河野談話に至るまでの経緯について

1986年

7月8日 「日本を守る国民会議」が教科書検定に対して不満を表明*2
7月25日 藤尾正行文部大臣が「東京裁判が客観性を持っているのかどうか。勝ったやつが負けたやつを裁判する権利があるのか,ということがある。世界史が戦争の歴史だとすれば,至るところで裁判をやらなきゃいけないことになる」と発言*3。これに対して中国は一時的な批判でそれ以上の追及は避けた。
8月22日 藤尾文部大臣「文部大臣としては言葉遣いが不適切で,誤解を招いたことは私の不徳。おわびする」「政治家個人としては,自分の信念は変わらない」と発言の撤回を拒否。
9月 藤尾文部大臣、文芸春秋10月号で「われわれがやったとされる南京事件と,広島,長崎の原爆と,一体どっちが規模が大きくて,どっちが意図的で,かつより確かな事実としてあるのか。現実の問題として,戦時国際法で審判されるべきはどちらなんだろうか。」と発言。
9月7日 薄一波中共中央顧問委副主任が「日中友好にそむくもの」と藤尾発言を批判。
9月8日 中曽根首相が藤尾文相を罷免。

ちなみに藤尾文相は安倍(晋太郎)派に属する自民党議員です。

1988年

4月21日〜4月23日 尹貞玉が「挺身隊に関する調査」を報告(「韓国教会女性連合会」主催「女性と観光文化」国際セミナー)
4月22日 奥野誠亮国土庁長官が記者会見で「日本だけが悪いことにされた。だれが侵略国家か。白色人種だ。何が日本が侵略国か、軍国主義か。」と発言*4
4月25日〜4月28日:国会で奥野発言に対する追求*5
4月28日 裕仁天皇が非公式に奥野発言に批判的に言及*6
5月9日 奥野国土庁長官、国会で「侵入して土地を取り上げる、土地を奪い取る、財産を奪い取る、」「あの当時日本にはそういう意図はなかった」と発言。5月13日に辞任。

自民党内も大勢としては,辞任やむなしの雰囲気であったが,一部自民党若手のタカ派グループ「国家基本問題同志会」(亀井静香座長)などの奥野支持といった抵抗もあり混迷の度合いを深めていく.

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/74007022/JIDC_07_01_02_kawano.pdf

5月18日 宇野精一東京大学名誉教授ら民間人の呼びかけで「奥野発言を支持する国民の集い」開催(自民党の木村睦男前参議院議長,亀井静香国家基本問題同志会座長,永野茂門参院議員などが出席)

民主化が進む韓国で植民地時代に日本から受けた被害の実態調査が進む一方、日本では奥野、藤尾などの歴史修正主義者が蠢動し、侵略戦争の正当化する言動を繰り返していました。結果として閣僚辞任に追い込まれたものの、これを擁護する声は決して小さいものではなく日本社会の底流として歴史修正主義が存在していたことを示しています。しかし、被害実態が明らかにされた韓国において、日本の政治家らのこういった発言は韓国の民衆レベルに強い反日感情を抱かせる原因となります。

1990年

1月 尹貞玉、『ハンギョレ新聞』に「挺身隊の足跡を追う取材記」を連載
5月18日 「韓国教会女性連合会」「全国女子大生代表者協議会」「韓国女性団体連合」が、日本政府にこの問題に対する真相究明と謝罪を求める声明を発表
5月24日 盧泰愚大統領訪日(海部首相及び明仁天皇と会談)

国賓 大韓民国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐
平成2年5月24日(木)(宮殿)
昭和天皇が「今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならない」と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に,貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h02e.html

6月 6日 社会党本岡昭次議員、日本政府に日本軍「慰安婦」調査を要求したが、日本政府 は「従軍慰安婦は軍・国家と関係なく、民間業者が連れ歩いたもの」と回答

118 - 参 - 予算委員会 - 19号
平成2年6月6日
○政府委員(清水傳雄君) 従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。

7月 10日 「挺身隊研究会」*7結成*8
7月 31日 「釜山女性経済人連合会」と「地域女性連合」主催で光復(植民地解放)45周年記念イベント「日帝に奪われた韓国の娘たち、挺身隊の惨状とその後」を開催
10月 17日 「韓国女性団体連合」、「韓国教会女性連合会」など37の女性団体が韓日両国政府に対し、挺身隊に関する公開書簡を送付
11月 16日 37の女性団体と個人が参加し、「韓国挺身隊問題対策協議会」(略称、「挺対協」)結成*9
12月18日 社会党清水澄子議員、日本政府に調査内容を確認。日本政府は「厚生省関係は関与していなかった、それ以上は、(略)調べたけれどもわからなかった」と回答

120 - 参 - 外務委員会 - 1号
平成2年12月18日

清水澄子君 そういうことは聞いていません。私の質問にだけ答えてください。国と軍は関係していなかったのか、いたのかということだけです。いなかったというお答えでしたから、それをもう一度確認しておきたいんです。

○説明員(戸刈利和君) 少なくとも私ども調べた範囲では、先ほど申し上げましたように、厚生省関係は関与していなかった、それ以上はちょっと調べられなかったということでございます。調べたけれどもわからなかったということでございます。

この時期、日韓間では戦時強制連行に関する問題が議論され、慰安婦問題はそれに付随して議論されていました。1990年6月6日の「従軍慰安婦は軍・国家と関係なく、民間業者が連れ歩いたもの」との政府回答は徴用などによる連行と同様の形式ではなく、厚生省では確認できない、と言った発言ではありましたが、日本政府が調査に極めて消極的であることを示すものであることは確かであり、日本の市民団体や韓国側団体から強い反感を買うことになります。実際、それから半年経った12月18日時点でも日本政府は「調べられなかった」と消極的な回答に終始しています。

1991年

5月18日 大阪で「朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会」発足
5月31日〜6月2日 「挺対協」、ソウル鍾路基督教会館で「挺身隊問題を考える講演会」開催、海部首相宛てに公開書簡を送付
7月 内閣外政審議室が「慰安婦」調査を開始
8月14日 元日本軍「慰安婦」被害者として韓国で初めて名乗り出た金学順さん(当時67歳)の公式記者会見
9月18日 「韓国教会女性連合会」、被害申告電話を設置
10月19日 釜山「女性の電話」、挺身隊申告電話を設置
11月21日 前山口県労務報国会・吉田清治氏が慰安婦狩りをしたと証言
11月26日 ソウルで2回目の 「アジアの平和と女性の役割」シンポジウム開催
12月2日 大邱に住む文玉珠さん(当時67歳)が申告
12月6日 金学順さんら3名の日本軍「慰安婦」被害者、日本政府を相手取り「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」訴訟開始
12月7日 日本政府、軍慰安婦問題について、加藤紘一官房長官が「政府関係機関が関与した資料がなく、対処が困難である」と表明
12月10日 韓国外務部、駐韓日本大使に加藤官房長官の発言に対する歴史的事実の究明を要求
12月13日 通常国会で「挺身隊問題解決のための請願書」を外務統一委員会で検討。尹貞玉挺対協共同代表と日本軍「慰安婦」被害者のハルモニが証言者として参加
12月21日 駐米韓国大使館、日本軍が朝鮮人従軍慰安婦の管理に関与した内容の米軍の調査報告書を発見したと報道(朝鮮日報

韓国で慰安婦問題が日韓問題として提起した1990年から日本政府は「政府が関与した記録がない」と事実上、国の責任を否定し続け、その結果、1991年になって金学順氏(8月)や文玉珠氏(12月)らが名乗り出て、金学順氏は1991年中に日本政府に対し訴訟*10を起こすに至りました。この期に及んでもなお、日本政府は「政府関係機関が関与した資料がなく、対処が困難である」と表明して、さらなる反感を買うことになります。
現実問題として、1968年の時点で日本政府は慰安婦動員にあたって「軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われます」*11などと認めていました*12。にもかかわらず韓国側から問題を提起されると、日本政府は関与していないと逃げ始めたわけで、当事者の感情を逆撫でして当然の態度をとったわけです。慰安婦問題におけるボタンの掛け違えが生じたとすれば、1990年から1991年のこの日本政府の卑怯な態度こそが原因と言えます。

1992年

1月8日 第1回水曜デモ(日本大使館前、以来毎週水曜日に実施)
1月10日 中央大学吉見義明教授、日本軍の慰安所に関与した証拠資料を発見(朝日新聞報道)
1月13日 日本政府、日本軍の関与事実を初めて公式に認める官房長官談話を発表「発見された資料や関係者の証言、米軍等の資料を見ると、従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できない」
1月17日 訪韓した宮沢首相が韓国国会演説で謝罪と反省を表明、「最近、いわゆる従軍慰安婦(挺身隊)問題が取り上げられていますが、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。」
2月25日 韓国政府、被害者センターを設置、被害申告と証言の受付開始
4月13日 日本軍「慰安婦」被害者6名、日本政府を相手取り賠償を求めた訴訟で追加提訴
7月6日 日本政府、慰安婦問題に関する第1次調査結果を発表、日本軍「慰安婦」問題への日本政府の直接関与を公式に認めたが、強制連行については否定(加藤談話)。
7月31日 韓国政府、慰安婦問題の調査報告書を発表、事実上の強制連行があったとした。
8月10日 ソウルで「第1次挺身隊問題解決のためのアジア連帯会議」開催、被害国の韓国、台湾、タイ、フィリピン、香港などと日本の市民団体が参加
10月 被害者のハルモニのための福祉施設(ナヌムの家)オープン*13
12月 国連総会第3委員会で従軍慰安婦問題について言及
12月25日 釜山在住日本軍「慰安婦」および勤労挺身隊被害者4人、日本政府を相手取り1億円の賠償を請求する訴訟を提起(下関地方裁判所

1992年1月頃の報道についてはApemanさんところの記事に詳しく書かれています。1991年まで慰安婦関係の調査自体に極めて消極的な態度を示し、「政府が関与した記録がない」と責任を否定し続けた日本政府は、1992年1月に吉見教授らが発見した日本軍が慰安所に関与した証拠資料を提示されて始めて関与を認めたわけです。この時点で日本政府は慰安婦関連の資料を1年以上にわたって調査していたはずでした。ところが政府よりも先に民間研究者から動かぬ証拠が提示されて、日本政府は赤っ恥をかくことになったわけです。
この時点で慰安婦問題に関して日本政府は極めて消極的であるというマイナスイメージがつくことになりました。日本政府関与の下で戦時性的人身売買が横行したというそれだけで日本政府の責任といえ、しかもその解明に現日本政府が消極的、さらに言えば事実上の隠蔽を狙ったと言われても当然のことをしたわけです。このマイナスイメージを取り戻すには、積極的な実態解明と被害者支援に転じる必要がありましたが、日本政府は関与を認め元慰安婦に同情を示しつつも事実上の責任は否定するという選択肢を選びました。
こうした中で、文玉珠氏らも日本政府に対して提訴に至ります(12月)。

1993年

2月 第49回国連人権委員会ジュネーブ会議)で軍慰安婦問題について議論
2月 韓国政府、合計490人の挺身隊被害者の申告受付の結果を発表
3月 証言集第1集『強制的に連行された朝鮮人日本軍「慰安婦」たち』刊行*14
3月13日 金泳三大統領、対日補償を要求しない方針を明言
3月23日 河野官房長官、聞き取り調査の必要性に言及。「文書を探す調査だけでは十分でないという部分もございますから、関係された方々のお話もお聞きをするということを考えております」
4月2日 フィリピンの日本軍「慰安婦」被害者18人、日本政府を相手取り提訴(東京地裁
4月5日 在日韓国人日本軍「慰安婦」被害者宋神道氏、日本政府を相手取り提訴(東京地裁
6月 「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」国会で可決、8月に支援金、医療支援、永久賃貸マンション分譲などの支援を実施
6月 国際人権会議(ウィーン)で従軍慰安婦問題について議論
6月 宮沢内閣不信任決議案可決
7月 自民党、総選挙で過半数確保に失敗
7月26日〜30日 日本政府による元慰安婦16人からの聞き取り調査(ソウル)
8月4日 日本政府、「従軍慰安婦」問題に対する官房長官談話を発表:慰安婦の存在、慰安所の設置・管理および慰安婦の移送に旧日本軍が直接、または間接的に関わり、慰安婦募集に軍が関与したことを認める(河野談話


1993年になっても“関与はしても責任はない”という態度を崩さない日本政府に対し、韓国政府は3月13日「対日補償を要求しない方針を明言」し、韓国政府のみで元慰安婦らに補償することになりました。“日本軍は慰安婦制度という組織的強姦制度に関与したが責任はないので補償はしない”という日本政府に対して、韓国政府は“そうまで責任を認めようとしないのならもういい、韓国政府のみで独自に補償する”というやり取りです*15
一方で、日本軍慰安婦制度の被害者はフィリピンなど東南アジアでも明らかになり、慰安婦問題の火の手はアジア全域に広がりつつありました。
1992年7月の加藤談話の時点で日本が最大の友好国とみなしていたインドネシア(当時、スハルトによる反共独裁政権)からも内々での抗議がなされ、外務省に動揺が走っています*16。既に韓国一国だけを相手にする問題ではなくなりつつありました。韓国相手の慰安婦問題解決に失敗すれば、東南アジア諸国との関係悪化にもつながる可能性があったわけです。金泳三大統領が対日補償を要求しない方針を明言した直後、それまで強制連行を証明する文書がないと責任を否認してきた日本政府は元慰安婦への聞き取り調査の必要性に言及します。
1993年6月に不信任案が可決された宮沢内閣は、7月末に元慰安婦への聞き取り調査を行い、8月4日の河野談話へと至ります。

慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

1992年7月の加藤談話から進歩した部分は「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」くらいで、ごく常識的に当然と思える内容に過ぎません。たったこれだけのことを認めるのに日本政府は1年以上ゴネ続け、かつ、たったこれだけの談話が日本政府が譲歩できる最大限の内容でした。本人の意思に反したこと、強制的な状況だったことを日本政府が認めることで、韓国政府を黙らせようとしたわけです。


*1:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-28/2011102814_02_1.html

*2:日本を守る国民会議」が作成した高校日本史教科書の記述内容が韓国・中国からの批判を浴びて、4度にわたる修正の後の検定合格が前段にあった。

*3:www.law.osaka-u.ac.jp/c-forum/box2/dp2010-21fukuda.pdf

*4:http://d.hatena.ne.jp/rna/20060725/p3

*5:http://ameblo.jp/scopedog/entry-10015094523.html

*6:いわゆる富田メモ。同メモで藤尾文相にも言及しているのは1986年の件。

*7:現、韓国挺身隊研究所、略称「挺隊研」

*8:日本軍「慰安婦」問題の真相究明に向け、尹貞玉教授をはじめ、女性学を専門とする大学院生たちが研究グループを結成

*9:日本軍「慰安婦」問題の真相調査活動、生存者のための福祉活動、アジア地域との連携活動などを実行

*10:アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件

*11:1968年4月26日衆議院社会労働委員会、厚生省実本博次援護局長発言

*12:http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130310/1362936967

*13:仏教人権委員会が中心となって国民の各界各層の人々寄付で被害者のハルモニ(6名)たちが共同生活を送るための施設が完成

*14:韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編。以来引き続き証言集を刊行

*15:http://www.huffingtonpost.jp/seiyoung-cho/japan-comfort-women_b_4909640.html

*16:http://www.asahi.com/politics/update/1013/TKY201310120357.html

慰安婦問題に関する加藤談話をサリン事件に関する教団談話に書き換えてみる

(以下は嘘発表です。)

中川法皇内庁長官発表
 いわゆるサリン事件問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において教団が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果については配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、サリン生成設備の設置、サリン原料の購入先の選定、サリン生成設備の運用・管理、サリン生成設備・サリンの管理、サリン生成設備関係者の人事等につき、教団の関与があったことが認められたということである。調査の具体的結果については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、詳しいことは後で外報部長から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。
 教団としては、いわゆるサリン事件の被害者として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和教団としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい関係を構築すべく努力していきたい。
 この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。

この談話で教団がサリン事件の責任を認めて謝罪していると評価できますか?

「とりあえず“責任の所在を曖昧にしておけば”どうにかなるだろう」から始まった(木村幹氏の記事の問題点)

前記事を踏まえて木村氏の「慰安婦問題は「とりあえず謝っておけばどうにかなるだろう」から始まった----従軍慰安婦河野談話をめぐるABC」と言う記事を見るとおかしな点がいくつも出てきます。

河野談話が出されるに至る経緯を理解するためには、1992年1月11日の「慰安所への軍関与示す資料」という表題の朝日新聞の報道にまでさかのぼらなければならない。ここで重要なのは、少なくとも論理的には「軍関与」=「強制連行」でもなければ、「軍関与」=「日本政府の責任」でもないにもかかわらず、何故にこの報道が重要視されたか、である。
それはこの報道の1カ月ほど前、当時官房長官を務めていた加藤紘一が「(慰安婦問題に対して)政府が関与したという資料は見つかっていない」という発言を行っていたからである。つまり、新資料の発見は、この加藤の発言を見事にひっくり返す形になったわけであり、だからこそ大きな衝撃を与えたのだ。 

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

まず、この部分です。
1991年12月の加藤発言以前に、1990年6月から日本政府は一貫して「政府が関与した記録がない」と繰り返しています。そして慰安婦問題が日韓間で持ち上がる以前には慰安婦動員にあたって「軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われます」(1968年4月26日衆議院社会労働委員会、厚生省実本博次援護局長発言)と認めていましたにも関わらず、問題が持ち上がった途端、「政府が関与した記録がない」と否定し始めたという前段があります。
実際問題として、慰安婦制度に日本政府が関与していないなどというのは当時においてすら誰も信じていなかったでしょう。だからこそ、民間研究者によって日本政府関与の動かぬ証拠が提示されて大騒ぎになったのです。
別に加藤長官の1991年12月の発言が突発的だったわけじゃありません。「見事にひっくり返す形になった」のは「この加藤の発言」だけでなく、それまでの日本政府の見解だったからこそ大きな衝撃を与えたのです。

当時の日本政府にとって厄介だったのは、この報道が、予定されていた日韓首脳会談の開催されるわずか5日前に行われたことだった。首脳会談を前にして、突如としてこれまでの慰安婦問題を巡る前提が崩れたことにより、当時の日本政府は一種のパニックに陥った。すなわち、発言を行った加藤官房長官渡辺美智雄外務大臣渡辺喜美みんなの党」党首の父親)をはじめとした、主要閣僚が「国の責任」に言及し、その勢いで首脳会談になだれ込んでしまう。
当時の毎日新聞の記事の内容にそって数えるなら、首脳会談を前後するわずか3日の間に宮沢喜一は13回も「お詫び」や「反省」を繰り返している。しかもそのうち8回はわずか22分(3分に1回以上の計算になる)の間に行われたというから、もはやほとんど会談の体をなしていない状態であったろう。首脳会談における一国の首脳の謝罪の世界記録としてギネスブックに申請してもよいのではないかと思うほどである。

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

吉見教授の発見に日本政府が動揺したのは確かでしょうが、木村氏のこの記述はいささか大げさに思えます。この1992年1月の日韓首脳会談で日本側が慰安婦問題での法的責任まで認める発言が飛び出したというならともかく、「お詫び」や「反省」などの連発ならそれまでの日本政府の路線と変わりません。例えば1990年5月の日韓首脳会談でも当時の海部首相は「お詫び」や「反省」を繰り返しています。

118 - 参 - 予算委員会 - 19号
平成2年6月6日
国務大臣海部俊樹君) 先般、盧泰愚大統領との首脳会談におきましても、過去の我が国の行為によって耐えがたい苦しみや痛みを与えたという歴史の経緯を踏まえて、それを深く反省して、私は率直に日本の過去の歴史というものに対しての反省の意を表明しました。盧泰愚大統領はそれについて、正しい認識をしていただくことを評価し、その反省に感謝すると言われまして、それにおいて過去の歴史に起因する問題には区切りをつけて、近くて近い隣人としてアジアのためのよきパートナーになろう、こう言われましたので、私はその後の記者会見においても、そのためには日本側も誠意を持っていろいろな問題については努力をしますということを申し上げた。そして首脳会談においていろいろ具体的な問題がございました。時間がかかりますから一々御報告はいたしませんけれども、今問題になっておる問題につきましても、政府はできる限り各省庁協力をして、どのようなことであったのかという調査を早急にいたして御報告をいたしたいと思います。

責任を認めない範囲での同情や「お詫び」や「反省」程度ならいくらでも連発して構わないというのが、当時の日本政府の思考回路だったと言う方が正確でしょう*1
ちなみに1992年1月17日の「宮澤喜一内閣総理大臣大韓民国訪問における政策演説」で慰安婦問題に触れているのは下記一箇所のみで、共同記者会見では言及されてもいません。

最近,いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は,このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/exdpm/19920117.S1J.html

「「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格」

重要なことは、こうしてその後作られることになる河野談話が、「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格を有していたことだ。そして更に問題だったのは、この時点における日本政府は、慰安婦に補償するつもりがなかったのみならず、そもそも自分たちが「何に対して謝罪しているのか」さえ明確に意識していなかったことである。

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

「「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格」自体は全く否定できるものではありません。慰安婦問題に関して言えば、そもそも日本側に反論の余地などなく植民地支配全般に関する「お詫び」と同じ出発点に立つ以上、河野談話が「「後始末」の性格」を持つと言うのもある意味では間違っていません。しかしながら「自分たちが「何に対して謝罪しているのか」さえ明確に意識していなかった」というのは、いくらなんでも日本政府を甘く見すぎです。1992年1月17日、軍関与の証拠発表から1週間しか経っていない時期ですら宮沢首相は慰安婦問題について「実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております」と責任を曖昧にしたままお茶を濁しています。法的責任や補償を避けるために曖昧にしていると解釈する方が妥当でしょう。
というより、1992年1月の日韓会談時点で明確に謝罪したのなら、慰安婦問題はそこで終わってますよ*2

既に述べたように、この首脳会談は朝日新聞の報道からわずか5日後に開かれており、日本政府がこの首脳会談を前にして慰安婦問題に関する歴史史料を整理することなどとうてい不可能だった。状況がよくわかっていないにもかかわらず、「取りあえず謝っておけば何とかなるだろう」というのが当時の日本政府の姿勢だった、と言っても大きな間違いはないであろう。 

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

「「取りあえず謝っておけば何とかなるだろう」というのが当時の日本政府の姿勢だった」というのは確かですが、“責任の所在を曖昧にしたまま”という条件をつけるべきですね。したがって「状況がよくわかっていない」などということはありません。

しかしながら、謝罪を得た韓国政府は勢いづき、これまでの姿勢を一変させて日本政府にこの問題に対する法的補償を要求することになる。それまでの韓国政府は慰安婦問題についても日韓基本条約で解決済みである、という立場だったから、この出来事は、日本政府にとって青天の霹靂だった。

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

この部分は、一体何の事実をもって木村氏が述べているのかわかりません。韓国政府が対応を変えたとすれば、それは軍関与の証拠が出てきたからで、宮沢首相に謝罪されたためではないでしょう。「日本政府にとって青天の霹靂だった」というのも、それまで政府の関与を否定してきた日本政府が今さらという感が強く、果たしてそのように認識したか疑問です。

こうして日本政府は状況に押される形で事後処理的に調査を行い、事態の収拾を図ることになる。だが、本当に厄介なのはここからだった。なぜなら肝心の「国の(法的)責任」を認める証拠が見つからなかったのみならず、そもそもこの時点では「慰安婦問題を巡る国の(法的)責任」が何であるかさえ明確ではなかったからである。 

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

ここもおかしな部分です。日本政府は軍関与が明らかになった1992年1月の1年以上前の1990年5月に韓国の団体から6月には日本の国会議員から真相究明を求められています。省庁単位では1990年中には調査がはじまっていますし、内閣外政審議室が調査を担当した1991年7月からでも半年は経っています。「日本政府は状況に押される形で事後処理的に調査を行」ったのだとすれば、それまで日本政府は調査を意図的にサボタージュしてたということにしかなりません。要するに1990年から1991年の間、日本政府はろくな調査を行わなかったということで、その結果、民間研究者から出された軍関与の証拠にうろたえることになったに過ぎません。
「「慰安婦問題を巡る国の(法的)責任」が何であるかさえ明確ではなかった」と言う点に関しては、軍関与の証拠が明るみに出てもなお、日本政府は国の責任を明確にすることを避けたに過ぎません。
国が管理したシステムの中で人身売買と強制売春が横行し、それを少なくとも8年間放置したという事実だけで十分に国の法的責任があるでしょうに。

当然のことながら、このような混乱した日本政府の対応は、韓国政府のみならず、日本社会や政治家たちの間にも深い不信感をもたらすことになる。一言で言えば、河野談話に至る道は、はじめから深い傷を負っていたのである。

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

この一文に関しては全くその通りだと思います。

*1:そもそも、民主化された近隣国との外交経験が当時の日本にはなかったことは、この頃の日本外交を考える上で重要だと思いますが。

*2:後始末はあるにしても