『アメリカ禁酒運動の軌跡―植民地時代から全国禁酒法まで』 (MINERVA西洋史ライブラリー)読了

http://www.librarycompany.org/ardentspirits/Temperance-ManPursued.JPG読んでおくべきとは
思っていましたが、
本の知識ばかり
身に着けても
仕方ないとも思っていて、
手を出していませんでした。

世界的なアル中
自助グループを生んだ
アメリカ人の
飲酒観を知るために
読んだというところです。

自助グループを考察した本*1
アメリカ飲酒を書いていますが、
それはあくまで
自助グループの視点から。

この本は、
全体的なアメリカ飲酒文化史です。
興味深く読みました。
面白かった。

http://www.pdimages.com/BX0031.JPG吾妻ひでおのような、
酒で死ぬロマンチシズムと無縁な、
酒と戦うアメリカ。

何とでも戦う国であり、
国民だなあと思ってましたが、
ホントに酒と戦うんだから面白い。

全米抗酒戦。

あと後報で書きます。








http://www.biddytarot.com/cards/temperance.jpg【後報】
まず、用語について知らなかったので、
はしがきの整理がためになりました。

"temperance" *2

 植民地時代:蒸留酒の節酒
 1820年代 :蒸留酒の禁酒
 1840年代 :全酒類の禁酒

"total abstinence from all intoxicating drink"

 全酒類の禁酒

"teetotalism"*3

 絶対禁酒主義
http://www.librarycompany.org/ardentspirits/temperance-BrandyDrops.GIF
"prohibition movement"*4

 禁酒法運動

"moderate drinking"*5 *6

 適度な飲酒

"excessive drinking"*7

 過度の飲酒
(検索すると、類語として"binge drinking"*8 "heavy drinking"*9が出てきますが、
 本書の"excessive"はニューイングランドピューリタン植民地時代の用語とのこと)
http://news.bbcimg.co.uk/media/images/61532000/jpg/_61532871_temperance_poster_uclan.jpg
植民地時代のお酒は、林檎酒(アップルサイダー)と、ラム酒主体だったそうです。(頁24)
コリン・ウィルソンの本*10で英国におけるジンの猛威を読みましたが、
http://1.bp.blogspot.com/-7YTqC_fmqRs/T1edWC4tIgI/AAAAAAAACys/uQVNa0rNaz8/s1600/That_Old_Demon_Rum_by_Victoria_Poloniae.jpgアメリカではそれはラムだったとか。
"demon rum"*11

ラム酒だけでなく、すべてのアルコール飲料を否定的に呼ぶ場合に用いられた単語とのこと

"drunkenness"*12

酔っ払うこと

"abuse of drink"

酒の乱用

"intemperance"

不摂生な飲酒

"besottedness"
*13

酩酊

第一章 
植民地時代の飲酒とその規制 
頁31
 自らを救う試みを「個人的救済」(individual salvation)志向、一般の人びとを通して広く社会全体を救う試みを「社会的救済」(social salvation)志向と区別することは可能であるが、結局両者とも節酒、そしてそれによって培われると考えた倹約や勤勉という美徳を生活習慣とすることによって、神による救済を求めた点で共通する。特に社会的救済の中で指導的役割を果たした者にとって、社会が救われるとは、とりもなおさず植民地に繁栄が訪れ、キリストの再臨によって「神の国」が出現するという「千年王国思想」(millennialism)が現実のものとなることを意味した。
 アメリカのプロテスタンティズムの特徴として、キリストが再臨する土地は堕落したヨーロッパではなく、無垢の新大陸であると強く信じられていたことがしばしば挙げられる。この考え方は、社会的救済志向が優勢であった植民地時代において、個人を強調することが社会思潮となる一九世紀前半のアメリカ社会と比較して、相対的に強かったといえよう。したがって、自らが生きている時代が「神の国」となるための試験期間であると考えた植民地の聖職者にとって、過度の飲酒を戒めることは当然の行動であった。

黎明期のアメリカというと、すぐ大草原の小さな家を思い浮かべてしまうのですが、
あれはもっと後の時代に、古き良き開拓者精神と集体をリビルドしたいと考えたおっさんが、
ローラ・インガルス・ワイルダーらを連れてうろうろしてた報告文学なのでしょう。
ただ、少量の酒であれば薬用にも処方されるなど、生活習慣はローラの本でも伺えます。

レビューが可笑しい。コンプリート版レビューではジェネオン怨嗟の声が蔓延。
大草原の小さな家 ―インガルス一家の物語〈2〉 (福音館文庫 物語)

大草原の小さな家 ―インガルス一家の物語〈2〉 (福音館文庫 物語)

どうも私は、少年文庫のほうの「おとうちゃん」「おかあちゃん」という訳語に慣れません。
大草原の小さな家―ローラのふるさとを訪ねて (求龍堂グラフィックス)

大草原の小さな家―ローラのふるさとを訪ねて (求龍堂グラフィックス)

大草原の『小さな家の料理の本』 ローラ・インガルス一家の物語から

大草原の『小さな家の料理の本』 ローラ・インガルス一家の物語から

奇跡の再販。
http://livedoor.blogimg.jp/kyanews/imgs/0/0/009f34b5-s.jpg


http://img2.imagesbn.com/p/9781562549183_p0_v2_s260x420.JPG

第一章 植民地時代の飲酒とその規制 頁37
 ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)は、自伝の中で「もし土地を開拓者の空間とするために、これらの野蛮人(インディアン)たちを根絶することが神の意志であるとするならば、ラム酒こそ神が示し給うたそのための手段と考えられよう。大西洋沿岸に以前居住していたすべての部族は、それ(ラム酒)によって滅亡させられてしまったのである」と誇張気味に述べた。また一九世紀になって、禁酒運動で頻繁に用いられたプロパガンダの中に、酒が国を滅ぼした実例としてインディアンがしばしば引き合いに出されるようになった。これらのことは、インディアンが白人植民者以上に、深刻な飲酒問題に直面していたことを想像させるものである。

http://xroads.virginia.edu/~HYPER/HNS/Indians/magua.jpg
毛皮交易や
土地購入のさいに、
ラム酒以外
交換する品を
持たなかったアメリカ人
(イギリス人やフランス人、
 オランダ人といった
 商売敵は他の交換品を
 持っていた)、
それまで知らなかった
アルコール酩酊
という新しい感覚に
積極的にのめり込んだ
ネイティブアメリカン
そのふたつが
相乗して産んだ悲劇とのこと。

第二章 一九世紀前半の禁酒運動とその大衆化 頁54
 ATS(American Temperance Society) が働きかけようした対象は、救いようがない大酒飲みではなく、「適度に嗜む飲酒家」(moderate drinker)であり、彼らを飲んだくれにさせないことが禁酒運動の勝利への近道と考えられた。このことは、ATSで中心的役割を果たした会衆派の牧師ジャスティン・エドワーズ(Justin Edwards)が、ニューヨークに住む友人のウィリアム・ハロック(William Hallock)牧師に書き送った手紙にも示されている。

  協会(ATS)は、極度に不節制な飲酒を抑制するためではなく、発酵酒の節度ある飲酒を奨励するために組織される。……われわれは会員として、強いアルコール飲料を用いない信心深い人物を望んでいます。

 これには、大酒飲みはやがて死に絶え、そして適度な飲酒家とまったく酒を飲まない人たちが生き残って、健全な社会を形成するという願望が背景としてあったと考えられる。

http://progressivesapush4.wikispaces.com/file/view/temperance.jpg/406619518/temperance.jpg
生活保護批判などを考える上で、
1820〜30年代アメリカのこの手の社会進化論は、記憶に留めるべきと思います。
1840年代、ワシントニアン(Washingtonian)と呼ばれる人たちの運動が勃興し、
米国禁酒運動は一転して飲んだくれ救済を前面に押し出すようになった、そうです。

第二章 一九世紀前半の禁酒運動とその大衆化 頁68
 絶対禁酒の問題を一層複雑にしたのは、この主張の中に聖書によって承認され、聖餐式などの宗教行事で使用されるワインの否定が含まれていたことである。

同 頁69
 エドワーズのように絶対禁酒を支持した聖職者の中には、聖書で祝福されているワインがアルコールをまったく含まない無発酵性飲料、つまりただの葡萄ジュースであったと解釈することによって自らの立場を守ろうとする者がいた。

バイブルと禁酒の関係をアメリカの禁酒関係者はどう考えているのか知りたかったので、
これは興味深かったです。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/60/Bowyer_Bible_etching_by_Jan_Luyken_7_of_12_Jesus_turns_water_into_wine.gif
聖書はアルコール/ワインを飲むことについて何と言っていますか?飲酒はクリスチャンにとって罪ですか?
http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-alcohol-sin.html

前述のワシントニアンは、禁酒運動の脱宗教化も進めました。
また、彼らの1840年代、節酒や醸造酒だけ飲むという考え方の誤り、
絶対禁酒主義が提唱され、広がりを持つようになりました。
これは、ワシントニアンたちが、医学的知識抜きで、
実感としてそれを知っていた飲んだくれであったからです。
つまり、運動の主体にも飲んだくれが現れたということです。
節制する勤労者、聖職者、上流階級だけでなく、飲んだくれが、運動の主体に。
http://img.photobucket.com/albums/v332/the2funadguyz/ABCfixes/BigPics1001to1200/1061Big.jpg
しかし、ワシントニアンは、所謂ワスプ(White Anglo-Saxon Protestant)の域を出ませんでした。

第四章 一八五一年メイン法 頁118
 アイルランドアメリカ人が経営する居酒屋でウィスキーを大量に飲み、深夜町の通りを酔っ払って徘徊し、そしていつも騒ぎを引き起こす移民たちに対して、道徳的説諭による禁酒の働きかけは、多くの市民にとって無駄な努力と思えるようになった。その代わりに、プロテスタント的倫理観から生まれたと自らが考える「素面(ソバー。頁125)」という生活態度を、法律を通してカトリック教徒の移民に強制することの必要性を、人びとは徐々に感じはじめたのである。

第四章 一八五一年メイン法 頁124
 ところが一八四〇年代後半になると、主食穀物であったジャガイモの不作で生じた大飢饉や革命失敗後の大混乱によって、カトリック教徒のアイルランド人やドイツ人の大規模流入が始まり、アメリカ社会において新たな労働者階級を形成するようになった。前節で述べたポートランドの町の状況が、北部の都市を中心に連邦レベルでも起こっていたのである。禁酒はおろか節酒さえも生活習慣になかった移民たちは、ワシントニアン運動を含む過去二〇数年間にアメリカの禁酒運動が達成してきた成果を踏みにじるかのように、自らの飲酒習慣――たとえば安息日の飲酒――を持ち込んだのである。

モラルから法へ―
http://uncoveredpolitics.com/wp-content/uploads/2011/06/Prohibition-Party1.jpg
それに加えて、女性が台頭します。
「婦人キリスト教禁酒同盟」(Woman's Christian temperance Union)
http://4.bp.blogspot.com/-utRXbvBZJBY/TuooxEXA6wI/AAAAAAAABNc/iSz8VZTQB-M/s1600/083007_hist_hillgraphic_sub.jpg

第五章 フランシス・ウィラードとWCTU(婦人キリスト教禁酒同盟) 頁131
 また、一八〇〇年に女性は平均七人の子供を出産したが、世紀末にはその数は半減した。このような状況が、家庭の保護を大義名分に掲げる禁酒運動への女性参加を、可能にしたことは明らかである。

WCTUはさまざまな
活動を行いましたが、
地下水脈となって
全米禁酒法
つながったのは、
「禁酒科学教育部会」
(Department of Scientific Instruction)
の禁酒教育教科書
編纂事業と、
ジョージア州を除く
すべての州で成立した
「禁酒義務教育法」
(Compulsory Temperance Education Law)
に違いありません。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Raceland_Louisiana_Beer_Drinkers_Russell_Lee.jpg/800px-Raceland_Louisiana_Beer_Drinkers_Russell_Lee.jpg

第五章 フランシス・ウィラードとWCTU(婦人キリスト教禁酒同盟) 頁140
 そしてなによりも重要なのは、世紀転換期に禁酒教育を受けた子供たちが、成人して投票権を獲得した時期に、憲法修正による全国禁酒法が成立した事実であった。

第五章 注釈(17)
 禁酒教育を効果的なものにした一要因として、当時初等教育に携わった教員の多くが、一般的に禁酒運動に好意的な女性であった事実を見逃してはならない。一九世紀末のアメリカにおいて、教師は女性にも開かれた数少ない専門的知識を必要とする職業の一つであり、たとえば一九〇〇年のイリノイ州では、小学校教師の七五パーセントが女性であった。Donald Chidsey,On and Off the Wagon:A Sober Analysis of the Temperance Movement from the Pilgrims through Prohibition(N.Y.:Cowles Book Co.,1969),p.32:Andrew Sinclair,Era of Excess:A Social Histry of the Prohibition Movement(N.Y.:Harper Colophon Books,1962),p.15.

そしてアメリカは、ウェット(飲酒派)とドライ(禁酒派)の間で
各州揺れに揺れ、反復に次ぐ反復を経て、めでたくアル・カポネ時代の
全米禁酒法発布にこぎつけるわけです。

第七章 憲法修正第一八条の成立とASL(反酒場同盟) 頁194
 このような禁酒運動の成果として、世紀転換時には全四五州のうち三七州において、自治体選択権法は成立していた。自治体選択権法の規定に基づき、ライセンス発行の是非を問う住民投票が広く実施され、徐々にライセンスを発行しない禁酒地域が拡大していった。たとえばコネティカット州では、一九〇六年までに九二市・町のうち七六が、インディアナ州では一〇一六町・村のうち六六一が、それぞれ販売業者が存在しないコミュニティとなった。これを連邦全体で見るならば、総人口約八五五〇万人のうちおよそ四〇パーセントに当たる三五〇〇万人ほどが、「ノー・ライセンス」地域に居住していたことになる。

第七章 憲法修正第一八条の成立とASL(反酒場同盟) 頁197
このような結果、一九一三年には全国九州において州禁酒法が施行され、これ以外に三一州では自治体選択権法が成立しており、実際に南部のほとんどと、北部および西部では農村部を中心にドライ化されていた。これを面積でいえば、全国土の七一パーセントが、少なくとも酒類販売が禁止された地域となり、そこには全人口の約五〇パーセントの人たちが居住していたのであった。

第七章 憲法修正第一八条の成立とASL(反酒場同盟) 頁207
 一九一四年以降、憲法修正第一八条(以下第一八条と省略)が成立する過程で考慮すべきは第一次世界大戦であった。一九一七年四月にアメリカがドイツに宣戦布告したことと、醸造業者の多くがドイツからの移民の子孫であったことが、禁酒法運動へいかに影響を及ぼしたかについて、歴史家の意見は分かれるところである。一九一四年以降、アメリカでは対外政策だけではなく国内政策においても大戦の影響を受けたが、禁酒運動もその例外ではなかった。たとえば、一九一四年四月五日に海軍長官のジョセファス・ダニエルズ(Josephus Daniels)は、臨戦態勢の一環として、艦船や工廠を含むすべての軍事施設内での飲酒行為を禁止する命令を出した。
 対ドイツ宣戦布告直後の一九一七年五月一八日に、政府は「選抜徴兵法」(Selective Service Act)を成立させると同時に、すべての軍人に対する酒類販売を禁止する命令を出した。

「そして滝沢は勝った」という台詞は何の漫画、アニメに出てくる台詞でしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1088823575

http://www.old-picture.com/united-states-history-1900s---1930s/pictures/Prohibition-Drinking.jpg

あと、この本でキャリー・ネイション(Carry Amelia Nation 1846-1911)知りました。
Wikipediaにも写真入りで出てきますが、面白いですね、この人。
http://img.kansasmemory.org/thumb500/d00000785.jpg
http://www.kansasmemory.org/item/792
キャリー・ネイション
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
(2013/11/22)

【後報】
あと、この本、アル中自助グループ結成にも触れてますが、
最初のふたりの名前が、よく知られてるのと違うんですね。
ビルとボブって、本名じゃないってことなのかなあ。
(2013/12/1)