南北朝の動乱

南北朝の動乱

(一般)
なんぼくちょうのどうらん

建武3年(1336年)建武の新政にそむいた足利尊氏が京都にはいり,持明院統の光明天皇をたて北朝を開いたのに対し、大覚寺統の後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝を開いた。そして明徳3年(1392年)吉野の後亀山天皇は将軍足利義満のすすめで京都に帰り,北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が行われた。この期間における、南朝北朝の対立を背景とした全国の武家、荘園の争い。
この時期を南北朝時代というが、室町時代とも重なっている。

南北朝の動乱が長引いた背景

吉野に篭った南朝側の皇居は平安京などとは比較にならない粗末なものだった。にも関わらず長引いたのは南朝側に付く武士が少なくなかったためである。武士の相続法が惣領制から単独相続制に変わってくると各地で一族間の相続争いが勃発しそれぞれが大義名分に北朝側、南朝側と分かれて争うことがあった。
また、北朝側も足利尊氏派、足利直義派に分裂してしまった。これが武力対決に至ったのが観応の擾乱である。この乱の最中、一時的ではあるが尊氏は南朝に降伏している(正平一統)。

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