九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)
1587年、豊臣秀吉と島津義久との間の戦い。四国を制圧した秀吉は、大友宗麟に救援を求められ、これに応じるという名分で九州への救援軍派遣を決めた。島津に降伏を促すが、義久はこれを一蹴。総勢20万ともいわれる秀吉軍の前に、義久は敗退をつづけ降伏した。これにより秀吉は九州全土を支配下におさめた。
【淡海乃海 第12巻 あらすじ・特典収録、ネタバレなしでご紹介】 足利義昭は幕府と島津の陰謀で亡くなってしまう。朽木基綱は、陰謀の首謀者「島津」を討つべく九州へ軍を向ける。 題名:淡海乃海 三英傑に嫌われた男、朽木基綱の逆襲 第12巻 著者 : イスラーフィール 絵 : 碧風羽 あらすじ:足利義昭が幕臣・島津の陰謀で亡くなった事で、朽木基綱の新たな幕府を開く事に支障が無くなる事となった。基綱は幕府のトップであり空位となった征夷大将軍に就任する事なく、朝廷の最高職「大政大臣」として足利の様な私欲のない天下のための政府を作る事とした。 だが、基綱には大政大臣就任の前に一つやる事がある。 足利義昭が…
歴史には運命の不思議がある。運命の皮肉もある。それぞれの運命の糸が紡がれていく。 豊後大友吉統、土佐長宗我部元親、薩摩島津義弘、伊予来島通総については後述するとして、まずは豊後佐伯地方を治めた佐伯氏とその後の毛利氏を見る。豊後大神姓佐伯氏の四百年の幕引きをした最期の当主佐伯惟定、その後の佐伯地方の領主であり270年の治世への佐伯藩祖毛利高政、両者の間に運命の不思議がある。 高政が豊後日田から佐伯に転封してきた時には既に惟定は去っていて互いの邂逅は無い。それまでに両者が出会う機会があったとすれば、唯一、文禄慶長の役においてであろう。 高政は遠く尾張に生まれ18歳の時に秀吉の近習となり、やがて播磨…
これほどまでに自国を他国に蹂躙された例を知らない。1586年の島津氏による豊後進攻である。 下図は島津の豊後進攻直前の豊後領国内の攻城戦に向けた主要な武将の配置図である。島津のその支配勢力地からの膨大な調達兵力(約40,000人)に比較し、大友には既に籠城戦以外の選択肢は残されていなかったと言わざるを得ない。野外決戦をやれるほどの兵力の結集も出来ず、仮にあったとしても大軍を指揮出来る武将も不足していたということである。それぞれの居城も精々500~1,000人程度の寡兵である。大友宗麟の臼杵・丹生城にも2,000人しか結集出来ていない。よって宗麟はなり振り構わず秀吉に支援を求めたのである。だが、…
薩長土肥という。倒幕雄藩である。いずれも徳川への恨みは深い。ただ肥前と土佐は少々背景を異にする。幸いにも徳川治世の260年間、いずれの家も改易、転封を受けていない。一所で力を蓄えるに十分過ぎる歳月である。薩摩と長州には徳川に対等の意識が強い。かつ関ケ原の処断への恨みもある。肥前はさほどの徳川への怨念は無いが在地豪族として独善的な竜造寺隆信への在地領主の反目を結集し肥前をまとめあげ、秀吉、家康に対して巧妙に与した自力生存の矜持がある。忠節を尽くす謂われはない。土佐は何と言っても長宗我部の怨念である。その郷士の魂の叫びである。入国した山内氏の力量ではない。 さて本題である。豊後もこれに加わる可能性…
そう言いたい訳がある。豊後は何故にかように小国分立の他国の耳目を集めることの無い地域になってしまったのか。 江戸時代の豊後の各大名領地 いざという時にこの国を動かす出力を備え得る国でいたか否かという事である。幕末の長州や薩摩や会津や長岡や、そういったこの国の政治に影響を与え得る力量を蓄える国でいたか否かという事である。それは人作りにも影響を及ばさぬ筈がない。何しろ豊後の地勢はあの薩摩よりはるかにいいのである。 そこそこの国力を持つためにはある程度の領国の規模が必要になる。大友改易後、42万石の大藩が豊後内には最大藩の岡藩でも7万石まで縮小してしまった。これでは大した事は出来ない、という事になる…
四国を統一した長宗我部家累代の居城。 長宗我部氏は、蘇我氏の部民である宗我部の末裔という説もあるが、一般的には、秦の始皇帝や、ローマである大秦、秦韓国がルーツという伝承を持つ渡来系の秦氏の末裔といわれる。 長宗我部氏の直接の祖は、聖徳太子の時代に活躍した秦河勝で、河勝はその功によって信濃に所領を得、その子孫が信濃に広がって豪族となった。長宗我部氏の祖もこのような豪族のひとつで、初代能俊が信濃から土佐へ入部し、地名から宗我部を名乗ったという。 ただ、この入部に関しては、平安時代末期に土佐国司として入部したという説から、承久3年(1221)の承久の乱の功によって地頭として入部したという説まで、時代…
中世に伊予守護職として、中予を支配していた河野氏の居城、湯築城に関する資料館。平成14年(2002)4月12日の開館。 松山の城といえば、松山城が真っ先に思い浮かぶが、中世の松山一帯を支配していた河野氏は、道後温泉にほど近い道後公園にあった湯築城を、250年もの間、本拠としていた。つまり、当時は湯築城が守護所であり、伊予の中心だったのである。 しかし、河野氏は、戦国時代を生き残る事ができず、秀吉が発した天正13年(1585)の四国征伐の軍に開城降伏し、豪族としての河野氏は滅んだ。 湯築城は、2年後の九州征伐後に入部した福島正則が、一旦は入城したものの、すぐ国分山城へ移ったために廃城となり、以降…
伊予の名族、河野氏の累代の居城。 河野氏は、古代氏族越智氏の流れといわれる。越智氏は、孝霊天皇の末裔という説や饒速日命を祖とする物部氏の分かれという説があるが、孝霊天皇は第7代という天皇家草創の頃の人物で、饒速日命も日本書紀や古事記に載っている人物であり、もはや出自は伝説に近い。 どうやら、瀬戸内や伊予に勢力を持っていた国造家の流れが越智氏であるようで、河野氏も、玉澄の時に、西に海が開けた伊予国風早郡河野郷に住み、河野を称したのが始まりという。 河野氏が歴史上に登場するのは、天慶4年(941)に制圧された藤原純友の乱の時で、河野好方という人物が見える。純友を捕えたのが、越智氏の流れとされる伊予…
天守の現存する12城の内のひとつで、日本三大連立式平山城にも数えられる城。 現在の松山市街地は、中世は伊予守護の河野氏の本拠地で、道後温泉近くの湯築城がその居城であった。その城跡は道後公園となっているが、松山城からもはっきり確認できるほど近い。その頃、松山城のある山は、勝山や味酒山と呼ばれていたが、この近さから、南北朝時代に湯築城攻撃の陣が張られたこともあったという。 天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で河野氏が没落した後、伊予は小早川隆景に与えられたが、2年後の九州征伐の後に隆景が筑前へ移されると、南の松前城に栗野秀用が入り、秀用が文禄4年(15959)に豊臣秀次に連座して改易となっ…
信仰と庭園~歴史のかなたに消えた「英彦山大権現」 ここは英彦山神社よりも少し下山した場所にある、「英彦山大権現」という庭園であり信仰のための聖地でもあります。 今の時期は紅葉がとても美しく、きれいに整備された庭園にはとても映えます。春には桜、そしてツツジ、シャクナゲと季節の花を咲かせては人々を魅了しています。そして同時に信仰の場でもあり、ありがたく立派な観音様や神様の像が立ち並んでいます。 いろんな願い事や、厄除けなど、信仰にあつい方々が訪れます。 入場料や駐車料金はありません。基本的に無人です。 信仰と庭園~歴史のかなたに消えた「英彦山大権現」 「英彦山大権現」の由来 英彦山と天狗 「天狗の…
松前城城址碑 松前はマツマエではなくマサキと読み、正木城や柾木城とも書く。 松前城の築城年代は不明だが、平安時代には定善寺があり、その境内に設けられた砦がその最初という。 史料に最初に現れるのは、建武3年(1336)の「祝安親軍忠状」で、南朝方に属した合田貞遠の籠る城を安親が攻略したとある。 城はその後、湊川の合戦において楠木正成の腹を切らせた者と呼ばれるほどの大功を挙げた大森彦七が城主となり、後に河野十八将の筆頭に数えられた平岡氏の先祖も在城した。応安元年(1368)には、九州へ転戦していた河野通堯(通直)が豊前から上陸して北朝方の宍草出羽守が守っていた松前城を攻略しているが、以降も城主の変…
唐子浜の正面にある急峻な唐子山にある城で、国分城や府中城とも呼ばれる。 国分山城が築城された時期は明確でなく、南北朝時代の頃であるという。ただ、伊予国府から近いという地勢的な条件や、手頃な標高というのを考えると、それ以前から、国府を守護する砦や有事の際の詰城といった機能が置かれていても不思議ではなく、防御施設という意味では、城の歴史がもう少し遡る可能性があるのかもしれない。 南北朝時代初期の頃の国分山城周辺では、興国3年(1342)に、南朝方の武将で新田義貞の弟でもある脇屋義助が伊予国府に進出し、急に発病して病死するということがあった。 その義助の墓が、城からほど近い国分寺辺りにあることや、新…
戦国時代末期に南伊予を領していた西園寺氏の居城。 西園寺氏は、藤原氏の北家閑院流で、一門庶流の多さから居館の位置や役職によって一条氏や九条氏と呼ばれたように、現在の金閣寺付近の位置に西園寺という寺を造営したことから、西園寺と呼ばれた一族である。地方の豪族は、本貫の地名を名字とした豪族が多いが、そういう意味では、やや性格を異にする豪族と言えるだろうか。 前述にあるように、家名の元となる西園寺を造営し、西園寺殿と呼ばれたのは、藤原公経の時で、公経は頼朝と姻族であったため、承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇に幽閉されたものの、乱後は鎌倉幕府の影響力を背景に、朝廷で重きをなした。 一方、この…
海際の鷲尾山にある城で、仏法寺の仏堂を取り込んで築かれたため、仏殿城ともいう。 川之江城の築城は南北朝時代で、延元2年(1337)のことである。当時の伊予守護である河野通盛は、阿波や讃岐の細川氏に対する防衛拠点を欲しており、伊予の東口であるこの川之江が適地であった。 通盛の命で実際に城を築いたのは家臣土肥義昌で、そのまま防衛の任に就いたが、興国3年(1342)の細川頼春の攻撃で落城し、頼春の他国への転戦の隙を衝いて通盛が奪回している。その後、頼春の子頼之が正平19年(1364)9月に奪い返し、通盛の子通朝を世田城で敗死に追い込むのだが、頼之の上京を機に通朝の子通堯(通直)が九州から戻って同24…
源 頼朝 の生涯を関連する事項とともに年表にした 関連項目 参考 源頼朝の生涯の年表 1107年 (嘉承2年) 7月 鳥羽天皇 即位 (5歳) 1118年(永久6年) 1月 平 清盛 誕生 1123年(保安4年) ) 2月 崇徳天皇 即位 (5歳) 1123年 (保安4年) 源義朝 誕生 1127年 (大治2年) 10月 後白河天皇 誕生 1127年 (大治2年) 三浦 義澄 誕生 1128年 (大治3年) 9月 武田 信義 誕生 1138年 (保延4年) 北条 時政 誕生 1138年 (保延4年) 平 重盛 誕生 1139年 (保延5年) 平 基盛 誕生 1141年 (永治元年) 源 行家 …
大除城解説板 敵を大いに払い除くという意から命名されたという山城。 大除城の築城年代は不明だが、愛媛県史では、久万山に跋扈した久万出雲入道を大野通繁・綱直兄弟が平定した、寛正5年(1464)前後と推測しており、この久万入道が築城したとの庄屋記録があるという。 久万入道の争乱が平定された後、久万入道が領していた3百貫の土地が兄弟に与えられ、大除城に入城したという説もあるが、城の動向ははっきりとせず、大野氏が平定後に城を保持したのかは不明である。また、別の説として、中伊予の領主であった河野氏が、文亀元年(1501)前後に土佐の一条氏に備えて築き、大野氏を城主に据えたともいう。 この大野氏は、系図類…
大洲城の前身は地蔵ヶ嶽城といい、大洲の字に定まるまでは、大津城とも書かれていた。 築城は、豊前の宇都宮頼房の子豊房が伊予守護に補され、元徳3年(1331)に入国して地蔵ヶ嶽に城を築いたのが最初という。 ただ、伊予守護職は、承久3年(1221)の承久の乱後に宇都宮氏が得ていることから、豊房が最初に就いたものではなく、また、同時代の伊予守護として、今治の府中にあった宇都宮一族の狩野貞宗の名が「栃木県史」などに見えているほか、伊予国内の鎌倉時代の物にも宇都宮氏の名が散見されることから、鎌倉時代までは、宇都宮宗家が下野や豊後の領地と共に、一族を派遣して一体的に領地運営していたようだ。 伊予に入部して来…
天守の現存する12城の内のひとつ。 宇和島城の築城時期は、はっきりと判っていないが、伝承では、天慶2年(939)末から同4年にかけての藤原純友の乱の際、伊予国警固使だった橘遠保が、砦を構えたのが最初という。その後の伊予国宇和地方は、遠保の活躍もあって代々伊予橘氏が勢力を扶養していた。 鎌倉時代に入ると、中央では、現在の金閣寺辺りに西園寺という寺を造営して西園寺殿と呼ばれるようになった藤原公経が、頼朝と姻族であったために承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇に幽閉されたものの、叛乱の情報を鎌倉幕府に伝えたことから、乱の鎮圧後は朝廷で重きを成すようになる。その公経が、宇和地方を所望したことから…
jQuery(function($){ $("#marubatsu").DataTable( { paging: true, // falseにすると全データが表示されて、ページ切替が表示されなくなります。 "pageLength": 100, "lengthMenu": [ [100, 200, 500, 1000, -1], [100, 200, 500, 1000, "全件"]], lengthChange: true, // falseにすると左上のShowが表示されません。 searching: true, // falseにすると検索ボックスが表示されません。 ordering: …
宇喜多氏を「 NHK 大河ドラマ 」にする場合、『 秀家 』を 『直家の後継者:秀家 』とするか『 羽柴備前中納言秀家 』のどちらにするかで 立ち位置は大きく変わると思います。 『古今武家盛衰記』によれば、宇喜多直家は容姿端麗にして知勇に優れていたという。 また、母「お福(円融院)」も絶世の美女であったと言われる。 当然その子、「 秀家 」はイケメンだったと言われます。 宇喜多直家が死に際に羽柴秀吉に託したお陰で(あるいは母が秀吉の側室になったお陰 で)秀吉の猶子(相続権のない養子)となり、また『 宇喜多騒動 』を起こし 直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去するともあり、 「も…