当尾の石仏をめぐる旅(1)

関東在住者で当尾という地名を聞いてピーンとくる方はかなりの少数派ではないでしょうか。当尾は<とうの>と読みます。南都を離れた僧侶がこの地に結んだ草庵が、やがて寺院へと姿を変えて塔の屋根を形成したことに由来する地名なのだそうです。

この地域は奈良県境に近い京都府の南端にあたり、京都市街からは京奈和自動車道経由で1時間半ほど掛かります。京都から日帰り旅行が可能なので、今回初めて訪れてみることにしました。


目的地は京都府指定の当尾磨崖仏文化財環境保全地区です。浄瑠璃寺岩船寺を結ぶ山郷道約1.5キロを歩いて回ろうというわけです。ミニ石仏巡礼の旅といったところでしょうか。浄瑠璃寺を通り過ぎて岩船寺の手前の駐車場に車を停めて、まず岩船寺を参拝しました。この寺院は聖武天皇勅願寺として知られ、欅一木造のご本尊阿弥陀如来坐像(重文)は行基作と伝えられています。承久の変で建物の大半は消失したものの寺宝は火難を免れたため、こうして参拝が叶うというわけです。ご本尊をはじめ平安時代作の普賢菩薩騎象像(重文)が浄瑠璃寺の九体仏よりも古いことを、ご住職はしきりに強調されていました。

5000株ほどのあじさいが6月中旬になると一斉に咲き誇り、関西のあじさい寺と称される岩船寺は大勢の参拝者で賑わいます。春は訪れる人も少なく、却って静かな佇まいを愉しむことができました。平成の大修理で往時の極彩色を取り戻した三重塔と三方の緑とのコントラストは実に見事でした。参拝を終えるといよいよ石仏をめぐる旅のスタートです。

当尾の石仏をめぐる旅(2)

岩船寺門前を左へ折れて緩やかな坂道を上るコースを選択、山里の風情はさながら春の大和路です。岩船寺を起点にするとコース全体が下り坂になっているので楽かも知れません。石仏は山道に点在しているので、当尾エリアマップを見ながら順に巡礼することに。

最初に出会うのが三体地蔵、みろくの辻までやって来ると弥勒磨崖仏が現れます。まるで道祖神のような佇まいです。緩やかな起伏の山里を先へと進むと、当尾で最も親しまれているという阿弥陀三尊磨崖仏、通称「わらい仏」と遭遇します。花崗岩にはっきりと「永仁七年二月十五日願主岩船寺住僧・・・大工末行」と銘文が刻まれているので、鎌倉時代のものだと分かります。左手にはかわいらしい「ねむり仏」が土に埋まるように頭だけ出して鎮座しています。磐座や巨石信仰に似た自然崇拝の表れでしょうか。

少しコースを右手に逸れて谷底まで降りると一願不動を拝めます。こちらも銘が残っていて弘安10(1287)年の作だと分かります。

石仏を訪ねながらのどかな山里の風景を眺めていると自然と心が癒されました。遠くに山並みを仰いだり山道の散り椿を踏みしめながら歩を進めると、浄瑠璃寺はもうすぐです。

当尾の石仏をめぐる旅(3)〜浄瑠璃寺の春〜

当尾を訪れる時期は新緑の頃がベストかも知れません。岩船寺境内にあじさいが咲くまで待つ手もあります。ただ、浄瑠璃寺を終点と決めたときから選択肢は春しかありませんでした。堀辰雄の短い随筆『浄瑠璃寺の春』を追体験してみたかったからです。山門手前の参道右手には、「どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもして手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ」と堀辰雄に言わしめた馬酔木が白い花を咲かせていました。桜や白モクレンと混じって春の装いここに極まれりです。

小田原山浄瑠璃寺は九体寺とも呼ばれ、阿弥陀堂に入ると金色の丈六像(224cm)の中尊と半丈六像(139〜145cm)の8体の阿弥陀如来像(国宝)が一列でお出迎えしてくれます。本堂の奥行きが狭いのは扉を開け放って外から拝むように設えられたからだそうです。ひんやりとした空気を感じながら、扉を背にして阿弥陀様を拝んでいるとしばし西方浄土へ思いを馳せることができます。

梵字の阿字をかたどった池を挟んで奥まった高台には三重塔が聳えています。ちなみに庭園内の池は現在修復工事中でした。阿弥陀堂も三重塔(いずれも国宝)も京都府に残る数少ない平安時代の遺構です。ご本尊の秘仏薬師如来は三重塔に安置されていて、毎月8日(ほかに春分秋分の日など)に公開されています。


阿弥陀堂から説明を始めてしまいましたが、正しくは、まず三重塔の前で薬師如来を拝み、その場で振り返り阿字池越しに阿弥陀如来様に祈るのが正しい参拝の作法だそうです。宇治の平等院もそうですが、浄瑠璃寺の境内全体が浄土思想の世界観を示しているので、此岸から彼岸を臨まなくてはいけません。

参道を戻る途中、右手にあ志び乃店という名前の茶店があります。浄瑠璃寺と地続きの立派な庭を無料で鑑賞させてくれますので立ち寄るといいでしょう。モクレンの大木が満開でそれはそれは見事でした。浄瑠璃寺の春を惜しみながら、参道前から定期運行している木津川市コミュニティバスに乗車、駐車場のある岩船寺まで戻ると陽は大きく傾いていました。