『告白』(町田康)

一条真也です。

『告白』町田康著(中公文庫)を読みました。
湊かなえからの『告白』つながりですが、本書は「朝日新聞」が選ぶ「ゼロ年代の50冊」
の1冊に選ばれ、一躍、有名になった本です。



                   人はなぜ人を殺すのか


ゼロ年代の50冊」とは、2000年〜2009年に刊行されたすべての本の中から名著を選ぶという試みです。50冊の中に入っただけでも大変なことですが、本書はなんと、1位のジャレド・ダイヤモンド著『銃・病原菌・鉄』(草思社)、2位の村上春樹著『海辺のカフカ』(新潮文庫)に次いで3位に選ばれたのです。
このセレクトには多くの読書人が驚きました。
本書を映画化された湊かなえのベストセラーと勘違いした人も多かったようです。
わたしも、著者の本はまったく読んだことがなかったので驚くとともに、「それでは、どんなものか読んでみよう」と思い立ち、早速アマゾンで購入しました。
しかし、届いてみると、文庫本でなんと850ページもあります。
この厚さに、またまた驚きました。すっかり度肝を抜かれ、盆休みにでも読むことに決めました。さて、いよいよ盆休みが来て、一気に読んでみると、さらに驚きました。
章も小見出しも何もなく、いきなり物語が始まって842ページまでノンストップで続くのですが、これが度外れて面白いのです。
本書は第41回谷崎潤一郎賞受賞作だそうですが、もはや、そんなレベルを遥かに超えています。「ゼロ年代の50冊」の3位も、もしかすると超えているかもしれない。わたしは、本書を日本文学の最高傑作の一つではないかと思いました。いや、ほんとに。



物語は、河内音頭のスタンダードナンバーとして歌い継がれる「河内十人斬り」をモチーフとしています。1893年(明治26年)、大阪府南東部の金剛山麓にある赤坂水分村で実際に起こった大量殺人事件です。文字通りに10人が惨殺されました。
犯人は水分村に住む博打打ちの城戸熊太郎とその舎弟の谷弥五郎です。
事件の発端は、熊太郎の内縁の妻おぬいが、村の顔役の松永傳次郎(本書では熊次郎)の弟、松永寅次郎(本書では寅吉)と密通が発覚したことです。
激怒した熊太郎は、別れ話を切り出します。しかし、おぬいの母おとらが「お前とおぬいが一緒になる時に自分に毎月仕送りをする約束だったのに、全然仕送りを貰っていない。別れるなら払わなかった分を全部払ってから別れろ」と熊太郎をなじったために、金を払うことにします。
博打打ちの熊太郎は、その日暮らしです。とても、まとまった金などありません。
仕方なく、金策に奔走しますが、昔、松永傳次郎に金を貸していたことを思い出します。
早速、熊太郎は松永家を訪れ、返してくれるように頼みます。
ところが、傳次郎は記憶にないと言い張って白を切ったばかりか、子分を使って熊太郎を袋叩きにするのです。
熊太郎は、松永一家に女を盗られ、借金まで踏み倒されて半殺しにされたわけです。
舎弟の弥五郎に押されて、ついに熊太郎は、復讐を決意するのでした。
このように熊太郎の金銭・交際トラブルによって起こった復讐劇ですが、松永家の人々が乳幼児にいたるまで10人が殺害されたことから当時の大ニュースとなりました。
小説や芝居の題材にもされて、ついには大阪の伝統芸能である河内音頭の代表的な演目にまでなったというわけです。



本書が実際の大量殺人を扱った作品というので、わたしは最初、松本清張の『ミステリーの系譜』(中公文庫)を思い浮かべました。この本には、1人で30人を殺害した「津山事件」のことが書かれています。1938年(昭和13年)に起こったこの事件は横溝正史の『八つ墓村』のモデルとして知られています。
津山事件より以前で大量殺人事件といえば、この「河内十人斬り」だったのです。
そして、清張は津山事件について、『ミステリーの系譜』の中で短編ノンフィクションを書いたに過ぎませんが、本書『告白』は実際の事件をモチーフとしながらも「人はなぜ人を殺すのか」という永遠のテーマに迫る感動的な長編小説となっています。



熊太郎は不器用な男で、周囲の空気が読めませんでした。それゆえ世間の暗黙のルールに乗れることができず、最後には大犯罪者になってしまいます。
彼は思弁的ではあるのですが、いつも頭で思っていることが思うように言葉になって出てきませんでした。そんなときは、何も言えなくなってしまうか、訳のわからないことを喋ってしまうか、思ってもいないことをべらべら喋ってしまうのでした。
初めて、彼が思っていることをうまく喋れたのは、賭場での喧嘩の最中でした。
熊太郎は、後に舎弟となる弥五郎少年を大人たちが袋叩きにして所持金を奪おうとするところを助けに入り、侠客たちを相手に大立ち回りをします。
熊太郎には、子どもの頃に人を殺した(それは彼の思い込みに過ぎなかったのですが)というトラウマがあり、自分の人生に対して投げやりになっていました。
著者は、次のように描いています。



 熊太郎は、俺はこの場で滅亡してやろう、と思って叫んだ。
 「どうせ俺はひとり殺しとんね、ここで死んでも構うことあるかい。かかってこんかい、口ぼさのあほんだら」
 叫んで熊太郎は内心で、あっ、と思った。熊太郎はいまの瞬間、自分の思想と言語が合一したことを知ったのである。思ったことがそのままダイレクトに言葉になった幸福感に熊太郎は酔った。しかし熊太郎はこうも思った。
 俺の思想と言語が合一するときに俺は死ぬる。滅亡する。そもそもは横溢する暴力の気配を厭悪する感情に端を発した騒動であった。それが結果的に暴力を生む。豆を煮るのに豆殻を焚く。暴力の気配から逃れるために暴力を行使、その暴力がさらなる暴力を生む。因果なことだ。(町田康『告白』より)



この小説がすごいのは、ひとりの人間の心中を徹底的に言語化しているところです。
熊太郎という男が思ったであろうことを著者は見事に言葉に置き換えていきます。
自身は思ったことを言語にすることが苦手だった熊太郎の魂も、後世の作家がここまで自分の代弁をしてくれたとは本望でしょう。
そして著者は、熊太郎の「こころ」を見事に言語化したことによって、本当の意味で心理描写というのは小説にしかできず、映画にも演劇にも不可能であることを示しています。



著者が代弁する熊太郎の「こころ」は、いろんなことを思います。
親父に悪事を告げ口するぞと脅したら、極悪人の松永熊次郎が震えあがった様子を見て、次のように思います。



つまり金持ちの坊ちゃんなどというものはみなこんなもので大した覚悟もなく、親の庇護の下で嵩にかかって面白半分に他人をいたぶり、自分はそうする権利を天から神から賦与されたと思いこんでいるが、いざ反撃されると、自分は攻撃する一方で他人から攻撃されるということを想像したこともないから、すぐに動揺して半泣きになるのであって情ないことこのうえない。そして腹立たしいのは自分がそんな金持ちの弱々ぼっちゃんに追い込みをかけられたという事実で、しかしでも逆に考えれば、だからこそこうして簡単に追いつめることができたのであり、苦々しいのはいっとき我慢をしていまは優勢なのだから敵を追いつめることに専念することにしよう。(町田康『告白』より)



また、松永家の10人を殺害するという残虐行為にもかかわらず、意外にも「良くやった!」と事件を歓迎する村人は少なくありませんでした。
強欲な松永一家にいじめられていた人々は、熊太郎の他にも多くいたのです。
意外にも大量殺人犯が英雄視されることに対して、著者は次のように述べます。



 いまの社会であれば無慈悲きわまりない犯行として人々のもっとも憎むところとなったであろう、乳幼児までも殺害したことについても、人々はいまの世の中と同じような感じ方はしなかった。
 人間というものは因果なもので、別に啓蒙され、進歩発展したから慈悲忍辱の心を持つようになったのではない。ではどうしていまの人間が当時の人間より慈悲深くなったのかというと、それは食う心配がなくなったからで、人間というものはまず自分の生存、それをなによりも優先し、それが満たされて初めて他のことを思いやることができるのである。
 それが証拠にいまでも後進国に行けば人間の値段は安い。わが邦においても、今後、経済が悪化し、国民が等しく食うや食わずの生活になれば、モラルが荒廃した分、以前よりもずっと他人の死に対して無感覚になるだろう。
 ということはどういうことかというと、つまりいまの人間が昔の人間に比べて慈悲深くなったのではなく、ただナイーブになっただけで、食うのに精一杯であった当時の人の方がより強い精神を持ち、より透徹した死生観を持っていたとも言える。
町田康『告白』より)



人間というものの本質を見据えた著者の洞察には感服するばかりです。
その思想の深さもそうですが、わたしは著者ほど達意の文章を書く作家を知りません。
さすがはミュージシャンでもあるだけあって、彼の文章にはリズムがあります。
章も節も何もなく842ページを一気に疾走するスピード感には、完全に脱帽です。
著者は1962年生まれだそうですが、こんな凄い作家がわたしの一つだけ年長だなんて、いや、参りました。降参です。
それにしても、どのようにしたら、こんな小説が書けるのでしょうか?
著者は、2010年4月18日付「朝日新聞」朝刊で、「ゼロ年代の50冊」の3位に『告白』が選ばれたことについて次のように語っています。
「男持つなら熊太郎、弥五郎と称賛される一方で地元では朗唱禁止となっている『河内十人斬り』がずっと気になっていました。変な感じがしてました。その変な感じは、この十年の変な感じと重なっているとも思って、それを小説に書くべきだと思っていました。
そんな動機で書いた小説が十年の成果のひとつに選ばれたことを嬉しく思うと同時に、その続きにあるこれからの十年のことを重苦しく感じつつも適当に生き、しかしそれをちゃんとした小説にしないといけないのだろうなあ、と思いつつ、でも適当になってしまうのだろうなあ、ということを重苦しく思いつつ軽快な春の装いで寒さに震えつついまのところはまだ大丈夫やけど、それではダメで熊太郎の最後の位置から書き始めなければ、と毎日、重苦しく思っているところです。アホです。すみません。」
  

なんだか熊太郎を思わせるような「アホです」のコメントに、わたしは「すげえなあ」と心の底から思うのでした。
最後に、熊太郎について一言。
彼はたしかに不器用で、誰にも理解されず、人間関係にも恵まれませんでした。
しかし、少年時代にピンチを救ってやったことが契機で舎弟となった弥五郎だけは彼を最後まで信じ、彼に最後までついてきてくれました。
ある意味で、大量殺人につきあってくれるなんて、究極の人間関係ではないでしょうか。
一緒に人を殺して、一緒に死んでくれた弥五郎を得た熊太郎はこの上なく幸福な男だったのかもしれません。



わたしは本書を読みながら、ある人物のことを思い出していました。20代の終わり頃、㈱ハートピア計画のチーフ・プランナーとして一緒に働いてくれた東野和範君です。
彼は、河内の八尾の出身でした。八尾といえば、「八尾の浅吉」が有名です。
今東光が原作を書き、勝新太郎が演じた映画「悪名」の主人公です。
農民のせがれにして無類の暴れん坊。酒と博打と喧嘩と女に明け暮れました。
どこか熊太郎のイメージにも重なりますが、浅吉は滑稽な野放図さと一直線のバイタリティーで大活躍した愛すべきキャラクターでした。
東野君も「八尾の浅吉」が大好きだったようで、よく浅吉の話をしてくれました。
彼がハートピア計画を退職して以来、もう20年近く会っていませんが、わたしは彼ともう一度会いたいです。熊太郎と弥五郎ではないですが、東野君とコンビを組んで企画の世界で大暴れしたことが懐かしいです。東野和範君、君は今どうしていますか?
もし、このブログを読んでくれていたら、ぜひ連絡下さい。お待ちしています。


2010年8月15日 一条真也

靖国から月へ

一条真也です。

今年も、8月15日の終戦記念日が来ました。
日本人だけで実に310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって65年目を迎えました。
今から5年前の終戦60周年に当たる2005年8月、わたしは次の短歌を詠みました。
ひめゆりよ 知覧ヒロシマ長崎よ 手と手あわせて 祈る八月」

                8月16日付「朝日新聞」朝刊より


さて、終戦記念日というと、必ず靖国神社の問題が取り上げられます。
わたしは「死は最大の平等である」であると信じています。ですから、死者に対する差別は絶対に許せません。
官軍とか賊軍とか、軍人とか民間人とか、日本人とか外国人とか、死者にそんな区別や差別があってはならないと思います。
いっそのこと、みんなまとめて同じ場所に祀ればよいと真剣に思うのです。
でも、それでは戦没者の慰霊施設という概念を完全に超えてしまいます。
靖国だけではありません。アメリカのアーリントン墓地にしろ、韓国の戦争記念館にしろ、一般に戦没者施設というものは自国の戦死者しか祀らないものです。
しかし、それでは平等であるはずの死者に差別が生まれてしまう。


では、どうすればよいか。そこで登場するのが月です。
靖国問題がこれほど複雑化するのも、中国や韓国の干渉があるにせよ、遺族の方々が、戦争で亡くなった自分の愛する者が眠る場所が欲しいからであり、愛する者に会いに行く場所が必要だからです。
つまり、死者に対する心のベクトルの向け先を求めているのです。
それを月にすればどうか。月は日本中どこからでも、また韓国や中国からでも、アメリカからでも見上げることができます。
その月を死者の霊が帰る場所とすればどうでしょうか。
これは古代より世界各地で月があの世に見立てられてきたという人類の普遍的な見方をそのまま受け継ぐものです。


終戦60周年の夏、わたしは靖国神社を参拝しました。
その後、東京から京都へ飛び、宇治の平等院を訪れました。
もともと藤原道長の別荘としてつくられた平等院は、源信の『往生要集』に出てくるあの世の極楽を三次元に再現したものでした。
道長はこの世の栄華を極め、それを満月に例えて「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けこともなしと思へば」という有名な歌を残しています。
わたしは、「天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は すべての人が帰るふるさと」と詠みたい。
死が最大の平等ならば、宇治にある「日本人の平等院」を超え、月の下にある地球人類すべての霊魂が帰り、月から地球上の子孫を見守ってゆく「地球人の平等院」としての月面聖塔をつくりたいです。
靖国から月へ。平等院から月面聖塔へ。これからも地球に住む全人類にとっての慰霊や鎮魂の問題を真剣に考え、かつ具体的に提案していきたいと思っています。


                   月面聖塔の模型の前で


2010年8月15日 一条真也

「みつばちハッチ」

一条真也です。

映画「昆虫物語 みつばちハッチ〜勇気のメロディ〜」を観ました。
小学5年生の次女が何か映画に連れて行ってくれというので、ディズニーの「魔法使いの弟子」かジブリの「借りぐらしのアリエッティ」などを観たがることを予想していましたが、意外にも彼女が選んだ夏休み映画は「ハッチ」でした。


「ハッチ」といえば、わたしの小学生の頃に「昆虫物語 みなしごハッチ」をフジテレビ系列で放映しており、毎週観ていました。1970年(昭和45年)から1971年(昭和46年)にかけての放映ですから、もう40年も前になります。
女王蜂である母親と生き別れになったミツバチのハッチは、さまざまな苦難を乗り越えて母を探す旅に出ます。母を慕うハッチの健気な姿に、男の子ながら涙したものでした。
40年ぶりにリメイクされた今回の映画では、虫たちのドラマの中にさり気なく環境問題などのテーマも織り込まれている感がありました。



大人のわたしは退屈するかなと思っていたのですが、どうして、どうして、最初から最後まで集中して観ることができました。
これは以前にも子どもと一緒に観た「ドラえもん」や「ポケット・モンスター」などの劇場版でも感じたことですが、やはり日本のアニメのレベル自体が高いのでしょう。
スタジオジブリもいいですが、日本アニメ界の名門である竜の子プロダクションもさすがに良い仕事をすると思いました。
もともと、日本のアニメはフジテレビが人材を育ててきた部分があり、同社を代表するアニメが竜の子プロの「みなしごハッチ」であり、ジブリの「アルプスの少女ハイジ」や「フランダースの犬」だったのです。
竜の子プロといえば吉田竜夫が創業した会社ですが、「マッハGoGoGo」「いなかっぺ大将」「ハクション大魔王」「科学忍者隊ガッチャマン」「新造人間キャシャーン」「タイムボカン」などの名作を多く生み出しています。わたしが個人的に一番好きだったのは、柔道アニメというよりもカルト格闘アニメと呼ぶべき「紅三四郎」でした。
今日観た「ハッチ」の総合プロデュースは「おくりびと」の小山薫堂氏で、しっかり大人でも楽しめる内容に仕上げてくれていました。



この映画を観ながら、わたしはミツバチについて考えていました。
というのも、ミツバチの社会は究極の「相互扶助社会」だとされているからです。
チャールズ・ダーウィンとともに進化論を唱えたT・H・八クスレーは、1894年に刊行した著書『進化と倫理』の序文で次のように書いています。
「ミツバチの社会は『各人には必要な分だけを与え、各人からは能力に応じてとる』という共産主義的金言の理想を満足する。ミツバチの社会では、生存競争は厳格に制限されている。女王バチ、雄バチ、そして働きバチはそれぞれ割りあてられた適度な量の食物を得る・・・偏理哲学の才のある思索的な雄バチ(働きバチや女王バチにはそんな暇はない)などというものがいたら自らを最も正真正銘の直感的道徳家と称する必要にかられるだろう。彼は働きバチが最小限の生活を得るために終わりなき労苦の人生に身を捧げていることは、啓発された利己心によっても、いかなる種類の功利的動機によっても説明することはできないと完璧なる正当性をもって指摘するであろう。」
(古川奈々子訳)



ミツバチの社会に人間社会の理想を見た人もいました。
『青い鳥』の作者として有名なノーベル文学賞作家モーリス・メーテルリンクは、「博物神秘主義者」などと呼ばれましたが、『蜜蜂の生活』という名著を書きました。
彼は「蜜蜂荘」と名づけた南フランスの家に住み、古代ギリシャ以来の蜜蜂に関する文献を探索しました。彼は毎日、ミツバチの巣に通い続ける有能な養蜂家でもありました。
ミツバチの生態を克明に観察したメーテルリンクは、持ち前の文学的才能により、その社会を統率している「巣の精神」に地球の未来を読み取ったのです。
また、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズでは、ホームズが探偵引退後に選んだ仕事が養蜂家でした。
ホームズは、ミツバチに関する著作も残したことになっています。
メーテルリンクもドイルも神秘主義者であり、特に「霊魂の不滅」や「死後の世界」を信じていたことで知られています。
その二人がともにミツバチに魅せられたのは非常に興味深いと思います。



さて、この映画では、ミツバチであるハッチと少女アミィが会話を交わします。
ハッチは母とはぐれ、アミィは新しい町に引っ越してきたばかりで誰も友人がいません。
ともに「孤独」を感じていた両者の心の波長が合ったということでしょう。最後に両者が孤独でなくなったとき、互いの言葉が理解できなくなり、会話は不可能となります。
孤独な存在が異なる種ともコミュニケーションするという点は、アンデルセンの「人魚姫」やサン=テグジュぺリの「星の王子さま」を連想しました。
言うまでもなく、人魚や異星人は人間ではありません。それでも、孤独な彼らは人間と交わろうとしました。ハッチとアミィも心を交わした後は、それぞれミツバチの社会、人間の社会へと戻ってゆきます。
また、最初にハッチとアミィのコミュニケーションを可能としたのが、アミィが吹くハーモニカの音色というのが面白かったです。
ハッチはハーモニカが奏でる音楽を「不思議な虫の鳴き声」ととらえたのです。
ここで、わたしはSF映画「未知との遭遇」で人類がエイリアンと最初にコミュニケーションするとき、音楽を用いたことを思い出しました。音楽とは異種間のコミュニケーションを可能とする究極のメディアなのかもしれません。



アミィ」という名前はおそらくドイツ人の少女ではないかと思われます。
ドイツといえば、小説「みつばちマーヤの冒険」を書いたのがドイツの作家であるワイデマル・ボンゼルスでした。
児童文学の古典となっているこの作品では、ミツバチが擬人化され、スズメバチがミツバチを襲う設定なども「みつばちハッチ」とよく似ています。
ボンゼルスが「みつばちマーヤの冒険」を書いたのは1912年ですから、当然ながら「みつばちハッチ」はその影響下にあると思われます。
「マーヤ」から「ハッチ」へという物語の遺伝があったわけです。



物語の最後は、邪悪なスズメバチ軍団とその他の虫軍団の戦争となります。
しかし、川の水が増量したことによってスズメバチの巣が決壊して、両者は力を合わせます。大自然の威力が戦争を終結させたわけです。
最初は悪役として描かれたカマキリもクモもみんなハッチを助けるために全力を尽くしてくれます。スズメバチたちも自分たちの女王蜂とその子どもたちの命を守るために必死です。考えてみれば、カマキリもクモもスズメバチも、みんな生きるために一生懸命なだけなのです。
ブログ「太陽のうた♪」で紹介した「手のひらを太陽に」の歌詞にならえば、「カマキリだって、クモだって、スズメバチだって、みんなみんな生きているんだ、友だちなんだ」です。
ですから、最後に、両軍が和解というか、戦いをやめて虫たちの世界に平和が訪れた場面では静かな感動をおぼえました。
「こんな映画を終戦記念日に観ることができて良かった」とさえ思いましたね。



何よりも、ハッチと母親の再会には涙を押さえることができませんでした。
なんだか40年前の純な小学生に戻ったような気がしましたが、隣を見ると、次女はまったく涙ぐんでなんかいません。平気な顔で、おしゃぶり昆布をしゃぶっていました。(笑)
最後に、エンディングテーマは新しい曲が使用されていましたが、やっぱり40年前の「みなしごハッチ」の主題歌を使ってほしかったです。
「行け〜行け〜ハッチ、みつばちハッチ」で始まり、「姿やさしいモンシロチョウチョ、おどけバッタにテントムシ、みんな友だち、仲間だけれど、母さん欲しかろ、恋しかろ〜」というサビのフレーズが今も耳に焼きついています。
というわけで、65回目の終戦記念日の今日、少年時代の心に戻ることができました。


2010年8月15日 一条真也