60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(44)大瀧詠一と鈴木雅之、さらに田代まさし。

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(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(44)大瀧詠一鈴木雅之、さらに田代まさし

 

 大瀧詠一大瀧詠一Writing & Talking』(白夜書房、2015年)という非常に分厚い本があります。1948年に生まれ、2013年に亡くなった音楽家大瀧詠一のエッセイやライナーノーツ、インタビューや対談などを徹底的に集めた本です。

 注目ポイントは多々あるのですが、まずは細野晴臣(1947年生まれ)とそれぞれの「アメリカ体験」について語った対談から(2000年6月号『GQ JAPAN』)。

 

825p「細野 小学校の頃、父親が通訳として働いていた横須賀基地の建築現場に遊びに行った。あと、小学校3年の頃、父親が親しくしていた米兵の家のクリスマス・パーティーに呼ばれたんだよ。」

826p「大瀧 やっぱり映画と、あとテレビのホームドラマの比重がでかいんだ、実は。
細野 『パパは何でも知っている』や『うちのママは世界一』?」

827p「細野 次は『ローハイド』だね。これも、結局はフェーヴァーさんという親分がお父さんの役割を果たす、西部劇の形を借りたホームドラマなんだけど。
大瀧 あと『シェーン』でしょう。(略)
細野 あと、西部劇の大きな影響のひとつはガンブームだよ。誰でも何挺かはもっていて、拳銃をクルクル回して、ストンとガン・ベルトに落とすのが流行った。」

828p「細野 (略)FENの影響は大きかったな。
大瀧 細野さんもFEN聴きながら順位をつけたり、何度もテープレコーダーを止めながら歌詞を聞き取ったりしてたでしょ。FEN派は、どこかイリュージョン的で、現実に対処する能力が薄いね。でもって、周囲から浮いてしまう。(略)
細野 そう考えると、僕たちのアメリカ体験というのはおおかたヴァーチャルだね。アメリカ大陸の土を踏む前に、ずいぶんシミュレートしちゃったわけで。大瀧くんも、72年にはっぴいえんどのレコーディングでロスアンジェルスに行ったときが初めてのアメリカだったでしょ?
大瀧 僕はあれが最初で最後。あれがなきゃ、行ってなかったでしょうね。
細野 その後、福生から出たことあるよね?
大瀧 富士山より西は行ってないですね。
細野 アメリカの印象はどうだったの?
大瀧 アメリカの印象はレコード屋だけ。レコード屋へ行ったときは高揚しました。「レコード屋の親父になるつもりか」といわれるくらい買ったからね。」

828-9p「細野 (略)あの時ディズニーランドに行ったけど、結局、あれが僕たちにとってのアメリカだったと思わない?
大瀧 たしかに。自分らが思っているところのヴァーチャルと現実がジャストフィットした感じ。ファンタスティックな、何ひとつ曇りないアメリカ体験(笑)。
細野 で、日本に帰ってきたあとも、バーチャルな気分が続いた?
大瀧 帰ってきて、たまたま子どもが生まれて、住んでいた家が手狭になったんで、基地に近い福生に引っ越したよ。
細野 ぼくも同じだよ。狭山の米軍ハウスに引っ越した。つまり2人とも、日本の中のアメリカに移り住んだからヴァーチャルが続いたんだね。」

 

 そのFENに関してですが、当時岩手の中学生だった大瀧は、インタビューに次のように答えています。

 

15p「その頃に鉱石ラジオとかつくってね。ラジオの時代だから。音楽が聴きたいってのがきっかけで学校のラジオ・クラブに入ってね、中学1年の時。そこで先生がステレオを作ってくれて。それに短波放送が入ったんだよ。実をいうと、”三沢の”FENっていうのは嘘だな、今にして思うと。短波放送で番組タイトルは”ファン・ダイアル”だった。だから非常にクリアに入ったね。まあFENであることは変わりがない。/その後ニッポン放送の”キャンディ・ベスト・ヒット・パレード”だよ、いちばんよく聞いたのは」

 

 他に注目すべき対談は、鈴木雅之とのもの(鈴木のデビュー25周年記念パンフレットが初出)。じつは鈴木(1956年生まれ)は、はっぴいえんどのファンであり、その後アメリカン・ポップスへと舵を切った大瀧とは、鈴木が当時よりブラックな音楽に惹かれていたこともあって、やや距離があったものの、三ツ矢サイダーのCM音楽をきっかけにまた「ナイアガラ・フリーク」の度合いを深めていきます。

 

838p「O そう、75年まで僕がやって、76年は山下(達郎)がやって、結局同じCMが1年間流れるというのをナイアガラ・プロダクションが5年間やったんですよ。
M そういうアメリカン・ポップスみたいのがテレビから流れてきて、そこでコーラスみたいなものを、オールディーズ的なものとして傾倒していっちゃうのね。だから大瀧さんがやってるものが、自分にはまりこんできて、なんとかして大瀧さんと会ってみたなと思うようになったわけ(略)」

 

 マーティン(=M)こと鈴木雅之は、大瀧がDJをつとめる「ゴー・ゴー・ナイアガラ」(ラジオ関東)を愛聴し、ついに田代まさしと中央フリーウェイを飛ばして、福生まで大瀧に会いに行ったりもします。その後、鈴木や田代は、和製ドゥー・ワップ・グループとしてデビュー。改名を経て1996年の紅白歌合戦では、大瀧作詞作曲の「夢で逢えたら」を歌い、田代が曲中のセリフの部分で「大瀧さん、ありがとうございます」と感謝の言葉を述べます。えぇ話やなぁ。(その4年後、田代の最初の逮捕が…)

 

川本裕司『裏切られた未来;インターネットの30年』花伝社、2024

(講義関連)アメリカ(43)1953年、NHKと日本テレビをめぐって。

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久しぶりに覗いたら、コロナ越えて活動継続してるようで、〇。元気そうで何より。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(43)1953年、NHK日本テレビをめぐって。

 

 まずは1953年のテレビ開局までに至る助走期間として、NHKのラジオ放送の話から。以下は政治学者・丸山眞男の実兄で、NHK日本放送協会)職員の丸山鐡雄の証言です。

 

42-4p「「紅白歌合戦」は終戦の年、二十年の大晦日、内幸町の放送会館第一スタジオから放送した「紅白音楽試合」がそのハシリであった。/発案者は音楽部の近藤積(つもる)ディレクター。当時の音楽部長は吉田信、私は副部長だった。/近藤積の最初の提案は「紅白歌合戦」であったが、CIE(民間情報教育局)ラジオ課から「戦争が終わったのに“合戦”という字句を使用するのは好ましくない」とのクレームがつき「合戦」を「試合」に改めた。(略)当時放送会館内の多くの部屋がCIEに占領されており、アメリカ人は夜中に飲みながらドンチャン騒ぎをしていたが、私たち日本人には、一本のビールもなかった」(丸山鐡雄『ラジオの昭和』幻戯書房、2012年)

 

 この話は、業を煮やした若手職員が「特攻精神を発揮」して交渉し、CIEの部屋からビールやウイスキーを貰い受けた件へと続きます。CIEは、聴取者の投書によるなど「民主的番組の放送指令」を出し、女性向け放送の充実を要求したりもしました。

 

151p「日本放送協会を簡略に呼ぶ名称を作れということで、当時の企画部副部長中沢道夫が提案した「NHK」が採用され、昭和二十一年三月からNHKの呼称が始まった。/また、昭和二十年十月からは「出獄者に聞く」という新番組が人々を驚かせた。これは戦時中投獄されていた徳田球一、志賀義雄など共産党の大物をはじめ、終戦で解放された思想犯、反戦主義者らに次々とラジオに出演して貰い、特高警察の拷問、刑務所内での虐待など自分の体験談と信念をマイクの前で自由にしゃべらせるのである」

 

 その後丸山は三木鶏郎らの「日曜娯楽版」――「アメリカの人気番組の一つ「サンデーセレナード」の日本版」として企画された――を担当し、「占領軍当局とマッカーサーの悪口だけはタブー」という環境の下、ラジオ番組作りに励みます。そして、NHKはテレビ放送を始め、手狭になった内幸町からの移転を検討することになります。

 次に紹介する本は、大澤昭彦『正力ドームvs.NHKタワー:幻の巨大建築構想史』(新潮選書、2024年)。建築史の立場から、テレビ放送開始に向けての日本テレビNHKのデッドヒートの様子を描き出しています。NHKの内幸町からの移転先に関して、いくつかの候補地があがりましたが、まず浮上したのが麻布テレビ・センター計画です。

 

256-8p「テレビ・センターの建設地は、麻布新龍土町のハーディ・バラックスに絞られた。/ここはもともと軍用地で、陸軍歩兵第三連隊の駐屯地、その後、近衛歩兵第七連隊の宿舎として使われていた。戦後米軍に接収され、星条旗新聞社(スターズ・アンド・ストライプス社)を含むハーディ・バラックスとなった。(略)NHKは二万坪の払い下げを要望していた。取得した土地は約半分の九〇〇九坪にとどまったため、センター用地としては手狭と思われた。しかも、NHKが取得した九〇〇九坪のうち、約二三〇〇坪を米軍の星条旗新聞社に提供しなければならなかった。というのも、日米合同委員会での合意事項として、もともと敷地内にあった星条旗新聞社の代替地を見つけることと、ヘリポートをつくることが米軍からの接収解除の条件として示されていたのである」

 

 その後、1964年東京オリンピックの選手村用地として、代々木のワシントンハイツが返還されることで、NHK放送センターが渋谷区神南の地に築かれることになります。一方、ワシントンハイツに暮らしていた将校たち家族は、「調布の水耕農園地」跡に建てられた、いわゆる「関東村」へと移っていきます。「戦時中は調布飛行場として使われたこの土地は、米軍に接収され、一部が水耕農園となっていた。水耕農園は、人糞を肥料に使って栽培された野菜を食べることを嫌った進駐軍がつくった水耕栽培の農園」(263p)でした。こうした水耕農園は、関西でも観られました(毎日新聞大阪本社編・橋爪紳也編著『写真図説 占領下の大阪・関西:昭和20年(1945)~昭和30年(1955)』創元社、2022年)。

 一方の日本テレビ放送網アメリカとの関係に関しては、有馬哲夫『日本テレビとCIA:発掘された「正力ファイル」』(新潮社、2006年)同『原発・正力・CIA:機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008年)などに詳しいので、割愛します。

 そしてNHK日本テレビに続きラジオ東京(KRT、現TBS)、さらには富士(フジ)テレビジョン、日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)、NHK教育と開局が続いていくわけですが、このチャンネル拡大の背景には、米軍使用チャンネルの返還がありました。土地や建物のみならず、電波も接収されていたわけです。

 

 

 

「マスコミ学者」としての南博について、書かせていただきました。山本先生・土屋先生に感謝です。

 

今日は打合せ×2とか会食とか。

(講義関連)アメリカ(42)戦後名古屋サブカルチャー史

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(42)戦後名古屋サブカルチャー

 

 

 長坂英生編『写真でみる戦後名古屋サブカルチャー史』(風媒社、2023年)から、アメリカからの文化的影響を拾っていきます。

 

・1949年12月21日「笠置シズ子と「名古屋ブギー」」

 

占領期を過ぎると

 

・1958年3月29日「熱狂のロカビリー名古屋公演」
40p「昭和33年2月に東京で開催された「日劇エスタンカーニバル」で火がついたロカビリーブーム。名古屋での初公演は同年3月29日、納屋橋にあった名古屋アイスパレスで開催された。その歴史的イベントをレポートした名タイ記事によると―。/住吉尚とワゴンエース、山名義三、寺本圭一が次々に登場。踊る、飛ぶ、果てはベースの上に乗っかって演奏するが満員の会場は一向に盛り上がらない。それでも演奏のピッチが上がると観客もざわつきだし、「ロカビリー3人男」のひとり、ミッキー・カーチスが現れるやテープが飛び、ハンカチが飛び、クラッカーが鳴り出す。ついにハイティーンの少女が3人、4人と舞台に上がり、カーチスを追っかけ、逃げ回る彼を抱きしめて手を握り、キスの嵐…。/カーチスは「反響は東京も名古屋も変わりませんね。東京だってステージに上がってくるのは5,6人だけですよ。でも、ここは初めてだからシゲキが強すぎたかも」とさらり。ロカビリー旋風は4月になると早くも下火になったとか」

 

・1960年12月「テレビ西部劇と貿易自由化でガンブーム」

・1962~63年「「注・踊りすぎると腰が曲がります」~ツイスト熱狂」

・1965年「ザ・ベンチャーズ来日とエレキ・ブーム」

・1968年4月「サイケブーム」

・1969年7月21日「「人類、月に立つ」でアポロブーム」

・1969年「フォークソングと若者たち」

・1970年9月30日「元祖・ストリーキング~名古屋の街を全裸で駆け抜けた表現者

・1971年春「アメリカン・クラッカーが大流行」

 

・1971年春「ジーンズ・ブーム」
129p「昭和46年、若者たちの間でジーンズの人気が爆発した。中区栄の百貨店・オリエンタル中村(現・名古屋三越)では昭和46年春から急激に売れ始め、「ジーンズコーナー」を設置したところ前年の2~3倍の売れ行き。客は圧倒的に高校生、大学生などの若者(うち女性は40%)で、「ビッグジョン」などブランドを指定して買う人が多かった。オーバーオールやデニムのスカートも良く売れて、カラージーンズも登場した(写真上)。/ちなみに写真下は昭和31年、ジーパンで栄町を闊歩するカップル。日本の若者がジーパンをはくようになったのは米進駐軍の払い下げが出回った昭和35年ごろで、写真の2人は当時としては最先端のファッションだった」

 

・1971年春「フライングディスク登場」

・1971年秋「アメリカ生まれのニコニコマークが大流行」

・1978年7月22日「映画「サタデー・ナイト・フィーバー」公開ディスコブームヒートアップ」

 

その他、年代は特定されていないものの「ジャズとライブハウス」「尾張名古屋のバニーガール事始め」などの項目もあり、1980年には「久屋大通公園竹の子族とロックン・ロール族」などとある。一方、ブリティッシュ・インベイジョンにあたるのは、

 

・1966年6月「ビートルズ来日」

・1977年9月26日「ベイ・シティ・ローラーズ公園に名古屋娘熱狂」

 

あたり。一つの地域を取り上げてみても、時期により強弱はありつつも、終戦後から昭和いっぱい、ブームやヒットはアメリカ由来が圧倒的であったことがわかります。

 

みの『にほんのうた:音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』KADOKAWA、2024

(講義関連)アメリカ(41)雑誌・書籍を通じてのアメリカ体験

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(41)雑誌・書籍を通じてのアメリカ体験

 

 今回は鏡明(1948年生まれ、広告代理店勤務のクリエイターであり、評論家・翻訳家としても活躍)の『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた。』(フリースタイル、2019年)をめぐってです。この雑誌とは、ハードボイルド・ミステリー雑誌『マンハント』(1958~63年、アメリカ「MANHUNT」の日本版として久保書店より出版)。

 

174-5p「かつて神田で手に入れたペーパーバックには、どう見ても、残飯や、バターとしか思えない汚れやシミが付いていたものが少なくなかった。/これはきっと、米軍のゴミ箱から拾ってきたんだろう。そう思えたのだが、そんなことが気にならいほどに、ぼくはペーパーバックや雑誌が欲しかった。おそらく、その頃、60年代の半ば頃から70年代にかけての洋書の古本の供給源は米軍のキャンプであったに違いない。ベトナム戦争が終わってから、数量が減っていったのは、そうした米軍の兵士や家族が急速に減っていったからではなった。/そうしてみると、60年代は、実は戦後が継続していたように思える。米軍の存在が日常的なものであったということだ。それともにアメリカという国、いや、国以上にそれが代表する文化に対する憧れというものが、きわめて日常的なものとして存在していた。考えてみると、これはとても不思議な状況だった。60年安保が象徴する反米的な気分と、映画やテレビに象徴される親米的な気分が違和感なく共存していたわけだ。ぼく自身のことを言えば、「マンハント」に素直にのめりこめたのは、ぼくの中にアメリカに対するあこがれがあったからだと思っている。そしてその多くはテレビや映画が作りだしたアメリカ像に拠っていたのだと思う」

 

 その『マンハント』に深くかかわった山下諭一(1934年生まれ)は、鏡との対談の中で次のように述べています。

 

293p「当時、ぼくの住んでた家が京都の東山区で、いまのじゃない、元の都ホテルが蹴上にあって、そこが戦後、進駐軍の第五軍、フィフス・アーミー、たしかアメリカ陸軍で一番強い師団だったんですが、のヘッドクォーターだったんです。ぼくが住んでたのは住宅街と、もうちょっとまずしい長屋なんかのあるところのちょうど境目で、二階をオンリーさんに貸してる家があったんですね。オンリーさんを囲えるようなのは兵隊ではなくて士官、オフィサーなんですけど、その頃の若いオフィサーは大学の途中で引っぱられた連中が多かった。/ご存じですかね、当時進駐軍用の細長いペーパーバックス、アームド・サービス・エディションっていうのがあったんですけど、どこかでぼくがディテクティブ・ストーリーが好きだって言ったんでしょうね、あれをくれたんですよ」

 

 活字媒体にとどまらず、鏡の回想は映像や音声メディアにも及んでいきます。以下は、片岡義男テディ片岡)の著書から話題が派生していった箇所。

 

320p「60年代のアメリカのロックとカウンター・カルチャーの情報や知識を大量に含んだ『ぼくはプレスリーが大好き』のほぼすべては、アメリカの本や雑誌から得たものだと思う。ぼく自身これと似たようなことをしていたから、この気分はよくわかる。ぼくの場合、主に「ローリング・ストーン」と「フュージョン」だったけれども、それらのレコード評や記事を頼りにして気になるものがあれば、東京中の洋盤を扱っているレコード屋を探しまわったものだ。/それと、FEN。いわゆる米軍放送だけれども、それも貴重な情報源だった。/片岡義男は1950年代の終わり、つまり十代の終わりにFENを聴き続けていたという。ぼくがFENを聴きはじめたのは、60年代の初めだったから、若干のズレがあるけれども、それが未知の音楽の宝庫であったという印象は変わらない」

 

 次は「夢で逢いましょう」(1961~66年、NHKのバラエティ番組)にアメリカ的なものを感じ、その作り手たちがブロードウェイのミュージカルやエド・サリバン・ショーなどを研究していたことにふれた箇所です。

 

186p「このWebの時代では考えられないことだけれども、情報の伝播速度はきわめて遅かったのだ。ところが、アメリカとの距離はいまよりも近かったような気がする。どうしてなんだろう。/その答えの一つはぼくたちの前に生のアメリカが、置かれていたからではないかと思う。妙な言い方だけれども、テレビの番組はその例の一つではなかったかと思う。ぼくが毎週、必ず見ていたテレビ番組の半分以上はアメリカからの輸入物だったはずだ。もちろん、その背後にはアメリカの政治的な戦略、文化を媒介とした占領戦略があったのは、事実だろう。見せたいアメリカ、素晴らしいアメリカというものを感じさせる番組が、大量に日本で流されたわけだ。それだけではなく、アメリカのテレビの持つ長所を見事に消化してみせる才能がこの国にあった、ということも大きかったかもしれない。/こうした方法が破綻をきたしのとは60年代の後半、ベトナム戦争と反体制的な若者文化が輸入されはじめてからではなかったかと思う」

 

 鏡自身の「消化してみせる才能」が、1970年代以降はCM制作において発揮され、国際的な広告賞の受賞へとつながっていくという連鎖を感じます。

 

 

尾崎俊介アメリカは自己啓発本でできている』平凡社、2024

是枝裕和ケン・ローチ『家族と社会が壊れるとき』NHK出版新書、2020

(講義関連)アメリカ(40)90年代アメリカ村の「アメリカ」

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(40)90年代アメリカ村の「アメリカ」

 

 前回、1970年代日本でサーフィンブームが巻き起こった話をしました。前々回は、全国各地のアメリカ村について。今回は、1990年代以降の大阪ミナミのアメリカ村にとってのアメリカについて。

 大阪ミナミのアメリカ村の名前の由来は、このエリアに1970年代にサーフショップや輸入古着、レコード店などが集積し、西海岸の文化やライフスタイルの影響をうけた人々が集ったことからでした。

 そのアメリカ村は、1990年代以降はヒップホップカルチャーの影響を受けたという意味で、アメリカンな街へと変貌していきます。まず、2000年代初頭の証言をあげておきます。

 

42-44p「わずか500メートル四方に括られた大阪アメリカ村はさながらアミューズメント・パークだ。大人の姿がほとんど目に入らないこの一帯には、ある種のファンタジックな雰囲気さえ漂っている。大阪在住の人間から言わせると近年あまりにも商業化された、東京からやって来た人間から言わせてもらうと竹下通りと宇田川町が一緒になったようなこの街は、しかし中高生と観光客でごった返す昼間の喧騒が静まり、彼らから金を巻き上げたバブルガム・ショップ達がシャッターを降ろすと、がらりとその表情を変える。そこに描かれているのは、日本でも有数のトータル・クオリティと独特の美学を感じさせるグラフィティ・アート。中でも、CMKの作品が目立つ。そして、彼らによってリニューアルされた街並を我が物顔に闊歩していく男達が11人。……今回の主役、韻踏合組合だ。僕は彼らの後ろについて、一歩一歩、ゆっくりと、大阪ヒップホップ・シーンの地下深くへ分け入っていった。/チーフ・ロッカ、ヘッド・バンガーズ、ノータブルMC、イルミントからなる韻踏合組合というクルーの名前を僕が知ったのは、昨年のB・ボーイ・パークで東京ブロンクス(ライター)からヘッド・バンガーズのユウギを紹介された時だった。まずはそのネーミング・センスに笑い、しかし後日聴いた彼らの音源で、今度はその口は驚きで開きっぱなしになった。気付けば僕は新幹線の中にいて、韻踏やドーベルマンのCD聴きながら、大阪で何かが変わりつつあることを確信していた。/ヘッド・バンガーズのDJメントルが住むアパートは、大阪はミナミでもっとも有名なヒップホップ箱として知られる〈ドンフレックス〉(以下ドンフレ)の本当に目の前になる。その立地条件で家賃は6万円程度(!)。彼のケースは極端だが、韻踏のメンバーのほとんどが、アメ村をぐるりと取り囲むようにミナミ周辺に住んでおり、それは、東京で言ったらまるで宇田川町にB・ボーイがたくさん住んでいるようなものというか(もちろん、渋谷の住宅事情では不可能だ)、古川耕氏(ライター)の「韻踏は突然変異的な才能だと思うんだけど、彼らの場合、クルーがまるごと異質というのが面白いな。だって、そこに何らかのコミュニティがあるってことでしょう」(『blast』02年1・2月号)という意見は当たっていたというか、想像以上に、韻踏合組合周辺には、濃い、独特のコミュニティが存在したのだ」(磯部涼『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』太田出版、2004年)

 

 ラッパー(MC)やDJ、トラックメイカーなどからなるヒップホップ・ユニット韻踏合組合について、後輩にあたるR-指定(梅田サイファーの一員で、DJ松永とのユニット・クリーピーナッツを組む)は次のように述べています。

 

181-2p「R 「韻踏が大阪を支配してる」っていう感じではないんですよ。でも自然と顔役になるし、人が集まってくるという。それはに人柄やキャリアもそうやし、ラッパーの登竜門「ENTER」の主催や、大阪ヒップホップのハブであるHIDAさんの「一二三屋」の存在もデカいと思います。中学の頃、電車を乗り継いで初めてアメ村にヤマトとヒロムと行って、一二三屋でCD買ってHIDAさんと握手してもらいましたから(笑)。テークエムもペッペBOMBと一緒に「一二三屋」に行ってポスターを買ったり。だから、梅田サイファーの奴はほぼ全員ヘッズやった時期から韻踏を聴いてたし、今仕事で一緒になったりするようになったのは純粋にうれしいですね(略)HIDAさんは自分のことを「アメ村の村長」って言ってるんですけど、若い子らにラップを教えたり、リリックを書くのを手伝ってあげたりしてるんですよね。ERONEさんは『ダンジョン』の審査員やったり、いろんなところで幅広く活動してるので、大阪の顔役やったり窓口であることは間違いない。次のアメ村ストリートの顔役的な存在としてWILYWNKAが登場して、韻踏も安心しているんじゃないかと。もちろん、梅田サイファーも大阪ヒップホップの一翼になれたらなと思います」

 

 HIDAとあるのは、HIDADDYの愛称。また韻踏合組合の特徴として、R-指定は次のように述べています。

 

146-7p「R 完全にダジャレに聞こえようが、文章に整合性がなかろうとラップとしておもしろければいいっていう。同時に、それを追求したことで、ライミングに関するナシをアリにしたんやと思うんですよね。ヒップホップのおもしろいところって、時代が変わっていくにつれ、「ナシ」が「アリ」になっていくところやとは思うんです。そもそも「日本人がラップするっていうのはナシ」だったのを、「アリにした人たち」の積み重ねが今のヒップホップですよね」

 

 NYのローカルなカルチャー(であるヒップホップ・カルチャー)が、グローバルなアメリカンカルチャーとして日本(語)にローカル化され、さらにそのローカル化の一つのありようとして大阪のヒップホップ・シーンはあるという話でした。

 

 

 

御堂筋ストラット。

 

今日は講義、院ゼミなど。

(講義関連)アメリカ(39)1976年の「波がでてきた!」

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(39)1976年の「波がでてきた!」

 

 植草甚一編集の1976年3月号『宝島』。特集は「ビューティフルアメリカ」。その巻頭言には

 

アメリカ合州国は、今年の七月四日に、二〇〇歳の誕生日を迎える。戦後民主主義の日本が、たえずその師としてあおいできたアメリカが、ようやく、変わりはじめている。アメリカが嫌いな人もいるだろう。しかし、嫌いなひとにも、もちろん好きなひとにも、いやおうなしにアメリカン・ウエイ・オブ・ライフは根強くしみこんでしまっている。

 

 この3年後の対談にて、鶴見俊輔亀井俊介は「合衆国」よりも「合州国」と呼ぶべきと話しています(鶴見俊輔亀井俊介アメリカ』文藝春秋、1980)。そういえば、その時鶴見は、戦前からの一貫したアメリカの受容の例として、石坂洋次郎植草甚一を挙げていました。

 さてこの特集には、金坂健二、室矢憲治、小倉エージなどが寄稿していますが、もっとも注目されるのは、片岡義男「地球と遊ぼう①実感的サーフィン入門「波がでてきた!:The Surf Is Up!」」(イラストレーション河村要助)でしょう。片岡は1939年、日系二世の父のもと東京に生まれ、1960年代にはテディ片岡の名でライターとして活躍を始め、1975年には出世作「スローなブギにしてくれ」で直木賞候補となったりしていました。アメリカと近しい環境で育ち、『宝島』に象徴されるようなカウンターカルチャーの息吹の中にいた片岡は、このコラムにおいて「自分が生きている地球との、無邪気で健康なたわむれの真髄がサーフィンにはある」と、サーフィンを一から事細かに紹介しています。

 日本でのサーフィンの始まりに関しては諸説あるものの、1960年代、在日米軍の兵士やハワイから帰国した人々によって、日本各地で始まったことはたしかなようです(水野英莉『ただ波に乗る:サーフィンのエスノグラフィー』晃洋書房、2020年)。

 さまざまな世界の先駆者たちを描いたルポルタージュ、生江有二『無冠の疾走者たち』(角川文庫、1985年)の中に、鵠沼ターザンと呼ばれた伝説のサーファーであり、建築家の佐賀和光が登場し、次のように語っています。

 

131-2p「《(略)大学を卒業して設計事務所に勤めだし、それでも学生気分が抜けず、どうにも仕事に身が入らない。髪は伸ばしっぱなし。(略)休みのたびに海へ出ていた。/名前は憶えていない。名前は忘れたが俳優のグレン・フォードに似た男。そいつですよ。ぼくらにサーフィンを教えてくれたのは》/グレン・フォードに似た男。湘南のオールド・サーファーに尋ねると、返ってくる答えはいつもこの名前だった。彼が誰だったのかは今もわからない。しかし、“グレン・フォードに似た男”は、スポーツの一種としてのサーフィンだけでなく、波と一体化し、波のバイブレーションをいかに把握するかがサーフィンであると、湘南の若者に暗示的な言葉を残し、日本からあっという間に姿を消した。グレン・フォードに似た男。職業は米軍のパイロットだった」

 

 その息子である佐賀和樹氏へのインタビューにも

 

実業家だった祖父・直光氏を慕い、多くの政治家や実業家、米軍将校などが佐賀家を訪れた。そのため、佐賀の父・和光氏の周りには、日本ではなかなか手の届かない世界最先端の流行や文化を身近に感じることができる環境がすぐ近くにあった。そんな環境が「日本サーフィン発祥の地・鵠沼」を誕生させることに大きく影響したのだという。

「休日になると厚木基地から米軍兵たちが鵠沼海岸ジープで乗り付けて、バーベキューやサーフィンを楽しんでいたそうです。父ら佐賀4兄弟みんなで米軍兵からサーフィンの手ほどきを受けたのが日本のサーフィンの始まりと言われています。1961年、父が21歳の頃ですね。サーフィンをしていると見物する車で渋滞が起きて、パトカーが来るほどだったそうですよ」

海外文化に高いアンテナを張っていた佐賀兄弟が鵠沼にいたからこそ、現在の湘南ブランドのひとつ「日本サーフィン発祥の地・鵠沼」は誕生し、日本にサーフィン文化が花開いたのである。(https://shonan-vision.org/magazine/sagawaki/

 

とあります。ハワイから西海岸へと展開したサーフィンが、1970年代から80年代にかけて、一種のブームとなっていく下地には、やはり在日米軍の存在があったようです。
 余談ですが、『無冠の疾走者たち』には、日本のバイク乗りたちに知られた「チューニング屋」、吉村秀雄も登場しています。吉村は、福岡にて航空機関士として敗戦を迎えます。

 

243-4p「板付に続々と占領軍が降り立つと翌日から博多に万を超えるGIたちがあふれだしてきた。刀はないか、着物が欲しいと徘徊しては大騒ぎになった。機関士崩れの吉村は英語が多少できた。頼みに来るGIたちの要求をかなえてやると、パッケージの鮮やかなラッキーストライク、それに肉や砂糖を交換品として持ってくる。これらは博多の闇市で文字通り飛ぶように売れた。/(略)大胆になった吉村はGIを相手にPX用品の密売、占領軍用食料の横流しに手を染めるようになる。トラックで駆けつけ、荷台一杯の砂糖や肉を抜く闇商売は一晩で巨額の儲けになった。だがMPに眼をつけられた吉村は一年半の実刑を受け、二十四年、福岡刑務所に半年間懲役で入ることになる」

 

出所後、吉村は父親の鉄工所を手伝ったりもしますが、板付基地の滑走路で米兵たちが「ゼロヨン加速を競いあうドラグレース」をやっており、そのバイクの改造を頼まれるようになります。そして、米兵たちから渡される「ホットロッド」や「サイクルマガジン」を手引きに、チューンアップにのめり込んでいきます。

 

 

 

今日は大阪市内に出て、会議。

 

藤井亮『ネガティブクリエイティブ』扶桑社、2024年

松井正徳『クリエイティブ・サイエンス』宣伝会議、2024

(講義関連)アメリカ(38)和歌山と名古屋と埼玉のアメリカ村

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(38)和歌山と名古屋と埼玉のアメリカ村

 

 大阪ミナミのアメリカ村はおいといて、他の「アメリカ村」をみていきます。まずは、和歌山のアメリカ村。これは戦前の移民たちに由来するアメリカ村ですが、正確にはカナダ村になりそうなものですが、まぁ北米全般が「アメリカ」と称されていたのでしょう。

 

240p「生き抜く力:和歌山県美浜町アメリカ村」「和歌山県旧三尾村(現・美浜町三尾)は近代以前、沿岸漁業を生業とする集落だった。ここから太平洋を渡って、遠くカナダへの移民が始まったのが一八八八(明治二一年)である。/単身で渡ったのは大工、工野儀兵衛(一八五四~一九一七)である。カナダ航路貨物船の船員だった親戚から、カナダでは農業も漁業も有望であるとの知らせを受けた儀兵衛はイギリスの貨物船に乗り込み、バンクーバーに渡った。/さらにリッチモンド市のスティブストンへ。フレーザー川の河口で、サケ漁が盛んだった。のち儀兵衛が三尾に送った手紙によれば、現地は「フレーザー河ノ夏期ノ鮭漁期ニ至レバ魚族ノ群集ハ海面ヲ圧シ未ダ嘗テ我ガ国ノ漁業者ノ見ザル光景」であった。三尾の人々はこの報告に応じて海を渡った」(栗原俊雄『20世紀遺跡:帝国の記憶を歩く』角川学芸出版、2012年)

 

 次にやはり連合軍の進駐との関係でのアメリカ村。まずは名古屋の事例です。

 

117p「1946年3月、GHQが2万戸の家族住宅建設を指示。これを受けて8月、名古屋占領にあたる第5空軍が愛知県にアメリカ村建設を命じた。進駐軍が接収した中区白川町11.7haの広い区域に愛知県と名古屋市は数カ月間で130戸の米軍用住宅を作り上げた。入居者は一般将校の家族が主だった。住宅は三の丸官庁街で南外堀町にも高級将校の「キャッスル・ハイツ」として建設され、こちらが返還されるのは1958年6月」(阿部英樹編『占領期の名古屋:名古屋復興写真集』風媒社、2020年)

 

 この写真集には、1946年9月に鶴舞公園で行われた「進駐軍招待撮影大会」のスナップなども納められています。また名古屋城南の「キャッスル・ハイツ」も、地図に「アメリカ村」と記載されたりもしていたようです(今尾恵介『地図で読む昭和の日本:定点観測でたどる街の風景』白水社、2012年)。

 ついで、音楽がらみで有名な埼玉のアメリカ村

 

143p「アメリカ村はもともと米軍のジョンソン基地で働く兵士たちの家族向きに作られた住宅地で、基地が縮小された影響で日本人が借りて住むようになったんだ。都心からは少し遠いんだけど、広いモダンな作りの一軒家で家賃も高くはなかった。だから自営業やアーティストがたくさん移り住んでいたんだ。細野さんの近所には小坂忠さんも住んでいたし、西岡恭蔵さんやイラストレーターの鈴木康司さん、デザイナー集団のWORK SHOP MU!といった人たちもいた」(鈴木茂『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』リットーミュージック、2016年)

 

 細野晴臣の評伝にも、「埼玉県狭山市鵜ノ木11-36。/細野が暮らした狭山アメリカ村の自宅住所は、その地番まで『HOSONO HOUSE』の裏ジャケットに記載されている。/一九七二年六月、細野は白金台の実家を出て、アメリカ村に移り住み、独り立ちした」「細野はアメリカ村でヴァーチャルにアメリカを体験した」とあり、また細野は2005年9月4日ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルに出演しましたが、「この野外音楽フェスティバルは埼玉県の狭山稲荷山公園において、米軍進駐時代からの通称であるハイドパークの名を冠し、九月三日四日の二日間にわたって開催された」とあります(門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』文藝春秋、2020年、167-9p)。

 そういえば、世田谷区用賀にもアメリカンなファミリーレストランが軒を連ねるアメリカ村がありました。

用賀アメリカ村を2022年に追う Part1 アメリカ村の跡地|こは"のブログ|スカイライン日記 - みんカラ

 その他関西圏では、箕面市三田市アメリカのサバービア的な宅地開発の例があります。

花とみどりのおしゃれな新興住宅街/箕面の “アメリカ村” ~ 小野原西 を巡る - まちなかのみどり・大阪

https://www.machinami.or.jp/pages/machinami_search/search_japanese_detail.php?mid=9093

 後者のリンク先には「フラワータウン アメリカ村」とありますが、これは同じ三田市のワシントン村とはまた別物のようです。三田市内に、アメリカ村とワシントン村とドイツ村と兵庫村があるというカオス。

 

 

 

万博関連運転士!

 

今日は通院、面談、会議など。

 

嶽本野ばらロリータ・ファッション国書刊行会、2024

(講義関連)アメリカ(37)スーパーとショッピングモール

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最近知りました。回れ、回れ、再生回数。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(37)スーパーとショッピングモール

 

 スーパーマーケットの元祖については諸説あるようですが、アメリカでは1910年代、日本では1950年代あたりに出発点が置かれることが多いようです。

 たとえば青山紀ノ国屋は、PXへの青果物の納入によって戦後復活を遂げましたが、進駐軍の撤退が進むにつれ、直営店へと重心を移していくことになります。

 

92-3p「昭和二十八年(一九五三)、十一月二十八日土曜日、いよいよその日がきた。セルフサービス方式によるスーパーマーケットが、この日初めて日本に誕生したのだった。派手なグランドオープニングの催し物こそなかったが、前夜には社員総がかりで開店準備をしていた。準備をするといっても、何もかもが日本で初めてのことだった。木製のゴンドラを一三台、売場に配置して商品を載せる。ナショナル金銭登録機レジスターを三台置き、キャッシャー・エリアを作る。商品にはすべてプライス・シールを貼り、棚にはプライス・カードを表示する。いわゆるポップ広告(pont of purchase)という店内に飾るポスターや吊り下げ物、サインボードなどには、とくに念を入れて美しく見えるように気を配った」(平松由美『青山紀ノ国屋物語:食の戦後史を創った人』駸々堂、1989)

 

 創業者増井德男は、PXに出入りする中で、基地の中の売店「カミサリー(commissary)」にふれており、またワシントンハイツなどが近い立地条件もあって、こうした店舗づくりにチャレンジしたのです。
 それよりは少し遅れますが、以下も、そうしたスーパーマーケットの嚆矢の一例でしょう。

 

163p「五九年四月、団地の名店街に隣接して、西武ストアーが開店した。新所沢駅構内に開店した所沢店同様、公団の要請によるものであった。ひばりが丘店では、西武百貨店店長の辻井喬と三島彰の発想で、ジョンソン基地PX(米軍専用の売店)をまね、初めてセルフセレクション。セルフサービス方式を取り入れ、商品を袋につめるサッカーと代金の計算を行うキャッシャーとの分離を行った(前掲『セゾンの歴史』上巻)。/四階建フラットタイプ主体の団地そのものは米軍ハウスとは似ても似つかなかったが、商店だけは米軍基地を模倣したのだ。いまでは、商品を袋につめるのは客に任されていて、サッカーを専任で置いているスーパーはほとんどない」(原武史『レッドアローとスターハウス:もう一つの戦後思想史』新潮社、2012年)

 

 一方ショッピングセンター(ないしショッピングモール)の出発点にも諸説あるようですが、1950年代のアメリカ統治下の沖縄にその源が求められるようです。

 

2024年4月13日付『朝日新聞』「はじまりを歩く:ショッピングセンター(沖縄県沖縄市):米軍の統治下 流行の先端に」
「日本で最も古いショッピングセンターのプラザハウスは米軍統治の時代、「コザ」と呼ばれていた基地の街・沖縄市にある。国道330号沿い、琉球米軍司令部、通称「ライカム」があった場所のすぐそばだ。/1954年7月4日、米国の独立記念日にオープンした。つくったのは基地で商売する香港系華僑と、東京で富裕層向けにファッションビジネスを営む米国人。当初は米軍将校とその家族用というのが主な目的で、その後、地元の人に開放された。/米国が最も豊かだったといわれる時代。バリー、パーカー、たばこのケント、ジーンズのリーバイスなど多くのブランドがここから「上陸」した。テナントにはハンバーガーショップレコード店が入る。バンクオブアメリカパンアメリカン航空がオフィスをかまえた」

 

 同記事には、以下のようにもあります。

 

「ショッピングセンターの誕生には諸説ある。一般的には20年代、米国で生まれたとされる。プラザハウスが誕生した50年代ごろ車社会が発達、住宅の郊外化が進み普及したという。/日本本土に郊外型ショッピングができるのは60年代。68年にダイエー大阪府寝屋川市にスーパーに併設してつくった。翌年、東京都世田谷区で玉川高島屋ショッピングセンターが開業し話題になった」

 

 ショッピングモールに関して、よく引きあいに出される映画に『ゾンビ』(1978年、ジョージ・A・ロメロ監督)があります。主人公たちが逃げ込んだショッピングセンターは、ペンシルベニア州のモンロービル・モール(1969年オープン)がロケ地となっており、今でも「聖地」となっているとか。ショッピングモールと映画——『ゾンビ』上映に寄せて②|佐々木友輔

 先ほどの記事に「沖縄市は基地の街。米軍統治下の27年間に培われた沖縄と米国ミックスカルチャー「琉米文化」を知るなら、プラザハウス3階にあるギャラリー「ライカム・アンソロポロジー」へ」とあるように、プラザハウスも「琉米文化」の聖地なのかもしれません。

 ちなみにライカムは、琉球軍司令部(Ryukyu-command)の略称で、ライカム交差点といった地名としても残っており、今ではその交差点にイオンモールが隣接して建てられているようです。

 

 

 

箕面萱野、行ってみないとなぁ。

 

連休中は、ゆっくり仕事できました。講義準備(自転車操業)、館長仕事、大学院教務…

 

日高良祐編『シティポップ文化論』フィルムアート社、2024

(講義関連)アメリカ(36)レペゼン三沢(?)のフィメールラッパー

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(36)レペゼン三沢(?)のフィメールラッパー

 

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 前回の森光子からいきなり時代は飛びます。
 いま米軍基地とフィメールラッパーと言うと、Awich一択になりそうなものですが(二木信「Awichの痛みとカルマ:反植民地主義としてのヒップホップ」2023年5月号『ユリイカ』)、ここではMARIAについてです。

 

124p「当時は基地のなかに住んでたの。なかにも学校はあるんだけど、あたしは外の小学校に行っててさ。お父さんは基地内のアメリカの学校に行かせたかったんだけど、お母さんはあたしが基地内の学校に進学するといずれアメリカに行っちゃうと思ったみたいで、日本の学校に行かせたのね。あたし、こう見えてほとんど英語力がないの(笑)。日常会話程度。だから小学校では”あいつ外人なのに英語しゃべれない”とか言われて、友達はできなかった。(略)基地のなかにティーン・センターっていう、10代しか入れない多目的施設があるんですよ。そこには基地で生活してるいろんな子たちがいるんだけど、そこで小学校低学年のときに初めてヒップホップを聴いたの。基地のなかには白人よりも黒人が多くて。だから接する音楽も、自ずとヒップホップが多くなるんですよね。あとヒップホップを聴いてる子たちがラジカセとか背負っちゃってて、マジでイケてたの(笑)! ちょうどスヌープ(・ドッグ)が“The Next Episode”をリリースした頃。友だちはいなかったけど、そこでヒップホップと出会って“マジカッコいい!”ってなっちゃった。周りの子はみんなSPEEDとかDA PUMPとかだったけど、あたしはひとりでエミネムとかTLCとかを聴いてた。中学校になって、ようやくヒップホップ聴く子とかが出てきてあたしは“遅いよ!”って思ってた(笑)」

125p「日本語ラップはちょくちょくテレビでは観てたけど、“生ぬるいな~”とか思って最初は全然こなかった。でも中3のときに初めてブッダBuddha Brand)の“人間発電所”を聴いてやられちゃたの」(巻紗葉『街のものがたり:新世代ラッパーたちの証言』Pヴァイン、2013年)

 

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 しかし、ラッパーにはマイノリティとしての葛藤とか壮絶な過去とかなきゃいけない、というわけでもないんでしょう。以下はR-指定の語りより。

 

20-1p「(略)話をジブさんに戻すと、“永遠の記憶”の〈中坊の俺は 家に帰らず 学校の帰りまず 街に繰り出す〉って、ホンマに“Grateful Days”の前日譚感あるんですよね。そして〈色々あった 10代の夏 ライターのガス 吸って 死んだ奴〉とか、田舎の中学生からしたら物騒すぎて……(汗)。俺もその10代の夏の真っ只中に聴いてるんやけど、ライターのガスを吸って死んだやつは周りにおれへんな、平和なんやなって(笑)。

――歌詞の中じゃ、10代なのに無免で車に乗るわ、覚醒剤で刑務所に入る奴はいるわ、大騒ぎですよ。

R もう、どんな恐ろしいところなんですか、東京は? と思いながら、堺の田舎で震えてましたよ(笑)」(R-指定『Rの異常な愛情:或る男の日本語ラップについての妄想』白夜書房、2019年)

 

 Wikipediaによれば、R氏は金岡高校に通っていたとか。こちらが高校時代までを過ごした実家のごく近くで、あの田んぼとため池の間の道を通学していたのかと思うと、「堺の田舎で震えてましたよ」には非常に共感。大阪ミナミのディープさ煮詰めた韻踏合組合ではなく、梅田サイファーというのは納得です(なかもずから地下鉄乗れば、なんばで降りるか梅田で降りるかは4駅の差)。ちなみにアメリカ古着好きで知られる森田哲矢氏は、金岡北中卒という話を聞いたことがあります。

 無理やり米軍基地話に話を戻すと、こじつけっぽいですが、作家藤本義一はかつてこんな風に語っていました。

 

終戦直後の中学一、二年時代、彼らに対して三つのタイプがありましたな。
①ギブ・ミー・チューインガム型
②欲しいけど恥ずかしい型
③キャンプにもぐり込んで盗みをする型
 ぼくは盗み型でしたね。
 堺市の金岡とか浜寺キャンプに仲間たちとももぐり込むんですが、盗品は闇市で売っ払う。あるときなんか、てっきり、ガムの箱だと思って盗んでみたらコンドームがギッシリ」(『週刊読売』1975.8.30)

 

 金岡キャンプは、現在の金岡公園・近畿中央胸部疾患センター近畿管区警察学校・長尾中学校一帯なのだとか。ちなみに大阪公立大学杉本町キャンパスは、大阪市内なのになぜかキャンプサカイでした。

 

 

正村俊之編『情報とメディア』ミネルヴァ書房、2024

(講義関連)アメリカ(35)米軍キャンプの森光子

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(35)米軍キャンプの森光子

 

 米軍基地のクラブなどで歌った経験があるとされる歌手は、坂本九、小坂一也、フランク永井ペギー葉山松尾和子雪村いづみ江利チエミ伊東ゆかり、しばたはつみ、松原みきとさまざまですが、意外なことに女優森光子にもそうした時期がありました。

 

61p「つい少し前までは日本の兵隊さんの慰問をしておりましたのに、終戦の年の暮れぐらいからは米軍のキャンプで歌う仕事を始めたのでございます。/以後、食べるためにずいぶん米軍のキャンプを回って歌いましたが、最初はとても苦労いたしました。/なにしろ戦争中は英語の歌は禁止されていましたので、英語で歌える歌を知らず、有名な歌手のディック・ミネさんのお友だちで、ベティ稲田さんという、日系二世のジャズ歌手の方に特訓していただきました。/その特訓がそれは厳しゅうございまして、歌詞の「サウス・オブ・ザ・ボーダー」という言葉の、サウス(SOUTH)のTH(ス)の発音がだめだとずいぶん叱られましたが、頑張ったおかげで五、六曲は歌えるようになったのでございます」

62-4p「広~い食堂の、真ん中にぽつんとマイクが立っているようなステージで「お買いなさいな、お買いなさいよ~♪」という、「小鳥売りの歌」を歌っていたときのことでございます。向こうから大きな黒人兵がノッシ、ノッシと歩いて来るのです。/怖いのをがまんして歌い続けておりましたら、私の十メートル近くまでやって来て、「スイング、スイング」と言うのです。/要するに、スイング、体を動かして歌え、ということでございました。私はまっすぐに立って歌っているだけでしたので、ああ、そうか、と気がつきまして、足をルンバ調に踏んで、「お買いなさいな♪」と歌いましたら、それを見て、黒人兵は「グ~!」と、手をかざして言ってくれました。/戦争中、アメリカ兵は鬼だと教えられていましたのが怖かったのですが、それは戦意を高めるための嘘だったのでございますね」(森光子『あきらめなかったいつだって:女優・半世紀の挑戦』PHP研究所、2011年)。

 

 

 しかし、この森光子自伝はインタビューによるものなので、いろいろ記憶違いもありそうです。

 

65-6p「ある日、いつものように銀座へ出かけましたら、四丁目にすごい人だかりができています。何かと思い、「何を売ってるんですか?」と聞いてみますと、「違いますよ。あれをご覧なさい」と言われ、見てみますと、米軍のMPが交差点の中央で交通整理をしているのです。/笛をビ~、ビッ、ビッビと鳴らし、とてもかっこ良くて、何かダンスを踊っているみたいに素敵で。思わず見惚れてしまいました。よく見ますとなんと、そのMPはハリウッド・スターの映画俳優タイロン・パワーなので、もうびっくりいたしました。/とてもいい男で、清潔感があってスラリと背も高い彼が、真っ白な手袋に、まっすぐな線が入った白いスパッツ(ズボン)姿で、キビキビと交通整理をしていたのです。それはスマートで、胸がキュンとなるほど素敵でございました」森光子前掲書

 

 たしかに、当時のニュース映画には、日本でのタイロン・パワーの姿が残っています。

www2.nhk.or.jp

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300573_00000&chapter=006

 ですが、これには、以下のような考証もあります。

 

195-6p「タイロン・パワー【たいろん・ぱわー】 朝ドラ『梅ちゃん先生』で終戦直後のニュース映画を使用した時、年配の視聴者から「洋画スターのタイロン・パワー(一九一四~五八)らしき米軍人が写っているのでは」と問い合わせがあったが、その通り本人でした。さて、このタイロン・パワーについては「終戦後、進駐軍のMPとして銀座四丁目の交差点で交通整理をしていた」という伝説がある。しかしこれは事実ではなかろう。なぜなら、

➀パワーは確かに進駐軍将校として来日したが、海兵隊航空隊の少尉であって、交通整理を担当する陸軍のMPではない(終戦に関する連絡任務で、パワーの操縦する輸送機に乗ったことのある日本海軍軍人もいる)。「スターの一日署長」ならともかく、「一日交通整理」は危険極まる。
②滞日期間もごく短く、昭和二〇年一一月に本国帰還、翌年一月中尉で除隊している。③現存する『日本ニュース』では、「日劇前に立つタイロン・パワー少尉」(胸に海兵隊航空隊章をつけている)に続いて、「進駐軍MP、銀座で交通整理」の映像があり、両者が混同されたと思われる。

 なお、「子供の時、銀座の交差点で、MPのタイロン・パワーに抱っこされたことがある」と語る人(及び「という人の話を聞いたことがある人」)もいるが、上記からすれば「誰かよく似たハンサムなMP」をパワー本人と思い込んだことが原因だろう。あるいは本当に銀座でパワーに抱っこされたが、後で③を見て記憶が混乱したとか」(大森洋平『考証要集:秘伝!NHK時代考証資料』文春文庫、2013年)

 

 

 

今日も登校。インターネットでアメフトの試合聴いたり、片付け仕事したり。
ゼミ3・4年生、けっこう連れてってもらってるし、出せてもらえているようで何より。