宮城県にある町。
黒川郡大和町
東北自動車道
大和IC
大日本帝国海軍大和型戦艦一番艦、大和のこと。
46センチ砲を9門もち史上最高の打撃力を誇る。しかし、すでに完成したときには航空機の発達により戦艦の存在意義そのものが薄れてきており、大鑑巨砲主義は時節を逸した存在となっていた。
その性能を発揮できる戦場を得ることのないまま、1945年4月6日、菊水一号作戦で沖縄に向け出撃。翌日鹿児島県坊津沖でアメリカ機動部隊によって撃沈される。
呉海事歴史科学館「大和ミュージアム」において1/10模型を展示。
http://www4.ocn.ne.jp/~kureship/
球状艦首(バルバス・バウ)の採用
艦首が水を切ることにより出来る波に球状艦首で起きた波が干渉し、造波抵抗を減衰させる働きを持つ。これを採用する事で、排水量換算で6,000t程度船体を短くできた。
同時期に設計された瑞鶴型と大きさがかなり異なるが、これは瑞鶴型が34ノット、大和型が28ノットにおいて造波抵抗が最小になるよう最適化されているためである。
独特の舵構成
通常の2枚舵は平行に設置されているが、これでは戦艦ビスマルクのように魚雷1発の被弾で操舵不能に陥る可能性が高い。これを避けるため大和型は艦の中心線上に前後に充分な間隔を開けて主舵と副舵を設置した。しかし実際には主舵が使用不能に到った場合、副舵だけで操舵するのはかなり困難だったという。
運動性能
大和型は巨大でずんぐりした船体からは想像もつかない程、良好な運動性能を発揮した。レイテ沖海戦で森下艦長の操船する大和は米軍機の投下する魚雷、爆弾の多くをかわす事に成功している。しかしその旋回性能は設計時の予定を下回るものであった。
最上甲板
最上甲板を真横から見ると、第一主砲塔前を底とするなだらかな波型をしているのが見てとれる。これは艦上構造物で最も重量のある砲塔の位置を下げ、艦首部に大きなシア(甲板の反り)をつけることで、艦の重心を降下と良好な凌波性という相反する性質を上手く両立させている。
口径46センチの世界最大最強の三連装主砲3基9門を搭載
パナマ運河の往来に艦艇の幅を制限されたアメリカ海軍は、構造的に40センチ超砲を搭載しつつ装甲のバランスをとれた艦艇を建造できず、大和はそれらに対して破壊力・射程共に圧倒的優位に立てると期待された。主砲の最大射程は40000メートル以上で、初速810m/秒(時速2808キロ)で目標めがけて飛んでいく。大和は敵戦艦に向けて主砲を発射したことはないが、もし砲撃戦になっていた場合各国のいかなる戦艦にも致命傷を与える事が出来たと言われている。
九一式徹甲弾
日本軍の秘密兵器。敵艦の手前で海中に落下した場合でも、魚雷のように海中を直進し敵艦に当たるように出来てい る。これは未成戦艦土佐を使った実験により発見された水中弾効果を利用したものである。
爆風対策
46cm主砲発砲時の風圧は、艦上にいる人間や搭載する航空機に対し甚大な被害を与えると予想され、その対策が実施された。
シェルター付き高角砲、機関砲
カタパルトと航空機格納庫
大和型戦艦は主砲発砲時の爆風対策として、英・独・仏の戦艦と同様に航空機格納庫を有し、6~7機の水上機が搭載可能だった。
艦載艇の設置場所として、甲板上を避け、艦内に通船格納庫を設けた。
巨大な冷却機とそれを利用した冷蔵庫
大和はその巨砲相応に巨大な弾庫、火薬庫を持つため、その冷却用に大出力の冷却機を搭載していた。この余力を使用し、冷蔵庫や艦内空調を行っている。(兵員あたりの居住面積の広さと相まって、また、アジア・太平洋戦争において主要な戦闘に参加できないにも拘らず他艦に比べよりよい居住性を誇っていたことから、大和ホテルや武蔵屋旅館と呼ばれていた。)
条約型巡洋艦、駆逐艦などの突撃に対処できるように、15.5cm砲を9門片舷に指向できる配置となっている。この副砲は対空射撃には有効とは言い難く、副砲を全廃して両用砲に転換したノースカロライナ型やキングジョージ五世型の方が設計に先進性があった。また、主砲塔直後に配置された副砲は大和型の防御の一大欠点である。副砲塔は弾片防御程度の装甲しか施されておらず、爆弾や大角度の落下砲弾がここに命中した場合、砲爆弾は容易に副砲弾庫に達して炸裂し、これが直ちに主砲弾火薬庫を誘爆させて轟沈する可能性を秘めていた。手直し程度の改善はあったものの、この欠点は最後まで解消されなかった。あきらかに両舷への指向が可能という利点にこだわりすぎた設計のまずさであった。
性能
軽巡洋艦最上が重巡洋艦に改装される際に撤去された主砲を流用した砲であるが、戦艦の副砲としては世界最大で破壊力・射程共に最高であった。対空射撃も一応可能。二・三番副砲塔は後に撤去され、12.7cm連装高角砲6基に取り替えられた。
注)良く「砲塔を流用」と書かれているがこれは間違いで、砲塔そのものは大和型用に新造されている。
集中防御
大和型戦艦は一般には未曾有の巨大な戦艦というイメージが濃いが、世界最大の装備と防御力を持つわりには小さく作られた艦である。
八八艦隊の主要艦の設計者である平賀造船官の防禦思想を受け継ぎ、重要防禦区画(ヴァイタルパート)をできるだけ小さくするという基本理念で設計されている。これはアメリカのサウスダコタ級やフランスのダンケルク級と同じ設計思想で、横から見たシルエットは前者に、内部構造は後者にかなり似ている。その設計思想によりヴァイタルパートは全長の60%に抑制され、防御の冗長化を回避している。重要防禦区画の防御力は自身の46cm砲に耐え得るものとされた。
米国のアイオワ級、モンタナ級(未成)、英国のヴァンガードなどは推進軸4軸のうち内側と外側の各2軸に対応する機関室とタービンを各々前後に分離するシフト配置を採用し、大被害を受けた時にも航海能力を失わないように配慮されている。そのため少し間を置いた直立二本煙突を有し、その周囲に巨大な艦上構造物が積み上げられており視認性、被弾率、小型軽量化と言う点では一歩譲る。また、マレー沖海戦のプリンスオブウェールズのように内側推進軸にダメージを負った場合、長大な推進軸にそって大量の浸水が発生する事もあるため、この両者の構想のどちらが優位であるかは、おおいに議論のあるところである。
装甲
大和型戦艦の船体は、舷側上部410mmVH甲鉄、舷側下部50mm〜200mmNVNC甲鉄、甲板200mmMNC甲鉄で覆われていた。また砲塔は最大640mmVH甲鉄で覆われている。当時の軍艦としてはもっとも強固ものである。
集合煙突の採用
前項の小型化成功の一因には、煙突を傾斜させて一本にまとめた集合煙突の採用がある。
もっとも、集合煙突は排煙能力が低く、缶に強制排煙装置を設置しなければならなかったため、日本とフランス海軍以外はあまり採用には熱心でなかった事は併記しておくべきであろう。
水線下甲鉄の採用
従来水線下は砲弾による損害の少ない部分と言われてきたが、未成戦艦土佐を使った実験により、砲弾による水線下の被害が大きいことが予想された。そこで大和型は重要部分の通常の水線甲鉄の下に50mm〜200mmの装甲を艦底まで実装している。
煙路防御
蜂の巣状に8mmの穴をあけた厚さ38cmの蜂の巣装甲板を煙突内部、装甲甲板の高さに設置することで、それまで不可能とされた煙路の防御を可能にした。
注)煙突の装甲化自体は世界的に長門型と同世代の戦艦から行われている。
独特な機関配置
各ボイラーが1基ずつ防水区画を持つという、他に例をみない独特の配置をしている。これは一つの罐が損害を被っても、他の罐に損害をあたえないために一基一室としたためである。
建造費は当時の価格で1億3780万円。現在の価値で東海道新幹線の建設金額にほぼ等しいとされる。
木甲板
当時の一般的艦艇と同じく、海水に浸っても腐りにくいチーク材が使用された。
大和は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠にて起工。スパイを警戒しドックには屋根が付けられ、建造に携わる者の造船所からの出入りは厳しく制限された。
1940年8月8日進水し、1941年12月16日竣工。
1942年2月12日連合艦隊旗艦となる。
5月29日ミッドウェイ海戦に参加。
1943年2月11日、連合艦隊旗艦を武蔵に移す。
12月25日、トラック島北方で米潜水艦スケートの雷撃を受け魚雷1本を3番主砲右舷に被雷。浸水が発生した。
1944年6月15日、マリアナ沖海戦(あ号作戦)に参加。
10月22日、ブルネイ出撃。レイテ沖海戦(捷一号作戦)に参加。アメリカ軍上陸船団の撃破を目指し出撃。
10月23日、旗艦の重巡洋艦愛宕が沈没、旗艦が大和に移る。
10月24日、レイテ沖海戦のひとつ、シブヤン海海戦にて敵機の攻撃を受け爆弾数発が命中。
10月25日、レイテ沖海戦のひとつであるサマール沖海戦にてはじめて敵艦に主砲弾を104発発射。護衛空母ガンビアベイと大和に突入しようとした駆逐艦一隻を撃沈。レイテ湾の入り口まで来たが、第二艦隊司令栗田中将は何故か突入指示を出さず一発も発射しないまま引き返している。
1945年4月6日、米軍に上陸された沖縄支援の名目の元、数隻の随伴艦(軽巡洋艦矢矧、駆逐艦雪風など)と共に山口県徳山湾沖より出撃(天一号作戦(菊水作戦))。
この作戦は東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる陸上砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入する捨て身の作戦であったというが、米軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能であることは、作戦立案時点で認識されており、事実上の特攻作戦でしかなかった。
しかも戦争末期には日本軍の暗号は米軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦に行動を察知される。当初、米機動部隊司令官スプルーアンスは戦艦による迎撃を考えていたが、大和が西進し続けたため裏日本に退避すると思い、航空攻撃を命じてしまった。偽装進路をとらず、沖縄に直進していたら世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていたであろうことは想像に難くない。
4月7日14時23分に、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点で米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)の猛攻を受ける。10本余りの魚雷と7発程度の爆弾を受けた大和は船体が傾斜し総員退艦命令が出される。その後横転し弾薬庫が大爆発、船体は真っ二つに折れ海に沈んだ。
同型艦の「武蔵」がシブヤン海で魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本を除いては全て左舷に集中したためである。米国航空隊は武蔵撃沈で手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をなぎ払った後、魚雷を集中させると言う物で、実際に第一波攻撃では大和は魚雷を被弾していない。そのため逆舷に一発被弾した魚雷は、艦の安定を保つために、大和側がわざと被弾したと言うのが通説になっている。
大和は沈没の際、その主砲塔が外ればらばらになった状態で、今も北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ水深345mの海底に眠っている。
高柳儀八(大佐):1941年11月1日〜
松田千秋(大佐):1942年12月17日〜
大野竹二(大佐):1943年9月7日〜
森下信衛(大佐):1944年1月25日〜
有賀幸作(大佐):1944年11月25日〜1945年4月7日
菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4000トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできた。また、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料なども必要とされるため現金もかなりの額を持っていったといわれている。作戦自体は到底無謀なものであったが、決して特攻だけを考えていたわけでないことが伺える事実である。 同型艦は武蔵。110号艦、111号艦は過大と判断された舷側装甲厚、甲板装甲厚を減じ、その重量で艦底を三重化しているため、準同型艦として扱われる。なお110号艦は太平洋戦争開戦と共に完成を断念され、ドックを空けるための工事中に計画変更となり航空母艦信濃となった。
大きな艦体の豪華さや、冷蔵庫を利用できることによる備蓄食糧の多彩さ・豊富さ、またソロモン海で激戦が繰り広げられる中、泊地から動かない様を揶揄して、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」とも呼ばれていた。
その勇姿と悲劇的な最期への郷愁や憧れからか、後世数々の映画などに取り上げられている。また、幅広い年代に知られているのは、アニメーション(宇宙戦艦ヤマトなど)や漫画、プラモデルによるところも大きい。国民にこれほど知られる軍艦は「大和」以外にはないと言っても過言ではないが、太平洋戦争中は軍事機密に護られ、一般国民には存在自体がほとんど知られていなかった。
戦艦大和建造の技術は戦後の復興に役立ち、日本は焼け野原から僅か十年で世界一の造船王国となった。
*1:実際には、帳簿外の燃料まで根こそぎ補給したため、沖縄までの往復分の燃料は充分確保されていた。ただし、戦闘機動をした場合は、ぎりぎりであったらしい。