Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


※すべての記事は上の「記事一覧」で見られます。
※上の「日記」で検索すると当ブログ内の検索ができます。
※旧サイトはhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-taです。
コメント・トラックバックには普段は反応・返答しませんのでご了承ください。
※メールはcbl03270(at)pop06.odn.ne.jp  ←(at)を@に直してください。
※うまくメールが送れないときはこちらからどうぞ。
※お仕事の依頼や回答が必要なことなどはメールでお願いします。

2016-11-19 博多駅前陥没事故について(および福岡市政について)

博多駅前陥没事故について(および福岡市政について)


 博多駅前陥没事故で復旧が早かったことに関連して、びっくりしたことがある。

 復旧の早さそのものではない。

 高島宗一郎福岡市長に対してまで賞賛の声が上がっているのを聞いてびっくりしたのだ。

 異常という他ないので、一言書いておきたい。


事故の最高責任者に「賞賛」?

 具体的な原因究明はこれからであるにせよ、すでに市自身は直接の原因が市の地下鉄七隈線延伸)工事であることを認めている。いわば市の公共工事が原因で起きた事故であり、その責任は市長自身にあることは明白だからだ。

 事故の最高責任者に「賞賛」を浴びせるという、その意味がわからない。


繰り返される「陥没」と国の「警告」

 しかも福岡市が起こした地下鉄工事をめぐる道路陥没事故は初めてではない。

 まず2000年6月20日には、中央区薬院で今回ほどではないが大規模な道路陥没を起こしている。

陥没三たび生きぬ教訓 福岡市、事前調査で見抜けず 岩盤もろく土砂流入 - 西日本新聞 陥没三たび生きぬ教訓 福岡市、事前調査で見抜けず 岩盤もろく土砂流入 - 西日本新聞

 高島市長になってからの2014年にもやはり七隈線延伸工事で陥没事故を起こしている(博多区祇園)。



薬院祇園での陥没の写真(西日本新聞

http://www.nishinippon.co.jp/import/national/20161109/201611090004_001_m.jpg




 高島市政が起こした2014年の陥没事故に対して、国土交通省九州運輸局)は警告書を発している。

 国から警告書まで出されて、またまた、というか「前代未聞」(市長)の規模の陥没を再び起こしたのである。なんということであろうか。

 市の交通局長(交通事業管理者)が「前回の教訓がありながら、結果的に前回よりも大規模な事故が起きたことを深く反省している」と発言したのはまさにそういうことだ。

 ふだんは「高島びいき」ともいうべき保守系の新聞が、過去の教訓が生かされない点を指摘して市の責任をつく社説を展開しているのを、ぼくは興味深く読んだ。

 …看過できないのは、2014年10月にも、この地下鉄工事により、道路の陥没事故が起きていることだ。国土交通省の警告を受けた市は、施工業者と連携し、巡視を強化した経緯がある。

 再発防止策が不十分だったのは明らかだろう国交省九州運輸局が市交通局への異例の立ち入り検査に踏み切ったのも、当然だ。(読売新聞社説2016年11月11日付、強調は引用者)

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20161110-OYT1T50181.html

福岡市営地下鉄の工事では、2年前にも市道が陥没する事故が起きている。今回の現場からは約400メートルしか離れていない。市や施工業者の責任は重大である。2年前の事故の教訓はどう生かされたのか、生かされなかったのか。詳細な報告を求めたい。(産経新聞「主張」2016年11月11日付、強調は引用者)

http://www.sankei.com/column/news/161111/clm1611110001-n2.html


 しかもこういう失態が「異例」であることは、国自身が次のように証言していることから見ても、実にはっきりしている。(まあ、だからこそ立入検査をしたわけだが。)

九州運輸局は)こういう鉄道運行ではなく工事に関し2度も警告を出したことについて「ほとんど(例が)ない」と語りました。(強調は引用者)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-12/2016111215_02_1.html

 賞賛どころか、市長として基本的な仕事をしていないと言われても仕方がない。

 市長が復旧工事についてシロウト目線のQ&Aを自分のブログに載せて、それがわかりやすいとかナントカ、賞賛の声が寄せられているそうだが、自然災害のケースと勘違いしているのではないか。


 高島市長は、今回の事故について最初の記者会見で「グローバルなビジネスの中心部で起きてしまったが、どう見直すのか」と記者に問われて、

気持ちで言えば腹わたが煮え繰り返っていると。せっかくこうやって都市が成長してきていると。そんな中で事故が起きてしまうということは非常に憤りがある

https://www.youtube.com/watch?v=Q4zcXapv968

と答えている。

 一体彼は誰に対して「腹わたが煮え繰り返っている」のであろうか。



 以上が、直接今回の陥没事故についてのこと。

 以下は、余談めいたこと。

 余談が長いので、ヒマな人だけ付き合ってほしい。


規制緩和と大型開発を進める高島市

 高島市長が福岡市で血道をあげてやっているのは、国家戦略特区にもとづく規制緩和(「グローバル創業雇用創出特区」)と、それをテコにした大型開発(「天神ビッグバン」「ウォーターフロント地区再整備」)である。

 都市を「成長」させるという触れ込みで、規制緩和と大型プロジェクトを遮二無二にすすめている。“そんなボクの輝かしい栄光街道まっしぐらのもとで、なんだ、こんな事故を「起こし」やがって!”――記者会見で市長が記者に言われたこと、市長が言ったことはそういう話ではないか。ひねくれてではなく、素直に読めばそう読めてしまう。



 「スピード感をもってとりくむ」というのは高島市長が好んで使う言葉だが、「警告」を軽んじ“猛スピード”で突き進んだあげくに大陥没を起こしたというのが今回の事故ではないのか。


公園なのか、「レストランの庭」なのか

 高島市政が福岡市都心の再開発のカナメと位置付けている「天神ビッグバン」では、その手始めに天神にある「水上公園」のリニューアルをやった。2016年7月にレストランがオープンした。

福岡市 『天神ビッグバン』始動! 福岡市 『天神ビッグバン』始動!


 全景写真がないので、西鉄プレスリリースの図を引用させてもらうが、見ての通り、もはや公園ではなく「レストランとその庭」である。

f:id:kamiyakenkyujo:20161119215509j:image

引用元http://www.nishitetsu.co.jp/release/2015/15_109.pdf


公園内施設は公園面積の2%のはずなのに30%超える!?

 都市公園法では、公園内施設は公園面積の2%と決められ、福岡市の公園条例でも一応原則はそうなっている。

 国土交通省の「都市公園法運用指針」でも次のようにうたわれている。

都市公園は、本来、屋外における休息、運動等のレクリエーション活動を行う場所であり、ヒートアイランド現象の緩和等の都市環境の改善、生物多様性の確保等に大きな効用を発揮する緑地を確保するとともに、地震災害時における避難地等としての機能を目的とする施設であることから、原則として建築物によって建ぺいされない公共オープンスペースとしての基本的性格を有するものである。このような都市公園の性格から、公園敷地内の建築物によりその本来の機能に支障を生ずることを避けるため、都市公園敷地面積に対する建築物である公園施設の建築面積の許容される割合(以下「建ぺい率基準」という。)について、100分の2としてきたところである。(強調は引用者)

http://www.mlit.go.jp/crd/townscape/pdf/koen-shishin01.pdf

 ところが規制緩和によって「地域の実情に応じて」という看板で、自治体ごとの条例で事実上自由に決められるようになってしまった。福岡市では22%までオッケーという途方もないものだ。

 ところが、この水上公園ではこのレストランはこの「三角州」っぽい土地面積の3割を超えている。

 なぜこんなことが可能なのか。

 実は、川向こうにある「西中洲公園」を廃止して、水上公園と急きょ合併してしまい、「新・水上公園」となって公園面積を「水増し」して、この規制をクリアしてしまったのだ。

 いくら何でもやりすぎではないだろうか。

 事情を知らない人から見れば、いつもは「何もない公園」だったけども、おしゃれなレストランができてるじゃん、というほどのことであろう。これ、高島市長がやったの? へぇ、すばらしいね! と。公園が「空き地」に見える、したがって「ムダ」に見える人にはムダに見えるに違いない。ココ空いてるじゃん、そこに商業施設建てれば経済的価値を生むのにさあ、などと。こんな卑俗な意識に付き合っていたら、都市の安全設計はどうなるのか。


 おまけに、このレストランが入っているビルは西鉄が建設し、西鉄系の会社が管理する。

 賃料は平米あたり900円である。

 天神の一等地とは思えない安さ。このあたりで市が、例えば保育園などに土地を貸す場合は路線価の3%が基準となるので、平米単価4500円になる(これは市議会でもそう答弁している)。


 規制緩和で特定企業はもうかり、市民にとっても何だかよさそうな「にぎわい」が演出されているけども、見えないところで重大なコストを押しつけられている――高島市政のもとでおきているのはそういうことではないのか。


解雇指南」じゃねーの?

 福岡市は、高島市長になってから安倍政権と一体になって「グローバル創業雇用創出特区」という国家戦略特区の指定を受けているが、そこで始まったのが「雇用労働相談センター」の事業である。


 これまでも、労働者が駆け込むような相談窓口は、各地の労働局厚生労働省出先機関)にあった。「総合労働相談センター」というのがそれである。*1

 わざわざ、福岡市のような国家戦略特区(「グローバル創業雇用創出特区」)で作ったのは、使用者・事業主のための相談機能が必要だからである。

 もともと近代以降、労働法がつくられ、使用者と労働者の対決に際してストライキ権や組合の結成権など労働者に「ゲタ」がはかされているのは、労働者の立場が弱いと見なされてきたからである。

 それを、わざわざ使用者のために便宜を図ってやるというのが、この「雇用労働相談センター」なのである。

 国家戦略特区法(37条)で「個別労働関係紛争の未然防止等のための事業主に対する援助」として、次のように定められている。*2

国は、国家戦略特別区域において、個別労働関係紛争個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律(平成十三年法律第百十二号)第一条に規定する個別労働関係紛争をいう。次項において同じ。)を未然に防止すること等により、産業の国際競争力の強化又は国際的経済活動の拠点の形成に資する事業の円滑な展開を図るため、国家戦略特別区域内において新たに事業所を設置して新たに労働者を雇い入れる外国会社その他の事業主に対する情報の提供、相談、助言その他の援助を行うものとする。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H25/H25HO107.html

 ここでやられるのは、ベンチャー企業事業主が相談にやってきて「こいつを解雇したいけど、どうしたらいいですかね?」みたいな相談になるのではないか? そういう危惧があった。

 そうしたら、まさにその種のセミナーをやっていたというのである。

 …厚労省が運営する「福岡雇用労働相談センター」が2014年末に開催したセミナーで、同センターの代表弁護士が「解雇指南」とも呼ぶべき内容の講演を行ったことを批判し、政府の認識を問いました。

 田村氏は、「(労働者への制裁は)減給よりも出勤停止が役立つ」「勤務考課では(評価の低い)1と2をつけろ」「やめていただくうまい方法を見つけていく。センターに相談してください」などの講演内容は「解雇指南そのものだ」と批判し、雇用規制緩和特区構想にはなじまず、これでは「解雇特区」を引き継ぐものだと指摘。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-05-30/2015053004_04_1.html

雇用特区で解雇指南/田村氏が批判/参院内閣委 雇用特区で解雇指南/田村氏が批判/参院内閣委


通院も中3まで無料化を、解雇指南をするセンターと特区をやめよ|2015年予算議会|日本共産党福岡市議団 通院も中3まで無料化を、解雇指南をするセンターと特区をやめよ|2015年予算議会|日本共産党福岡市議団


 高島市政がすすめている規制緩和国家戦略特区)と、大型プロジェクトの陰でこうした市民犠牲が進んでいるのではないか、という危惧を捨てることはできない。


高島市政のもとで「成長」は起きているのか

 さらに言えば、高島市政のスローガンは「都市の成長と生活の質の向上の好循環」であり、典型的なトリクルダウンの考え方に立っている。

 都市が「成長」すれば、市民にもおこぼれがある、だからいいではないか、という考え方になるのか。

 陥没事故の記者会見時に高島市長が思わず口走った「せっかくこうやって都市が成長してきている」のにこんな「事故が起きてしまう」ことに「腹わたが煮え繰り返っている」というのは、こうした考えが思わず漏れてしまったのではないかと思える。


大企業は豊かになったが、市民・労働者は貧しくなった

 だが、そもそも高島市政になってから、福岡市は「成長」をしているのだろうか。

 「市民経済計算」を見ると、高島市政前(2009年)には市内総生産は6兆3530億円だったが、最新の数字(2013年)では6兆4618億円に2%ほどわずかに増えている。つまり、経済全体の果実はほんのわずかだが増えている。

 そういう意味では福岡市は「成長」していると言えるかもしれない。かろうじて。

 ところが、その取り分はどうなっているのか。

 民間法人所得は6873億円から9770億円と42%も増えている。

 他方で、市内雇用者報酬、つまり市内企業が従業員に渡す給料などは3兆5549億円から3兆3904億円へと逆に5%減らしているのである。

 最新の他の統計も見たが(福岡市個人市民税納税義務者における給与所得者の1人当たりの平均給与収入額など)やはり労働者の給料は減っているので、このトレンドは同じである。資本金10億円超のいわゆる「大企業」についても、福岡市での法人市民税法人税割額は2009年度と2014年度の比較では1.5倍にもなっている。

 つまり「成長」と言っても大企業ばかり儲かっていて、労働者・市民は逆に貧しくなっているのである。

 うむ、こう書くとひどく類型的かな、という気もしてくるが、あまりにもわかりやすすぎる数字が出ているので仕方がない。そうとしか言えぬのだ。市民実感としてもこんな感じ。


 新しい経済センサスで出した福岡市の2009年と14年の比較をみると、雇用者総数は1人減(!)。正社員は1万4762人減、非正規は1万4761人増である。数字がぴったりすぎ。何かの間違いかとさえ思った。高島市政下で雇用総数はピクリとも増えず(むしろ減った)、正規は非正規にまるまる置き換わったのだ。

 どこから吸い取られ、どこに運ばれていったか、わかる。

 鮮やかすぎる対比。


グローバル経済圏からローカル経済圏へのトリクルダウンは起きない

 アベノミクス支持派であり、経済同友会の副代表幹事である冨山和彦は、『なぜローカル経済から日本は甦るのか』(PHP新書)の中で、グローバル経済圏でのプレーヤーと、ローカル経済圏のプレーヤーに分けて、両者「直接的な関連性が薄れている」と述べ、

どこに行ってもトリクルダウンは容易には起きないのである。(462/2559)

と断言している。そして

経済性も産業特性も異なる世界を同時に抱えて成長戦略を進めるには、グローバル経済圏とローカル経済圏それぞれで別の戦略を用意し、二つの世界を共存させていくことが望ましい。(同前)

としている。

 高島市政が肝いりで進めている「爆買い」をはじめとする「クルーズ観光」呼び込みは、「経済波及効果が60億円!」とかいって税金をつぎ込み基盤整備を嬉々として進めているが、地元にはちっとも実感がない。それはもう恐ろしいくらいに実感がないのだ。地元の与党市議たちでさえぼやき、焦るほどに。

 実際、国外クルーズ客の福岡市の地元商店・商店街でどれくらい買い物をしているかの調査をしているか議会で聞かれて、福岡市は「していない」と平然と答えている。調査したら買っていないことがバレるから、調査するはずがない。

 東京に本社を持つような大資本が展開する大型店と、中国のブローカーが行く店を決めて儲けている程度で、地元に落ちては来ない。

 冨山の指摘する、「グローバル経済圏」と「ローカル経済圏」の交わらなさは、福岡市でも典型的に現れている(むしろクルーズ客用バスによる交通渋滞、学校行事でのバスの逼迫、規制緩和で酷使されるバス運転手など、市民はコストだけ負担させられている感がある)。


 高島市長がこの路線グローバル化をもとにした規制緩和と大型プロジェクト推進によるトリクルダウン)を進むこと自体にぼくは賛成できないのだが、仮にその路線を進むにしても、市民にかかる負担・コスト・安全にかなり重きをおくことと、「ローカル経済圏」への独自の循環の手立て・資源の配分をしないと、ひずみは大きくなるばかりだ。

*1:かなり前に定められていた法律個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」第3条にある「都道府県労働局長は、個別労働関係紛争を未然に防止し、及び個別労働関係紛争の自主的な解決を促進するため、労働者、求職者又は事業主に対し、労働関係に関する事項並びに労働者の募集及び採用に関する事項についての情報の提供、相談その他の援助を行うものとする」がこの既存相談所の根拠である。もう立派な法律があるのだ。労使のための中立的機関がありながら、特区ではわざわざ事業主=使用者のための援助機関を作ったのである。

*2:この法律には付帯決議がつけられ、この相談や援助は事業主だけでなく労働者にも利用できるようにしないといけないとしているが、法律としてはこの通りである。

2016-11-03 むしろ役員に読んでほしい 『PTAがやっぱりコワい人のための本』

大塚玲子『PTAがやっぱりコワい人のための本』




もしPTAをしなくていい権利をお金で買えたら - Togetterまとめ もしPTAをしなくていい権利をお金で買えたら - Togetterまとめ


 「PTA任意団体なんだから退会すればいいのに…」とならずに、こういう問いが成り立ってしまうのは、このまとめの中の終わりの方のツイートにあるように、同調圧力がこわいからという1点につきるだろう。


 うちの地域の子ども会は加入率が25%ほどに落ち込み、夏休みのラジオ体操の保護者当番が続けられなくなり、なんとPTAにこの当番の話が回ってきた(この体操に出てハンコを押す)。子ども会を回している親たちにかわり、夏休みのラジオ体操当番をPTAの会員が全員輪番で出席してやれ、というのである。*1

 地域の子ども会はもはや任意加入という意識が強く浸透していて、どんどん入らなくなっているからだ。


 知らない人のためいっておくが、子ども会とPTAは全く別組織である。子ども会は地域の任意団体であり、PTAは学校を単位とした任意団体である。前者も後者も昔は半強制加入だったが、今は前者には「入っても入らないでもいい」ということが浸透しているが、後者が任意制であるとは思いもよらない人たちが未だにぼくの住む地域には多い。

 全く別組織であるはずのPTAにこの仕事が最近降ってわいた訳で、「子どものため」という旗印で、半強制加入で豊富な労働力を持っているPTAの負担は増える一方である。


地域ぐるみの子育ての一端を担ってきた子ども会が、減少の一途をたどっている。福岡市内にある子ども会は、人数不足のため4月から活動を一時休止し、子どもたちは隣接する地域の子ども会に加わることになった。……全国子ども連合会に加盟する会員数は2015年度で約280万人と、ピークだった1981年度の約3分の1になった。(西日本新聞2016年4月10日付)

 そしてこれはPTAの幹部(活動家)や学校関係者が思い描く、典型的な悪夢でもある。任意加入を認めたとたんに、こうした崩壊とも言えるような現象が起きるに違いないと。


ぼくはいま任意加入の徹底を求めているが

 ぼくは、転校した今の小学校で、PTAの任意加入を求めている。

 いや、PTAはもともと任意加入なのだから、厳密にいうと、(1)規約に明記すること、(2)入学時などに任意であることを知らせること、(3)入会届・退会届を出すようにすること、を求めている。

 ぼくはヒラ会員なのでこんな根本議論PTA総会ぐらいでしか出せない。

 いきなりこの3つはハードルが高いので、「今年1年かけて研究・検討に着手する」という提案を要し、事前に会長に見せた。

「できれば役員会として、役員会から提案してもらえないか」

 会長からはていねいな電話があったが、結論的に言えば、それはのめないということだった。

 仕方なく、総会のヒラ場でいきなり動議提案せざるを得なくなる。説明をするがとても十分な時間は取れない。

 大半は戸惑って手もあげず、「提案に反対」に手を挙げた中の出席者が「提案に賛成」よりも多かったので提案は否決された。


 その総会の場で、ぼくの提案を受けて会長が「任意加入をどう伝えるかは課題だと思っている」「今後考えていきたい」と述べた上での否決だったので、それコミで否決されたのだろうというのがぼくの解釈だった。


 したがって、その後、PTAの係(専門委員会の副委員長)をやりながら、何度か「運営委員会」(PTAの定例的な意思決定の会議)や会長にただしたが進展はなく、会長からやんわりと「役員会としてはこれ以上協議はしない」というむねを伝えられた。


 ぼくはあきらめられず、今度は校長に「請願」を行った。

 校長は官公署=学校機関の公職だから、請願法にもとづく請願の対象になる。

 そして、「PTAは任意組織だから学校としては知りません」と言われないように、PTAの規約で校長が校長としてPTAに組み込まれていることを示して、PTAとしての話ではなく、公職者としてどう振る舞うかという問題になることを述べた。

 実は、ここから劇的な進展があったのだが、まあ、それはまた別の機会に述べる。この記事にとってはそこはどうでもいい。


何かに取り憑かれているのではないか?

 PTA会長も、役員も、そして校長も懇談をしたのだが、こわがっているのは「任意であることをきちんと伝えてしまうと、組織が瓦解する」ということだった。そのあまりにもわかりやすすぎるモデルが、その学校の地域の子ども会なのだった。加入率25%の悪夢。


 少なくとも、ぼくの娘が通う小学校のPTA関係者たちが取り憑かれているのはまさにこれ。

 任意加入にしたら、誰も入らなくなる、そして仕事が回らない、ということなのだ。


 だからこそ、ぼくは何度も会長にも言ったし、校長にも述べた。

「任意加入といっても、ぼくが示している3つをいきなりやれということでなくてもいいんですよ。例えばまず規約に書くことを検討してみるとか。それに、活動の仕方だって、今の委員会制度を前提にするから、『あの仕事はどうするんだ』『この仕事も今でもギリギリなのに』ってなるんですよ。それを1年くらいかけて研究したらいいんですよ」

 有り体に言えば、1年研究して、まずは、こっそり規約に書き込むだけでもいいのである。それがぼくの提案に「応えた」ということになるのだが、とにかく彼ら・彼女らにとっての前提は、


  • 任意であることを大々的に知らせたら、崩壊する
  • 仕事が回らない

 こればっかりなのだ。

 いやー、ホントに何かに憑かれてるんじゃね?

 妖怪とか。


 思考が凝り固まってしまっているのである。

 校長に聞いたが、ぼくの娘の通う学校では、PTA非加入は一人もいない。例外なく加入。それほどまでに「加入しなければならないもの」ということが浸透している。ぼくは「任意加入についての提案が今後全く受け入れられないなら、来年度は退会することもありうる」というふうに告げている。

 非加入者が出れば、おそらく質的に違うものになってしまうのだろう。


 うちの学校では、校納金といっしょにPTA会費を学校がいわば「代理徴集」する。それは名簿などの扱いから言って問題ではないのかと校長に問うたが、いまのところ全員加入であるので問題は生じないのだという。ただ、非加入者が一人でも出れば扱いは変わってくる、というのが校長の回答だった。


 ここにも、加入が任意であることを知らせることで退会者(非加入者)が出ることを恐れる「根拠」がみて取れる。


「思想の屈伸体操」としての本書

 そこで、本書、大塚玲子『PTAがやっぱりコワい人のための本』(太郎次郎社エディタス)である。すでに『PTAをけっこうラクにたのしくする本』を出している大塚であるが、前著は短いルポ・経験集のようにして、負担軽減と目的のクリア化を中心して、網羅的に様々な課題の解決方法を示した、いわば一種の百科事典的な良さがあった。

 本書は、エッセイ……というと言い過ぎであるが、PTAにまつわる「恐怖」「負担感」などの固定観念を解きほぐそうとする本である。鶴見俊輔は、かつてマンガのことを「思想の屈伸体操」と呼び*2、カチカチになったメインカルチャーの言葉と思想を解きほぐす役割として、マンガというサブカルチャーを特徴づけたことがあるが、まさにそれであろう。

 PTA問題を考える際の「思想の屈伸体操」


 目次を見るだけもそのことは一目瞭然であろう。

Part1◎嫌われスパイラルはなぜ続く?

 PTAの仕事はなぜ増えつづけるのか?

 減らせる仕事はないの? PTA断捨離

 データで見るPTA 担い手減少の現実

 「とにかくやらせる」から生じる本末転倒

 PTAが成立しなくなる!? タブー視されていた任意加入

 入会届け完備! ?合法?PTAが増殖中

 活動曜日・時間に正解はあるのか?

 保護者どうしの対立はなぜ泥沼化するのか

 地元に知りあい、いますか? じつはオトクなPTA

 「役員決め=地獄の根くらべ」の思い込み

 突破口になるか? お父さんのPTA 参加

 女性会長はなぜ少ない?─じわじわとPTA を変える、てぃーこさんインタビュー


Part2◎ヨソのPTA ではどうやってるの?

 「ポイント制」の罠にご用心

 パソコンできる人・できない人問題

 「ベルマークは勘弁して!」母たちの切実な叫び

 「おやじの会」はPTAのかわりになれるか?

 トラブルの温床? PTA改革で省いてはいけないこと

 会費なし、義務なしの町内会ができた!─紙屋高雪さんインタビュー


Part3◎ハッピーPTA はつくれますか?

 PTAをとことんIT化したら、何が起こる!?─川上慎市郎さんインタビュー

 「顧客」はだれか? 「もしドラPTA」をやってみた─山本浩資さんインタビュー

 時間も手間もかけず、あくまで「消極的」に!─小沢高広さん(漫画家・うめ)インタビュー

http://www.tarojiro.co.jp/product/5583/

 あ、そうなのである。

 ぼくのインタビューも収録されている。


あたかもカフェで話をするように

 本書はあたかも、カフェで雑談しながら、聞いているように読むのが正解である。

 例えば次のような会話があったとする。

「うちの学校、今度の土曜日、フェスタなんだけど、PTA委員総出で、フランクフルトとか焼きそば焼いて売るんだよね」

「へえ」

「売ったり作ったりするのはまだいいんだけど、物品の管理がすごくて、雑巾1枚、ラップ1本、スポンジ1つ、ぜんぶちゃんと返却したかをチェックするのがもう……」

「なんだそれ」

「つうか、フェスタ自体、こんな形式でやらないといけないのかね? 前の学校ではなかったんだけど。バザー委員会がバザーしていただけだったんだが、ここの学校では横断的に委員が総出でやるんだよ。やめてもいいと思うんだけど」

PTAの仕事って減らないよなあ」

「なんで減らないのかね」


……というつい先日、ぼくがした会話が想定される。

 そこで本書の出番である。

 本書冒頭の「PTAの仕事はなぜ増えつづけるのか?」にこうある。

PTAでは、「前年どおり」が目的化しがちなことと、「人が入れ替わる」ことによって、仕事が減りにくいことがおわかりいただけたでしょうか。(p.16)

 それはおそらく、PTAは「子どものため」の活動をしているからでしょう。

 「子どものため」に手をかけること、すなわち活動を増やすことは、一般的に「すばらしいこと」「賞賛されるべきこと」とみなされますが、活動を減らすことは「よろしくないこと」と認識されています。そのため、「増えるけど、減らない」という現象が起きるのです。(同前)


 ここには端的に、活動を増やすさいのポジティブなエートスもパトスもロゴスもふんだんに用意されていても、減らす方にはがあまりにも貧弱なものしかないことが示されている。

 あたかもカフェで、大塚という、「ちょっと詳し目の人」が軽く語って、他の人に気づきや方向づけを与えているかのような風景


 もしぼくがそのカフェにいたら、話の方向として、「じゃあ、PTAの仕事を見直して減らすことが子どものためにこんなにすばらしいという大義の旗印ってあるかな?」というように転がっていくと面白いと思う。


減らす・変えることへのコスト

 ぼくはいまPTAで保護者のために講演会などを企画する委員会にいるのだが、その時に驚いたのは「地域の町内会などの幹部に特別な封筒で渡す案内状を今年は省略する」という提案をした時に、委員(ふつうのお母さん)から出た意見だった。

「気を悪くする人がいるかもしれないし、待っている人がいるかもしれない」

 もちろん提案をしたので出てきた意見だったし、その人に悪意はまったくないし、ぼくも「こんな意地の悪い意見が…」とかいう意味で挙げたのではない(意見を出してもらったこと自体は真剣に考えてくれたということなので喜ばしいことだと言える)。

 企画そのものではなく、企画準備の一つの作業を例年から変えることにすら、ここまで「配慮」が及ぶものかとびっくりしたのである。*3


 つまり企画をなくす、減らす、ということについて、PTAや町内会のような輪番システムの中では、蓄積がなく、恐れが生じやすいのである。

 「現実的なものは合理的なものであり、合理的なものは現実的である」というヘーゲルの命題が頭をよぎる。現実に存在しているものは、何かの理由・理屈・ロジックを持って登場したのであり、現実に存在しているものはそのような理由や理屈・論理のかたまりとしてそこにある、という意味である。

 しかし、現実性を失ったからこそ、それは退場する。

 昔何かの理屈でそこに登場したものは、時代や条件の変化で理屈に合わなくなったので、現実から追い出されていくはずなのである。


 そこには、理屈の力がいるのではないか、とぼくは思った。

 

 本書で大塚は、さらに「減らせる仕事はないの? PTA断捨離術」としてどのようにリストラすべき仕事を探すのかという話に入っていく。


いまぼくが直面している課題に即して読むと

PTAがやっぱりコワい人のための本 冒頭に書いた、ぼくが提起し、ぼくの入っているPTA幹部たちが直面している疑問に即して言えば、p.45の「任意加入を周知したら、みんなやめてしまう?」のところが、ぼく的にはホットな話題である。ああ、ぜひ、この章をうちのPTA関係者に読んでもらい、思考のコリをほぐす糸口にしてほしい。


 大塚は、全国で任意加入を徹底したPTAのケースについて触れているが、それとは別に、次のような理屈を書いている。

みずからの意思で参加・活動する「ボランティア」というものも、自然なものとして日本社会に根づきつつあると感じます。(p.46)

現実的に考えると、ほとんどの日本人は「みんなと違うこと」をするのをひじょうに恐れるので、PTAが任意加入とわかっても、非加入を選ぶ人はそれほど多くならないことが予想されます。(同前)

 ここまでは「そんなに減らないよ」という説得である。

なかには仕組みを根っこから変えて、3〜4割の加入率で活動しているPTAもありますが、それでもいいと思うのです。いまだってPTAにがっつりかかわる保護者の率はそのていど(またはもっと少ない)だと思いますし、それでもし支障が出る場合は、人数が減ってもまわせるていどに活動を縮小すればいいはずです。(同前)

 これは、仮に減っても、それでいいじゃないかという提案だ。

 うむ、もしうちのPTA関係者と大塚がカフェで議論したら、たしかにこんなふうに議論が流れていくのが見えるようである。

 「え? そういう議論してないの?」「さっき、会長や役員と話しているって言ったよね?」と思うかもしれないが、してないのである。なぜなら、「ぼくの提案を議題にしてほしい」というところで話がほとんど止まっていて、肝心の「任意加入にしたら減るのではないか」という議論の本論まではほとんど深まっていかないのである。ぼくが付け加えのように一方的に軽く触れるだけで、そこに入り込んで議論する姿勢がないのである。


 ただ、こうした議論を、一度でいいから、ざっくばらんな場で仕掛けてみたい。

 しかし、今のPTAのスケジュールや会合の場ではそんなことを提起する時空間は一つもないのである。

 本書を読んで同意しなくてもいい。

 あくまで本書の役割は、思考のコリをほぐすことなのだ。


 本書は、そのようなPTAに関する凝り固まった石頭をほぐす役割を果たすにちがいない。

 「PTAがコワい人」にではなく、むしろPTAを熱心にやっている人に読んでほしい。

*1子ども会に非加入の子どもラジオ体操にくるので、皆勤賞の場合に加入の子どもだけに渡すのはどうなのか、などの議論になったようである。

*2:「漫画における思想性は、その漫画のなかに織りこまれる思想そのものによるより、むしろ、自由な思想の行使にとって不可欠なしなやかさを保つための、思想の屈伸体操を提供することにある」、『鶴見俊輔集7』筑摩書房、p.69

*3:一応役員と前任委員長にも意見をきき、「案内状めいたものをつけたチラシを地域には配布するので礼を欠いたことにはならないだろう」「特別な案内状を出すことで地域団体の幹部も来る効果があるが、あくまで保護者メインに講演会をやればいいと考える」という返答をして、会議にはかり、すんなり納得してもらったが。

2016-10-31 基底の露出 『娘の家出』

志村貴子『娘の家出』



 志村貴子『娘の家出』5巻を読む。

 『娘の家出』は、家出をしたがる年頃の思春期の少女たち、およびそこからつながっている老若男女たちのオムニバスストーリーである。


Pちゃん

 「Pちゃん」に目がいく。

f:id:kamiyakenkyujo:20161031231106j:image:right 「P」はネットゲームのハンドルネームである。小さなオフ会仲間をつくっているうちの一人の女性で、2児の母親である。

 5巻でオフ会仲間の千秋こと「ロキ」に酒場で会うシーンに登場する「Pちゃん」の顔がとても素敵(志村同書5巻、集英社p.156、右図)。美人で知的。

 だけどやわらかい感じがするのは、p.163で「ロキ」から惚れてしまったと告白されて、戸惑っている顔、そしてそのあとの柔軟なやり取りに、まいってしまうからだ。

 困難とか戸惑うようなことに直面した時にする、人間的な反応だから、じゃないかな、と思う。

 驚きすぎる、クールすぎる、という反応を、今ぼくは欲していないのだろう。

 「そりゃ、母性的な包容力を感じるってことじゃないの?」「あんたはロキと同じように、パートナーにお姉さんとかお母さんを求めるんんじゃないの?」……うぅ、そうかもしれん。

 ロキが告白したあとのあしらい方に確かに「お母さん」を思わせる余裕がある。


 だけど、実際に「Pちゃん」と付き合ってみたり、結婚生活を送ってみたら、きっと「Pちゃん」は理想像として描いているような「Pちゃん」ではないのだろう。

 余裕のなさや融通の利かなさ(マンガで言っているような、不倫をはじめとする一つの何かの倫理観に対する極度の不寛容など)を見せられることになるに違いない。

 こういうのを現実に落とし込んだところが、うちのつれあいではないのか。

 うん、それは「妥協」という言い方もできるんだろうけど、現実と格闘すれば、現実が雑多で豊かなもので蘇生されていることを知り、「理想像」として描いたものの貧弱を思い知るのである。

 「Pちゃん」というのは、ぼくの今の理想で憧れでありながら、たぶんそれはきっと貧しいものなんだろうなと予感する。


ロキ

娘の家出 5 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) 「ロキ」はどうか。

 ロキは惚れっぽい、レズビアンの女性である。

 ありていに言って、性的な関心の対象として読んだ。

 しかし、それ以上に、タレ目でだるげに自分のおかれている状況、とりまかれている環境を分析したり達観したりするのが良い。「タレ目でだるげに」というのは気負いがないということだから。

 ただし、「達観」と言っても自分をコントロールできているわけではない。やはりオフ会仲間に加わって新しい、若い恋人となった「はるる」こと春奈に「捨てないで…」と涙で顔をぐしゃぐしゃにしてすがったり、ダメとわかっていて「Pちゃん」にホレてしまうから。

 ぼくがロキとどうにかなりたいのではなく、ロキのようになりたい。電車のホームで一人でぼくが歩いているとき、ぼーっとしてみる。すると自然にロキのような気持ちになってみる。

「あー… さようなら 安くておいしいカジュアルフレンチ…」

みたいな調子で今自分に起きている問題とか課題をぼんやりと考えてみる。なんだか冷静になれたみたいでひどく落ち着くのである。


村木理央

 村木理央。

 女子高生

 身長が大きくて、ガタイがしっかりしているのが村木のコンプレックスであるが、そのこと自体には何の関心も起きなかった。

 しかし、新しい高校になって、初めて友だちになった女の子・りおんが、昼食をとりながら語るエピソード、すなわち中2のころのクラスが一番居心地がよく居場所だったけど、中3になってみるとクラスが分かれ、居場所性が失われてしまった、ということに村木が「わ… わかりすぎる…」と心の底から共感を示すシーンを興味深く読む。

 娘(小3)は、前の学校の2年生のクラスがよかったとしきりに言う。

 ぼくにも思いたあることはある。

 居場所はメンバーによってのみ支えられているのではなく、タイミングや場所の空気など絶妙な条件が重なって成立するもので、ある意味で「奇跡的」に成立していると言えるからだ。


久住先生

娘の家出 4 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) そして久住先生。

 独身の、ジャニーズっぽいアイドルグループ(ビビッド・スコア)に入れ込む、しかし学校職場ではおくびにも出さない、不器用な生真面目さをもつ女性教師

 5巻ではなく3巻・4巻がよかった。

 3巻では、学校に来ない、担任クラスの女子高生(美由)にラインで話しかける(学校には承諾済み)。自分も学校にいかなった時期があり、そんな気持ちを不器用ながらメッセージで送り続けるのだが「どうしてこんな陳腐なメッセージを送り続けてるんだろう」「こわいよね こんな一方的に 毎日…」と自問し半泣きになる。最初以外に美由からのレスはないのだ。

 しかし、ひょんなことから知ってしまった、美由も同じアイドルグループ、ビビッド・スコアに熱を上げていることを、ラインで伝えてしまうと、とたんに「ソッコーレスポンス!!!」が返ってくる。


 やがて、チケットが取れなかった久住先生は、美由の誘いでコンサートに一緒に行ってしまうのである。4巻だ。

 そしてノリノリ。

 意気投合する。

「せ 先生…

 わたし

 がんばって卒業資格取ります

 それでできれば

 大学にも行きます

 そしたら わたし

 友達になってください」

 この展開は安易すぎる、という指摘もあろうが、ぼくは胸がすく思いだった。こういう展開が読みたかったのである。心底期待をしていた。そんなに甘くない、などとはしてほしくなかった。これこれ、こうでなくちゃ!

 泣きながら送ったメッセージが、格闘の末、生徒に伝わったのである。

 ビビッド・スコアというサブカルチャー欲望にまみれた久住先生は「本当の久住恵」ではないのか。いまの教育をしばっている表面的な「公正」が破壊され基底が露出した時、本当の、人間的な心情が顔を出す。そういうものの交流が教育ではないのか。

 そういう青臭さがとても心地よいのである。

 この流れは何とも爽快で、感動的であった。

2016-10-27 「ユリイカ」の「特集・こうの史代」に書きました

「ユリイカ 詩と批評」の「特集・こうの史代」に書きました



ユリイカ 2016年11月号 特集=こうの史代 ―『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』『ぼおるぺん古事記』から『日の鳥』へ 「ユリイカ 詩と批評」(2016年11月号)の「特集こうの史代」に「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」という一文を書きました。今日、出版社から届いていました(ありがとうございます)。


 ぼくにとってスリリングな1冊です。

 なぜスリリングかというと、まさに「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」という問題意識に重なる文章がいくつか掲載されていて、ある部分はぼくの提起と共鳴しあっており、ある部分はぼくに対する批判になっているからです。もちろん、お互いに意図して「共鳴」したり「批判」しているわけでなく、このテーマを意識することによって、当然生まれる問題なのですが。



 特に意識されたのは、中田健太郎「世界が混線する語り」、村上陽子「原爆文学の系譜における『夕凪の街 桜の国』」でした。

 中田では、例えば「『声高ではない』戦争批判であるからこそ素晴らしく」という評価の仕方への引っ掛かりや、「直接経験していないことは表現できない」という解釈についての引っ掛かり、被害者・加害者構図や敵・味方構図の超克のことなどがそれです。

 村上も冒頭から「声高な反戦反核と淡々とした日常性」というタイトルでこうした対比がすでに原爆文学で古くからなされてきたこと、「夕凪の街」の中での示された、従来の原爆文献を踏まえた表現だという作者自身の言葉の紹介などがそれにあたります。


 ぼくが知らないこともたくさんあり、そういう意味でも勉強になったのですが、ぼくがした立論自体は自信がありますので、比較してぜひみなさん自身でどっちが納得できるか、あるいは面白いか、考えてみてください。


 個人的に可笑しかったのは、ぼくが石子順『漫画は戦争を忘れない』(新日本出版社)を戦争マンガの概要的な年代紹介に使ったのと似た手法で、村上も参考文献としてあげていたことでした。石子順のあの本、どんだけ参照されてんだ(笑)。

 また、呉市立美術館で講演したとき、戦争を楽しむマンガと戦争を批判するマンガの違いみたいなことを導入で話したんですが、その時参加者から紹介された吉村和真宮本大人トークイベント「僕たちの好きな戦争マンガ」が、中田の注記で挙がっていたのも興味深いことでした。


 こうの史代西島大介の対談の中で、片渕によるアニメを見たときに、日常を描くための「笑いのオチ」のあるエピソードがわりと残っていたことにこうのが驚くとともに、


むしろもっと重要そうな部分がバッサリなくなっていたのでびっくりしました(笑)。

と述べているのは印象に残りました。

 これはぼくがアニメを見た時の一種の「違和感」でもあったからです。もちろん、映画をみているうちに三度も涙が止まらない場面に遭遇したりして、それは原作を読んだ瞬間(後でじわじわきたものの)には起きなかった反応だなあと思ったりして、そう考えてみると、「アニメと原作は別の作品だからなあ」と思い直したものです。


 居場所の喪失という問題、記憶と想像力という問題は、アニメにも描かれているのですが、原作を落ち着いて読むことによってむしろそこは深まる気がします。

 他方で、日常を描くこと、より豊かに、立体的に立ち上がってくるという徹底性においてアニメが素晴らしい役割を発揮しており、片渕須直の執拗なまでの考証ぶりや「のん」という配役の大成功はまさにこの部分に関わっていることだろうと思いました。

2016-09-30 文学フリマ福岡に参加します

文学フリマ福岡に参加します


 2016年10月30日(日)都久志会館福岡市天神)で開催される文学フリマ福岡に参加します。

http://bunfree.net/?fukuoka_bun02


 以下はぼくが出す本の目次(およびその回に言及したマンガ作品や参照にした本など)と、その本の「はじめに」で書いたことです。

 「人間と教育」誌で連載しているマンガ評論をまとめたコピー本です。

 ぼく自身、福岡でだけでなく、同人誌を出すこと自体初めてです。なので、どういうクォリティの本を売ればいいのか、どれくらい売れるものか、見当もつきません。

 ネットとか本を見ると、最初は10冊売れれば御の字だということなので、献本分を除いて10冊だけ作っていくことにします。


1 大人と幼児が同時に楽しめるマンガはあるか?

2 いわさきちひろはどう批判されたか

3「ダメ人間マンガ」はなぜ増えているのか

4 「スポ根」マンガは死んだのか?

5 ヤンキーマンガと「an・an」の接点は?

6 「気持ち悪い」「グロイ」という『はだしのゲン』の読みの強さ

7 『ONE PIECE』はなぜつまらないか

8 エロマンガは規制されるべきか?

9 少女マンガエロマンガよりも「有害」か

10 なぜ女性向けエロマンガ強姦シーンがあるのか?

11 『このマンガがすごい! 2015』第1位のマンガを読む

12 「漫画家になりたい」という子どもを待ち受けているもの

13 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(上)

14 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(下)

  • 『あとかたの街』
  • 『凍りの掌』
  • 『夕凪の街 桜の国』
  • 竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく』

15 鶴見俊輔は『サザエさん』をどう論じたか

16 その美少女の中身はおっさん、もしくはオタク男子である

  • shirakaba「初音家の食卓」
  • 苺ましまろ
  • 『自分がツインテールのかわいい女の子だと思い込んで、 今日の出来事を4コマにする。』

17 『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』は「道徳教材」たるか


はじめに  絵本とマンガはどう違うの?

 ぼくは、「紙屋研究所」というマンガ批評のブログをやっています。ブログ形式になる前と合わせると、もう13年間、ネット上でそうした批評の活動を続けています。ときどき雑誌のような紙媒体でもレビューや評論を書かせてもらっていますし、マンガ以外の本の書評や、政治や社会について感じたことを書いたりもしています。

 この本は、学校の先生など教育関係者が主に読む雑誌である『人間と教育』(民主教育研究所編集、旬報社)に2012年から書いている「マンガばっかり読んでちゃいけません!」という連載17回分をまとめたものです。連載は今も続いています。転載にあたり、同編集部の許可を得ました。快く応じていただいた編集部の皆さんにこの場を借りてお礼を申し上げます。

 学校の先生たちに向けて書いたものですから、一般の読者の皆さんには少し違和感があるかもしれません。しかし、それが逆に面白いんじゃないかなと思い、本にしました。

 マンガというものに、子ども・若い人の考え・価値観がどう反映しているのか――そんなことを学校の先生たちに議論してもらいたいと思って書いた文章です。だから、わざと論争(問題提起)的に書いてあるし、教育のネタが多いのはそのせいです。

 ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)について書かれたものも目立つと思いますが、それは教育が正しい価値を伝える営為だという側面があるからです。昔は、マンガが学校や教育の現場では「俗悪なもの」とされ、ひどいところでは「焚書」の対象となって校庭で燃やされたこともありました。

 今ではさすがにそこまでの話はあまり聞かなくなりました。しかし、現在でもマンガのセックスや暴力の描写をめぐり、自治体条例や国の法律で規制しようという動きがあります。

 早い話、依然として絵本を子どもに与えるのとは違う感覚、「不安」がオトナにはあるのです。

 でも、そこがマンガのいいところではないでしょうか。

 学校関係者でもないあなたに、この論集をどういう気持ちで読んでほしいかといえば、そうですね、例えば「絵本とマンガはどこが違いますか?」という問いを念頭において読んでいってもらうと、本書は一つのまとまったテーマを持った本として読んでいただけるかもしれません。

 まあ、そんなに堅苦しく考えず、気に入った見出しやコマのところから、拾い読みしていただいても、十分楽しめると思います。

 なお、本書に掲載されているマンガなどのコマは、著作権法の引用の原則(出典・区分・分量・必然性)にのっとったものですが、お気付きの点があれば、ご指摘いただければ幸いです。また、文中の年代や表現は掲載時そのままにしてあります。

2016年10月1日 紙屋高雪