直木三十五『南国太平記』前編(誠文堂、昭和6年)には、装丁家名の記載はないが、青山二郎の初めての装丁本であるという、えびなのり氏の主張に耳を傾けて見よう。


直木三十五の長篇『南国太平記』の前篇が出たのは、昭和六年(1931)年の四月で、四六判箱入の上製本。装幀者の記載はなく、中篇の中扉の対向にようやく〈装幀・挿絵 岩田専太郎〉と印刷される。扉の意匠は専太郎でいいにしても、表紙の図柄や線は専太郎の好みじゃないね、と首をひねるファンがいたと想像するのは許されるだろう。しかし、炯眼(*けいがん)の読者も、発行者・青山二郎が表紙の意匠家とは思い及ばなかったに違いない。


この『南国太平記』がおよそ四百種に及ぶ青山二郎装幀本の第一作だが、ついでに書き添えておきたいことがある。永井龍男によると、青山二郎の父親、八郎右衛門が資金を出すというので、永井が直木から『南国太平記』の版権を貰い、青山二郎永井龍男で〈二郎龍書房〉を名乗り『南国太平記』上下二巻を刊行したことになっている。だが、上・中篇の版元は誠文堂で、二郎龍書房の名前は見当たらない。上下二巻ではなく、中篇も含んだ三巻本なのも永井の記憶と喰い違っている。


それでも永井は《二郎龍書房は残本を背負ったままつぶれてしまったが、あれほど好評を博した大衆小説の版権を、私はやすやすもらっている。》とまで書き残す。」(『別冊太陽 青山二郎の眼』平凡社、1994年)


と、いっているが、この情報の出どころは、永井龍男の著作物なのだろうか、出典などがはっきりしないので裏を取らなければならない話だが、青山二郎の最初の装幀本は、どうやら直木三十五『南国太平記』前編(誠文堂、昭和6年)のようだ。



装丁・青山二郎直木三十五『南国太平記』前編(誠文堂、昭和6年)、「南国太平記」は1930年(昭和5年)から大阪毎日、東京日日新聞に連載。幕末の薩摩藩で起きたお家騒動「お由羅騒動」に題材を取って講談本のように面白く描いている。代表作といえる「南国太平記」で一躍人気作家としてその地位を確立した直木だが、同時に病気や借金を抱え、無頼で破天荒な人生を走り続け、43歳という若さでその生涯を閉じた


お由羅騒動を描いた『南国太平記』だが、これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判したが、そのため海音寺潮五郎司馬遼太郎永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。」(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)
 

永井龍男は、1924年小林秀雄、石丸重治、河上徹太郎富永太郎らと、同人誌『山繭』を出した。1927年(昭和2年)、文藝春秋社に就職したく菊池寛社長を訪ね、居合わせた横光利一の口利きにより入社し、『手帖』誌、『創作月刊』誌、『婦人サロン』誌の編集に、つぎつぎに当たった。1932年、『オール讀物号』誌の、次いで『文芸通信』誌の編集長となった。かたわら、創作の発表も続けた。

表紙と背の資材の選択が美しいので、参考資料にと購入していた川端康成・川端香男里編纂『定本北条民雄全集下巻』(東京創元社、昭和55年12月20日)だが、これが青山二郎の装丁だとは気がつかなかった。小林秀雄が「並べるときたなくていかん」(『別冊太陽 青山二郎の眼』平凡社、1994年)といった青山の装丁とは、あまりにも異なる印象で、表紙の平には文字も挿絵もなく、すっきりとさわやかで清潔感溢れる見事な装丁に仕上がっている。


数日前に創元社東京支店の最初の一冊として『いのちの初夜』を紹介したが、青山二郎が装丁する創元社本の最初の本でもあった。因果なもので『定本北条民雄全集』上下巻は、恐らく青山二郎(1901年6月1日-1979〈昭和54〉年3月27日)の最後の装丁本ではないだろうか。青山二郎の装丁は、創元社にはじまり東京創元社(*)の装丁で終ったといえる。
(*)東京創元社は、1948年に創元社から同じ名前の創元社で独立(のれん分け)し、1954年に株式会社東京創元社として発足した。



青山二郎:装丁、川端康成川端香男里編纂『定本北条民雄全集下巻』(東京創元社、昭和55年12月20日



青山二郎:装丁、北条民雄いのちの初夜』(創元社昭和11年


昭和11年創元社東京支店の最初の一冊として刊行されたのが、北条民雄の『いのちの初夜』。この本は、北条民雄(1914年9月22日-1937年12月5日)が20歳の時にハンセン病を発病、入院後に創作を開始し、1936年『改造』(1936年2月号)に発表、第2回の文學界賞を受賞した短編小説。小林秀雄の尽力により創元社がその版権を手に入れることができたが、小林秀雄はすでに昭和9年ごろから創元社東京支店長・小林茂の相談役になっていた。