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紙屋研究所


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2017-10-18 「助け合い」イデオロギー批判 『助け合いたい』

さいきまこ『助け合いたい 老後破綻の親、過労死ラインの子』


助け合いたい~老後破綻の親、過労死ラインの子~(書籍扱いコミックス) 『助け合いたい』とはまた直截なタイトルではないかと思ったのだが、読み終えてみて、むしろこれは「助け合う」という言葉の批判的な吟味、「助け合い」イデオロギー批判ではないのか、と思った。

 作者・さいきまこがどう意図したかは知らないが。


 「老後破綻の親、過労死ラインの子」というサブタイトルからもわかるように、ぼくのような中年層、そしてその親たちの世代が、一つのつまずきでドミノが倒れるように貧困スパイラルに陥りかねない生きづらさを描いているのだが、物語の軸にあるのは、その環境をサバイバルする際に、「助け合う」という思想・考えをよくよく考えて見なければならない、ということなのだ。


 舞台となる漆原家は団地(分譲)住まいで、二人の子ども(娘・息子)はすでに独立し、高齢の夫婦二人暮らしである。

 夫が倒れて老々介護が始まる。この瞬間から、この家族は、子どもたちも含めて「いい人」ばかりで、お互いを「助け合おう」と真剣に、そして懸命にがんばるのである。いや、それはもう健気なほどに「助け合おう」という精神が横溢している。

 例えば、これは物語の序盤に出てくる、母親・春子の言葉である(「諒」は離婚・リストラで実家に戻ってきた息子の名前)。

困っている時に支えあってこその

家族だもの

私とお父さんだって

諒のおかげで

助けられているのよ

大丈夫

私たちは

大丈夫

助け合える

家族がいる

支え合って

生きていける……

 春子の穏やかな顔のアップ。

 家族が支え合うという助け合いが、物語の序盤で登場人物たちによって肯定的に語られるのだ。


 本作当初に登場する「助け合い」とは、家族が「助け合いたい」という自然な気持ちから、ひたむきにがんばる、非常に素朴な「助け合い」である。

 春子は夫・幸雄の介護をし、直美も内緒でパートを増やしながら金銭援助を続ける。諒も懸命に春子をサポートして幸雄の介護をする。そして、幸雄は希死念慮にとりつかれそうになっている息子・諒を何くれとなく心配しつつ、力になれない我が身を嘆く。

そうだ

せめて

笑っていよう

そうすれば

家族みんな

元気になってくれる

笑っていれば

きっと……

 前向きな気持ちで家族がおのおの努力して「助け合おう」とするのである。


 しかし、夫の死、妻の病気をきっかけに、家は売り払われ、息子は「自死」の一歩手前に陥る。

 息子を救いたいという一念で医療ソーシャルワーカー(MSW)に教えられた生活保護の窓口に向かうのだが、あれこれと詮索された上に

家族なんですから

お互いに助け合って

頑張らないと

と冷たく、そして体良く申請を拒まれる。

ずっと

助け合ってきた

頑張ってきた

それでも

どうしようもなくて

ここに来たのに

どんなに助け合っても

頑張っても

気持ちだけでは

どうにも

ならないのに――

 生活保護窓口での春子の絶望の内語である。

 ここで初めて、「助け合う」「そのためにみんなが前向きに頑張る」という、物語当初から漆原家が歩んできた考えの虚構性が暴露され、批判される。


 そして、漆原家が一息つけるようになるのは、生活保護が受けられるようになってからである。MSWの小田が再び登場し、生活保護を再度勧めたのだ。

 まぶたを半分閉じたような小田のグラフィックは、どちらかとえいば眠たそうな、ある種の冷徹さの印象を与える。そのクールさのまま、彼女が語るのは、生活保護制度を理解しない窓口対応の批判であり、さらに「助け合い」イデオロギーのラディカルな批判へと進む。

分け合えば

喜びは倍に

苦しみは半分に

なるというけど

困窮という苦しみは

分け合うと

倍加するって

だからお伝え

したいんです

家族を大切に思うなら

お金や介護以外にも

できることはある

それを大切にすれば

いいんじゃ

ありませんか

 そして、直美のこの言葉。

それにね

わかったの

お金の援助って

人の心を壊す

ことがあるんだ

人の施しで

暮らしてたら

その人の顔色を窺って

生きるしかなくて

プライドも自立心も壊れちゃうんだ

お母さんは

生活保護

受けることで

自分を取り戻して

生きたいんだよ

 金銭援助は人の心を壊す――これは相当に踏み込んだ「扶養義務」イデオロギーへの斬り込みである。そして権利としての社会保障生活保護と、「施し」としての「扶養義務」を並べることで同じ金銭の給付でも、前者がプライドを守り、後者がそれを破壊することを鮮やかに浮き立たせる。


 「家族を大切に思うならお金や介護以外にもできることはある。それを大切にすればいいんじゃありませんか」という小田の言葉にある「お金や介護以外にもできること」とは、結論である。

 その結論とは

互いに思い合っていれば

家族はそれで

十分なのかも

しれないね……

である。

 この言葉・結論の急進性は、すさまじい。

 この結論の直前に、諒が障害認定を受け、具体的に自分が誰かの「役に立たない」と悩み、しかしそれでいいのだという受容をする。

 金銭援助は人の心を壊すこともある、あるいは、助け合おうとする頑張りだけではどうにもならない――こうした一連の展開の後に来る「互いに思い合っていれば家族はそれで十分」という言葉は、家族そのものが助け合って支え合うには、限界があるという冷厳な事実の承認ではないのか。

 では誰が支えるのか?

 それは、この物語の家族が生活保護によって支えられたことを見れば明らかである。

 物質的で具体的な支えは、社会保障による以外にないのだ。

 「どんなに助け合っても頑張っても気持ちだけではどうにもならないのに」という前半の言葉と、「互いに思い合っていれば家族はそれで十分なのかもしれない」という後半の結論には、一見して矛盾がある

 一体どっちなんだ?

 しかし、それは矛盾ではない。それを解く鍵は、真ん中に社会保障「どん」と存在することなのだ。

 「助け合いたい」という気持ちに真ん中に太い社会保障という公的な大黒柱がなければ、構成員みんなが「がんばり地獄」に陥っていく。

 この作品がタイトルに打った「助け合いたい」とは、「助け合いたい」という気持ちや個別家族の頑張りだけではどうにもならないという批判であり、そこにしっかりした社会保障があってこそこの気持ちが生きるという主張なのだ。


 自民党憲法草案は24条で「家族は、互いに助け合わなければならない」とうたい、安倍政権は「自助自立を第一とし、共助と公助を組み合わせる」(2013年施政方針演説)という社会保障観を打ち出し、史上最悪幅の生活保護費切り下げを断行した。社会保障という公助をまず大きな基本にすえず、むしろそこを破壊して「助け合い」をさせる政治は、漆原一家のような「がんばり地獄」を全国で引き起こしている。*1


 さいきまこは、生活保護バッシングに抗して『陽のあたる家 生活保護に支えられて』を描き、貧困=自己責任論と対決して『神様の背中 貧困の中の子どもたち』を描いた。政治世論の最も風当たりの強い部分に、あえて立ち向かう、勇敢な漫画家である。今回も、「助け合い」という一見美風に思える思想に切り込み、それを批判的に再生させた。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150719/1437274305

 まもなく総選挙投票日であるが、投票前に読んでおきたい作品である。

*1:ちなみに、安倍が「貧困率が改善した」と言っているが、これは中間層が貧しくなったために貧困線(中央値の半分のライン)が下がり、下から10%の人々の可処分所得は減っているにもかかわらず、「貧困」定義から外れてしまったのである。なるほど、確かに「相対的な貧困」は「改善」された。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-01-29/2017012903_01_1.html

2017-10-15 交渉しよう 『誰も教えてくれない大人の性の作法』

坂爪真吾・藤見里沙『誰も教えてくれない大人の性の作法』


誰も教えてくれない 大人の性の作法(メソッド) (光文社新書) 大人になってから性教育が必要だ、という話は、はるか昔、学生時代に山本直英や村瀬幸浩の本を読んだり、講演会を企画したりして、よく聞いたものである。

 本書『誰も教えてくれない大人の性の作法』(坂爪真吾・藤見里沙)を手にとってまずそのような印象を受けた。

 と思いきや、坂爪の本書「あとがき」を読むと、こうあるではないか!


 今回、私が性教育者の藤見さんにお声掛けして「大人のための性教育書を作る」という企画を立案した背景には、一つの裏目的がありました。

 その裏目的とは、性教育の「失われた20年」を取り戻すことです。

 今から20年前、1990年代半ばに女子高生援助交際社会問題原文ママ――引用者注〕した際には、山本直英氏や村瀬幸浩氏といった性教育界のレジェンドたちが、性教育理念に基づいて活発にメディアでの発言や出版を行い、青少年の性を帰省することの是非、性的自己決定権の在り方等について、鋭い問題提起を投げかけていました。(本書p.219、強調は引用者)

 しかし、現代は大人のための性教育が皆無の事態になっている、と坂爪は警告するのである。

 さらに、藤見もやはり「あとがき」で、自分が一橋大学の講座を受講し、そこで村瀬幸浩の薫陶を受けたことを書いている。


 ははあ、それでこの問題意識(特に坂爪の)に既視感があったのか、と思った。すなわち、大人こそ、性教育を学び直さねばならない、という問題意識である。

 ぼくが10代から20代の頃に、村瀬や山本の性教育の本を読んだ時は、むしろ初めて性教育そのものに触れて、しかもそれが従来学校で教えられてきたような単なる性器学ではなく*1、性=生だというテーゼを知り、深く感銘を受けた。

 しかし、40代の今、ぼくやぼくの周辺で切実化するのは、セックスレスとか、セックスのタイミングが合わないとか、不倫とか、そういう問題である。そのことをどう考えたらいいのか、という問題なのだ。


 不倫については、坂爪がすでに『はじめての不倫学』(光文社新書)という本を出していて、ぼくもそれを読んで感想を書いている。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150902/1441193508


 今回の本で印象深かったのは、むしろ藤見が書いている部分で、セックスレスやタイミングのズレのようなことにどう向き合うか、という話のところだった。

セックスレスは、お互いの合意の上でなら問題ではありませんが、どちらかがものすごく我慢をしているとすれば、問題です。(p.133)

 藤見は、ここで、どちらかが我慢していることは問題だと明快に規定する。それは性の問題に限らず、夫婦間でマイホームだの子育てだのでどちらかが「我慢」するという状況が起きているとすれば、それはコミュニケーション不全が起きていると考えるわけである。

私たちは性欲に関しては、どうにもならないものだからと思い込んで、互いに意に沿わない形なのに、コミュニケーションを取らずにやりすごすことが多すぎると思います。我慢させているとしたら、「今はこういう状況で、そんな気持ちになれなくて、ごめんね」と一言言うだけでも違うでしょう。(同前)

 あまり目新しくもないこと、常識的なことが書いてあるように思えるが、ぼくはセックスや性においては、このことを再確認することは本当に大事だと思う。もう少し先を読もう。

 藤見は自分の体験を話し、ある時期どうしてもしたくない・できない時期があったけども夫婦間でそういう話をすることに「抵抗があった」(p.134)という。夫も茶化したり、ごまかしたりしたそうである。そこを乗り越えて、藤見はきちんと話した。

すると「今なぜ応えられないか」だけでなく「どのような状態だったら応えられるか」という話もできるようになっていったのです。(同前)

お互いの希望が通らないとしても、それぞれの状況を確認しあって、「今は無理だけど、いつなら……」とか、「今、この程度なら大丈夫」といった妥協案を出していくことで、十分に、その都度の希望を叶えることは可能です。(p.135)

 これこれ。これですよ。

 妥協案を出し合ったり、いつならいいか、ということを確認したりする。つまり交渉するのである。

 交渉するというのは、性のこと、性欲やセックスのことを言い出せないといけないのだ。セックスしたいということを切実に語れなければならない。気恥ずかしさもあるし、断られた場合のプライドもある。本書にも出てくるが、理由も言われずに断られると、思い切って言っただけに人格を全否定されたようなショックを受ける場合がある。そのようなことが起きないためにも、理由を言うし、妥協案を示すし、そもそもオープンに語れないとまずいのである。


 そして「セルフプレジャー」、すなわち自慰の活用。

 藤見はご丁寧に心身のリフレッシュとか、その効能まで書いている。

 交渉・妥協・自慰を組み合わせることで、なんとかしのげるのではないか、というのが本書の提案である。

 このほかにも、夫婦が二人きりになる条件の確保や自慰の場所など、実践的で示唆に富むものが多かった。

 それでもモヤモヤは残るだろう。

 例えば、本書3章はよくある質問に坂爪と藤見が対談しながら答えていくのであるが、自分がしたくない時にパートナーから求められたらどうするのか、という問いに藤見はマスターベーションすればいいのでは、と言うのだが、坂爪は単に性欲を解消したいんじゃなくて性交欲を満たしたい時もあるんだよと反論したりする。

 決してスカッとする結論が出るわけではない。

 しかし、モヤモヤを残しながら、コミュニケーションの中で交渉をしていくしかない、というのが本書の核心であろう。


 「たかがセックスではないか」と思うかもしれないが、その「たかがセックス」をこじらせて、家庭のバランスが壊れそうになってしまう話が渡辺ペコ『1122』であった。そういえば本書には随所にマンガを中心とした虚構作品が例示として取り上げられるのも面白い。マンガが現実以上にリアルな、共通の教養として流通しているのである。


 坂爪の、非正規同士の結婚をモデル家族にしてみる、という提起も、重要だと思う*2。モデル家族を設定して、それに合わせて政治の制度設計を行う提案はすでに学者から出ているが、例えば「シングルマザーと二人の子育て」などが一番しんどい家族形態であり、このような家族が「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるよう、政治をそこから全て組み立て直してみるといい。


 左翼運動の中でも、もっとこういう話ができればなあ……と思う。

*1:と偉そうに書くけど、実は性器のことを全然知らないんだけどね。

*2:直接は宇野常寛の言葉として坂爪は紹介している。

2017-10-09 信号を守る日本人の方が2.3倍も歩行者事故が多いのは?

信号を守る日本人の方が2.3倍も歩行者事故が多いのは?


 いかなる車も通らないことがわかりきっている信号を守っているとか、アホなの?――という趣旨の記事が出ていた。

車が一台も通らない信号を守れと声高に叫ぶ人は何を守っているのだろう - 接客業はつらいよ! あけすけビッチかんどー日記!



 このブロガー=「かんどー」という人は、「危険がないと十分に判断できるなら法律は守らなくていい」と主張していることになる。

 だが、その「判断」には客観的な基準がないから、個々人の判断でどこまでも甘くなっていってしまう。

 例えば、労働基準法の「労働時間8時間」を10分超えたら、労働者が死んだり、健康が失われたりするわけではないだろう。

 法規制の多くがこういうものではないのか。

 それを踏み破ったからといって、ただちに個別ケースにおいて、そこに危険が現れるわけではない。

 法律客観的に線を引かなくてはならない。だから、「十分安全と個々人が判断できるなら法令は守らなくてよい」、というのはマズいのである。


 ただ、そんなことを言われても「かんどー」は釈然としないかもしれないよな。

 実際に、信号守っている国(日本)と全然守ってねー国(フランス)で歩行者の事故はどうなっているか、比較してみよう。


赤信号で横断歩道を渡った割合はフランスで41.9%、日本で2.1%と二国間で大きく異なっていた。男性や20〜30代が信号無視をする傾向が強かったという。(2017年2月15日付AFP

http://www.afpbb.com/articles/-/3117931

 在フランス大使館の公式サイトですらこの有様だ。

尚、当地では歩行者はまず信号を守らないと言っても過言ではありません。車の列が途切れると、赤信号でも平気で道路を渡り始めます。いつ歩行者が飛び出してきても対処できるように、市街地ではスピードを抑えて走行することは当然として、常に道路の両脇の歩行者にも気を配るようにしましょう。(強調は引用者)

http://www.fr.emb-japan.go.jp/jp/taizai/kotsu4.html

 それでいながら、歩行者の事故はどうなっているか。

 ちょっとデータがすぐに見つからないけど、例えば内閣府の2003年の国際比較データ。

http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h17kou_haku/genkyou/sankou02.html

f:id:kamiyakenkyujo:20171008230258j:image


 歩行中の交通事故死者数は、フランスは626人、日本は2739人。人口は日本の方が2倍だからそのぶんを差し引いても日本の方がフランスよりも歩行中の2.3倍も多い。


 「かんどー」はいうかもしれない。


 「ほら。ほらほらほらほらほらほらほらほら。ほらぁ! 結局、法規を形式的に愚直に守るより、ホントに車が来るかどうかをきっちり確かめている方が事故らないんじゃないの?


 うん、そう言いたくもなるよね。



 ただ、じゃあどんな年齢の人が死んでいるのかというと、日本では過半数高齢者。交通事故で死んでいる人の半分以上が年寄りというわけだ(フランスは2割)。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/6836.html

 さらに、その中でトップの死因が歩行中の事故で、約半数を占める。

http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h28kou_haku/gaiyo/features/feature02.html

f:id:kamiyakenkyujo:20171008230259j:image


 つまり、日本で歩いて死んでいる人の多くは高齢者



 高齢者自体が死にやすい(失礼)という状況もあるだろうが、高齢者の行動の問題点として専門家(蓮花一己・帝塚山大学・交通心理学)は次のような原因をあげている。

  • 信号や横断歩道のある交差点以外のところで横断する(交差点まで歩くのは面倒)
  • 突然、車道に飛び出す(先急ぎ傾向、目の前のことにすぐに反応する)
  • まっすぐ渡らない(斜め横断、横断後車道を歩くなど自分の都合で横断する)
  • 歩道橋の下を横断する(階段の登り降りは高齢者には負担)
  • 右からの車をやり過ごすと左からの車を確認せず横断する(渋滞している車間から飛び出す)
  • 車が近づいて来ているのに横断する(加齢による精神機能の低下で車のスピード、車との距離が正しく認識、判断できない)

(強調は引用者)

http://www.nspc.jp/senior/archives/2922/

 信号を守っていないというか、信号のあるところに来ねえ

 冒頭で紹介した日仏の比較研究の場所となった、信号のところにやって来ず、信号機の待っていないので、統計にカウントされていないのである。

 のびのび自由闊達に横断してハネられているわけだ。


 ということは。

 信号を守らないで「大丈夫だろう」と判断した結果、結局ハネられている、というのが日本の年寄りの実態だというわけである。その意味ではやはり愚直に法令遵守をさせる意味はある。

 しかし、フランスではそういう判断をして渡っていても日本ほど事故になっていないのだから、本当に自己責任の覚悟で渡れば実際に事故は起きにくいんじゃないのか? ということもまた言えそうである。


 うーん、記事書いてて、結論が全然スッキリしねーな。

2017-10-08 NOと言える私 『凪のお暇』

コナリミサト『凪のお暇』1



凪のお暇 1 (A.L.C. DX) 最近『たそがれたかこ』とか『傘寿まり子』とか『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』とか、自分の人生を見つめ直してリセットする解放感について描かれた話を好んで読んでいる。今回とりあげる『凪のお暇(いとま)』もその流れで読んでいる。


 『凪のお暇』の主人公、大島凪は28歳のOLだが、空気を読みまくり、自分を徹底的に抑圧してきた。職場にも、オトコにも、そして世間全般に。

 都合よく残業を押しつけられたり、一方的な「彼氏」に公表も結婚も迫れず性的奉仕だけをさせられたり。


 モノが言えない、というふうにまとめていいだろう。

空気

読んでこ

が自分の中の合言葉……というより呪文である。

 「空気読まなきゃ」でなく「空気 読んでこ(読んでいこう)」という呼びかけ調なのは、自分の中で自分が分裂しているからだろう。

 凪は、自分の日常に「なんだかなぁ」という違和感を覚えている。

 しかし、それを押し塞ぐかのように「空気 読んでこ」という呼びかけが入り、自分の本当に言いたかった不満や言い分を飲み込んでしまう。もう一人の自分――上位自我なのか、分裂した人格なのか、とにかくそういうやつだ。


 凪はある日、糸が切れたようにそれらをすべて捨ててしまう。職も、住居も、人間関係も。

 しかし、突然人間が根本からすべて変われるというわけではない。

 そうやって多くのものを断捨離した後でも、買い物をした小松菜の計算を間違えられていたのを言い出せない凪。

 そんな「どうでもいいこと」に、激しい逡巡を覚えながらも、思い切って言い出す。そうしてみたら、怖いと思っていたレジの人が平謝りになり、やはり怖いと思っていた買い物に来ていたおばさんたちも優しくフォローしてくれた。

 そんな「どうでもいいこと」をクリアしただけで、凪の見える風景は今までと違う。「嬉しい」というつぶやきの後に凪はこう思う。

さっき八百屋

起こった

出来事は

今までの

私だったら

絶対見れなかった

ものだ

 もちろん「そんなどうでもいいこと」をクリアした後には、仲良くなったとたんにモノを売りつけようとする「友だち」、支配欲の強い昔の「彼氏」、不親切極まる「役所」……と、ぼくでさえもなかなかそこはクリアできないだろうと思う壁の数々と対決する。


強く

出れないのは

この笑顔が

崩れる瞬間が

怖いから

 わかる

 読んだ空気を壊せないのは、人の役に立ちたいという気持ちを裏切りたくないせいだろうか。それとも、うまく断る技術がないせいだろうか。あるいは、自尊感情がなくて目の前のはかない人間関係にすがっていたいからだろうか。


 学校時代には、わけもわからず、とにかく生活と学習をする人間集団に放り込まれて、それが人生のすべてだと思わされるから、その人間関係の牢獄から精神的に脱出するのにとても苦労する(特に中学生時代)。

 しかし、そのもっとも危険な時期を脱して社会に出れば、そこは仕事という目的のために集う集団だから、本来こうした人間関係に悩まなくてもすむ空間のはずである。どんなに人間として好かないやつだろうが、仕事という共通目的に限定したゲゼルシャフトなら我慢できる……というタテマエのはずだけど、現実はそうもいかない。

 社会一般であっても、会社であっても、家族であっても、「モノが言えない」という状況にぼくらはとりかこまれる。


NOを言う自分と個人の尊厳

誰も教えてくれない 大人の性の作法(メソッド) (光文社新書) 坂爪真吾・藤見里沙『誰も教えてくれない大人の性の作法』(光文社新書)を読んでいて、藤見が更年期の女性への処方としてであるが、

まず、できないこと、やりたくないことに「NO」を言う。今まで我慢してきたことに、片っ端から「NO」というサインを出す。そして「NOを言う自分」「何かを嫌だな、と思う自分」にはいつでも「OK」を出してあげるようにしてください。私たちは、誰かにダメ出しをされる前に、勝手に「NO」を強いていることが意外と多いのです。(坂爪・藤見前掲書p.120)

と述べている箇所があり、本当にそうだなと深くうなずいた。

 この藤見の指摘は、NOを言うことそのものが自分を肯定し、自分の尊厳を守るほどの重大な問題だということを気づかせてくれる。

 凪が格闘し、つかみとろうとしているのは、まさにその「NOを出すこと」なのだ。


 いま立憲主義が話題になっているけども、よく言われるのは、立憲主義によってめざすべき究極の憲法価値はなんなのかと言えば、それは「個人の尊厳」だとされる。日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」こそがそれだというわけである。

個人の尊重」原理は、人権保障にとっての基底的原理であるというだけでなく、日本国憲法が採用するすべての価値の基底に置かれるべきとして理解しなくてはならない。(浦部法穂憲法学教室 全訂第2版』日本評論社、p.40)

日本国憲法のもっとも重要な規定はどこか」と聞かれれば、個人の尊重を定める13条こそが、他の憲法理念を貫く思想を示すものとして、真っ先に挙げられるべきでしょう。(伊藤真伊藤真日本一わかりやすい憲法入門』中経出版、p.68)

 町内会、PTA個人的に体験してきたけど、個人の尊厳は「NO」と言うこと、「NO」と言えるかどうかに現代ではかかっている、といっても過言ではない。

 言えないからそいつの責任、という話ではない。

 しかし、ブラック企業でも「NO」と言えるようなサポートやエンパワーをどうやって実現するのかが個人の尊厳を守るためには大事な条件になる。


モノを言う力

 モノを言う力、だとも言える。

 凪が、小松菜の勘定が間違っていますよ、とレジの人にモノを言う。

 凪が、ハローワークでぞんざいに自分が扱われていることに、勇気を持って「急いで欲しい」と告げる。

 そういうことが言えるかどうかだ。

 旧陸軍対馬部隊での生活を描いた大西巨人の小説『神聖喜劇』の中で、主人公・東堂太郎が、「モノを言う」シーンは実に多い。その一つひとつが今のぼくにとっての生きるモデル、憧れのようになっている。例えば、戦友たちが家から送られてくる服(毛糸の胴着など)を着たいと思いながらいつも諦めているのを東堂は見て、軍隊の内規(内務規定)を根拠にして着用を許すように上級者(上等兵)に進言する。こうした行動の一つひとつが、個人の尊厳を守ることなのだと思わずにはいられない。

 凪が「モノを言う」たびに、ぼくはそのことを思い出す。


 それは左翼組織の中であっても同じである。

 孤立した個人では無力だから、ぼくは組織に入った。

 しかし、入ったからといって、いつでも「空気を読んで」同調しているわけにはいかない。細かい点であっても、それが自分という個人の尊厳と衝突することはモノを言ったり、NOと言ったりしたい。そして、細かい点だけでなく、根本的な点について意見を述べることで「笑顔が崩れる瞬間」が訪れたとしても、自分に思うところがあれば、モノを言ったり、NOと言ったりしたい。

 そういう感覚にとらわれてきているのは、高校生以来のことだ。

 組織に出会う前に、個人の尊厳のことばかり考えていたあの時代に戻ったような奇妙な高揚感がある。

 といっても、それは組織体を捨てたり、単純に否定したりして、昔の「一匹狼」に戻ることではない。

 やはり個人では無力であるから、組織というものがなければならないし、組織の人たちと協力しあうことは絶対に必要になる。そうでなければまた個人の尊厳も輝かない。


 同じように、凪はただ孤立して強くなっていくのではなく、誰かに頼ることや、他人と協力することで、個人の尊厳を回復する必要があるはずだ。2巻以降、NOを言ったりやモノを言ったりするだけではない、依存したり協力したりする新しい凪が見られるのではないかと期待する。

 ただ、そうであるにしても、いま凪がきっぱりとNOを突きつけていること、モノを言っていることに、本当に、心の底から爽快感を覚えている。

2017-10-02 実家の耕耘機と「赤いトラクター」のこと 『トラクターの世界史』

藤原辰史『トラクターの世界史 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』


トラクターの世界史 - 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち (中公新書) あえて言おう。

 トラクターになんの興味もない。

 なんの興味もない男が、トラクターで思い浮かべたことは2つあった。


狭い耕地で活躍した歩行型トラクター=耕耘機のこと

 一つは、愛知のぼくの実家は農家であり、家の車庫には長い間、歩行型トラクターがあったということ。

 いや……実家では「耕耘機(こううんき)」と呼ばれていた。

 もうなくなって久しいが、記憶を頼りに画像検索してみたら、これが一番近いな。おそらくこれ。

 「クボタ耕うん機KR80」。


 これはトラクターなのだろうか?

 トラクターである。

 今回感想を書く藤原辰史『トラクター世界史』(中公新書)では、はじめにややくどくどと(しかしそのくどさが実は重要であるのだが)トラクターの定義*1が載っており、家にあった「耕耘機」はまさにトラクターなのである。そして、本書の後半に歩行型トラクターはくわしく日本での開発の歴史が紹介されている。


 トラクターで画像検索するとまず「乗用型トラクター」が出てくるように、トラクターといえばまずはブルドーザー、もしくは戦車をイメージさせる(本書を読むと実際に戦車に技術転用されたようだ)、人が乗る大きなタイプが思い出される。

 それに比べて、歩行型トラクターはまことに小さい。

 本書で日本のトラクター開発史を読む限りでは、この歩行型の開発が意味するところが実に大きい。

 そして(本書を読むとそう単純には言えないようだが)外国のように広大な土地を耕すのではなく、日本の零細な耕地を耕すものとして、この歩行型は似合っているような気がした。


「赤いトラクター

 思い浮かべたことのもう一つは、小林旭の歌う「赤いトラクター」。

 事実上ヤンマーのCMソングなのに、企業名や製品名の直截な表現が出てこない。

 あれだよ、昔のアニソンはヒーローの名前とかを歌詞の中に織り込んでいたのに、最近のアニソンは登場人物もタイトルも出てこないようなアレ。

 いや、といっても完全に離れているわけでもない。

 演歌調に雄渾に仕上がっているのに、「赤いトラクター」というタイトルとサビが入っていて、子供心におかしみを感じた。

 本書でもこの歌は取り上げられている。

 トラクター乗車が趣味であったエルヴィス・プレスリーと比較しながら、藤原はこう書いている。

トラクター世界史のなかで、エルヴィスに対抗できるのは、日本ではアキラをおいてほかにいない。「マイトガイ」と呼ばれ銀幕で一世を風靡した小林旭の高めの歌声に乗って、ヤンマートラクター日本中に普及した。(本書p.224-225)

 続けて、藤原は

女性を排除した男性とトラクターのみの「二人」の関係性は、暑苦しいとしか言いようがない。(同前p.225)

と愛をもって腐している。

 主人公の男性にとっての、トラクターの相棒性=友情=変種の恋愛感情を歌い上げているのである。


本書のまとめもこの2点を取り上げている

 以上の2点は、トラクターに興味がないぼくの心に浮かび上がった「トラクター」についての小さなフックである。

 しかし、この2点は、実は(1)トラクターを軸にした集団化・大規模化・近代化の世界史という切り口、(2)トラクターが文化の領域に溶け込んでいた、という本書が終章でまとめとしてあげている2点のポイントにズバリ重なるものである。

トラクターの轍から眺める世界史は、高校までに習った世界史とどこまで異なった風景を見せただろうか。……資本主義陣営と社会主義陣営の壁はトラクターの歴史から眺めるとそれほど高くも厚くもなかったこと、こうした歴史を、トラクターは教えてくれる。(本書p.233)

また、トラクターという機械は、経済史や技術史といった枠組みを超えて、文化の領域に溶け込んでいたことも、本書で明らかにしようとしたことである。(同前)


 くり返すが、ぼくはトラクターそのものに何の興味もない。

 しかし、トラクターという機械・モノを結節点として、そしてそれにこだわって世界史や文化を眺め直してみると、教科書の叙述のように平板だった世界史は生きて動き出し、文化が経済や技術と密接に絡み合ってそこにあるのだという、新しい視点(もしくはすでに持っていた視点の抜本的補強)を提供してくれる。こうした切り口はトラクターに限らないだろうが、本書は、この切り口の活用に成功している。


 本書を読んでいろいろ考えたことも、やはり先ほど挙げた2点に集約される。


大規模化か小規模分割地か

 世界史、つまり歴史や社会とのかかわりでいえば、農業の集団化・大規模化のことである。特に社会主義理念との関わりで。

 一般にはソ連中国社会主義と思われているので、社会主義(特にマルクス主義)は集団化一辺倒なのだろうと見なされているフシはある。

 本書でも、そのようなものとしておおむね紹介されているが、社会主義者の中での論争はきちんと紹介されている。ぼくはコミュニストであるけども、ダーフィットのことなどは知らなかったので、勉強になった。


 大ざっぱに言えば、革命のために小農を味方につけることは大事だから分割地での営農は擁護する。だけど土地や機械の効率利用を考えたら、将来的には大規模化し、集団化・共同化した方がいいよね、それはゆっくりやるよ――という感じがマルクス主義の「基本」だった。

われわれは、むろん、断固として小農民の味方をする。小農の運命をもっと忍びやすいものにしてやるために、彼にその決心がつけば協同組合への移行を容易にしてやるために、それどころか、彼にまだその決心がつかないなら、その分割地のうえでながいあいだとっくりと思案できるようにしてやるために、われわれはやってよいことならなんでもやるだろう。(エンゲルスフランスドイツにおける農民問題』/『マルクスエンゲルス8巻選集』第8巻所収、大月書店p.191)

資本主義が支配しているかぎり農民の状態は絶対に望みがないということ、彼らの分割地所有をそのまま維持するのは絶対に不可能だということ、また資本主義的大規模生産は彼らが無力な古くさい小経営を押しつぶすのは、汽車が手押し車を押しつぶすのと同じように絶対に確かだということを、農民にくりかえしくりかえし説明することこそ、わが党の義務なのである。(エンゲルス同前p.192)


 トラクターの利用は、この集団化の象徴であった。レーニントラクターに魅了されていたことが本書には紹介されている。


 日本でもエンゲルス的な原則が、コミュニストの間では共有されていた。

 しかし、皮肉なことに、大規模化一辺倒を進めているのは、日本では共産党ではなく自民党である。共産党はむしろJAなどと組んで「家族農業など多様な農業経営の擁護」の論陣を張っている。

紙氏は、国際競争力の名で、さらなる大規模化への誘導や法人化、企業参入を進めれば、政府自身が原点としてきた「多様な農業共存」の理念に反し「日本農業の基本である家族経営を壊すことになる」と批判

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-24/2017042405_01_1.html

半農半Xという生き方【決定版】 (ちくま文庫) 共同化が将来の方向にある、ということではなく、小規模な家族経営そのものが日本の農業の未来ではないのか、と思える。塩見直紀『半農半Xという生き方』をはじめ、「片手間に農業」というような生き方が注目されているが、こういう「小農」のあり方、担い手のあり方が農地を維持し、農業を日本で続けていく一つのヒントになりはしないかと思う。

 となると、そこでの「トラクター」はやはり、小さなトラクター、歩行型トラクターですよ! とか思ったりするのだ。

 本書には、日本でもトラクターを含む農業機械についての論争を紹介しており、簡単に言えば、大規模化・集約化する道と、小規模・分散型の道との対立として現れる。その中の論客の一人、橋本伝左衛門は小規模分割地の道を肯定している側であるが、彼は、

農業組織のコルホーズ化をはかり、これをてことなし、わが国に共産革命の導入を企図するものに対しては、われわれはその不可であり、また不可能であることを、力説せざるを得ないのである。(橋本/本書p.211)

と述べ、わざわざ共産主義革命の否定としているのがぼくの印象に残った。今や、逆ですよ、橋本さん……。


 とはいえ、ぼくの実家の農地のことを考えると、「大規模化」のことは頭に浮かんでくる。ぼくの家はもともと農家であったが、今や年老いた父母が趣味で(しかし結構本格的に)畑作をしているに過ぎず、田んぼは所有したまま「オペレーターさん」に稲作を委託している。*2実家はまだ見渡す限り田んぼだらけだが、広い小学校区に委託を受けるオペレーターは2カ所しかないという。親が死ねば、ぼくら兄弟は農業をやることはないだろうから、農地は売買なり寄付なりで農業をやっている家に集約した方がよい。

 結局、担い手は減っていくから、大規模化そのものは否定できないのである。しかし、それ一辺倒ではなく、家族経営や半農半Xのような小規模経営もていねいに支援して、多様性を確保することが農地と農業の維持につながる。今のところ、そう考えざるを得ない。


 本書ではトラクターを軸に機械の共同化の歴史が触れられている。そして藤原は終章で次のようにまとめる。

第二に、トラクター世界史には、いまだ実現されなかった「夢」が存在するからである。それは、トラクターの共有という夢である。日本では、集落営農のかたちで機械共有の試みがあらわれているといえるかもしれない。国有か私有かという二項対立図式によって機械の共有という道は世界史のなかで顧みられなくなっていた。そう考えると、生活の共同とセットで機械の共同を考えた三瓶孝子の視点は、ソ連の現実を知らなかったからであるとはいえ、やはり大変貴重であった。(本書p.243-244)


 ただ、ぼくなどは、日本の農業公的資金補助金)をつぎ込んで成り立っているというのであれば、いっそ自治体農業公社をつくって自治体の農地を集約的に管理し、雇用を行い、生産から販売まで面倒みたらどうなんだと思う。

 いや、今自治体に「農業公社」というのがあるのは知っている。だけど、これは農地の貸し借りとか、担い手支援とか、農産品のPRとか販促とかだけなので、もっと直截に生産・経営に乗り出しちゃってもいいんじゃないの、と全くシロート考えで思うのである。

 でも、そういうアイデアが現実化していないのはそれこそ「小農」であるところの個々の農家が「分割地のうえでとっくりと思案」しているから、つまり農地も経営もしがみついて手放さないからだろうなあ、とぼんやり思う。


性的比喩とトラクター

 さて、本書について、ぼくが注目したもう一つの点、つまりトラクターというものの文化の領域への溶け込みについて。


 先ほど、小林旭が歌う「赤いトラクター」について書いた。

 藤原は、トラクターを動物にたとえ、そこに癒しを見る世界各地の傾向を求めているが、藤原が「トラクターに恋をする」という表現をしているように、本書で紹介されている例を見ると、むしろ性的な比喩と重なることに興味が湧いた。

 中本たか子の小説、ローガンの回想、スタインベックの小説。

 そして、「赤いトラクター」もその系列であるとぼくは読んだ。


 特にスタインベックの『怒りのぶどう』に登場するトラクターの耕作の比喩は強烈だった。

鋳物工場で勃起した十二の彎曲した鉄の陰茎、歯車によって起こされたオルガスム、規則正しく強姦し、情熱もなく強姦を続けていく。(スタインベック/本書p.65)

 藤原にとっても「強烈」だったようだ。

強姦」という比喩も強烈である。つまり、トラクターの耕耘は土壌の反応に関係なく強引に耕す、「愛」のない他者不在の行為だとスタインベックの目には映るわけだ。機械に対する疎外感は、古今東西いろいろな書物に描かれてきたのだが、スタインベック描写は、そのなかでもとりわけ異彩を放っている。(本書p.65-66)

 まことに同感である。

 もともと開墾されていない土地を「処女地」(virgin soil)と表現するように、農業における土地を女性にたとえ、そこに手を加えることを男性であると比喩するのは、西洋的な考えであろうか。


 はじめにこの本について

トラクターという機械・モノを結節点として、そしてそれにこだわって世界史や文化を眺め直してみると、教科書の叙述のように平板だった世界史は生きて動き出し、文化が経済や技術と密接に絡み合ってそこにあるのだという、新しい視点(もしくはすでに持っていた視点の抜本的補強)を提供してくれる。

とぼくは述べたが、あえて、何か一つのモノ・事柄・立場にこだわってそこから歴史や文化を眺め直してみると、視点が更新されたり、豊かにされたりすることがある。例えば「遅刻」を歴史的に捉えるとか、「戦時食」から戦争を見つめ直すとか。本書もまさにそういう一例だった。


ソ連経済における「重量主義」はトラクターに何か影響を与えたか?

 なお、本書を手にとって冒頭に、トラクターの重みが団粒構造を潰して土壌を荒らす、という指摘があり、そのことを読んで、もう一つ実は思い浮かべることがあった。

 それは、日本共産党の幹部である不破哲三が、よくネタにしているあの話である。

 ところが、スターリン以後、市場経済を事実上否定してしまったソ連経済は、経済活動を評価するこのモノサシを失ってしまいました。では、その代わりに何をモノサシにしたかというと、いちばん広く使われたモノサシが、製品の重さや使った材料の重さだというのです。そうなると、何をつくる場合でも、重いものをつくればつくるほど、成績が上がることになります。こんな不合理な経済体制はないでしょう。

 これは、私が勝手に悪口を言っているのではありません。スターリンのあと、ソ連の指導者になったフルシチョフが、党の中央委員会総会で、“重さ第一主義”の不合理さを怒って、何回も演説や報告をしているのです。……

 実は、私たちは、“重さ第一主義”のソ連経済による被害を、ベトナムで目撃したことがあります。七〇年代の後半、アメリカ侵略戦争に打ち勝って、ベトナムが平和を回復したとき、経済建設の援助に経済調査団をベトナム派遣しました。調査団が農場に行ったら、ソ連から贈られてきた田植え機を使う現場に出くわしたそうです。ベトナムの人たちが大事に扱っているのですが、なにしろ重さが成績の基準というソ連でつくられた田植え機ですから、田んぼにもっていくと、ずぶずぶ沈むというのです(笑い)。それでもせっかくの贈り物だからというので、ベトナム側で田植え機の両側にボートをつけた。その助けで浮くことは浮いたんだが、今度はそのボートが、植えた苗を次々となぎ倒してゆく(笑い)、結局、使い物にはなりませんでした。

 七〇年代の後半といえば、スターリンが「新経済政策」と市場経済をやめてしまって四十年から五十年ぐらいたった時期のはずですし、フルシチョフが怒ってからでも二十年近くたったころですが、依然として“重さ第一主義”の経済体制が続いていて、その被害をベトナムにも及ぼしたということのようでした。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-14/13_0401.html

 市場を使わない計画経済が「重量化」をもたらし、それがトラクター生産に何か影響を及ぼしていないのかと思ったのだが、その話は本書の中にはなかった。

*1:物を牽引する車であり、土壌と接する部分に車輪・履帯を用いており、乗用型・歩行型・無人型があり、動力源をさまざまな作業に容易に接続でき、動力源が内燃機関である、という定義というか特徴付け。本書p.3-6。

*2愛知県三河地方における「オペレーター経営」は「稲作生産の地域組織化と広域型営農集団――愛知県、吉良吉田営農組合」 http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/kiho/pdf/kiho48-1.pdf を参照。