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紙屋研究所


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2016-08-19 『シン・ゴジラ』を観てきた

『シン・ゴジラ』を観てきた



 以下、ネタバレあり。


 『シン・ゴジラ』を一家でみる。

 一言で言って、娯楽作品として大いに楽しんだ。

 ゴジラ津波原発を想起させる存在だと思いながらも、ゴジラによるドハデな破壊、ゴジラの制御不能ぶりに右往左往しつつアタックを繰り返す様子を、ワクワクしながら観たのである。ハリウッドのアクションを観る感覚に近い。

 特に第4形態への変態を遂げたゴジラ巨神兵よろしく街を滅ぼし尽くすエネルギーを四方八方に放射し続けるシーンは、「ドキドキしてスカッとした」(小並感)。一瞬「あ、だいたいおさまったかな…?」的に安心しかけたところにゴジラのこの異例の攻撃。街が壊されまくるのに何もできない。「手の施しようがない」という感覚がぼくの中に起こり、(娯楽的な意味で)戦慄が走った。


 唐突に白状するが、ぼくはテレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』の中で第拾話「マグマダイバー」と 第拾参話「使徒侵入」が圧倒的に好きだ。

 「マグマダイバー」はシンジとアスカが何のかんの言いながらイチャついて戦闘を組むのが好きだけども、「使徒侵入」はシンジたちやエヴァもほとんど出てこないにもかかわらず、テンポよく並べられる官僚軍隊的組織の命令・報告口調の連続がたまんないのである(特にマヤ萌え)。

シグマユニットAフロアに汚染警報発令」

「第87タンパク壁が劣化、発熱しています」

「第6パイプにも異常発生」

「タンパク壁の浸蝕部が増殖しています。爆発的スピードです」

「汚染区域はさらに下降。プリブノーボックスからシグマユニット全域へと広がっています」

人工知能メルキオールより自律自爆が提訴されました。否決。否決。否決。否決」

「今度はメルキオールがバルタザールをハッキングしています」

 エヴァ第拾参話はこんなので埋め尽くされている。うぅ、この口調。思い出してもヨダレが出るわい。

 「右舷に被弾は漢(オトコ)の浪漫」という諺があるが(ない)、戦闘・危機状態の官僚軍隊的組織の命令・報告口調は、たぶん、ぼくが「オトコの子」だったころの「漢の浪漫」を呼び起こすのだろう。

 ゴジラが急速に進化し続けるというアイデアや、官僚軍隊的組織の命令・報告口調の激しい連続っぷりは、まさに「使徒侵入」のそれである。『シン・ゴジラ』における前半の会議や報告のカットのすさまじいラッシュは、もともとの長大な(冗長な?)シナリオを急速に消化するためらしいけども、それが画面の中で危機感をあおるものになった(いっしょに見に行ったつれあいは「キーとなるセリフがいたるところで聞き取れんかった」とその効果に対してむしろ激おこぷんぷん丸だった)。


 官僚・政治組織の面々の描写は興味深かった。

 ラスト以外に、ウェットな「救国の信念」の吐露、セリフ、描写がない。

 無駄で役に立たないオモテの会議のウラで集まったのは、環境省の役人=尾頭ヒロミなどのオタクである。

 現代において実際に国の危機を救う理性は、暑苦しい政治信念を話す人ではなく、このような有能なギーク(ややコミュ障の気のある)たちではないか――そういう感覚が小気味よかった。

 『真田丸』を見ながら、有能すぎる事務官僚石田三成のコミュ障ぶり、そしてそのあからさまな敗北に忸怩たる思いを抱く人々は、自分もオタクであり、「オタク(この場合、フリークとかギークの意味に近い)こそ世界を救うのに…。何やってんだ三成」という気持ちがあるからだろう。『シン・ゴジラ』での尾頭ヒロミ萌える構造と裏腹である。

#真田丸 第三十二回 ツッコミが間に合わない。辛い。コミュ障三成とタヌキ家康の「応酬」みんなの感想+補足TLまとめ - Togetterまとめ #真田丸 第三十二回 ツッコミが間に合わない。辛い。コミュ障三成とタヌキ家康の「応酬」みんなの感想+補足TLまとめ - Togetterまとめ

#真田丸 の三成は、仕事できるのかもしれんがこいつアカンわってのがすごく説得力あります。簡単に人をバカって言うし、ホスト役しない(できない?)くせに宴開くし、対人仕事がほんとダメすぎて上に仕えてこその人材だなと。「自分は滅多に間違わない」は、笑うところでした。

https://twitter.com/a_okina/status/764791697351979008

◯◯先生タッチで描いてみた尾頭ヒロミまとめ - Togetterまとめ ◯◯先生タッチで描いてみた尾頭ヒロミまとめ - Togetterまとめ


 ウェットで大上段な熱い演説をぶつような政治家やヒーローはいらない。もし救国のリアルが描きたいなら、それはこういう黙々と、そして嬉々として自分の領分の仕事をこなしていく「有能なオタク」が選ばれるべきなのだ――そういう観念が今の日本には広く行き渡っているに違いない。


 うう、オタクスペシャリスト以外にもジェネラリストとしての政治家は出てくるよな。「ラーメンのびちゃった」とぼんやりという、あの一見役立たそうな首相代理。あいつは、熱い演説なんかしねえ。その代わりにオタクというスペシャリストたちの仕事を、あちこちを調整して成就させてくれるのだ。

 ジェネラリストの役割は熱い信念じゃなくて、そこなんですよ。ボンクラっぽくてもいい。風通しを良くしてくれさえすれば。みたいな。


 「ラスト以外に」と書いたのは、ラストにおける主人公・矢口蘭堂の、やや湿っぽい使命感溢れる訴えや、「この危機を救えるのは自衛隊しかない」的な大声でのセリフにかかった過剰なニュアンスに少しばかり白けるからである。


 ただ、『シン・ゴジラ』に政治的なものを見出す人もいるようだが、全体的にぼくはそういう色彩のものとしてみることはできなかった

 「自衛隊が救国の組織として活躍するプロパガンダ映画」だとか「日本は捨てたもんじゃないというナショナリズム称揚映画」だとか「緊急事態条項の必要性を訴えたアベ映画」だとか。

 あるいは逆に「制御不能の原発を人知によって押さえ込み、核兵器を人間の力で使わせないようにした反核映画」だとか。

 だいたい、『ゴジラ』シリーズにおける自衛隊の協力はもはや長年の伝統になっていて、そこである意味滑稽なまでに「遵法」の構図を見せられるのは、もう「お約束」の域である。

このように自衛隊の実際の出動は、必ず法律に則って行われる。自衛隊が協力した『ゴジラ』や『ガメラ』では、その出動命令あるいは要請シーンを律儀に挿入することで、自衛隊が勝手な判断で出動することはないことを、くどいほどに強調しているのだ。(須藤遙子『自衛隊協力映画』大月書店p.111-112)

 今回も律儀にこのシーンは挿入された。しかも、民間人がいるために発砲できないシーンまでご丁寧に入れられて。

この『ガメラ』以降は自衛隊からの注文が細かくなり、「こうやったらリアルですとか、こんなシチュエーションはありえませんとか、防衛庁から返ってきた資料をもとに脚本を直す」というのが通例となっていく。(須藤前掲p.108)

自衛隊協力映画のストーリーは、このように製作側と自衛隊の双方の意向を折衷し、多くの過程を経て決定される。(同前p.102)

 須藤によれば、自衛隊が映画に協力する基準があり、例えば「防衛省自衛隊の実情または努力を紹介して防衛思想の普及高揚となるもの」「防衛省自衛隊を悪者にするなど、マイナス効果になっていないか」などの項目がその中にはある(須藤p.54)。


 つまり自衛隊にいいように描かれている、ということなのだが、須藤もそのこと自体を問題にしていないように、ぼくも言いたい。だからどうだというのだ。

 『シン・ゴジラ』には実在の組織が出てくるけども、はっきりと1から10まで物語の全体が虚構であるという構えで見るので、現実評価などが忍び込みようがない。

 逆に言えば、そういう心づもりで見るので、反核メッセージだとか3.11の比喩だとかという現実連関もスッパリ棄て去り、頭を空っぽにして見ることになる。

 まあ、中には本気で「自衛隊SGEEEEE」「日本も捨てたもんじゃない」のように見てしまう人もいるんだろうけど、『太陽にほえろ!』とか『西部警察』とか『踊る大捜査線』とか『相棒』とかを見て「警察カッコイイ! あれが警察というものだ」と思ってしまうのに似ている。んなわけねーだろ。

 そんなものが見たいのなら、現実の3.11における自衛隊の活動や原発事故収拾の活動のドキュメントを見た方がよっぽどいい。

 そして、反対に、ここから反核メッセージなんかも読み取らなくていい。

 こんなところでうっかりもらった「反核」の心なんか、2分後くらいにはもう忘れている。


原水爆漫画コレクション4 残光 1955年に描かれた杉浦茂ゴジラ』は、映画『(初代)ゴジラ』を換骨奪胎したマンガで、一応映画のストーリーに似せてはあるし、原水爆のことも色濃く描かれているのに、一抹のシリアスさもない。下の図にあるようにゴジラ爆雷で死なないことが水爆との関連で描かれているが、セリフにも画面にも微塵も深刻さはない。反核メッセージはほとんど消え失せている。

 杉浦『ゴジラ』と庵野のこの『シン・ゴジラ』は一味である。

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杉浦茂ゴジラ」/『原水爆漫画コレクション 4 残光』平凡社p.51)



 ただまあ、面白い映画には間違いなかったが、もう歴史を変えるほどの面白い作品かというと、そこまではアレだった。ネットの評価が高すぎるなと言わざるをえない。


 うちの家族はしばらく「第一第2形態」*1が話題だった。

 魚類と両生類の中間のような、あの眼のキモさ。

 「キモいー、キモいー」と言いながら、今日も小3の娘は、第一第2形態の死んだ魚のような眼のマネをしているし、つれあいは「第一第2形態が落としていった、あの赤いドロドロがキモかった」と騒いでる。

 どんだけ好きなんだ、お前ら。

*1ブコメで指摘があったので訂正。一家で勘違い。

2016-08-11 過去の投票先がDLできる? マジ? 『徹底解説! アメリカ』

池上彰・増田ユリヤ『徹底解説! アメリカ 波乱続きの大統領選挙』


予備選挙の場合、過去に有権者登録をして投票したデータがインターネットに公開されていてダウンロードできるようになっている。名前、住所、電話番号はもちろんのこと、年齢や支持政党、過去にどの党に投票したかまでデータ化されているのだ。アメリカでは、投票データは公的な情報として扱われていて、選挙の際に活用できるという。日本人から見れば、個人情報の扱いはいったいどうなっているのか、セキュリティはどうなっているのかと、驚かざるをえない。(池上彰増田ユリヤ『徹底解説! アメリカ 波乱続きの大統領選挙ポプラ新書、p.55-56、強調は引用者)

 マジですか。と目を疑った箇所。

 アメリカ大統領選挙について書かれて、この8月5日に刊行された池上彰増田ユリヤ『徹底解説! アメリカ 波乱続きの大統領選挙』の中で増田が書いたルポの一節である。

 ウィキペディアには、予備選挙は秘密投票だとあるじゃん! うーむ、おそらくぼくの理解のどこかで、何かが間違っているに違いない。


(100)徹底解説! アメリカ (ポプラ新書) その箇所では、増田民主党候補の一人だったサンダース選挙活動に密着していて、このダウンロードデータに基づく支持拡大の様子が興味深い。

電話をかけたら即座に断られた、留守だった、家族は出たけれど本人は(学業のために転居して)不在だったなど、電話で得られた情報を項目ごとにチェックをして、その場でデータベース化していく。(同p.56)

 うむうむ、日米同じじゃん、とうなずく。

 日本でも政党候補者は、選管の持っている選挙人名簿を実は利用できる。その地域のすべての有権書の住所氏名が見られるのだ。コピーは不可だけど、手書きで写すのはOK。ただ戸別訪問は日本ではできないので、せいぜい選挙用のハガキを出すくらいなのだけども。


 電話ではどんなことを話すのだろうか。サンダース以外を支持している、例えば同じ民主党でもヒラリーを支持していると電話の相手が言った場合には、どうやって説得するのだろうか。そんなことを考えながら、電話の様子を聞いていたら、「あっ、ヒラリー支持ですか。わかりました。今夜も素敵な夜をお過ごしください」などと言って、さっさと切ってしまう。理由を聞くと、「そんな時間がかかり、効率が悪いことはしないのよ」と、前述の自宅を開放しているレズリーさんは言う。

 では、どういうときに電話を粘るのか。レズリーさんはによれば、例えばサンダース電話勧誘の場合は、電話の向こうの人物がサンダース支持者であるか、誰に入れるか迷っているときだ。(同前p.56-57)

 電話で粘らない、というのは、日本では電話をかける政党や人による流儀の違いになるだろう。

 サンダース支持者に当たると、共感しあって、投票を確実なものにするというが、無党派選択に迷っている人は、電話では説得しないという。

 この後、電話で得られたデータをもとに、地図にそれを落として、戸別訪問をするのだという。

 ここで増田が聞いている例では1日80〜100軒を訪問する。

ニューヨークの場合、基本的には二人一組で、地下鉄など公共交通機関を使って移動しながら行っていたが、交通の便が悪い場所の場合には、車で移動することになるのでドライバーも含め三人一組のチームで行動していた。(同前p.62)

 日本は戸別訪問禁止だし、効率が悪いので電話でサクサクと支持を訴える。だいいち、1日80軒をフルに戸別訪問できる人は、専従のスタッフか、休日のボランティアに限られるだろう。それを大量に組織できるだろうか。

 日本では、公明党などは、電話での無差別の支持の訴えをしているのをぼくは見聞きしたことがない。必ず、つながりを訪ねたり電話したりしている。「数十年前に卒業した田舎の同窓生だ」と言って突然家に来たりする話をよく聞くが。いや、スーパーで買い物をしていると全然知らない人から公明党候補者をお願いされたこともある。「対面」とか「つながり」を重視しているのだろう。

 共産党は、無差別に電話で支持を広げている。同時に、「ニュース(紙の後援会の新聞)を読んでくれる」と同意してくれた人を「後援会ニュース読者」として、訪問することがある。無差別の戸別訪問は禁止なのでハードルを低くして面会と協力にこぎつけるのだ。

 そういうこととの比較が思い浮かんだ。


 まあ、そんな感じで、日米の選挙活動の違いというだけでも、この本のルポ部分は楽しめた。


 著者の一人である増田ユリヤは、さまざまな陣営を取材しているが、そのうち、明らかにサンダースに気持ちが入っていっている。

特に、バーニー・サンダースの支援者たちの草の根の選挙活動に見た、純粋な情熱と最後の最後まであきらめずに行動する姿には、何の関係もない、ただ取材に来ただけの外国人の私でさえ、何か手伝えることはないかという気持ちにさせられた。日本の政治選挙活動にはさしたる関心が持てない私が、である。(同前p.228)


 そういうある種の偏りが、逆に増田のルポの気持ちの傾斜をよく示して、面白いルポに仕上がっている。

 ニューヨークマンハッタン)でトランプの支持者たちが公然と支持集会を開けずにまるで「非合法活動」のようにこそこそと集まって、その集会で鬱憤を晴らしている様子なども描かれる。


一人ひとりが訴えてその結果支持がどうなるかが可視化されている

 アメリカ大統領選予備選挙党員集会で選出の集計がされるけども、党員集会の方もその実態を知らなかった。地区ごとに数十人とか百人くらいの集会を開いて、候補者の支持演説を党員一人ひとりがおこなって、「はないちもんめ」みたいに支持グループの島を作ったりするらしい(他の方式の地方もある)。そんなふうに一人ひとりが訴えてその結果支持がどうなるかが可視化されていたら、さぞ面白いだろうなあと思う。

 なぜなら、日本では完全に秘密選挙だから、誰に入れるかはプライベート。そうなると、自分が支持する政党候補に入れる人がどんな気持ちで動かされているのか見えなくなる。ぼくの周りの左翼仲間なんかは、「どうしてアベや自民党に入れるのか理解できん!」というようなことが起きる。身近な人が、なぜ自分と違う政党候補者を支持し、それを言語化してくれる機会があれば、我が身をいろいろ顧みることも多いんじゃないかと思った次第。


 本書は池上の平易な解説も含めて(異論はあるけど)、まずは米大統領選の仕組みと雰囲気を手軽に理解できる1冊。加えて、日本で選挙に関心のある人、選挙運動に加わっている人なら、アメリカ選挙と自分の選挙運動を比較して長期的にあるいは短期的にその活動を変えていく刺激を得られるんじゃなかろうか。

2016-08-02 タイムスリップしたような 『ペリリュー』

武田一義・平塚柾緒『ペリリュー 楽園のゲルニカ』1巻



 太平洋戦争の激戦地・ペリリューの戦記。

さよならタマちゃん (イブニングKC) 『さよならタマちゃん』の武田一義が、一見のどかな絵柄で「楽園の地獄」を描く。


 読んですぐに思ったことは、「これはタイムスリップものではないのか」ということだった。

 というのは、当時の兵隊は「田丸くん」(主人公)、「小山くん」(その戦友)なんて呼びあわないだろう、と思ったからだった。そういう呼び方をした場合もあったのかもしれないが、そのあまりに非典型な呼び方をわざわざ採用し、しかも冒頭のタイトルのコマの中に

この作品は史実を参考に再構成されたフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です

と書くのである。

 ところが末尾にはここで描かれた兵士の服装について、こんなふうに書かれている。


f:id:kamiyakenkyujo:20160802005549j:image

(武田・平塚柾緒『ペリリュー 楽園のゲルニカ白泉社、kindle版211/212)

 メガネフレームも当時生産を統一されていた丸メガネではなく、読者が識別しやすいように主人公だけ四角のフレームのメガネにしたのだという。

 「読みやすく面白い漫画」にすることを最優先にしたという武田。


 ある意味で「瑣末」なリアルを犠牲にして、読者のわかりやすさを基準に再構成しているのだ。「田丸くん」「小山くん」などという呼称から受ける印象、そして、田丸の内語の仕方は、戦時中のそれというよりも、現代の東京あたりでマンガのアシスタントをしているようなヒョロヒョロ男子みたいな感覚なのである。

 それは「非現実的」というよりも、むしろこのマンガに現代の読者がするりと入り込める、穴=タイムトンネルのような役割を果たしている。


ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 1 (ヤングアニマルコミックス) そして、そういう具合に、田丸に読者の視線を導かせておいて、作者・武田のリアリズムが発揮されるのは、むしろ戦闘シーンである。

 1944年9月15日から米軍の上陸が始められる。着剣をしてから近づいてくる米兵一人ひとり射殺していくシーンでは、読者は完全に自分が田丸、もしくはその壕にいる一員の視点を得てこの物語を読み進める。ここから、戦場の離脱までのシークエンスは本巻の白眉である。

 手榴弾が投げ込まれてきたり、撃たれた瀕死の米兵が壕の中に倒れこんでくる時間の進め方=コマの流れ方が、いかにも現代的で、それが現代の読者には逆に合っている。

 なんというか、米兵を打つ、投げ込まれた手榴弾にどう対処する、倒れ込んだ米兵をどう扱う――そういうことの一つ一つが、「自分ならどうしたか?」を考えさせる、細かいプロセスの分割になっている。戦闘しているシーンが大雑把に書かれたり、苦しさだけがやけに強調されたり、そういうことではないのだ。『さよならタマちゃん』の闘病記で描いた細やかなリアルがここでは生きている。

 重傷者(実は戦死者)を介抱するシーンがある。戦闘中の重傷者の介抱は、『神聖喜劇』などでは

本物の戦闘になってみろ

軍律がどうのこうのなんちゅう事よりも

“しっかりせよと抱起し”のごたぁる余裕があるかないか

ちっぽけな木の株 草の根 石ころの陰にでも首を突っ込んで

這いつくぼうて敵弾からわが身を遮蔽しようちゅう最中に

戦友に構もうておられるかおられんか……

大西巨人・のぞゑのぶひさ・岩田和博『神聖喜劇』第2巻、幻冬舎、p.162)

と扱われている。ペリリューでそういうことが実際にあったかどうか知らないが、それ以上に、武田にしてみればそこで介抱することは、むしろ現代の読者にとってリアルだということではないかとぼくは思った。


 たしかにこのマンガは史実にもとづきながらも、細部のトゥリビャルを破棄し、現代の読者にリサイズしたリアルを示している。主人公田丸は、まさにタイムスリップしたぼくたちなのである。

2016-07-31 都知事選の今、読む 『革新自治体』

岡田一郎『革新自治体』



どこかで聞いたような…

 美濃部革新都政が誕生した選挙で、美濃部陣営に加わった中野好夫が当時の社会党に対して、それまでの都知事選挙社会党は田川・加藤・有田・阪本の4候補歴代担いできた)の経過をふりかえって加えた批判は次のようなものだった(中野「革新都政を支えるものは何か」)。

田川、加藤の選挙には全く関係しなかったが、二度の有田選挙、そして前回の阪本*1 選挙には、いずれも多少ながらこれに関係させられた。さてその敗戦後におけるこれら候補者に対する〔社会――引用者注〕党の処遇は、明らかによくなかった。不信義とさえいえると思う。まるで担ぎ出しておいて、あとはポイといってよい形だった。(岡田『革新自治体』p.85に中野の引用)

 美濃部を候補者と選び出すまでに、革新陣営は二転三転している。

 まず、国民的人気があったとされる社会党江田三郎

 江田に都議会少数与党であることなどを理由に断られ、総評議長の太田薫に話がいく。

 太田は、公明党陣営に入れることを条件にするが、かなわず、これもポシャる。

 そして、労農派マルクス主義者である鹿児島大学教授の高橋正雄に声がかかるが、これも断られる。

 高橋は代わりに美濃部亮吉の名前を挙げたのである。

美濃部は天皇機関説で有名な憲法学者美濃部達吉の長男で、一九六〇年から六二年までNHK教育テレビで「やさしい経済教室」を担当したタレント学者でもあり、知名度は高かった。(p.80)

 革新陣営の美濃部内定を受け、自民党陣営鈴木俊一(のち都知事)の内定について動揺する。その結果、民社党自民・社会に共同推薦を呼びかけていた立教大総長の松下正寿を推すことになった。公明党は独自候補を擁立する。


 どこかで聞いたような話……と思う人もいるはず。

 ぼくは今都政をめぐって起きてることが単純に同じだとは思わない。ただ、かつてこんな騒動が起き、こんな声が上がっていたことを知ることは、左派陣営にとって、決してマイナスではない。そういう声や事態を乗り越えて一時代をつくりあげた美濃部都政ができたのだから。


まず左派が読んでみよう

革新自治体 - 熱狂と挫折に何を学ぶか (中公新書) 岡田一郎『革新自治体』は、まず左派にとって読まれるべき本である。

 戦後から革新自治体の勃興・隆盛・衰退までがわかる。

 特に、有名なエピソードや事実がコンパクトに入っていて、事件ごとのフレーバーが味わえるようになっている。すでに戦後期を通して生き抜いてきた左翼、それどころか革新自治体時代を知っている左翼はもうほとんどいない。そのことがどんな雰囲気や熱狂だったのかということを、コンパクトに本書で知ることができる。

 よくあるように「革新自治体福祉のバラマキで財政難に陥った」式の分析一色で描き出すやり方とは、一線を画している。

 革新自治体時代の始まりの捉え方や、TOKYO作戦のような革新攻撃、社公合意への注目など、あえていわせてもらえば、左派のうち共産党などの革新自治体(歴史)観に外側はよく似ている。しかしそれにとどまらず、そこを貫く内的な必然性を明らかにしようとしている。つまり革新自治体を成立させ、それを衰退させたものは何かということである。


共産党左派にとって憲法が「基軸」になった経緯

 この本が明らかにしようとしたその内的必然性にとってキーになっているのは、市民派学者の松下圭一の理想と挫折である。シビル・ミニマム(市民生活を営む上での最小限の保障・水準)を、憲法に基づく民主主義を軸に打ち立てようとし、当初社会党改革に取り組むが、「ダメだこりゃ」と思って松下は党改革を離れ自治体改革にステージを移す。

革新政党護憲スローガンに掲げながら、内心では日本国憲法ブルジョワ憲法侮蔑していると松下は見ていた。このような「オールド・レフト」から日本国憲法を前提とした社会主義路線、つまりは「ニュー・レフト」に革新陣営も転換すべきだと考えていた。彼がニュー・レフトの理論と期待したのが、江田三郎らが拠りどころとした構造改革論であった(構造改革派は「憲法の枠内での変革」「憲法完全実施」をスローガンにし、日本国憲法侮蔑した従来の左翼路線とは一線を画した)。(p.44)

 「憲法を暮らしに活かす」的なスローガンは、左派全体、特に共産党系の人々にとってすっかり手放せない、今や基軸ともなった政策的核心であるが、戦後すぐにあった「改悪されるよりはマシ」的な憲法観を転換する上で、松下や構造改革派の問題提起の意味は大きい。

 松下による、「後進国・中進国型革命理論」の批判現代日本に合った「ニュー・レフト」路線の提起は、他方で日本共産党の反論を生み出した。例えば上田耕一郎の『先進国革命の理論』は、松下との論争によって生み出されたものである。

 つまり松下の提起を受け、周辺の左翼は活気づき、論争が左翼路線政策を豊かにさせたということだ。

 こうした論争を経て、今では「憲法の枠内での変革」「憲法完全実施」というのは、今やすっかり日本共産党の革命路線の基本である。それが社会主義革命ではないというだけで、松下の理論を批判し、それを乗り越えようとすることで(論者によっては「共産党が松下と構造改革派の軍門に数十年経って下ったのだ」ということになるだろうが)日本国憲法を前提とした革命路線を生み出した。*2


 現憲法を前提にした改革と革命は、松下、それとの論争、そして革新自治体の経験を受けて、生み出されたものだということだ。

 左派は、この本を注意深く読むことで、そこにある内的な必然性に気づくはずであり、松下が提起し最終的には挫折した憲法完全実施と「シビル・ミニマム」論を、今日的にどう発展させるかをよくよく考えなければならない。

 現在左派系の学者の中で「ナショナル・ミニマムとローカル・オプティマムの組み合わせ」による新福祉国家を構想する意見があるが、それはこのような松下の意見を批判的に継承しようとする試みである。ま、ぼくのやっている町内会論というのも、究極的には、行政がどう「シビル・ミニマム」をつくるかを土台にして、その上に任意制=志願制の市民の文化を花開かせようということでもある。


 この本には共産党社会党の「悪口」もいっぱい書かれているが、そんなことはこの本の価値にとってどうでもいいことである。

 先ほど述べたように、まずはエピソードや書かれた歴史を読むことでコンパクトに時代の流れをつかみ、その時代の空気を味わうこと。そして、革新自治体を貫いた内的な必然性について思いをめぐらすことで、今日の「野党共闘路線をどう改善し発展させたらよいか、考えるきっかけとすべきである。



個々のエピソードの味わい深さ

 本としての価値について、少し述べておく。


 なんといっても、個々のエピソードは味わい深い。

 しかし、この選挙もまた醜聞が絶えなかった。選挙ポスターに貼らなければならない選挙管理委員会発行の証紙を東陣営が大量に偽造し、ポスターの水増しを行い、自民党本部全国組織委員会の幹部や都教育庁職員が逮捕されたり(ニセ証紙事件)、「橋本勝」という阪本とよく似た名前の人物が立候補し、後にその橋本勝はすでに亡くなっていたことが発覚したりした(有権者の混乱や判別が困難な票の按分を狙ったものだと噂された)。

 そして、さらなる不祥事が保守陣営で発覚する。当時、東京都議会議長の地位は一年ごとに自民党の有力議員の間でたらい回しにされていた。これは名誉職であるうえに、議長交際費として莫大な費用を自由に使用でき、就任祝賀会で祝儀も集められるため、議長を希望する議員が多かったからである。そして、議長選挙のたびに買収の噂が絶えなかった。(p.76-77)

 都政史に詳しい人には「常識」かもしれないが、今日の都知事選をめぐるスキャンダル報道合戦などが思い出される。


少数与党問題

 また、革新知事の代表格である京都府知事蜷川虎三

保守系府議を引き抜いて知事与党の純正クラブをつくり、府議会の多数をおさえることに成功した。(p.25)

ということや、美濃部都政について

美濃部がもっとも苦手としたのは、都議会対策だった。一九六五年の都議会選挙社会党が第一党になったといっても、社会党共産党では都議会過半数に足りず、七三年に公明党が美濃部与党になるまで、都議会では野党過半数を占めていたからである。(p.93)

とあるように、革新首長が誕生した場合、まずは少数与党の危険性があることを、くり返し痛感させられる。少数与党だった美濃部がどんな方法でこの困難を打開していたのかは、本書を読んで知るといいだろう。


青少年健全育成条例と革新自治体

 蜷川が青少年健全育成条例の制定に最後まで反対した知事だという紹介のくだりも面白い。「仮に学校で生徒同士がキッスしたっていいじゃないか、それだけ成熟してんだから」という蜷川の著作からの紹介が、蜷川の思想を端的に示す。

 また、東京では自民党都政(東知事)の時代に青少年健全育成条例が採択され、「不健全図書」の指定制度が導入された。

しかし、一九七二年の美濃部都知事の誕生で都の姿勢は一転、謙抑的となったという(長岡義幸『マンガはなぜ規制されるのか』)。(本書における長岡の引用は本書p.89)

 本書の著者である岡田がこの問題をわざわざ紹介しているのは、もともと岡田が自治体問題に関心を持つきっかけが、先の青少年健全育成条例の改定で運動に加わったからであろう。今回の都知事選で、マンガ規制に歯止めをかけるかのような期待で自民党小池などを支持している一部のオタクがいるのは、笑うべき迷妄というほかない。



革新自治体時代はいつから始まったのか

 多くの人にとって関心のない問題かもしれないが、「革新自治体の時代がいつから始まったのか」は個人的に興味のあることだった。

 というのも、1950年代社会党社共の枠組みで首長が誕生しており、あれらをどう扱うのかということ、特に古くから誕生していた蜷川府政を「革新自治体」の流れから見るとどう考えたらよいか、はっきりしなかったからである。

 これについて、本書では、1950年代社会党社共首長の誕生についてこう書いている。

医師会農協といった団体が、国政与党を支持するという構図が、当時〔1950年代――引用者注〕は確立されておらず、地元の諸団体を味方につけられる候補を擁立すれば、社会党知事選挙で勝利をおさめられたのである。(p.20-21)

一九五〇年代後半には農協社会党労働組合が協力して保守系候補を破るという、いわゆる労農提携によって知事選挙に勝利するパターンが続出した。(p.21)


 そういうことだったのかと知った。*3

 また、美濃部都政を革新自治体の時代の始まりと見るのか、それ以前(1960年代前半)と見るのかという議論があり、著者の岡田は美濃部都政の誕生をその画期と見ている。これはぼくの実感とも一致する。


 このような「小ネタ」で刺激・触発されるものが本書には無数にあるのだが、いちいちそれを紹介することはできない。まずは本書を読んでみることをお勧めする。



自民党の絶対得票率が長期的に低落しているもとで

 最後に、政党の組み合わせからみた革新自治体論について触れておく。

 本書では、自民・社会という二つの政党の間隙を縫って、公明党共産党が大きくなっていった「多党化」について次のように触れている。


 このような多党化のあおりを受けたのは、自民党社会党であった。大都市選挙区では一九六〇年代に自民党社会党の得票が急速に低下する。一方、非都市型選挙区では自民党の低下はゆるやかで、社会党の得票率はほとんど変わらなかった(石川真澄『戦後政治構造史』)。このような現象は、主に公明党共産党の支持基盤が都市部にあったからだと考えられる。

 この傾向は、もともと都市型政党であった社会党の衰退を招くこととなった。農村型政党であった自民党は非都市型選挙区で、ある程度の議席を確保できたため、六〇年代は党勢低下が目立たず、時にはライバルの社会党の衰退に助けられて国政選挙議席を増やすこともあったが、絶対得票率は総選挙ごとに低下していった。(p.16-17)

都市部における自民党の衰退は激しく、自民党単独での勝利は困難になっていた。そのため、他の野党と協力するか、あるいは他の野党自民党と協力するのを阻止すれば、社会党にも勝利の可能性があったのである。(p.16)

 長期的に自民党の絶対得票率の低下によって、単独過半数が困難になっているという事態は、今日でも基本的なベースの情勢である(現在一瞬回復しているが)。そのもとで、公明党自民党側につくことでこの困難が基本的に「解消」されているという事態ももう一つのベースとなっている事情である。


 民進党が健全保守政党となり、自民公明連合を超えていく、という方向には現実性がいよいよ乏しい。オルタナティブとして野党連合が政権合意に進み、異なった政党の間での共通政策の創出という文化へと進まない限り、未来はない。

 前のエントリでも書いたように、そこに至るまで引き続き「雑音」は聞こえ続けるだろうが、一つひとつ乗り越えて、新しい政治文化をつくることに邁進すべきである。

*1:原文は「坂本」という誤記が「ママ」と仮名をふられて表記されている。

*2:なお、現憲法侮蔑せず尊重する政策や政治態度はすでに革新自治体時代以来、共産党の体質になっていたが、共産党が綱領上この路線を完成させるのは実に2003年の綱領の抜本改定の段階である。

*3:念のため言っておけば1950年代社会党首長の誕生はこれで説明されるが、蜷川府政もそうだったというふうには書かれていない。

2016-07-28 『グラゼニ 東京ドーム編』7巻 『おおきく振りかぶって』27巻

『グラゼニ 東京ドーム編』7巻、『おおきく振りかぶって』27巻


ぼくのヒザ故障の経験

 中学校の時、運動系の部活動をやっていて、生涯にあれほど運動した(させられた)経験は今後もう二度と訪れないであろう。

 基礎をつくるトレーニングについては、教員はまともに指導していなかったし(最初の2年間に顧問だった教員はほとんど部活動には出てこなかった)、科学的なトレーニングが全然確立されていなかった。というか、あったのは先輩からの「しごき」だけ。前から引き継がれている「苦しみ」を順に下におろしただけなのである。

 うさぎとびなども平気で行われていたし、部活動中に絶対に水を飲まないという規律もあった。


 学校が備え付けていた器具に、腹筋運動をやる台があった(「腹筋台」と呼んでいた)。

 この腹筋台で毎日30回×数本やらされていた。

 腹筋が割れたのは、人生でこの時だけだろう。見事なシックスパックだった。


 しかしこの腹筋台は、頭の方が下がっていて、足を引っ掛けるT字型のハンドルが付いていた。つまり、水平面でやるよりも負荷をかけて腹筋をするようにできているのである。

 学校の設備なのに、こういうものは誰かが科学的な検証をして備えているのか? といまなら思うけども、当時は素直にそれに従ってやっていた。


 しかし、やがて、膝が痛くなってきた。

 どうにも痛いので、整形外科に見せにいった。

 すると「これはオスグート・シュラッター病です」と診断された。「成長期に無理な運動とかで負荷をかけるとこうなるんです」。あまりに典型的で、学会で発表したいから写真を撮っていいかと尋ねられたことを覚えている。



膝の関節から下の「すね」の中心には脛骨(けいこつ)という太い骨があり、その膝関節近くに脛骨粗面という盛り上がった部分があります。ここは12歳前後に発達しますが、その過程で異常が生じることがあるのです。子どもの成長に伴ってよく見られる成長痛の一つです。骨の変形に加えて、骨の一部がはがれる「剥離骨折」が起こる場合もあります。……

子供の骨は成長の過程で柔らかい骨から硬い骨へと変わっていきますが、 その間の骨はやや不安定な状態になり、運動などの刺激によって異常が生じるものと考えられています。

こうした不安定な状態は、骨の成長スピードに膝周辺の筋肉や腱の成長が追いつかず、アンバランスな筋骨格構造になることが主な要因です。こうした状態に過剰な運動による負荷が加わることでオスグット病の症状が現れます。

https://tiryo.net/osugood.html

 医者は無理な運動が原因だろうと言い、特に、その変な腹筋台がいけない、という旨のことを告げた。今でもぼくの膝は、骨のようなものが少し飛び出した状態になっていて、正座がしにくい。

 

 ぼくが今愛読している野球マンガグラゼニ』も、『おおきく振りかぶって』も期せずして、スポーツのさいの故障の問題である。


結果に予断を持たせない

グラゼニ〜東京ドーム編〜(7) (モーニングコミックス) 『グラゼニ 東京ドーム編』7巻の方は、肘を故障し、トミー・ジョン手術を受けた、主人公でプロ野球投手・凡田夏之介が、復帰戦に臨むという展開。「打ちごろの球を投げてしまう絶不調であるにもかかわらず、オープン戦で花を持たせて、開幕に引きずり出す」という古巣だった相手チーム(スパイダース)の計略にハマり、先発で登板するのである。

 これ、話の運びとしては、つまり物語としては、すごくうまい、というか、面白いのな。どうしたらこんなふうに「手に汗握る」という展開にできるのか。そして、1回読んだだけでなく、後で何回読んでも面白い。見事である。

 まず、夏之介が負けるのか、勝つのか、まったくわからない。「最後にどこかで逆転劇が来るんだろう」という予断が、いい意味で働くこともあるけど、それがない「ミステリーツアー」のような状態がもうたまらない。

 そして、相手チームの投手は、かつて夏之介の憧れで、しかし、今や落ち目になりかけている元エース投手で、圧倒的な球威を依然として持っている投手であるにもかかわらず、復帰戦を戦う夏之介と奇妙にシンクロしてくる。


 しかも、終わってみて、その1勝とか1敗とかが、本人の努力だけではどうしようもなく決まるのに、それが本人評価に大きな影響を与える決定的な意味を持つ結果だったとされる。プロ野球というスポーツの悲哀というか、不思議というか、矛盾というか、ドラマのようなものを、見せられるのである。


ここまで言い切っていいんかいな

おおきく振りかぶって(27) (アフタヌーンKC) もう一つは『おおきく振りかぶって』27巻。

 こちらは、「テニス肘」に始まり、肘の筋肉や軟骨などの障害がかなりのページをとって、コーチ(モモカン父)の語りとして描かれる。

 ぼくは野球で投手の肩や肘が壊れるというのは特別な負荷をかける、歪んだ競技だと思っていた。

 つうか、ぼくは、スポーツというのは全体としては体の酷使をしており、部分的には様々な体の箇所に特別に無理な負荷をかけるもので、「スポーツは体にいい」というのは多くの場合、うそだろうと思っていた。


 まあ、今でもそう思っているわけだけど。

ジュニアプレーヤーの2割が故障かかえてるスポーツなんて

どっかおかしいんだ

というコーチの言葉は、ぼくのそういう感じ方を裏付ける発言かと思った。

 そのあと、選手たちは、コーチの投げかけに自問自答していくのだが、結論として「全体をバランスよく酷使するのではなく、ある部分だけを偏って酷使する使い方をしているから」というところに至る(ぼくのまとめ方ではあるが)。

 したがって、コーチの故障予防策は、バランスよく体を使うことなのである。

 投手が片方の肩や腕を使い込んだら、もう片方をロープひきの運動を加えることでバランスをとるのだという。

 ええっ、ホントにそうなの!?

 そしてブルペンでの練習をやりすぎたらダメじゃないのかという、選手(阿部)の疑問に対して、さっくりこう答える。

故障しないか?

250投げたってしないよ

練習は試合とは全然違う

ブルペンで何球投げたって

故障なんかしないよ

練習では腕パンパンになるまで

投げていい

むしろそうしなきゃ

試合でもたない!

 あっけにとられる阿部。

 うわーっここまで言い切っていいんかいな?

 ぼくは野球のことを全く知らないので、この発言が常識なのか、度はずれた一知見を述べているにすぎないのかわからない。

 ただ、例えば『グラゼニ 東京ドーム編』7巻でも、夏之介が練習では140km/h出せたのに、実戦では130km/hそこそこしか出せないことに苦しむのは、練習と実践の差なんだろうと『おお振り』27巻を頭に思い浮かべつつ読んだのであった。


 ケガ・故障は、スポーツにおける矛盾の集約点である。

 「ケガから不死鳥のように蘇る」という単純な筋立てでなく、その矛盾をどうやってアウフヘーベンさせるのかに、作家の力量が大きく現れるのだと2作品を読んで思った。