覚え書:「戦後の原点:東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪」、『朝日新聞』2016年05月02日(月)付。

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戦後の原点:東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪
2016年5月2日

何が争われたのか<グラフィック・甲斐規裕>
 日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)の開廷から3日で70年。戦後日本の歩みを方向付けた裁判を2回にわたって特集します。初回は「A級戦犯」とされた指導者がどんな罪に問われて法廷で何が争われたのか、戦争に敗れた日本人が判決をどう受け止めたのかをたどります。

 ■対象 東条らAログイン前の続き級戦犯に

 東京・市谷の防衛省にある「市ケ谷記念館」は、省内の見学コースの目玉の一つだ。東京裁判で法廷として使われた旧陸軍士官学校大講堂が移設・復元された。2015年度は約2万5千人が訪れた。

 東京裁判は、1946年5月3日に開廷し、48年11月12日に判決が言い渡された。審理の対象期間は、日本が侵略政策を始めたとされた28年1月から、降伏文書に調印した45年9月までの約18年にわたった。どんな罪を裁くかは、日本と戦った連合国の米英仏ソが45年8月に結んだロンドン協定に基づいた。

 捕虜や人質の殺害といった以前からある「通例の戦争犯罪(B級)」に、侵略戦争を計画したり始めたりする「平和に対する罪(A級)」と一般市民の虐殺など「人道に対する罪(C級)」が加えられた。A〜C級は悪質さの程度ではなく、罪の種類を指した。

 弁護側は、国際法で定着していない罪を裁くことは「事後法」にあたり不当だと批判した。しかし、判決はこれらの罪は当時から国際法にあったと判断した。

 太平洋戦争の開戦時に首相だった東条英機ら、28人のA級戦犯容疑者が被告になった。病死や免訴となった3人を除く25人が全員有罪となり、7人は絞首刑になった。この7人はBC級にも問われ、A級だけで死刑になった被告はいなかった。

 広島と長崎への原爆投下など、連合国の戦争行為は対象外だった。占領統治を円滑に進めるためという米国の判断で、昭和天皇を罪に問わなかった。

 ■審理 戦場の実態明かす

 即決処刑か、裁判か。戦争犯罪人の処罰のありかたをめぐって、当初、連合国側は揺れた。ソ連の指導者スターリンや英国首相チャーチルは「即決処刑」派だった。

 というのも、第1次世界大戦では、戦勝国の英国やフランスが敗戦国のドイツに戦争犯罪人の引き渡しを求めたが、ドイツ側が応じず、自らの手で開いた戦犯裁判で無罪判決を連発させた。

 即決処刑なら証拠を集めて裁判を開く手間はかからないが、勝者による「報復」の色が濃い。これに対して、裁判を開けば法にもとづく処罰として正当性を主張することができる。

 連合国側が選んだのが、国際軍事裁判所の設置だった。日本が1945年8月に受諾を決めたポツダム宣言でも降伏条件の一つとして、「一切の戦争犯罪人に対する処罰」が盛り込まれた。ドイツに対するニュルンベルク国際軍事裁判(45年11月〜46年10月)と同様に東京裁判を開いた。

 裁判の証人は12カ国の419人におよんだ。法廷での様々な証拠や証言により、国民に戦争の実態が明らかにされた。中国・南京であった日本軍による一般人虐殺について、被告席で生々しい証言を聞いた元外相、重光葵(まもる)は「醜態耳を蔽(おお)はしむ。日本魂腐れるか」と心境を日記に記している。

 サンフランシスコ講和条約の調印・発効によって、52年4月に連合国による日本占領が終わり、日本は独立を回復した。条約には、日本が東京裁判を受諾することと刑を引き続き執行することが盛り込まれた。

 ■反応 国民に不公平感も

 安保法制を審議する衆院特別委員会で昨年6月、東京裁判の評価が議論になった。「勝者の判断で断罪がなされた」と、かつて裁判に批判的な発言をした安倍晋三首相に野党が認識を問うと、「我が国は判決を受諾しており異議を唱える立場にない」との見解をくり返した。

 受け入れと反発が同居する感情は、日本社会に広く見られる。戦後10年、1955年に政府が行った世論調査では、指導者の処罰を19%が「当然だ」、66%が「仕方がない」と考えると同時に、63%が「ひどすぎた」と答えた。悲惨な戦禍を招いた指導者への裁判は国民にとって受け入れやすかった半面、勝者である連合国による原爆投下や空襲が裁かれなかったことへの不公平感も募っていた。

 講和が成立して占領が終わると、「侵略の定義は困難」として被告全員の無罪を主張したインドの判事、パルの反対意見が「日本無罪論」として出版され、歴史修正主義的な主張の源流となった。裁判に対する評価は、日本の戦争が侵略だったかという論争と結びつき、政治の左右対立のなかで語られるようになった。

 78年には靖国神社A級戦犯を合祀(ごうし)。85年、中曽根康弘首相が同神社を公式参拝すると、中国や韓国などが批判。それが更に国内の右派の反発を呼んだ。戦後50年の95年に、村山富市首相が「植民地支配と侵略に対するおわび」を談話で表明すると、右派が「東京裁判史観」「自虐史観」と批判した。

 2000年以降も小泉純一郎首相が靖国を参拝。安倍首相も第2次政権の13年に参拝した。

 ■アジア・植民地の被害軽視 吉田裕・一橋大教授(日本近現代史

 東京裁判は米英の被害に比べ、戦場や植民地となったアジアの被害を軽視した。軍部を罰したが、昭和天皇は起訴されなかった。戦争責任の問題は国民に深く受け止められず先送りされた。

 それでも戦争を知る世代は、政治家も国民も中国や朝鮮半島への後ろめたさを共有していた。今は直接の当事者でない戦後世代が未解決の問題と向き合うことになり、国内に戸惑いや反発が生じている。

 世論調査などで、先の大戦を「やむを得ない戦争」と考える人が増え、昨年の「安倍談話」では「次世代に謝罪を背負わせない」という訴えが歓迎された。背景には歴史の忘却がある。

 海外に対しては一定の反省の姿勢を示すが、国内では反発を繰り返す歴史観ダブルスタンダードが拡大している。現天皇が戦地を何度も訪れ、相手国の戦没者も含めて追悼を続けるのと対照的だ。

 ■功と罪、両方受け止め必要 日暮吉延・帝京大教授(日本政治外交史)

 東京裁判は第2次世界大戦の評価をめぐって、戦後の右派・左派の思想的分断の原点となり、いまだに冷静な議論は難しい。現在は中国の台頭や靖国問題でアジアの反発が強まるなか、むしろ裁判を全否定する「勝者の裁き」論が目立つようになっている。

 確かに裁判は欠陥だらけだった。だが、否定論一点張りだと、判決を受諾して国際社会に復帰したサンフランシスコ講和条約の否認につながり、非現実的だ。

 東京裁判でも、膨大な歴史資料を集めた点、戦争責任のけじめをつけたことで対米協調への転換を容易にした点などはプラス面として評価できる。

 敗戦国として責任追及は不可避だったし、占領下という特殊な環境で行われたことを考えると、「冷厳な国際政治の結果」と割り切ることも一案だ。まずは裁判の功と罪を両方とも受けとめることが必要だろう。

 ◆東郷隆、藤井裕介、西本秀、藤原秀人、三浦俊章が担当しました。次回は6月に掲載します。
    −−「戦後の原点:東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪」、『朝日新聞』2016年05月02日(月)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12338496.html





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