エッシャーの滝

一条真也です。

ブログ「わが書斎」の反響がものすごいです。アクセス数の多さに驚きました。
わたしの書斎には、とにかく変な物がたくさんあります。
その中に、エッシャーの「滝」を立体化したフィギュアがあります。


             わが書斎にあるエッシャーの「滝」のフィギュア


マウリッツ・コルネリス・エッシャーといえば、建築不可能な建造物などを描いたことで知られるオランダの版画家です。
その作品は、いわゆる「不思議絵」などとも呼ばれています。
わたしは子どもの頃からエッシャーの大ファンでした。
長崎県佐世保市にあるハウステンボスにはエッシャーの作品が約180点もコレクションされており、また彼の作品をモチーフにした「ミステリアスエッシャー」という3Dアトラクションがあり、何度も行きました。


数あるエッシャーの作品の中でも、特に好きなのが「滝」です。
1961年に描かれた作品ですが、前年の60年には「円の極限Ⅳ」「上昇と下降」、58年には「物見の塔」と、この時期、彼の代表作が続けて生み出されています。
ところで、この「滝」が実際に製作されたとか。
「Yahoo!映像トピックス」の「水が流れ続ける永久機関に驚きの声多数」を見て、仰天しました。水が流れる装置を写した映像なのですが、エッシャーの絵そのままに理論的には絶対に有り得ない衝撃的な内容です。
まるで「だまし絵」のようなこの映像は、ネット上でも大きな話題になっています。


この奇跡のような映像には、もちろんトリックがあります。デイヴィッド・ゴールドマンという人が親切にも(お節介にも?)、その仕掛けを図解で説明してくれています。
実写版エッシャーのだまし絵「滝」のカラクリを図解」を御覧下さい。
たとえトリックがあったとしても、やっぱり不思議です。
エッシャー好きのわたしには、たまらない映像でした。
人間、やっぱり「遊び心」が大切ですよね!


2011年2月28日 一条真也

『人生を創る言葉』

一条真也です。

『人生を創る言葉』渡部昇一著(致知出版社)を再読しました。
講談社が戦前に発行していた雑誌『キング』の付録から、著者が自分の記憶に残っている名言とエピソードを取り上げて、所感を加えたものです。


               古今東西の偉人たちが残した名言


さすがは、戦前の志ある少年たちを育てた国民誌が選んだ言葉だけあります。
どれもこれも、じつに深い味わいがあるのです。
ソクラテスコロンブス、ナポレオン、リンカーンエジソン親鸞徳川家康宮本武蔵吉田松陰などなど、古今東西の偉人たちがオールスターで登場するさまは圧巻です。
でも、わたしが気に入った言葉には、「仕事」に関するものが特に多かったです。
たとえば、「安いからといって仕事を粗末にすると、自分の良心を損しなければなりません」(ある大工)
「命じられた仕事はなんでもしろ。生き生きと嬉しそうに、熱心にするのだ。それが済んだら、すぐ他に仕事がないかと見回すのだ(ベッドフォード
「職業はなんでもいい、ただ第一人者たるを心掛けよ」(カーネギー
「商人が商人として立派になろうとするには、人として立派なことをすることを世渡りの方針にしなければならない」(新渡戸稲造



講談社文化は、青少年に「修養」の大切さを説き、「偉くなり方」を指南する文化でした。
今では「偉くなる」というと、何だか嫌らしい感じを持つ人もいるようですが、万人が自らの道で努力を重ね、向上していくことは正しいことに決まっています。
そして、誰にでも自分に合った成功への道があるのです。
偉くなるには、仕事において努力するしかありません。
仕事に関する名言が多いのは当然だと言えるでしょう。


2011年2月28日 一条真也

『「人間らしさ」の構造』

一条真也です。

『「人間らしさ」の構造』渡部昇一著(講談社学術文庫)を再読しました。
「現代の賢人」として知られる著者には膨大な著書がありますが、その中でわたしが最も愛読している1冊が本書です。著者の最高傑作ではないかと思っています。


                  人間の「生きがい」とは何か


本書は、徹底して「人間とは何か」を問いますが、まずその本性について問います。
人間の本性は善であるのか、悪であるのか。これに関しては古来、2つの陣営に分かれています。東洋においては、孔子孟子儒家が説く性善説と、管仲韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。
西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教キリスト教イスラム教も断固たる性悪説であり、フロイト性悪説を強化しました。
そして、共産主義をふくめてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。
毛沢東が、文化大革命孔子孟子の本を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。



さて、人間が生きていく上で、「生きがい」というものが重要な問題となります。
人間の生きがいについて、著者は本書で一つのたとえをあげています。
ここに1個のどんぐりがあるとします。
そのどんぐりにとっての生きがい、つまり本望は何でしょうか。
それはコロコロと転がって池に落ち、そこでドジョウに見守られながら腐ってしまうことではないでしょう。また石の上に落ちて乾上がってしまうことでも、鳥か何かに食べられてしまうことでもないでしょう。どんぐりの生きがいは、しかるべく豊穣な地面に落ちて、亭亭たる樫の木になることではないでしょうか。
どんぐりを割って、いくら顕微鏡で調べてみても、その中に樫の木の原型は見えません。しかし、しかるべき条件に置かれれば、やがて芽が出て、何十年後には大きな樫の木になります。つまり、どんぐりの中には樫の木になる性質が潜在しているのです。
同じことは人間についても言えるのではないでしょうか。
人間の女性の子宮のなかで、卵が受精すれば受精卵となります。この受精卵を取り出して100万倍の電子顕微鏡で見ても、そこに人間は見えません。しかしこの受精卵は、しかるべき条件に置かれるならば、やがて小さな赤ん坊になるのです。
したがって受精卵という微細な蛋白質か何かの粒のなかには、将来、1.5メートル以上の人間になる可能性が潜在していることになります。受精卵にとっての生きがいは、堕胎されたり、流産になったりして、下水に流されて、汚水処理場で他の汚物と一緒に処理されてしまうことではなくて、ちゃんとした人間になることでしょう。
 


ここまでは、どんぐりも人間も同じことです。ところが人間には、生物的存在としての肉体の他に、自意識とか、心とか、精神と呼ばれるものがあります。
受精卵の生物的生きがいは人間に成長することでよいでしょうが、この心のほうの生きがいはどうなるのでしょうか。 
マズローなどの心理学者は、「自己実現」という言葉を唱えました。
どんぐりが樫の木になるのも自己実現ですし、受精卵が人間になるのも自己実現です。
どんぐりも可能性のかたまりですし、受精卵も可能性のかたまりです。
わたしたち人間も、自分の可能性を展開しているときに生きがいを感じますし、自己実現は生きがいそのものと言ってよいでしょう。
本書を読んで、わたしは会社や仕事を自己実現の場とすること、そこに生きがいを感じさせること、それこそがハートフル・マネジメントの核心であると確信しました。


2011年2月28日 一条真也