今、また人法の差別をを立てれば、すなわち差別なり。差別にして無差別、無差別にして差別なり。これをこれ中諦と言う。 本尊に人法を別々に立てると、人本尊は化諦・法本尊は空諦ですから、これだと中道(中諦)を明かさないので三諦が成立せず、蔵・通の二教の教えと同じになってしまします。仮に別に中諦の本尊を立てたとしても、それだと三諦が融和してないので、別教の「但空・但仮・但中」の「隔歴の三諦」の本尊となり、そうなると歴劫修行でなければ成仏できず即身成仏はできません。またそもそも別教を修行するためには、その前に菩薩の位に登らなければならず、末法の荒凡夫には実践不可能な修行です。大聖人の御本尊は人法一体だから…