法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは、過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし。経に云わく「また正法を聞かず、かくのごとき人は度し難し」云々。この文の意は、正法とは法華経なり、この経をきかざる人は度しがたしという文なり。 法師品には「もしこの善男子・善女人乃至則ち如来の使いなり」と説かせ給いて、僧も俗も、尼も女も、一句をも人にかたらん人は如来の使いと見えたり。 今月の御講拝読御書は『椎地四郎殿御書』の一節です。本抄は「そもそも、法華経の「如渡得船」の船と申すことは、教主・大覚世尊、巧智無辺の番匠として、四味八教の材木を取り集め、正直捨権とけずりなして邪正一如ときり合わせ、醍醐一実のくぎを丁とう…