永禄2年3月6日(1559年4月13日)〜天正7年9月15日(1579年10月5日) 日本の戦国武将の1人。徳川家康の長男。 岡崎城の城主などを歴任したが、信康の家臣の中から武田勝頼に通謀する者が出るなどしてそのことを知った織田信長は徳川家康に信康の処分を命じ、天正7年(1579年)8月4日に二俣城へと移され、そこで切腹させられた。
『静岡県地域史研究』第14号に拙稿が掲載されました。抜き刷りの献本は11月ごろになるかと思います。松平信康は天正8年1月15日、蟄居先の堀江で亡くなっていること。築山殿は一次史料により天正13年4月までの生存が確認できること。等々新しい視点を提起しております。 pic.twitter.com/QCc3AjEChH — 高橋陽介 (@aquable1732) 2024年9月29日 調べたところ、松平信康が亡くなったとされる天正八年ていうのは、西暦に直すと1580年ということで、本能寺の変の2年前ということになります。築山殿が亡くなったのは信康の死後、更にその5年後で、本能寺の変の後も彼女は生きて…
築山殿と松平信康について 新説への反応 変わるかもしれない通説と、変わらない事実 おわりに 築山殿と松平信康について 去年、大河で扱われたので、覚えておいでの方も多いと思いますが、築山殿(ドラマでは「瀬名」と呼ばれてました)は家康の正妻、信康は彼女と家康との間にできた長男です。 その二人に関してこんなツイートが↓。 『静岡県地域史研究』第14号に拙稿が掲載されました。抜き刷りの献本は11月ごろになるかと思います。松平信康は天正8年1月15日、蟄居先の堀江で亡くなっていること。築山殿は一次史料により天正13年4月までの生存が確認できること。等々新しい視点を提起しております。 pic.twitte…
すっかり秋めいて・・・というより一紅葉らしい紅葉見ないまま冬になりそうだっ。 大河ドラマもとっくにクライマックスですが、まだ書きかけていた記事がありました。 徳川家康の浜松時代に暗い影を落とした出来事のひとつ、嫡男 松平信康が自刃したことで知られる二俣城と墓所 清龍寺をご紹介します。いずれも浜松市の北部 天竜区にある史跡です。
瀬名ロスが高じて、ひとり大興奮の旅 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」で非業の自死を遂げた瀬名こと築山殿。前27回ブログの冒頭で明言した通り、瀬名ロスに現在どっぷり中だ。瀬名と言うべきか、有村架純を再登板させる方法まで勝手に妄想を重ねていた。 toyamona.hatenablog.com toyamona.hatenablog.com そんな私にぴったりの岡崎を巡るツアーが開催されると知り、ポンコツの体に鞭打って急遽参加してきた。申し込んだ時には残席僅か、危なかった。(平山優先生と行く激震の岡崎!家康公の人生の岐路めぐり|令和5年度岡崎おでかけツアーズコース紹介|特…
有村架純を再登板させる手は NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」は、7/2に放送され、ここまでドラマを引っ張ってきた家康の正室・瀬名が、いわゆる「築山殿事件」にて残念ながら最期を迎えるに至った。 公式サイトからあらすじを引用させていただこう。 武田勝頼(眞栄田郷敦)の手で暴かれた、瀬名(有村架純)と信康(細田佳央太)の計画。それはやがて信長(岡田准一)の知るところとなる。2人の始末をつけなければ織田と戦になる。それでも家康(松本潤)は信長の目を欺き、妻子を逃がそうと決意する。一方、瀬名は五徳(久保史緒里)に、姑は悪女だと訴える手紙を信長に宛てて書かせ、全ての責任を負おう…
大河ドラマ「どうする家康」は、築山殿(瀬名)と松平信康の自害を1話分使ってたっぷりと放送し、一つのクライマックスを迎えました。とくに信康の死は、徳川家康にとっても極めて痛恨事だったのだろうと思われます。 ドラマでは、瀬名と信康が「徳川家を守るために命を絶つ」という自己犠牲をクローズアップして描かれていました。史実はともかく、後世に悪女と言われがちな瀬名を「悪女にはしたくない」という脚本と演出を感じましたね。 信康が切腹した二俣城跡 さて、ここからブログの本題に入ります。 信康と妻で織田信長の娘の五徳との間には、娘が二人いました。娘たちは信康の切腹後、家康の側室の西郡局に育てられます。姉は小笠原…
今回は、信康の終焉の地、二俣城付近の写真紀行です。 浜松市天竜区 二俣城 清龍寺付近 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【公式】2023年開設ブログ
6/13、北条義時の800年忌 見ているこちらも重苦しくなる内容のNHK大河ドラマ「どうする家康」第22回「設楽原の戦い」が、6/11に放送された。 そちらについて書く前に・・・今週6/13はナント、昨年夢中になって視聴した「鎌倉殿の13人」主人公、北条義時の800年忌だったと聞いた。義時ゆかりの覚園寺、北條寺(他でもやってたかも)では法要があったそうだ。 ツイッターを見たら、覚園寺でのお供えはキノコが多め。そして、参列者に配られたのは「きのこの山」だったようで。なんともシャレの効いた話ですな。出歩く元気があったら行きたかったなー。 #北条義時 公800年遠忌法要をいたしました。大河ドラマ制作…
岡崎組のクーデターだった弥四郎事件 NHK大河ドラマ「どうする家康」第20回「岡崎クーデター」が先週5/28に放送された。いわゆる「大賀弥四郎事件」として知っていた話だったが、今作では「大賀」ではなく「大岡」と。最近の知見によると、そうなるらしい。まずはあらすじを公式サイトから引用する。 信玄(阿部寛)亡きあとも武田軍の強さは変わらず、勝頼(眞栄田郷敦)は徳川領に攻め込んだ。総大将の信康(細田佳央太)は数正(松重豊)らと応戦するが、苦戦を強いられ、瀬名(有村架純)や亀(當真あみ)も、負傷兵の手当てに走り回る。病で浜松から動けない家康(松本潤)は、忠勝(山田裕貴)らを援軍として送る。そんな慌ただ…
徳川家康と築山殿の間に生まれた長男で二俣城で自刃したとされる松平信康。 信康の供養塔を訪ねてみました。 wikipediaからの引用 信康の死後、家康は信康の廟所として清瀧寺を建立し、寺域には胴体が葬られた信康廟が現存している。首塚を祀った若宮八幡宮では信康は祭神となっているほか、信康と関係が深かった者により複数の寺院等が建立されている。 西念寺(新宿区)岡崎三郎信康供養塔 - 服部正成が造立。隆岩寺(古河市) - 娘婿小笠原秀政が開基万松院(小田原市) - 大久保忠隣が建立江浄寺(静岡市清水区)供養塔 - 榊原清政が造営高野山金剛峯寺(高野町)岡崎三郎信康墓所 - 平岩親吉が寄進 清龍寺(浄…
12月20日(金) 268日目 近くの都田という駅がマリモッコリらしい。なんで?と思ったらマリメッコでした。嫁さんに訊くとファッションブランドのようです。とりあえず行ってみたけど嫁さんは「う〜ん、、、」と言ってた。船明(ふなぎら)ダムへ。しかしこの時期はダム工事が多いな、ここも耐震工事してました。道の駅•天竜に寄って、二俣城跡•鳥羽山城跡の別城一郭を登城します。 浜松市でお目覚め NEOPASA浜松の夜明け、外壁が鍵盤です 内装もバイオリンにピアノ さすが音楽の街 都田駅へ、無人駅です 駅舎の中がマリモッコリ、もといマリメッコのプリント柄らしい 駅舎兼カフェのようです 旧天竜市に戻って、 船明…
『葵 徳川三代』(2000)の関ヶ原の戦いの前日の場面で、徳川家康(津川雅彦)が「やれやれ年老いて骨の折れることかな。息子がいたならば、これほどにもあるまいものを」と述べ、本多忠勝(宍戸錠)が「(関ヶ原に遅参している)秀忠殿(西田敏行)もおっつけ馳せつけられましょう」と答えると、「その倅ではないわ! 明日は長男信康…、信康めの命日じゃ」と呟く場面がある。 家康の長男徳川信康*1 松平信康 - Wikipedia と妻築山殿がなぜ織田信長に切腹を命じられたのは結局のところ、よくわからない。信康の妻徳姫(五徳)が父信長に十二ヶ条の罪状(密告の手紙)を送ったために、家康の重臣酒井忠次が信長に呼び出さ…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年10月1日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「「水戸黄門」は、酒に酔って気分が良くなると「浮浪者」を斬っていた!? 武士はどのくらい庶民を斬っていたのか 水戸黄門像 無礼があった場合は人を斬ってもやむなしとする武士の特権・「切り捨て御免」。しかし、実際のところ、武士はどのくらい庶民を斬っていたのだろうか? 「水戸黄門」として有名な徳川光圀は酒に酔うと浮浪者を斬るクセがあり、徳川家康の息子・松平信康も、「踊りが気に食わない」と庶民を殺したという。当時はどう判断されてい…
朝、善福寺川沿いを走ってきました。歯茎が少し痛いせいか疲れました。もう一度歯医者に行くことにしました。 「日本史1200人」591 服部半蔵(ハンゾウ;1542〜1596) 徳川家臣、実名・正成(マサナリ)、服部半蔵2代目。松平家の譜代家臣として家康の午廻・御先手・鉄砲奉行などを務め、のちに伊賀同心の指揮権を預けられた。忍者として知られるが、正成自身は槍を持ち甲冑を着て足軽を率いた武士であり、一番槍・一番乗りなどを重視し数多くの戦功を上げた。合戦において正成は伊賀者のほか甲賀者や根来者なども指揮していた形跡がみられる。服部半蔵らが家康の伊賀越えを助けたという逸話は「伊賀者由緒書」にある。これ…
朝、隣町に行き二人でいつものコースを楽しく走り、おしゃべりして来ました。東京に行くといつも飲んでいた友が、余命4ヶ月と医者から言われた、と嫁さんから聞きました。何とも言葉がありませんでした・・ 「日本史1200人」580 松平信康(ノブヤス;1559〜1579) 徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。織田・徳川同盟を結んだ時、信長の娘・徳姫と結婚した。長篠の戦いでは17歳で、徳川軍の一手の大将となり、その後も軍功を挙げ注目されたが、1579年に家康の命により切腹させられた。通説によると、徳姫は姑の築山殿と折り合いが悪く、信康とも不和になり、父・信長に対して12箇条の…
新説 徳川家康~後半生の戦略と決断~ (光文社新書) 作者:野村 玄 光文社 Amazon 豊臣秀吉没後、豊臣氏滅亡までの徳川家康の後半生を、史料に基づきつつ丹念に追った内容で、史料の引用が多くて素人には読むのに骨が折れましたが、現状での最新の到達点が示されている観があり、読み応えがあるとともに参考になるものがありました。 徳川家康関係の本は、昨年のNHK大河ドラマの主人公だったこともあって、一昨年後半から昨年にかけていろいろ読んでみましたが、近年、研究が進んできた面がかなりあり、通説が見直されてきてもいます。例えば有名な築山事件にしても、従来の通説が、織田信長が松平信康に嫁いだ娘からの讒言を…
NHK大河ドラマ『どうする家康』第13話のあらすじは以下の通りです。 第13話「家康、都へゆく」 このエピソードは、家康が京都に上洛し、新将軍・足利義昭や織田信長の娘・五徳と結婚した息子・松平信康のエピソードが描かれています。この話では、家康の政治的な動きや、家康と周囲の人々との関係が焦点となります。 家康は、今川氏真を北条家に逃がしたことで武田信玄に詫びを入れることになります。 信長の後ろ盾で新将軍となった足利義昭の命令で、家康は京都に上洛します。 京都では、家康は木下藤吉郎秀吉、明智光秀、茶屋四郎次郎などの人物と出会います。 家康の息子・松平信康と信長の娘・五徳の間の子どもらしい喧嘩が描か…
序文・双子であることは隠された 堀口尚次 徳川家康の次男は、正室の築山殿の侍女をしていた「於古茶(おこちゃ)〈於萬(おまん)の方・小督局(こごうのつぼね)・長勝院〉」が産んだ「於義伊〈後の結城秀康〉」だが、築山殿が於古茶を側室として認めなかったので、於義伊は当初は家康の子供としても認めてもらえなかった。 築山殿と家康の子〈長男〉松平信康が、織田信長から武田信玄との密通疑惑を掛けられ自害に追い込まれた後、家康は於義伊を実子と認めるが、小牧長久手の戦いの経緯から、於義伊は羽柴秀吉の養子〈実質は人質〉とされ、秀吉の「秀」と家康の「康」から「羽柴秀康」となった。その後秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生し、秀吉…
二俣城 by:photo-ac 140回目になりました。 続いてます、お城雑記。 お付き合いくださる皆様、ありがとうございます! 今回は、静岡県にある二俣城です。 二俣(ふたまた)城は、天竜川と二俣川の合流する手前で形成している蜷原(になはら)台地の先端部にある、標高90mの天然の要害に築城されています。 平山城ですね。 武田氏と徳川氏の攻防の舞台となったこともある、戦国時代屈指の堅城として有名です。 また、武田と織田に挟まれた徳川家康が、嫡子の松平信康(のぶやす)に切腹を命じなければならなかった城としても知られていますよ。 日本100名城にも続日本100名城にも選ばれてはいませんが、隣にある…
本日は協同組合文具チェーンの研修で静岡県浜松市と山梨県甲府市に来ています。 他の方たちは皆さんゴルフなんですが ゴルフをやらない私はいつもの通り、歴史の旅を満喫しています。 朝6時に鶴見を車で出て、朝食は新東名高速の沼津サービスエリアで桜エビのかき揚げそばです。 そして本日は、最終的には山梨県の甲府に泊まるのですが 以前にも甲府近辺は歴史探求の旅をしていましたので、 本日は甲州の武田家が、侵攻した伊那路をと 浜松から天竜川を遡り、まずは徳川家康の長男、松平信康が自刃して果てた天竜二俣城に行きました。 実は30数年前、学生時代の頃、私はこの二俣城に歩いてきております。 上の地図には載っていないん…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。 ・ ・ ・ 601年 『日本書紀』に、推古天皇の御代に忍者のように間諜(スパイ)を行ったという記述が存在する。 山田雄司(三重大学教授)「時代劇や小説の中の忍者のイメージは、大部分が江戸時代以降、主に昭和になって作られた。 忍者は刀を持って戦うだというイメージを誰も持っているが、実際は生きて情報を持ち帰るため、何かあれば逃げるのが一番大事とされていた。 鎌倉時代の終わり頃にゲリラ的な戦いを始めた『悪党』と呼ばれる傭兵集団が、…
先日投稿した「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」では岡崎市街地をめぐりつつ東海道を歩いた。しかし同行していた友人が「今日だけだと岡崎で行きたい場所に行ききれないから、また行く必要があるなぁ」と言った。友人も神戸に住んでいるため、そう簡単に岡崎には行けないだろう。今回は3連休で、4月にも取材に行く予定なので1日岡崎をまわっても大丈夫と判断し、「明日、岡崎まわる?」と聞くと友人は嬉しそうに「うん」と言った。今回は岡崎をまわった日の記録である。 「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」はこちら↓ octoberabbit.hatenablog.com 1.岡崎城 2.カクキュー八丁味噌 …
戦国時代の大和国(現奈良県域)では南北朝の争乱以来、激しく抗争する二つの国人がいました。 一つは添下郡筒井(現大和郡山市)を本拠として、戦国後期に大和の覇権を握る筒井順昭・順慶父子を輩出した筒井氏。 そしてもう一つが、高市郡越智(現高取町)を本拠とした越智氏です。 越智氏は大和南部を中心に勢力を伸ばし、南北朝時代には南朝方主力として活躍した他、応仁の乱では西軍・畠山義就軍の中核兵力として大和、河内、京都を転戦し、一時は筒井氏ら東軍勢力を大和から駆逐して北和にも勢力を広げました。 戦国後期には一族間の争いもあって衰退し、近世初頭に筒井順慶の策謀と家中の混乱により滅亡しましたが、越智氏は筒井氏と並…