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小田原城

(地理)
おだわらじょう

治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのが土肥氏一族である。
土肥次郎実平の嫡男遠平が、このとき、父に劣らぬ功績を上げ、戦後、早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城した。
それが小田原城の始まりである。
応永23年(1426)、上杉禅秀の乱が鎌倉で起きたとき、大森頼春が鎌倉公方足利持氏を助け、小田原・箱根で 禅秀の軍を破り、乱を平定する功績をたてた。
これにより、禅秀に味方した 土肥党・小早川党は小田原を追われ、秀吉は大森氏の居城となった。

大森氏は五代、80年続いている。全盛期は氏頼の代で、南関東を掌握し、文化的にも繁栄した。
しかし、明応4年(1495)氏頼は突然、北条早雲の奇襲により小田原城を追われた。
北条氏の直轄は早雲以来、氏綱、氏康、氏政、氏直の五代約100年続いた。
この時代の北条氏は、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれる。
北条氏は小田原城を中心に地域を拡大、最盛時には高さ27メ-トルの三層大天守と小天守の複合天守を有し、外郭は城下町を含み東西3キロ、南北2.2キロに及んだ。
三代氏康は永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を、同12年には武田信玄の攻撃を受けるが、いずれもこれを防いでいる。小田原城が難攻不落の名城の名をほしいままにした事件である。
天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原を攻める。だが、小田原城はいっこうに落ちなかった。
秀吉は小田原城西方の笠懸山(石垣山。石垣山一夜城。太閤一夜城。)に城を築き、大坂から淀君を呼びよせる。諸将にも妻子の帯同を許し、芸人らを呼んで酒宴を開いた。
一方、食料が豊富だつた小田原城内でも宴が催されたという。
この間、小競り合いはあつたが、大きな衝突はおこらなかった。軍兵21万余の大軍に包囲されながらも、小田原城内は余裕をみせていた。その様子は「北条五代記」に詳しく記述されている。
秀吉軍との攻防を前に、城内では戦略論争が続けられていた。出撃して秀吉を撃つか、籠城して迎え撃つか、選択に迷っていたのである。存亡がかかつていた大決断をしなければならないのだから、簡単には決まらない。結論が出ないまま,軍議は連日開かれたという。
膠着した会議の有様は、後に「小田原評定」という言葉をうんでいる。
しかし、同年7月、当代城主氏直は籠城100日もむなしく、ついに秀吉に投降した。
数倍の大軍と秀吉の近代的な戦法には抗しえなかったのである。
ここに五代、約100年の間、繁栄を誇った小田原北条氏は滅亡する。
隠居の四代氏政は切腹させられ、五代氏直は高野山に流された。氏直の側室は家康の娘である。
小田原征伐後、城は徳川家康の城となり、大久保氏が入封する。
慶長19年(1614)城代が変わると、小田原城は家康の命によって破却され、三の丸以内に規模が縮小された。
以後、阿部氏、稲葉氏らが入城し、貞享3年(1686)には忠隣の子孫である大久保忠朝が入城し、以後、大久保氏の版図(はんと)となった。
城は何度か大地震に遭い、天守倒壊などの被害を受けた。天守は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)に解体されるまで往時の姿のまま存続していた。
現在は、昭和35年に復興された38.7メ-トルの天守が本丸跡にそびえている。
常磐木門や、銅門などの城門も再建され、小田原の観光名所として、訪れる人々が絶えない。


城郭は今、「小田原城址公園」で、公園内に遊園地、動物園もある。
同園にいる、ぞうのウメ子さんは1950年に推定三歳で同所にやってきて、2007年に還暦を祝った長寿の人気者である。

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