機動戦士ガンダムAGE 第34話「宇宙海賊ビシディアン」(1/2)
▼あらすじ
無事宇宙へ出たディーヴァは、ヴェイガンに見つからずにルナベースへ向かうため、サルガッソーと呼ばれる暗礁地帯を通る。しかしそこで待ち受けていたのは、連邦の艦艇に度重なる略奪を行ってきた宇宙海賊ビシディアンだった。海賊の首領、キャプテン・アッシュは、キオたちの実力を見定めようとしていたが、そこにヴェイガンが現れる。三つ巴の戦いになるかと思われたが、アッシュはキオを助け、「秘宝の鍵」を渡していった。そして帰還したキオは、フリットから、キャプテン・アッシュこそ実の父親アセム・アスノであると知らされるのだった。
▼見どころ
▽“宇宙海賊”
この回の最大の目玉といえばやはり、よりによって海賊姿で再登場するキャプテン・アッシュことアセム・アスノでしょう。一体、彼はなぜこんな格好で息子の前に姿を現すことになったのか、というのが今回の解説の主眼となります。
そもそも、ここまで(程度の差こそあれ)ガンダム基準で見てもおおむねリアル指向の戦争を描いてきたAGEにあって、
このケレン味あふれるセンスは、正直言って少しズレています。
アッシュの芝居がかったセリフにせよ、その時代がかった服装にせよ、これまでそれなりにシリアスな戦争を描いてきたAGEの中では若干浮いており、滑稽ですらあります。
さらには、「キャプテン・アッシュ」などとわざわざ名を変えて登場したにも関わらず、初登場からわずか10分で、
「やっと会えたなキオ。力を見せてみろ、この父に!」
と発言。正体がアセムである事をあっさりと視聴者にバラしてしまいます。
これはまぁ、言ってしまえばネット時代に合わせた脚本ではありまして、現代においては視聴者同士がネット上で先の展開の予想などをさかんに交換しあっていますから、この手の「謎の人物登場、その正体は」みたいな展開は大体先を読まれてしまいます。であるならば、最初からバラしてしまった方が良い。
実際問題として、歴代のガンダムにおいても過去の登場人物が偽名で再登場する場合、大抵は視聴者にバレバレでした。
『Zガンダム』のクワトロ・バジーナは、第1話エンディングのテロップで既に「シャア・アズナブル」と記載され、視聴者に対して隠す気ゼロでした(笑)。
『ガンダムSEED Destiny』のネオ・ロアノークは、初登場の第2話放映時点で既に、某巨大掲示板にて「フラガ仮面」と呼ばれていました(ぇ
『ガンダム00』セカンドシーズンのミスター・ブシドーに至っては……特にコメントの必要を感じません(笑)。
ともあれ、ガンダムの歴史においては、この手の人物は最初から正体がバレバレ、というのが標準なのであり、キャプテン・アッシュは忠実にそのセオリーを踏襲しています。
……とはいうものの、やはりここで早々に正体がバレてしまうアッシュは、視聴者から見て間が抜けて見えてしまう事には違いがないでしょう。
中二病的な海賊コスプレも含め、彼らの存在はあまりに唐突で、ウソ臭い。
しかし、こうしたウソ臭さ、バカバカしさこそが、アセムの世代=80〜90年代ガンダム世代が背負ってしまったモノでもあるのでした。私はアセム・アスノのために、まずはその事を長々と説かねばなりません。
- 作者: ササキバラゴウ
- 出版社/メーカー: 銀河出版
- 発売日: 2004/01/01
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1995年3月20日。地下鉄サリン事件が発生しました。この事件を引き起こしたのが、宗教団体オウム真理教です。
彼らが、発泡スチロールで作った仏像に頭を垂れ、また施設内で使用していた空気清浄器を『宇宙戦艦ヤマト』に登場した重要アイテムになぞらえて「コスモクリーナー」と呼んでいた事は、あまりに有名です。作家の村上春樹は、これらをやはり「ジャンクなもの」として捉え、ジャンクであればこそかえって信者たちを惹きつけたのではないかと記しています。
また、1997年、兵庫県神戸市須磨区にて、連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)事件」が発生しました。まるでゼロ年代のライトノベルの登場人物のような名前で警察を挑発する手紙を送りつけ、猟奇的な方法で小学校五年生の児童を殺傷したこの事件もまた、世間に大きな衝撃を与えました。犯人と目される少年が、自身の作り上げたバモイドオキ神なるものの名前を日記に書きつけていたり、といった不気味さが、事件の衝撃に拍車をかけていました。
言ってみれば、バカバカしい個人の妄想やエセ新興宗教の教義が、しかし社会全体を揺るがすような大事件を引き起こす。それが、1990年代に噴き上がった不安の姿でした。
また、第23話の解説で詳細に示したように、90年代はバブル崩壊以降、それまで信じていた価値観が揺らぎ、大人たちまでが自信をなくした時代でもありました。
ついでに言えば、スタジオジブリの映画『もののけ姫』が公開され、当時の日本映画の興行収入最高記録を更新したのが1997年。1995年に社会現象を起こした『新世紀エヴァンゲリオン』も含め、本来「サブカルチャー」であり、取るに足りない傍流であったはずの文化や趣味が、メインカルチャー以上の影響力を持つことの期待と不安が入り乱れた時代でもあります。
こうした時代の空気を、ガンダムは的確に予見・あるいは掬い上げていました。
『Vガンダム』の敵勢力であるザンスカール帝国は、マリア主義を掲げる宗教国家であり、敵対者はギロチンにかけるという時代がかった(バカバカしい)、しかし恐ろしい狂信者として描かれました。また、ドゥカー・イクというバイク趣味が高じただけの士官が発想したバイク兵器、バイク戦艦が、作中で恐ろしい威力を発揮していました。「ジャンクなものが攻めてくる」。『Vガンダム』の放映期間は1993年から1994年にかけてですから、オウム真理教の全貌が判明するより前であり、ここでもガンダムは驚異的な(気味が悪いくらいの)予見性を示していた事になります。
しかし、この「宇宙海賊ビシディアン」との関連で言えば、重要なのは一つ前の作品、『機動戦士ガンダムF91』です。
「バビロニア」「貴族」などの大仰な(中二病な)キーワードを持ち出してくるセンスもそうですが、何より問題なのはこの作品の背後設定です。実は、作中に登場するロナ家は成り上がりの新興企業の経営者に過ぎず、「ロナ家」という家名は没落した貴族から買ったものであると設定されているのです。つまり、彼らがあれだけ誇らしげに掲げていた家名は、実はまったくのフェイク(偽物)なのです。
そうであればこそ、貴族であるはずのロナ家の私兵が「クロスボーン・バンガード」、すなわち海賊軍を名乗っているのでした。古代バビロニアの貴族が海賊を使役するというのもおかしな話です。ここでの海賊は「海賊版」などの意味、つまり「まがい物」の含意をもって命名されているのが明らかです。
そして、コミック『機動戦士クロスボーンガンダム』に登場する海賊軍クロスボーン・バンガードは、この『F91』のロナ家の私兵を起源に持つ集団なのです。
無論言うまでもなく、「宇宙海賊ビシディアン」はこの宇宙海賊クロスボーンバンガードのオマージュに当たります。
「偽物」というテーマは、『F91』の主人公機にもオーバーラップされています。これも有名な話ですが、この映画の最後のカットで、カロッゾ・ロナ(ロナ家の入り婿。フェイクな貴族ロナ家に入り込んだ、さらなるフェイク!)の鉄仮面と、ガンダムF91のフェイス部分が重ねあわされます。
重なる鉄仮面とガンダム。
これは暗に、劇中で活躍したF91もまたフェイク、ガンダムの系譜から外れた偽物である事を示していると見られます。実際劇中では、
「グルス、これ、ガンダムF91っていうコードにしようよ」
……と言われており、この機体の正式名称は「ガンダム」ではありません。たまさか、スペースアークの乗組員たちが呼んでいたニックネームでしかないのです。設定的にもF91は、『逆襲のシャア』までの正統なガンダムの系譜を担っていたアナハイム・エレクトロニクスではなく、連邦軍の下部組織サナリィが開発した機体です。
(しかも念入りな事に、コミックによる外伝作品『シルエットフォーミュラ91』では、正統なガンダムの系譜を担っていたアナハイム・エレクトロニクスが、フェイクなガンダムであるF91を極秘に模造し、更なるフェイクである機体「シルエットガンダム」を開発しており、「偽物が正統を駆逐する」この時期のガンダムテーマをさらに推し進めています)
『機動戦士クロスボーンガンダム』において、主人公機クロスボーンガンダム=F97は、この「系譜から外れたガンダム」であるF91の後継機に当たるのです。
いかがでしょうか。
このように見てくると、AGEシステムとの連携から外れたガンダム=ダークハウンドのオマージュ元として『機動戦士クロスボーンガンダム』が、宇宙海賊が選ばれたのは、決して安直な思いつきではなかった事が分かるかと思います。
バカバカしい、取るに足りないはずのフェイク、まがい物、偽物が、無視できない影響力を持ってしまう。そんな時代の申し子として、アセム・アスノは海賊の姿で再登場するのです。
さらにさらに。アセム・アスノが海賊の姿で登場する理由は、別の方向からもたどる事ができます。
▽スーパーパイロットが宇宙海賊になる理由
第21話の解説で詳述したように、80〜90年代のガンダム作品というのは、初代ガンダムで希望として描かれたはずの「ニュータイプ」という概念が行き詰まり、破綻した時期でした。
簡単におさらいすると、当初は「人類がやがて相互理解によって戦争などせずに済む存在へと進化していくはずだ」という希望として「ニュータイプ」は描かれたのですが、やがて続編においてこの概念は対立する「オールドタイプ」という言葉を生み出してしまい、結局は「劣ったオールドタイプを滅ぼして優れたニュータイプだけの人類にしていこう」という優生思想へとはまり込んでしまった、という事です。
しかし、『逆襲のシャア』においては、シャア・アズナブルによる「地球に住む人々の粛清」が説かれ、これに対しアムロ・レイが「人が人に罰を与えるなどと!」と抵抗をして見せるのですが、しかし上記のような「優生思想になってしまったニュータイプ」をうまく解消できる言葉が紡がれたわけではありませんでした。
良くも悪くも、「ニュータイプ」という言葉は強烈なインパクトをもってガンダムファンの間に定着しています。それはもう、同名の雑誌が現在も続いているほどに、です(笑)。
後続作品は、「ニュータイプ」という概念をどのように相対化していったのでしょうか。
たとえば、『Vガンダム』においては、ニュータイプに代わって「サイキッカー」と呼ばれる人々を登場させました。それはあたかも、特殊な思念を放つなどのニュータイプてきな能力は持ちつつ、そこから「人類の革新」といった意味付けだけを脱色したような設定になっていました。しかしこれでは、とても十分とは言えません。
一方、ニュータイプの否定を前面に押し出したのが、『機動新世紀ガンダムX』です。最終盤において、D.O.M.Eとよばれるシステムは「ニュータイプは幻想だ」と言い放ちます。たまさか人を超えた能力を持ってはいたけれど、その力を人々が「人の革新」だと思い込んでしまったのだ、といった説明が述べられたのでした(こちらで全文を読むことができます)。
これはこれで、一つのニュータイプ論ではあったのですが。しかし『ガンダムX』が宇宙世紀とは違う世界観で展開された話であり、宇宙世紀のニュータイプと違う設定なども散見され、結果として「宇宙世紀のニュータイプ」を本当の意味で葬る事までは出来なかったように思います。
では、宇宙世紀におけるニュータイプという概念、その優生思想的な側面を、本当の意味で「終わらせた」のはどの作品だったのでしょうか。
私の答えははっきりしています。「ニュータイプ神話」にピリオドを打つという記念碑的な仕事をやり遂げたのが、他でもない『機動戦士クロスボーンガンダム』だったのです。
作中に、ロナ家のこの時代の代表として、シェリンドン・ロナという人物が登場します。各地でニュータイプ的な素養を持つ若者を集めていたシェリンドンは、海賊軍でパイロットとして目覚ましい活躍をしていた主人公トビア・アロナクスを拘束しようとします。争いをしないで済む人類であるニュータイプは、地球と木星の戦争という「汚れた争い」に加わるべきではない、と説いたのです。
しかし、トビアはこれを拒絶します。
最終決戦の直前、トビアはこのシェリンドンに対して、手紙を送りました。その内容こそが、「優生思想としてのニュータイプ」を決定的に相対化した、ガンダム史に残る到達点を示すことになります。少し長いですが、極めて重要なので、全文引用します。
あなたは1日に12kmの山道を歩くことができますか?
それはぼくたち宇宙育ちからみればとんでもない能力なんです
でもそれは“進化”したわけではなく人間がもともともっている力――
“環境”にあわせて身につく人間自身の力――
だからカンが鋭かったり先読みがきいたりするNT(ニュータイプ)の力も
単に宇宙という環境に適応しただけで
ぼくらはまだ昔と同じ”人間”なのでしょう
しかしもっと長い長い年月をかけていつか人は“NT(ニュータイプ)に進化するでしょう
でもやがてくる新しい力に期待する前に―
僕は“人間”としてやれることがまだ残っているのじゃないかと思うのです
僕は人がNT(ニュータイプ)にならなければ戦いをやめられないとは思えません
人間としてやるべきことをすべてやって
それを自分の手で確かめてみたいと思うのです
作中、コロニー育ちのトビアは地球に降下する事になり、そこで地球に住んでいるなんでもない普通の人々が、10km以上の山道をごく普通に踏破する事に驚きます。コロニーにせよ月面にせよ、そのような長距離を自分の足で歩くというような機会はなく、彼ら宇宙育ちの身体能力は、地球に住む人たちに比べて、実はかなり鈍っていたのです。
そのような経験からトビアは、この手紙で示したような省察を行ったのでした。つまり、宇宙育ちはカンが鋭かったりテレパシーのような意思疎通ができる一方で、山道を歩いたりといった事はできない。逆に地球育ちの人たちは環境に合わせたたくましい身体能力を発達させたけれど、宇宙育ちのようなカンの鋭さは持っていない。
ニュータイプもオールドタイプも、実はそれぞれにおかれた環境において必要な能力を高めただけであって、両者は人間としてのポテンシャルは変わらない。
すなわち――ニュータイプとオールドタイプの間に、優劣関係はない。トビアはそのように、この手紙の中で言っているのです。
ここに至ってようやく、「ニュータイプは人類の革新」という神話、80〜90年代のガンダムシリーズにおける一大テーマが発展解消されたのでした。同時に、トビアが手紙の中で述べているように、新たな巨大なテーマとして、「ニュータイプの能力に頼らずに戦争を止めるにはどうすれば良いのか」という設問が現れたのです。
『機動戦士クロスボーンガンダム』のシナリオに参加していた富野由悠季監督は、この新しい問題に真っ向から取り組み、やがてニュータイプが登場しない中で地球と月が和平を模索する『∀ガンダム』を世に問う事になるのですが……。
(ただし。ここまでニュータイプの限界、というような話を何回かに分けて語ってきましたが、今まで述べたことはみな「思想として」あるいは「概念として」のニュータイプであった事は、記憶にとどめておいていただきたいと思います。AGE本編も、また解説記事を書いている私も、ここまで「言葉を使わずに意思疎通できる事」の是非については意図的にスルーしています。
少なくともニュータイプについて語るならこの点は欠かせないはずなのですが、なぜこの問題がスルーされているのかについては、また後に語る事があると思います。AGE作中でこの問題がようやく取り上げられるのは、三世代編に入ってからです。)
長くなってしまいました。しかし上記の事情を念頭におくならば、アセム・アスノが『クロスボーンガンダム』をオマージュした宇宙海賊として再登場する事の必然性も、見えてくることと思います。
アセム・アスノは、Xラウンダーである父やゼハートをライバル視しながら、自身はXラウンダーではない事に苦悩し、やがてウルフ・エニアクルの導きで「Xラウンダーでなくても強いパイロット」=スーパーパイロットとなった人物でした。いわば、Xラウンダーと非Xラウンダーの優劣関係を自力で覆したキャラクターです。そうであればこそ、「ニュータイプとオールドタイプの優劣関係を覆した」クロスボーンガンダムがイメージ元として強力に召還される事になった、と読むことが出来るのでした。
ちなみに、ビシディアンの母艦として登場する海賊船バロノークもこの回登場しますが、側面に描かれているのが
海賊のシンボルとしてよく使われるドクロマーク(スカル&クロスボーン)です。
骨のかわりにスパナを交差させた図像になっているのは、地味ですがポイント。わざわざ骨ではなくスパナを描いているのは、「クロスボーンをオマージュしてはいるけれど、別ものだ」というデザイン意図でしょう(クロスボーンという言葉が交差した骨の意匠の事だというのは、わざわざ指摘しなくても良いですよね?)。
一方、ガンダムAGE-2もまた新しい姿で再登場します。
ダークハウンド。
機体色が黒なのは、第28話で純白だったAGE-2との対比を明確化するためでしょう。とはいえ、オマージュ元のクロスボーンガンダムにおいては、機体色が黒のみなのはザビーネ・シャルの搭乗するX2です。
スーパーパイロットであるアセムと、クロスボーンガンダムの主人公であるトビアを重ねたいのなら、X3やX1フルクロスなどを彷彿させるギミックがあっても良いように思えますが、どうもダークハウンドの機体デザインは意図的にX2を下敷きにしているように思えます。というのも、変形時、機首先端に位置する電磁スピアが、クロスボーンガンダムの中でX2だけが装備しているショットランサーに対応しているからです。なぜX2をオマージュ元としたのか、現時点で色々と考える事は出来ますが……この件については後に、意外な角度から理由を示せると思います。その時になったらまた、書きます。
とはいえ、ダークハウンドに装備されているのはクロスボーンガンダムX2に由来するものばかりではありません。両肩バインダー部に仕込まれたフックは、クロスボーンガンダムの続編である『鋼鉄の7人』に登場したクロスボーンガンダムX1パッチワークのアンカーシールドでしょう。
また、ダークハウンドの頭部、右カメラアイについているモノクル状のカバーは、クロスボーンガンダムや後のV2ガンダムなどに実装されていた、狙撃時に片側のカメラアイに眼帯型のセンサーが降りてくる機能を意識していると思われます。
およそこのように、クロスボーンガンダムを中心としたオマージュが散らしてあります。これらは直接には、「海賊」というモチーフを示しているだけのように思えますが、深読みするならもう少し広く解釈する事もできるように思います。
ガンダムAGEに登場するガンダムたちは、AGEシステムによって何度も姿を変えてきました。しかしその変化はすべて、ガンダムに新たな機能や性能を付加するためのものです。機体性能の変化・向上に寄与しない外見の変化というのは、AGEのガンダムには基本的に存在しません。
唯一の例外が、アセムのAGE-2です。第26話で機体色を白くしたり、このダークハウンドにドクロのデザインを入れたりしているのには、機能的な意味は存在しません。ただ外見を飾るためのものです。MSに装飾をする、という事自体がAGEの世界観においては異例という事です。
これは、二つの側面から見ることが出来ます。
一つ、このようなMSの改変は、ガンダムパイロットの中で唯一アセム・アスノだけが競技MSの経験があることと関連して理解できます。フリットにとっても、キオにとってもMSは「兵器」です。性能に関係のない改造を行おうという発想自体が基本的にあり得ない。ガンダムはあくまで戦いの手段です。
第17話の解説で書いたように、学校の部活でスポーツとしてMSを扱っていたアセムだけが、マシンを手段ではなく目的として、それ自体に意味があるものと見る事ができるわけです。性能や機能的な意味ではなく、カッコいい色で機体を塗ろうとか、そういう発想をアセムだけが知っていたわけで、ダークハウンドのケレン味のあるデザインはそうした背景との親和性を物語っています。
(もっとも、外伝コミック『追憶のシド』では、アセムが意識を失っているうちに勝手に改造されていた、という事になっているようですが……w)
もう一つ。これは歴代ガンダム作品のMSデザインの歴史との照応関係について。
そもそも、『機動戦士ガンダム』という作品の何が画期的だったかといえば、それまで子供向けのヒーローだった「巨大ロボット」を、量産される工業規格製品であると設定したところにあったわけです。無駄な装飾や派手なカラーリング、合理性に欠ける武器などは、リアルな軍事戦争を舞台にした物語の中では否定的な要素にしかなりません。ガンダムシリーズはそのようなリアリズムの中で発展して来ました。
しかし『Gガンダム』以降、これが大きく路線変更されます。脇役モビルファイターの素っ頓狂なデザインを見れば分かる通り、そこに機能的な合理性はあまり斟酌されていません。
工業製品的なリアリズムの元で作品を造り続ける事が、結果的にマニアックなミリタリー路線として(特にテーマの掘り下げの面で)狭く閉じてしまいそうになった結果、ガンダムは一時的に強烈な先祖返りの反動期を迎えたのでした。これは続く『ガンダムW』においても同じで、Wガンダムゼロカスタムの羽根を筆頭に、とても工業製品とは見えない不合理な装飾、意味付けがMSデザインの中に貪欲に取り入れられました。
『クロスボーンガンダム』における「海賊ガンダム」というコンセプトもまたその延長線上に存在しているのであり。従ってダークハウンドは、90年代ガンダムのデザインセンスの流れを正当に受け継いだ代表でもあるのです。
AGEシステムの影響下からはずれた異端のガンダムであるダークハウンドは、以上のように歴代作品における「異端のガンダム」のデザインをすべて引き受けた末裔として、キオとフリットの前に現れたのでした。
……と、いうわけで。
とてもとても長くなってしまいましたが、ガンダムAGEの世界に「宇宙海賊」が現れなければならない必然性を、少しは感じていただけましたでしょうか。
回りくどい段取りで申し訳ないですが、以上を踏まえた上で、劇中キャラクターたちの動きを追って行きたいと思います。長くなりますので、次回詳しく見ていく事にしましょう。
今回はこれにて、一回切ります。
※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。