松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ああ、エルサレム、エルサレム!

 ああ、エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。
(ルカ14.15)(日本聖書教会 1966年版)

 まずは8日に、イスラエル軍は、ガザ地区からイスラエル側にカッサーム・ロケット弾で砲撃をしていた武装グループの責任者の暗殺作戦として、空爆を実行。ガザ北部で、車で移動中のところを空軍が狙い撃った。乗っていた「人民抵抗委員会」のメンバーとみられる3人が殺害された他、街中の交差点付近での空爆であったため、周囲にいた市民10人以上が巻き込まれ負傷し、病院へ運び込まれた。

 8日深夜には、やはり人民抵抗委員会の幹部で、ハマス内閣でも治安担当をしているジャマル・アブ・サムハダーナもまた、ガザ地区南部の訓練キャンプで、イスラエル軍によって暗殺された。この爆撃で他に3人のメンバーが殺害された。
 この暗殺作戦に対しては、人民抵抗委員会とハマスがともに、「報復」を宣言している。

 9日夕方の海岸への空爆では、ピクニックに来ていたパレスチナ人の家族らが被害を受け、6ヶ月と1歳半の子どもとその母親、十代の少年など、10人前後が殺され、40人以上が負傷した。
http://palestine-heiwa.org/news/200606100445.htm
Hot Topics : 緊急速報! ガザ虐殺――空爆・暗殺で約20人死亡/追記2つ:パレスチナ情報センター

http://mideastreality.com/pppresenj4.html
のようなこっけいなまでの「テロリズム=悪」イデオロギーによる洗脳だけが、イスラエル側の唯一の戦略である。
であるが、「キリストの幕屋」〜「新しい歴史教科書をつくる会」を通じて日本社会に大きな影響力を行使している。

家族を捨てよ?

大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとへ来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
(ルカ14.25)

 自分の妻や子を捨てるというのは、わたしたちの生の自然に反することのような気がする。というより以前に、わたしたちは家族から生まれ家族を再編し家族のなかで死んでいくというパラダイムを前提として生きている。現在結婚しない男女が増えているがそれでも新しいパラダイムは形成されていない。「家庭の幸福は諸悪の元」といったのは太宰治である。彼の死から半世紀、「家庭の幸福」は肥大するばかりである。
 わたしが私であることの根元を、家族などというものが支えてくれるわけでないのは当然である。しかし家族や国家、会社や名誉を切り捨てて、虚無を友として生きるべきなのか。わたしはそうだと思う。
 一匹の猫だろうと、一人の筋肉隆々たる男性であろうと、問題は同じである。〈愛〉、である。愛とは、義務や惰性を控除したときにはじめて可能性を持つあえかなものである。*1
 おそらく宗教の立場とはそうしたものであろう。わたしは宗教に本質的興味はないのだが、“家族や国家、会社や名誉の放棄”というテーマについては持続的に自分のものとして考え続けたい。
追記:“自己としての自己やパソコン〜ネットに依存している自己”の放棄、という課題の方がわたしにとって切実であり困難である。

*1:そうすると子育てや家族の継続には義務や惰性がむしろ大事だということになる。

関係を否定するわけではない。

 人間は、関係による関係的存在であるから、それらすべてを否定することはできない。
 “家族や国家、会社や名誉、自己”というものが、いつのまにか自乗化され、家族=家族、国家=国家、会社=会社、名誉=名誉、自己=自己という物象化された観念としてわたしを支配している。であるのにわたしたちはそれに気づけない、あるいは気付いても〈放棄〉の側に一歩踏み出すことにはものすごい恐怖があるので踏み出せない。そのことが問題なのだ。
 妻や子どもという関係がすでに所有や権力という物象化されたものに変質しているというのがフェミニズムの告発だった。「東洋を不気味なもの、異質なものとして規定する西洋の姿勢をオリエンタリズムと呼び、批判した」というサイードの本が出てから数十年後、差別の思想と戦略を熟知しているイスラエル国家は、広告の力により「不気味なもの、異質なもの」を大々的に作り上げることに成功した。
 「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとへ来るのでなければ、」というフレーズを忘れれば、わたしたちは無自覚な殺人者になると定められているのだ。

わたしは人を殺す。

ニート悪いっ ニー悪いっ みたいな(働かないと駄目、自立しないと駄目、義務を果たさないと駄目、人を殺しては駄目、戦争反対、生きているだけじゃ駄目etc.)
http://d.hatena.ne.jp/rahoraho/20060611

働くこと=戦争 という連想の方が普通なのに、なぜそう書かないんだろう?
 働くことが人を殺すことであったとして、なおかつひとはあるときには働くべきだ。つまり「私が殺す」という可能性は全否定されるべきではないと思う。
 6/9に取り上げたワタダ中尉あるいはその同僚はすでに人を殺している。そのような恒常的殺人をともなう占領を、小泉首相は力強く肯定している。であれば「殺人は悪だ」というお題目を唱えることは、その殺人者をわたしの意識の外に追放することでしかない。
「殺人は秩序維持のために必要だ」「殺人は悪ではない」という論理をわたしたちは承認しているのであり、わたしが殺人者であることは明らかである。
 一方で、「わたしが殺人者であることは明らか」であるということを誰も承認していないからこそ、殺人は継続され続ける。
 最も麗しいもの=エルサレム*1こそが、大量殺人を継続し続けてきた。わたしたちはエルサレムを二度唱えることを止めなければならない。

沈黙

ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている羊のように、
彼は口を開かなかった。
イザヤ書53章7節)

 神の小羊であるキリストよ。自己主張と自己愛の世にあって、ただあなただけが、このような沈黙と自己放棄の生活を生きることができます。

この生活を私の中で生きて下さい。
http://www.geocities.jp/ogcclib/msg5.html 

13日には11人が殺害された。

またしても多数の一般市民を殺傷するミサイル攻撃がイスラエル軍によって行なわれた。9日に続き、13日にも9人の一般市民と2人の活動家、計11人が殺害され、少なくとも30人を超える多数の負傷者を出した。9日の攻撃に対して国際社会からの非難が(不十分ながら)あったが、それを無視してでも攻撃を続けることを実力で明確に示したと言える。
http://palestine-heiwa.org/news/200606140836.htm
ガザ虐殺は続いている!――またも多数の市民が犠牲に

(6/15追記)