ボブ・ディランのかわいいところ
一般人に紛れながらジョン・レノンの生家を探索するところ。
そして孫の通う幼稚園で『へんなおじさんが来てギター弾きながら怖い曲を歌った』という思い出をプレゼントするところ。
きっと今頃、思い出を共有した孫たちも『怖さ』の意味するところを話し合って、後の子孫たちのために役立てるだろう。
古代帝国主義 〜アッシリア ペルシャ マケドニア ローマ〜
古代帝国主義的拡張進出の推移は、おおよそアッシリア、ペルシャ、マケドニア、ローマで、ゲルマン人の大移動による西ローマ帝国の滅亡によって終わった。
アッシリア、ペルシャ、マケドニアまでは着実に領土の拡張を行った感じだが、アレクサンダー大王のマケドニアの場合は一代限りで分立化し、ローマ帝国の拡張の場合は広い範囲に及んだとは言え、しかし東側のペルシャ地域までは及ばず、アッシリア、ペルシャ、アレクサンダー大王と着実に広げた系統からは若干外れている点に注意を要するでしょう。
このように考えておきますと、アッシリアに帝国主義的拡張の原型を認めておけるわけでして、やがて先行していた帝国主義的中央集権にたいして新たな周辺近隣地域の統合体制が入り込んで行った感じとなりました(帝国主義体制の模範が行いやすい前例考慮が可能な地域の確立)。
まあ原型なるアッシリアにしましても先行バビロニア地域の歴史にたいして後発的に君臨したものと言えなくはないが、外敵侵入にたいする防衛体制から始まったであろう昇進階層化などの分業体制を帝国主義的拡大化の手引きへと進めたのは、やはりアッシリアが初めてであり、またアッシリアとした衝突した古来からのエジプト側にしましてもまだまだ防衛の意味合いが大きかったと考えられます。
そんな帝国主義的拡大化の前例地域に入り込んだアレクサンダー大王の遠征も東端はインドの西端までであり、それまでの類似性が認めうると考えられるアーリア系としてのイランとインドにたいして、後に続くそれぞれの文化の境界線の意味合いが強まったとも考えられます。
たとえば西側ペルシャのゾロアスター教はアッシリアに始まる帝国主義的拡張に参入しやすいアフラ・マズダとなったのにたいして、東側インドの阿修羅(ペルシャのアフラと同源アスラ)はアフラと同じく司法に携わりながらもインドラ帝釈天に負け続け、日本で言えば興福寺の阿修羅像のような面持ちに仕上がった感じです。
おそらくアッシリアの始めた帝国主義的拡張体制にしましても、一つにバビロニアのハンムラビ法典を新たに『剣か法か』という方法へと利用して行ったことにあったのかも知れません。
婆仏インドと儒道中国 〜アーリア系神話〜
中国は先行儒教にたいして後発的に道教が広がったのにたいして、インドは先行バラモン教にたいして後発的に仏教が広がった感じです。ただインドの仏教の発生は他にも色んな後発教派も台頭していた時期だったようで、仏教側が名付けた六師外道というジャイナ教を含む勢力が認められます。(中国は諸子百家の法家によって秦の統一し、その後儒教が官学化した)
さらにインドの先行バラモン教の初期ヴェーダには、西隣イランのゾロアスター教のアヴェスターと(アーリア系の類似した世界観としてか)部分的な神話の共有が認められるらしく、かつ類似神話を共有しながらも正統デーヴァと魔神アスラのバラモン教と正統アフラと魔神ダエーワのゾロアスター教という反転状況(再転回させたゾロアスター教であろう)も認められるそうだ。
あくまでも仏教はインド史の中の一部であり、その一部が中国や日本へ多大な影響を及ぼした点を見極めるためにもイランのゾロアスター教とインドのバラモン教の歴史やリトアニア語とサンスクリット語の類似性などなど全体的世界史の枠組を模索しながら、平安二宗と鎌倉四宗を主とする現代日本仏教の位置づけ(毘盧舎那仏と阿弥陀仏の世界史的由来の模索など)を確認する必要もあるだろう。
インド史の中の仏教
現代日本の大半を占める平安二宗と鎌倉四宗の仏教界において、六宗全体を二分するわけではないが阿弥陀と盧遮那仏の二つの系統に分かれている。
その分立した阿弥陀仏と盧遮那仏の史的経過は、中継地に相当する中国の仏教史の段階ならばまだわかりやすいが、遡ること本家本元のインドにおける発祥状況となるとかなり曖昧な領域が広くなり、多くの推測を立てながら精査する必要がありそうだ。
そもそも仏教の発祥地インドだとしても、決してインドが仏教国なのではない。すでに仏教が発生した時点で先行していた世界観が広がっていたインドなのだ。自分たちの慣習的世界観から外来ものとして仏教を見ていた中国や日本にたいして、インドでも自分たちの慣習的世界観から目新しいものとして仏教を眺めながら広がり始めたのである。
確かに阿弥陀仏と盧遮那仏においては世界観(世界解釈の思考パターン)の相違が認められ、必ずしもインド、中国、日本とそれぞれの地域で等しい対比状態を保っているとは言えない(対立軸の地域性および歴史性)が、その対比の普及を一時期でも保持した点で分立変化の地域性を包含する共通文化圏の仲間とみなせるでしょう。
繰り返すこと、本家本元のインド自体の中にもそれぞれの地域性があり、それぞれ阿弥陀仏と盧遮那仏の発祥直前(大乗仏教以前)におけるインドの地域性に注意する必要があります。すでにウパニシャッドの中でも最古期に相当するブッダ以前のブリハド・アーランヤカ・ウパニシャッドやチャーンドーギヤ・ウパニシャッドなどで梵我一如が生じていたインドであり、大乗仏教からの菩薩、法身にまつわる盧遮那仏への影響の有無も気にならざるを得ません。(一方の阿弥陀仏には一神教的かつ汎神論的な包括的梵の役割が認められない)