペリリューでの戦闘と、つづいて日本の沖縄での戦闘に参加した、米海兵隊の一員による戦闘記録である。

 戦勝国側兵士の戦記でありながら、

戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。(p.466)

と結論付ける。そして、それは読み終えた者がおそらく共通して抱く感慨に違いない。

 ただし、急いで付け加えるなら、スレッジは次のように本書を結んでいる。

やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまで自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となる----私の戦友たちのように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」。特権は責任を伴う、ということだ。(p.467)

  つまり、スレッジは「戦争は愚かしいものだ」ということには同意するが、「決してしてはならない」ということには同意しない。「正戦」には参加する義務があるとしているのだ。

 だが、本書の価値にとって大事なことは本書を読み終えたあと、「戦争は愚かしいものだ」という膨大な事実をぼくらが受け取るということだ。そこから得る最終的な価値判断は、読者に開かれているのであって、スレッジ自身の判断はたまたま「正義の戦争であれば戦わねばならない」ということであったにすぎない。実際、本書の圧倒的部分は「正戦は必要」という主張とは無縁のものである。作品はひとり作者(著者)のものではない。世に送り出された瞬間に、作品は社会のものである。スレッジ個人の最終意見はどうでもいいのだ。スレッジが書いた本書の社会的役割は、まさに「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」ということを世に問うことにある。


自分に置き換えて読む

 では、本書は、意図的な反戦厭戦感情の記述で埋め尽くされているかといえば、まったくそんなことはない。

逆である。

 従軍のさいに著者がもっていた聖書にはさまれた膨大なメモにもとづき、叙述される詳細な戦闘事実の記録にまず驚かされる。

 スレッジが、大学にとどまって士官の身分になれることを放棄し、一刻も早く対日戦に参加するために一兵卒となることを志願するところからはじまって、短期間のうちにブートキャンプで訓練をうけ、ペリリューに強襲部隊として乗り込むまでが最初に描かれている。

 学生がどのようにして兵士になっていくのかが、記録としてよくわかる。

 そして、ペリリューに上陸する日、それを待機する瞬間の緊張が、わがことにように伝わってくる。アムトラック(水陸両用トラクター)に乗り込み、海上アイドリングしているあいだのことを硝煙やディーゼル燃料の臭い、艦砲射撃の轟音などとともに叙述した後、スレッジはこう書いている。

戦場では待機する時間がかなりの割合を占めるものだが、後にも先にも、ペリリュー島への進攻の合図を待っていたあの耐えがたい拷問のような時間ほど、極度の苦悶に満ちた緊張と不安を味わったことはない。艦砲射撃が苛烈になるにつれて、いやが上にも緊迫感が募り、体じゅうから冷や汗が噴き出した。胃がキリキリと痛む。喉が詰まってつばを飲み込むのもままならない。(p.92)

 上陸してただちに海岸を離れないと格好の標的になること、さえぎるものが何もない飛行場をわたらねばならないときのことを、「ぼくだったらどうするか」と置き換えて読んだ。スレッジの残したメモは膨大だったのだろう。細部にわたる詳細な叙述は、その光景をまざまざと思い起こさせるので、読者はぼくのように置き換えて考えざるをえない。

身を隠すところもない飛行場をわれわれは足早に進んだ。…自分の脚力だけを信じて走っていた。…敵の銃弾が金属的な音を立ててはじけ、体の両側を腰の高さで曳光弾が飛び去っていく。だが炸裂する砲弾のなかでは、小銃弾などどうでもよい気がしてくる。爆音が響き、飛び散る破片がぶんぶんと唸りながら宙を切り裂く。吹き飛ばされた珊瑚の高まりが顔や手を刺し、鋼鉄の破片が都会の道路に降る雹のように硬い岩の上にぱらぱらと落ちる。どこを見ても、砲弾は巨大な爆竹のように閃光を走らせていた。/立ちこめる硝煙を透かして、被弾した海兵隊員たちが次々ともんどり打って倒れるのが見えた。私はもう右も左も見ずに、ただまっすぐ正面を見すえる。前進するほど敵の攻撃は熾烈を極めた。爆発の衝撃と騒音が万力のように耳を圧する。今にも被弾して倒れるのではないかと、歯を食いしばってその衝撃を覚悟する。身を隠せそうな窪地がいくつかあったが、前進しつづけよとの命令が頭をよぎる。誰一人として飛行場を渡りきることなどできないように思われた。(p.122〜124)

 この記録を読むと、こんな身を隠す場所もないところで、傷ついて倒れた戻って戦友を介抱している。身を隠す場所のない米軍でさえこうなのだから、武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』で日本兵が戦友を介抱するのは十分にありそうなことだろうと思った。


 わが身に置き換えて読むと、一刻も早くこの戦場を離れたいという感情が沸き起こってくる。そして、死なずに負傷をした場合は、名誉を保ったまま、戦場を離脱することができる。「後遺症が残らない程度に負傷して最前線を早く離れたい」。こんな感情がおきても不思議ではない。負傷して後送される兵士をみて、スレッジが「百万ドルの負傷」と呼ぶのは、まさにそれである。


 こうした戦闘そのものだけではなく、スレッジが戦闘中に味わった水のまずさや、充満する死体の臭いの叙述も印象的である。

 水がない状況で渇きに耐えられなくなった部隊の一人が、井戸の底にたまった乳白色の水を飲んで激しく嘔吐する。そのあと、作業班がもってきた缶の水をのむスレッジ。

意外にも水は茶色かった。それでもかまわず口を満たした----そしてひどく喉が渇いていたにもかかわらず、思わず吐き出しそうになった。ひどい味だ。錆と油をたっぷり含み、悪臭がする。あらためて手元のコップをみて仰天した。鼻を突く茶色い水の表面に、青い油の膜がゆらゆらとゆれていたのだ。腹がよじれるように痛んだ。/いかにひどくても、この水を飲むか、熱ばてで倒れるかしかない。飲み干すと、コップの底にコーヒー滓のような錆の澱が残り、胃がキリキリ痛んだ。(p.120〜121)

 死体や排泄物、放棄食糧の放つ悪臭は、繰り返し登場する。

 そして、ペリリューの場合は、硬い珊瑚で覆われているために、死体が土に還らず、ウジとハエが大繁殖すること、沖縄の場合は、雨が続き泥まみれになる中で放置された大量の日本兵の死体の臭いが充満していることが描かれる。

 お互いの兵士が、敵兵の死体をどう損壊し、辱めるか、あるいは、米兵が日本兵の金歯をとろうとして、瀕死の日本兵にどんな残虐を働くのか、また、日本兵に対してわきあがってくる憎悪についても、スレッジは容赦なく描写している。

 


ぼくの中で「日本軍の抵抗の無意味」が刻み付けられる

 このようなスレッジの叙述全体から、ぼくがうけた抱いた感想は、次のようなものだ。

  • 戦勝国アメリカといえども、最前線の兵士は本当に消耗品のようにどんどん死ぬ状況なのだということ。冒頭でスレッジの兵卒志願を「砲弾の餌食」だと嘆く家族の気持ちがものすごくよくわかる。
  • できるだけ多く一人でも殺そうとする行為の無意味さ。米兵の側に立った叙述を読むと、日本兵の「頑強な抵抗」の無意味さが際立った。ペリリュー以降、日本軍は「バンザイ突撃」をしてあっけなく死ぬのではなく、網の目のように張り巡らされた陣地を構築して「縦深防御」による徹底抗戦、一大消耗戦をやるようになり、日米ともに犠牲が激増する。もはや戦略的に決着のついた戦争に、「一人でも多くの敵兵を殺すことが祖国侵攻を1日でも遅らせる」と言わんばかりに、戦術的抵抗を試みる。戦術的にみれば「強大な米軍をきりきり舞いさせ、ふるえあがらせた日本軍」であるが、日本兵にとっても、米兵にとっても、そんな戦闘で死ぬ、または悲惨な経験を植え込まれることにどんな意味があったのだろうか。スレッジがp.390で日本兵の死は家族には「天皇陛下の御ために名誉の戦死をした」と告げられるけども「実際は、無駄死にだった」「満足な理由もなく、ただいたずらに失われていったのだ」としているのは、憎まれ口ではなく、まさにこの無意味さへの憐憫である。「カミカゼ特攻沖縄でスレッジは見ているが、日本兵は無駄死(犬死)をすることで「尊い平和の礎」になったという感慨がぼくに迫ってくる。
  • それは「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄」という世界観を深化させること自衛戦争や「正戦」のためであっても、こんな愚劣なことをすべきなのか。早いうちに「負けました」といって、犠牲を生み出さない選択をするほうが、たとえ侵略に屈するにしてもまだマシではないか、そういう感慨にとらわれるのである。絶対非戦論を「お花畑」と批判する人は、逆にこのような戦争の現実を知らない「平和ボケ」の「お花畑」ではないのか。
  • ペリリューと沖縄でこんな巨大な消耗をしてしまったら、日本本土侵攻は「米兵百万人の犠牲」が出ると信じても無理はないと思ってしまったこと。「米兵百万の犠牲と日本人20万人の犠牲、どっちがいい?」という神話が生まれる現場はここだろうと思った。ぼく自身が被爆実相を知らなければこうした神話に傾きかねなかった。

絶対非戦論への再敬意

 繰り返すが、ぼく自身は自衛戦争の必要性を依然として主張する左翼である。そのために自衛隊を使うことは必要だと考えている。この点(何らかの正戦の必要性を説く点)はスレッジと似ている。

 しかしそうであっても、戦争は愚かしいという思想を、本書を読むことで、深めることができた。うーん、なんと言っていいのだろうか、「戦争はおろかだ」というのはとてもシンプルな世界観なのであるが、それが戦記を読むことでいっそう深まりをもってとらえられるとは正直思ってもみなかった。別の言い方をすれば、絶対非戦論への再敬意である。本当に深い絶対非戦の主張に対して、決して「お花畑」という悪罵を投げつけることなどできないはずだということである。


 戦勝国側の戦記がこのような「レベルの高い記録」(p.472)たりえたのは、本書の解説で保阪正康が述べているように、著者スレッジの内省のたまものだろう。保阪はこう書いている。

平時になって著される戦記には、建て前のみが強調されたり、兵士として狂気をかかえこんでいる事実が伏せられていたり、戦場においての残虐行為を避ける記述がめだつ作品も多く、それがゆえに戦闘の実態がわからない書も多い。まるでゲーム感覚のような戦記があらわれてくるのは、著者自身に内省化する能力と知識がないからだろう。本書にはそうした特徴がまったく見られない。(p.472)

 そして、保阪が敗戦国である日本側の戦記の状況について次のように記して解説を結んでいるのは、まことに印象的である。

日本軍将校下士官、兵士からこのような内省的な作品がかかれなかったことに、私は改めて複雑な思いをもったのである。(p.476)

 本書は2008年にようやく出版されたばかりだ。

 もっともっと知られてよい、すぐれた戦記である。

*1:ぼくも憲法9条擁護論者であるが、それは9条があるおかげで集団的自衛権行使できず、日本がアメリカが海外でおこす戦争にまきこまれずにいるという重要な役目を果たしているからだ。ぼくが左翼として危惧している日本のリアルな危険は、日本防衛と無関係の海外での戦闘で自衛隊が殺し・殺される関係に投げ込まれるということだ。

2016-08-19 『シン・ゴジラ』を観てきた

『シン・ゴジラ』を観てきた



 以下、ネタバレあり。


 『シン・ゴジラ』を一家でみる。

 一言で言って、娯楽作品として大いに楽しんだ。

 ゴジラ津波原発を想起させる存在だと思いながらも、ゴジラによるドハデな破壊、ゴジラの制御不能ぶりに右往左往しつつアタックを繰り返す様子を、ワクワクしながら観たのである。ハリウッドのアクションを観る感覚に近い。

 特に第4形態への変態を遂げたゴジラ巨神兵よろしく街を滅ぼし尽くすエネルギーを四方八方に放射し続けるシーンは、「ドキドキしてスカッとした」(小並感)。一瞬「あ、だいたいおさまったかな…?」的に安心しかけたところにゴジラのこの異例の攻撃。街が壊されまくるのに何もできない。「手の施しようがない」という感覚がぼくの中に起こり、(娯楽的な意味で)戦慄が走った。


 唐突に白状するが、ぼくはテレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』の中で第拾話「マグマダイバー」と 第拾参話「使徒侵入」が圧倒的に好きだ。

 「マグマダイバー」はシンジとアスカが何のかんの言いながらイチャついて戦闘を組むのが好きだけども、「使徒侵入」はシンジたちやエヴァもほとんど出てこないにもかかわらず、テンポよく並べられる官僚軍隊的組織の命令・報告口調の連続がたまんないのである(特にマヤ萌え)。

シグマユニットAフロアに汚染警報発令」

「第87タンパク壁が劣化、発熱しています」

「第6パイプにも異常発生」

「タンパク壁の浸蝕部が増殖しています。爆発的スピードです」

「汚染区域はさらに下降。プリブノーボックスからシグマユニット全域へと広がっています」

人工知能メルキオールより自律自爆が提訴されました。否決。否決。否決。否決」

「今度はメルキオールがバルタザールをハッキングしています」

 エヴァ第拾参話はこんなので埋め尽くされている。うぅ、この口調。思い出してもヨダレが出るわい。

 「右舷に被弾は漢(オトコ)の浪漫」という諺があるが(ない)、戦闘・危機状態の官僚軍隊的組織の命令・報告口調は、たぶん、ぼくが「オトコの子」だったころの「漢の浪漫」を呼び起こすのだろう。

 ゴジラが急速に進化し続けるというアイデアや、官僚軍隊的組織の命令・報告口調の激しい連続っぷりは、まさに「使徒侵入」のそれである。『シン・ゴジラ』における前半の会議や報告のカットのすさまじいラッシュは、もともとの長大な(冗長な?)シナリオを急速に消化するためらしいけども、それが画面の中で危機感をあおるものになった(いっしょに見に行ったつれあいは「キーとなるセリフがいたるところで聞き取れんかった」とその効果に対してむしろ激おこぷんぷん丸だった)。


 官僚・政治組織の面々の描写は興味深かった。

 ラスト以外に、ウェットな「救国の信念」の吐露、セリフ、描写がない。

 無駄で役に立たないオモテの会議のウラで集まったのは、環境省の役人=尾頭ヒロミなどのオタクである。

 現代において実際に国の危機を救う理性は、暑苦しい政治信念を話す人ではなく、このような有能なギーク(ややコミュ障の気のある)たちではないか――そういう感覚が小気味よかった。

 『真田丸』を見ながら、有能すぎる事務官僚石田三成のコミュ障ぶり、そしてそのあからさまな敗北に忸怩たる思いを抱く人々は、自分もオタクであり、「オタク(この場合、フリークとかギークの意味に近い)こそ世界を救うのに…。何やってんだ三成」という気持ちがあるからだろう。『シン・ゴジラ』での尾頭ヒロミ萌える構造と裏腹である。

#真田丸 第三十二回 ツッコミが間に合わない。辛い。コミュ障三成とタヌキ家康の「応酬」みんなの感想+補足TLまとめ - Togetterまとめ #真田丸 第三十二回 ツッコミが間に合わない。辛い。コミュ障三成とタヌキ家康の「応酬」みんなの感想+補足TLまとめ - Togetterまとめ

#真田丸 の三成は、仕事できるのかもしれんがこいつアカンわってのがすごく説得力あります。簡単に人をバカって言うし、ホスト役しない(できない?)くせに宴開くし、対人仕事がほんとダメすぎて上に仕えてこその人材だなと。「自分は滅多に間違わない」は、笑うところでした。

https://twitter.com/a_okina/status/764791697351979008

◯◯先生タッチで描いてみた尾頭ヒロミまとめ - Togetterまとめ ◯◯先生タッチで描いてみた尾頭ヒロミまとめ - Togetterまとめ


 ウェットで大上段な熱い演説をぶつような政治家やヒーローはいらない。もし救国のリアルが描きたいなら、それはこういう黙々と、そして嬉々として自分の領分の仕事をこなしていく「有能なオタク」が選ばれるべきなのだ――そういう観念が今の日本には広く行き渡っているに違いない。


 うう、オタクスペシャリスト以外にもジェネラリストとしての政治家は出てくるよな。「ラーメンのびちゃった」とぼんやりという、あの一見役立たそうな首相代理。あいつは、熱い演説なんかしねえ。その代わりにオタクというスペシャリストたちの仕事を、あちこちを調整して成就させてくれるのだ。

 ジェネラリストの役割は熱い信念じゃなくて、そこなんですよ。ボンクラっぽくてもいい。風通しを良くしてくれさえすれば。みたいな。


 「ラスト以外に」と書いたのは、ラストにおける主人公・矢口蘭堂の、やや湿っぽい使命感溢れる訴えや、「この危機を救えるのは自衛隊しかない」的な大声でのセリフにかかった過剰なニュアンスに少しばかり白けるからである。


 ただ、『シン・ゴジラ』に政治的なものを見出す人もいるようだが、全体的にぼくはそういう色彩のものとしてみることはできなかった

 「自衛隊が救国の組織として活躍するプロパガンダ映画」だとか「日本は捨てたもんじゃないというナショナリズム称揚映画」だとか「緊急事態条項の必要性を訴えたアベ映画」だとか。

 あるいは逆に「制御不能の原発を人知によって押さえ込み、核兵器を人間の力で使わせないようにした反核映画」だとか。

 だいたい、『ゴジラ』シリーズにおける自衛隊の協力はもはや長年の伝統になっていて、そこである意味滑稽なまでに「遵法」の構図を見せられるのは、もう「お約束」の域である。

このように自衛隊の実際の出動は、必ず法律に則って行われる。自衛隊が協力した『ゴジラ』や『ガメラ』では、その出動命令あるいは要請シーンを律儀に挿入することで、自衛隊が勝手な判断で出動することはないことを、くどいほどに強調しているのだ。(須藤遙子『自衛隊協力映画』大月書店p.111-112)

 今回も律儀にこのシーンは挿入された。しかも、民間人がいるために発砲できないシーンまでご丁寧に入れられて。

この『ガメラ』以降は自衛隊からの注文が細かくなり、「こうやったらリアルですとか、こんなシチュエーションはありえませんとか、防衛庁から返ってきた資料をもとに脚本を直す」というのが通例となっていく。(須藤前掲p.108)

自衛隊協力映画のストーリーは、このように製作側と自衛隊の双方の意向を折衷し、多くの過程を経て決定される。(同前p.102)

 須藤によれば、自衛隊が映画に協力する基準があり、例えば「防衛省自衛隊の実情または努力を紹介して防衛思想の普及高揚となるもの」「防衛省自衛隊を悪者にするなど、マイナス効果になっていないか」などの項目がその中にはある(須藤p.54)。


 つまり自衛隊にいいように描かれている、ということなのだが、須藤もそのこと自体を問題にしていないように、ぼくも言いたい。だからどうだというのだ。

 『シン・ゴジラ』には実在の組織が出てくるけども、はっきりと1から10まで物語の全体が虚構であるという構えで見るので、現実評価などが忍び込みようがない。

 逆に言えば、そういう心づもりで見るので、反核メッセージだとか3.11の比喩だとかという現実連関もスッパリ棄て去り、頭を空っぽにして見ることになる。

 まあ、中には本気で「自衛隊SGEEEEE」「日本も捨てたもんじゃない」のように見てしまう人もいるんだろうけど、『太陽にほえろ!』とか『西部警察』とか『踊る大捜査線』とか『相棒』とかを見て「警察カッコイイ! あれが警察というものだ」と思ってしまうのに似ている。んなわけねーだろ。

 そんなものが見たいのなら、現実の3.11における自衛隊の活動や原発事故収拾の活動のドキュメントを見た方がよっぽどいい。

 そして、反対に、ここから反核メッセージなんかも読み取らなくていい。

 こんなところでうっかりもらった「反核」の心なんか、2分後くらいにはもう忘れている。


原水爆漫画コレクション4 残光 1955年に描かれた杉浦茂ゴジラ』は、映画『(初代)ゴジラ』を換骨奪胎したマンガで、一応映画のストーリーに似せてはあるし、原水爆のことも色濃く描かれているのに、一抹のシリアスさもない。下の図にあるようにゴジラ爆雷で死なないことが水爆との関連で描かれているが、セリフにも画面にも微塵も深刻さはない。反核メッセージはほとんど消え失せている。

 杉浦『ゴジラ』と庵野のこの『シン・ゴジラ』は一味である。

f:id:kamiyakenkyujo:20160819020455j:image

杉浦茂ゴジラ」/『原水爆漫画コレクション 4 残光』平凡社p.51)



 ただまあ、面白い映画には間違いなかったが、もう歴史を変えるほどの面白い作品かというと、そこまではアレだった。ネットの評価が高すぎるなと言わざるをえない。


 うちの家族はしばらく「第一第2形態」*1が話題だった。

 魚類と両生類の中間のような、あの眼のキモさ。

 「キモいー、キモいー」と言いながら、今日も小3の娘は、第一第2形態の死んだ魚のような眼のマネをしているし、つれあいは「第一第2形態が落としていった、あの赤いドロドロがキモかった」と騒いでる。

 どんだけ好きなんだ、お前ら。

*1ブコメで指摘があったので訂正。一家で勘違い。

2016-08-11 過去の投票先がDLできる? マジ? 『徹底解説! アメリカ』

池上彰・増田ユリヤ『徹底解説! アメリカ 波乱続きの大統領選挙』


予備選挙の場合、過去に有権者登録をして投票したデータがインターネットに公開されていてダウンロードできるようになっている。名前、住所、電話番号はもちろんのこと、年齢や支持政党、過去にどの党に投票したかまでデータ化されているのだ。アメリカでは、投票データは公的な情報として扱われていて、選挙の際に活用できるという。日本人から見れば、個人情報の扱いはいったいどうなっているのか、セキュリティはどうなっているのかと、驚かざるをえない。(池上彰増田ユリヤ『徹底解説! アメリカ 波乱続きの大統領選挙ポプラ新書、p.55-56、強調は引用者)

 マジですか。と目を疑った箇所。

 アメリカ大統領選挙について書かれて、この8月5日に刊行された池上彰増田ユリヤ『徹底解説! アメリカ 波乱続きの大統領選挙』の中で増田が書いたルポの一節である。

 ウィキペディアには、予備選挙は秘密投票だとあるじゃん! うーむ、おそらくぼくの理解のどこかで、何かが間違っているに違いない。


(100)徹底解説! アメリカ (ポプラ新書) その箇所では、増田民主党候補の一人だったサンダース選挙活動に密着していて、このダウンロードデータに基づく支持拡大の様子が興味深い。

電話をかけたら即座に断られた、留守だった、家族は出たけれど本人は(学業のために転居して)不在だったなど、電話で得られた情報を項目ごとにチェックをして、その場でデータベース化していく。(同p.56)

 うむうむ、日米同じじゃん、とうなずく。

 日本でも政党候補者は、選管の持っている選挙人名簿を実は利用できる。その地域のすべての有権書の住所氏名が見られるのだ。コピーは不可だけど、手書きで写すのはOK。ただ戸別訪問は日本ではできないので、せいぜい選挙用のハガキを出すくらいなのだけども。


 電話ではどんなことを話すのだろうか。サンダース以外を支持している、例えば同じ民主党でもヒラリーを支持していると電話の相手が言った場合には、どうやって説得するのだろうか。そんなことを考えながら、電話の様子を聞いていたら、「あっ、ヒラリー支持ですか。わかりました。今夜も素敵な夜をお過ごしください」などと言って、さっさと切ってしまう。理由を聞くと、「そんな時間がかかり、効率が悪いことはしないのよ」と、前述の自宅を開放しているレズリーさんは言う。

 では、どういうときに電話を粘るのか。レズリーさんはによれば、例えばサンダース電話勧誘の場合は、電話の向こうの人物がサンダース支持者であるか、誰に入れるか迷っているときだ。(同前p.56-57)

 電話で粘らない、というのは、日本では電話をかける政党や人による流儀の違いになるだろう。

 サンダース支持者に当たると、共感しあって、投票を確実なものにするというが、無党派選択に迷っている人は、電話では説得しないという。

 この後、電話で得られたデータをもとに、地図にそれを落として、戸別訪問をするのだという。

 ここで増田が聞いている例では1日80〜100軒を訪問する。

ニューヨークの場合、基本的には二人一組で、地下鉄など公共交通機関を使って移動しながら行っていたが、交通の便が悪い場所の場合には、車で移動することになるのでドライバーも含め三人一組のチームで行動していた。(同前p.62)

 日本は戸別訪問禁止だし、効率が悪いので電話でサクサクと支持を訴える。だいいち、1日80軒をフルに戸別訪問できる人は、専従のスタッフか、休日のボランティアに限られるだろう。それを大量に組織できるだろうか。

 日本では、公明党などは、電話での無差別の支持の訴えをしているのをぼくは見聞きしたことがない。必ず、つながりを訪ねたり電話したりしている。「数十年前に卒業した田舎の同窓生だ」と言って突然家に来たりする話をよく聞くが。いや、スーパーで買い物をしていると全然知らない人から公明党候補者をお願いされたこともある。「対面」とか「つながり」を重視しているのだろう。

 共産党は、無差別に電話で支持を広げている。同時に、「ニュース(紙の後援会の新聞)を読んでくれる」と同意してくれた人を「後援会ニュース読者」として、訪問することがある。無差別の戸別訪問は禁止なのでハードルを低くして面会と協力にこぎつけるのだ。

 そういうこととの比較が思い浮かんだ。


 まあ、そんな感じで、日米の選挙活動の違いというだけでも、この本のルポ部分は楽しめた。


 著者の一人である増田ユリヤは、さまざまな陣営を取材しているが、そのうち、明らかにサンダースに気持ちが入っていっている。

特に、バーニー・サンダースの支援者たちの草の根の選挙活動に見た、純粋な情熱と最後の最後まであきらめずに行動する姿には、何の関係もない、ただ取材に来ただけの外国人の私でさえ、何か手伝えることはないかという気持ちにさせられた。日本の政治選挙活動にはさしたる関心が持てない私が、である。(同前p.228)


 そういうある種の偏りが、逆に増田のルポの気持ちの傾斜をよく示して、面白いルポに仕上がっている。

 ニューヨークマンハッタン)でトランプの支持者たちが公然と支持集会を開けずにまるで「非合法活動」のようにこそこそと集まって、その集会で鬱憤を晴らしている様子なども描かれる。


一人ひとりが訴えてその結果支持がどうなるかが可視化されている

 アメリカ大統領選予備選挙党員集会で選出の集計がされるけども、党員集会の方もその実態を知らなかった。地区ごとに数十人とか百人くらいの集会を開いて、候補者の支持演説を党員一人ひとりがおこなって、「はないちもんめ」みたいに支持グループの島を作ったりするらしい(他の方式の地方もある)。そんなふうに一人ひとりが訴えてその結果支持がどうなるかが可視化されていたら、さぞ面白いだろうなあと思う。

 なぜなら、日本では完全に秘密選挙だから、誰に入れるかはプライベート。そうなると、自分が支持する政党候補に入れる人がどんな気持ちで動かされているのか見えなくなる。ぼくの周りの左翼仲間なんかは、「どうしてアベや自民党に入れるのか理解できん!」というようなことが起きる。身近な人が、なぜ自分と違う政党候補者を支持し、それを言語化してくれる機会があれば、我が身をいろいろ顧みることも多いんじゃないかと思った次第。


 本書は池上の平易な解説も含めて(異論はあるけど)、まずは米大統領選の仕組みと雰囲気を手軽に理解できる1冊。加えて、日本で選挙に関心のある人、選挙運動に加わっている人なら、アメリカ選挙と自分の選挙運動を比較して長期的にあるいは短期的にその活動を変えていく刺激を得られるんじゃなかろうか。