「情緒」と「情調」のあいだ



 「文学」とか「芸術」とか、言葉にし、口にすること自体、どうも気恥ずかしく気おくれがする。と言って、「アート」とか「クリエイティヴ」(これ、形容詞のはずが、なぜか名詞みたいに使われているようですが)とか、横文字をそのままカタカナにしてわかったような顔をするのは、なおのこと許せない。なので、「ブンガク」だの「おポエム」だのと敢えて茶化し気味にして初手から身軽にさせておかないことには、うまく手もとで道具として使い回せない。その程度には、この本邦日本語を母語とする環境において近代このかた増殖させられてきた、多くは外国語からの翻訳に由来するこれら漢字熟語の語彙の暴れ具合というのは未だに実に厄介なものです。

 どう苦心惨憺、工夫してみたところでそれらはうまく言葉に乗りにくい。だから、ひとつの言葉やもの言いに何らかたてつけのはっきりした意味を背負わせてその上で話を紡いでゆく、あるいは論の脈絡をつけてゆくといった正攻法なやり方もすっきりとはできない。なのに、借りものの近代をそれで何とかやろうとしてきたという、ああ、思えばすでに百四十年近くを費やしてきたわれら同胞一族郎党幾代挙げての七転八倒の果ての現在。いわばひとつひとつの言葉やもの言いが、たとえ嘘でも手堅く輪郭確かな部材、建築材になっておらず、ゆるゆるでやわなままそれなりの構造物をこさえようとしてきた、そしてまたそれを外から眺めて同じようなはんちくな言葉をあやつりああだこうだ言い合うことまでもうかつにも馬鹿正直に研ぎ澄ましてもきたわけですから、どだいそもそも議論や討論、対話といったものが、いくらひとりよがりにそれを誠実に繰り返してみたところで、何かそれなりに確かな手ざわりを持った何ほどか持ち重りのするくらい根のあるものがくっきりと見えてくるはずもない。それは理の当然、この日本語を母語とする拡がりにおいてはいまさら言わずもがなのことではあるのでしょうが、しかしそれにしても。

 たとえば、このような漢字二文字によって成り立つ語彙。手もとの雑書古書の、日々のあてどない手間仕事にいつか関わってきそうな個所に付箋をつけたところから、眼についたものをたまたまランダムに拾ったのですが……

悲哀、哀愁、感傷、感動、感興、感情、情愛、情欲、情調、情緒、情動、情趣、情熱、情愛、情義、情操……

 個々の言葉としては、別に違和感もなく読み書きできるし、また深く考えもせずに使い回してもいるものの、ならばいざ、ひとつひとつの意味をほどいてその違いも含めて説明してみろと言われたら、誰しも口ごもるに違いない。そりゃあ字引や辞書をひとつふたつ引いてみれば、それなりにもっともらしくそれらの意味を分け隔てしつつ説明してくれているでしょうが、でも、いざ普段の暮らしの中、実際にこれらの言葉を自分自身が使う局面においては、ぶっちゃけその場その時の気分によって何となく使い分けている、その程度が案外正直なところなのでは。

 あらためて眺めてみるとこれらの語彙、個々の言葉の意味よりも字ヅラから放散される視覚的なイメージなどの方に寄せながらやや俯瞰的に眺めてみると、個人的で内面的で不定形でとりとめないこころの動きや起伏といったものを何とかとらえて目先に抑え込もうとする同胞先人らの悶々たる粒々辛苦の跡が二文字熟語のヴァリエーション、ないしはいびつなスペクトルとして眼前に浮かび上がってくるようにも感じられます。書き言葉仕様の文字としての漢字をああでもないこうでもないと組み合わせてみて、押し寄せてしまった近代の〈まるごと〉の〈いま・ここ〉に日々その身をなじませつつ、それまでなら「なさけ」や「きもち」といったひらがな表記な話し言葉で抑えてなじんでいただろうそれら身の裡のこころの領域を、新たに求められ始めたいかつい書き言葉のグリッドへと健気にも置き換えてゆこうとしていた過程。

 なにしろ、こころの領域ですから、それは誰にも等しく宿ってはいる。そしてまた、こころである以上、そこにおいそれとわかりやすい衝立や仕切りがこさえられるはずもない、そんな常に不定形で流動的でとりとめないもの。だから、その見てくれも含めて重層的な意味の複合体でもあるこれら漢字の組み合わせに何かきちんとした意味を過剰に背負わせ、それらを部材とした構造体としての書き言葉のグリッドを介して「面」として論理ごかしに抑え込もうとするよりも、むしろ佐藤春夫のこのような散文的な手のさしのべ方が、自分などにはとりあえず素直に信頼できるように感じられるのですが。

「南国生まれのわたくしははなはだ早熟であった。そうして色情と詩情とはほとんど同時に知った。思うに、この二つは根本では全く同質のものではないのだろうか。少なくともわたくしにあってはそう思われる。」(読売新聞社文化部・編『青春放浪』所収、宮坂出版社、1962年)

 そう、思春期の、未だ何者にもなれていない不安定で先行き不透明な時期特有の、あのうっとうしく息苦しいこころのありよう、それと「うた」へと向かう心持ちはどうやら基本的に同じものだ――たとえ直観であれ、この認識は確かに「うた」のある本質に刺さってくるもののようです。

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 誰しも抱えているこころの領域のとりとめない動きに、「うた」は宿る。動きである以上、それは定まらないものだし、書き言葉の本質である記録性、定着性といった属性の手からも常にその体をかわしてすり抜けてゆく。

 とは言え、同じ漢字二文字の組み合わせによる、どうにも日々の道具として手もと足もとで取り回しのしにくい四角張った熟語であっても、やはり人の造りしものである以上、経緯も来歴もその背後に横たわってはいる。

 「異國情調と云ふ言葉は明治四十年頃までは文學用語としては殆ど使用されなかつた。情緒という言葉は明治三十七年發行の「藤村詩集」の序などにもみえてゐるが、情調という言葉はあまり使用されなかつた。」

 「情緒」と「情調」――いまは大方「じょうちょ」と同じ発音になるのでしょうが、かつてはそこに伴う音もまた異なる、出自の違う言葉だったらしい。


 「情調という言葉を近代文學の上に生かしたのは木下杢太郎であつた。今試みに古い漢和大辭典の類をみてもその言葉は無く、漢字熟語としてもない。つまりパンの會が終つた大正以後の辭典以外には用語としてはあまり見出せない言葉である。英語のemotionの譯語として情緒(じやうしよ)と云ふ言葉はあるが、同じ英語のmoodに相當する譯語はそれまでの文學には必要を感じられなかつた。ムウドに相當する言葉として緒の字の代りに調の字をはめて「情調」としたのが明治末年の異國情調であつた。卽ちエキゾチシズムは異國情緒ではなくて異國情調である。」

 なるほど、「情緒」でなく「情調」、つまりエモーションではなくムードである、と。

 辞書的な意味からすると、ある強い感情だったり特定のできごとに対する反応というのではなく、もっと刹那的で一時的な気分、個人というよりもある関係や場に宿る雰囲気といったニュアンスになるようです。それを漢語的な脈絡での本来の字義はともかく、「緒」と「調」の組み換えだけで全力で込めようとした、このあたりの敢えてする造語的な感覚は昨今、いや、立ち止まってふりかえればそれよりずっと以前、ざっくり昭和初期あたりからすでに明確かつ意図的なニュアンスと共にみられるようになっていた、漢字組成の熟語をわざわざカタカナに開いて散文の文脈で使い回してみせる感覚にもどこか近いのかもしれません。

 パンの会、というのは明治末から大正初年にかけて、当時の若い衆世代の芸術好きのボヘミアンたちが集ったいわばサークル、趣味を同じくする同人の集まりのようなもの。いわゆる文学史よりもむしろ美術史などの方面ではそれなりに知られ、研究もされて一定の評価も与えられてきていますが、ただ、昨今の本邦人文系をめぐる「教養」として底の抜けた状況だと、果してそれもどこまでまっとうに継承され、未だ読み解くに価する人文系一般において共有されるべき歴史・社会・民俗的な知見のひとつとして位置づけられているものか。

 「パンの會は一面エキゾチシズムの運動でもあつた。エキゾチシズムはそれが停滞する時破滅する。破滅したエキゾチシズムは頽唐と云ふ言葉にもなるのである。パンの會のエキゾチシズムは不斷の流動をみせて絶えずフレッシュを注ぎ込まうとするエキゾチシズムであつた。そのエキゾチシズムを當時の都會情調の文學として性格づけたのはパンの會と云ふ新藝術精神の竈であつた。」(野田宇太郎「パンの會略説」、『パンの會』所収、三笠文庫、1952年)

 「エキゾチシズム」と言っているのは、彼らが当時憧れた西欧流の芸術至上主義、文学においてはフランス由来の自然主義のあの本邦ならではのバイアスのかかった輸入はすでに行われていたとは言え、さらにそれを新しい世代の感覚で自由闊達、好き放題に理解してやろうという青年客気な仰角視線のあらわれのひとつ。「不断の流動」「絶えずフレッシュ」といったもの言いの端々にも、彼らの身の裡に宿るようになっていた新たな内面の躍動がもたらす動態の自覚が、その矜持と共にあらわれています。

 「欧羅巴文學それ自身が既にそれであつたが、別に『南蠻趣味』が之に合流して、少しく其音色を和らげ且つ複雑にした。浮世繪とか、徳川時代の音曲、演劇といふものが愛されたが、それはこの場合、傳承主義でも古典主義でもなく、國民主義でもなく、エキゾチシズムの一分子であつた。浮世繪は寧ろゴクウルやユウリウス・クルトやモネやドガなどの層を通じて始めて味解せられた。」

 下地として共有されていたのは絵画や彫刻などの美術畑と、『明星』から『スバル』などを経由した浪漫主義的なフランス象徴詩派の流れから、のちには口語自由詩へと開かれてゆくような広い意味での文学畑の入り交じった領域横断的な「芸術」総体への前のめりな傾き。耽美派とも浪曼派とも称されていたような、いずれ無方向でアナーキーでもあったはずのそれらの雑多な生身の野放図を腕ずく力技で束ねていたものがあったとすれば、何よりも「若さ」という同世代気分の連帯感。「若い藝術家が藝術より他の何ものをも見なかった時代だ。眞のノスタルジアと、空想と詩とに陶酔し、惑溺した時代だ。藝術上の運動が至醇な自覚と才能から出發した時代だ。藝術家の心の扉に、まだ「商賣」の札が張られてなかつた時代だ」(長田幹彦)という、これは後年からする追憶ゆえにいささか過剰に詩心横溢しているきらいのある言挙げも、単に文字表現だけでなく美術や演劇、舞踊なども含めた幅広い表現、まさに「芸術」至上の整風運動的な勢いにまでもこわいもの知らずに突き進もうとしていた、当時の若い衆世代の昂揚する気分を反映しています。

 「當時我々は印象派に關する畫論や、歴史を好んで讀み、又一方からは上田敏氏が活動せられた時代で、その翻譯などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかったのだった。是れと同時に浮世繪などを通じ、江戸趣味がしきりに我々の心を動かした。で畢竟パンの會は、江戸情調的異國情調的憧憬の産物だつたのである。」(木下杢太郎)

 かつてまだ荒井由実だった頃の松任谷由実が、昂然と言い放っていたことを思い出します。

 「たとえばね、渋谷あたりの路地裏にあるあんみつ屋でね、外の雨を見ているという詞を書くとするでしょう。ほかの人が書けば、そこに四畳半的なわびしさが生まれるかもしれないですけど、わたしなら、その場所がロンドンになるかもしれないんです。」

 時代の尖端、否応ない〈まるごと〉として満ち潮のように足もとから、時には津波のように一気に何もかも押し流してしまうかにも思える新しい時勢のその最も流れの激しい地点に奇しくも身を置いてしまった人がたにとっての〈リアル〉。それは、同じ眼前の風景、眼に映る現実そのものもまったく別の意味を伴いながら、新たな色合いや階調、遠近法と共に意識の銀幕に解像度高く投映されてゆくものらしい。そのような意識や感覚を期せずして共有してしまった一群にとっては、それがどれだけ同時代における例外で少数派の異端なものであったにせよ、いやだからこそ、彼らにとっての〈リアル〉は日々の日常、身の回りの具体的な事物からして、すでに世間一般その他おおぜいのそれとは全く異なる様相を示していたはずです。

 たとえば、「詩集」というモノ。単に書籍としての中身の形式的な分類のラベルということではなく、具体的なブツとしてのそれですが、今だとそれこそ「かわいい」であり「ファンシー」であるような「小物」「雑貨」的な目新しいたたずまいで、すでにその頃、日常に存在し始めていたらしい。いや、そもそも洋風の装幀を施された活版印刷による活字の本自体がそういうものになっていたという前提も当時、すでにあったのですが、その上でなお「詩集」のモノとしての特別さ、唯一無二の属性というのが、自費出版に等しい少部数、当時ようやく拡がり始めた出版市場の間尺においてさえ「数量」としては無視できる程度のものではあったにせよ、それが具体的な事物として身の回りに「ある」ことから放散されてゆく濃密な磁場というのは、その他の書籍とは異なるまた格別の意味をはらんでいたようです。

 それ以前の昔ながらの定型詩――和歌であれ俳句であれ、そのような表現の場においてそのような「かわいい」系のモノとして愛玩されるような媒体は存在していなかったでしょう。短冊なり色紙なり、そういう媒体はあるにはあったにせよ、それを「詩集」のように愛でて身の回りに置いたり四六時中持ち歩いたりするような気分とはやはり決定的な距離があったはず。まして、本邦近代詩のはじまりに必ずプロットされる翻訳ものの詩集はまだしも、白秋や朔太郎、犀星あたりになってくると、彼らの「詩集」をモノとして接する側の意識としては、和歌や俳句の色紙や短冊、連座の記録としての歌集や句集などとは明らかに一線を画す「かわいい」もの、手にして身の廻りに置くこと自体に特別な気分や意味を附与することの出来る媒体になっていたでしょう。例によって先廻りして仮留めしておくならば、それはたとえばある時期の映画における洋画と邦画、商品音楽における洋楽と歌謡曲の違いなどにも通じてゆくような、商品としての文化が具体的なモノを介して日常に入り込んでゆく過程における未だ十全に語られ言語化されていないはずの意識や感覚の歴史についてのゆるやかな拡がりを、〈いま・ここ〉の問いとしてあらためて合焦することにつながってゆくはずです。

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 このように考えてくると、これら「かわいい」系属性横溢するファンシーなモノとして身近に存在するようになった本、殊に手もとで「持ち歩く」ことがしやすくなった詩集などは、さて、当時のリテラシーのありようからして、果して音読されていたのだろうか、という疑問も素朴に湧いてきます。それは、同じように持ち歩くことを想定した造りになっていたいわゆる袖珍本の末裔として、あの立川文庫は音読されていたのだろうか、という問いにもつながってくるし、同時にそのまた裏返しとして、「かわいい」属性を濃厚に随伴させるようになっていた詩集は、そもそも音読ないしは朗読され得るものだったのか、されるとしたら果してどのような声と調子においてだったのか、ということも。

 いくらか糸口になるかもしれない、こんな断片がありました。

 「これら、パンの會で愛唱された歌の節は、日露戦争以来流行してゐたラッパ節であつた。」

 北原白秋の詩集「邪宗門」に収められた「明治四十一年五月作の小唄」が、あるいは「それより少し後に出來た木下杢太郎の「築地の渡」と云ふ同型の小唄」が、酒席の宴たけなわとなってゆくうちにいつしか大合唱になる、というのが最盛期のパンの会のお約束だった由。ただ、それは作者や何らか個人の「朗読」による披露ではなく、その場に集まった人がたによる「合唱」であり、しかもそれは、文字表現としての作品が何であれ、とにかく概ねラッパ節のメロディーに乗せて歌われるものだった、と。


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 つまり、パンの会のような場、同時代における尖端的で芸術至上主義で、社会的にも恵まれた階層の子弟である者が多いボヘミアンたちの集まりにおける創作としての「作品」を生身を介して披露し現前化しようとする、そのような機会においても、作者や何らかの個人が朗読ないしは朗唱するのではなく、酒席であるゆえの酩酊状態という要素を斟酌するにせよ、当時すでに巷間に流布され、世間一般その他おおぜいの通俗の耳に共有されていた「ラッパ節」の調子に乗せることで初めて、その場の「みんな」が共に歌うことのできる「うた」になっていた、ということらしい。


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 彼らの創作したそれらの詩は、文字であり活字となって「発表」され、詩集という形態のモノにもなっていたわけですが、それが個々の読み手の手もとにおいては黙読されていたのか音読されていたのか。「読む」であれ「詠む」であれ、その場合何らかの節や調子といった「うた」としての音楽的な要素はどのように読み手の身の裡に導き入れられていたのか。作者も違い、作品としてももちろん別個の創作であっても、同じ「ラッパ節」に乗せることができていた、しかもその場の「みんな」がそれなりに違和感もなさげにすんなりと――このことの意味は、立ち止まって考えてみるに価する問いのはずです。


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 「小唄」と、彼らの作品は銘打たれています。それは作者自身がそのように名づけていたわけですが、この場合の「小唄」というのは以前も何度か触れたように、何か確かな詩歌としての形式でもなく、要は雑多な流行り唄、あるかたちや枠組みに従った詩歌的な表現ではない〈それ以外〉の通俗な唄、といった意味でした。少なくとも芸術至上主義的な目線からすれば、あらかじめ疎外されるようなものでしかない。なのに、それを敢えてとりこんで自らそう称している、その「敢えてする」気分というのは、先のエキゾチシズムを下地とした眼前の現実、言い換えれば同時代的な通俗に対する自覚的な相対化と、その結果醸し出される距離感をあらかじめ当て込んでのことだったでしょう。

 空に眞赤な雲のいろ。
 玻璃に眞赤な酒の色。
 なんでこの身が悲しかろ、
 空に眞赤な雲のいろ。  

 房州通ひか、伊豆ゆきか、
 笛が聞える、あの笛が、
 渡わたれば佃島
 メトロポールの燈が見える。

 前者が白秋、後者が杢太郎の手によるそれぞれ別個の作品なのに、「みんな」で「歌われる」ことで現前化する場においては共に「ラッパ節」に乗せられるものだったということは、文字表現の詩として、モティーフがどうの韻律がこうのといったお約束な詮索沙汰などとは全く別に、何よりもその場限りの「うた」としての〈いま・ここ〉の表現としては単に五七調の調子とリズムこそが本体であり、まただからこそ、通俗の耳に残っている「ラッパ節」とうまく重ねあわせることもできたのでしょう。彼ら時代の尖端を自負していたボヘミアン気質の当時の若い衆らの身の裡においてさえも、このような場でうっかり現前化してしまう「うた」の内実とは、洗い晒してみればつまりはこのような五七調の調子とリズムだったらしい。


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 それは「情緒」ではなく「情調」である。個人の手もと足もとで制御され得るような、あらかじめ切り分けられ分け隔てを作られたこころのありようだけに依拠するのでなく、ある種の関係と場によって下支えされたその他おおぜい、通俗であり凡庸でもあるような「みんな」の感覚において共有されている不特定多数で匿名性の高い気分こそが、われらの新たな表現、これからの芸術にとって大事なエンジン、開かれた創作へ向けての信頼すべき駆動力になり得てゆく――ざっと敷衍するならそのような主張が、当時の彼らもおそらくそうと明確に気づいていなかっただろうところも含めて、それから一世紀以上の時間を閲した〈いま・ここ〉において、あらためて切実なものとして浮上してきています。

アニソン、「うた」なりや



 「アニソン」というのがあります。要は、アニメ作品に付随する主題歌や挿入歌のこと。テレビであれ映画であれ、いわゆるアニメーションの映像作品に人心を集め注目を集めるためのフックとしてつけられる楽曲の総称、と言っていいでしょう。

 商品音楽としての流行歌が、楽曲単体としてよりも映画作品の主題歌という組み合わせでその「流行」の起爆力を強め、射程距離と共に広めていったのは、戦前からの本邦大衆社会化と情報環境の組み合わせの時代状況下での歴史的過程でした。その相乗りする媒体が映画から戦後は民放ラジオの広告に、そしてその後はテレビのCMへと移り変わっても、音声と映像の複合する、そして世間一般その他おおぜい、つまり「大衆(マス)」をまるっと相手取るメディアと手に手を取って「流行」を仕掛けてゆく立ち位置にそれら楽曲が常に同伴してきたことは、〈いま・ここ〉に至る現代史の未だ正面から認識されにくい経緯のひとつかもしれません。

 とは言え、それらの大筋とは別に、〈いま・ここ〉眼前の「アニソン」というやつ、はたしてあれらは「うた」なのだろうか、という素朴な疑問が個人的にはあります。あるいはまた、同じく昨今割とあたりまえに認識され、人口にも膾炙するようにもなってきているあの「ラップ」というやつ。あれもまた、「アニソン」と同じように、はたして「うた」の範疇に入れていいものかどうか、というのも等しく個人的な問いとして。

 何らかの衝動、それも普段の生活の裡ではおいそれと自覚もされず、だから容易に解き放たれることもない、そんな種類のいずれあやしくも胡乱な感情を起爆力とした、激発へと向かう可能性をもはらんだ何ものか。それらをひとまず叫びや発声、ことばやフシ、身ぶりや動きなどまで、いずれ生身の〈まるごと〉として表現しようとするただならぬできごととその瞬間という意味においては、最も焦点距離を広げたところでの「うた」と言っても構わないのだろう、と思ってはいます。いますが、しかし、それを「うた」であり、あるいはもっと平たく丸めるなら何らか自己表現の一端であると認めてしたり顔で鷹揚に収納してしまうには、眼前の〈いま・ここ〉の本邦「アニソン」あるいは「ラップ」というのは、少なくとも戦後高度成長期に生を享け、ああ、その後すでに六十幾有余年にわたるやくたいもない浮世の七転八倒をみっともなくも繰り返してきたこの自分にとっては、これまであたりまえに「うた」と思ってきたものとは、すでにどこか決定的に違う部分をはらんでいるような気がするのであります。


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 思えばあれは概ね前世紀末、90年代あたりからはっきりと顕在的になってきたことだったでしょうか。いわゆるアニメ作品が本邦商品映像コンテンツの主力になってきてこのかた、それら「アニソン」もそれまでの単なる子ども相手のテレビ番組のつきもの程度の扱いはすでに昔日、「流行」させ人心を収攬し何らか利潤へと繋げてゆくからくりの〈いま・ここ〉同時代のありようにおいて、かつてのいわゆる「流行歌」「歌謡曲」と呼ばれていたような商品音楽の楽曲と同じような、いや、ある部分ではすでにそれらを凌駕してしまっているほどの存在感を持っているのかもしれません。


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 ことほどさように、ふと気がつけば、それら「アニソン」およびアニソン的な音楽というのは、もはや身のまわりにあたりまえに転がっているように感じます。たとえ、街頭や路上から思いがけず流れてくるような「流行歌」が事実上ほぼ絶滅し、レコードはおろかCDまでもが新規小売りの路面店の店先から消え、それぞれ思い思いに高天原から降ろし奉った好みの楽曲をスマホその他手もとの依代を介してイヤフォンやヘッドフォン、あるいはまた広さは蚕棚の飯場か場末のドヤに等しいながらも空調完備、清潔に自閉した個室の間尺で再生し耳傾けるばかりになっている現在、それら概ね「個」を前提とした単位で整然と構築されてしまっているいまどきの情報環境の、そのわずかな亀裂や隙間からかろうじてもれ聞こえてくるのがせいぜいで、何より個々の歌い手もその楽曲もロクに判別おぼつかぬ老害耄碌ぶり覆うべくないこちとらの耳もとへの届き方ではあるにせよ。

 専門的なことや技術的な細部は全く門外漢ゆえ、そこらその他おおぜい素人の耳限りの雑な印象で言うしかないですが、それら「アニソン」およびアニソン的な音楽というのは、まずリズムが異様に小刻みでテンポも異様に速い、歌唱が男女不問で異様に高音域に集中している、というとりあえずは「異様」づくしの耳慣れぬものです。そのせいか、歌詞つまりことばも個々に意味を伴ってこの老いてたるんだ鼓膜に響いてくることのできる限界を越えて、意味を背後に取り残した単に一律の「音声」となり、楽曲まるごとそのような音声ないしは音響的なまとまりとしてだけ聞こえてくる。なので、どこか異国の音楽、それこそ中国やタイ、ベトナムなどアジア系諸国のいまどき大衆向け商品音楽――アジアン・ポップとでも呼ぶのでしょうか、とにかくそういう類とほぼ同じジャンルの楽曲としてなだらかに「そういうもの」として耳慣れてしまうような代物だったりします。

 そのような意味では本邦「ラップ」も同じこと。いや、そもそもラップ自体、そのようにことばを意味の分節でなく敢えて「音声」としての属性において扱うのが前提でなりたってきた表現らしいですから、この印象はそもそもお門違いなのでしょうが、ただ、それらを踏まえた上でなお、「アニソン」と同じ本邦いまどき情報環境における同時代的世相の一端として考えるなら、このへんの聴き手の側の耳のリテラシーを介した「聴く」現場の生身の感覚における地続き感も含めて、それなりに要考察の事案ではあるでしょう。

 意味から乖離した、することのできたことばがただ「音声」としてだけ、何らか楽曲としてのまとまりの裡に、意味と表裏一体なことばの相においては想像できなかったような、また別のなまめかしさをはらんでそこにある――うまく言えませんが、そのような表現の水準、何らか審美的なあらわれの位相がいまどき本邦のその他おおぜい、つまり「マス」の市場の商品音楽のありように、それを受け止めることのできる新たなリテラシーと共にすでに現前化しているのだとしたら、それはやはり「うた」の〈いま・ここ〉のひとつの現在としてひとまず仮留めくらいしておくべきなのだと思います。


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 そういえば、最近はそれらアニソンなどもひっくるめたいまどきの本邦商品音楽をまとめて「J-POP」と呼びならわすようでもあります。これも最初、そのように使われているのを耳にした時、あれ? とちょっと立ち止まる程度には違和感がありました。

 だって、かつてそう言われ始めた頃の「J-POP」というのは、おぼつかない記憶によれば、これまた確か1990年代はじめ頃、まだ「洋楽」が国内の音楽市場に一定の存在感と共にそれなりのシェアがあった時代、その「洋楽」との対抗関係で内国産の商品音楽を、それまでの「邦楽」でも「歌謡曲」でもない新たな文脈でとにかくひっくくっておく、そのために新たに流通するようになったもの言いだったような。当時アニソンなどはその範疇には入れられておらず、ラップにしてもそれら商品音楽の表舞台においては、たまたま趣向のひとつくらいにもの珍しく使い回される程度だったはず。つまり、語彙としての「J-POP」というのは、それこそユーミンやサザンや山下達郎や、今となってはすでに軒並みキャリア40年以上になんなんとするいずれ斯界の大御所級、いや、当時でさえもそれ以前80年代から本邦商品音楽市場を支える大きな存在になっていたそれら若い衆世代向け商品音楽の大手生産者らをわかりやすい先行者として足場にしつつ、そのあと続いて出現し始めていた新たな世代の後継生産者たちをも含めて「新時代の流行歌」「これからの歌謡曲」として新たにパッケージングし直す必要あってのネーミングという印象なのでした。


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 実際、その頃のアニソンはというと、それこそいわゆる「おたく」向けの言葉本来の意味でのサブ・カルチュアにとどまっていて、それら表舞台の商品音楽市場に堂々と地歩を占めるまでにはまだ至っていません。なるほど、80年代を通じて若い世代に向けたアニメという表現ジャンル自体が大きく浮上し前景化されてきたことで、アニソンもまた確かにある程度知られるようにはなり、それに応じた社会的認知もそれなりにされるようになってはいた、その限りでは「POP」――つまり大衆的で通俗的な表現ではあったかもしれないけれども、でも決して「J-POP」とは思われていなかった。何より、当のアニソンの生産者や供給側はもとより、それを享受していた側も共に、そんなうわずった自己認識など、ほとんど持っていなかったはずです。

 ならば、あの「J-POP」のアタマにくっついていた「J」とは何だったのか。その一文字にそうと気づかずに込められていた、密度も質量も実はケタ違いに大きかったらしい時代精神の重心のごとき特異点、当時賑々しくあちこちで起ち上がり始めたJ-WAVEやJリーグなどのいずれキラキラと華やいで見えた文化的消費財たちが醸し出していた横並びな同時代的気分にせわしなく後押しされる何らか差異化のための巧妙な標識、ないしはそうと悟られぬようさりげなく張られた厳然たる結界、のちに「分断」などと、よりむくつけなもの言いで言い募られるようにもなる、その同じ不連続へと至る、おそらくははじまりの風景における忘れてはいけないひとコマとして。



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 それまで戦後半世紀近くの間、明治維新このかたこってりとまつわらせてきた近代の垢をあの敗戦でさらにこじらせ、その後うっかり半ば棚ボタ的に手にした冥加に余る豊かさにもまた不用意にまみれさせ、あげく無様にいじけてすすけ果てていた本邦のナショナリズムを健気にも支えてきた表象群、要は漢字表記の「日本」とそこに抜き難くまつわってきていたさまざまなもの言いやイメージなどを全部まとめていったん漂白、洗い晒しをしておく必要が、バブル期の熾火がまだ盛大に余熱を発していた時代のこと、折しもグローバル化してゆく金融経済市場に手もなく引きずり込まれ始めていた本邦資本主義にとっての半ば必然として求められていました。だからそのあらわれとしての、何であれカタカナ表記がよりふさわしいと感じるようになり始めていた気分に阿る「ニッポン」という意味を込めた、その時代におけるある種暗黙の了解的な共通項でもありました。


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 そしてそれは、そのような気分が同時代的な拡がりを獲得してゆくことと共に、どこかで「うた」をこっそりと宿し、思わぬかたちへと発酵させ始める培養基にもなっていたようです。すでにもうそれ以前、戦前の遠い昔から、ある意味においては。

 「𦾔い日本と新しい日本のギャップに生ずる哀しくもほほゑましい風俗は一種の「歌」でさへあった。」野田宇太郎『パンの會』三笠書房、1952年、p.73。

「一体、小劇場運動というのは、どうしてこう、おしなべてナツメロ集へナツメロ集へと急速に傾斜していったのか。(…)早稲田小劇場の芝居も、戦争中の軍歌や、阿部定の調書やを高唱するものであった。どうして現在の演劇活動の前衛にある世代の演劇人たちは、彼ら自身が経験したわけでもない、彼らの一時代前の通俗文化を、あんなに懐かしそうに語り、演じ、高唱できるのか。」佐藤忠男ナツメロと演劇」『新劇』1973年3月号、p.30。

 歴史間尺での考証沙汰はさておき、当時そのような「J-POP」に込められていた内実のかなりの部分は、「流行歌」「歌謡曲」そのもののありようごとひん曲げられてゆくその後の情報環境のおよそ30年ばかりのさらなる激変の過程に、ほんの視野の端にしかとらえられていなかったあのアニソン的なるものに知らぬ間にとって変わられていったところがあるのかもしれない。新たなパッケージングを施して勇躍グローバル化する金融経済至上の資本主義世間に乗り出せるはずだったあの「ニッポン」も、しょせんはアニソン的なるものを介して、「うた」本来の人文的現実での地下水路からもうひとつの新たな世界的〈リアル〉の側へと通底し始めているのかもしれません。

 ことばから意味を剥奪、いや、そこまでゆかずとも後景化させてゆくことは、これまでもさまざまな表現のジャンルにおいて、試行錯誤と共に行なわれてきたことでもありました。「うた」におけることば、というのもどこかでそのような意味の後景化、少なくとも日常的な有用性、情報伝達を第一義とした役割を敢えて軽視したり、それ以外の要素、たとえば「音声」としての部分を前景化させるような試みを加えられてきた経緯もあります。「詩」という意味での「うた」の属性においてならば、そのようにことばの「音声」としての部分を重視する行き方は、いわゆる音楽の楽曲におけるだけでなく、また文学表現の一ジャンルとして自明化されて以降の詩歌だけでもなく、案外別のかたちで意外な表現において同じ効果をもたらしていたところがあります。

 たとえば、立川文庫。あの集団による共同制作的な創作過程が「書き講談」の一端として創出されたことはすでに知られていますが、市場に受け入れられ「売れる」ようになったことで、その生産点にもより一層の「速度」が求められるようになった結果、半ば自動筆記のようになっていったことの当時の市場や情報環境との関係における意味、速記の普及を介した話しことばの「速度」が当時の同時代の生身の身体における「書く」手技に反映される内実を期せずして変えていったかもしれないこと、など、まだ案外見過ごされてきている重要な問いがあるように思います。

 あるいはまた、こんな例も。

 「いついかなるばあいにも、彼は事実を事実として、あるだけの量と質に限定することのできない性質をもっている。それは一般に言われる虚偽や修飾よりも、もっと衝動的・無意識的な、避けることのできない体質的なものであった。だから、いつわる必要のない場合にも、彼の筆はかるがると飛躍する。(…)彼は活字の形で空想をのべたかったのだ。」(村上信彦「虚像と実像・村上浪六」『思想の科学』1959年10月号、中央公論社、p.43。)

 明治期から大正を経て昭和初期まで、実は長らく多作を続けたベストセラー作家であり続けていながら、文学史や文芸批評、あるいは思想史などの脈絡においてさえもすでにほとんどなかったことにされて正面から言及されない特異な書き手、村上浪六の創作作法についての言及なのですが、ことばを意味との照応、もう少し正確に言うなら現実を引き写してゆく際の有効なツールとして意味との伴い具合を調整してゆくのでなく、ある意味自分の内的な風景、あらかじめ想定されている何らかのイメージとしての現実の〈リアル〉を表現してゆくような方向でことばを使い回してゆくことが、期せずして指摘されていないでしょうか。

 「ホラ吹き」という言い方がなじむような虚言性。「事実」とは違う、でも何らかの水準での〈リアル〉を読み手や聴き手に喚起してゆく「おはなし」化の能力。「おはなし」が〈リアル〉を引き出し、だから何らか感情をうっかり動かしてしまうようなものだとしたら、つまりそれは「感動」であり、何らかの情動を衝撃的に、不意打ち的に起ち上がらせるものでもあるはず――ほら、すでにもうこれは、「うた」の現前する地点にどこか近づいてきていないでしょうか。

 「速度」によって意味を引きちぎってゆく。ただひたすらにしゃべることも書くことも、共にそれら持続する過程を具体的に生きる生身の「速度」によって、ことばを制御する主体の自意識との紐つけられた部分を無化してゆくことになります。そのような主体なきことば、主語の制御を離れた表現は、自動筆記や巫女の神がかりに近くなってゆきますが、ただ、そこに至るまでに、おそらくことばそれ自身の節理や理路の水準でことば自らがことばをつむぎ出してゆくような段階がどこかで訪れるものらしい。浪六の「ホラ」に等しい「おはなし」記述のたてつけも、あるいは、手工業を越えた資本の要求に応じるために半ば無自覚に繰り出されるようになった立川文庫の生産点での書き飛ばしも、いずれそのように主体的な制御をどこかで離れ始めた表現が必然としてあらわす方法的な現前に他ならない。それは、おそらくはラップのバトルにおける即興的なやりとりや、あるいは、これはまだ仮説的に先廻りした解釈になるかもしれませんが、アニソンのあの歌詞の歌われ方の、確かに母語でありその限りで歌い手の生身の実存と紐付いているはずのことばが、これまでの理解における「書きことばを自明の前提にしたうた」のことばの分節的明晰さ、あるいは学校の教科としての音楽唱歌的な歌唱をひとつの準拠点とした表現など、既存の文字的表象の引力圏から離脱して、「音声」としてという部分を第一義に歌われることばになっているかもしれないことなどにも通じている、そんな予感が自分にはしています。

書評・ナンシー関『信仰の現場』


 もともと1994年に角川書店から出されたもので、すでに30年以上前の一冊。それを「底本とし、軽微な修正を加え、新書化したもの」(巻末の但し書き)、つまり新たに新書版として再刊したもの。帯では「新装復刊」となっている。

 「時代を笑い飛ばす術を、もう一度ナンシー関さんに教わろう/令和の「推し文化」の到来さえも射抜くナンシー関の「唯一」のルポルタージュを、新装復刊。」

 その「ナンシー関」の部分だけ大きく黒字で囲んだ白抜き極太ゴチックになっているあたり、その名前が売り、という判断からの企画ではあるのだろう。版元は星海社講談社の子分。

 「ルポルタージュ」――おお、そうだ、確かにそうなのだ。確かにそうではあるのだけれども、しかし、ナンシー関はそんなしゃらくさいこと絶対に言わない。こうだ。

「取材をして原稿を書くことはこれがほぼ初めてで、「取材」なんて言ったら怒られそうなくらいフシ穴だらけの観察眼である。」

 謙遜でもなければ、韜晦でもない。「ルポルタージュ」とか「ノンフィクション」とか、さらには「ジャーナリズム」とか「報道」とか、いずれそういうマジメで「正しい」何ものかを素朴に「信じる」人がたの、そういう種類の「信仰」が無防備にうっかり全面開放されているような、そのまさに「現場」に「大変恐縮ではあるが、私が潜入させていただく」。それら「信仰」のありように対する前向きな違和感、その眼前の事実に対する盤石な諦念を伴う慈悲深いデタッチメントの感覚。それこそが彼女のこの仕事を当時、屹立させていた本質であり、また、この令和の御代にうっかり再刊されてしまう理由でもある。

 当時、月刊誌で彼女と対談の連載仕事をしていた縁もあり、この一冊は出た当初から全力で激推しした。特別賞でいいから大宅壮一ノンフィクション賞をやるべきだ、と麹町界隈で折伏してまわってうざがられたくらいだ。あの時代、西原理恵子の『鳥頭紀行』や永沢光雄の『AV女優』などと並んで、いわゆるルポルタージュやノンフィクションといったジャンルにそれまでまだあたりまえのようにこってりまつわっていた独特の鈍重さやブンガク臭さを相対化して笑い飛ばす、その構え方もひっくるめた同時代の〈リアル〉を描き出す無自覚無意識で天然な民俗学的知性の果敢な試みとして高く評価していたのだ。

「私は何も見ちゃいなかった。でもその「現場」を「別天地」とする人たちのえもいわれぬ「すっとこどっこい」ぶりだけは見えたと思う。」

 「すっとこどっこい」とは何か。庶民である。市民であり国民であり、人民であり常民であり、大衆であり衆愚であり、その通俗で凡庸で無防備でスッポンポンなその他おおぜいのありようがどうしようもなくはらんでしまっている、まずは得体の知れない何ものか。「世間」という通り相場の内実であり、晶出されたある本質。だから、ここで取り上げられている個々の題材でなく、それらを「見る」視線こそが、この一連の仕事の質を担保している。そう、この視線と方法意識が本体であり、とりあげられているさまざまな現場はそれを現前化させる素材なのだ。


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 初出は『スタジオボイス』と『野性時代』。版元はそれぞれ流行通信角川書店。時代は1990年代ど真ん中。ということは、当時のオシャレでイケてる(死語)ポップでアーバンなサブカルチャー(笑)の発信元の一角で、そりゃ「ルポルタージュ」だの「ノンフィクション」だの「報道」だののマジメで「正しい」信仰などからはとりあえず遠い、チャラくてキラキラな媒体ではあった。また、だからこそ可能な企画、でもあったのだ、当時としては。

 矢沢の永ちゃんのコンサート、年末「寅さん」に湧く浅草の映画館、スタジオアルタは「笑っていいとも」の公開生中継や、いずれ悲喜こもごもで、かつ阿鼻叫喚でもある年末ジャンボ宝くじや公団建て売り抽選会、果ては「偏差値によって余儀なくされた末」の私大(しかも二部)の合格発表から、皇太子ご成婚パレードのもみくちゃに至るまで、それ以前なら新聞や週刊誌のフォト・ルポ的企画、あるいは売れっ子作家の世相随筆などでも取り上げられていたかもしれない、そんな種類の世相の表層、その「現場」が、しかし当時90年代状況ではもうこのような「軽い」媒体でしかうまくは捉えにくいものになっていた。そういう情報環境のうつりかわりの事情も含めての「記録」でもある。

 彼女が40歳で急逝したのは2002年の6月。あれからもう23年。彼女の仕事が同時代を席巻し、雑誌メディアを中心にあっぱれ無双していたありさまをリアルタイムに見知っている世代というのも若くてももう40代にさしかかる。つまり30代以下のいまの若い衆世代にとっては、すでに自分が物心つく前に活躍していた人、になっている。だから、ここに掲載された文章にしても、いまどきの若い衆にはそのまま響きにくくなっているところはあるだろう。実際、今回復刊されたこれを若い衆世代に紹介したところ、その反応がおもしろかった。

 否定的というのではない。「ああ、フツーにおもしろいっすね」みたいな感じ。別に驚きもしない。衝撃の度合いがこちらの想定よりはるかに薄いのだ。読んで、一応は理解もして、「で、それが何か?」――そんな顔つき。かつてのあのナンシー関の視線はすでにさほどの衝撃を与えるものでもなくなり、ごく普通に若い衆世代の感覚として薄く広く共有されているらしい。

 たとえばそれは、かつての「お笑い」、それこそ「ひょうきん族」のタケちゃんマンやあみだババァのおもしろさが当時の衝撃そのままには伝わらず、いまどき若い衆にちょっと困ったような顔をされるだけになっていたりする、そんな事情にも近いのかもしれない。同時代の〈リアル〉に即した〈いま・ここ〉の表現とは何であれそういうもの、「旬」を過ぎれば味わいもわからなくなるし、そういうナマものとしての限界も含めて輝いてはいるものなのだろう。*1

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 一般的な認識としてはコラムニストであり、消しゴム版画家だった。実際、文章にあの独特な消しゴム版画が挿絵のようについて初めて仕事としては十全なものになっていたところがあったのだし、場合によってはその消しゴム版画の方が話題の中心にされていたところもあった。没後はさらにそんな合焦感が強くなっていたようにも思う。しかし、文字というのはありがたい。ここに収録されている一連の「取材」仕事については、その消しゴム版画抜きの文章だけですでに立派に自立している。そしてその分、「記録」としての、それこそ民俗資料としての味わいはかえって熟成されている。「信仰」のその現場で当時うっかり感動したり笑ったり、傍目もはばかることなく集まりたむろし、その昂ぶりのまま熱くなったり騒いだりできていた、そんな世間一般その他おおぜいのエッセンスが確かにそこに、その頃の〈いま・ここ〉として現前していたこと、その「あった」という揺るぎない事実だけが文字を介して眼前に、もはやくっきりと浮かび上がって見えるのだ。

 ほら、立派に「ルポルタージュ」ではないか。

オウム以後30年、の〈いま・ここ〉

 オウム真理教、と聞くと、自分などの世代にとってはそれだけでもう、ああ、という嘆声と共に、あの一連の事件をめぐる報道を介しての、当時のさまざま場面や映像、挿話などが一連の画像・映像リールのように思い起こされてきます。あれからもう30年。1995年3月に勃発したあの地下鉄サリン事件から数えての年月ですが、思えばあれは「宗教」というもの言いが「カルト」に取ってかわってゆくようになった、その大きなきっかけだったということも、今だからこそひとつ、言えることなのではないでしょうか。

 もちろん、戦後に興った各種新宗教も「宗教」というたてつけで語られてきましたし、それは下地に仏教やキリスト教など既存の大看板としての「ザ・宗教」があってのこと、だからこそ「新」なり「新興」という冠がつけられていたはず。なのに、あのオウム以降、それらもひっくるめて何となく全部まとめて「カルト」的なイメージの方向に引きずられて、それら言わば「宗教」的なるもの全般に対する本邦世間一般その他おおぜいの意識までもが、どこかなしくずしに変わっていったような気がします。たとえば、直近だと統一協会をめぐるあの一連のすったもんだにしても、「宗教」というより「カルト」とレッテル貼りして勝手に理解して片づけてしまうような気分が、そうと表だって口にせずとも、世間一般その他おおぜいの胸の裡には案外わだかまっていたのでは?

 「カルト」だから胡散臭い、カネ集めの何でもありの体質やそれにまつわる各種のやり口があるようだし、時には失踪まがいのこともささやかれるし、だってほら、あの安倍さん殺した若い人だってそういう「カルト」の被害者みたいなもんだったらしいじゃない――ざっとそういう気分の連鎖の中では、かつてある時期までならそれらあやしげな「カルト」とは一線引けていて、事実世間からも一応それらとは別物と思ってもらえていたはずの由緒正しい「ザ・宗教」でさえも、昨今ではどうも似たようなもの、一緒くた地続きのどんよりとした違和感、不信感に包まれて、結果それ以上考えずに流されてしまうところがすでにある印象。

 何となくカジュアルでポップで、どうかしたらサブカルっぽくすらあって、いずれそれまでの「宗教」ベースとは違うイメージで、その分どこか気楽になじんでしまえそうで、でもあらわれとしてはやはり何らかの信心、信仰らしきものがベースになっているようで、だからその限りでは「宗教」と言ってもいいんだけれども、でも……といったあたりの何とも微妙な躊躇と距離感。そんなあいまいな「宗教っぽいけど宗教じゃなさげな目新しい何ものか」が、あれこれ姿かたちを変えながら少しずつ、ちょっとした商売や芸能沙汰、あるいは昨今だとネット介した小さなコンテンツの類などまでを糸口にして身の回りに浸透してゆくようになっていった30年。それは、あのオウムがちょっとヘンでゆるいいまどきっぽい世相風俗のネタとして取り沙汰されるようになってゆき、でもその結果、地下鉄サリン事件を起爆装置にあまりにも強烈な「カルト」の印象を世間の意識の銀幕にみるみる刷り込むことになっていってしまった30年でもあったらしい。

 なるほど、身の回りでにわかにおいそれと説明できないような現象に直面した際、「宗教」という言葉に託して何か考えようとする、そういう以前からある作法によって結果的に宗教のありようから隠されてきた何ものか、というのも確かにあります。たとえば、「政治」という位相との関わり方などはひとつわかりやすい例でしょうし、そこからさらに「経済」の問題、むくつけに言えばゼニカネの流れがどうなっているのか、といったあたりの問いも含めた、いずれ「宗教」という語彙によって示されるべき眼前の現実、いわば宗教の〈いま・ここ〉におけるまるごと全体像は、皮肉なことにまさにその「宗教」という語彙によって世間の眼や意識からうまく隠されたままになっていたところがあります。

 つまり、オウム以降、身の回りにじわじわ浸透してきた、どこか宗教っぽくないカジュアル化の現実に対して、既存の「宗教」ではしっくりこない分だけ、新たな「カルト」という語彙に置き換えて何とか〈いま・ここ〉に着地させようとしてきたのではないか。とすれば、考えるべき問いは、すでに既存の「ザ・宗教」をも呑み込んでしまったらしいそのハレーション気味ですらある「カルト」の内実、ということになるわけですが……。

*1

*1:このあともっと展開せにゃならんお題なんだが、分量の関係で……なので関連しそうなお題がらみで、たとえば(´・ω・)つ king-biscuit.hatenadiary.com

「読む」「書く」のあるべき帰郷


 AIだのChatGPTだの、見慣れぬアルファベットの語彙がこの自分のまわりにさえも遠慮会釈なく飛び交うようになった昨今、乗り遅れるな、これからはそういうAIの時代なんですよ、と開いた瞳孔丸出しに煽ってくれるいまどきキラキラ目線な若い衆あんちゃんおねえちゃんらも例によってうそうそと簇生、こんな無職隠居の年金暮らしの身にまでそんな売り込みかけてくるほどには、そうか、世の中やっぱりカモやムクドリ見境なしに探して歩かにゃならん、そんな世知辛さはいつの時代も変わらず横溢、いずれ身すぎ世すぎの詮無き話とは言え、かつての押し売り、刑務所帰りやテンプラ学生がゴム紐半襟洗濯ばさみを玄関先で開陳するのと選ぶところなし、ただ、それが顔つきあわせた関係でなく、単にこの手中の四角い今様飛び道具、スマホのインチ画面の間尺に繰り広げられるだけのことかいな、と老眼鏡ずらしつつ眺めてはひとりごちる世に遠いすみっコぐらしな日々。

 とは言え、実際の顔も姿も見知らぬままの親しい知己もうっかり増えてゆくのも、そんないまどき情報環境のありがたさ、世の現役として日々頑張って生きている人がたからのいろんな示唆や耳傾けるべき提言の類も、同じそれら飛び道具を通してこの手もとに勝手にやってくる。このへん、かつての縁側、所在なく日向ぼっこの年寄りに垣根の向こう、往来を行く見知らぬ人から気やすく声がかかってきていたようなものかも。

「シソーだのキョーヨーだのゲンロンも、コマンド入力のDOSからGUIに進化して間口が広がったと捉えていますよ。カジュアルに楽しく。」

 なるほど、この比喩に乗っかって言うなら、いわゆる本や雑誌の類など、いずれ活字の文章でつむがれているものだけをひたすら生身を介して読んでゆくなどということは、かつてパソコン普及のまだごく初期段階、自らプログラムを組むまで至らずとも、少なくともDOSのコマンド入力を見よう見まねでキーボード叩いてポチポチ打ち込んでいったのと同じようなもの。その後OSが一般的な共通窓口として設定され、それも見てくれ一発で誰の眼にもわかりやすいGUIへと「進化」してゆくことで、あら不思議、眼前のパソコンという謎の箱がどういう理屈どんなからくりで動いているものか、など全く知らないわからないままでも、そのパソコンの一部であるモニターの「画面」を「見る」こと、見てそこに表示されているアイコンと単語程度を日常の言葉づかいと理解度で「わかる」ことができるなら、そしてさらにマウスを動かして画面のカーソルを動かしクリックすることまでもできるなら、うっかり眼前にやってきていたパソコンという謎の箱はうまく「動いて」くれるようになった。それは、自動車の動く仕組みや理屈をまるで知らない、わからないままでも、ちょっと慣れれば誰でも「動かす」ことができて便利に「使える」ようになったのと同じこと。一部の特殊な趣味によって「勉強」することで獲得した知識や技術で動かすことのできた機械であったパソコンが「誰にでも」動かせる便利な道具になっていった。それと同じように、かつて世間一般その他おおぜいの凡俗にとっては敷居の高いよくわからないものだった「思想」や「言論」沙汰もまた、ということなのでありましょう、いまどきのこのご時世、情報環境のもたらしつつある事態というのは。

 思想であれ教養であれ、あるいは文学であれ哲学であれ、いずれそういう「ものを考える」ことを決められたやり方で艱難辛苦やり続けていった結果ようやく門口にたどりつくことができるとされていたそれまで一応「偉い」「値打ちのある」ものになっていた領分へ参加できる、その間口が飛躍的に拡がった。

 何も文字の文章が活字でびっしり地模様のように詰め込まれた、あのいけ好かない紙の媒体と正面から取っ組み合うことだけを難行苦行、何かの修行のように心得て若い時代の貴重な時間をあたら食い潰してゆくような「勉強」の過程に闇雲に突っ込んでゆかずとも、それ以外の方法で、それこそ音楽や映画やマンガやアニメから、いまどきならばYouTubeInstagramの類のプラットフォーム、しかもそこに乗っかってくるコンテンツがAIごかしのまがいものめいたつくりもので、その見てくれの向こう側が文字通り人外魔境の「異界」であるような場合までもあたりまえに含み込みつつ、いずれそのような多様に幅広く、安価かつ「平等」に商品として提供されるようになっていった無慮厖大な娯楽を「消費」することを介して、ひとり本と活字にばかり執着しているよりはるかに「わかりやすく」また「手軽に」思想なり教養なり、そういう「偉い」「値打ちのある」ものをそれこそ「コスパ/タイパ」よくひと通り味わえるようになった。カジュアル、とはそういうことでしょう。だとしたら、そりゃもう活字の文章との難行苦行へ敢えて赴くような人がたは後を絶つ。特に、先行きまだ前途のある若い衆世代ならなおのこと、水が低きに流れるようなもので自然のなりゆき、ことの必然ではあるのでしょう。

 確かに、抽象的なことば――つまり個別具体から遠い一般的で普遍的な語彙をうまく、もっともらしくあやつれるようになってみせることが、それら活字の書物を「読む」、そしてそのようなことばで文章を「書く」ことの目標になっていました。そして、そのような「読む」「書く」ことばの能力が、「勉強」とその果実である実利としての「立身出世」のわかりやすい証しとして世間に理解されていた。

 それは今でもなお、何らかの式典や儀礼、冠婚葬祭など「公」の場で何かものを言わねばならない場合の式辞や祝辞、挨拶の類が見事なまでに書き言葉、それもふだん日常の話しことばではまず使わないような語彙やもの言いで固められていて、しかもそれをあらかじめ書かれたものにして読み上げる、どうかすると暗記までして、といったたてつけになっているのを思えばよくわかる。「偉い」「値打ちのある」、だからそれら「公」の場において好ましいと考えられているそれらのもの言いは、それがいかに日常〈いま・ここ〉の生身に即した話しことばの水準とかけ離れたものであっても、いや、むしろかけ離れているからこそ、その使い手が「偉い」「値打ちのある」地位にあることの証明になっていますし、また、そのような二重の言語生活、異なる〈リアル〉を「一身にして二生を経る」ように生きることが、「勉強」をして「立身出世」をした「偉い」生身の人生であり、逃れられない宿命になっていました。

 とは言え、ある時期までそれら抽象的で一般的なことばやもの言いの典型のように考えられてきた、そしてそれらを駆使してあたかも空中楼閣の円天井に壮大に描き出されるフレスコ画のごとくイメージされてきたあの思想や教養、哲学といったいずれ抽象的で観念的な、そしてその分だけこの世のものならぬ美しさすらうっかり備わっていたりもする大風呂敷であっても、それを書き、かつ読むそれぞれの主体のありかにおいては個別具体の生身としての実存が必ず介在してくる。だから、それらの表現としての文章もまた、そのように人のつむいだものである以上、身の丈等身大の個別具体の水準との関係を無視して成り立っているはずがない。たとえそれら一見よそよそしい、多くの場合漢字によるいかめしい熟語がそこここに散りばめられた書きことばであっても、この日常の生身のありようは必ず話しことばの水準に紐つけられて介在していて、それはこの世に在る生身の生きものである限り、誰であれ否定しきれるものではないらしい。

 だとしたら、それら大文字のもの言いを使い回す主体というのもまた、この生身を介した話しことばの水準と必ずどこかで通底していることになる。たとえ、文字や活字の書きことばが日々の〈いま・ここ〉とまるで別もの、何か得体の知れないこの世ならぬ呪文のように見えるようになって久しく、その結果いまのわれらが日々、十全に生を生きることを希うこの〈いま・ここ〉の現実が干からびたものになってしまっているのだとしても、生身に宿る話しことば本来の闊達が、それら書きことばの「読む」や「書く」との懐しい縁まで忘れてしまったわけではないはずです。

 文字や活字を介することで〈いま・ここ〉から分離されてしまった「読む」と「書く」を、同じ生身の土俵でもう一度手もと足もとに、話しことばのあの闊達に帰郷し得た現在の切実な表現として取り戻すことはできないか。「上演」をひとつ足場にしながら、これまで「うた」と漠然とくくられてきたさまざまな表現、いや、その表現のさらに根元に常に〈いま・ここ〉としてしか現前しないあのとりとめなくもなまめかしい生身のまるごとを、もう一度この手もと足もとにうまくとりおさえられるような活きたことばの水準に引き寄せる可能性もまた、あるべきわれらの日々のまるごと、この世の生の全体性の失地回復のために開かれてはこないだろうか。

 「それって、資本主義そのものを相手にすんのに手もとの万札眺めまわしてさ、いやぁこの図柄がきれいですねぇ、とか、よく刷れてますねぇ、スカシがいいですねぇ、ってやってるようなもんじゃない」

 かつて、亡くなった朝倉喬司兄ィが言っていたこのことばが、いつの頃からか、こういうことを考えている時にはいつも、どこかで必ず記憶の底から意識の表面に知らぬ間にぽっかり浮かび上がって顔を出す。そして、その資本主義そのものを相手にしようとすることを曲も芸も身につけぬまま馬鹿正直にうっかり煮詰めすぎたあまり、自分たちをとりまく時代、情報環境や言語空間がみるみるうちに変わってゆくことさえうかうかと見過ごしてしまい、ついにはこの自分の手もとにあるのが万札なのか何なのか、いや、そもそもどのような個別具体を伴う実存だったのかさえも見失ってしまったらしいわれらの〈いま・ここ〉を、静かにかみしめています。

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 「あらかじめ自明の所与として存在する「自然」としての日常や生活という現実の水準は、おそらく日本人にとって「民俗」レベルの桎梏と共にあり続けてきたものらしい。その意味で、自ら主体的に関わってそれら「自然」としてのみあり続けてきた日常や生活≒「暮し」を編集してゆくことができる、という感覚のもたらした鮮烈さや風通しの良さは、確かに「戦後」的なものだったと言えるかも知れない。」(拙稿「生活・暮し・日常――開かれた民俗学へ向けての理論的考察③」 2014年)

 10年以上も前の古証文ですが、戦後間もなく花森安治の提示した「美しい暮し」というマニフェストや、当時の家政学今和次郎によって「生活学」へと戦後的変貌をとげてゆくことなどを下敷きにしての言明。敗戦をはさんだ「戦後」の過程に、それまでとは少し違った位相での同時代的なあらわれとして、誰もが等しくそこに生きる現実の水準があらためてのっぴきならない〈いま・ここ〉として広汎に可視化されるようになっていたらしい、その未だうまく言語化されていない「歴史」の相の微妙な連続/不連続にこと寄せたものでした。

 「それはさらに視野を広げてみれば、敗戦後の「現実」をとりとめない現在のまま何とか把握したい、「わかる」へ向けて何とかしたいという同時代の世間に宿った焦燥にも似た感覚にも通底していました。「生活」であり「暮し」であるような水準の現実。衣食住にひとまず象徴されるような、誰もがそこから逃れられない日々繰り返される具体的でささやかで、とりとめのないルーティンの連なり。それまでも「世相」と呼び「風俗」と名づけていた表層の現実ともそれは重なる領域ではあったけれども、ただもはや「世相」や「風俗」といったそれまでも使われていた通りいっぺんのもの言いでは気分としておさまりきれない何ものか、が膨らみ始めていました。」

 教科書的な「戦後」史の記述だと、たとえば「肉体による自己主張が、生命力をたぎらせ、抑圧を解き放っていった」(『占領期雑誌資料大系・大衆文化編』(岩波書店)のオビの惹句)といった風に、戦後の「民主主義」がもたらした空気がそのような「解放」を可能にしたのだ、といった具合にあっさりとひと筆描きに説明されてしまうような世相ではあります。まあ、その水準での理解としては間違いでもない。ただ、間違いでもないというだけで、それがそのまま眼前の〈いま・ここ〉を生きる手もと足もとの〈リアル〉すら実感できなくなっているいまのこのわれわれにとっての「わかる」に果して身にしみて繋がり得るものか、言い換えればそのように「役に立つ」ものかというと、それはまた別の話です。その程度に、岩波のような折り目正しい文字の「読む」「書く」に寄り添ってきていたはずの「偉い」「値打ちのある」実利というのも、いまどきのこの情報環境の煮え湯の中にとうに煮崩れてしまっているらしい。

 たとえば、あの吉本隆明などはこんな筋道で、まずその手前の昭和初年、つまり「戦前」における日常の来歴から、同じ「戦後」に期せずして口を開けていったそれまでと異なるとりとめない〈リアル〉へと向かう軌跡を語り起こしています。

 「満州事変(昭和6年)をひとつの転機とし、ついで日華事変(昭和12年)をつぎの転機とし、さらに太平洋戦争(昭和16年)をひとつの転機として、現代詩人たちの運命は(…)実生活の意識としてだけ問題にするとして、ぐんぐん変わっていった。もちろん変わってゆくことを求めたものたちが戦争を起こしたからである。」(吉本隆明『戦後詩史論』大和書房、1978年、p.25)

 合焦されている主体は「詩人」であり、その限りで「うた」を自身の〈いま・ここ〉の必然として表現につなげようとしていた人がた。それまで「昭和初年の日本の社会が、多量にうみだした、下層庶民社会にその日ぐらしを強いられた不定インテリゲンチャ」であった彼ら詩人たちが、戦争によって「職もなく社会からおちこぼれる境涯から脱してゆく機会の出現」につれて消滅していった。「かれらのあるものは、職をえて大陸へ出かけて文化宣伝に従事し、あるものは南方へでかけて軍報道の一翼をになった。またあるものは戦争による戦争拡大につれて定職をえ、それにつれて社会にたいする不定意識をいつか消失し、いわば日常社会人に転換した。かつてのルンペン的反抗や無頼的彷徨のかわりに日常の生活がおとずれた。」 つまり、戦争によって、詩人にとってさえも人並みの日常が初めて連続するものとして経験されるようになった、と。

 戦前、定職について月給取りになるということは「立身出世」のひとつのシンボルでした。そのように月給取り的な暮らしに奇しくも紛れ込めるようになったことで、彼らは初めて、その生活の先行きをそれまでよりずっと遠くまで見通せるようになり、社会をそれまでと違う内実を持つ自分ごととして意識できるようになった。それによって彼ら「現代詩の底辺を構成した不定インテリゲンチャ群は(…)社会にたいする不定の意識を消失させられ、一個の庶民にまでその生活感覚を還元させられた。」 その結果、それら総力戦体制下の戦時において初めて、彼らは当時の本邦世間一般その他おおぜいと地続きの意識で彼ら自身の「うた」を紡ぐことができるようになり、「戦争の詩を、あたかも大衆の意識を代表するような足場でかいた。」しかし、その「戦争詩をよんで、戦意を昂揚された大衆などおそらくひとりもいなかった。それらは詩としてきわめて貧弱であり、現代詩人たちが、庶民大衆とすこしも別のことを考えているわけではないことを、自分で証明する手形としての意味しかもちえなかったのである。」

 詩人たちの自意識が大衆社会の側に組み込まれてゆくことで暮しが安定し、日々の生活が確かにこの先も続くものと感じられるようになり、その結果、世間一般その他おおぜいと同じ地平で「一個の庶民」として、ものを見たり感じたりするようになった。そのような彼らがつくる創作物も世間一般その他おおぜいと地続きの意識や感覚に依拠したものになった。

 その一方、「戦争をひとつの自然秩序の変化としてとらえた」詩人たちもいた。

「近代資本主義社会と資本主義社会の利害の矛盾であり、高度の生産力のたたかいであり、近代意識と近代意識の社会的な争いである戦争は、いわば原始的な自然人の呪術であり、呪術に示唆された首狩りや部落間の争いのように、自然信仰のカテゴリイでとらえられた。そのことによって日本の庶民が根源的なところでもっていた呪術的な戦争観を、よく詩作によってメタフィジックにまで高めたのである。」

 この後者に、吉本は高い評価を与えています。でも、「戦後」の過程で現実に進行していったのは、前者のような主体のありようからつむぎだされる「うた」が時代に即した〈リアル〉を獲得してゆく、そんな見知らぬ新たな〈いま・ここ〉が編制されてゆくはるかな遠い道行きだったようです。