1937年7月7日に起きた、日中戦争 (日華事変) のきっかけになった事件。
7月7日の夜、盧溝橋周辺で演習を行っていた日本軍が「何者かから」銃撃を受けた。また、兵1名が行方不明であることも判明する*1。 翌日の早朝より、日本軍は、中国軍(国民政府軍)を攻撃し、両軍の交戦に発展。 その後、一応停戦がなされるが、日本側の兵力増派などが契機となり、両国の本格的な戦争状態へと発展することになる。
*1:後に帰還。実は事件性はなかった
今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」 中国人民抗日戦争記念館 宛平城内街 胡同 夕食(吉野家) 夜食(日式ラーメン) 4日目は盧溝橋文化観光区を訪れ、中国人民抗日戦争記念館を見学した。日中戦争の発端となった盧溝橋事件が発生した地である。
新九郎、奔る! 第14巻 表紙は仲睦まじい新九郎とぬえ。 ようやく新九郎は幕府奉公衆小笠原政清の娘ぬえと結婚しましたが、そもそもぬえが新九郎の家に馴染んでいたので、気がついたら祝言を上げていたという感じでした。 祝言までの過程で、主君である将軍義尚と佞臣の傍若無人ぶりも描かれていて、幕府内の人間関係も垣間見える描写がなされていたのはさすがだと思いました。幕府内の関係と言えば、奉公衆と奉行衆の対立や将軍義尚と大御所義政との緊張関係もなかなかの描写でした。後者については大御所の出家で一旦は決着がつきましたが、その際の大御所の決断が堀越公方、ひいては東国の情勢を動かすことになったのには歴史のダイナミ…
昨日は七夕。夜は雲が多くて天の川はよく見えませんでした。 昨日の昼前に妹が線香をあげに来て、話をしていたら「今日7月7日は旦那の誕生日なのよね」と言います。義兄として恥ずかいことに、初めて知りました。そこでお祝いに?と、人からもらったメロンやらビールに加え、庭の畑でとれた茄子やトマトなど、手提げ袋二つに「プレゼント」を詰め込んで持って帰ってもらいました。誰かが教えてくれないと分からないことは多いです。 夜、英国のジョンソン首相が辞任する意向だと伝えるテレビ・ニュースを見ました。前日には崖っぷちといわれつつ、辞任要求を突っぱねていましたが、閣僚たちの相次ぐ辞任をうけて、ついに「降参」したという感…
こんばんは!かるぅです。 今日は家から一歩も出ませんでした。。。 先週は大学に行ったのですが、今週は行かず。 しかも作成しなければいけない書類もあって、忙しかったです。 簡単な書類なんですが、調べたり考えたりして1枚1時間くらい。 それがもう1枚あります。 課題もやらなければいけないので、今日と明日でなんとか完成させます。 大変です・・・・ 午後はいつもの授業を受けました。 そこではスピーチがあったのですが、普段から人前で喋っているので一番美味く喋ることができた気がします。他の学生よりも(笑) 今日は塾もないので、作業を含めてゆっくりします。 さて、今日の朝は盧溝橋事件について紹介しました。 …
今更だが大東亜興亡史DXという任天堂3DS用のシミュレーションゲームを始めたので 備忘録としてここに書こうと思う。 なぜ、これを始めたのかというと、 「暇」だからだ! コロナのおかげで手持無沙汰な事この上ない。 PCやPSP、PSですでに過去作があるのだが、そちらは未プレイ。 いわいる戦争ゲームは昔の大戦略以来なので、兵器もいまいちピンとこない。 零戦や大和くらいは当然知っているが、赤城と蒼龍の違いは全く分からない。 牟田口と南雲さんくらいは見分けはつくけど そもそもその名前で出てこない。 偽名で登場してるようだが、誰が誰やら・・・ ドイツ軍には非常に惹かれるが、日本軍でプレイ始めてみようと思…
1937年(昭和12年)7月7日の夕方、支那駐屯軍歩兵第一連体第三大隊の中隊長清水節郎大尉は第八中隊を指揮し、夜間演習のため、北京郊外の盧溝橋付近の演習地に向かいました。盧溝橋は氷定河にかかる石橋でそのたもとには乾隆帝が橋の美しさに感動し、「盧溝暁月」と筆をしたためた石碑があり、また、盧溝橋は13世紀にマルコ・ポーロが訪れたことから欧米ではマルコポーロ橋と呼ばれており、付近は風光明媚な景勝地でもありました。1937年(昭和12年)7月7日夜10時30分頃、演習が終了した後の10時40分頃、突如として清水中隊に十数発の実弾が浴びせられました。しかし、最初の一発は日本軍と中国軍お互い相手が先に撃っ…
栄部隊誌01 栄部隊誌02 栄部隊誌03 義父は明治45年(1912年)生まれで2006年で94歳になります。敗戦を迎えるまで、義父は「北支那派遣軍特殊情報部陸軍通訳生」として暗号の解読、翻訳の仕事をしていました。1995年、大東亜戦争終結後50周年記念として「元北支那派遣軍特殊情報部(北京栄弟9440部隊)」の方々が一般の世の人々が知ることのない特殊な経験を後世に残したいと栄部隊誌を作成しました。義父はこの文集に「盧溝橋事件と新華社電報」という論説を投稿しています。その概要は次のようになります。敗戦後、組織は解体され連絡網は壊滅したが地方には通信機器と情報班の何人かは残っていました。1947…