ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

出さないぞ!

 東日本大震災被災者向けの「民間賃貸住宅借り上げ制度」を利用して多くの県民が他県に自主避難している福島県が、全国の都道府県に対し、今月末で同制度の新規受け入れを打ち切るよう要請していることが分かった。福島県災害対策本部によると、11月下旬に事務レベルで要請、近く文書で正式に連絡する。年度替わりの来春に自主避難を検討している人や支援者からは「門戸を閉ざすのか」と戸惑いの声が上がっている。
 新規打ち切りの理由について、同対策本部県外避難者支援チームは(1)災害救助法に基づく緊急措置で、恒常的な施策でない(2)避難先の自治体から「期限について一定の目安が必要」と指摘があった(3)東京電力福島第1原発の「ステップ2」(冷温停止状態)が、政府の工程表通りに年内達成が見込まれる−−などと説明している。既に同制度で避難している人は引き続き入居できる。
 同制度は、避難先の自治体が一定額までの借り上げ費用を肩代わりし、福島県を通じて国に請求、最終的に国が負担する仕組みだ。例えば山形県への避難者は最長2年間、自己負担なしで入居できる。
 福島県は5月、同県全域を災害救助法の適用範囲と46都道府県に周知。これを機に、国が定めた避難区域外の県民も制度を利用し山形、新潟両県などへの自主避難が急増した。(毎日新聞 2011年12月2日 15時00分)

 この愚かなる発想を記録に留めておく必要があると認定。ここに一部を再録するものなり。佐藤雄平原発推進知事は福島県内の原発はすべてが廃炉になるものと考えていると先日コメントしたけれど、それは本心ではないのだということが読み取れる。
 避難している人たちに引導を渡す必要が今この時点でなぜあるのか、全く理解が不能である。福島県に暮らしてきた人たちは福島県の役人の持ち物ではない。むしろ福島県から出ざるをえなかった状況になぜなったのかを考え直せ。

いくらでもいるんだろうなぁ

 岩本司農水副大臣(47)2001年参院選初当選。

後援会「岩本つかさ後援会」の報告書にあった交際費64件のうち35件が“夜の街”での支出。「組織拡大費」名目でもキャバクラの支出が1件あり、支出総額は約85万円に及ぶ。

 大バカヤロウだと思ったら、「横峯さくら賞金女王祝賀会事務局」(2万円)、「横綱朝青龍全国後援会事務局」(5万円)への支出や、沖縄や福岡でのゴルフプレー代(3回)なんてのまで政治資金ということになっているわけだ。ま、横峯さくらのオヤジもどうしようもない参議院議員だけれど、その付き合いレベルになっているようなおふざけ陣笠(今はこんな言葉も使わないね)だということか。
 指摘されて「今後ひかえる」といったっていうんだもの。大バカヤロウの極みで、こんな程度の連中が私の国の政治レベルなんだと思うとほとほと涙がちょちょぎれる。
 「支援者が待っているところに行ったり、支援者にもう1軒付き合ってくれと言われ(一緒に)行ったりしており、後援会活動費と認識していた」といっているそうで、後援会のメンバーとの付き合いであることは間違っていない。しかし、それを政治資金管理団体の報告書の中に含めて良いのか、良くないのかといったら明確だろう。そんなことも判らないのか。お前はサラリーマンじゃないんだっての。取引先の担当課長が「もう一軒付き合えッ!」っていってんのと訳が違うってことが判っていない。それにしてもせこいことやってんだよね。
 産経新聞はもう舞い上がっちゃって、次から次に民主党代議士のバカ報告書を指摘。

前田武志国土交通相の「前田武志会」がミナミのスナックの飲食代を組織対策費に計上。政治資金パーティーで地元・奈良県産の特別な割りばしを配布して「割りばし代」10万2438円を計上。(msn産経ニュース2011.12.1 09:54)

と書いて嬉しそうだ。

山岡賢次国家公安委員長の「賢友会」は、高級陶磁器ブランド「ロイヤルコペンハーゲン」のデンマーク本店で、6万5985円分の贈答品を購入。商品名や贈り先は不明

 これは用途が問題じゃないの?
 で、多分自民党民主党みんなの党国民新党、たちがれなんてところの連中だって、多分五十歩百歩だと思うのが普通だね。産経新聞さんは多分自分ひとりであれだけある膨大な政治資金報告書をためつすがめつできる訳じゃないだろうから、的を絞ってきたんだろうなぁ。
 他の政党についてもご報告戴きたいところだね。それにしてもレベル低すぎ。

 民主党谷亮子は初登院の時に美容院に行ってかかった5万円余を広告宣伝費に計上していたんだって。 タレント活動だと思ってンじゃないかと。国会議員なんかになっちゃだめだよ、それなら。

東電福島 除染処理

 「放射能汚染を福島に押しつけようとするのか」という声あり。しかし、「放射能汚染を全国に拡大する必要はない」とする声の方が正しいと思う。除染した表土は東電福島第一に持ちこむので良いんじゃないのか。瓦礫もあの広い福島第一を掘りこんで埋めたら良いのではないのか。
 東北の、福島の「人々」を支援することと、その他の地域の「人間」も等しく放射能に外からも中からも汚染されて、被害を共有することは同じではない。それは「共依存」みたいなモンだろう。(少し違うかも知れないけれど)。少しでも放射能汚染を拡げちゃならない。
 福島の食品を食べようというのは、福島の「放射能汚染されていない」食品を食べようという意味なのであって、放射能汚染されていようといまいと福島の食品を食べて彼らを支援するというのは正しいことではない。

上野千鶴子

 このくそ長ったらしいタイトルは光文社新書の悪い癖か。多分、誇らしげにつけてみたんだろう。ご存知上野千鶴子と弟子の兄ちゃんとの対談の格好になっている。いや、このケチな私が買うわけがないので、本屋の店頭で数ページを立ち読みしただけだ。それでもAmazonの立ち読みよりは先まで読んだ。これは自慢にはならんな。なんだか上野千鶴子による団塊世代批判みたいな様相を呈していたので、その辺りで棚に戻した。
 彼女が絡んだ本としては珍しく勢いで読んでも構わない雰囲気の新書なんだけれど、手に取るなり思ったのは、あんたは鶴見俊輔じゃないんだから、まだその歳でこういう姑息な手段を執るな、もっと自分でみんなにわかりやすい書き方を工夫してみたらどうかということだった。そういえば文春新書あたりが半藤や保阪がらみでこの種の対談をやる。時間がない時なんかに手っ取り早く仕上げる方法としては許されるんだろう。
 しかし、上野千鶴子ともあろう者が早くもこの手法かよとちょっと気色ばんだのである。


 (追記:どうしても気になって、立ち読みする度に団塊についての論評があって、12月5日、遂に日本橋丸善にて購入に及ぶ。)

活字

 わが家から10分ほど歩いた裏道のお寺さんの前に不思議な文房具屋がある。この店の話をしたら連れあいもすぐに反応したから気がついていたのだろう。表の跳ね開き式のガラス扉も、両側のショー・ウィンドウのようになったガラスも、そして横丁に面したガラス窓もあって外から中がよく見える。古い建物だけれど、これが建った頃はモダンな感じの明るさだったのだろう。
 何が不思議かというと、そのショー・ウィンドウのようになったところに三つほどノートの山が積んである。それがいつ見てももう何年、そのままかと思うように微妙にずれ、上になったノートはすっかり日に焼けている。もうやっていないのだろう、売れないままあのノートは放置されているんだろうと思っていたら、ある日通りかかったら痩せた爺さんがハタキをかけていたのだ。だから、やる気なのだ。そうだったらあのずれて積み上がっているノートをどうにかしたらいいと思うなぁと独り言をいいながら通りすぎた。
 ところが、昨日通りかかって、ふと中を見たら、一番奥の棚一面に活版印刷の活字が積み上げていあるのが目に入った。あれ?ひょっとしたらこの活字を使って名刺を印刷してくれるのかも知れないぞと俄に思ったのだ。で、横丁の方に足を踏み入れてガラス越しにもっと良く見ようとしたら、そこにくだんの爺さんが奥からズイッと出てきた。それもとても鋭い視線なのだ。ヤバイ!この爺さんは私を怪しい奴だと思っている。とっさに思って、私は正面に廻って、扉を押し開き、「ごめん下さい!」と大きな声でいった。客だと判れば、大丈夫さと。爺さんが出てきた。マスクを手に持っている。「あの活字で名刺を刷ってくれるんですか?」と聞いた。途端に爺さんの態度に安堵と、倦怠感が浮かぶ。「あぁ、でも、今はやってないんでね」と愛想なくそれだけいうと爺さんはマスクをした。これ以上喋る気はねぇよと宣言したようなもんだ。「いや、通りかかったら見えたもんだから、じゃ」と私は出てきたけれど、考えて見たらメールアドレスって活版じゃ印刷できないかな?と思った。
 あの爺さんはひとり暮らしかもしれんなぁ。

寿命

 人間の悩みの多くは自分がいつこの世とおさらばするのか、ということが判っていたら瞬時に解決してしまうような気がする。なにしろ自分がどんな状況になって、つまりどれくらい認知症が進んだ状態なのか、あるいは頭ははっきりしているのだけれど、身体はもうヨボヨボでどこにも行けないのか、または頭もしっかりしているし、身体もしっかりしていて楽しめるとか、が判っちゃいない。
 これからあと何年後まで生きていられるのかということが判っていただけでも大きく異なる。
 私の場合、多少思い出せないことが目立ってきてはいたんだけれど、あと8年7ヶ月に、前夜に若い連中と楽しそうに酒を呑んでいたのに朝になったら起きてこないから、見に行ったら事切れていた、なんてことかも知れない。
 もしそうなんだったら、今から3年以内にこれまで懸案になっていた項目を必死になって調べまくって一本か二本どこにというわけでもないけれど、論文にして投稿する。で、あとは旅に出てその日が来る頃に東京に帰ってくる。
 あと25年生きて、最後は動けなくなってねたきりで、周りを見ると知っている人は誰ひとりいないんだけれど、それは自分が呆けちゃってわからなくなっているからなんだけれど、それすらわからないという状態で、ある日熱を出して特養から病院に担ぎ込まれたまま他界するんだと決まっているのであれば、もう何をやってもしょうがないから、お金を使わないように、家から出ないで、これまで入手した本を少しずつ読みながら、ネットで書き込んでいくだろう。ん?それじゃ今と何が違うっていうんだろう。
 判っていたら、周りも私を見る眼が変わってくるだろう。なぁに、なんだかんだとこの爺がいいたい放題しているけれど、それもあと8年7ヶ月後だと思えば許せることも出てこよう。しかし、この爺がいつまでもこのペースではびこるんだったら、しっかり罵倒しておこうと思う人も出てくる。
 そうであれば、なけなしの年金をどこかの美味しい話に全額突っ込んで、「泣いても泣ききれない」といっている、欲深そうに見える婆さんも、そんなことをしなくてもすむだろうというものだ。
 そのタイミングが判っていれば、あぁ、あの爺さんそろそろらしいから、今のうちに美味しくしておけば、少しくらい残ったものを貰えるかも知れないと親切にしてくれる人が増えるかも知れないから、それもいいかもしれないな。
 全くこんなことを考えている暇があったら、とっとと調べ物をして、早く寝た方が良いか。