Auguste de Villiers de L'Isle−Adam(1838−1889) フランスの小説家・詩人。 フルネームは「ジャン・マリ・マティヤス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン」。 ブルターニュの由緒正しい家柄に生まれるも、赤貧洗うが如き生涯を送る。その作品は壮麗な文体と近代社会に対するシニカルな目線によって描かれ、作者の反俗孤高の精神を反映している。 また、長編小説『未来のイヴ』において、史上初めて「アンドロイド」という言葉を登場させた人物でもある。
巴里に来て十日が経つ。本日のミサ曲はキリアーレから第12番Pater Cuncta(万物の父)が歌われた。サンクトゥスの抑揚が美くしい。これが歌われるミサに与った事のある現代日本人は、恐らく私だけだろう。 私はメトロを降り、メニルモンタン通りからペール・ラシェーズ墓地に入った。ショパン、ドラクロワ、プルースト、名だたる芸術家が眠るこの苑に、ヴィリエ・ド・リラダンの奥津城はある。 内苑に入ると欅並木。木の葉の色づく晩秋に来たらさぞ美くしいだろう。リラダンの墓は79区、地所北東の奥地にある事は査べた(当然ながら案内はない)。石畳の坂道をゆっくりと、十分程歩く。 それは通り沿いにあった。途中、幾星霜…
この齢になつて甲斐もなく仏語学校に通つてゐる。齢二十五で斯う云ふと失笑を買はれるだらうが、若さの可能性を知るのは年を取つてからだし、抑々臆病な自尊心で身動きの取れぬ青年など、老人と大して変はる所がない。 話が逸れた。今日とて仏語の勉強のため図書館を訪れた。エレベーターを待つ間、ふと掲示されてゐるパンフレットを見た。表紙に『イザボー』とある。イザボー、どこかで聴いた名だと思ひ暫く記憶を辿つてゐると、果たしてヴィリエ・ド・リラダンに、彼女を題材とした短篇があつた。 イザボー・ド・バヴィエールはシャルル六世王(1368-1422)の妃。シャルル七世王(1403-61)の母。彼女の美貌は史家のなべて認…
雨。過し易い気温。 カルミーナの革靴を買ひ、手入れとトゥスチールの埋込みを依頼する間、上野の国立西洋美術館まで出掛けた。目的は「ブルターニュ展」。 国内のコレクションが殆どで、大した展示ではなかつたけれど、行かぬよりは行つて良かつた。数々の書物より我が脳裡に描きしブルターニュの情景。それの答え合わせみたいなものだつた。シャルル・コッテなる画家(ポスト印象派、バンド・ノワールに組する)の描くブルターニュ女の装ひが特別記憶に残つてゐる。 今回の企画展に関係なく、私は予てよりブルターニュに好意を寄せてゐる。信仰に篤く熱心な王党派。ケルトの戦闘的精神を引継ぎ、「不名誉よりも死を」をモットーとする誇り高…
晴れ。長期休暇の初日。 駒場の前田侯爵邸の敷地内にある日本近代文学館に出掛ける。『ヴィリエ・ド・リラダン移入飜譯文獻書誌』の閲覧が目的である。CiNiiで検索したのであるが、公の図書館には一切所蔵がなかった。斯様に貴重な一册が、何故この文学館にあるのか。著者の小野夕馥氏が書誌編纂のために此処をよく利用していた為だそう。本に謹呈文が挟まっていた。 この書誌の中に、「斎藤磯雄とカトリシズム」という文献を見つけた。二人の学者の対談を記録したものである。面白いエピソードを幾つか読んだ。 ・齋藤磯雄氏には20歳程年の離れた長兄が居り、長兄は帝国大学で学んでいたが、病で帰郷。無教会派のクリスチャンであった…
幾度目かの再読。 人の世の否定。須臾の裡に楼閣は崩れ、肉は腐り、思想は消え失せる。だから「非創造・実在≪つくられずしてあるもの≫」の裡に遁れ去れ。本作に於る教役者は斯く唱える。だがサラとアクセルはこの理想を抛棄する。「黄金の夢」が、「青春」が、彼等を呼んだからだ。 ヴィリエは、現世の徒事を蔑して「絶対的なもの」を欣求する人物を諸作品に登場させる。『トリビュラ・ボノメ』のクレエル然り、『至上の愛』のリジヤーヌ然り。そして、此等人物の語る所を、他の思想に優越させる。 「絶対的なもの」、人々はこれを「神」と呼ぶ。だが「神」とは何者か? 「天地の創造主、全能の父」と呼ぶのが人間に能う限界である。だがヴ…
J’ai combattu le bon combat. Saint Paul. 1883年3月7日に没したフランスのジャーナリスト、ルイ・ヴイヨ(Louis Veuillot)を悼む趣旨で、4月19日付のル・フィガロ誌上に発表された記事。その後『奇談集(Histoires insolites)』に短篇小説として所収。 短篇小説と述べたが、その実はルポルタージュに近い。ヴィリエは1862年、『イシス』上梓から間もなくソレーム修道院に3週間滞在している。「考古学上の調査研究のため」と本作には記載があるが、事実は、高級娼婦(demi-mondaine)と思しきルイーズ・ディオネ夫人(Mme. Lo…
ダートル伯爵は鍾愛の妻ヴェラの死を全智にかけて否定し、全く妻の死を意識せざる境地に生活する。神秘的な夢に身を捧げる彼の強い意志は、夫人をして常世より立戻らせた。だが彼が妻の死を自覚した刹那、あなやすべての幻影は空中に紛れ、姿を隠してしまった。己の孤獨を悟り悲観する彼の傍、何かが音を立てて落ちる。それが何であるかを認めた時、彼は「崇高な微笑」でその顔を耀かした。「それは墓場の鍵であった」。 この「鍵」は、ダートルがヴェラを墓所に葬った後、二度とこの場所を訪れまいとする決意から墓の内部に擲った、墓所の鍵である。そしてヴェラが甦った際、彼女が眠る柩の近く石畳の上に認めたのも同様の鍵である。ヴェラはこ…
ヴィリエ・ド・リラダンは1861年3月『タンホイザー』のパリ初演を見て感嘆したと書き残している。また同年5月には、ボードレールの仲介によりリヒャルト・ワーグナー(当時50歳)の知己を得た。ヴィリエはワーグナーを深く畏敬し、又作曲家もこの若き天才を愛したという。 「回想」は1868年の秋、ヴィリエが30歳の年に、カチュール・マンデス(Catulle Mendès)・ジュディット・ゴーティエ(Judith Gautier)夫妻と偕に、ルツェルン・トリープシェンのワグナー邸を訪ねた際の追憶を記したものである。 この面会、ヴィリエが『反逆』を諳んじ披露してみせたという伝説の面会に於て、ヴィリエはワーグ…
1855年家族に伴われパリに出京する機会を得たヴィリエは、Café de l'Ambiguでルメルシエ・ド・ヌヴィルら文学青年との交流を始める。劇作家として身を立てるべく運動をしたようだが叶わなかった。翌年失意の裡に帰郷する。 ヴィリエは憂鬱にサン・ブリューで文筆活動を続けていた。父ジョゼフは息子の精神状態を案じてソレムへ送る計画を立てたようだが、結局は1858年、若き法律家アメデ・ル・メナン・デ・シェネーと偕に、レンヌに程近きモンフォールへと静養に向わせた。 ヴィリエは牧歌的環境の中で詩作に励む。1858年には個人制作の小詩集Deux essais de poésiesを残しているが文字通り…
新宿のカフェで、年端のゆかぬ、それこそ十五にも満たぬ少女らが、楽しそうに援助交際の話をしているのを偶然耳にして以来、心緒が絲の如く乱れている。現代社会の陥っている頽廃の異常な深さに、私は絶望しそうだ。 ベネディクト16世は回勅でこう述べられた。 人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです。 彼女らが何を介してでも可い、イエズス・キリストと出会えるよう、聖霊よ取り計らってください。 とんだ前置きであった、本題に入ろう。 ヴィリエは17歳の頃、故郷のブルターニュ、レンヌ…