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紙屋研究所


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2016-06-28 対談しました! 『PTA、やらなきゃダメですか?』

山本浩資『PTA、やらなきゃダメですか?』



PTA、やらなきゃダメですか? (小学館新書) 『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)の著者として、『PTA、やらなきゃダメですか?』(小学館新書)の著者、山本浩資さんと対談した。ぼくは対談に臨むにあたってぜひ聞いてみたい点が3つほどあった。

善意が暴走するPTAと町内会は変われるか | PTAのナゾ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 善意が暴走するPTAと町内会は変われるか | PTAのナゾ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準


半強制性という奇妙さ

 PTAと町内会に共通する「気持ちの悪さ」は、自主的な体裁をとっていながら、その実、半強制であるという点だろう。この半強制性の奇妙さ、気持ち悪さについて、まずは確認し合いたいと思ったのが1点目である。

 山本さんは、ドラッカーマネジメント論を生かしてPTA改革にとりくんだのだが、山本さんが参照したドラッカー『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社)の冒頭には次のくだりがある。


ボランティアが管理する組織は日本にないわけでもない。むしろその一つは日本でこそ大きく花開いている。戦後の教育改革でとりいれられたPTAである。…私の印象では日本のPTAの方がアメリカPTAよりもずっと活発で、重要で、影響力をもっている。

 微笑してしまいたくなる表現だが、ドラッカーがいわば「だまされて」しまうほど、PTAの半強制性は公式にはたくみに隠されている。当事者にはいやというほど感じられても。


 ドラッカーが町内会をあげなかったのは、これが強制の歴史、つまり戦争推進と結びついていたせいもあるだろうが、PTAのほうが志願的性格、自発的性格(体裁)がより強いからではないだろうか。


 いずれによせ、PTAと町内会に共通する「半強制・半志願」という組織の「気持ち悪さ」、原理的な不明快さ(それゆえに紛争やトラブルのもとになっているところ)を明らかにするのが、ぼくの対談にのぞむ1つ目のスタンスだった。

 山本さんの本の第1章「限りなく“ブラック”に近い組織」は、その「気持ち悪さ」の解明にあてられている。

 その中でも、「実際は同調圧力で強制するけども、体裁自発的である」というしかけをあばくところがいくつも出てくる。

 たとえば「6年に1度は委員を」というルールは「暗黙」のものである。規約(会則)や内規に堂々とうたっているPTAもあるが、多くはそうではない。規約にしないで、口頭で役員がいったり、プリントなどで「6年に1度は委員を、ということをお願いしています」と書いたりする。


 「くじで委員決めをおこない、欠席した人にあたり、欠席した人はそれを断れないものと受け取ってしまう」という話も出てくる。実際には断れるのだが、「断れない」という感覚の存在自体が、非常に微妙な同調圧力として会員たちに効いていることがわかる。

 このような感覚は、公式には「引き受けていただいたいのは、あくまで自主的なものです」と組織側が言い逃れられることと裏腹のものである。


“町内会”は義務ですか? ~コミュニティーと自由の実践~ (小学館新書) そして調査票の存在。

 役をやっていない人のリストをつくり、不公平感をあぶりだし、圧力をかけるというものである。

 実は、いまぼくはPTAのある委員会の副委員長をしているのだが、この委員会では委員たちの負担についてのリストをつくっている(何かの役を引き受けたリスト)。委員長も同調圧力をかけることは嫌いな人なのだが、委員内で何かの役を引き受けている人の中で不公平感が高まることと、もともとくじで決まった人たちがアパシーになって完全に放り出してしまうことが気になって「公表はしないが作成しているので、どうぞ積極的に引き受けてください」ということを委員長は委員たちの前で言ったのである。

 つまり、「やりたくないのにやっている」という人がいることを前提としている以上、こうしたしかけをつくりたくなってしまうのだ。

 本書7ページに「キーワードは『ボランティア』」とある。ぼくも自分の本(『“町内会”は義務ですか?』)の中で「基本はボランティア」と書いている。

 まったく同じだ。

 「やりたい人が担う」というふうに原理を転換(統一)することで、「半義務、半志願」という町内会・PTAの「気持ち悪さ」を解消するのが、ぼくと山本さんの共通する主張である。


 「やりたい人(必要だと思う人)が担う」というのは、サークルのような原理に転換するということだ。半強制によって組織体の側がラクに頭数をそろえるのではなく、サークルの勧誘のようにして人を集めるということを意味する。人を集めるコストが、組織する側に転嫁されるのだ。「こんなに面白いからやってみない?」「こんなに大事だから、ぜひやってよ」という工夫を組織する側がおこなわなければ人は集まらない。集まらない組織、集まらない事業部門は滅亡する。

 この工夫が、組織を自己改革させていくテコになる。

 たとえば防災。どんな旧態依然防災訓練防災活動でも無理やり員数をつけて集められるなら、そのまま続いていく。小学校に町内ごとに動員をかけた人たちが消火器をかける訓練をする…みたいなやつね。だけど、そういう半強制が効かず人が集められなくなったら、「みんな防災の大切さがわかっとらん!」と住民をいくらののしっていても、そのまま消滅していくだけである。今すでに始まっているが、夏祭りのようなイベントのなかで防災活動をゲーム的にやったりする町内会もある。「防災ピクニック」のような非常食・非常グッズを使ったピクニックを子どもと楽しむという方法をとっているNPOもある。


 東京首都圏あたりとかなり温度差があるなと思ったことだが、福岡PTAの任意加入の話をするとたいていの人はきょとんとする。想像もつかない感じで、せいぜい「ネットで騒がれている、役を逃れたいだけのジコチュー、モンペの言い分」くらいの扱いをされる。

 何よりも、任意制にすれば(つうか法的には明らかに任意なのだが)、人が集まらなくなって崩壊すると確信しているのだ。「意義がある」「大事だ」と繰り返し強調されながら、心の底では「こんなつまらない事業にはだれも集まらない」と思っているのが、福岡PTAの現状である。

 実際つまらない。

 それがボランティアという原理に転換することで、どう楽しいPTAになるかを示したのが本書である。実際には多くの人が加入しつづけ、しかも楽しくなっている。そういうことを実例として知ってもらえるのだ。福岡にいると、そういう実例があること自体が信じられないといった感覚である。


校長や町内会からどう合意を得たのか?

 山本さんの本を読んで、ぼくが対談の中できいてみたいと思っていた第2点は、「校長や地域(町内会)は文句を言わなかったの?」という点。つまり、合意形成・合意調達をどうやってやっていったのか、という点だった。


 山本さんの本の中にも、反対者や不安・疑問に感じている人にどう向き合ったのかは出てくる。特にアンケートがなんども出てくるけども、相当にていねいにやっている印象を受ける。改革宣言に対してレスがなかったり、人が全然集まらないのにめげずにやっているあたりは、スゲェ…って率直に思う。

 だけど、ぼくが想像する一番の反対者は校長であり、もしくは地域の有力者、具体的には町内会関係者なのだ。

 これを読んでいる人の中で、校長が反対者になるのはわかるけど、なぜ町内会がPTA改革の反対者になるかわからない人もいるかもしれない。

 町内会はたいていどこでも小学校区くらいの広さで連合体を組んでいて、その単位で子どもの登下校などの「見守り」をしていることが多い。それ以外にも、このような小学校区単位で子ども会の連合体など「青少年健全育成」という枠組みでPTAを引き込んで仕事をしていることが多いのである。

 もしPTAが任意制であるとされて、担い手が減ってしまったら、一体この仕事は誰がやるんだ! という不安と怒りが炸裂しても不思議ではないのだ。

 したがって、ぼくは校長や地域の人たちがそもそも反対したのか、その場合、どう説得したのか、合意調達したのかを知りたかった。


 新書『PTA…』でも、そして対談でも、PTA内部の反対者についてはいろいろ書かれている。だけど、実は、PTAの中についての反対者についてはぼくはあまり心配していない。ぼく自身も町内会長や保育園の保護者会の会長をやってきたからわかるけど、組織の中心にいる人たちは、すでに1〜2年一緒にやっていると「こいつの言うこと・やることなら任せて安心だな」という信頼感があるからである。どうしてもやろうといえば、不安はあってもついてきてくれる。

 しかし、「外部」はそうはいかない。

 特に、別の論理で動いている人たち。PTAに対して校長とか、地域の町内会(や連合体)幹部というのは、基本的に「外部」の人である。

 そこをどう「説得」=合意調達したのかは、新書ではあまりにあっさりし過ぎていて、対談でそのあたりを詳しく聞いてみたかったのである。


 「ていねい」さがそのまま時間をかけた民主主義になっている。特に、山本さんが反対者に対する「公聴会」を設定した様子を紹介しているので、そのあたりを読んでもらうといいだろう。

 新書『PTA…』でも、山本さんがPTAの連合体の中で衝突することなく、粘り強く改善を引き出している経験がラスト近くに紹介されている。

 対談が終わっての帰り道、いっしょに来ていた編集関係者から「連合体に吊し上げられたり、発言で場が凍りついちゃう紙屋さんとは違いますね〜」などと笑われた。くそう。残念ながらその通りである。


 「ボランティアで大丈夫?」という点と、「地域の反対はなかったの?」という両方にまたがることだが、例えば「子どもの登下校の見守り」のような、要はこんな面倒くせぇ仕事は、絶対引き受け手はいないだろうな、という問題は、どうなったのかも興味があった。

 山本さんの本では、「ベルマークはぜひ続けたい」という「奇特」な人がいたことは明らかになっているけども、「登下校の見守り」はとてもそんな人がいるとは思えなかった。山本さんの本には、「自主的に登下校の見守りをしている人もいたので」(p.165)とあるが、信じられない思いだった。

 これについては、対談の中でやはり山本さんから明らかにしてくれている。


行政からの圧力はあるのか

 対談に際して、明らかにしたかった3点目は、行政からの圧力との関係だった。

 対談でぼくのほうが述べていることなのだが、PTAは家庭教育を担わされる機関としての役割を文科省側から期待されている。

 奥村典子『動員される母親たち 戦時下における家庭教育振興政策』を読むと、戦時下で国策として家庭教育振興が行われ、その動員ツールとして父母組織があったことがわかる。

 PTA、とくにPTAの連合体で強調される「家庭教育」は一貫して保守の側にある願望だが、また、本田由紀『「家庭教育」の隘路』を読むと、1990年代後半に急激に強化され、各種審議会や社会教育法・教育基本法改定に「実った」ことがわかる。本田は「家庭教育」の強調が各家庭の焦燥感や格差を広げると警告している。

 現在、PTAはこうした役割を担わされつつある。

 例えば下記は、福岡県PTA連合が出している冊子である。

http://www.fukuokakenpta.gr.jp/others_kenp/pta.pdf

 ここには、PTAの実践として家庭教育が華々しく紹介されている。

 「家庭での基本的生活習慣を」ということ自体には反対しづらいものがある。それは「防災」や「防犯」に町内会が反対しづらいのと同じである。しかも、教育基本法の改悪によって「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」(第10条)とされてしまった。家庭教育の強調は、「しっかりした家庭」を個人責任の中に押し込める責め道具に転嫁しないだろうか。


動員される母親たち――戦時下における家庭教育振興政策 ただ、「家庭教育などをPTAが学校・教育委員会文科省の下請けとなって現れる」という点は、ほとんど話し合われなかった。上記のような福岡県実態は少なくとも山本さんの学校では「なにそれ?」みたいな感じであろうか。

 そのかわり、学校ではなく、地域行政(山本さんのところで言えば区)とのかかわりは対談の中でかなりリアルな様子が聞けた。それにきっぱり断りをしたという点でも面白かった。

 ここでも「半強制」というあいまいな下請け性が、山本さんの実践によって暴露され、明確な拒否をされているからである。


「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち 町内会にしてもPTAにしても、その同調圧力の根源に、行政からの圧力がある、とぼくは考えている。ほとんどの構成メンバーを組織するこれらの団体は、行政からみれば、垂涎するメリットがある。新自由主義新保守主義の政治のもとでは、それをできるだけ利用しようという思惑が働く。その思惑への警戒抜きに、善意だけでこうした団体の中に飛び込むわけにはいかない。危険なのだ。同調圧力は、「日本的組織だから」という問題もあるが、それだけではない。


改めて任意加入の徹底と民主主義を考える

 最後にであるが、山本さんの本『PTA、やらなきゃダメですか?』は、もう一度基本に立ち返って、任意=ボランティアであり、その発想をベースにしたところで組織を大きく組み替えることでエネルギーも活力も出てくる、という最も大事なことが押さえられる。そのことを改めて噛み締めておきたい。

 例えばこう言う記事がある。

「やってよかった」こうすれば辛くないPTA役員 働くお母さんのための実践的アドバイス | JBpress(日本ビジネスプレス) 「やってよかった」こうすれば辛くないPTA役員 働くお母さんのための実践的アドバイス | JBpress(日本ビジネスプレス)

 PTAについてネガティブな記事ばかりが最近増えているけど、PTAは悪いことばっかりじゃなくて、とてもやりがいがあるんですよ、というわけである。

 うん、そのこと自体は、そうだと思うんだよね。

 特に、やりがいもってやっている人には。

 でも、そうではないという人のことを考えてほしい、というまずは、消極的な意味でPTAの任意制の徹底が必要なのである。

 憲法学者の木村草太が、わざわざPTAの強制加入と沖縄問題の「異同」について触れている(2015年4月6日付「沖縄タイムズ」)。

【木村草太の憲法の新手】(5)PTAへの強制加入は許されない | 木村 草太 | 沖縄タイムス+プラス 【木村草太の憲法の新手】(5)PTAへの強制加入は許されない | 木村 草太 | 沖縄タイムス+プラス

 PTAで嫌がらせが生ずる原因は、多くの場合、「本当に困っている人」への想像力の欠如にある。多くの人にとっては、PTA強制加入の不利益は、ちょっとの我慢でやり過ごせる。嫌々でも付き合っておいた方が、改革に向けて努力するよりも楽だ。

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=234

 木村は「しかし」と続けてこう述べる。

しかし、一人親で多忙を極める人にとっては、子どもとふれあう貴重な時間を奪うことになる。センシティブな病を抱える人にとっては、耐え難い心労となる。

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=234

 このような人への想像力民主主義の基盤となる、と木村は言う。

 こうした「本当に困っている人」への想像力こそ、異なる人々の共同的な意思決定、つまり民主主義の基盤だ。基地問題に「本当に困っている」沖縄の人々であれば、PTA強制加入の深刻さも理解して頂けるのではないかと思う。

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=234

 まさにこれである。PTAの強制性を「いやだなあ」と思っている人でも、多くの人にとっては「少し我慢すればなんとかなること」なのであるが、それに耐えきれない人がいることは、「いやだなあ」という程度の人でさえ想像の範囲外にある。そこへの想像が及ばないのだ。

 「やってみると楽しいよ」「大事だからやらなきゃ」「大変なのはみんな同じ」という言い分でPTAの強制性が覆い隠されてしまう。

 むしろ楽しんでPTAをやっている人たち以上に、「いやだけど、いろいろ手はずを整えてちゃんとやっている私」みたいに感じている人の方が、耐えきれない人々への想像力を欠きやすい恐れがある。


 山本さんやぼくの新書が強調している任意=ボランティアにすることで活力が生まれるという点の大前提として、そもそもPTAや町内会に入って仕事を担えないという生活に想像力を及ぼすということが、民主主義にとっては一番大事なのかもしれない。


 最後にであるけど、この対談を企画し、まとめてくれたライターの大塚玲子さんには本当にお世話になった。改めてここに感謝を申し上げておく。

2016-06-26 においのないリアル 『死を食べる』

宮崎学『死を食べる』


死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉 子ども向けの絵本、というか写真で構成された絵本である。

 死んだ動物が他の動物にどのように食い尽くされていくかを写真で示している。図書館で偶然手に取った。


 サンドウィッチマンピザ屋のコントを思い出した。

 配達を終えて帰ろうとした宅配ピザ屋(富澤)に、客(伊達)が気づいて騒ぐ。

伊達「あら、おいおいおい、お前、これピザ違うんじゃねーの?」

富澤「はい?」

伊達「俺、シーフードピザ頼んだんだよ」

富澤「はい」

伊達「お前、シーフードってわかってんの?」

富澤「あっ、シーフードっていうのはぁ、死んで間もない魚介類がたくさん入ってます」

伊達「『死んで間もない』とか言うな。気持ち悪いだろ」

 「新鮮な魚介類」っていうのは「死んで間もない魚介類」のことである。本書『死を食べる』にはこういう一文がある。


 ぼくも魚を食べるのが大好きだ。とれたて新鮮な魚がごろごろころがっているのを見て、それを死がいだとは感じない。どっちかというと「うまそう!」と思う。

 鳥たちも、きっと、同じ。魚を「うまそう!」と思って、集まってきているんだ。(本書p.32)

 この絵本は「動物の目で環境を見る」というシリーズであり、動物の死骸は他の動物から見ればまさにご馳走だという視点がある。


 一番の見ごたえは、最初にある、車にはねられて死んだキツネの死骸だ。ウジが毛皮を食い破って体全体からあふれだす写真は、その写真だけ違うように見える。おそらく腐汁であろうがキツネの体が見えなくなり、ウジに覆われている。「腐ったにおいは最高潮にたっしている」(p.10)とあるから、このあたりが、人間から見るともっとも凄惨な光景に違いない。

 こんなにもたくさんのウジがわくものかと思うほどウジがわいている。

 そして次の写真。

 そのウジをハクビシン(ジャコウネコ科の哺乳類)が食べにくるのである。

 そうか、ウジは食べられるのか、と気づく。

 自然のバランスを保つほどに、ハクビシンはウジを食べてしまうのである。いわばハクビシンの餌をここで養殖したようなものだとさえいるのだろうか。

 絵本の表紙にある魚の死骸を食べにくるのは、ヤドカリである。目の周りからまず食い尽くされるというのが、面白かった。


 この絵本は、「死が、いのちをつないでいる」(p.34)という結論を導いているが、小3の娘といっしょにこの本を読んだ時、そのようないわば「教訓」「道徳」的な空気は一切なかった。つうか、娘はその結末あたりはもういっしょに読んでなかったし。

 明らかに、死体への興味・関心からこれを見た。

 死体の変化を描いた「九相図」を見る不思議と同じである。暴力やセックスの描写に興奮するのに似てはいまいか。

 だが、そうだったとしても、死んだ動物がどのように他の動物を養っていくのかという自然科学的な教育にはなる。


 ここにないのは、「におい」である。

 このような死がぼくらに耐えきれない嫌悪感をもたらす最大の要素はまさにそこなのだが、絵本にはそのリアルが決定的に欠けている。しかし、それを欠くことによって、本書は成立する。

 道端で死んでいる動物は、普通であれば、ぼくを含めて娘なども目を背けるだけのものだ。見たくないもの・視野の外に置き続ける。こういう絵本になることで、それが初めて、(においを抜いた)リアルとして、ぼくらの視野に入ってくる。

2016-06-21 ぼくの人生を大いにもしくは少しだけ変えた5冊

【読み捨て版】読書家などとは言えぬぼくが勧める、ぼくの人生を大いにもしくは少しだけ変えた5冊


 もちろんこの記事のパロである。

【保存版】数千冊は読書した私が勧める、あなたの人生を変えるかもしれない30冊 - トイアンナのぐだぐだ 【保存版】数千冊は読書した私が勧める、あなたの人生を変えるかもしれない30冊 - トイアンナのぐだぐだ


 「面白かった!」と思える本に出会うのはたやすいけれど、人生を変えるほどの衝撃を与えられることはめったにない。ブログ「トイアンナのぐだぐだ」でオススメされている本は悪くないけれど、優等生的すぎる。ひとが人生が本で変えてしまうのは、有名な本のこともあるが、たいていは名も知らぬ本だったりする。


 メールなどで「影響を受けた本は何ですか」と質問いただくことは全くないが、ぼくも向こうを張ってぼくの人生を実際に大いに・あるいは・多少変えてしまった5冊の本をリストアップした。たぶんこのリストを見たあんたの人生は変わらないだろう。読み捨ててほしい。




国家と革命 (岩波文庫 白 134-2)国家と革命 (岩波文庫 白 134-2)
レーニン 宇高 基輔

岩波書店 1957-11-25
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 この本を高校時代に読んで受けた衝撃について、雑誌『新現実vol.4』(太田出版)への寄稿文や山本直樹『レッド』(講談社)のあとがきで少し書いた。学校で教えられるタテマエとしての民主主義の空々しさに、胡散臭さを感じていたぼくは、例えば日本社会党を、そのような空々しさの代表格だとみなしていた。

 他方、当時自民党が引き起こしていた金権腐敗の様々な事件を、まぎれもない政治のリアルだと思っていた。

 「この世は全てカネ次第。政治もきれいごとではなく、カネを持っているやつがモノを言う」――まあ、端的に言えばその程度の、しかし市井の人々の間に強靭な根を張っているこのような認識は、ぼくをも確かに虜にしていた。

 『国家と革命』は、そのような庶民的な泥臭いリアルに理論的な支柱を与えるとともに、それをひっくり返し、理想社会の展望につなげてしまった。タテマエとしての民主主義ではなく、「この世は全てカネ次第」「政治は『みんなのため』という偽装で、実は金持ちのために行われている」という認識を承認した上で、それを変えて、本物の人民支配をつくろうぜという呼びかけをしていたのがこの本なのだ。

 そしてマルクス主義、という、人間をわしづかみにしてしまう大きな世界観にまさにぼくがわしづかみされた瞬間というのが、この本を読むことによってだった。

 ブルジョア議会など茶番だ、力による革命によってしか世の中は変わらない、というような記述もあるのだが、それは「暴力革命しかない」というメッセージではなく、今目の前で展開されている議会政治の欺瞞を暴く痛烈な言葉として高校生のぼくは受け取ったのである。

 今日では、マルクスを歪曲したものとして受け取られることもあるレーニンのこの著作だが、ぼくがマルキストになる上での最初の衝撃を与えたことは疑いのない1冊なのである。



暴力の人類史 上暴力の人類史 上
スティーブン・ピンカー 幾島幸子

青土社 2015-01-28
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 「信じられないような話だが――ほとんどの人は信じないに決まっているが――長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれないのだ」(本書上巻p.11)という一文で始まる。

 そんなことが信じられるだろうか。

 信じられなかったからこそ、本書はぼくにとってまさに衝撃だったのだ。

 暴力がどう減少してきたか、その様々な要因は何か、ということが上巻・下巻あわせて1300ページ前後で、様々な角度から書いている。

 まず読み物として面白い。上巻の最初なんか、まず聖書が槍玉に上がっている。聖書の中にいかに暴力と殺戮が記述されているか、ってことがこれでもかと書いている。

 あるいは下巻の「権利革命」。子ども人権の保障から、子どもの安全を求める親たちの行動がどれくらい過剰なものになったのかが書いてある。誘拐されまいとして自動車で送り迎えするようになったことで、確実に自動車でどこかの子どもを轢き殺すリスクが高まったことを数字をあげて皮肉る。

 がっつり「共産主義」の悪口も書いてある。書いてあるけど、たいていは「事実」であるから致し方ない。そんなことはこの本の価値にとってはどうでもいいことなのだ。

 この本を読んでマルクス主義者たるぼくが人生観を揺さぶられる、というか深い感動を受けたのは、自分たちのやっている権利のための運動がたとえ大河の一滴であったとしても、結局長い年月をかけて暴力を減らすことに貢献しているのではないかという巨視スケールでの歴史観をぼくに与えてくれることになったからである。


神聖喜劇 第六巻 (幻冬舎単行本)神聖喜劇 第六巻 (幻冬舎単行本)
大西巨人 のぞゑのぶひさ 岩田和博

幻冬舎 2014-07-10
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 大西巨人の小説『神聖喜劇』は、「日本文学史上の最高傑作の一つ」(阿部和重)と書かれるほどの傑作であるが、不幸なことに日本文学史を口にするほど日本文学を読んでいないぼくには、この評価が本当かどうかはわからない。

 しかし、この本に出会ってから今日に至るまでぼくは取り憑かれており、風呂場で毎日声を出して朗読していることは前にも書いた。

 ニヒリズムに囚われた「私」こと東堂太郎が、旧日本軍対馬の部隊に入営し、そこで出会う軍隊の不条理に抗し、異常な記憶力を武器として、規則と法令でがんじがらめの兵営生活に、逆にその規則と法令をタテにして(自覚的にではなく、自然発生的に)挑んでいく物語である。

 法令で縛られたのは軍隊だけではなく、実はぼくらが生きている資本主義社会そのものもそうである。だから、東堂の姿は軍隊での特殊な姿ではなく、一般社会に暮らすぼくらとも地続きなのだ。

 「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の言葉で有名なダンテの『神曲』(La Divina Commediaすなわち神聖喜劇)と大西が同じタイトルをつけたのは、一般社会と隔絶した社会として軍隊を描いた野間宏『真空地帯』へのアンチテーゼとして本作を意識しているからであろう。一般社会と軍隊はよく似た、地続きの社会なのだ、ということがこの本の主張の一つである。

 だから、軍隊での東堂の行動は、一般社会におけるぼくの一つの模範でもあり、彼の行動の姿は、まさにぼくの憧れである。

 いま「尊敬する人物をあげよ」と言われたら、まちがいなく、この虚構のキャラクターである東堂太郎を挙げる。東堂はカッコいい。東堂のように生きたい。

 その、ぼくにとっての東堂の「カッコよさ」は、のぞゑのぶひさが描く東堂太郎のグラフィックに大いに規定されている。だから、あえて、小説ではなく、その導入版・要約版ともいうべきのぞゑのぶひさのマンガ版をお勧めする。もちろん、小説もいい。毎日風呂で朗読するなら小説だ。お前ら、やらないだろうけど。

 そして、作中に挟まれる膨大な古今東西の古典やテクスト。

 目の前の野蛮な現象、日常の些事が、たちまちに教養の体系につながるというこの教養主義の真髄に震え上がるほどの美しさを感じる。

 ああ、全く東堂のように生きたい!


すくらっぷ・ブック1巻 (小山田いく選集3)すくらっぷ・ブック1巻 (小山田いく選集3)
小山田 いく

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 『すくらっぷ・ブック』で人生が変わったとは言わんが、人生の基礎を作った作品の一つである。作者の小山田いくは、最近亡くなった。

 中学生の友情と恋愛を描いた80年代の漫画(少年チャンピオン連載)であるが、あまりにのめり込みすぎて、「なぜ俺はこのマンガの登場人物ではないのだ?」と深く絶望した最初の作品となった。

 作中で、作者の私信ともいうべき、とり・みきとの馴れ合い的バトルが画面の隅の方に、随所に出てくる。それでとり・みきは小山田の作品解説について少々特権的なポジションを得ているように見られているのであるが、そのとり・みきは、小山田の訃報に接して次のような一文を書いている。


僕はギャグマンガを志向しており、小山田いくの描くマンガはキャラクターこそ2頭身から3頭身とギャグ的ではあったが、内容は皆様よくご存じの通り、青春……いやさらにその一歩手前の時期の、ちょっと甘酸っぱいエピソードがてんこ盛りに語られる、地方の学校というごく限られたコミュニティ群像劇だった。

(中略)

だが、彼は地元在住のままマンガを描き、僕は上京した。そして僕はギャグマンガを志向した。その時点で、僕は自分からも作品からも彼が描いていたような属性や要素を、意識して排除した。本当はさだまさしも聴いていたのに、山下達郎ムーンライダーズしか聴いてないようなふりをした。

それを小山田いくは葛藤も臆面もなく(と、当時の僕には思えた)描いていた。人は自分と正反対の人間よりも、実は自分とよく似た、しかし自分が隠したい属性を堂々と誇示している人物を、もっとも嫌ったり意識したりする。

こうして僕は小山田いくの(実のところ自分の)甘酸っぱさを、作者本人へのちょっかい的なギャグでなんとか中和しようとした。照れずにああいう話が描ける同年代をスルーできなかった。

http://www.torimiki.com/2016/03/blog-post.html

 「青春……いやさらにその一歩手前の時期の、ちょっと甘酸っぱいエピソード」というところに、『すくらっぷ・ブック』を言い表す妙があるが、もっと言えば、これは友情や人間関係における理想を掲げている作品でもある。

 ぼくの兄は、『すくらっぷ・ブック』や『星のローカス』のような作品を徹頭徹尾馬鹿にした。とり・みきよろしく、そこに描かれている「甘酸っぱさ」、すなわち理想主義的な空気が耐えきれなかったのだ。「VOW」とか「ビックリハウス」のようなサブカル的なリアルが好きだった兄は、このようなまぶしい理想主義を忌み嫌った。

 ぼくがやがて政治にかぶれ、左翼になったのに、兄は政治の世界には決して近寄ろうとしなかったのは、理想というものに対する「胡散臭さ」を感じる度合いによるものだろう。

 ぼくの中に埋め込まれた理想主義の一つの基礎がこのマンガなのだ。

 このような作風は、現代では、死滅したに近い。少女マンガに受け継がれて不思議でないはずの作風なのだが、ここまでストレートな甘酸っぱさ、その核に、無防備とも言える理想主義的な友情・恋愛讃歌を描いているものはもはや見当たらないだろう。



私説博物誌 (新潮文庫 つ 4-10)私説博物誌 (新潮文庫 つ 4-10)
筒井 康隆

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 筒井康隆は、中学から高校にかけて夢中になった作家の一人である。文体を真似た文章を書き散らした。今思えば全然似てなかったけど。明らかにぼくの人格の基礎を形成している。

 どれを紹介しようか迷うけども、あまり知られていないであろう、この本を紹介する。

 様々な動植物の生態を、筒井が面白おかしく紹介していくのだが、動物園で飼っていたカメが弱ってきたので甲羅を剥がしてみると、そこから大量のゴキブリがわっと……というような記述が頭に焼き付いている。小3の娘に嫌がらせで話したりする。

 この本に出てくる「トリフィド」という鉱物で組成された「生物」、もちろん空想上のそれに刺激されて、中学生だったぼくが雑なSF小説を書いたこともあった。

 

おわりに

 とまあ、とりあえず5冊。

 他にも本多勝一(『殺される側の論理』)とか、哲学入門書(高橋庄治『ものの見方考え方』)とか、知り合いの教師の教育実践の本(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』)とかがあったけども、紹介しなかった。今、広く人に紹介する意味があるかどうかがわからなくなってしまっているからである(他の人は、他の本で代用できるか、もしくはぼくの推奨が意味を持たないか)。

 「人生を変える本」というものは、たいていその人が若い頃に大きなインパクトを与える。インパクトを与える本は、たいてい一面的である。だから、インパクトを与えられて成長を遂げると、やがてそこから離れていく。それでこそ「人生を変える本」なのだ。そういう意味では、長く人にすすめられるような「人生を変える本」というのはあまりありそうにもない。

2016-06-13 呉市立美術館で『この世界の片隅に』について講演します

呉市立美術館で『この世界の片隅に』について講演します


 呉市立美術館で8月21日(日)14:00〜15:30講演します。 http://www.kure-bi.jp/?cn=100526 「マンガは『あの戦争』の体験をどう描くか―こうの史代この世界の片隅に』を中心に―」というタイトルです。同館の「こうの史代この世界の片隅に』展」の関連イベントの一つです。

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2016-06-09 マルクス主義者にとっての人生の意味

マルクス主義者にとっての人生の意味



神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫) 旧日本軍に入営した主人公・東堂太郎が異常な記憶力と軍の規定を駆使して、軍隊内の不条理と向き合う、大西巨人の小説『神聖喜劇』をくり返し読んでいる。

 風呂でほぼ毎日朗読している。

 光文社文庫版第2巻の372〜373ページには、ヨッフェの遺書が掲載せられている。

 ア・ア・ヨッフェは、ボルシェヴィキの一人で、革命ロシア外交官になった人物である。トロツキーと親しく、のちにスターリンによって自殺に追い込まれた。その際の遺書である。

 すでに三十年以前に私は、人間の生命は、ただ人類が吾人〔私たち――引用者注〕の脳裡に意識せしめる無限のためにそれが用いられる範囲内および期間内においてのみ、吾人に価値がある、という哲理を把握したのであった。人類以外〔の誰か個人――引用者注〕はすべて吾人にとって有限であるがゆえに、それらに仕えることは無意味である。人類は必ずしも絶対に無限ではないにしても、その終焉を吾人はほとんど無限なほどに遠く遥かな将来の出来事としてしか考えることができない。人類の発達を私とおなじように信頼する人人は、わが地球の死滅する時期が来ても、それよりずっと前に人類が他のもっと若い遊星に移住する手段を獲得しているであろうことを、たやすく想像し得るはずである。

 かくて人類は生存を続けるであろう。そして吾人の時代において人類の利益のため営まれたすべてのことは、そういう未来永遠の上になんらかの痕跡を遺しつつ生きるであろう。そこに、吾人の存在は、それが所有し得る唯一の意義を見出すであろう。(強調は引用者)


 「人間の生命は、ただ人類が吾人の脳裡に意識せしめる無限のためにそれが用いられる範囲内および期間内においてのみ、吾人に価値がある」はわかりにくい一文であるが、要するに「ある個人の生命は、無限に続く存在としての人類のために奉仕してこそ、価値のあるものになる」という意味だろう。


 主人公・東堂の独白の形で、大西はこの部分全体を「浪漫主義的・無神論的・マルクス主義的表白」と評し、「その時分の私がやはり一定の感動を受け取らせられた」としている。


 結局、マルクス主義者にとって、人生の意味、生きる意味とはこのようなものである。

 人間は、社会の中にある法則を知り、ジグザグはありながらも、その認識をもとに社会を少しずつ改造していく。ヘーゲル的に言えば、それは人間が自由になっていく歴史でもあるし、別の言い方をすれば人権を発展させていく歴史でもある。

 ぼくが子ども医療費無料化を拡充させる運動に加わって、その結果、ぼくの住む自治体で対象年齢が広がったとする。実際、広がったけど。

 それは、社会保障前進させる動きの一つであり、貧困とたたかい、生存権をより強化するたたかいの一つ(というか一滴)を構成する。今この動きは、「子ども医療費無料化を国の制度に」という運動となり、遠からず実現するだろう。

 あるいは、学費値下げの運動。学生時代に熱心にやってきたその運動は、社会人になってからも関わる機会があり、ついに数年前、国際人権規約の「高等教育(大学などのこと)の段階的無償化」を定めた条項を日本政府に結ばせる(留保の撤回をさせる)ことになった。紆余曲折はあっても、長い目で見れば前進していくに違いない。


 町内会やPTAで今ぼくが苦労していることだって、そういうふうにまとめることができる。

 学習院大学教授・青井未帆が「学問は面白い」 *1というシリーズの中で述べていたが、

 日本社会は同調圧力が強く、「個人」や「権利」という言葉を避ける傾向がありますね。「私の権利です」と正しいことを主張しても、なかなか正当な評価を受けられないのではないでしょうか。

 不自由な社会であるに、多数派に同調することが楽だと感じられれば、不自由自由と感じない。しかし同調圧力の前で、不自由を感じる人が一人でもいる以上、国家や家族、地域共同体や社会というものを個人より優先させるのはおかしいといい続けなければなりません。

 何かおかしいと言葉に表したいときの足掛かり、武器になるのが憲法です。

まさにこれである。今日もまたPTAの会議でぼくは異論を言い、アウエイな感じをハンパなく受けた。「任意加入をちゃんと形にしてほしい」というごく簡単なことが受け入れてもらえないのである。

 個人の尊厳を守る、という人権の強化に、ぼくの行動もささやかな一滴として役立つかもしれないという思いでやっている。


 ぼく個人はいずれ死ぬ。

 しかし、ぼくが社会保障前進とか人権の発展のために微力を差し出したことは、「なんらかの痕跡を遺しつつ」人類の歴史の流れの中に合流していく。


 そのことにハッと気付いたのは、今から十年以上も前に、無党派の人たちと平和運動をしていた時のことだった。ぼくをコミュニストだと知った、ある無党派ドキュメンタリー映画監督が「ぼくの家の近くの学童保育とか、みんな共産主義者の人たちががんばって作ったんですよね」とぼくに親しげに言ってくれた時のことだった。


 保育園学童保育をこの日本中につくる運動を、ぼくが小さい頃に、多くの人たちが参加してやってきた。そして、その中に共産主義者もたくさんいたわけである。

 結局、「ポストの数ほど保育所を」という運動をしてきた世代があって、その中の中心的役割を果たしたのが、左翼のおばちゃんたちで、それが今の日本の社会保障のベースをつくっている、ということを実感的にとらえた瞬間であった。つながった、腑に落ちたのである。小さな無名の無数の人たちの努力と、それが社会の土台を形成していくという流れがフーッとぼくの脳裏に映ったのである。


 例えば保育園をつくる署名を書いたことくらいは誰でもあるだろう。

 そういう意味で、多くの国民大衆がその歴史の流れの中に、何らかの貢献をし、合流している。しかし、共産主義者マルクス主義者は、そのことを自覚的にやる。そのことによって、歴史に自覚的に参加しようとする。ここにマルクス主義者としての人生の意味がある。ヨッフェの遺書の一節はそういうことを言っているのだ。



 神とか死後の世界のようなものを設定しない限り、いったい一般の人たちは、どんなふうに自分の人生の意味、生きる意味を与えているのか。

 会社の社長になって栄華を極めたとして、引退したのちその会社が潰れたとしたら、そこにどんな意味があるのだろうか。人類といったような大きな尺度の中で考えない限り、人生の意味はでてきようがないように思える。

 

 余計なお世話だろうが。

*1:「しんぶん赤旗2016年5月25日付