日本精神治療小史‐京都・岩倉村を題材に‐

近代の世界史をきわめて巨視的に捉えるならば、西ヨーロッパ発の産業革命・市民革命が世界的な広がりを見せ、全世界が資本主義・国民国家という均一のシステムに覆われる過程である、ということが出来るだろう。もちろん事実上存在する国々は、それぞれの歴史的、地政学的要因によって拘束され、資本主義と国民国家の理念に独自の解釈を加えることで、実質的に変質させていたことも事実である。しかしながら、そうした固有の環境に規定されながらも、世界経済の進展によって、国際貿易を円滑に進める上での「主権国家」の必要性が認められ、主権国家相互の関係を律する国際秩序の形成が生み出された。主権国家間の平等・内政不干渉を原則とするこの国際法体制は1648年のウェストファリア条約に端を発するものであるが、ヨーロッパ諸国の海外進出にともない世界的な広がりを見せるようになった。
しかし、それがあくまでも経済上の必要によって生まれたものである以上、外国人が商業活動を行うための安全を保障するに足る制度・環境を有する「文明国」であるかどうかという基準は、国際法体制に参加するための不可欠な要因となった。列強から「文明国」ではないと判断されれば、上記の原則は認められず、治外法権領事裁判権、協定関税による内政干渉を受けることになった。
日本もまた不平等条約をもって世界経済の中へと組み込まれ、明治国家はその解消のために「文明国」として認められることを当面の目標とした。鹿鳴館に代表される文化的欧化もそのような文脈で評価しなければならない。しかし、「文明国」があくまでも国際法の法的主体となるうるかどうか、ということを判断するための基準である以上、問題となるのは生活様式や思想上の文明化ではなく、あくまでも法的領域における文明化となる。すなわち、商法や民法、刑法などを制定し、それが列強によって「文明国」としてふさわしいものであると認められることが必要とされたのである。
以上の点は、日本の文明化を考える上で不可欠の視点であるように思う。西欧の「文明国」基準が日本へと輸入され、近代を特徴付ける諸制度が整備されていく。しかし一方で、日本の歴史的・風俗的固有性が近代的制度の中に接合され、独自の変化を遂げることになる。この記事で取り扱う「精神治療」に関する制度化は、そうした接合を通して進められた。
後述するように、日本における精神治療が明治維新後に初めて行われたというわけではない。それなりの歴史性と固有の形態を持ち、社会の中に根付いていた。明治維新によってそれは「非文明的」とのレッテルを貼られるが、結局、諸々の要因によって近代的精神治療との接合が計られることになる。それは日本の近代化の実態におけるひとつの典型である、と僕は思う。

まずは話の舞台となる岩倉村について簡単に説明しよう。京都市の北西に位置するこの村は、江戸時代以来の岩倉・長谷・中・花園・幡枝の五ヶ村が明治22年の市町村制施行によって合併し成立したもので、昭和24年に京都市編入されるまで存続した。この記事では煩雑さを避けるため、時代を問わずこの地域を「岩倉村」として表記する。
明治維新期に活躍した岩倉具視がこの地に隠棲していたため、人々の注目を集めることもあったが、京都の中心部から離れていることもあり、概して静かな土地であった。足利義政後水尾天皇がこの地に山荘を築いたのも、岩倉がある種の「別世界」として貴人から見られていたためだろう。
そのような静かな環境が好まれたためか、、岩倉の周辺は、朝廷の貴族や京都市中の商家から里子や病人を預かり養育する地域として知られていた。少し長くなるが『京都府愛宕郡岩倉村概誌』から引用しよう。

「岩倉ニ幼児里子養育ヲ為スノ原由ハ、伝説、延久年間、後三条天皇代三皇女御病ヒノ為ニ石座観音ニ御参籠ノ上御平癒アラセラレタル当時、叡感ノ余リ、勅言ニ此里ニ幼児乳里養育ヲ委ネルニ適当ノ地ナリト、勅言アリシ後、之ヲ聴キ伝ヘ…(中略)…之レヨリ自然世人ノ知ル処トナリ、貴族・富豪ヨリ依頼ニ応ジ今ニ於テモ農家婦女ノ副業ト為セリ。此ノ縁故深キガ為メニ、家族ノ者ハ官衙出仕勤務ノモノ多キト、車馬往復ノ頻繁ナル所以ナリ。此ノ岩倉ノ里ハ強チ精神病者ノミニ限ラズ、健者・病者ヲ問ハズ、各地ヨリ静養・保養・修養ノ好適地ナルヲ以テ人々入村セラレ、殊ニ夏期ノ頃ニ多ク旅館ニ永泊滞在セラルルコト多シ。」

これによると、後三条天皇の皇女が岩倉の石座観音(大雲寺の観音か)に参籠したところ病が治ったことから、貴族や富豪の間には岩倉に里子を預ける風習が広まり、特に夏頃は岩倉の旅館に精神病などの病を治療したり保養をしたりするために多くの人々が滞在するようになった、ということである。後三条天皇の皇女についての伝説が事実かどうか確認する術はないが、18世紀始めごろから岩倉の大雲寺に、病人の参籠が目立ち始めたことは確かである。当初は眼病治療の地として知られていたが、後には精神病治療の地として有名になった。1773年には与謝蕪村が「岩倉の狂女恋せよ子規(ほととぎす)」という句を読んでいるが、これも岩倉に精神病患者が多く集まっていた状況を反映してのことだろう。
大雲寺への参詣者が増加したことを表す石造物もいくつか残っている。たとえば岩倉川沿いの道にある「くわんおんみち」の道標は1835年に再建されたもので、そこを通って多くの人が大雲寺へと向かったことを示している。

参詣人の数が増えてくると、その全てを大雲寺に収容することは不可能となり、周辺の茶屋が宿泊所の業務を行うようになる。『岩倉村史』にはその経緯と治療の実態について、以下のように書かれている。

「古昔ハ観音堂前ニ籠堂ナルモノアリキ。患者ハ此ニ療養シ、附近ノ宿屋ニ飲食ノ供給ヲ受ケシカ、便宜ノ為メ漸次宿屋ニ宿泊スルコトトナリ、遂ニ農家ヘモ寄寓スルニ至レリ。……(中略)而シテ其療養方法トシテ、観音堂ノ閼伽井水ヲ服用シ、或ハ瀑布ニ冷却シ、時ニ観音堂ノ幽静ニ起臥シ、或ハ田圃間ニ逍遙シ、自適ノ運動ヲ為シテ精神ノ静養ヲ専一トナセシ」

茶屋はまた、患者の世話をする専門の介助人である「強力(ごうりき)」を抱えていた。もともとは家族が患者に付き添い、介助をしていたのだが、やがて専門の強力がそれを代行するようになった。精神病患者の家族からすれば、自分たちに代わって患者の世話をしてくれる茶屋や強力は、便利な存在であったに違いない。大雲寺に多くの精神病患者が集まってきたことには、以上のような背景が存在していたと考えられる。


このように近世社会の中で確固たる位地を占めていた岩倉の精神病治療は、明治維新と文明開化によってどのように変化したのか。『洛北岩倉』の記述に依拠して概覧してみよう。
明治8年、京都府下京区の住人栞政輔から「癲狂病生養之儀ニ付言上書」が提出された。その中では、大雲寺による患者預かりを禁止し、欧米各国に習い、近代的な癲狂院を作るべきだという主張がなされた。京都府はこれを受け、岩倉と久世における精神病治療の実態調査を行った。その報告書では、岩倉では患者に対して毎日仏閣に上らせたり滝にうたせたりするだけであり(先の『岩倉村史』と同様の内容)、そのようなことで病が治るわけがなく、閑静な土地なので精神が静まるだけだろうとされた。治療も行わず念仏に頼ることが、文明開化の精神に反すると考えられたのだろう。同年7月には南禅寺の山内に京都癲狂院が設立され、8月には京都府から岩倉村戸長あてに、狂人を預かることを差し止める旨が指示された。これによって大雲寺周辺の茶屋は経営危機に陥った。
ところが明治15年、京都癲狂院が閉鎖された。資金不足による経営の悪化が原因であった。そうして患者たちが再び岩倉に集まりだすと、今度は岩倉に癲狂院を作ろうという動きが活発になる。しかし、病院設立を目指す村の有力者と、これまで患者を預かってきた茶屋との対立により、岩倉癲狂院が開院式を挙げたのは明治23年のこととなった(25年に私立岩倉精神病院と、38年に私立岩倉病院と改称)。とはいえ、明治24年に制定された「京都府瘋癲人取締規則」の第四条では「病院及病院ノ付属室又は宿屋ニアラスシテ、看護料賄料等ヲ受ケ、瘋癲人ヲ宿泊セシムヘカラス」とあり、宿屋、つまり茶屋での「瘋癲人」の宿泊が認められていることは注目に値するだろう。
明治33年には「精神病者監護法」が施行されたことで、患者の家族あるいは病院以外の場所において精神病者を預かることが厳禁されてしまう。しかし、それにもかかわらず、岩倉病院においては茶屋を病院付属の「保養所」とすることで、実質的には茶屋における患者預かりを存続させたのであった。
病院外での患者預かりが行政から黙認されたことにはいくつかの理由がある。ひとつは精神病院の不足。大正8年には精神病院法が施行され、内務大臣が道府県に対し病院の設置を命じることが出来るようになったが、実際には財政難のため、有名な巣鴨病院(1879年開院)の他は、戦前では7府県に設置されただけに留まった。もうひとつの理由は、患者家族の費用負担の問題。精神病者監護法は治安上の理由から精神病者を監置・監禁の対象とみなしたが、その義務と費用は患者の家族が負担することになっていた。精神病院法によって貧困家庭の患者は公費による補助を受けられるようになったが、それを受けられない中流家庭の患者の受け皿として、病院よりも費用が安く済む民間の保養所の需要が存在したのである。
民間の保養所はアジア・太平洋戦争の激化と共に閉鎖へと追い込まれるが、昭和9年の時点では岩倉に集まった精神病患者約800名のうち、病院に470名、保養所に320名という割合で、保養所がかなりの率をしめていた。なお、岩倉病院は何度か位置を変えているが、明治40年ごろまでは現在の洛陽病院の場所に、それから終戦ごろまでは現在の京都府営岩倉団地の場所に存在していたという。


岩倉での精神治療小史については以上であるが、あとは冒頭に書いた文明開化の問題と絡めつつ、いくつか論点を提示して終りとしたい。
まずは「家族への内閉」について。一般的には、家族が「家業」や「屋号」といった形で共同体と深くかかわりを持ち、近代のように公私の区分が明確でなかった時代においては、老いや病は家族だけの問題ではなかった。家族に扶養・介護者がいないときは、親類や五人組、村、町などが面倒をみた。しかし、18世紀前半から始まる社会全体の流動性の強化、広域経済の発達は、従来のムラ共同体を徐々に弱体化させ、相互扶助のネットワークの維持を困難にした。そして明治維新後の村請制の廃止、移動や職業選択の自由、家を単位とした戸籍制の確立により、家は共同体からの自立性を高め、直接国家と対峙する存在となったのである。
こうして近代家族、別の言い方をすれば「家庭」が現れる。家庭は共同体から自立し、家族の老いや病に対して治療を行う責任を持つ。近世において家の外、路上は土間の延長であったが、近代の家庭は路上から入られるのを防ぐ代わりに、路上を公共の空間として社会へと差し出した。路上が公共の空間である以上、公共性を欠いた(とみなされる)精神病者が歩き回ることは、もはや許されない。
また、戸籍制度が象徴するように、家族が国家によって管理されるものである以上、家族の病は国家が直接に治療するべきものとされる。大正8年に施行された精神病院法では、内務大臣が道府県知事に対して精神病院の設置を命じることが出来、それに6分の1から2分の1の国家補助を行うことになっていた。こうして、国家と家庭が直接に結びつき、それぞれの極において精神病者を閉じ込める「近代国家」が志向される。
しかし、これはあくまでも理念の問題であり、そのまま現実であったというわけではない。例えば巣鴨病院の院長、呉秀三は岩倉の保養所で行われていた患者預かりの伝統を高く評価した人物のひとりであるが、彼は政府による精神病患者の取り扱いについて次のように述べている。

精神病者は何んでも監禁しなければならないかの如くに当局者は思つて居る。又癲狂院精神病者を監置する許の所と思ふて居る。是は甚しく誤解である。若し誤解でない、監護法はそう規定したものだと云ふならば、彼の監護法と云ふものは甚しい欠点のある不文明的のものだと云はなければならん。」
 ‐呉秀三中欧における癲狂院の近況」(明治37年)‐

明治の終りから大正は精神医学における大きな過渡期であり、狂気が研究と治療の対象になったという意味では上記の理念と一致しているが、いまだ狂気は現代のように忌み嫌われ社会から黙殺されるだけの病ではなかった。例として、巣鴨病院に明治15年から入院していた蘆原将軍こと蘆原金次郎を取り上げてみよう。彼の発言はしばしば新聞に掲載されたが、大正3年8月15日の『都新聞』は、第一次世界大戦勃発に伴い蘆原将軍にインタビューを行っている。

「聞けば此頃世間は独仏戦争とか独露戦争とかで大変騒いでゐるさうだが、うろうろ東洋へも余波を及しそうだね。日本政府の態度は何うだい、此間大隈が日光に奉伺した相だが、駄放螺吹き先生大分戸惑ひしているらしいね。」

奇しくも巣鴨病院をモデルにした『ドグラ・マグラ』が描いたように、狂気は社会の中に偏在していた。だからこそ、人々は狂人の言葉に耳を傾けたのである。また、岩倉の保養所で行われた治療は「時ニ観音堂ノ幽静ニ起臥シ、或ハ田圃間ニ逍遙シ、自適ノ運動ヲ為シテ精神ノ静養ヲ専一トナセシ」というものであり、『ドグラ・マグラ』の正木博士が提唱する「狂人の開放治療」を体現したものであった。現実の呉秀三博士が、東京の巣鴨病院でそれを行うことは出来なかったが……。


共同体による相互扶助から国家による福祉へ。これが近代国家を正当化するイデオロギィであり、明治政府(特に内務省)は常に「恩恵としての福祉」を与えるものとして振舞うことで、国家の存在に対する根本的な批判を防いでいた。しかし、この単線的発展史観には無理があると言える。「文明国」を目指す日本にとって、公共の場から精神病者を一掃することは国家的事業であったが、現実には家族、共同体、民間事業といった中間団体による多元的な福祉供給を必要としていたのである。
ただ、そこで重要なのは単に多元性を認識することではなく、中間共同体が属する「社会」と「国家」との境界線が絶えず移動するものである、という点ではないだろうか。国家は社会との連続性を強調することで協力を求め、社会は同じようにして自らの事業の正当性を獲得したのである。この問題についてはこれ以上議論を進めるだけの準備は出来ていないので、今後の課題としたい。全部読まれた方、お疲れ様でした。