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紙屋研究所


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2017-04-26 「共産党ファースト」のせいなの?

「共産党ファースト」のせいなの?


 長島昭久民進党を離党した。

野党の「共産党ファースト」こそ変えなくてはいけない −−長島昭久衆議院議員に聞く(山本一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース 野党の「共産党ファースト」こそ変えなくてはいけない −−長島昭久衆議院議員に聞く(山本一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

それから、野党共闘そのものを否定しているわけでもありません。まず民進党がしっかりと政策の柱を立てる。その政策に共産党賛同していただけたとする。そうなれば、「ともに闘う」という形も納得できます。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamamotoichiro/20170426-00070309/

 結局共産党に引きずられるからダメだ、まず民進党の旗を立てて、そこに集まるようにしなければ、という理屈である。

 これに対する松竹伸幸批判は的を射ている。


 …左翼化しているかどうかの最大の指標は安全保障問題だと思いますが、そこがどうなのかを何も語っていないことです。この問題では、共産党安保自衛隊についての共産党の立場を持ち込まないという表明があったから、野党共闘が実現しているということです。

 安全保障問題で野党で一致しているのは戦争法の廃止のみ。普天間基地辺野古への移設という重大問題さえ一致していません。つまり、野党政権をとったとしても、変わるのは戦争法がなくなるというだけなんです。それはつまり、2年前までの自民党の政策に復帰するということです。

 これって、バリバリの保守政党の政策ではありませんか。左翼化の対極にあるものです。

 民進党の問題は、共産党のこの対応によって、保守の枠内でやっていくことを保障されながら、豊かなものを何も示せていないことだと思います。安保自衛隊の維持を前提にして、しかし安全保障とは何かということをトコトン突き詰め、安保自衛隊をどう使いこなすのかということを提示できていないのです。これって本当は、長島さんがやるべきことだったのに、何も生み出せなかったわけです。

http://www.kamogawa.co.jp/~hensyutyo_bouken/?p=2916

えっ、共産党の「野党連合政権」論って「安保法制廃止」すら前提じゃねーの?

 共産党が1月の党大会で決めている「野党連合政権」論は、すでにそのすぐ前に出した「戦争法廃止の国民連合政権」論ですらない志位和夫は大会への中央委員会報告で次のように述べている。

全党討論では、決議案でいう「野党連合政権」と、2015年9月19日に提唱した「国民連合政府」の関係をどう考えたらいいのかという疑問も出されました。

 わが党は、安倍政権に代わる政権構想として、「国民連合政府」という暫定的な野党連合政権合理的だと確信しています。同時に、政権の問題では、現時点で、野党間に合意が存在しません。そうしたもとで、決議案では、野党と市民が一緒に、いわば白紙から安倍政権に代わる政権のあり方を話し合い、前向きの合意を見いだしていこうという立場で、「野党連合政権」というより幅をもった呼びかけとしました。(強調は引用者)

http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/27th-taikai/20170115-27taikai-houkoku.html

野党4党は、「安保法制廃止、立憲主義回復」をはじめとして安倍政治を転換するいくつかの重要な政治的内容で合意しています。……わが党は、政権の問題で、野党間に合意が存在しないもとで、この問題での合意を総選挙選挙協力の協議に入る条件とはしないということを表明しています。(強調は引用者)

http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/27th-taikai/20170115-27taikai-houkoku.html

 安保法制廃止すら政権協議の前提にしないと言っているのである。

 譲りすぎだろ、共産党……。


 それなのに、何が「共産党に引きずられる」だ。


へー民進党って「日本版BI構想」出してんだ

 政権の大きな政策の柱として、経済安全保障がある。

 いったい民進党はどういう政策のすり合わせを野党共闘(次回衆院選での選挙協力)の中でやろうとしているのかよくわからんのだが、例えば経済では「格差是正による経済成長」を旗印にしていて、「日本型ベーシックインカム」という政策……というか法案まで出していることは、実は意外と知られていない。ぼくも「へー民進党って『日本版BI(ベーシックインカム)構想』出してんだ」と驚いたほどである。

格差是正と経済成長に向けた日本型ベーシックインカム構想の実現へ、税法対案提出 - 民進党 格差是正と経済成長に向けた日本型ベーシックインカム構想の実現へ、税法対案提出 - 民進党

 評論家の山崎元などは民進党の構想を評価している。


「日本型ベーシックインカム」をもう一歩進める一案|山崎元のマルチスコープ|ダイヤモンド・オンライン 「日本型ベーシックインカム」をもう一歩進める一案|山崎元のマルチスコープ|ダイヤモンド・オンライン

 つまり、経済ではこういうものが柱として立っている。*1

 経済政策全体についてもまあ整理はされている。

https://www.minshin.or.jp/article/110635/民進党経済政策

 こういう経済政策野党の連合政権でどこまで一致するか、民進党が主導的に持ち込んで協議の場ですり合わせをすればいいのではないか。*2


安全保障は旗印さえないのでは

 民進党安全保障の方はどうかというと、さっぱりわからない。

 長島が「こうだ」と民進党の中で旗印を立てたければ、立てりゃいいじゃないか。共産党がそれを規制しているわけでもないし、もっと言えば野党が連合政権をつくるなら「白紙」から始めていいよ、とまで共産党が言ってくれてんだから。


 それこそ、松竹の言うように、共産党には出せない、自衛隊活用や米軍との連携論を出してみたらどうなのか。

私は、もし野党共闘政権を獲得するほどに成功するためには、民進党保守的な要素を維持していなければならないと思っています。多様性が大事なんです。民進党共産党と同じような政策になったら、左翼的な人には魅力的だと映るでしょうし、野党共闘もやりやすくなるのかもしれません。しかし、それって、小手先ではうまくいくけれど、有権者の離反は招くという結果を生み出すことになるでしょう。有権者はそんな共闘に何の魅力も感じないでしょう。

http://www.kamogawa.co.jp/~hensyutyo_bouken/?p=2916

 このことは、長島だけではない。長島が去った後の民進党にも問われる。


 民進党は、共産党を含めた野党選挙協力まではやる、と言っているが、政権までは作らない、というところで今止まっている


 いまだに「共産党は現実的でない左翼だからいっしょに組んではいけない」式の批判をしている人が、政治家にも学者にもいるのだが、この理屈の穴は長島のそれと同じである。

 共産党が「白紙からでいいぜ」と言っている上に、民進党自体が旗印をしっかり立てていないのだから、流されるとか流されないとかそういう次元以前の話なのだ。民進党経済にしろ、安全保障にしろ、「現実的」とやらの旗印を立てて、それを野党の中でもんで見ればいいではないか。

 民進党の現状は、経済分野では民進党としての旗印はどうやら立っているようだけど、「野党連合政権に乗る」という決意をしていないので、すり合わせもされておらず、従って実現の現実味がなく、安倍政権自公政権オルタナティブとして映らないということだ。

 安全保障分野に至っては、党としての旗印が立っているかどうかさえ、あやしい。


 ……てなことを、松竹は言いたかったのかな、と忖度してみる。

そしてそういう民進党の現状は、長島さんにも責任の一端があるでしょう。それを共産党の責任にしてはいけません。

http://www.kamogawa.co.jp/~hensyutyo_bouken/?p=2916

だから、長島さんには民進党にいてほしかったんです。他の保守派の人々には、民進党内でがんばってほしいと思います。

http://www.kamogawa.co.jp/~hensyutyo_bouken/?p=2916

という松竹の一文をみるとそんなことを思う。


 安倍政権が暴言・失言・失態・迷走・暴走を重ねても、未だに支持率が高いのは、前も言った通り代替案=オルタナティブが見えないからである。野党共闘は「政権を組む合意」へと進んでいない。ある意味、「共産党民進党はバラバラじゃないですか」と安倍や山口が選挙戦中のテレビ討論などで言った通りなのである。政権を組むという枠組みで物事を考え始めないとそれが「代替」とは認識されず、いつまでも安倍政権は高支持率を続けたままだ。

 逆に見えるだろうが、まず政権を組むという決意に進むことが第一歩だろう。

 

*1:この構想自身はマイナンバー前提など、いろいろ問題があるとぼく自身は感じる。

*2:混乱のないように一応断っておくが、野党間の政策協議は始まっているが、これは政権合意を前提としない、当面の選挙での協力の話である。

2017-04-24 佐竹さんは俺だ 『自営業の老後』

上田惣子『マンガ 自営業の老後』


マンガ 自営業の老後 書店で手にとって買った。

 自営業イラストレーター)である著者がこのまま仕事が枯れていく不安にかられながら、自営業でどのような老後を過ごしている人たちがいるかを取材したり、どう対策をとったりしたらいいかを専門家に聞いたりしている。


 本書を読んでいいると、あれこれしゃべりたくなる

 へえ、そうなんだ、とか、いやそうじゃないだろ、とか。反論したりサカナにしたりして。

 あれこれ不備があるとか、そこをもっと…という不満があるけども、そういうものは、不思議なことに本書の瑕疵としては現れず、この本を起点に自分の老後や他の人との老後の話題に想像が広がっていった。

 実際、この本を読んだ後に、新聞で大江英樹・井戸美枝『定年男子 定年女子 45歳から始める「金持ち老後」入門』(日経BP社)の紹介記事(読売夕刊2017.4.17)に目が向き、それを買って本書と比較してしまった。


 そういう意味では楽しめる一冊である。

 以下に書く点も、「本書の不十分点」というよりも、ツッコんで楽しむところ、話題にするところ、というほどの意味で考えてもらいたい。


1億円も要るのかよ

 第1章は「老後に備えまくってる30代デザイナー加藤さん」。

 雑誌特集を読んで貧乏老人になるまい、自分より収入の少ない人が60までに1億貯めている、というので老後の資金を貯めようとするのである。

 加藤さんが老後に備えて貯めている資金というのは、個人年金確定拠出年金・小規模共済投資信託などである。

 えー?……読み間違いでなければ、毎月25万円くらい貯めている(資産運用にブチ込んでいる)ことになるんだけど、25万円……?


 月25万円×12ヶ月×引退までの年月(60-36年)=7200万円

 7200万円ですか!

 月25万円も貯められるなら不安はなかろう

 1億目指しているんだから*1、そりゃ、そういうことなんだろうけど、7200万円も老後資金があったら安泰だわな。

 しかも、加藤さんは結婚していて2児の母。夫はサラリーマンだ。

 夫がサラリーマン、という時点で、自営業夫婦とは違う「見通し感」とでもいうべきものがある。

 例えば毎月25万円貯めているお金は、老後資金だけのようだが、2児の教育資金はどうしているのか。夫の給料からストックしているのか。


 そもそも、「1億円」に根拠があるのだろうか。

 ここが一番肝心なところだ。

 老後不安の最大の根源は、この根拠が不分明であるからだ。

 加藤さんは総務省の「家計調査」を用いて、高齢世帯夫婦の収支差が月6〜7万円になることを指摘する。早い話が、毎月6〜7万円の赤字ってこと。足りないのである。

 これは例えば以下の記事でも同じことが確かめられる。

2017焦点・論点/生活困窮者支援の現場から/NPO法人「ほっとプラス」代表理事 藤田孝典さん/「死ぬ間際まで働かざるを得ない」 持続しない社会は変えよう 2017焦点・論点/生活困窮者支援の現場から/NPO法人「ほっとプラス」代表理事 藤田孝典さん/「死ぬ間際まで働かざるを得ない」 持続しない社会は変えよう

となれば、その不足分が蓄えて備えるぶんだということになる。

 7万円×12ヶ月×(女性平均寿命90歳−60歳)=2520万円

 何かに備えたとしても3000万円と考えるのが妥当ではないか?

 加藤さんは、男性の方が先に死ぬから単身高齢女性になると収入が減るという問題を提起している。ただ、高齢単身世帯になると確かに収入は減り不足は出るが、不足額自体は減るのである。同じ総務省の「家計調査報告」(2016年平均速報結果の概要)のp.43を見ると月3.6万円が不足分である。

f:id:kamiyakenkyujo:20170424032910j:image

 平均寿命の差は7年だが、10年くらいを取っておこう。


 7万円×12ヶ月×(夫婦死別80歳−60歳)=1680万円

 3.6万円×12ヶ月×(女性平均寿命90歳−夫婦死別80歳)=432万円

 1680万円+432万円=2112万円


 逆に、備えるべきお金、減ってるやん

 『定年男子 定年女子』で批判されることになる、「老後の備え3000万円」説の根拠はここにあると思うのだが、とりあえず「3000万円」説に準拠すればいいのではないか。これ以上備えることは、きりがない。

 そりゃあどんなものだって「不測」のことはある。

 つうか、そもそもそんなに備えられねえ。

 倍の余裕を考えたとしても6000万円で十分だろう。1億円もいらない。

 ちなみに、「1億円」説の元になっているのは、生命保険文化センターの試算ではないか。「ゆとりある老後生活に必要な生活費」は夫婦で月35万円だとされているので、夫婦ともに90歳まで生きるとすれば25年をかけて1億円強……しかしこれ、「収支差」ではないから、備えるべき額そのものではない。収入がどれだけあるかで備えの額はかわってくる。

 加藤さんはなぜあんなにも貯めようと思っているのだろうか?


 大江・井戸『定年男子 定年女子』では、その人がどれくらい老後で使おうとしているのか、どれくらい収入があるかを見極めることが大事だとする。

「豊かな老後には1億円必要」という言葉に漠然と不安になるよりも、自分はいくらかかるか? を計算してみたらどうでしょう。(大江・井戸kindle209/1602)


具体的に年金(+労働収入)ではいくら足りないのか把握する

 そこで本書、『自営業の老後』でも2章は「90歳までの生涯収支を計算してみる」である。編集者は大江・井戸と同じことをアドバイスする。

「不安」っていくらお金が足りないのか

具体的にわかると消えるらしいですよ

「生涯収支」を出してみましょう!

(上田p.42)

 そして、なるほど、現在の収入・支出を明らかにして、老後の収入・支出を明らかにしてみよう……とあるのだが、ここの具体性がイマイチなのである。

 この本を一緒に読んだ某氏は「上田の生涯収支らしいもんがp.49に出てくるけど、肝心のところが消してあるんだよね。そのあたり、丸裸になる覚悟でやらんかい!」と言っていた。まあナマの数字を出さず、操作した数字でいいんだけど、具体的な計算を載せてほしいんだよなあ。


定年男子 定年女子 45歳から始める「金持ち老後」入門! この点、大江・井戸『定年男子 定年女子』でも、資産までは公開していない。しかし、大江の毎月の収支は、具体的な数字で出されている。

 (上田の本で書かれているような)「ストックとフロー込みの収支差」という考え(生涯収支)では、問題が分析的に提起されない。*2

 (大江・井戸本にあるように)毎月の収入がいくらで、支出が大体どれくらいか、をまず見極めることが必要で、その不足分を資産(貯めたもの)で補う、と考えれば問題はクリアになる

 上田の本ではp.45〜49までに生涯収支の出し方が書いてあるけども、この思想がクリアではなく、しかも「家をもう1軒買いたい」という、けっこう「ぜいたく」な欲望が入り込んでいるので、わかりにくくなっている(汎用性が低い)。


 大江・井戸本では、家計簿を3ヶ月くらいつけて見るか、年間収入から大きな支出・貯蓄を引いて12で割って1ヶ月の平均生活費をだすカンタン方法をすすめている。

 こうして現役の現状の支出(生活費、生活レベル)を見極めた上でどうダウンサイジングしたいかを盛り込めと指南する。大江の「思想」がそこに書いてあって色々興味深いのだか、そこはそれ、実際に読んでくれ。

重要なのは収入の金額の多寡より収支です。(大江・井戸292/1602)

 そして、この収入を見極めるさいに、非常に役立つのが「ねんきん定期便」を送ってくる「ねんきんネット」(日本年金機構が運営)なのだ。ベースとなるのはやはり公的年金収入。それがいくらもらえるのかは、これでざっくりとわかる。

 大江・井戸本ではこの活用を勧めている。

 ぼくも今回自分の年金額(今後同じ収入が職場からもらえるとして)が初めてわかった。予想していたよりも少し低かった。

 つれあいはぼくよりも倍も収入が多いので、夫婦でならわりと余裕を持って暮らせると思うが、もしつれあいが先に死んだり、離婚したりして単身で生きていく場合を「悪いケース」として想定しなければならない。

 年金額がわかって本当によかった。


 公的年金の額が、老後資金を考える最も重要な情報ではないか。

 そこから、老後資金をどれくらい備えるかの根拠が出てくるのだから。


 大江・井戸本は、こうした計算思想が明確なのだが、上田本ははっきりしない。そこがクリアに対比できる点では両書の比較は愉快であった。


 大江・井戸本では、次の言葉が至言であると思う。

長年、証券会社で働き、人に運用をすすめてきた人間がこんなことをいうのはなんですが、〔資産――引用者注〕運用は苦手ならしなくていいんです。というより、定年間際になっていきなり運用を始めることは絶対すすめられません。(大江・井戸292/1602、強調は引用者)

稼いで無駄遣いせずに貯めた人の勝ちなんです。実現できるかどうか分からない仮定の3%などという不確実な運用よりも、働いて得るお金は確実です。私は38年間証券会社営業マンをして、大金持ちの人をいっぱい見てきましたけれど、投資で一財産築いた人はごくまれにしかいません。本業で一生懸命稼いで、無駄な支出を避けて貯めた人が資産をつくっているんです。お金がある程度のかたまりになったら運用を始めるのは合理的だと思いますが、老後の不安を運用だけで解決しようと考えるのはおすすめできません。(同306/1602、強調は引用者)

 まったくその通りである

 どうすると運用の利回りがトクなのか、などということは、庶民にはどうでもいいことではないか。別の記事でも表明したが、ほとんど利息がつかない銀行の普通預金に突っ込んでおいても、老後の不足分を補う額だけたまっていればそれでいいではないか。


東條さち子『主婦でも大家さん』『大家さん10年め。』『大家さん引退します。』 - 紙屋研究所 東條さち子『主婦でも大家さん』『大家さん10年め。』『大家さん引退します。』 - 紙屋研究所

 第1章で加藤さんが叫んでいる、

情報を知ってるだけで収入や借金に数十万〜数百万円の違いが出ることもある!!(上田p.30)

ということはよく言われることで、焦燥感を生むもとになるんだが、そもそもローンや資産運用をしなければいいとぼくは思う。


最低生計費付近で生活する佐竹さん

 さて、どちらかといえば本書(上田本)に厳しいツッコミをしてきたが、本書のタイトルから予想されるような「自営業の老後のルポ」として一番面白いと思ったのは、3章の佐竹さんのケース紹介である。

 佐竹さんは、フリーライター。65歳。

 学生運動をして就職がうまくいかず、親のコネで労働金庫に入り、結婚・失職・離婚でフリーランスに。

 単身のフリーライターの男性。

 これだよ、これ。

 こういうケースの具体的な収支、生活を聞きたかったんだ!


 そしてそれが公開されている!

 「自分の生涯収支は公開しないのに、佐竹さんのは公開するんだ。ゲスいな」とは先ほどぼくと一緒に本書を読んでいた某氏。


 佐竹さんの収入の基盤は年金とアルバイト(配膳)の収入である。「月々の年金5万円+少々のバイト」(p.56)。ただしアルバイト収入が太い。繁忙期にかなり稼ぐが、安定分だけ見ると、生活保護的な最低生計費ギリギリだろうか。

 フリーライターとしての収入は変動が大きくて書いてない。

 つまり、経常的には最低生計費程度を稼ぎ、プラスアルファとしてライターとしての収入や繁忙期のプラス分がある、というようなイメージ。具体的な額は本書を実際に読んでほしい。

 支出は、変動がいろいろあるようだけど、だいたいその収入を少し下回る程度である。


 佐竹さんの1日も書いてあるが、午前中はジムで泳ぎ、午後は映画・DVD、原稿書き、そして夕食後に「仕事」(アルバイトなどだろう)か、読書。12時に寝ている。「ほぼ毎日このスケジュール」(p.62)。


 佐竹さんの考えと生活は、ぼくが想定する老後に一番近い。

 なにこの「佐竹さんは俺だ」感。

 どこが「俺」なのか。

 生活のレベルが、1人暮らしになった時に、(現行の生活保護基準での)最低生計費水準でよいだろうとする発想が一番親近感がわく。一般的にこれでは「健康で文化的な最低限度の生活」はできないだろうとされるし、ぼくもそう思うのだが、ぼく自身の生活に関わっていえば何とかイケるのではないかと思っている。

ジムで朝シャワーをすませるから水道・ガス料金安いの

ジムってシャンプーもあるしいいよね(p.63)

 これこれ。

 これですわ。

 ぼくも結婚同居前、東京に住んでいた頃は、フロなしアパートに住んでいて、ジムに通っていた。東京銭湯は1回400円を超えるから毎日入ると月1万2000円もかかってしまう。ところが、ジムに行くと、まずシャワーがあってボディーソープやシャンプーがある。その上、体をあたためるジャグジーがある。深夜なら月5000-7000円で(当時は)可能だった。ぼくは家にガス引いてなかったんだよね(うむ、全然「健康で文化的な最低限度の生活」じゃねえな)。


家賃の問題さえなんとかなれば…

 佐竹さんの場合、住居費がかかっていないというアドバンテージがある。

 友人の家を無償固定資産税だけ払っている)で借りている。

 ぼくも東京の独身時代は、23区内であるにもかかわらず月3万円のぼろ木造アパートだったが、家賃という固定費を低く抑えることでかなりの選択肢が広がる。住居費を除く生活費は工夫次第で何とかなると思うからだ。


 家賃の問題は、老後の資金を考える上でのネックにもなる。

 持ち家を準備すれば住居費は低くなるけども、その前に住宅資金を準備しなければならなくなるからだ。

 佐竹さんのように賃貸や借家を前提にしてみる。

 佐竹さんのような「原稿書き」という生活をする場合、どこでも場所を選ばないように思える。

 ただ、原稿を書く仕事について、いつも声がかけられるのは、やはり首都圏、できれば都内、さらにいえば23区だろう。

 配膳のアルバイトというのも、おそらく地理的条件があるはずで、佐竹さんのような「仕事をしながらの年金生活」は、「仕事がある首都圏」という制約が出てくるのかもしれない。

 場所さえ選ばなければ、公営住宅の、空いている古い・不便なところ(随時募集)を狙える。佐竹さんのようなケースでは、原稿がネットで遅れて、いつでも編集者から声がかかるという条件があるなら、また、アルバイト先に交通費の範囲内で行けるなら、選択肢はかなり広がるだろう。

 賃貸アパートは今後ダブつくようだから、自治体などが家賃補助制度を設けてくれれば、かなり助かる。

 家賃=住宅費用を社会保障に移転することは、切実で、しかも実行可能な政策課題である。


 というわけで、佐竹さん。

 上田が、会うなり、毛玉のついたレモン色のセーターを見て、「このユルさ! 他人とは思えない!」(p.56)と叫んだように、ぼくも他人とは思えなかった。


公的年金に掛け金を払わず民間保険に加入する愚

 第5章「年金専門家 田中先生に会いに行く」、6章「年金、払いに行ったよ!」、10章「保険のおはなし」は、公的年金と民間保険の話である。

 「田中先生」とは社会保険労務士であり「年金研究家」として活動する田中章二である。

 この部分は、何がびっくりするって、上田が、国民年金の掛け金もはらいもせずに、民間保険にあれこれ入っているという点であった。

 これはフリーランサー自営業者にけっこうあるらしくて、「どうせ(公的年金はもらえない」「年金は破綻する」「掛け損」だと思っている人が少なくない。

 公的年金だけでは暮らせないだろうが、「死ぬまでもらえる保険は公的年金しかない」(p.95)*3

 田中先生は

保険も大事だけどやっぱり貯蓄も大切!

公的なものに加入して民間のは掛け捨てだけにして残りのお金を金融機関定期積立して満期になったらそれを定期にして再度積立する……何かあっても基本的には公的年金健康保険とかの給付でまかなえればいいと思うよ(p.167、強調は原文)

という。

 この本を読む限りで、上田夫婦には、子どもはいなさそうである。

 となれば、生命保険学資保険も不要だろう。

 上田は思ってしまう。

それってもしかして

貯蓄してたら民間の保険いらないってことかな(p.168)


 上田は、がんで医療保険から給付を受けたこともある。

 しかし、それでもバッサリ見直してしまうのである。


 ぼくもこの立場である。

 民間保険絶対不要論ではなく、必要としている人はいるし、スポットで活用すべき場面はある。

 ただ、基本は、公的なものと貯蓄をできるだけ活用したほうがいいと思っている。

 独身時代には生命保険など入らずにひたすら貯金を増やして、それが子どもの学資分ほどにたまっているのであれば、公的な遺族年金もあるのだし、結婚後も生命保険は入らなくてもいいと言えるほどだ。いやまあ、どれだけ貯めたか次第だけどね。



 本書12章「一生黒字でいられる会計の知識」は、フリーライターが、どうやって老後を食いつないでいくか、という話で、ここも興味深かったが、まあそこはホレ、本書を買って読め。



ツッコんで楽しむ、老後資金を考えるきっかけとして

 もう一度、この本の評価に戻る。

 上田自身のスペックは、注意深く見るとなかなかスゴい。

 40歳くらいまでは年収が1000万円あった時期も一定ある。

 さらに、子どもがいない。つまりその分だけ「コスト」がかからない。

 しかも家を1軒持っていて、さらに老後にもう1軒買おうという野望まで持っているのである。


 タイトルに惹かれた人は、自営業って一体老後どうしてんだ? 国民年金だけで食っていけんのか? ということに興味を持って買ったに違いない(それは俺だが)。つまり「ルポ」を期待しているのである。

 ただ、p.68に

雑誌の「貧困老後」の特集をペラリとめくるだけで、悲惨な自営業のサンプルがたくさん。

とあるように、このテの話はもうけっこう知られているのだろう。

 「『なんとかならなかった自営業者』の例は事欠かない」(p.69)、つまりこうした層は生活保護を受けているのだろう。上田は、そのことを自分が今さら書くこともないだろうとふんだのだ。

 かわりに「備えてなかったのになんとかなかったラッキーな例」を探そうとしたが、「かなり少なかった」(同前)という。その希少な一つが「佐竹さん」なのである。

 そのために、自営業の老後についてのルポの側面と、「こうすればいい」というハウツー本の側面が、混在した本になったようである。そういう事情を知ってみれば、まあこういう作りになるのかなと思わないでもない。


 ある意味、中途半端な本である。


 だけど、それがいい

 いろいろツッコミを入れながら読む本だと思う。

 ツッコミを入れる中で、自分の老後の蓄えについて、あれこれ考えを巡らせる、そういうきっかけにすべき本なのだ。

 最初にも述べたように、ぼくはこの本をきっかけにして、老後資金について書かれたいくつかの本を手にすることになった。広がりの起点になったのである。


 さて、そういう「広がり」を得て、まだ書きたいことがあるんだけど、それはこの書評記事ではやめておこう。

 書きたいこととは、老後に「働く」ということの是非についてだ。

 この問題は、大江英樹・井戸美枝『定年男子 定年女子 45歳から始める「金持ち老後」入門』(日経BP社)について書いた記事を別に作りたいので、そこで書くつもりである。いや、書かないかもしれんけど。

*1:厳密にいうと「めざす」とはどこにも書かれていない。

*2:一応、「短期の収支を出してみる」という手順は書いてあるのだが、この点がキモだということを明示していないのである。

*3:まあ、ざっくりいうとね。例外は公的年金にも、民間の保険にもある。

2017-04-17 空襲のない日常 『この世界の片隅に』と朝鮮半島の危機

空襲のない日常――『この世界の片隅に』と朝鮮半島の危機


 米朝間の戦争を強く危惧する。

 いろんなことはこの間あるけども、これほど重大な政治問題はない。

 北朝鮮への事実上の出撃拠点となる在日米軍の基地があり、アメリカとの軍事同盟国ともいうべき日本が、ミサイルテロ大量破壊兵器の標的となることを恐れる。

 大げさだとか、そんな段階じゃないだろとか、いろいろ言われようとも、ぼくはそう叫ばざるを得ない。

 自分を含めた日本に住む人間が死ぬかもしれない、ということで、ぼくの危惧が高まっていることは明らかだ。シリアで毒ガスやミサイルによって人が死んできたことも確かに重大だったが、今ぼくの中で「やばい」という感情が高まっているのは、「日本に住む人間の犠牲」の可能性が高まっているからだということは率直に認めなければならない。


北朝鮮を攻撃すればソウルで死者100万人以上 | BUSINESS INSIDER JAPAN 北朝鮮を攻撃すればソウルで死者100万人以上 | BUSINESS INSIDER JAPAN


 主権者である日本国民、その一人として、何をしなければならないか。

 米朝それぞれの政府に働きかけるという手段はあるとは思うが、日本政府に働きかけることだ。そんなキレイごと、一人で何ができる、と言われるだろうが。

 具体的には、米朝それぞれに対して決して軍事対応をしないように日本政府に働きかけさせることである。米朝どちらが悪かろうと、とりわけこの間の北朝鮮の核開発やミサイル発射がどう悪かろうと、そのこととは区別して、軍事対応をやめるように求めるべきである。

 わが主権国家を動かすということが、日本における政治的メンバー=国民・公民・市民としての仕事だろう。

 現在安倍政権は、アメリカ軍事圧力に支持を与えている。

 こういうことは本当に恐ろしい。

 やめろ

 「そんなのは北朝鮮の脅しに屈服することだ。対話圧力には軍事圧力も入るのだ」と言われるかもしれないが、そういう勇ましい「正論」をかざした挙句に軍事的な犠牲を引き受ける覚悟はぼくにはない。どんな犠牲があるか、そこにどういう責任が生じるかを考えずに「勇ましい主戦論」を唱えることは軍事的な犠牲の恐ろしさを知らない、真の「平和ボケではなかろうか。


請願でモノを言おう

 もっと具体的に言えば、請願法に基づく請願を、内閣総理大臣に対してすることができる。


 わずか6条から成るだけのこの法律

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO013.html

 

 「請願は、請願者の氏名(法人の場合はその名称)及び住所(住所のない場合は居所)を記載し、文書でこれをしなければならない」(第2条)、「請願書は、請願の事項を所管する官公署にこれを提出しなければならない」「請願の事項を所管する官公署が明らかでないときは、請願書は、これを内閣に提出することができる」(第3条)。

 ほぼこれだけだ。

 名前と住所を書いて、請願事項を書いた書面を、内閣に送れば、それで請願法に基づく請願となる。間違ったところに送っても「請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは、その官公署は、請願者に正当な官公署を指示し、又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない」(第4条)とあるように、届けるべき部署に届けてくれる。

 そして送られた側は、「受理し誠実に処理しなければならない」(第5条)。


 日本政府として米朝政府に対して軍事対応をやめるように求めること。アメリカ軍事対応を支持・理解しないこと――これを請願すべきだ。


この世界の片隅に』を観た一人として

 『この世界の片隅に』を観て、観た人が思ったことはいろいろあるだろう。

 だけど、空襲という現実をくり返してはいけない、という問題を多くの人はどう考えているのだろうか。そんなことは微塵も感じなかっただろうか。日本に空襲が起きる、日本が戦争に巻き込まれる、という現実は、自分とは関係のない、ただの涙を消費する「お話」だったのだろうか。

 ぼくはオタクであると同時に、コミュニストである。

 虚構を見てわくわくした感覚と、一見融通がきかなそうな、つまらない現実は、『この世界の片隅に』を見ていようがいまいが、地続きだ。コミュニストとしては、戦争という現実を阻止するために、政府に働きかける。右派には右派選択があるかもしれないが、それとは別の次元にある人たち、つまりあの物語を見て、この事態が迫っていることについて、何もしないというのは、一体どういうことなのだろう。そのことに怒っているというのではなく、不思議なのである。

 何かをしてはどうだろうか。


日米安保条約は極めてリスクが高い、不要なものである

 具体的に今すぐ何かをする、という問題とは別に、根本問題についても考える。

 日米安保条約によって米軍は日本を守るために存在するのではなく、極東(朝鮮半島や中台)および世界への米軍の出撃拠点になっている以上、日米安保条約を結んでいることはメリットではなく、ただのリスク、しかもきわめて重大なリスクであり、それは「今そこにある危機」になってしまっている。

 日本が不条理に着上陸侵攻されるわけでもない事態なのに、日米安保条約があることによって、日本が米軍の戦争に巻き込まれ、軍事攻撃を受けるリスクにさらされているからである。

 『この世界の片隅に』が今と「地続き」だと言われるが、「地続き」であった戦後に朝鮮戦争があった。

 朝鮮戦争の最中に日米安保条約は結ばれ、朝鮮戦争終結(休戦)の7年後に安保闘争安保条約改定反対闘争)があった。自民党政権が支持され続けた問題とは別に、当時安保条約批判が大きく、自民党でさえ結党時(1955年)に「駐留外国軍隊の撤退に備える」と綱領(政綱)に盛り込まざるを得なかったのは、その表れである。

 第二次世界大戦が終わって、日本がおびただしい被害を受けてから十数年ほどの間、「2度と戦争には巻き込まれたくない」という意識が日本国民には根強く、それを現実的に脅かしていたのが隣の朝鮮戦争であり、安保条約とその改定は「日本が戦争に巻き込まれるかもしれない」という現実的不安としてそこにあった。

 実際に、朝鮮戦争米軍占領下の日本国民の動員は行われた。国鉄や船員や看護師である。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2006/02/post_992.html

 そうした中で、「いやもう戦争に巻き込まれるのはこりごりですわ」と思うのは自然な感情である。

 「日本がアジアを侵略する」とかいうイメージではなく、戦争を起こす勢力のやることに「巻き込まれて」しまい、不条理な被害を被るというイメージ。それが事実かどうか別にして。それは第二次世界大戦の時と、朝鮮戦争の頃と連続している。


 横田の米軍基地には、国連旗が掲げられている。

 休戦状態にあるが、横田にいる「朝鮮国連軍」は事実上の米軍であり、形式の上では、いまなお北朝鮮と戦争をしている当事者の基地なのである。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/fa/page23_001541.html


 日本に自衛隊があることは、リスクではない。

 長年の政府憲法解釈(安倍政権以前)が「自衛隊個別的自衛権しか行使せず、必要最小限度の実力である」ということでいこうというなら、政府としては今後それでいいのではないか。「急迫不正の侵害があるかもしれず、そのための備えとして残しておきたい」という気持ちに応えるのは、至極まっとうなことだ。

 「日本に武力があること自体が問題だ」「今すぐ自衛隊を廃止せよ」という人はいるだろうが、そんな意見につきあう必要はない。

 他方で、日米安保条約にはほとんどリスクしかない。

 今回の危機でそのことがむき出しになってしまった。*1

 なぜ在日米軍基地を抱えて狙われるリスクを、ぼくらは甘受しないといけないのか。

 いらないだろ、こんなもの。

 『この世界の片隅に』を観たぼくとしては、「空襲のない日常」「空襲が突然忍び込んで来ない現実」を求めるなら、日米安保条約は第10条にのっとって整然と「終了を通告」すべきだと考える*2

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約

第十条

 この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。

 もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/jyoyaku.html

*1安保法制は、安保条約を直接の根拠にしたものではなく、日本がアメリカに対して従属的な同盟を組んでいる政治路線から生じたリスクだった。

*2:今、このタイミングで言うかどうかは別にして。

2017-03-31 PTAと公民館、戦後改革がめざしたもの 『公民館職員の仕事』

片野親義『公民館職員の仕事』



町内会に代わるものとしての公民館

 これは、書評というよりも覚書、メモである。

 片野親義『公民館職員の仕事 地域の未来づくりと公民館の役割』(ひとなる書房)に触発された面が大きいが、それから関連書をいくつか読んでいくうちに結びついたことを書き付けているからだ。

公職追放や町内会・部落会の解体にからんで、それに変〔ママ〕わるものとして期待された公民館(上田幸夫『公民館を創る』国土社、p.22、強調は引用者)

  • “そのためには命令一下、お上の言うことに動員されるような中央集権ではなく、特に教育は政治から独立して、地域ごとに住民自身が自治をして考えていく仕組みに変えよう。”

――戦後改革のアタマの中を大ざっぱにまとめるとこんな感じになる。


地域課題をみんなで学びながら解決するのが公民館

公民館職員の仕事―地域の未来づくりと公民館の役割 このとき、子どもたちの教育とは別に、大人たちも民主主義者として教育されねばならないと考えられた。

 そのかなめが成人教育=社会教育である。

 町内会のような、上意下達の行政の末端として国民を戦争に動員したシステムをあらため、住民が自分たちで勉強し、賢くなり、それで地域の問題を解決していくような「勉強+自治」のシステムが必要と思われた。

 それが公民館である。

 GHQ民間情報教育局のJ.M.ネルソン公民館構想を「民主主義の学校」「成人教育活動の地域拠点」「地方分権の手段」として支持した(上田p.32)。

 公民館委員会は全住民による公選制とされた(片野p.37)。

 公民館を日本の官僚側から構想した寺中作雄は「何故公民館を作る必要があるか」として(1)「民主主義を我がものとし、平和主義を身についた習性とする迄にわれわれ自身を訓練」するため、(2)「自発的に考え、自分で物事を判断するには先ず自らを教養し」なければならない、(3)「身についた民主主義的な方法によって、郷土に産業を興し、郷土の政治を立て直し、郷土の生活を豊かにする」ということをあげた(片野p.52-54)。

 この「寺中構想」を現代的に生かしたものとして、片野は、(1)社会教育法に流れる「学ぶ権利を保障する場」としての機能、(2)地域をつくる主体を形成する拠点、(3)運営や活動に住民参加・住民自治が貫かれ、豊かに発展しているかどうかという3つの基準を上げている(片野p.21-22)。


「上からの命令でホイホイと言いなりに動くバカ」をなくすこと

 つまり、戦前のような、「上からの命令でホイホイと言いなりに動くバカ」をなくすこと*1自分の頭で考え、自分たちで話し合って知恵を出し合い、決め、改善の行動を起こす「かしこい民主主義主体公民」をつくりだすことが、戦後改革のかなめだとされた。単に政治主体としてだけでなく、地域の産業を興していく(地域が豊かになっていく)さいにもこういう「かしこい公民」が役立つだろうと考えられたのである。

 その構想の中心に、成人教育があり、公民館があった。


 「上からの命令でホイホイと言いなりに動くバカ」とは、「戦争に行け」「これは公共の仕事なんだ」と言われて「はい」と不動の姿勢で答えて、実際に抵抗もせずに行ってしまう「バカ」である。

 自分の頭でモノを考えない「バカ」は、地域が貧しいことをどうしたらいいかも考えつかない。貧しいままである。だから大陸に新しい土地があるよ、開拓団に参加しませんかと言われたらそりゃいいやと言って出かけてしまう「バカ」であり、それが侵略につながるとも考えない「バカ」である。

 とにかくお上の言うことに従っておかないとダメだよ、みんなに合わせないとダメだよと考えてしまう「バカ」、自分の頭でモノを考えない「バカ」である。


 上の言うことに無条件で従う「バカ」であることをやめて、自分の頭で考えて行動する「かしこい公民」をたくさんつくりだすこと。これが戦後改革、とりわけ教育改革のポイントであった。


 ここでは、地域で分権的に話し合い、決めることはもちろん、そこに参加する一人ひとりが「学んでかしこくなること」が求められている。

日本国民にとって危機的なこの時期においては、成人教育は最高の重要性を持っている。というのは、民主主義国家は市民各人に多大の責任を課すからである。(村井実『全訳解説 アメリカ教育使節団報告書』講談社学術文庫p.132)


公民館教育委員会から首長部局に移そうとする動き

 こうした公民館構想は、戦後どうなったのか。

 地域ごとに異なる非常に複雑な展開をたどるのだが、あえて乱暴にまとめてみる。


 町内会は戦後、禁止、つまり公的制度として廃止されたのだが、名前を変えて実際には生き残り、占領が終わり復活する。地域の課題解決自治の機能は、再びこちらに移っていく。

 公民館では戦後から公民教育・成人教育としてさまざまな実践が取り組まれていくのであるが、おおむね「地域の住民サークルの集まり」という性格を強めていく。

 ただし、町内会も公民館も両者は近いところに居続けた。

 行政の側では、町内会を下請けにして、公民館をその基地として使いたがる「市町村長部局」の流れ(一般系)と、公民館社会教育の場として市町村長部局からは独立した、教育委員会の系列のままでいようという流れ(教育系)が対立する。この対立は、「上からの言いなりのバカ」をつくる流れと、「かしこい公民」を育てようという流れの対立の契機を含んでいる。

最近、公民館コミュニティづくりの拠点として首長部局の傘下に位置づけたいという行政サイドの短絡的で一方的な理論によって、首長部局への移管問題が各地で問題になっています。こうした動向にみられる最大の問題点は、行政当局が、住民が主体となって考える地域づくり行政サイドがとらえるコミュニティづくりの質を同一のものとしてとらえようとしていることです。

(片野p.205-206)

そもそも地域づくりは、行政の価値観にもとづいて政策として住民におろされるものではありません。行政が一定の問題提起をすることは必要だと思いますが、地域づくりは、そこに住んでいる住民が自分たちの価値観と問題意識にもとづいて学びあいながら創造していくものです。行政公民館を活用しながら政策として強制的におろしていくべきものではなく、行政の役割は、提案や支援のレベルを超えてはならないと思います。(片野p.206)

移管問題のもう一つの問題点は、公民館首長部局へ移管されることによって、社会教育機関としての機能が大きく後退するということです。……首長部局への移管は、公民館の命である学ぶ権利の保証や住民主体の学びの機能を奪ってしまうこと以外のなにものでもありません。そして、公民館行政から独立した社会教育機関としての独自性を失い、行政出先機関である一般施設に変貌していく可能性が増大することを意味しています。(同前)

こうした市町村の動向は、法律で定められている公民館市町村自体が消滅させることにつながりかねないことであり、国の法律に違反する行為であるといっても過言ではありません。(片野p.207)

 片野の名誉のために言っておけば、片野自身は、両者は本来対立すべきものではなく、話し合いを積み重ねることによって行政の提案と住民が主体となる地域づくりは一体化できると考えている。

 ただ、町内会で起きてきたことを見れば、ことはそう簡単ではない。行政は「提案」「対等なパートナー」という言い分のもとで、住民をコントロールしようとする。住民自身が学ぶという相当に主体的な決意がなければ、行政側に手玉に取られる。


公民館は無料か

 この本で他に印象に残った点。


 一つは、公民館の無料という問題。

ヒビコレ 公民館のジョーさん(1) (ジュールコミックス) かたおかみさおのコミック『ヒビコレ 公民館ジョーさん』を読んでいたら、公民館はなんで金を取るんだ、私らは税金を払っているのに、と「ゴネる」住民が登場した。主人公の「ジョー」は、それを笑ってかわす。

 かたおかは明らかにこうした「無料化」の主張が住民エゴだという批判観点を持っている。

 公民館で使用料をとる流れは昔からのものではなく、1990年代から2000年ごろにかけて急速に広がった、新しいトレンドである。

 本書=片野の主張は、無料が原則、というものだ。

当初から義務教育としての小中学校とならぶ、学ぶ権利を保障するための教育機関として構想されているということです。人間の権利が保障されるという行為は、無償でなければなりません。(片野p.43)

 片野は、公民館は単なる「公共施設」=ハコではなく「教育機関」であるという。例えば図書館図書館法で「施設」とされるが、同時に社会教育法では「社会教育のための機関」とされている。その根拠1946年の文部次官通牒「公民館の設置運営について」に求める。

公民館は、単なる「施設」ではなく「機関」として位置づけられています。一定の目的を実現するための組織体として位置づけられているのです。(片野p.37)

 つまり、小中学校や図書館のような「教育機関」であり、それは無料であるべきだろう、ということなのだ。

 この関連で、本書において初めて知ったのだが、同じ社会教育機関である博物館動物園も含む)は博物館法23条で

公立博物館は、入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。(博物館法23条)

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26HO285.html

と定められていて、無料が原則とされている。

 にもかかわらず、例えば福岡市では、例えば博物館一般で200円、特別展示で1500円とっている。動物園は600円である。

 23条には但し書きがあり「但し、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる」としている。

 だが、例えば、福岡市動物園入園料を400→600円に値上げし、その理由について市議会で答弁しているのだが「動植物園につきましては、リニューアルなどによる魅力向上や来園者の利便性の確保に取り組むとともに、入園料の適正な改定を行ってまいります」(2016年3月3日市長答弁)と述べているだけで、「維持運営のためにやむを得ない事情」とはとても言えない。

 つーか、この市長答弁は、あまりに値上げ理由として軽い。

 博物館法23条「入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない」「博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる」をみじんも意識していないだろ!


公民館で政治や宗教営利活動はダメか

 本書で印象に残った二つ目は、社会教育法23条の解釈。

 「公民館では営利宗教、政治に関係する催しはダメ」と言われて、本気でそう思っている人たちは多い。利用者だけでなく、公民館を運営している側も。

 23条にはこうある。

第二十三条  公民館は、次の行為を行つてはならない。

一  もつぱら営利を目的として事業を行い、特定の営利事務に公民館の名称を利用させその他営利事業を援助すること。

二  特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること。

2  市町村の設置する公民館は、特定の宗教を支持し、又は特定の教派、宗派若しくは教団を支援してはならない。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24HO207.html

 例えば「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と詠んだ俳句の月報への掲載をさいたま市三橋公民館が拒否した事件が起きたり、公民館の駐車場で「政治的ステッカーを外せ」という事件が起きたりしている。



 しかし片野は社会教育法23条を引いて次のように主張する。

どこから読んでも、そんなに難しいことが書いてある条文ではありません。それなのにどうして公民館運営にとって問題となる条文となってしまうのでしょうか。それは、この条文の「公民館は、次の行為を行なってはならない」という表現に、勝手に「で」をつけ加えて「公民館では、次の行為を行なってはならない」と解釈する市町村公民館があるからだと思います。条文の表現どおりに「公民館は」と解釈すると、公民館自体が行なってはならない行為という理解になります。公民館自体が守らなければならない条文ということになります。ところが条文に「で」をつけ加えて「公民館では」として解釈すると、公民館で活動を行っている利用者が行ってはならない行為という理解になってしまいます。(片野p.94-95)

社会教育行政読本-「協働」時代の道しるべ- 片野は、公民館が一党一派に支配されない戒めとしてこういう条文が入ったのであって、政治や宗教についても、一党一派に偏しなければ問題がないとする。

 そして、それは片野の思い込みではないとする根拠として、最近文部科学省関係者の研究会が出した解説書(社会教育行政研究会編『社会教育行政読本 ―「協働」時代の道しるべ―』第一法規、2013)の中でQ&A方式でかなり認められていることを紹介している。

 一つだけ紹介しよう。「ええ、これもいいの!?」というものだけ。

Q 選挙候補者陣営から、後援会への加入を呼びかけるチラシを公民館に置きたいとの申し出がありました。許可してよいでしょうか。

A 全ての候補者を公平に取り扱うことが可能であれば、特定の候補者後援会加入を呼びかけるチラシをおくことが、直ちに本規定に違反するとは言えません。

 ぼくが住んでいた地域(町内会長時代に吊し上げをくらった地域)にある公民館は、ある保守系政治家議員ではなく市議会議員候補者)の後援会入会チラシだけをおいていた。これを地元の人が問題にしたところ、見えにくいところに下げて、なおも置き続けていた。

 本来、「撤去せよ」というのではなく、公平に全ての候補者を置け、そうして市議会議員選挙への関心を高めよ、と要求すべきであった。


 このQ&Aを見ると宗教団体の利用、政党政治家議員ではない)の市政報告会、民間営利事業者の利用許可なども、一定の条件下で許可すべきだとしている。

 『ヒビコレ』では有名なテレビアドバイザーを呼びたいという住民の要望に対して、主人公が「ここは非営利の会合にしか貸せないの」とやはり決然と言うのである。

 これは完全に誤りである。

 もともと教育基本法では第14条「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」、同15条「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」とされていて、利用者=国民の政治教育や宗教教育を禁じるどころか、ある意味、「奨励」しているのである。

 社会教育機関たる公民館がこれを抑圧するのはあきらかにおかしい。


「映画会」「シャンソン」「語学講座」は公民館で本来取り組むべき事業ではない!?

 三つめに印象に残ったのは、「公民館として本来取り組むべき事業とは何か」という問題提起。これが一番驚いた。

 片野は、24の事業を例示して、公民館関係者を前にした講演で「本来、公民館で取りくむべき事業かどうか」を考えてもらったという。公民館主催の事業についてである。

 片野の考えを聞いた後、参加者はなんと23の事業に×をつけた。*2

 ×がついた事業を見てみる。

事業名対象内容
暮らしに役立つ講座1一般成人魚料理
ハングル語教室一般成人ハングル語
夏休み子ども公民館小学生映画会
ライフセミナー一般成人シャンソン
歴史講座一般成人歴史講座
公民館学級1一般成人児童虐待

 えっ……(絶句)

 これみんな×!?

 なぜか。

公民館は、学びあい、交流しあい、連帯しあうことによって、地域づくり主体を形成する拠点として構想されました。従って、公民館が主催する事業は、地域づくりや生活課題・地域課題に関係する内容のものが基本とされなければなりません。(片野p.111)

 地域課題の解決、地域の主体づくりに結びつかない「学び」、個人の「学び」だけを支援するものは、本来公民館のやることではない、それはカルチャースクールでやってくれ、というわけである。

 すごくない?

 まあ、片野は、あえて極端なことを言って、公民館というものの本来性を明らかにしようとしているのだろう。

 一応、本書のこの箇所でも、“趣味活動であってもそこから住民の交流が広がり、それが地域主体にづくりにつながるじゃん!”という荒井容子の主張を紹介している。

 

公費で運営される社会教育施設の場合、個人の趣味的な学習文化活動をなぜ公費で援助しなければならないのかという批判がそこに重なってくることも容易に想像できるだろう

という荒井と小林繁の主張がここで紹介されている。

 地域を良くしようとして市政変革などの政治課題にとりくんでいるサヨ団体をぼくは知っているし、参加したりもしている。そういう団体が往々にして使用に難癖をつけられている。「あんたら、この前、交差点のところで拡声器を使って『年金改悪反対』とか政治的な宣伝をしとっただろう。そんなところに貸す訳にはいかん」などと公民館館長が言っていたのを聞いたことがある。ふざけるな。

 他方で、俳句や詩吟などといった地元住民らの「非政治的文化サークル」がもみ手で参加を奨励されている。

 しかし、逆なのだ。

 


社会教育としてのPTA

 「上から言われることに言いなりになって従うバカ」を改造し、「自分の頭でものを考えるかしこい公民」を育てることが戦後教育改革の考え方だった、と述べてきた。

 そのかなめの一つが社会教育=成人教育であった。

 地域における公民館はその拠点である。

 もう一つ戦後改革の社会教育=成人教育として構想されていたのがPTAである。

 本書にPTAのことは書かれていないが、本書を読んでPTAのことに思いがめぐった。


 日本の戦後教育の原点となった「アメリカ教育使節団報告書」には、成人教育の一環としてPTA活動が出てくるのは、よく知られた事実である。

 あえてエッジをつけた言い方をするが、PTAは、学校後援的組織とか児童福祉実践団体とか、そういう形で構想されたのではなく、まず何よりも成人教育団体、社会教育団体として考えられた。

 つまり、父母(と教師)自身が学んでかしこくなることが構想されたのである。上の言うとおりに子ども軍国主義を教え込み、戦争に送り出す「バカ」親、「バカ」教師であってはならず、まず父母と教師を「かしこい公民」にしようとした。それがPTAという「学びの場」だったのである。

 愛知県西尾市の『西尾市史』の「現代」の巻を読んでいて「へえ」と思ったことがある。

 同巻は「アメリカ教育使節団報告書」を引用し、「成人教育」の項目で「PTA活動」が紹介されていることについて、わざわざこう述べている。

PTA活動が成人教育の一環としてとらえられていることに注目しなくてはならない。(『西尾市史 現代』p.375)

 しかも、同巻は続いて文部省『学制百年史』を引用しながら、その文部省『学制百年史』を次のように批判するのだ。

PTAは父母と教員が協力して、家庭と学校と社会における児童青少年の幸福な成長を図ることを目的とした団体である」(文部省『学制百年史』)というのはこの視点が欠落している。(同前、強調は引用者)

 「この視点」とは、むろん「PTA活動が成人教育の一環」であるという視点である(成人教育=社会教育)。

 父母と教員が「学んでかしこい公民になる」ことこそが、戦後改革の眼目なのだ。そこを抜かして、「子どもの幸せのために活動する」というだけでは、「子どもの幸せ」が一体何なのかわからない。上から言われたことを「子どもの幸せ」だと信じて活動してしまう「バカ」のままであれば、また再び子どもたちを戦争に送り出してしまわないとも限らない。


 PTAは、こんにちでも、公式の文書においてさえしつこいくらいに自主独立の団体であることがうたわれている。

 平成28年度版の福岡市PTA協議会・福岡市教育委員会による『歩み続けるPTA よりよい活動のために』という手引書が手元にある。その冒頭には、PTAの3つの性格付けが書かれている。

  • 民主的自主独立の団体である。
  • 学校の後援をする団体ではない。
  • 教育の事業を行う、社会教育関係団体である。

(前掲『歩み続けるPTA』p.1)

 余談だが、うちの娘が通う小学校のPTA事業計画には「本市同和教育の基本方針に従い」という一文が入り、規約に「校長」と「担任教師」という公職者の役割が位置付けられている。いわば行政方針に従属し、学校という公的機関の役職者を組織と規約に組み込んでしまっているのだ。すでに「自主独立」さえ前提として存在していないのである。


 さて、こうしてみると、上から言われたことを鵜呑みする「バカ」ではなく、自分の頭でモノを考える「かしこい公民」を育てようとしたはずのPTAはどうなったであろうか。

 そのようにきちんと機能して、人権意識を発揮して自主的に活動しているPTAもある。

 他方で、同調圧力によってひたすら自分で考えることを許されず、機械のように学校後援の活動をこなさなければならないというPTAもあるだろう。ぼくらの目の前には、むしろこういうPTAの悪弊が目立ってしょうがない。戦後改革が目指したものと反対物に転化してはいないだろうか。

*1:あくまでぼくの考えた戦後改革のイメージであって、ぼく自身の主張じゃないから。

*2:「この表だけでは正確に評価できない」とことわっているが。

2017-03-17 実録からの逸脱 『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』

山本直樹『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』



レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(1) (イブニングコミックス) 連合赤軍事件をモデルにした実録『レッド』は、第二部も大詰めである。

山本直樹『レッド』1巻 - 紙屋研究所 山本直樹『レッド』1巻 - 紙屋研究所

 最初の書評でも書いたが、『レッド』は実録に徹している。どんな小さなセリフやしぐさも手記や記録に根拠を求めている。

 追い詰められた集団が狂気の暴走を続け、密室的な内部で凄惨な暴力をふるう「興奮」は、もともと山本が『ビリーバーズ』で虚構として描こうとして果たせなかったものだ。

 虚構を脱して愚直なまでにドキュメンタリー手法に徹したのが『レッド』である。

 山本の創作史的には、(ぼくに言わせてもらえば)『ビリーバーズ』の破産の上に、築かれたのが『レッド』なのだ。

山本直樹『ビリーバーズ』 - 紙屋研究所 山本直樹『ビリーバーズ』 - 紙屋研究所

 さっき(2017年3月16日)ぼくがNHK浦沢直樹の漫勉」で山本直樹の特集を見たとき、『レッド』を軸に作画の解説がされていたのだが、山本のタッチを“どこか突き放したようなタッチ”だという趣旨に解説していた。

 しかしそれは山本作品に共通のものというより、山本作品の中でもまさに『レッド』の手法である。

 『あさってDance』にせよ『ありがとう』にせよ『ビリーバーズ』にせよ、どこかけれん味があるのがむしろ山本の特徴ではないか。

 茶化し。ニヒル。大げさ。諧謔。そういう演出を以って閉鎖集団の狂気を描こうとしたが、その狂気の(好奇心的な意味で)一番のスピリットを取り出すことはできず、一切の主観を交えずに(実際にはそんなことはできないが)客観的に描くことでそのエグさが描けるのだと判断したに違いない。


 そういう意味で、『レッド』は第二部にあたる『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』に至るまで、ストイックなまでに手記や記録に依存して描かれている。エロもほぼない。


 山本的な好奇心から見て、連合赤軍事件の中で一番「興味」を引くのは、やはり「総括」の名によるリンチであろうが、その中でも「死刑」と称される殺し方であろう。

 ぼくも以前の記事の中で書いたが、このくだりは、記録を読んでいても本当に「不思議」で、例えばもはや殺されることがほぼ決定されている被害者は尋問される中でこんな問答をする。

森氏は追及を再開した。

「組織を乗っ取ったら、どうするつもりだったんや」

「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」

「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」

商社から金を取るつもりだった」

「いくら取るつもりだった」

「数千万円取るつもりだった」……

「そんなに金をとってどうするつもりだったんや」

「宮殿をつくって、女を沢山はべらせて王様のような生活をするつもりだった」

「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」

「そうしたことはないが、いろいろな女性同志と寝ることを夢想する」

「誰と寝ることを夢想する?」

「大槻さんです」(永田洋子『十六の墓標』下p.278〜279)

レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(4) (イブニングコミックス) 明らかに異常な答えである。

 しかし、そのまま「死刑」は執行される。驚くべき残酷な方法で。

 これは山本『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』3巻で描かれる。

 ということは、この第二部の3巻こそ山本の一番描きたいものではなかったかと思っていた。


 ところが4巻を読んで奇妙なものを見つけた。

 白根(大槻節子がモデル)が今度は「総括」の対象となり、暴力による衰弱の後、厳寒の中で柱に縛られている中で、意識が遠のいていくシーンがある。

 そこで、なんと、白根の意識のな流れのようなものが描かれるのである。

足の感覚がない

いつからこうしているんだっけ?

総括?

私 死ぬの?

ここどこ?

私 死ぬのかな

死にたくない

革命のための死?

いやだ

死にたくない

(山本『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』kindle4巻、講談社、45/195)

 ぼくの調査不足かもしれないが、これは手記や記録にはないものではないか。

 そもそも死にゆくものの意識など記録に残しようがない。

 これは、山本が『レッド』において守ってきたドキュメンタリーに徹するという手法を逸脱してしまう決定的な瞬間ではないのか。


 いやぁ、「実はこんな記録があるんですよ」とか「他でも記録にないセリフや展開はすでにいっぱい使ってますよ」ということであれば、ぼくのとんだ赤っ恥であるけども、あえてそうではないということで話を進めていく。


 もしそうだとすれば、これは山本が矩を超えてまでその叫びを描きたかったという瞬間であり、作者山本の気持ちの絶頂を紙に落とした一瞬ということになる。


 ぼくは『レッド』1巻が描かれたときに、

 個人的には、大槻(『レッド』では「白根」)の造形に関心が高い。『レッド』では妊娠したまま殺害された金子(『レッド』では「宮浦」)の描写が目立っているが、大槻=白根のように詩を書いたり、恋愛もし、元恋人の殺害に加担したことを耐えきれないほどのまとな精神をもちながらも、やはり活動家として指示を愚直にこなし、殺害に加担しつづけ、そしてやがて殺されていく悲劇性の高い人物にこそもっと焦点をあてて描いてほしい気持ちがある。大槻=白根の描写は1巻では数えるほどしかないが、ぼくはその数コマをまじまじと見てしまっている。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/red.html

と記した。

 まさに、山本『レッド』は白根の死を作品中、最も逸脱したフォーカスを当てたのである。

 閉鎖集団としての狂気と、常識的な人間感覚が交差する一点が、この白根の死であったということができる。