建武3年(1336年)建武の新政にそむいた足利尊氏が京都にはいり,持明院統の光明天皇をたて北朝を開いたのに対し、大覚寺統の後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝を開いた。そして明徳3年(1392年)吉野の後亀山天皇は将軍足利義満のすすめで京都に帰り,北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が行われた。この期間における、南朝北朝の対立を背景とした全国の武家、荘園の争い。 この時期を南北朝時代というが、室町時代とも重なっている。
吉野に篭った南朝側の皇居は平安京などとは比較にならない粗末なものだった。にも関わらず長引いたのは南朝側に付く武士が少なくなかったためである。武士の相続法が惣領制から単独相続制に変わってくると各地で一族間の相続争いが勃発しそれぞれが大義名分に北朝側、南朝側と分かれて争うことがあった。 また、北朝側も足利尊氏派、足利直義派に分裂してしまった。これが武力対決に至ったのが観応の擾乱である。この乱の最中、一時的ではあるが尊氏は南朝に降伏している(正平一統)。
tougoku-kenki.hatenablog.com tougoku-kenki.hatenablog.com 他の戦傷との同じ基準での比較をできるようにするために、以前まとめた上述の南北朝時代の石傷と打傷について、今進めている【南北朝負傷統計を見直す】準拠の形で整え直すことにしました。種別としては「石傷打傷」として通し番号は石の頭文字からIとし、I01、I02と年月日順に並べ通し番号を付け直します。新規追加はI05の分くらいなので、以前の記事を読まれた方にとっては新情報もほとんどない記事となります。あくまで他と形式を統一することが目的です。 逆にこの記事で初めて南北朝時代の石傷と打傷に触…
注:本論における防御施設/設備の使い分け、戦傷の統計は死因の統計ではないこと、『太平記』の扱いなどについては事前注釈をご覧ください。 【戦国負傷統計を見直す】の補助に使う目的で軍忠状・手負注文などから南北朝時代の負傷も調べていましたが、【戦国負傷統計を見直す・補】南北朝時代の石の負傷記録は攻城戦のものばかりで数も多くはないことの確認 で扱った以外の負傷(槍傷突傷・切傷・矢傷)も大体先行研究の水準に届く程度の数が集まりましたので、種別が確認できた受傷例について必要な部分をタイプし、【南北朝負傷統計を見直す】として成果発表していくこととしました。 負傷統計の数字ばかりではなくその中身を見ていくこと…
こんばんわー 今回の京博の特別展は「観心寺と金剛寺」~真言密教と南朝の遺産~です! ここのところすっかり仏像にハマってしまった私ですが^^;今回も国宝の仏像をはじめとするお宝ザクザクの展示に、心躍らせての拝観です(^^) 大阪南部の河内長野市は、京から高野山に至る街道の合流地点として栄え、観心寺と金剛寺という真言密教の古寺がありこの地域の信仰文化の中心を担ってきました。 観心寺においては役小角開創として伝わるという事で、先日参拝した「室生寺」と同じですね。近畿に住んで以来、あちこちの寺社を巡ってきましたが、少しづつですがちょっとした繋がりが自分の中に形成されてきたり、そうした部分に自身で気が付…
河村城跡に行ってきました。前からあるのは知ってましたが何なんだろうなって思ってました。 山北町を支配した河村氏という氏族のお城らしい。彼らの話が記録に出てくるのは二度ほどです。その二度目にこのお城が出てきます。ときは南北朝のころ。南朝についた河村氏は新田義貞の子孫とこの山の上に立てこもったらしいです。 堀があちこちにめぐらされていて、橋が必要です。 橋を渡ってみると広いです。 本丸あと。鹿のふんが点々とありました 思った以上の広さです。どうやら村人すべてと立てこもったようです。 貯蔵蔵のあとがあり穀物とかも発掘されたみたいです。城の入り口に井戸もあったようで現地のひとが農業されていました。家畜…
花粉の事や人込みを避けてなんか考えてて、足早に通り過ぎてくサクラに追いつけなくて慌て気味の「京都東山お花見」の途中で「後二条天皇北白河陵」。 吉田神社北参道から今出川通に出た処に「後二条天皇北白河陵」、境内の砂利を均してる人が居たのでお話をお聞きすると宮内庁職員だそうです。 後二条天皇と云うと後醍醐天皇の異母兄、大覚寺統と持明院統 両統迭立天皇の原則が崩壊寸前、南北朝の騒乱が始まる直前の大覚寺統最後の天皇とも云える天皇で、大覚寺統はその後異母弟の後醍醐天皇によって南朝として継続、日本は南北両朝並立の分裂王朝時代を迎えます。 ランキング参加中京都 ランキング参加中神社仏閣・古墳・歴史的建造物めぐ…