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紙屋研究所


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2017-03-31 新たに町内会本『どこまでやるか、町内会』を出します(告知用)

新たに町内会本『どこまでやるか、町内会』を出します(告知用リンク)

 (このリンク用記事は3月末までトップに置いておきます)新たに町内会の本を出します。『どこまでやるか、町内会』です。ポプラ新書からです。

※前著『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)もよろしく。

2017-02-17 「ちゃお」的なものと戦う 「ユリイカ」東村アキコ特集

「ちゃお」的なものと戦う 「ユリイカ」東村アキコ特集


少女マンガ的つまらなさ」との対決としての東村作品

ユリイカ 2017年3月臨時増刊号 総特集◎東村アキコ ―『海月姫』『東京タラレバ娘』から『雪花の虎』『美食探偵 明智五郎』までユリイカ 詩と批評」2017年3月の臨時増刊号の東村アキコ特集に「『雪花の虎』のカッコよさはどうやって成り立っているのか」という一文を寄せました。


 『雪花の虎』を「宝塚」と関連して論じるのは同号の中で吉村麗がやっていて、『雪花の虎』は他にも鷲谷花などが論じています。ぼくは、別の角度から議論しました。*1


 ぼくの『雪花の虎』論は、「小学生女子を対象にしている『ちゃお』に連載されている少女マンガの少なからぬ部分は、なぜあれほどまでに(ぼくにとって)つまらないのか」という問題意識から出発しています。

 そのことは、ぼくの論考の冒頭に書いたし、結論部分でも書いています。


 へ!? 「ちゃお」!?


……と思うかもしれません。「ちゃお」って、小学生女子が読む少女マンガ雑誌でしょ? 東村アキコと全然関係ないやん、と。

 が、ぼくの問題意識はこうです。

 東村アキコの作品とは、「ちゃお」に見られるような「少女マンガ的つまらなさ」との対決にあるのではないのか、と。

 「少女マンガ的つまらなさ」の批判者としての東村アキコ

 実は、「ユリイカ」の同じ特集の中で岩下朋世が「パロディと思うなかれ――東村マンガに『少女マンガ性』は見出せるか」という考察を書いており、「少女マンガ的定番との真っ向勝負」という節を設けています。

 読んで見て、ぼくの問題意識と重なる部分がある、と思いました。


「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」

 ぼくは自分の一文の最後で、東村が『ひまわりっ』という自伝的要素をからめた作品の中で「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」という劇中劇ならぬ「マンガ中マンガ」を使って、女性マンガ家のありがちな傾向を揶揄批判しているのを紹介しました。

 東村は、少女マンガの中にある無根拠な「美しさ」「カッコよさ」と対決し、堅牢な条件を積み上げて、時にはそれを「笑い」によって批評し、時にはロジカルに「美しさ」「カッコよさ」を示そうとします。


 東村は、ギャグ=笑いを導入する中で(『きせかえユカちゃん』で飛躍的に取り入れられるようになった)、格段にこのロジカルさが増していきました。

 それは、ギャグとは、対象の客観視であり、批評性の発露だからです。

 東村が「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」で批判対象としていたのは、おそらく東村が活躍していた「ヤングユー」や「クッキー」で頻繁に掲載されていたものが想定されているのでしょう。

 「ヤングユー」や「クッキー」は、「ちゃお」的な少女マンガから、オトナのマンガである「ユー」などへの過渡として存在していましたが、少女マンガの中にある「無根拠性」がむき出しになった作品(ぼくが論考の中で言った「雰囲気だけで描いちゃうマンガ」)と、論理性が堅固なオトナの作品が混在しており、東村はその一方の雄であり、他方への批判者でもありました。


 ぼくが東村アキコの作品を初めて観たのは、「ヤングユー」誌での「のまれちまうぜシュガウェーブ」という短編でした。

 ぼくのその時(2003年)の感想が、ホームページ上に残っています。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou.html#nomare


エッセイコミック的絵柄

 この作品を読んだ時、まず絵柄に惹きつけられました(下図*2)。

f:id:kamiyakenkyujo:20170217144725j:image

 ちょうどその頃「ヤングユー」に移ってきた羽海野チカハチミツとクローバー』に抱いたワクワク感を、内容やセリフとは別に、絵柄そのものから、持ったのです。

 あまりうまく表現できませんが、

  • 少年誌的なもの。
  • ギャグが入り込んでいるんじゃないか。
  • リリカルではなくリアルな真情が出ているっぽさ。

ということを予感させてくれる絵柄なのです。

 「エッセイコミック的」と言ってもいいでしょう。


女性作家の中での「物語作品」と「エッセイ作品」の出来の良さの差はなんなんだ

 ぼくは(当時のぼくにとっての)女性マンガ家の一つの傾向として、作品ではかなり叙情的な絵柄を使うのに、エッセイコミックでは全く違う、上記のような絵柄を使うことへの違和感を抱いていました。

 絵柄が違うことそのものではありません。叙情的な絵柄の「本体の作品」の方は、「ふわっ」としていて「雰囲気だけ」で描かれていてつまらないのに、エッセイコミックの方は無性に面白い。なんで本体の方の作品もエッセイコミックみたいに面白くできなのかなあと。ふわふわした無根拠なものをなんで書いちゃうんだという苛立ち。

 例えば、高橋由佳利は『トルコで私も考えた』というエッセイコミックがものすごく楽しみで、そこで高橋の物語系のフィクション作品もいくつか読んだのですが、少なくともぼくにはピンときませんでした。

 初期のかわかみじゅんこなどもそうです。

 かわかみが登場して来たとき、世間で絶賛されていた『ワレワレハ』や『銀河ガールパンダボーイ』にぼくはあまり馴染めずに、そのまま忘れていたのですが、パリ暮らしを綴った『パリパリ伝説』に出会って熱狂しました。『パリパリ伝説』を経た後で発表されている物語作品であるところの『日曜日はマルシェでボンボン』や『中学聖日記』は、エッセイコミック的な諧謔が随所に生きています。


 このような「エッセイコミック的なもの」という絵柄を装備した東村は、登場からすでに(ぼくのなかで)アドバンテージを持っていました。

 ただ、最初は東村自身が苦戦していたとぼくは思います。

 つまり「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」は東村自身の反省ではないのか、少なくとも自分の中にその要素があったのではないか、という自戒・自虐を込めているのではないでしょうか。


 東村の初期作品『白い約束』に、ぼくは不満があります。

 これも、ぼくのホームページに当時(2004年)の感想が残っているので、紹介しましょう。

 この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。

 ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。

 結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。

 3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。

 同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0407.html#shiroi

ギャグが担保する客観

 東村はぼくの中では「ギャグの人」です(羽海野チカもぼくの中では長い間そういうポジションでした)。対象を冷徹に客観視して笑いものにする批評性は、『ママはテンパリスト』のようなエッセイコミックで本領を発揮しますが、そこから派生して『東京タラレバ娘』『海月姫』『ひまわりっ』のような物語フィクションにも生かされます。


 逆に言えば、ギャグとは別に、陶酔感が入り込む「カッコよさ」「叙情」「懐古」のようなものを扱うときは、危険さがつきまといます。

 つまり、下手をするとギャグやロジックのような客観性を担保する武器が封じられて「ちゃお」少女マンガのような「雰囲気だけで書いたもの」、陶酔感全開のものになってしまう恐れがあります。


 この点で、『かくかくしかじか』と『雪花の虎』は本来危うい要素を含んでいます。「先生との涙のエピソード」や「宝塚みたいにカッコいい謙信」というところに流れかねないからです。しかし、その危うさを乗り切って、この2作品は傑作に仕上がっています。



 そこをどうやって、ロジカルに支えているのか、ということをぼくの稿では書いたつもりでいます。まあ、成功しているかどうかは、読んだ人にお任せします。



「女性性の批評と追求」には成功していない『雪花の虎

雪花の虎 4 (ビッグコミックススペシャル) なお、その論考でも書きましたが、謙信が女性であること、女性が男性化するのではなく、女性のまま、その人のままで輝きうる、というテーマについては『雪花の虎』は成功しているとは思えません(ただしそれはこの作品の魅力を減じるものではありません)。

 そのテーマは、本来は論理的に追求されねばならないものですが、そこはあまりうまくいっていないのです。

 そのことが論理的に追求されるには、男性性や女性性に対する客観的な批評が必要で、東村の最大の武器がここでもギャグだと思います。

 しかし、謙信が生きた時代の男性性・女性性への批評は相当に難しい。

 東村が得意とするのは、『東京タラレバ娘』に見られるような、今生きて動いているアラサーたちの生態を観察し、批評すること、すなわち「ほじくり出して笑うこと」です。この現実の生々しさから離れている「歴史もの」の中では、今のところ、東村が武器は封じられたままです。

 これを全く新しい形で示すのか、それともそこは未開花のままで終わるか、どちらになるかは、今後にかかっています。

*1:もちろん『雪花の虎』と宝塚の関連については拙稿でも触れています。

*2東村アキコ「のまれちまうぜシュガウェーブ」/『きせかえユカちゃん 10』所収、集英社りぼんマスコットコミックスDIGITAL、159/216

2017-02-12 谷口ジローの死

谷口ジローの死


 谷口ジローが亡くなった。

 特に感慨はない、と思っていたが、自分がこの14年間のブログ人生(?)で書いたものを振り返って、結構とりあげていることに気づいた。


神々の山嶺

 「山の量感」と「登山という近代個人の登場」を描き切った『神々の山嶺』は中でもすごい作品であった。

谷口ジロー・夢枕獏『神々の山嶺』 - 紙屋研究所 谷口ジロー・夢枕獏『神々の山嶺』 - 紙屋研究所



孤独のグルメ

 ぼくの本(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)の中でも紹介させてもらった『孤独のグルメ』は、今でもなんども読む。

 「関係を食べている」と指摘した関川夏央の反『美味しんぼ』レビューを紹介しながら、『孤独のグルメ』こそアンチグルメであると書いた、ぼくの『孤独のグルメ』評。

 本を読みながら食事をするという「悪風」は、娘に文化的に遺伝してしまった。

『孤独のグルメ』 - 紙屋研究所 『孤独のグルメ』 - 紙屋研究所


『犬を飼う』

 動物を飼うことについてほとんど思い入れのないぼくであるが、飼っていた動物が死ぬということの人の心に与える影響についてあれこれ考えるきっかけになった。そのことを須藤真澄の作品の比較で書いた。

谷口ジロー『犬を飼う』 須藤真澄『長い長いさんぽ』(紙屋研究所) 谷口ジロー『犬を飼う』 須藤真澄『長い長いさんぽ』(紙屋研究所)



「狼王ロボ」

 「動物との知恵比べ」というジャンルの面白さとして書いたのが、「狼王ロボ」評である。


谷口ジローシートン』第1章「狼王ロボ」

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/seton.html



センセイの鞄』ほか

 谷口が取り上げる、恋情や感傷のような感情には、どこか古臭い感じがあって、それがぼくの心に実によく引っかかった。


川上弘美・谷口ジロー『センセイの鞄』 - 紙屋研究所 川上弘美・谷口ジロー『センセイの鞄』 - 紙屋研究所

内海隆一郎・谷口ジロー『欅の木』 - 紙屋研究所 内海隆一郎・谷口ジロー『欅の木』 - 紙屋研究所

谷口ジロー『ふらり。』 村上もとか『JIN-仁-』 - 紙屋研究所 谷口ジロー『ふらり。』 村上もとか『JIN-仁-』 - 紙屋研究所


遥かな町へ谷口ジロー

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/kansougun.html#anchor19


 いや…取り上げすぎだろ。

 相当好きだったんだな、と自分にびっくりした。


 こうして眺め直して見て、そこに『「坊っちゃん」の時代』がないことに気づく。ぼくにとって谷口は、圧倒的に「自然を描く人」であったのだ。「自然と人間(個人)」という近代の構図をこれほどまでに描き出す人は、今度もなかなか現れまい。

2017-02-11 新たに町内会本『どこまでやるか、町内会』を出します

新たな町内会本『どこまでやるか、町内会』を出します


(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書) 新たに町内会の本を出します。

 『どこまでやるか、町内会』です。ポプラ新書からです。

 前著『“町内会”は義務ですか?』が町内会をめぐる基本問題(プラスぼくの体験)を書いたとすれば、今回は、それを出してから、町内会関係者や町内会に入らない人たちから聞いた悩みを受けて書いた、実践的な本です。



 ネットでPTAの話題があったとき、ぼくは「必要かどうか」と「任意か強制か」を区別して議論しろ、と書きました。当然町内会も同じことが言えます。

PTA問題は「必要か不要か」で論じるべきではない - 紙屋研究所 PTA問題は「必要か不要か」で論じるべきではない - 紙屋研究所

 つまり、いくらPTA(や町内会)は「必要がある」と言っても、そして本当にどんなに「必要」だったとしても、「任意加入だから私はやりません」と返せば終わりです。論理的・原理的にはこれで全て完了。


 だけど、この本(『どこまでやるか、町内会』)では、一見するとまったく逆のことを書いています。

 要するに、「町内会のやっている事業は本当に必要なのか」ということを、くどいほど書いている本なのです。そして、「住民に対する責任を果たす」という水準から見て、町内会が「必要」と言える事業はほとんどないことを、これでもかと言っています。

 あれ、お前、正反対のこと言ってねえか?


 実は、PTA議論をしているさいに「ねむれないさかな」さんという方のブログ記事を紹介しましたが、この方は記事の中でPTA事業の必要性を、どちらかといえば不要論者の気持ちを反対に煽る、もっと言えば「逆なで」するような書き方で主張していました。

 ところが、オチは、“でも任意加入だし、離脱は自由”。

 それなら文句は言えません。


 しかし、実際には、そういうオチをつけてくれません

  • こんなに必要だから、誰かがやらないと。
  • お前は逃げるのか。義務を果たさないのか。
  • こんなに必要なことをやっている人はやるべきことをやっているけど、お前らはその人たちの善意に甘えているんだ。フリーライダーだ。

 こういうロジックで強く「加入」を迫ってくるわけですね。

 強制でないよ、と言いながら、事実上加入を迫る。

 引き受けなければ、いろんな圧力や陰口、差別にさらされる……感じを与える、というわけです。


 この神話を崩したい、と思いました。

 つまり、あなた方のやっている事業は、「住民に対する責任を果たす」という水準から見ると「絶対不可欠」というものはありませんよ、ということを一つ一つ検証しながら書いています。

 冒頭で「ゴミ出し問題」を紹介して、ゴミを出せない問題の3つの「解決方法」の中に、この問題を考えるヒントが全て詰まっていることを示しました。


 だから、世の中に、「絆」とか「地域力」という言葉で、町内会の大切さが無条件で説かれる言葉があふれているもとで、町内会の事業はこんなに「必要不可欠ではないもの」なんです、ということを論じる、実に珍しい本になりました。



 実践的に言えば、町内会をやっている人が悩んでいることにもつながっています。

 悩みとは「担い手がいない」ということ。

 そりゃ仕事が多すぎてそんな地獄に誰も近寄ってこないからですが、いざリストラしようと思うと、どれも切れないような気がしてくる。それどころか、検証作業を始めたら、「あれも必要だね」と逆に増えてしまうなどという話も聞きます。

 で、町内会を熱心にやっている人は、どうしたらリストラできるか、その基準を考えるのに悩んでいるのです。

 本書では、リストラの基準を示しています。


 しかし、これだけでは、「町内会不要本」と同じになってしまいます。

 この本がめずらしいのは、そこからさらに「町内会は必要だ」と説いていることなのです。そんなアクロバティックなことができるのか? それは読んでのお楽しみです。


 しかも、空論でそんなことを言っていてもダメなので、実際にやっている町内会を取材しています。

 もちろん、ぼくがいた団地の自治会は前著でも紹介したし、今回も少し触れていますが、それだけではありません。他にもこんな町内会があるんだ!と取材してみて驚きました。それを紹介しています。


 さらに。

 オトクな知識として、コラムのところで、「賃貸のアパートに住んでいるけども、町内会に入るように契約条項に入っていたので、やむなく結んだけど、これってなんとかならないの?」という疑問にも答えています。

 弁護士の方に取材をして、明らかにしました。

 ぼくも目からウロコでした。



 というわけで、「町内会はこんなに不要なものをいっぱい抱えていて、それはリストラできますよ。こうすればできますよ。でも、町内会は必要なんです。みんなが納得して、後継者もでき、長く続けられる町内会はどうしたらつくれるのか、示します」という実に奇妙な本が出来上がりました。

2017-02-06 勉強は役に立つか

勉強は役に立つか


 「勉強って、やらんといかんと?」と小3の娘は今日も涙をボロボロこぼしながら算数の宿題をやっていた。「きもちわるい〜」と叫び、途中で放り出して彼女は寝た。かわいそう。


 下記のエントリが少し話題になっていた。

勉強は役に立たない 勉強は役に立たない


 小学校・中学校・高校・大学で「役に立つ」の意味が違うと思う。

 そこを分けて考えたい。


 小学校で習うことは、具体的に、社会生活を営んでいく上では欠かせないと思う。これがわからないと、自立はかなり厳しい。

 漢字とか、分数とか、桁の多い掛け算・割り算とか。

 日本の歴史の大ざっぱな流れとか。

 水に溶ける食塩の量が決まっているとか。

 こうしたことがわからないと、いろいろ騙されて、搾取されると思う。


 中学校で習うことにもそういう中身はあるけども、科学的な自然観・社会観を身につける上で、最低限度のものを学ぶのが中学で学ぶことではないだろうか。

 例えば、銅が酸化するとき銅8g:酸素2gで10gの酸化銅ができるとか、そういう細かい知識は社会人になった今、忘れているけども、なんとなく金属と酸素がくっつくときは割合があったよな、みたいな自然観が、習った人の心には沈殿する。その程度でよい。

 英語だって、話せないし、単語とか忘れても、This train is bound for Hakata.とか表示があったら、あー、bound forってわかんねーけど、博多行きとか博多から来た電車ってことかなー程度がわかればいい。*1英語がぼんやりとわかるくらい。韓国語に出会った時と比較すればいいけど、이 기차는 하카타 행입니다.って書かれたものをみても、何もわからない。

 たぶん、中学程度で習うことを、自分の自然観や社会観として身につけたら、かなり科学的な物の見方ができるようになると思う。さらに、具体的内容も忘れていなければ、これだけで知識上は自立した大人として十分やっていけると思う。


 高校はどうか。

 これはぼくの個人体験がかなり入るけど、大学の準備に過ぎない

 必要なことは中学までで終わっているので、ここで学ぶことは「大学へのパスポート」だというのが実感。高校で就職する人にとっては「就職のためのパスポート」。つまり、これ単体では役に立つとは言えない。


 大学の専門はどうか。

 大学の専門まで行くというのは、建前で言えばその専門を極めて研究をするし、またはそれを生かして就職もするということになる。そういう意味で、大学の専門で学ぶことは、就職に直接役に立つ。

 ……と言いたいところだが、そんな人は少数じゃないのか。

 まず、学士レベル、つまり4年間大学で学んだこと、例えば経済学を学んだとしても、会社に行っても直接役には立たないことが多い。現実との乖離さえ感じるのでは。

 理系でも、修士・博士になってようやく研究の端っこに参画できるけども、本当に役立つのはその先に学びを続けてからではないか。

 だから、大学の専門というのは、まとめていえば、多くの人にとっては、直接役には立たない。直接役に立つようなレベルになるのは、もっと研究を重ねた後なのだ。


 つまり、小学校までの勉強は確実に「役に立つ」。

 中学校までは直接は役に立たないかもしれないが、社会を生きて行く上で必要な社会観・自然観を身につける受けでは必要だと言える。


 となれば、高校と大学(4年間)の学びが問題になる。

 直接役に立たないのではないか、と。

 うむ、直接すぐに役に立つことは、あまりない、というのがとりあえずの答えだ。

 しかし、ここでも高校と大学の課程というのは、「科学的な自然観と社会観を深めるのに役に立つ」というのが、ぼくなりの答えである。中学のときにつちかう自然観・社会観を、もっと時間をかけて深めるということだ。体系化し、関連づけていく。


 高校ぜんぶ、そして大学の一般教育のプロセスは、「この世の中がどういうふうに成り立っているのか」をつかんでいくためにある。それを自分の世界観の血肉にしていくところまでやる。「教養」と言われるものと同じものだ。

 専門教育も大学で始まるけど、4年間でやるような専門なんて、どうせ大したものではない。自分が血肉にした世界観(自然観と社会観)を、とりあえず一つの専門学問で試してみる、というほどのことに過ぎない。その専門性を掘り下げてみて、また自分の世界観(自然観と社会観)にフィードバックするのである。


 抽象的になっちゃったので別の言い方をしよう。

 高校や大学で学んだ知識を、断片的じゃなくて、体系的な自然観や社会観の中に落とし込んでいき、お互いに関連づけられたりできるようになっていくことが、本当はゴールへの接近である(そのゴールは決してたどり着かないけども)。

 ぼくが奉じているマルクス主義というのは、そういう体系志向性がある。


 そうすると何かいいことがあるの?


 そうだねえ。世の中のことがよくわかるようになるよ


 まとめなおすと、高校と大学というのは、建前から言えば専門性を磨いて就職や研究に役立てる場所のはずだけども、そう言えるのはごく一部の人のみ。現状では役に立っているかどうかわからないけど、「就職パスポート」(「これくらいの知的作業はできますよ」という記号)として機能している。つまり「就職に役立つ」程度のものでしかない。

 だけど、ぼくは高校と大学は、うまく使えば(自覚的に使えば)自然観と社会観を深めて、その後自分がいろいろ勉強して自分を更新していく際のベース(基盤)を作れるのではないかと思う。そういう意味では「役に立つ」のだ。

 

 とりあえず、小学生の娘に「役に立つのか」と聞かれたら「小学校で習うことは絶対に役に立つ」と答えている。

*1:「行き」か「来た」じゃ正反対じゃねーかと思うかもしれないが、ホント、その程度でいいんだよ。