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紙屋研究所


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2017-01-16 『この世界の片隅に』を観てさらに 『戦下のレシピ』『昭和経済史』

『戦下のレシピ』『昭和経済史』



 『この世界の片隅に』のアニメをきっかけに、戦時中の日常生活についての文献をいくつか読んだ・読み返した。


戦争になるとなぜ食糧難が起きるのか――斎藤美奈子が示した2つの理由

戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る (岩波現代文庫) 斎藤美奈子戦下のレシピ』(岩波現代文庫)、中村隆英『昭和経済史』(岩波書店)はその一つ(2つ?)。

 『戦下のレシピ』の中に「なぜ戦争は食糧難を招くのか」という節がある(第5章)。

 斎藤は「戦地に送るから食べ物がない?」という仮説をまずは批判する。

 総人口は変わらないので理屈に合わない、と。「まして旧日本軍は、食糧について甘く見ていた」(斎藤p.158)。

 うむ、アジア太平洋戦争の「戦死者」の半分が餓死、それ由来の病死だったことは有名だし、牟田口中将の「元来日本人は草食である、然るに南方の草木は全て即ち之食料なのである」という小並感発想をもとにしたインパール作戦での失敗を見てもそれはよくわかる。


 斎藤は、この仮説を批判した後、斎藤の考える2つの理由を示す。


ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。(斎藤p.159)


f:id:kamiyakenkyujo:20170116221243j:image

 図は、『昭和経済史』のp.143に出てくるグラフだが、「軍需優先」を実にわかりやすく示している。


 兵器を含む「機械」生産というのは、空襲が激しくなった1944(昭和19)年でさえ、1937(昭和12)年=日中戦争開始時の2.4倍になり、終戦の1945(昭和20)年でもこの基準年(1937年)を上回る生産をしていたわけだから、どんだけ軍需優先なんだよ……と思わざるを得ない。

 まあ、あえて正確を期すために言えば、「農業総合」は昭和18年ぐらいまでは何とか維持している。もちろん、これは単なる民生ではなく戦争遂行に必要だからだ。それも昭和19年にガタッと落ちている。そのうちコメについて言えば昭和20年は、「天候が悪かったため、平年作の六割という異常な不作」(中村p.142)だったせいである。

工業生産にしても、食料品、繊維、紙パルプ化学などは、いずれも一九四〇年代の初めから急速に落ちていく。南方からのものが入ってこなくなったために、軍需生産がだめになるというのはもう最後の段階であって、その前に一般の工業生産はもう崩壊していた。ナチス・ドイツでさえ消費財生産を昭和一八(一九四三)年ごろまではあまり減らさないようにして国民生活に配慮していたのにくらべて、日本の軍需への傾斜ははじめから極端で、国民生活や占領地の人たちの生活を無視していたといえます。(中村p.142-143)


 軍国主義政権であっても、例えばナチであっても、これほど極端な軍需偏重はしなかったぜ、というのが中村の主張。

 『昭和経済史』を読んでいると、この時期、つまり日中戦争を開始した十五年戦争の時期というものは、その幕開けから経済の統制、物資の動員がテーマになっている。

 日本は資源がない国であり、例えば産業のカナメでもあり、戦争遂行に欠くべからざる石油は当時どうしていたかといえば、「当時の日本にとって最大の石油供給国はアメリカであった」(中村p.129)。

 それじゃあ、アメリカを敵に回してどうやって戦争や経済をやっていけると思ったのか。


 1941年の御前会議での企画院(当時の経済計画を立てる政府部局)総裁の見通しが『昭和経済史』に載っているが、東南アジアを占領したので、そこから入ってくるもので間に合うというのが基本だった。


 そして米などもタイ、仏印あたりから入ってくるのでまにあうだろう。もし蘭印が手に入れば、ニッケル、錫、アルミニウム原料であるボーキサイト、生ゴムなど、当時の貴重な物資が手に入る。

 石油の問題については、南方作戦をした場合、石油は一年目には八五万キロリットル、二年目は二六〇万キロリットル、三年目には五三〇万キロリットルぐらいは入手できるだろう。それを現在の保有量八四〇万キロリットルに加えて見通しを作れば、第二年目の末には保有量がギリギリに減ってしまうが、三年目からはむしろ需給関係が好転して、余裕が出ると述べている。

 したがって、危険とはいえ、戦争経済は維持できるというのが、企画院の判断でした。(中村p.131)


 もし戦争を回避したら、逆にアメリカは軍備を自由に拡大し、絶望的なまでに日米の格差が開いてもう追いつけなくなる、というのが企画院の描いた想定だった。危険だけど、今ならやれる、と。

 だけど、このシナリオの前提になっているのが、輸送、船の確保なのである。東南アジアから食糧や資源を運んでくる船。

 企画院はどうそれを判断していたのか。三〇〇万トンの船が確保できれば大丈夫だと計算した。

戦争になれば船舶は被害をうけるが、それが年間一〇〇―八〇万トン程度ですめば、国内で六〇万トン程度の造船能力があるから、なんとか三〇〇万トンの線を維持できるだろう。(中村p.131)


 しかし、「作戦面を別として、経済面でもっとも甘かったのは、船舶の問題であった」(中村p.132)、「太平洋戦争経済的側面における最大の計算違い」(同p.136)という状況になってしまった。

 造船はがんばって想定を超えて60万トン以上、昭和18年には100万トンまでつくったけども、被害想定がとても「一〇〇―八〇万トン程度」じゃ、すまなかった。「昭和一八年には二〇七万トン、一九年には四一一万トンという被害」(同p.136)となり、実に想定の4〜5倍となった。

 輸送能力が足りない、というレベルでなく、制海権制空権を握られたために「昭和一九年の後半には南方占領地域との航路が遮断されて、加速度的に戦勢が傾いていったのです」(同p.136)。


昭和経済史 (岩波現代文庫) 何だろうなあ、この、「1点に全部かかりすぎだろ」感

 ものすごく性能がよくて材質も高級だけれども、数千ある部品の1つだけが壊れて替えが効かず、結局動かせない機械、みたいな。いいカバン買って、気に入ってたけど、下げるヒモの縫製が実はヤワで、すぐ使えなくなる、みたいな。「そこかー。そこは買うとき見てなかったわー」的な。

 いや、そんなことないんだよ。

 実は、ロジスティクスって基本だし。「日本軍兵站のこと考えてなさすぎ」ってよく言われることだし。しかし、「兵站」とか「ロジスティクス」とかいうと、物流システム全体のように思えてくるけど、その中でも具体的に「船」なんだよね。「船」ってことの1点にかかりすぎなんだよな。


 これ読んで思ったのは、消費財が後回しにされた、つまり民生部門が圧迫されたということと、軍事的に輸送があまりリアルに考えられていなかったということは、別々のことじゃなくて、表裏一体の問題なんだってこと。


 ゆえに、斎藤も戦争が食糧難を招く「もうひとつの理由」として「輸送」をあげる。

 もうひとつの理由、それは輸送の問題だ。

 戦争になると、どこの国でも「食糧の国内自給」を呼びかける。それは経済封鎖や海上封鎖などで輸送路が断たれ、外から物資が入ってこなくなるからだ。食料品だけの話ではない。石油であれゴムであれ、資源のどれか一つが欠けても近代国家の機能は麻痺する。一九四一(昭和一六)年に、アメリカが対日石油輸出を禁止したことで、日本は大打撃を受けた。その穴を埋めるために東南アジアへの進出を企て*1太平洋戦争をしかけたものの、制空権制海権も奪われて、資源の備蓄は減る一方、燃料がなければ国内の輸送だって滞る。どこかに食べ物があったとしても、家庭に届かなければないも同然なのである。(斎藤p.150-160)

 斎藤は続けて、次のように皮肉る。

戦争は戦闘や空襲のことだと思ってしまいがちだ。しかし、戦闘は戦争のほんの一部分でしかない。戦争の大部分は、物資の調達、運搬、分配といったいわば「お役所仕事」である。日本政府旧日本軍はそこを甘く見ていたということだ。(同p.160)


「食糧難」は昭和19年を境に根本的に違う

 なお、ここでも正確を期すために言っておけば、日中戦争が始まって物資の統制が行われ、アジア太平洋戦争でそれがさらに厳しくなったという、「戦争一般の食糧事情」と、「南方占領地域との航路が遮断されて、加速度的に戦勢が傾いていった」昭和19年後半以降の「食糧事情」とは、その厳しさが根本的に異なる

 斎藤は、レシピの時期を、日中戦争期(「日中戦争下のレシピ」)、アジア太平洋戦争開始期(「太平洋戦争下のレシピ」)、戦争末期(「空襲下のレシピ」)の3つの時期に分けて、戦争末期の食糧事情のひどさを強調している。

戦争中に空腹で苦しんだという話は、ほとんどが太平洋戦争末期の一九四四―四五(昭和一九―二〇)年に集中している。この二年間は、前線の兵士はもちろん、銃後の人々にとっても、人間性を剥奪された魔の期間だった。(同p.110)

 そしてそんな時代にも料理記事はあったものの、「それはもはや『レシピ』となどと呼べるようなものではなく、絶望的な食糧難の中でどうやって生き延びるかを教える『サバイバル読本』に近いものだった」(同p.114)。

 確かに、斎藤の本のもとになり、『この世界の片隅に』でも参考文献としてあげられている『戦争中の暮しの記録』(暮しの手帖社)を注意深く読むと、サバイバル的な食糧体験はその時期に集中している。

 すずと北條一家「日常」が描かれ、楠公飯が登場したのは、昭和「19年5月」だ。斎藤の『戦下のレシピ』では楠公飯は戦争末期(「空襲下のレシピ」)ではなくアジア太平洋戦争開始期(「太平洋戦争下のレシピ」)に紹介されており、『この世界の片隅に』での登場はギリギリ「昭和19年後半」以前ということになる。

 いやまあ、食糧事情なんて、都市と農村、地方ごとで相当差があるから、一般的な時期区分を外れていたからどうだということでもないんだけどね。*2

 片渕監督が書いていたコラム「すずさんの日々とともに」を読むと、

呉市では19年春頃までは少ないながらも米の配給がほぼ行われ、代用食の配給はあまり行われなかったが、5、6、7、8月は米の配給が米穀通帳指定の1割以上が押麦、甘藷、馬鈴薯、小麦粉、乾麺、脱脂大豆玉蜀黍、高粱で代用されるようになっている。

http://www.mappa.co.jp/column/katabuchi/column_katabuchi_16.html

とされている(第16回)。やはり昭和19年後半は一つの転機だったといえよう。



 戦争末期のサバイバル状況と比べると、日中戦争期とアジア太平洋戦争開始期の食糧事情は「何とかなる」レベルのものだった

 ここでは、第一に、国民経済の需給勘定をしていくら足りなくなるから、どこを節約しろ、といういわば「机上の計算」にもとづくものだった。

 第二に、昭和14年、つまり日中戦争は始まっていたがアメリカと開戦する前に起きたコメをめぐるパニックが影響していた。


 まず第一の点。需給を机上で計算していたという話。


 陸軍外郭団体である「糧友会」が1940年に発行した「節米調理法」は今でも国会図書館ウェブサイトで読めるが、そこには、アジア太平洋戦争直前の時期に、どのような理屈で節米をしなければならないのかということが端的に書いてある。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095670

  1. 昭和14年のパニックで、1000万石がマイナスになった。(△1000万)
  2. 法令による搗減り防止+酒造米節約、合わせて350万石が節約。(△650万)
  3. 大麦・裸麦・小麦は豊作だったので、コメ換算で300万石プラス。(△350万)
  4. うーん、つまりあと350万石分を節約しなきゃいけないなー。

この分は国民各個がお互に代用食やコメの消費合理化等によつて節約しなければなりません。全国戸数は約千三百万戸ですが計算を仕易くするために仮に千万戸とすれば、一戸一ヶ年の節米量は約三斗五升、一月当り三升の節約を要する勘定になります。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095670

 3升は約5.4リットル、今の白米換算だと4.5kg。1日150g。1合ぐらいですね。茶碗1杯0.4合なので、一つの家庭で1日茶碗2杯分の節約と思えばいいのか。うーん、これくらいなら、なんとかできそうじゃないかと思えてくる。ま、全世帯がやればね。この辺りが机上の空論っぽいところだ。


 で、このパンフレット『節米調理法』には、増量法、代用食などが書かれている。増量法には楠公飯も入る(このパンフには出てこない)。代用食はイモやカボチャなどを混ぜるご飯や、パン食などが入る。


 配給は昭和14年、まずは燃料(木炭)から始まるけど、最初はそれほど深刻でもない。なかなか広がらないのである。


 そもそもこの「糧友会」の節米運動も、昭和19年以降の深刻な食糧不足のような切迫認識があったわけではなく、別の目的があった。


糧友会のパン食普及の目的自体が、軍隊でのパン食への適応力を養うことや、米栽培に不適な満州への植民政策の成功にあった(小泉和子「昭和とパンのおはなし」第3回/「しんぶん赤旗2016年11月18日付)

 よく戦時中の食糧難をしのんですいとんを食べるイベントがあるけど、ああいうことに象徴される食糧難というのは、昭和19年からの2年間だったということができる。

 だから、戦争における食糧不足・食糧難というのは、ベターっと同じように続いたのではなく、時期によって相当に濃淡があると言える。


 もう一つの点。昭和14年の不作の話。

もう一つ昭和一四年の秋に問題が起った。西日本が雨が降らず旱ばつになり、その結果として電力が不足になる、西日本朝鮮の米が不作になった。実際はそんなに不作でもなかったのですが、そう信じられて、パニックに近くなった。この年末には東京市中でも米屋に米が半日分ぐらいしかないような事態になり、米騒動が心配される状況になった。政府は乏しい外貨を割いて、タイや、当時の仏領インドシナ、今のベトナムから米を輸入する必要に迫られた。(中村p.120)

 ここ(昭和14年ごろ)で食糧不足が国民的に認識されるわけだけども、第1点のところでも述べたように、実際の生活としては、後にやってくる壮絶な食糧難を思えば、まだまだ余裕があったと言える。


 企画院の物動計画でもタイや仏印からのコメの輸入で何とかなるわい、という話が出てきたし、ここでも朝鮮などからのコメの輸送が頼りにされている。

 アニメで、すずが敗戦の玉音放送を聞いた後で駆け出して口走るセリフ、「海の向こうから来たお米、大豆。そんなもんで出来とるんじゃなぁ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね」はこのことを意味している。

 よく指摘されるように、これは原作のセリフとは異なっており、片渕は日常から出発するすずに馴染ませたセリフにしたのだという。その当否は議論のあるところだが、

一方、その大東亜共栄圏なるものはどうであったかということになるが、開戦の当初から、現地の人たちの生活を維持確保することはなかなか望めないということはわかっており、当時、開戦直前の文書を読んでも、「当分はいわゆる搾取方針をとることもやむをえない」という文章があった。(中村p.138)

とあり、さらに『昭和経済史』ではそこに続けて、日中戦争時代には食糧収奪をやって都市暴動を招いたために、その後は軍票を出して事実上インフレにより物資を取り上げる方針に切り替えたことが書かれている。すなわち、「日本に送られる食糧や資源」には、アジア各国に対する搾取と収奪――暴力が凝縮されており、すずがいた日常の中で触れられるものの中に埋め込まれた暴力を、片渕なりに工夫して表現したものだったろう


ユーモラスなものとして現れる「食糧難」

 昭和19年の食糧難は相当大変だったということになるが、それでも、『この世界の片隅に』では相当に可笑しみを持って描かれている。

 これは同作が参照した『戦争中の暮しの記録』でも読み取れる。うちのつれあいも斎藤美奈子のようにこの本を小さい時に読んでいたそうだが、ここに載っている、例えば池に食用ガエルがたくさんいるのに、誰も知られておらず、それがとても美味かった話などは、かなりユーモラスなものだ。

 また、中村の『昭和経済史』でも、当時の商業学校の生徒の記録を紹介しながら、食糧難の給食の大変さが、紹介されているが、どことなく笑える。

空腹に耐えかねて、集団脱走して高崎に帰って大目玉をくったり、農家でいもやもちと交換してもらうために鉄火箸やフライパンを作って失敗した話などが、一見ユーモラスに書かれているが、実は笑いごとではなく、切実な必要に迫られてのことだった。(中村p.145)

 深刻だけども、ユーモラス。

 この調子は『この世界の片隅に』に似ている。

 さらに、この後に続く、中村の言葉。

ところが、昭和二〇(一九四五)年になると、著者は工場を離れたが、その友人の富岡中学生の日記では空腹の話どころではなく、空襲と友人の死に重点が移る。(同前)

 日常の可笑しみが後景に退き、空襲による深刻さへと転換する、『この世界の片隅に』の後半部分とも重なる指摘である。


 ちなみに、中村は『大東亜戦争収拾の真相』という陸軍大臣総理大臣秘書官をした松谷誠の本を紹介し、陸軍首脳は最後の本土決戦を本気で考えて張り切っているけども、

陸軍省参謀本部の課長クラスは、内心ではもう諦めている。その下の課員クラスが張り切っていて、抑えられなかったのが昭和二〇年の前半の状況だったと書いている。(中村p.146)

っていうのは、印象に残った。

 『昭和経済史』によれば昭和19年夏の軍需省は、もう今年末には物資計画は破綻しますわという正直な見通しを最高戦争指導会議に出している。それを紹介して、中村はこう書き付けている。

もうだめだということがわかったあと一年間がんばったというのが戦争の実態だったといえると思います。(中村p.138)

 経済の物資動員(物動)計画から、戦争の見通しはだいたい見えてきて、それがわかっている官僚には見通せるけど、わかっていない現場クラスが逆にアカンかったと。


せっかく映画や原作マンガを見たなら手を伸ばしてみようよ

 前のエントリで紹介した、小説家の古処誠の言葉、

戦争小説と呼ばれるものは読者に関心を抱かせてこそ成功だろう。

という点をぼくなりに感じ取って、『この世界の片隅に』を読み、そしてアニメを観ることで、少しばかり他の本を読んでみた。特に、それは片渕の綿密な考証態度に感化、というか、その顰に倣ったものである。

 その結果、日常=食料や日用品の中に、「戦争」が凝縮されて埋め込まれていることを、いくつかの点から感じ取ることができた。


 作品としての感動というところにとどまらず、少しだけ広げて戦争を考えてみる機会にしてはどうだろうか。

 そもそも、原作者であるこうの史代がこの作品を

私の描いたマンガが家族の昔の話を聞くきっかけになればいいなと思います。(中日新聞2009年4月26日付)

とくりかえし述べているように、実際に聞いてみるきっかけにするのが、この作品をリスペクトする一番の方法だと思う。「家族の昔の話」が聞けないのであれば、こういうふうに何か文献に手を伸ばしてみるのがいいと思う。


※参考:

『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離――もしくは戦争についての創作はどう描くのが「成功」なのか - 紙屋研究所 『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離――もしくは戦争についての創作はどう描くのが「成功」なのか - 紙屋研究所

*1引用者注。戦前の日本の東南アジア侵略の企図は対米関係の悪化以前からであるかどうかの議論があることは承知しているが、ここではとりあえずスルーする。

*2:例えば、愛知県西尾市の『西尾市史』の第4巻「近代」を読むと、農村であった西尾では、配給の事情は確かに『この世界の片隅に』とよく似ているんだけども、農家が多いから、「甘藷の収穫時には名古屋から大勢買い出しにきた」(『西尾市史』4、p.1645)とあるように、名古屋市あたりからむしろ買い出しにどんどんやってくる様子がうかがえる。名古屋から疎開してきた子どもたちの食料事情が相当に悲惨だが、地元の農家は必ずしもそうではない。ある農民の証言として、「その当時の人は、『百姓は昔から銭は入って来ないものときめていたが、こうもなんでも売れるのか』と喜んだ」(同前)、「その頃は農家にとっては一番よい時代であったように思う」(同前p.1646)とまでいう言葉を載せている。いやお前、「農家にとっては一番よい時代」ってどんな認識なんだよ……。まあ、それくらい、地方と立場によって「食糧難」ということの受け止めは違うのだ。

2017-01-09 名古屋的喫茶店 『かりん歩』1巻

柳原望『かりん歩』1巻


 ぼくの故郷は愛知だ。喫茶店が実に多い。多かった。

 つれあいは、ヨメとして実家に行くたびに、喫茶店の多さに驚愕していた。何しろ、ぼくのいた小学校区にコンビニができたのは、ぼくが故郷を出て社会人になり、相当時間が経過してからであったけど、田んぼにぐるりと囲まれたぼくの集落に喫茶店ができたのはぼくが小学生の時だった。集落の外れ、田んぼの中に出現した。そのあとも隣の集落にさらにできていた。

 統計的にどうなのか知らないけど、実感として多いな、と思う。*1

 喫茶店はどのように使われていたかというと、中小企業の社長をしていたぼくの親父が、昼間に打ち合わせる時などによく使っていた。また、自宅に遠方からの客を泊まらせるのだが、朝は家でご飯を食べさせることもあったが、喫茶店に行ってモーニングを食わせていた。


 名古屋の喫茶店は、コーヒーに豆がついてくることやモーニングが変わっていることで有名だ。

 名古屋モーニングについては、次のような由来があるとされる。


 …名古屋の家庭用パンの購入額は6大都市で最下位です。同じ外麦の大輸入港である横浜神戸のように首都圏関西圏という大消費地もなく、パンが売れない地域なのです。

 一方で名古屋は全国随一の製造業地帯です。下請け町工場の需要から喫茶店が非常に多い地域で、当時はサービス合戦の真っただ中でした。そこで中堅パンメーカーは喫茶店向けの業務用パンを新たな販路にして生き残りを計りました。

 パンが売れない名古屋で、パンの消費を拡大させたのはコーヒートーストを無料でつけるモーニングサービスだったのです。(小泉和子「昭和とパンのおはなし」7/「しんぶん赤旗2016年12月16日付)

 「サービス合戦」を背景に、喫茶店の顧客に合わせたカスタマイズというものが進んだのだろうと推測する。

 喫茶店が地域の客の好みにぴったりと合わせて姿を変えていくことは、最適化のための進化戦略のように思えるが、他方で、それは新たな客を排除する異様な雰囲気を生み出す。チェーン系カフェの画一性と好対照をなしていく。

 愛知でもこうした従来型の喫茶店が潰れ、コメダの一人勝ちといった状況が生じているのを見ると、後者(画一的であっても、その中で「シロノワール」や量のあるコーヒー、居心地の良さなど、人気のある、強いサービスを画一的に押し広げていく)の方法のが圧倒的に強いのだろう。


 『かりん歩』は、就職難に苦しむ女性(市井かりん)が、商店街にある名古屋的な喫茶店を祖父から受け継ぐ物語である。

 ところが、祖父の死後、すでに縁を切ったと思っていた祖母が現れ、実は離婚していないので、喫茶店の土地と建物の相続権を主張する。祖母(松江多加子、本名市井多加子)は敏腕経営者焼き鳥チェーン「とりどり」を展開している。多加子から、かつてかりん同級生(石居理央)が送り込まれ、顧客に徹底的に合わせてしまう名古屋的な喫茶店と、データに基づく合理的判断を重んじるチェーン系経営との対決構図となる。

 とはいうものの、そう単純でもない。

 かりんの側は、決して「商店街の客至上主義」というわけでもなく、「家賃が払えるほどの儲けをあげる経営」を目指す合理性を備えようとする。他方で、「とりどり」側は必ずしも画一的な経営ではなく、進出した地域に合わせた店舗のカスタマイズを行なっており、ただ経済力にモノを言わせた経営をしているというわけではないのだ。

 ただ、大きくは、顧客に合わせて変化する戦略と、チェーン系の合理性、この二つの要素が対決の軸になっている。

 

 古い商店街がどうやって再生するか、もしくは生き残るか、という話題になった時、「買い物弱者支援」、すなわち高齢化したお年寄りの元への配達などといった話になることが多い。つまり高齢化した地域のニーズやウォンツを細かくつかむ仕組みを作って、それに合わせたらどうか、という方向である。

 これがなかなかうまくいかないのは、高齢者が日常的に買い物をするのはせいぜい生鮮3品であり、生鮮3品が揃っていない商店街、あっても1〜2店舗で、とても注文を受け、配達をする人員が割けないからだろう。買う量も細く、実入りも意外と少ない。

 妙案はなかなかない。


 こうした中で、果たして本作はどういう結論を出すつもりなのか。

 まだ始まったばかりなのでこの対決がうまく展開されていくかどうかはわからないが、期待しながら読んでいる。


 前作『高杉さん家のお弁当』でも発揮された、地理学の分析ツールを駆使する手法も健在である。

 文芸評論家奥野健男の「原風景」論をもとにした、「原風景地図作り」というのにぼくは興味を持った。思わず自分でも作っちまったよ


 というわけで、読む箇所ごとにいくつも引っかかりがある。

 演出の中心となる対決要素も鮮明。

 読みながら、とりとめもなくいろんなことを考えさせてくれる、豊かなマンガだ。

かりん歩 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

*1:その後、統計を見たけどやっぱり多いな、愛知。人口当たりで全国第3位。http://www.region-case.com/rank-h26-office-cafe/  人口1千人当たり喫茶店従業者数ではトップな。 http://www.stat.go.jp/data/e-census/topics/pdf/topics95_2.pdf 「家計調査では県庁所在市及び政令指定都市別に1世帯当たりの『喫茶代』の支出金額を集計しており、愛知県名古屋市は 14,301 円と、全国平均 5,770 円を大きく上回る金額で全国第 1 位となっています。」ふむ、つまり名古屋市民は喫茶店に金を使っている市民であると。

2016-12-11 『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離

『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離――もしくは戦争についての創作はどう描くのが「成功」なのか


 書いていたら長くなった。

 先に要旨をまとめておく。

  1. マンガ『この世界の片隅に』は前半が戦前・戦時の日常の描写、後半が主人公の心象であり「記憶」と「想像力」をめぐる物語である。他方、アニメこの世界の片隅に」は、戦前・戦時の日常をそのまま再現・保存することにしぼられた作品であり、原作のもつ後半部分は後景に退いている。両者は別々の作品(別個の価値をもつ作品)である。
  2. 戦争小説・戦争をめぐる創作(マンガ・アニメ・映画・ドラマ・演劇…)は手法と題材を選ぶことで、何かを強調し、何かを切り捨てるので、どんな作品であっても批判は呼び起こされる。多様な書き手が多様に描くことでしかこのジレンマは解決されないのではないか。

 以下は、映画・原作のネタバレが含まれている。



「暗い」「つらいから読みたくない」と「楽しくて何度も読み返したくなる」

 「女性のひろば」という雑誌(共産党発行)の2017年1月号に「『この世界の片隅に』に寄せて」と題してぼくの一文が載った。

 

 実は、同じ号に、児童文学者のみおちづるが、「〈文学ピースウォーク〉が伝えたかったこと 新しい戦争児童文学への挑戦」と題する一文を載せている。

 〈文学ピースウォーク〉は、日本児童文学者協会設立70周年記念出版して刊行された全6冊のシリーズで、みおは次のように書いている。

これまでの戦争児童文学は、その多くが戦争体験に基づいて、戦争の悲惨さを訴えるものでした。それはそれで、体験が激しく胸を揺さぶるものでしたが、今の子の多くが「暗い」「つらいから読みたくない」と敬遠する理由にもなっています。また、加害性に目を向けていないという点もありました。(前掲「女性のひろば」p.97)

 これは、ぼくが今回同誌に載せた一文の冒頭で「この世界の片隅に」(原作とアニメ)の感想として次のように書いたことと、奇しくも対応している。

楽しくて何度も読み返したくなる「戦争マンガ」、何度も観返したくなる「戦争アニメ」なんて、これまであったでしょうか。……折につけ、ぼくは原作のマンガを「楽しむ」ために読み返します。そして、映画もまた同じ気持ちになりました。(実際もう3回観ました)(p.106)

 そのあとで、実際に描かれたエピソードをどう「楽しんでいるか」をつづった。

 マンガの方は、娘(小3)と楽しむ。というか、娘が率先して楽しむ。

 彼女は、ぼくの本棚から勝手に取り出して読み、ぼくの気づかぬコマの細部のセリフや描写を指摘し、笑い、セリフの言い合いをぼくとする。

 別にぼくが娘に「いい本だからこれを読みなさい」と与えるわけではない。

 娘はそういう「教育的配慮」が効く相手ではない。「大義」や「大きな物語」ではなく、面白いもの・断片にうごめく。サブカルでありオタクでありポストモダンなのである。*1

 こうの史代この世界の片隅に』は、娘の好きな「ちゃお」の各種連載作、『双星の陰陽師』『あたしンち』『僕らはみんな河合荘』『デストロ246』『大砲とスタンプ』のような雑多なマンガ作品群とのフラットな競争に(しばしば)打ち勝って、娘の手に収まるのである。*2


 そして、ぼくは「悲惨な戦争モノはもう古い。これからは明るくいかなくちゃ」などということを主張するつもりも毛頭ない

 ただ、戦争を小説なりマンガなりアニメなり実写映画なりにする際には、どのように描くことがいいのか、という模索があり、ぼくの一文も、みおの一文も、その問題意識のど真ん中に触れているということなのだ。


「戦後世代にどう届けるか」という、こうのの問題意識

 ぼくはこうの史代の『夕凪の街 桜の国』を読んだ時(2004年)にこう書いた。

 作者は、ほぼ、ぼくと同世代で、完全な戦後世代である。戦争や原爆体験はおろか、その「におい」さえも体感できない世代だ。戦後世代にとって、あの時代の「リアル」をどうとらまえて形にするか、苦闘が続けられている。そのみごとな結晶の一つが本作だ。

 戦後世代は、戦争を体験した世代には有効だった表現を、ともすれば「力みすぎ」といったように受け取ることがある。逆に、力をぬきすぎたり、奇をてらうと、届かない。戦後世代にとどける「戦争漫画」というのは、思いのほか難しい。実在したリアルをどう内面のリアルへと結晶させるか。こうの史代はこの課題にみごとに応えた。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yuunagi.html

 また、『この世界の片隅に』を読んだ時(2009年)にもこう書いた。

 こうのがそこで述べていること、書いていることには「戦争が終わってはるか後に生まれた私たち戦後世代が戦争というものをどう描くのか」という問題意識が一貫して感じられる。

 こうのが世に知られるきっかけとなった『夕凪の街 桜の国』という、原爆について描いた作品についての感想でも、ぼくはそのことを感じた。とりわけ、こうの史代はぼくと同世代であるだけに、そのことを強く意識せざるをえない。

 したがって、『この世界の片隅に』についても、ぼくは同様の問題関心からずっとこの作品を読んでいった。つまり「戦後世代が戦争というものをどう描くのか」という問題意識である。戦後世代にどう届けるか、ということはもちろんそこに含まれているが、同時に戦争体験世代にどう距離をとるかという問題もそこには含まれている。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/konosekaino-katasumini2.html

 それは、戦争を描こうとする人たちにとっての焦点であり、もっと広く言えば、戦争体験継承をどのように国民として行っていくのか、という課題でもある。

 こうのは、自分のマンガを誰と共有してほしいのかということを、くりかえしいろんな媒体のインタビューで述べており、この問題意識が一貫している。*3

私の描いたマンガが家族の昔の話を聞くきっかけになればいいなと思います。(中日新聞2009年4月26日付)

これを読みながら体験者にも話をしてもらえたら、心の中にあるものを私たちと共有できれば、との願いを込めました。(しんぶん赤旗日曜版09年2月15日号)

 

日常の保存・再現に重点をおいたアニメ

 「この世界の片隅に」のアニメを作った監督・片渕須直は、もっと徹底している。

 このアニメ作品については、主人公である北條すずが生きて動いているかのような「立ち上がり方」をさせたことは、すでにいろんなところで言われているし、ぼくら自身がこの映画を体験して実感している。


 そのことを、どのように実現したかと言えば、アニメ独特の手法の他に、アニメが描いた「この世界」、つまり戦前・戦時・戦後の呉・広島を、幾重にも豊かに・緻密に事実を積み重ねることで再現させたのである。

やっぱり僕らは直接戦争を体験していないから、仮に親に聞いても、それをそのまま孫引きしているだけじゃだめな気もするわけです。もちろん「戦争中って本当はこうだったんだよ」という体験者のオーラルヒストリーも大事なんですけど、それは結局そのひとのイメージや記憶の世界ですよね。そうじゃなくてもっと客観的にその時代をとらえ直すには、たとえばその当時に撮られた写真であるとか、日記であるとかが重要になってきます。写真には当時の姿が生のまま写っているし、日記には戦後にいろんな知識が入ってきて記憶が改まってしまう前の言葉が綴られている。それから当時出ていた雑誌の記事とか新聞とか公文書とか、そういうものから七〇年ちょっと前の世界というのを読み取って構成できるようになりたいと思ったんです。このやり方は戦時中を体験したひとがいなくなっても有効なままでしょうから、僕らがもし後世に伝えられるものがあるとしたら、そういうことなのかなと。どこで何を調べれば当時の様子がわかるのかという、読者や視聴者にとって調べ方の道標にならないといけないのかなと思っているんです。(「ユリイカ 詩と批評」2016年11月号、青土社、p.93-94、強調は引用者)

 あたかも当時を切り取ってきて冷凍保存したかのように。

 昔の人の話だけでなく、当時の記録や写真を積み重ね、それらから逆に当時を生きていた人たちの証言と突き合わせながら、立体的に再現していく。

 こうして設計したものを、実写のセットでもなく、当時のフィルムをつなぎ合わせるでもなく、アニメーションによって立体化させてしまったわけである。

 これはある意味で、ずいぶん極端な作品思想の表現でもある。「読者や視聴者にとって調べ方の道標」としての作品。つまり戦争に対する気持ちとか思いを形にするのではなく、戦争当時の状況を、上書きされる前の状態で保存・再現しようとするからである。今「極端な」と書いたが、悪口ではない。一つの明確な目的意識を持った作品思想に立っている、というほどの意味だ。


 簡単に言えば、映画を観ている者は、すずが生きている日常に封じ込められる。

 2時間10分の間、その日常から離脱することはできない。

 だから、原作(マンガ)を読んだ時になかった、涙が何箇所でも溢れてくるような、激しい情緒への揺さぶりがやってきた(一つは晴美が死ぬシーン、二つは終戦のシーン、三つは孤児を引き取りエンディングが流れるまでのシーン)。


空襲について「リアルを抑制」した原作、「日常に侵入する恐怖」として描くアニメ

 他方で原作マンガは、むしろ作品が描いた日常から、いつでも離脱可能である。

 「本」という形式がそのようにさせるのであるが、そもそも連載という形をとっているので、日常の中にある笑いのあるエピソードは、1話ごとの「オチ」としてぼくらに与えられる。ゆえに「お話」を読んでいるという気分がどこかに漂う。

 そして、最初の空襲シーンも、アニメのリアルさとはむしろ真逆の、空一面を米軍機(グラマン)が覆うという、一種のファンタジックな描き方をしている。こうのによればこの描き方は「空襲体験記に、同じような絵があるんです。空が真っ黒になるほどの飛行機が突然湧いた、と」(『「この世界の片隅に」公式アートブック』宝島社、p.90)というものだが、心象風景であることは間違いない。その心象風景に必ず根拠を求めているのも、こうのらしいやり方だが。

 艦載機に機銃掃射させるシーンの「たたたたた」という音のどことなしのユーモラスさもそうであるし(下図、こうの『この世界の片隅に』下巻、双葉社p.66)、呉の街が空襲で燃え盛っている大ゴマも、アニメの写実的な描写と対照的である。いずれもすずの心象風景であるという印象をぼくらは強く持つ。

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 写実的なリアルさをこうのができる限り抑制したといってもよい。

 そうすることで、こうのは、空襲を恐怖によって描こうとする、これまでの潮流から一線を画したのである。



 片渕は、そこを描こうとした。少し描いただけでも、それは本当に日常に空襲侵入してきたようなリアルさを獲得して、びっくりしたことを片渕自身が次のように告白している。

映像に音声と効果音と音楽を合わせるダビングという作業の、その最初のプリミックスのときに、自分でもはじめて音つきで全篇通して観たんですね。そうしたら大変な感じがして……効果音が全部ついているわけですけど、いままで普通に暮らしてきた世界に、戦闘機爆撃機が飛んできたときの怖さといったらなかったんですよ。自分ではそういうのも含めて全部計算したうえでつくってきたはずなんですけど、実際に観てみたら、怖くてしょうがない。こんな戦争なんか二度と描くかって思うくらい怖かったんです。(「ユリイカ」前掲p.94、強調は引用者)

 片渕は原作を使いながらすずの心象風景をさしはさんでいるものの、こうのの空襲描写との違いは歴然としている。機銃掃射についても、弾道のたわみから、地表で弾ける質感に至るまで、こうのの「たたたたた」とは大きな差がある。呉の街が燃え上がる様子は、煉獄の火のようなこうのの描写と対照的にリアルな「赤み」を帯びて、そこに「呉のみなさん、頑張ってください」と虚しいラジオ放送の連呼が入ることで、恐怖感が増す。


 片渕が日常を厳密に再現し、あたかもコールド・スリープのように取り出して見せることに腐心したことにより、原作にある「日常の笑い」は「連載の1回1回のオチ」という体裁が完全に消滅し、「日常のエピソード」そのものに変わる。

 ぼくが「女性のひろば」1月号で、すずが海岸線を描いていて憲兵にとっつかまってしまうシーンで起きる「笑い」について書いたのも、原作以上にアニメについてのことだった。まるで日常でよく起きる「思い出し笑い」のようにあのエピソードが思い出されるのである。


 こう書くと、日常を描くという点においてアニメの方が原作よりも優れているかのようであるが、空襲のシーンも含め、まるで「お話」のような色彩で戦前・戦時の日常を手に取れるという点では、実は原作の方に強みがある。例えていうなら、絵本を手にとって開くように、原作の描く「日常」に接することができるのである。

 もちろんそれは「本」という体裁であることが大きいのだが、それだけでなく、原作が民話・絵本・お話のような形をとっているせいでもある。


 これは優劣の差ではなく、戦争体験継承ということを念頭においたときに、役割の違い、機能の違いということなのだ。


原作の後半部分をアニメはどう描いたか

 原作について、ぼくはかつて次のような感想を書いた。

こうの史代『この世界の片隅に』上・中 こうの史代『この世界の片隅に』上・中

こうの史代『この世界の片隅に』下巻 こうの史代『この世界の片隅に』下巻

 簡単に言えば、戦前・戦時の日常を描くことを中心にした前半と、すずの心象風景が中心となる後半を分けて作品を把握したわけである。

 後半の「すずの心象風景」とは、記憶と想像力をめぐる物語ということだ。

 晴美と右手を失うということの意味、それを「回復」するとはどういうことかを描いている。

 特に下巻は右手が失われ、「この世界」が「左手で描いた世界」になってしまっている。そしてラストはその失われたものが回復され、色彩を取り戻した世界としてよみがえる。これらのことは、まさに、「すずの心の中」がテーマになっていることを端的に示している。

 アニメでは、空襲シーンにおけるすずの心象のコマ同様に、「左手で描いた世界」は、ほんの一瞬さしはさまれるだけで、世界はリアルに保存・再現された日常のまま進行していく。

 ラストで原爆孤児を引き取るシーン、晴美の記憶について話すシーンは、アニメにもあるのだが、まず第一に、この2つのシーンにあった原作の重要なセリフは「あっさりと」改変されている。

 帰還した水原の横を通り過ぎていく際に、すずが述べるセリフは原作では「記憶の器」であるが、アニメでは「笑顔の入れもん」である。

 ここは、晴美が爆弾で殺され、その際に自分にも責めがあったのではないかと思い悩んできたすずが、その記憶を切り捨てるのか、向かい合うのか、結論を出す決定的なシーンでもある。

 原作では「記憶の器」という言い方をしているのは、笑顔で思い出す晴美も、爆弾で殺されてしまった晴美も、どちらもあるがままに受け止めるしかない、というある意味で「器」という受動的な存在であることをきちんと表現したいためであろう。「器」は受け身で注がれるままであり、注がれるものを主体的(=恣意的)に選択しないからである。晴美の記憶全体が豊かなものなのだから、切り捨ててしまうのはもったいない、というのがすずの出した結論なのだ。

 ただ、記憶とは本来そういうものである。

 ある記憶や歴史が気に入らないからといってデリートしてはいけない、そういう性格のものではないか。

 このことは、やはりアニメではカットされたリンのセリフでも裏付けられている。

人が死んだら記憶も消えて無うなる

秘密は無かったことになる

それはそれでゼイタクな事かも知れんよ(中巻、p.136)


 アニメではこのセリフは「笑顔の入れもん」に変わっている。

 「記憶の器」という言い方が、日常にそぐわない・すずらしくないということでもあろうが、原作はあえてそこに違和感を持たせることでフックを作った。

 アニメはこの言い方を日常の中に溶け込ませるべくシームレスにしてしまい、「笑ろうて暮らせる」「わしを思い出して笑ろうてくれ」というアニメ作品の中でくり返される「日常の笑顔」というテーマへ回収している。この描き方は、すずの日常とぼくらの日常がつながっている(地続きである)ということや戦争が日常に侵入してくることを対比的に描き出す際に効果的な役割を果たすのだが、この点では、すでに原作の描きだそうとしたものは、後退している。もしくは別の描き方をされている。


 ラストで原爆孤児を引き取るシーンでも、アニメとの大きな違いがある。

 原作ではすずは、

あんた…

よう広島

生きとって

くれんさったね(下巻p.139)

と声をかけて、孤児の手をとるが、アニメではそのセリフは省略されている。

 このセリフはこうのの『夕凪の街 桜の国』のあるシーンを思い出させる。

 『夕凪の街 桜の国』において前半の主人公である皆実は、原爆が落とされた日に陰惨な世界が広がり、他人を見捨て自分だけ死ねなかったことへの違和感を捨てきれずにいたが、やがて原爆と向き合うことを決意し、自分が生きていてもよかったということを恋人に「教えてください」と告げる。


 原爆で生き残った人たちが抱える罪の意識は、原爆を描いた文学や作品に繰り返し現れるテーマで、こうの史代はそのことを踏まえてこれらを描いている。

こうして出来た「夕凪の街」は、いくつもの原爆文献で何度も繰り返され、すでに「民話」のように決まった型を踏まえた物語となりました。(こうの「文庫版あとがきに代えて/『夕凪の街 桜の国』双葉文庫

 ところがアニメではこのセリフを削ぎ落とした。

 削ぎ落とすことによって、孤児を引き取るという事件は、記憶・想像力贖罪などといったテーマから切り離され、特別な意味合いが後景に退き、日常の中のエピソードの一つに収斂していく。


 つまり「記憶の器」も、「よう広島で生きとってくれんさったね」も、そしてリンの「人が死んだら記憶も消えて無うなる」も、ぼくが「ユリイカ」の論評で取り上げた原作の3つの重要なセリフはすべてアニメでは削除・改変されていることになる。


 しかし、それはアニメ瑕疵ではない。*4

 先ほども述べたように、原作は前半の日常、後半の記憶と想像力をめぐるすずの心象という、二つのテーマを取り扱ってきたが、アニメでは後半の設定について大胆に省略・作り変えを行い、原作の前半部分を極度なまでに徹底した「日常の再現・保存」の中へ溶かし込んでいったのである。

 要するに、原作マンガとアニメは別々の作品なのである。

 別の言い方をすれば、戦争に関して記憶と想像力のことをテーマとする作品を読もうとするなら、断然原作マンガを読むべきである、自分がそこに暮らしていたかのような臨場感を味わいたいならアニメを観るべきだ、というふうにも言える。


 先ほど述べたように、アニメが三度涙を流すような情緒の揺さぶられ方をしたのに対して、原作ではそうした反応はぼくには起きなかった。むしろ戦前・戦時の「日常」について思いを馳せ、記憶と想像力についての思いを巡らすものとなったのであり、ぼくが2009年に原作を読んだ際に

 戦後世代は、戦争の日常を想像し、その悲しみや喜びを想像する。戦争体験世代は、忘れたかった記憶であっても、戦時のときの日常の楽しさや輝きを思い出して少しでも語り出すようにしてほしい――そういう実践的な役割を果たすようにこの本はつくられている。こまごまとそこに埋め込まれた装置を解読しなくても、それらの無数の装置は読む者に、こうした実践的な効果をたちどころに発揮するであろう。

 本作は「感動作」というより、力作である。それはこのような実践的な機能を担うために、実に考え抜かれて作られた作品だからである。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/konosekaino-katasumini2.html

と結論づけたのは、こうした意味においてである。


戦争小説や戦争に関する創作はどうすれば「成功」なのか

 さて、最初の問題設定に立ち返る。

 「女性のひろば」1月号で紹介されていた、みおの一文を頼りに、戦争児童文学の最新作を集めた〈文学ピースウォーク〉シリーズの第1集を読む。『ズッコケ三人組』シリーズで有名な那須正幹が描いた『少年たちの戦場』がそれである。この本については別の機会に論評するとして、その巻末に、戦争小説を数々書いてきた、自衛隊出身の作家・古処誠二が「小説の自由と戦争小説の不自由」と題する解説を書いている。

 けれども戦争をあつかった小説に対する固定観念は強い。「戦争は悲惨だ」「戦争は悪事だ」といったテーマだと世間では思い込まれている。一言で言えば反戦テーマと思い込まれている。自由な解釈がされにくいという意味で非常にむずかしい題材なのである。

 当然のことながら作者は苦しい。より多くの共感を得ようと思えば固定観念を捨てにくく、創作の意義を強く意識していないと誰かの作品の真似になる。(古処/那須前掲、新日本出版社p.217)

 くり返すが、ぼくは「戦争は悲惨だ」「戦争は悪事だ」といったテーマ作品も歓迎する(もちろん無条件にではなく出来次第だが)。

 しかし、戦争を描こうとするとき、創作者たちは「『戦争反対』といっときゃいいんだろ」という惰性に落ち込んでいるのではなく、いつもこのようなジレンマに悩まされているということなのだ。

 それだけではない。

 戦争小説とか、戦争に関わる創作というのは、手法にしろ、題材にしろ、何かを選択することが選択しなかったものを強調することになってしまう。

 例えば、原作では「広工廠歌」にのせて、軍事都市・呉の発展を誇り高く感じる北條家をはじめとする呉市民が抱いた「夢」を描きながら、他方で「同時に誰かの悪夢でもある」としてその発展はアメリカからすれば「悪夢」であるという立場の反転・相対化を描いている。しかし、アニメではこの部分は省かれる(米軍空襲中に、圓太郎が「広工廠歌」を口ずさむという対比のみが残った)。

 呉の当時を保存・再現したこのアニメは、その客観的記録の性格にもかかわらず、例えば中国などでの受容は相当厳しかろうと予想する。「君の名は。」が大ヒットをしている状況と比べると。

 ぼくは、この映画について「中国国民も納得するように加害性を描け」と言っているわけではない。

 どんな戦争に関する創作であっても、題材について言えば、必ず何かを取り上げて、何かを切り捨てることにしかならない。手法だってそうなのだ。悲惨さを強調する小説やマンガもあれば、楽しさを強調するアニメや映画もあるだろう。それは必ず、戦争という巨大で「豊かな」現象の一面にならざるを得ない。


多様な書き手が多様に描く

 だから、こうの史代が次のように言っていることは、ここに結びついてくる。

私は漫画を描く者として、たくさんある中のひとつのテーマとして「戦争」を描いたにすぎないんですね。というのも、戦争漫画は「戦後漫画の伝統」だと思っているところがあります。夏ごとに読み切りが載ることもそうですし、手塚治虫先生らも戦争体験をされてらして、その体験が傷として残り、作品となり、そこから人生観、死生観を抱いた読者の方々はたくさんいます。戦争漫画は、たくさんの漫画家によって描かれなければいけないと思っています。ひとりが独占して描いてしまうと他の人が描きにくくなりますし、みんなが戦争について自由に語れなくなります。いろんな絵柄の人がいて、いろんな描き方の人がいないと、届く人が減ってしまうと思います。このジャンルは幅広くなっていってほしい。(おざわゆきとの対談で/おざわゆき『あとかたの街』5巻、講談社所収p.190、強調は引用者)

 ゆえに、『はだしのゲン』のようなマンガもあるし、『あとかたの街』のようなマンガもあるし、『ピカドン』のようなアニメもある、ということにしかならない。競い合うように多様に表現されることこそが、戦争創作にとっては豊穣であり、必要なことなのだろう。


「読者に関心を抱かせてこそ成功」という基準

 ただ。

 それでも、戦争小説や、戦争に関わる創作においては、何か基準があるのではないか。

 そういう問いが頭をもたげてくる。

 その際に、先ほど紹介した古処誠二が、〈文学ピースウォーク〉シリーズの第1巻の解説で述べていることがヒントになるかもしれない。

 古処は、「戦争の悲惨さなんてもうわかりきったことなんだから、戦争小説なんか書いて何になる」と言わんばかりの記者たちにこう反問するという。「戦争の悲惨さはさておき、日本がアメリカ宣戦布告した理由をご存じですか」。案外答えられないのだという。

 古処はこう続ける。

 わたしたちは、たぶん錯覚しがちなのである。ことあるごとに戦争は悲惨だと語られ、語り継がれねばならないと強調され、義務教育に盛り込まれ、夏になれば原爆特攻の映像がテレビで流される。そんな国で暮らしているからこそ知っていると錯覚しがちなのである。さらに言うなら暗記を理解と錯覚し、もっと言うなら平和教育歴史教育と錯覚している。

 知っていると錯覚した人は、もう学ぼうとしない。

 学ばなければ知識は増えない。

 増えなくなった知識固定観念になる。

 つまり、固定観念は無関心から生まれる。(前掲p.220)

 そして、こう結論づける。

 とすれば、戦争小説と呼ばれるものは読者に関心を抱かせてこそ成功だろう。作者の込めた思いは関係ない。読者が自由に解釈し、その結果として未知の光を見たならば成功なのである。(同前)

 実は、この古処の解説の後に、このシリーズの刊行の言葉が載せられており、刊行に関わり、2014年に物故した、『おしいれのぼうけん』や『ロボット・カミイ』などで有名な児童文学者・古田足日の次の言葉が引用されている。

この本がきみたちの疑問を引き出し、疑問に答えるきっかけとなり、戦争のことを考える材料となれば、実にうれしい。(前掲p.222)

 読者に関心を抱かせ、行動の手がかりとしてこそ、作品としての成功なのだ、というわけである。

 これがその答えだ、ということになればきれいにまとまる。実際、ぼくは、アニメをみて戦時の生活に興味をもち、いくつかの本も読んだし、「楠公飯」も作ってみた。もう一度中村隆英『昭和経済史』(岩波書店)も読み直してみた。そういう意味ではこのアニメはぼくを突き動かしたのだろう。

 けれどもぼくはこの結論はあまりにも創作に実践的機能を負わせすぎではないかという危惧が捨てきれない。

 結局「読者に関心を抱かせてこそ成功」「きみたちの疑問を引き出し、疑問に答えるきっかけとなり、戦争のことを考える材料となる」という「基準」も、やはり一つの答えでしかない

 やはり、こうの史代の言うように、多様な書き手が多様なテーマと手法で描くということに尽きる。

 これが今のところのぼくの暫定的な「結論」である。

*1:かつて、ぼくは保育園のつながりで、戦争と動物園を描いた「ぞうれっしゃがやってきた」の合唱に娘を参加させたことがある。舞台をみた新聞記者が当時6歳の娘に「どこが一番心に残った?」とインタビューにきて「動物が殺されるところが面白かった」と平然と答えた。

*2:ただし、公平を期すために言っておくなら、娘は『はだしのゲン』もしばしば手に取る。

*3:こうのは後述のようにおざわゆきとの対談で、おざわと意気投合して、“自分たちは「戦争の伝承者」ではない”と言っているのだが、その真意は、その対談でも明らかにされているように、自分が「戦争」を描く権威となり、特権的な立場にならない、というほどのものだろう。彼女たちは戦争体験を「届く」ようにすることを問題意識にしていることははっきり述べている。つまり、戦争体験継承自体は強く創作における必要性として感じているはずである。

*4アニメの側による省略は、作品の意図や戦略を変えようとしたというのではなく、もっと実務的なものだろう。リンのセリフはリンがあまり出てこないので省略されたのであろうし、「記憶の器」はわかりにくいし、すずが言わないと思ったから「笑顔の入れもん」にしたのだろう。「あんた…よう広島で生きとってくれんさったね」のセリフは、「えっ、この子、すずと知り合いだったの?」のように、単純にこの孤児とすずの関係がわからなくなってしまうから削ったのではないかと思える。ラストのくだりは、原作だとはっきりした区切りがあるが、アニメだと一瞬何が起きたのかわからなくなってしまった人もいるようだ。

2016-11-19 博多駅前陥没事故について(および福岡市政について)

博多駅前陥没事故について(および福岡市政について)


 博多駅前陥没事故で復旧が早かったことに関連して、びっくりしたことがある。

 復旧の早さそのものではない。

 高島宗一郎福岡市長に対してまで賞賛の声が上がっているのを聞いてびっくりしたのだ。

 異常という他ないので、一言書いておきたい。


事故の最高責任者に「賞賛」?

 具体的な原因究明はこれからであるにせよ、すでに市自身は直接の原因が市の地下鉄七隈線延伸)工事であることを認めている。いわば市の公共工事が原因で起きた事故であり、その責任は市長自身にあることは明白だからだ。

 事故の最高責任者に「賞賛」を浴びせるという、その意味がわからない。


繰り返される「陥没」と国の「警告」

 しかも福岡市が起こした地下鉄工事をめぐる道路陥没事故は初めてではない。

 まず2000年6月20日には、中央区薬院で今回ほどではないが大規模な道路陥没を起こしている。

陥没三たび生きぬ教訓 福岡市、事前調査で見抜けず 岩盤もろく土砂流入 - 西日本新聞 陥没三たび生きぬ教訓 福岡市、事前調査で見抜けず 岩盤もろく土砂流入 - 西日本新聞

 高島市長になってからの2014年にもやはり七隈線延伸工事で陥没事故を起こしている(博多区祇園)。



薬院祇園での陥没の写真(西日本新聞

http://www.nishinippon.co.jp/import/national/20161109/201611090004_001_m.jpg




 高島市政が起こした2014年の陥没事故に対して、国土交通省九州運輸局)は警告書を発している。

 国から警告書まで出されて、またまた、というか「前代未聞」(市長)の規模の陥没を再び起こしたのである。なんということであろうか。

 市の交通局長(交通事業管理者)が「前回の教訓がありながら、結果的に前回よりも大規模な事故が起きたことを深く反省している」と発言したのはまさにそういうことだ。

 ふだんは「高島びいき」ともいうべき保守系の新聞が、過去の教訓が生かされない点を指摘して市の責任をつく社説を展開しているのを、ぼくは興味深く読んだ。

 …看過できないのは、2014年10月にも、この地下鉄工事により、道路の陥没事故が起きていることだ。国土交通省の警告を受けた市は、施工業者と連携し、巡視を強化した経緯がある。

 再発防止策が不十分だったのは明らかだろう国交省九州運輸局が市交通局への異例の立ち入り検査に踏み切ったのも、当然だ。(読売新聞社説2016年11月11日付、強調は引用者)

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20161110-OYT1T50181.html

福岡市営地下鉄の工事では、2年前にも市道が陥没する事故が起きている。今回の現場からは約400メートルしか離れていない。市や施工業者の責任は重大である。2年前の事故の教訓はどう生かされたのか、生かされなかったのか。詳細な報告を求めたい。(産経新聞「主張」2016年11月11日付、強調は引用者)

http://www.sankei.com/column/news/161111/clm1611110001-n2.html


 しかもこういう失態が「異例」であることは、国自身が次のように証言していることから見ても、実にはっきりしている。(まあ、だからこそ立入検査をしたわけだが。)

九州運輸局は)こういう鉄道運行ではなく工事に関し2度も警告を出したことについて「ほとんど(例が)ない」と語りました。(強調は引用者)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-12/2016111215_02_1.html

 賞賛どころか、市長として基本的な仕事をしていないと言われても仕方がない。

 市長が復旧工事についてシロウト目線のQ&Aを自分のブログに載せて、それがわかりやすいとかナントカ、賞賛の声が寄せられているそうだが、自然災害のケースと勘違いしているのではないか。


 高島市長は、今回の事故について最初の記者会見で「グローバルなビジネスの中心部で起きてしまったが、どう見直すのか」と記者に問われて、

気持ちで言えば腹わたが煮え繰り返っていると。せっかくこうやって都市が成長してきていると。そんな中で事故が起きてしまうということは非常に憤りがある

https://www.youtube.com/watch?v=Q4zcXapv968

と答えている。

 一体彼は誰に対して「腹わたが煮え繰り返っている」のであろうか。



 以上が、直接今回の陥没事故についてのこと。

 以下は、余談めいたこと。

 余談が長いので、ヒマな人だけ付き合ってほしい。


規制緩和と大型開発を進める高島市

 高島市長が福岡市で血道をあげてやっているのは、国家戦略特区にもとづく規制緩和(「グローバル創業雇用創出特区」)と、それをテコにした大型開発(「天神ビッグバン」「ウォーターフロント地区再整備」)である。

 都市を「成長」させるという触れ込みで、規制緩和と大型プロジェクトを遮二無二にすすめている。“そんなボクの輝かしい栄光街道まっしぐらのもとで、なんだ、こんな事故を「起こし」やがって!”――記者会見で市長が記者に言われたこと、市長が言ったことはそういう話ではないか。ひねくれてではなく、素直に読めばそう読めてしまう。



 「スピード感をもってとりくむ」というのは高島市長が好んで使う言葉だが、「警告」を軽んじ“猛スピード”で突き進んだあげくに大陥没を起こしたというのが今回の事故ではないのか。


公園なのか、「レストランの庭」なのか

 高島市政が福岡市都心の再開発のカナメと位置付けている「天神ビッグバン」では、その手始めに天神にある「水上公園」のリニューアルをやった。2016年7月にレストランがオープンした。

福岡市 『天神ビッグバン』始動! 福岡市 『天神ビッグバン』始動!


 全景写真がないので、西鉄プレスリリースの図を引用させてもらうが、見ての通り、もはや公園ではなく「レストランとその庭」である。

f:id:kamiyakenkyujo:20161119215509j:image

引用元http://www.nishitetsu.co.jp/release/2015/15_109.pdf


公園内施設は公園面積の2%のはずなのに30%超える!?

 都市公園法では、公園内施設は公園面積の2%と決められ、福岡市の公園条例でも一応原則はそうなっている。

 国土交通省の「都市公園法運用指針」でも次のようにうたわれている。

都市公園は、本来、屋外における休息、運動等のレクリエーション活動を行う場所であり、ヒートアイランド現象の緩和等の都市環境の改善、生物多様性の確保等に大きな効用を発揮する緑地を確保するとともに、地震災害時における避難地等としての機能を目的とする施設であることから、原則として建築物によって建ぺいされない公共オープンスペースとしての基本的性格を有するものである。このような都市公園の性格から、公園敷地内の建築物によりその本来の機能に支障を生ずることを避けるため、都市公園敷地面積に対する建築物である公園施設の建築面積の許容される割合(以下「建ぺい率基準」という。)について、100分の2としてきたところである。(強調は引用者)

http://www.mlit.go.jp/crd/townscape/pdf/koen-shishin01.pdf

 ところが規制緩和によって「地域の実情に応じて」という看板で、自治体ごとの条例で事実上自由に決められるようになってしまった。福岡市では22%までオッケーという途方もないものだ。

 ところが、この水上公園ではこのレストランはこの「三角州」っぽい土地面積の3割を超えている。

 なぜこんなことが可能なのか。

 実は、川向こうにある「西中洲公園」を廃止して、水上公園と急きょ合併してしまい、「新・水上公園」となって公園面積を「水増し」して、この規制をクリアしてしまったのだ。

 いくら何でもやりすぎではないだろうか。

 事情を知らない人から見れば、いつもは「何もない公園」だったけども、おしゃれなレストランができてるじゃん、というほどのことであろう。これ、高島市長がやったの? へぇ、すばらしいね! と。公園が「空き地」に見える、したがって「ムダ」に見える人にはムダに見えるに違いない。ココ空いてるじゃん、そこに商業施設建てれば経済的価値を生むのにさあ、などと。こんな卑俗な意識に付き合っていたら、都市の安全設計はどうなるのか。


 おまけに、このレストランが入っているビルは西鉄が建設し、西鉄系の会社が管理する。

 賃料は平米あたり900円である。

 天神の一等地とは思えない安さ。このあたりで市が、例えば保育園などに土地を貸す場合は路線価の3%が基準となるので、平米単価4500円になる(これは市議会でもそう答弁している)。


 規制緩和で特定企業はもうかり、市民にとっても何だかよさそうな「にぎわい」が演出されているけども、見えないところで重大なコストを押しつけられている――高島市政のもとでおきているのはそういうことではないのか。


解雇指南」じゃねーの?

 福岡市は、高島市長になってから安倍政権と一体になって「グローバル創業雇用創出特区」という国家戦略特区の指定を受けているが、そこで始まったのが「雇用労働相談センター」の事業である。


 これまでも、労働者が駆け込むような相談窓口は、各地の労働局厚生労働省出先機関)にあった。「総合労働相談センター」というのがそれである。*1

 わざわざ、福岡市のような国家戦略特区(「グローバル創業雇用創出特区」)で作ったのは、使用者・事業主のための相談機能が必要だからである。

 もともと近代以降、労働法がつくられ、使用者と労働者の対決に際してストライキ権や組合の結成権など労働者に「ゲタ」がはかされているのは、労働者の立場が弱いと見なされてきたからである。

 それを、わざわざ使用者のために便宜を図ってやるというのが、この「雇用労働相談センター」なのである。

 国家戦略特区法(37条)で「個別労働関係紛争の未然防止等のための事業主に対する援助」として、次のように定められている。*2

国は、国家戦略特別区域において、個別労働関係紛争個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律(平成十三年法律第百十二号)第一条に規定する個別労働関係紛争をいう。次項において同じ。)を未然に防止すること等により、産業の国際競争力の強化又は国際的経済活動の拠点の形成に資する事業の円滑な展開を図るため、国家戦略特別区域内において新たに事業所を設置して新たに労働者を雇い入れる外国会社その他の事業主に対する情報の提供、相談、助言その他の援助を行うものとする。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H25/H25HO107.html

 ここでやられるのは、ベンチャー企業事業主が相談にやってきて「こいつを解雇したいけど、どうしたらいいですかね?」みたいな相談になるのではないか? そういう危惧があった。

 そうしたら、まさにその種のセミナーをやっていたというのである。

 …厚労省が運営する「福岡雇用労働相談センター」が2014年末に開催したセミナーで、同センターの代表弁護士が「解雇指南」とも呼ぶべき内容の講演を行ったことを批判し、政府の認識を問いました。

 田村氏は、「(労働者への制裁は)減給よりも出勤停止が役立つ」「勤務考課では(評価の低い)1と2をつけろ」「やめていただくうまい方法を見つけていく。センターに相談してください」などの講演内容は「解雇指南そのものだ」と批判し、雇用規制緩和特区構想にはなじまず、これでは「解雇特区」を引き継ぐものだと指摘。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-05-30/2015053004_04_1.html

雇用特区で解雇指南/田村氏が批判/参院内閣委 雇用特区で解雇指南/田村氏が批判/参院内閣委


通院も中3まで無料化を、解雇指南をするセンターと特区をやめよ|2015年予算議会|日本共産党福岡市議団 通院も中3まで無料化を、解雇指南をするセンターと特区をやめよ|2015年予算議会|日本共産党福岡市議団


 高島市政がすすめている規制緩和国家戦略特区)と、大型プロジェクトの陰でこうした市民犠牲が進んでいるのではないか、という危惧を捨てることはできない。


高島市政のもとで「成長」は起きているのか

 さらに言えば、高島市政のスローガンは「都市の成長と生活の質の向上の好循環」であり、典型的なトリクルダウンの考え方に立っている。

 都市が「成長」すれば、市民にもおこぼれがある、だからいいではないか、という考え方になるのか。

 陥没事故の記者会見時に高島市長が思わず口走った「せっかくこうやって都市が成長してきている」のにこんな「事故が起きてしまう」ことに「腹わたが煮え繰り返っている」というのは、こうした考えが思わず漏れてしまったのではないかと思える。


大企業は豊かになったが、市民・労働者は貧しくなった

 だが、そもそも高島市政になってから、福岡市は「成長」をしているのだろうか。

 「市民経済計算」を見ると、高島市政前(2009年)には市内総生産は6兆3530億円だったが、最新の数字(2013年)では6兆4618億円に2%ほどわずかに増えている。つまり、経済全体の果実はほんのわずかだが増えている。

 そういう意味では福岡市は「成長」していると言えるかもしれない。かろうじて。

 ところが、その取り分はどうなっているのか。

 民間法人所得は6873億円から9770億円と42%も増えている。

 他方で、市内雇用者報酬、つまり市内企業が従業員に渡す給料などは3兆5549億円から3兆3904億円へと逆に5%減らしているのである。

 最新の他の統計も見たが(福岡市個人市民税納税義務者における給与所得者の1人当たりの平均給与収入額など)やはり労働者の給料は減っているので、このトレンドは同じである。資本金10億円超のいわゆる「大企業」についても、福岡市での法人市民税法人税割額は2009年度と2014年度の比較では1.5倍にもなっている。

 つまり「成長」と言っても大企業ばかり儲かっていて、労働者・市民は逆に貧しくなっているのである。

 うむ、こう書くとひどく類型的かな、という気もしてくるが、あまりにもわかりやすすぎる数字が出ているので仕方がない。そうとしか言えぬのだ。市民実感としてもこんな感じ。


 新しい経済センサスで出した福岡市の2009年と14年の比較をみると、雇用者総数は1人減(!)。正社員は1万4762人減、非正規は1万4761人増である。数字がぴったりすぎ。何かの間違いかとさえ思った。高島市政下で雇用総数はピクリとも増えず(むしろ減った)、正規は非正規にまるまる置き換わったのだ。

 どこから吸い取られ、どこに運ばれていったか、わかる。

 鮮やかすぎる対比。


グローバル経済圏からローカル経済圏へのトリクルダウンは起きない

 アベノミクス支持派であり、経済同友会の副代表幹事である冨山和彦は、『なぜローカル経済から日本は甦るのか』(PHP新書)の中で、グローバル経済圏でのプレーヤーと、ローカル経済圏のプレーヤーに分けて、両者「直接的な関連性が薄れている」と述べ、

どこに行ってもトリクルダウンは容易には起きないのである。(462/2559)

と断言している。そして

経済性も産業特性も異なる世界を同時に抱えて成長戦略を進めるには、グローバル経済圏とローカル経済圏それぞれで別の戦略を用意し、二つの世界を共存させていくことが望ましい。(同前)

としている。

 高島市政が肝いりで進めている「爆買い」をはじめとする「クルーズ観光」呼び込みは、「経済波及効果が60億円!」とかいって税金をつぎ込み基盤整備を嬉々として進めているが、地元にはちっとも実感がない。それはもう恐ろしいくらいに実感がないのだ。地元の与党市議たちでさえぼやき、焦るほどに。

 実際、国外クルーズ客の福岡市の地元商店・商店街でどれくらい買い物をしているかの調査をしているか議会で聞かれて、福岡市は「していない」と平然と答えている。調査したら買っていないことがバレるから、調査するはずがない。

 東京に本社を持つような大資本が展開する大型店と、中国のブローカーが行く店を決めて儲けている程度で、地元に落ちては来ない。

 冨山の指摘する、「グローバル経済圏」と「ローカル経済圏」の交わらなさは、福岡市でも典型的に現れている(むしろクルーズ客用バスによる交通渋滞、学校行事でのバスの逼迫、規制緩和で酷使されるバス運転手など、市民はコストだけ負担させられている感がある)。


 高島市長がこの路線グローバル化をもとにした規制緩和と大型プロジェクト推進によるトリクルダウン)を進むこと自体にぼくは賛成できないのだが、仮にその路線を進むにしても、市民にかかる負担・コスト・安全にかなり重きをおくことと、「ローカル経済圏」への独自の循環の手立て・資源の配分をしないと、ひずみは大きくなるばかりだ。

*1:かなり前に定められていた法律個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」第3条にある「都道府県労働局長は、個別労働関係紛争を未然に防止し、及び個別労働関係紛争の自主的な解決を促進するため、労働者、求職者又は事業主に対し、労働関係に関する事項並びに労働者の募集及び採用に関する事項についての情報の提供、相談その他の援助を行うものとする」がこの既存相談所の根拠である。もう立派な法律があるのだ。労使のための中立的機関がありながら、特区ではわざわざ事業主=使用者のための援助機関を作ったのである。

*2:この法律には付帯決議がつけられ、この相談や援助は事業主だけでなく労働者にも利用できるようにしないといけないとしているが、法律としてはこの通りである。

2016-11-03 むしろ役員に読んでほしい 『PTAがやっぱりコワい人のための本』

大塚玲子『PTAがやっぱりコワい人のための本』




もしPTAをしなくていい権利をお金で買えたら - Togetterまとめ もしPTAをしなくていい権利をお金で買えたら - Togetterまとめ


 「PTA任意団体なんだから退会すればいいのに…」とならずに、こういう問いが成り立ってしまうのは、このまとめの中の終わりの方のツイートにあるように、同調圧力がこわいからという1点につきるだろう。


 うちの地域の子ども会は加入率が25%ほどに落ち込み、夏休みのラジオ体操の保護者当番が続けられなくなり、なんとPTAにこの当番の話が回ってきた(この体操に出てハンコを押す)。子ども会を回している親たちにかわり、夏休みのラジオ体操当番をPTAの会員が全員輪番で出席してやれ、というのである。*1

 地域の子ども会はもはや任意加入という意識が強く浸透していて、どんどん入らなくなっているからだ。


 知らない人のためいっておくが、子ども会とPTAは全く別組織である。子ども会は地域の任意団体であり、PTAは学校を単位とした任意団体である。前者も後者も昔は半強制加入だったが、今は前者には「入っても入らないでもいい」ということが浸透しているが、後者が任意制であるとは思いもよらない人たちが未だにぼくの住む地域には多い。

 全く別組織であるはずのPTAにこの仕事が最近降ってわいた訳で、「子どものため」という旗印で、半強制加入で豊富な労働力を持っているPTAの負担は増える一方である。


地域ぐるみの子育ての一端を担ってきた子ども会が、減少の一途をたどっている。福岡市内にある子ども会は、人数不足のため4月から活動を一時休止し、子どもたちは隣接する地域の子ども会に加わることになった。……全国子ども連合会に加盟する会員数は2015年度で約280万人と、ピークだった1981年度の約3分の1になった。(西日本新聞2016年4月10日付)

 そしてこれはPTAの幹部(活動家)や学校関係者が思い描く、典型的な悪夢でもある。任意加入を認めたとたんに、こうした崩壊とも言えるような現象が起きるに違いないと。


ぼくはいま任意加入の徹底を求めているが

 ぼくは、転校した今の小学校で、PTAの任意加入を求めている。

 いや、PTAはもともと任意加入なのだから、厳密にいうと、(1)規約に明記すること、(2)入学時などに任意であることを知らせること、(3)入会届・退会届を出すようにすること、を求めている。

 ぼくはヒラ会員なのでこんな根本議論PTA総会ぐらいでしか出せない。

 いきなりこの3つはハードルが高いので、「今年1年かけて研究・検討に着手する」という提案を要し、事前に会長に見せた。

「できれば役員会として、役員会から提案してもらえないか」

 会長からはていねいな電話があったが、結論的に言えば、それはのめないということだった。

 仕方なく、総会のヒラ場でいきなり動議提案せざるを得なくなる。説明をするがとても十分な時間は取れない。

 大半は戸惑って手もあげず、「提案に反対」に手を挙げた中の出席者が「提案に賛成」よりも多かったので提案は否決された。


 その総会の場で、ぼくの提案を受けて会長が「任意加入をどう伝えるかは課題だと思っている」「今後考えていきたい」と述べた上での否決だったので、それコミで否決されたのだろうというのがぼくの解釈だった。


 したがって、その後、PTAの係(専門委員会の副委員長)をやりながら、何度か「運営委員会」(PTAの定例的な意思決定の会議)や会長にただしたが進展はなく、会長からやんわりと「役員会としてはこれ以上協議はしない」というむねを伝えられた。


 ぼくはあきらめられず、今度は校長に「請願」を行った。

 校長は官公署=学校機関の公職だから、請願法にもとづく請願の対象になる。

 そして、「PTAは任意組織だから学校としては知りません」と言われないように、PTAの規約で校長が校長としてPTAに組み込まれていることを示して、PTAとしての話ではなく、公職者としてどう振る舞うかという問題になることを述べた。

 実は、ここから劇的な進展があったのだが、まあ、それはまた別の機会に述べる。この記事にとってはそこはどうでもいい。


何かに取り憑かれているのではないか?

 PTA会長も、役員も、そして校長も懇談をしたのだが、こわがっているのは「任意であることをきちんと伝えてしまうと、組織が瓦解する」ということだった。そのあまりにもわかりやすすぎるモデルが、その学校の地域の子ども会なのだった。加入率25%の悪夢。


 少なくとも、ぼくの娘が通う小学校のPTA関係者たちが取り憑かれているのはまさにこれ。

 任意加入にしたら、誰も入らなくなる、そして仕事が回らない、ということなのだ。


 だからこそ、ぼくは何度も会長にも言ったし、校長にも述べた。

「任意加入といっても、ぼくが示している3つをいきなりやれということでなくてもいいんですよ。例えばまず規約に書くことを検討してみるとか。それに、活動の仕方だって、今の委員会制度を前提にするから、『あの仕事はどうするんだ』『この仕事も今でもギリギリなのに』ってなるんですよ。それを1年くらいかけて研究したらいいんですよ」

 有り体に言えば、1年研究して、まずは、こっそり規約に書き込むだけでもいいのである。それがぼくの提案に「応えた」ということになるのだが、とにかく彼ら・彼女らにとっての前提は、


  • 任意であることを大々的に知らせたら、崩壊する
  • 仕事が回らない

 こればっかりなのだ。

 いやー、ホントに何かに憑かれてるんじゃね?

 妖怪とか。


 思考が凝り固まってしまっているのである。

 校長に聞いたが、ぼくの娘の通う学校では、PTA非加入は一人もいない。例外なく加入。それほどまでに「加入しなければならないもの」ということが浸透している。ぼくは「任意加入についての提案が今後全く受け入れられないなら、来年度は退会することもありうる」というふうに告げている。

 非加入者が出れば、おそらく質的に違うものになってしまうのだろう。


 うちの学校では、校納金といっしょにPTA会費を学校がいわば「代理徴集」する。それは名簿などの扱いから言って問題ではないのかと校長に問うたが、いまのところ全員加入であるので問題は生じないのだという。ただ、非加入者が一人でも出れば扱いは変わってくる、というのが校長の回答だった。


 ここにも、加入が任意であることを知らせることで退会者(非加入者)が出ることを恐れる「根拠」がみて取れる。


「思想の屈伸体操」としての本書

 そこで、本書、大塚玲子『PTAがやっぱりコワい人のための本』(太郎次郎社エディタス)である。すでに『PTAをけっこうラクにたのしくする本』を出している大塚であるが、前著は短いルポ・経験集のようにして、負担軽減と目的のクリア化を中心して、網羅的に様々な課題の解決方法を示した、いわば一種の百科事典的な良さがあった。

 本書は、エッセイ……というと言い過ぎであるが、PTAにまつわる「恐怖」「負担感」などの固定観念を解きほぐそうとする本である。鶴見俊輔は、かつてマンガのことを「思想の屈伸体操」と呼び*2、カチカチになったメインカルチャーの言葉と思想を解きほぐす役割として、マンガというサブカルチャーを特徴づけたことがあるが、まさにそれであろう。

 PTA問題を考える際の「思想の屈伸体操」


 目次を見るだけもそのことは一目瞭然であろう。

Part1◎嫌われスパイラルはなぜ続く?

 PTAの仕事はなぜ増えつづけるのか?

 減らせる仕事はないの? PTA断捨離

 データで見るPTA 担い手減少の現実

 「とにかくやらせる」から生じる本末転倒

 PTAが成立しなくなる!? タブー視されていた任意加入

 入会届け完備! ?合法?PTAが増殖中

 活動曜日・時間に正解はあるのか?

 保護者どうしの対立はなぜ泥沼化するのか

 地元に知りあい、いますか? じつはオトクなPTA

 「役員決め=地獄の根くらべ」の思い込み

 突破口になるか? お父さんのPTA 参加

 女性会長はなぜ少ない?─じわじわとPTA を変える、てぃーこさんインタビュー


Part2◎ヨソのPTA ではどうやってるの?

 「ポイント制」の罠にご用心

 パソコンできる人・できない人問題

 「ベルマークは勘弁して!」母たちの切実な叫び

 「おやじの会」はPTAのかわりになれるか?

 トラブルの温床? PTA改革で省いてはいけないこと

 会費なし、義務なしの町内会ができた!─紙屋高雪さんインタビュー


Part3◎ハッピーPTA はつくれますか?

 PTAをとことんIT化したら、何が起こる!?─川上慎市郎さんインタビュー

 「顧客」はだれか? 「もしドラPTA」をやってみた─山本浩資さんインタビュー

 時間も手間もかけず、あくまで「消極的」に!─小沢高広さん(漫画家・うめ)インタビュー

http://www.tarojiro.co.jp/product/5583/

 あ、そうなのである。

 ぼくのインタビューも収録されている。


あたかもカフェで話をするように

 本書はあたかも、カフェで雑談しながら、聞いているように読むのが正解である。

 例えば次のような会話があったとする。

「うちの学校、今度の土曜日、フェスタなんだけど、PTA委員総出で、フランクフルトとか焼きそば焼いて売るんだよね」

「へえ」

「売ったり作ったりするのはまだいいんだけど、物品の管理がすごくて、雑巾1枚、ラップ1本、スポンジ1つ、ぜんぶちゃんと返却したかをチェックするのがもう……」

「なんだそれ」

「つうか、フェスタ自体、こんな形式でやらないといけないのかね? 前の学校ではなかったんだけど。バザー委員会がバザーしていただけだったんだが、ここの学校では横断的に委員が総出でやるんだよ。やめてもいいと思うんだけど」

PTAの仕事って減らないよなあ」

「なんで減らないのかね」


……というつい先日、ぼくがした会話が想定される。

 そこで本書の出番である。

 本書冒頭の「PTAの仕事はなぜ増えつづけるのか?」にこうある。

PTAでは、「前年どおり」が目的化しがちなことと、「人が入れ替わる」ことによって、仕事が減りにくいことがおわかりいただけたでしょうか。(p.16)

 それはおそらく、PTAは「子どものため」の活動をしているからでしょう。

 「子どものため」に手をかけること、すなわち活動を増やすことは、一般的に「すばらしいこと」「賞賛されるべきこと」とみなされますが、活動を減らすことは「よろしくないこと」と認識されています。そのため、「増えるけど、減らない」という現象が起きるのです。(同前)


 ここには端的に、活動を増やすさいのポジティブなエートスもパトスもロゴスもふんだんに用意されていても、減らす方にはがあまりにも貧弱なものしかないことが示されている。

 あたかもカフェで、大塚という、「ちょっと詳し目の人」が軽く語って、他の人に気づきや方向づけを与えているかのような風景


 もしぼくがそのカフェにいたら、話の方向として、「じゃあ、PTAの仕事を見直して減らすことが子どものためにこんなにすばらしいという大義の旗印ってあるかな?」というように転がっていくと面白いと思う。


減らす・変えることへのコスト

 ぼくはいまPTAで保護者のために講演会などを企画する委員会にいるのだが、その時に驚いたのは「地域の町内会などの幹部に特別な封筒で渡す案内状を今年は省略する」という提案をした時に、委員(ふつうのお母さん)から出た意見だった。

「気を悪くする人がいるかもしれないし、待っている人がいるかもしれない」

 もちろん提案をしたので出てきた意見だったし、その人に悪意はまったくないし、ぼくも「こんな意地の悪い意見が…」とかいう意味で挙げたのではない(意見を出してもらったこと自体は真剣に考えてくれたということなので喜ばしいことだと言える)。

 企画そのものではなく、企画準備の一つの作業を例年から変えることにすら、ここまで「配慮」が及ぶものかとびっくりしたのである。*3


 つまり企画をなくす、減らす、ということについて、PTAや町内会のような輪番システムの中では、蓄積がなく、恐れが生じやすいのである。

 「現実的なものは合理的なものであり、合理的なものは現実的である」というヘーゲルの命題が頭をよぎる。現実に存在しているものは、何かの理由・理屈・ロジックを持って登場したのであり、現実に存在しているものはそのような理由や理屈・論理のかたまりとしてそこにある、という意味である。

 しかし、現実性を失ったからこそ、それは退場する。

 昔何かの理屈でそこに登場したものは、時代や条件の変化で理屈に合わなくなったので、現実から追い出されていくはずなのである。


 そこには、理屈の力がいるのではないか、とぼくは思った。

 

 本書で大塚は、さらに「減らせる仕事はないの? PTA断捨離術」としてどのようにリストラすべき仕事を探すのかという話に入っていく。


いまぼくが直面している課題に即して読むと

PTAがやっぱりコワい人のための本 冒頭に書いた、ぼくが提起し、ぼくの入っているPTA幹部たちが直面している疑問に即して言えば、p.45の「任意加入を周知したら、みんなやめてしまう?」のところが、ぼく的にはホットな話題である。ああ、ぜひ、この章をうちのPTA関係者に読んでもらい、思考のコリをほぐす糸口にしてほしい。


 大塚は、全国で任意加入を徹底したPTAのケースについて触れているが、それとは別に、次のような理屈を書いている。

みずからの意思で参加・活動する「ボランティア」というものも、自然なものとして日本社会に根づきつつあると感じます。(p.46)

現実的に考えると、ほとんどの日本人は「みんなと違うこと」をするのをひじょうに恐れるので、PTAが任意加入とわかっても、非加入を選ぶ人はそれほど多くならないことが予想されます。(同前)

 ここまでは「そんなに減らないよ」という説得である。

なかには仕組みを根っこから変えて、3〜4割の加入率で活動しているPTAもありますが、それでもいいと思うのです。いまだってPTAにがっつりかかわる保護者の率はそのていど(またはもっと少ない)だと思いますし、それでもし支障が出る場合は、人数が減ってもまわせるていどに活動を縮小すればいいはずです。(同前)

 これは、仮に減っても、それでいいじゃないかという提案だ。

 うむ、もしうちのPTA関係者と大塚がカフェで議論したら、たしかにこんなふうに議論が流れていくのが見えるようである。

 「え? そういう議論してないの?」「さっき、会長や役員と話しているって言ったよね?」と思うかもしれないが、してないのである。なぜなら、「ぼくの提案を議題にしてほしい」というところで話がほとんど止まっていて、肝心の「任意加入にしたら減るのではないか」という議論の本論まではほとんど深まっていかないのである。ぼくが付け加えのように一方的に軽く触れるだけで、そこに入り込んで議論する姿勢がないのである。


 ただ、こうした議論を、一度でいいから、ざっくばらんな場で仕掛けてみたい。

 しかし、今のPTAのスケジュールや会合の場ではそんなことを提起する時空間は一つもないのである。

 本書を読んで同意しなくてもいい。

 あくまで本書の役割は、思考のコリをほぐすことなのだ。


 本書は、そのようなPTAに関する凝り固まった石頭をほぐす役割を果たすにちがいない。

 「PTAがコワい人」にではなく、むしろPTAを熱心にやっている人に読んでほしい。

*1子ども会に非加入の子どもラジオ体操にくるので、皆勤賞の場合に加入の子どもだけに渡すのはどうなのか、などの議論になったようである。

*2:「漫画における思想性は、その漫画のなかに織りこまれる思想そのものによるより、むしろ、自由な思想の行使にとって不可欠なしなやかさを保つための、思想の屈伸体操を提供することにある」、『鶴見俊輔集7』筑摩書房、p.69

*3:一応役員と前任委員長にも意見をきき、「案内状めいたものをつけたチラシを地域には配布するので礼を欠いたことにはならないだろう」「特別な案内状を出すことで地域団体の幹部も来る効果があるが、あくまで保護者メインに講演会をやればいいと考える」という返答をして、会議にはかり、すんなり納得してもらったが。