9.19「(通称)反日デモ」趣旨文

 9がつ19にちに 京都(きょうと)で デモを おこないました。

デモほうこくは こちら(かんじ つかってない バージョン あります)↓↓↓
http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20150924

 デモの せんでんの ために パンフレットを つくりました。パンフレットに のせた デモの しゅしぶん を ここに のせます。

 しゅしぶんは、みじかいのと ながいのと 2つ あります。

趣旨文:「自由と人権は『国民』の占有物ではないと考えるひとびとによる戦争法案反対デモ (通称)反日デモ」

かんじ つかってない バージョン

趣旨文(みじかいほう)

 現在、安倍政権が集団的自衛権容認にむけた法制化をくわだてています。一方、これに対抗する運動についても、国民主義的な性格を強め、全体として社会運動自体の右傾化が進んでいるようにみえます。

「国民」を連呼し、国民主義にとらわれた社会運動は、日本の戦争政策・帝国主義に対抗できるでしょうか。「国民なめんな」「国民守れ」といったいま広く聞かれるスローガンは、日本の「国民」をもっぱら戦争に“巻き込まれる側”と位置付けるものです。そこに、日本こそが朝鮮・中国はじめアジア諸国諸地域を戦禍に巻き込み侵略してきた側であったという歴史的事実、現在も日本こそがアジアの脅威としてあり、また軍隊を外国に送って侵略をおこないつつあるのだという現実は、完全にぬけおちています。

 戦争法案を廃案に追い込み、安倍政権のくわだてる「立憲主義の破壊」を止めること。しかし、安倍を政権から引きずりおろし、そのくわだてから「国民」を「守」ったあとに、はたしてどのような未来が待っているのでしょうか。立憲主義は1950年に自衛隊の前身である警察予備隊が創設されたときにすでに破壊されています。このときに朝鮮戦争に参加して以来、日本はすでにかずかずの戦争に加担してきました。これら「戦後」の戦争への参加・加担は、日本が現在にいたるまで「戦前」の戦争責任・植民地支配責任から逃避し続けてきたこととわかちがたくつながっています。このまま安倍が首相の座から去ったとしても、そのあとに残るのは、「国民なめんな」「国民守れ」という、侵略戦争を正当化し動員を呼びかけるスローガンと区別するのがむずかしいようなかけ声と、個別的自衛権の行使や日米安保条約は「合憲」であるといった保守派の主張に反戦平和運動がますます取り込まれ後退していくという事態だけではないのでしょうか。

 戦争法案にともに反対しましょう。同時に、批判の焦点を安倍政権に切りつめるのでなく、安倍以前からつづく日本の戦争政策・帝国主義・排外主義そのものに反対しましょう。自衛隊に、日米安保条約に、沖縄への米軍基地の押しつけに、朝鮮への敵視政策・制裁に、朝鮮学校に対する高校無償化政策からの排除に、日の丸と君が代に、天皇制に「ノー」をつきつけましょう。


趣旨文(ながいほう)

1.安倍政権の戦争法案と「反戦」運動の右傾化

 安倍政権によって、自衛隊の軍事行動をますます容易にする戦争法制の整備がすすめられています。昨年7月に集団的自衛権行使を容認する閣議決定がなされたのにつづき、現在、政府・与党は「安全保障関連法案」と称する戦争法案を国会で成立させようとしています。

 私たちは、安倍政権のこうした昨今の動きに反対するとともに、安倍政権よりずっと以前から日本政府によってすすめられてきた戦争政策・侵略政策をも同時に問うデモを企画しました。

 安倍政権の戦争法案に対しては、いま、さまざまな立場のひとびとがそれぞれのやり方で反対運動に取り組んでいます。しかし、高まり広範化する「反戦」運動そのものが、右傾化と戦争の容易な国づくりをますますすすめる要因・歯車になりつつあるのではないかと、私たちは危惧しています。


2.虚偽の「戦後」史――右傾化の徴候(1)

 私たちがそう考える理由のひとつは、戦争法案反対の運動においてすら、多くの人が日本の「戦後」史について虚偽を語っている点です。いわく、「戦後70年間、日本は戦争に参加することなく、憲法9条のもと平和国家として歩んできた」と。実際には、戦後も日本は、憲法の禁じた再軍備をおこない、日米安保条約のもと他国への武力による威嚇をつづけ、また朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争等に加担してきました。さきの戦後史の語りは、日本による「戦後」の加害の歴史をまるで「なかったこと」にする悪質な虚偽というべきです。

 こうした虚偽の戦後史は、けっして少なくない数の、大学教師などをふくむ知識人、また平和運動の活動家らによってこんにち語られており、これがたんなる「無知」の問題でないことはあきらかです。これらのひとびとが、ウソを積極的に語ったり、あるいはウソをあえて否定せずに容認したりしているのには、安倍政権を「戦後」史における“逸脱”として切断することで、これに反対する広範な連帯を容易にしようという意図があるのでしょう。日本は「平和国家」として歩んできたのに、安倍がそれをこわそうとしている、打倒安倍政権でまとまろう、というわけです。こうして、自衛隊海上保安庁といった軍事組織の存在と活動、日米安保、沖縄への米軍基地の押しつけといった問題が棚上げにされた結果、保守派や9条改憲論者もいっしょに「反安倍政権」「戦争法案反対」「集団的自衛権容認反対」といった共通の旗印のもとに「連帯」することが可能になります。

 しかし、ここで起きているのは、反戦運動のなかでの対抗軸の後退という事態です。安倍政権とこれのすすめる集団的自衛権容認にむけての法制化といったところに争点が切りつめられることによって、日本が敗戦後も一貫してすすめてきた戦争政策を、結果的に反戦運動みずからが容認してしまう、という事態が生じているのです。そして、この反戦運動の自発的後退ともいうべき事態は、現在がいわば「非常事態」であるという理屈によって正当化されているようです。戦争政策を遂行する政府とこれに対抗するはずの運動の双方が、ラディカル(根本的)な批判・異議申し立てを「些末な問題へのこだわり」として矮小化して切り捨てる「非常事態」の思考にとらわれつつあるのです。


3.国民運動化する「反戦」運動――右傾化の徴候(2)

反戦」運動そのものが、日本の右傾化を駆動するエンジンの一部になりつつあるのではないかという徴候は、運動の国民運動化としてもあらわれています。「国民なめんな」「国民守れ」といったコールがデモでなされ、アピールや議論において「国民」という語が多用されています。

 言うまでもなく「国民」は排除をともなう言葉です。「国民」をたばね、そのたばねられた力を背景に使おうとする政治は、排除対象としての「非国民」をつくりだし、排除の境界線上におかれた者に同化をせまります。「非国民」と名指されたくなければ恭順をしめせ、と。

 敗戦後の日本における「国民」という言葉の歴史的文脈もみすごせない問題をはらんでいます。日本国憲法制定の過程で、GHQの草案にはふくまれていた「people」(人民)の語が意図的に「国民」と翻訳されました。これにより、万人が日本国に対し主張しうるべき基本的人権、また日本国が統治をおよぼそうとする全人民が主張しうるべき主権者としての地位は、ときの為政者や多数者の解釈する「国民」からの排除をまぬがれた、一部の者の特権として限定を受けることになったのです。そのうえで、憲法施行前日の1947年5月2日、天皇裕仁は旧植民地である台湾・朝鮮出身者を「外国人とみなす」とした勅令「外国人登録令」を発し、憲法の「国民」の範囲からこれらのひとびとを除外しました。そのうえで、1952年、日本国政府サンフランシスコ講和条約発効にともない、旧植民地出身者の国籍を通達ひとつで一方的に剥奪して「外国人」として管理下におき、現在にいたります。

「国民」という言葉は、そのときどきの為政者・多数者がおもうままにその範囲をさだめ、その境界上・境界外に置いた少数者を専制的に統治する道具としてあったし、その歴史的な文脈は解除されないまま今も生きています。


4.日本による侵略戦争に対抗するために

 この「国民」の語法にのっとって、日本政府は安倍政権以前から戦争政策をつづけてきた点は重要です。日本政府は、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)や中国の「脅威」を喧伝し、これを事実上の仮想敵としてすえることで、軍備の拡大・再編、また沖縄にとりわけ集中している米軍の駐留を正当化してきました。このうち、朝鮮の「脅威」は、朝鮮総聯への不当捜索や民族教育への介入をくりかえし、在日朝鮮人とその民族団体に対する負の印象付けをおこなうことをつうじて演出されてきました。こうして、「国民」の外部ないし境界上の存在として在日朝鮮人を色づける(マークする)印象操作が、戦争政策の一環としておこなわれてきたのです。

「戦後」におけるこのような歴史的現在的文脈にまったくの無頓着になるのでなければ、日本の戦争政策に対抗しようとするときに「国民」の語を連呼するなどということはできないはずです。敗戦後もなお戦争に参加・加担してきたという加害の事実を都合よく消去する、さきに述べた「戦後」史の改竄が、「国民」連呼の「反戦」運動をささえているのです。知識人や平和運動活動家らによってすすめられている、日本国民をもっぱら戦争に“巻き込まれ”うる側に位置づけようとする歴史の捏造、これと運動における「国民なめんな」「国民守れ」の唱和は、連続した一体のものとみるべきです。

「国民」とはだれか? そのカテゴリーはだれを含み、だれを含まないのか? また、「国民」をおびやかす「反日」や「非国民」はだれなのか? これらを規定するのは、つねに為政者であり、制度であり、また多数者でした。そこにはつねに非対称な権力関係があったのであり、少数者はもっぱら規定される側であるよりほかなかったのです。こうした政治・制度・権力関係が温存された現状において、「国民」連呼をつうじて連帯・結束をはかるような運動が、政府の戦争政策に対抗しうるものになるとはとうてい考えられません。

「国民」の語を使うことに以前はそれなりに慎重であったはずの人までもが、こんにち「国民なめんな」「国民守れ」の唱和にくわわっています。反安倍の一点で広く共闘するために、“あえて”あるいは“戦略的に”そうしているのでしょうか。しかし、そのように大勢におもねって言葉をあやつろうとする者は、いずれ大勢にのみこまれることになるでしょう。「国民」連呼にいま“あえて”乗っている者たちは、“戦略的に”そうしているつもりでも、すでに「非常事態」の思考にみずから乗っかっています。かれらは、為政者によって「有事」「緊急事態」が演出され、「国民」の危機がますますあおられるなかで、多数者が「敵」として指さす「反日」「非国民」への攻撃にそろって加担することになるでしょう。たばねられた「国民」の力に乗じる選択をした者は、そのような政治にあらがうための原則をすでにみずから手放してしまっているのですから。

 だから、私たちがなすべきことは、日本の戦争政策を根本的に批判する原則をあらためて構築しなおすことです。そのためには、「戦後70年間、平和国家としてあゆんできた日本」などというデタラメをとなえるのをやめなければなりません。安倍のすすめる戦争政策に反対すると同時に、日本の「戦前」「戦後」をとおしての歴史的な加害事実、今後の加害可能性を射程に入れた批判と抗議の連帯をつくりだしていくことが必要だと考えます。その連帯は、日本の国民主義を批判し、あるいは克服していこうとするものでなければならないはずです。

 戦争法案にともに反対しましょう。また、自衛隊に、日米安保条約に、沖縄への米軍基地の押しつけに、朝鮮への敵視政策・制裁に、朝鮮学校に対する高校無償化政策からの排除に、日の丸と君が代に、天皇制に「ノー」をつきつけましょう。

(自由と人権は「国民」の占有物ではないと考えるひとびと)

しゅしぶん:「じゆうと じんけんは『こくみん』の せんゆうぶつ ではないと かんがえる ひとびとによる せんそうほうあん はんたいデモ (つうしょう)はんにちデモ」)

かんじ つかってる バージョン

しゅしぶん(みじかいほう)

 げんざい、あべ せいけんが しゅうだんてき じえいけん ようにんに むけた ほうせいかを くわだてています。いっぽう、これに たいこうする うんどうに ついても、こくみん しゅぎてきな せいかくを つよめ、ぜんたいとして しゃかい うんどう じたいの うけいかが すすんで いるように みえます。

「こくみん」を れんこし、こくみん しゅぎに とらわれた しゃかい うんどうは、にほんの せんそう せいさく・ていこく しゅぎに たいこうできる でしょうか。「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」といった いま ひろく きかれる すろーがんは、にほんの 「こくみん」を もっぱら せんそうに“まきこまれる がわ”と いちづける ものです。そこに、にほんこそが ちょうせん・ちゅうごく はじめ あじあ しょこく しょちいきを せんかに まきこみ しんりゃく してきた がわで あったという れきしてき じじつ、げんざいも にほんこそが あじあの きょうい としてあり、また ぐんたいを がいこくに おくって しんりゃくを おこないつつ あるのだという げんじつは、かんぜんに ぬけおちています。

 せんそう ほうあんを はいあんに おいこみ、あべ せいけんの くわだてる「りっけん しゅぎの はかい」を とめること。しかし、あべを せいけんから ひきずりおろし、その くわだてから「こくみん」を 「まも」った あとに、はたして どのような みらいが まっているのでしょうか。りっけん しゅぎは 1950ねんに じえいたいの ぜんしんである けいさつ よびたいが そうせつ されたときに すでに はかいされて います。このときに ちょうせん せんそうに さんかして いらい、にほんは すでに かずかずの せんそうに かたんして きました。これら「せんご」の せんそうへの さんか・かたんは、にほんが げんざいにいたるまで「せんぜん」の せんそう せきにん・しょくみんち しはい せきにんから とうひ しつづけてきた ことと わかちがたく つながっています。このまま あべが しゅしょうの ざ から さったとしても、そのあとに のこるのは、「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」という、しんりゃく せんそうを せいとうかし どういんを よびかける すろーがんと くべつ するのが むずかしい ような かけごえと、こべつてき じえいけんの こうしや にちべい あんぽ じょうやくは「ごうけん」である といった ほしゅはの しゅちょうに はんせん・へいわ うんどうが ますます とりこまれ こうたいしていく という じたい だけでは ないのでしょうか。

 せんそう ほうあんに ともに はんたい しましょう。どうじに、ひはんの しょうてんを あべ せいけんに きりつめるのでなく、あべ いぜんから つづく にほんの せんそう せいさく・ていこく しゅぎ・はいがい しゅぎ そのものに はんたい しましょう。じえいたいに、にちべい あんぽ じょうやくに、おきなわへの べいぐん きちの おしつけに、ちょうせんへの てきし せいさく・せいさいに、ちょうせん がっこうにたいする こうこう むしょうか せいさく からの はいじょに、ひのまると きみがよに、てんのうせいに「のー」を つきつけましょう。

しゅしぶん(ながいほう)

1.あべ せいけんの せんそう ほうあんと「はんせん」うんどうの うけいか

 あべ せいけんに よって、じえいたいの ぐんじ とうどうを ますます よういに する せんそう ほうせいの せいびが すすめられて います。さくねん 7がつに しゅうだんてき じえいけん こうしを ようにんする かくぎ けっていが なされたのに つづき、げんざい、せいふ・よとうは「あんぜん ほしょう かんれん ほうあん」と しょうする せんそう ほうあんを こっかいで せいりつ させようと しています。

 わたしたちは、あべ せいけんの こうした さっこんの うごきに はんたいすると ともに、あべ せいけんより ずっと いぜんから にほん せいふに よって すすめられて きた せんそう せいさく・しんりゃく せいさくをも どうじに とう でもを きかく しました。

 あべ せいけんの せんそう ほうあんに たいしては、いま、さまざまな たちばの ひとびとが それぞれの やりかたで はんたい うんどうに とりくんで います。しかし、たかまり こうはんかする「はんせん」うんどう そのものが、うけいかと せんそうの よういな くにづくりを ますます すすめる よういん・はぐるまに なりつつ あるのでは ないかと、わたしたちは きぐして います。


2.きょぎの「せんご」し――うけいかの ちょうこう(1)

 わたしたちが そう かんがえる りゆうの ひとつは、せんそう ほうあん はんたいの うんどうに おいてすら、おおくの ひとが にほんの「せんご」しに ついて きょぎを かたっている てんです。いわく、「せんご70ねんかん、にほんは せんそうに さんかする ことなく、けんぽう9じょうの もと へいわ こっかと して あゆんできた」と。じっさいには、「せんご」も にほんは、けんぽうの きんじた さいぐんびを おこない、にちべい あんぽ じょうやくの もと たこくへの ぶりょくによる いかくを つづけ、また ちょうせん せんそう、べとなむ せんそう、わんがん せんそう、いらく せんそう とうに かたんして きました。さきの せんごしの かたりは、にほんに よる「せんご」の かがいの れきしを まるで「なかったこと」にする あくしつな きょぎと いうべきです。

 こうした きょぎの せんごしは、けっして すくなくない かずの、だいがく きょうしなどを ふくむ ちしきじん、また へいわ うんどうの かつどうからに よって こんにち かたられており、これが たんなる「むち」の もんだいで ないことは あきらかです。これらの ひとびとが、うそを せっきょくてきに かたったり、あるいは うそを あえて ひていせずに ようにんしたり しているのには、あべ せいけんを「せんご」しに おける“いつだつ”あるいは“れいがい”として せつだんする ことで、これに はんたいする こうはんな れんたいを よういに しようという いとが あるのでしょう。にほんは「へいわ こっか」として あゆんで きたのに、あべが それを こわそうと している、だとう あべ せいけんで まとまろう、というわけです。こうして、じえいたい・かいじょう ほあんちょう といった ぐんじ そしきの そんざいと かつどう、にちべい あんぽ、おきなわへの べいぐん きちの おしつけといった もんだいが たなあげに された けっか、ほしゅはや 9じょう かいけん ろんしゃも いっしょに「はん あべ せいけん」「せんそう ほうあん はんたい」「しゅうだんてき じえいけん ようにん はんたい」といった きょうつうの はたじるしの もとに「れんたい」することが かのうに なります。

 しかし、ここで おきて いるのは、はんせん うんどうの なかでの たいこうじくの こうたいという じたいです。あべ せいけんと これの すすめる しゅうだんてき じえいけん ようにんに むけての ほうせいかと いったところに そうてんが きりつめられる ことに よって、にほんが はいせんごも いっかんして すすめてきた せんそう せいさくを、けっかてきに はんせん うんどう みずからが ようにん してしまう、という じたいが しょうじて いるのです。そして、この はんせん うんどうの じはつてき こうたい ともいうべき じたいは、げんざいが いわば「ひじょう じたい」である という りくつに よって せいとうか されて いるようです。せんそう せいさくを すいこうする せいふと これに たいこう するはずの うんどうの そうほうが、らでぃかる(こんぽんてき)な ひはん・いぎ もうしたてを「さまつな もんだいへの こだわり」として わいしょうかして きりすてる「ひじょう じたい」の しこうに とらわれつつ あるのです。


3.こくみん うんどうか する「はんせん」うんどう――うけいかの ちょうこう(2)

「はんせん」うんどう そのものが、にほんの うけいかを くどうする えんじんの いちぶに なりつつ あるのではないかという ちょうこうは、うんどうの こくみん うんどうかとしても あらわれて います。「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」といった こーるが でもで なされ、あぴーるや ぎろんに おいて「こくみん」という ごが たよう されています。

 いうまでもなく「こくみん」は はいじょを ともなう ことばです。「こくみん」を たばね、その たばねられた ちからを はいけいに つかおうとする せいじは、はいじょ たいしょうと しての「ひこくみん」を つくりだし、はいじょの きょうかいせん じょうに おかれたものに どうかを せまります。「ひこくみん」と なざされたく なければ きょうじゅんを しめせ、と。

 はいせんごの にほんに おける「こくみん」という ことばの れきしてき ぶんみゃくも みすごせない もんだいを はらんで います。にほんこく けんぽう せいていの かていで、GHQ(じー・えいち・きゅー)の そうあんには ふくまれていた「people(ぴーぷる)」(じんみん)の ごが いとてきに「こくみん」と ほんやく されました。これにより、ばんにんが にほんこくに たいし しゅちょうしうるべき きほんてき じんけん、また にほんこくが とうちを およぼそうとする ぜんじんみんが しゅちょう しうるべき しゅけんしゃとしての ちいは、ときの いせいしゃや たすうしゃの かいしゃくする「こくみん」からの はいじょを まぬがれた、いちぶの ものの とっけんとして げんていを うける ことに なったのです。そのうえで、けんぽう しこう ぜんじつの 1947ねん5がつ2にち、てんのう ひろひとは きゅう しょくみんちである たいわん・ちょうせん しゅっしんしゃを「がいこくじんと みなす」とした ちょくれい「がいこくじん とうろくれい」を はっし、けんぽうの「こくみん」の はんいから これらの ひとびとを じょがいしました。そのうえで、1952ねん、にほんこく せいふは さんふらんしすこ こうわ じょうやく はっこうに ともない、きゅう しょくみんち しゅっしんしゃの こくせきを つうたつ ひとつで いっぽうてきに はくだつして「がいこくじん」として かんりかに おき、げんざいに いたります。

「こくみん」という ことばは、その ときどきの いせいしゃ・たすうしゃが おもうままに その はんいを さだめ、その きょうかいじょう・きょうかいがいに おいた しょうすうしゃを せんせいてきに とうちする どうぐとして あったし、その れきしてきな ぶんみゃくは かいじょされないまま いまも いきています。


4.にほんに よる しんりゃく せんそうに たいこうする ために

 この「こくみん」の ごほうに のっとって、にほん せいふは あべ せいけん いぜんから せんそう せいさくを つづけてきた てんは じゅうようです。にほん せいふは、ちょうせん みんしゅ しゅぎ じんみん きょうわこく(ちょうせん)や ちゅうごくの「きょうい」を けんでんし、これを じじつじょうの かそうてきとして すえることで、ぐんびの かくだい・さいへん、また おきなわに とりわけ しゅうちゅう している べいぐんの ちゅうりゅうを せいとうか してきました。このうち、ちょうせんの「きょうい」は、ちょうせん そうれんへの ふとう そうさくや みんぞく きょういくへの かいにゅうを くりかえし、ざいにち ちょうせんじんと その みんぞく だんたいに たいする ふの いんしょうづけを おこなうことを つうじて えんしゅつされて きました。こうして「こくみん」の がいぶ ないし きょうかいじょうの そんざいとして ざいにち ちょうせんじんを いろづける(まーくする)いんしょう そうさが、せんそう せいさくの いっかんとして おこなわれて きたのです。

「せんご」に おける このような れきしてき げんざいてき ぶんみゃくに まったくの むとんちゃくに なるので なければ、にほんの せんそう せいさくに たいこう しようと するときに「こくみん」の ごを れんこする などということは できないはずです。はいせんごも なお せんそうに さんか・かたん してきたという かがいの じじつを つごうよく しょうきょする、さきに のべた「せんご」しの かいざんが、「こくみん」れんこの「はんせん」うんどうを ささえて いるのです。ちしきじんや へいわ うんどう かつどうからに よって すすめられている、にほん こくみんを もっぱら せんそうに“まきこまれ”うる がわに いちづけようと する れきしの ねつぞう、これと うんどうに おける「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」の しょうわは、れんぞくした いったいの ものと みるべきです。

「こくみん」とは だれか?その かてごりーは だれを ふくみ、だれを ふくまないのか?また、「こくみん」を おびやかす「はんにち」や「ひこくみん」は だれなのか?これらを きてい するのは、つねに いせいしゃであり、せいどであり、また たすうしゃ えした。そこには つねに ひたいしょうな けんりょく かんけいが あったのであり、しょうすうしゃは もっぱら きていされる がわで あるよりほか なかったのです。こうした せいじ・せいど・けんりょく かんけいが おんぞんされた げんじょうに おいて、「こくみん」れんこを つうじて れんたい・けっそくを はかるような うんどうが、せいふの せんそう せいさくに たいこうしうる ものに なるとは とうてい かんがえられません。

「こくみん」の ごを つかうことに いぜんは それなりに しんちょうで あったはずの ひとまでもが、こんにち「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」の しょうわに くわわっています。はん あべの いってんで ひろく きょうとう するために、“あえて”あるいは“せんりゃくてきに”そうして いるのでしょうか。しかし、そのように たいせいに おもねって ことばを あやつろうと するものは、いずれ たいせいに のみこまれる ことに なるでしょう。「こくみん」れんこに いま“あえて”のっている ものたちは、“せんりゃくてきに”そうしている つもりでも、すでに「ひじょう じたい」の しこうに みずから のっかっています。かれらは、いせいしゃに よって「ゆうじ」「きんきゅう じたい」が えんしゅつ され、「こくみん」の「きき」が ますます あおられる なかで、たすうしゃが「てき」として ゆびさす「はんにち」「ひこくみん」への こうげきに そろって かたんする ことに なるでしょう。たばねられた「こくみん」の ちからに じょうじる せんたくを したものは、そのような せいじに あらがう ための げんそくを すでに みずから てばなして しまっているのですから。

 だから、わたしたちが なすべきことは、にほんの せんそう せいさくを こんぽんてきに ひはんする げんそくを あらためて こうちく しなおす ことです。そのためには、「せんご70ねんかん、へいわ こっかとして あゆんできた にほん」などという でたらめを となえるのを やめなければ なりません。あべの すすめる せんそう せいさくに はんたいすると どうじに、にほんの「せんぜん」「せんご」を とおしての れきしてきな かがい じじつ、こんごの かがい かのうせいを しゃていに いれた ひはんと こうぎの れんたいを つくりだして いくことが ひつようだと かんがえます。その れんたいは、にほんの こくみん しゅぎを ひはんし、あるいは こくふく して いこうと するもので なければ ならないはずです。

 せんそう ほうあんに ともに はんたいしましょう。また、じえいたいに、にちべい あんぽ じょうやくに、おきなわへの べいぐん きちの おしつけに、ちょうせんへの てきし せいさく・せいさいに、ちょうせん がっこうに たいする こうこう むしょうか せいさく からの はいじょに、ひのまると きみがよに、てんのうせいに「のー」を つきつけましょう。

(じゆうと じんけんは「こくみん」の せんゆうぶつ ではないと かんがえる ひとびと)