農本主義者、国家主義運動家。1893〜1974 五・一五事件の黒幕とされる。立花隆は従兄弟の子。
水戸中学校から第一高等学校に進んだが、大正期教養主義の雰囲気のなかで帰農を決意、一高を中退し、郷里に帰って理想の農村を建設しようとした。
昭和6年、愛郷塾を設立し、茨城県内の各地に支部組織を拡大して行った。しかるに昭和恐慌下の農業恐慌でその事業は行き詰まり、井上日召との接触が契機となり、急速に直接行動に傾斜する。
井上日召が血盟団事件で昭和7年に自首をすると、日召のあとつぎとして担ぎ出される。
五・一五事件では、愛郷塾生は変電所襲撃に参加したが、橘本人はその前に満州に渡り潜伏していた。その後自首して無期懲役(のち減刑)となる。