英国国教会(イングランド国教会)の流れをくむ、キリスト教教会の名称。アングリカン・チャーチ(Anglican Church)ともいう。 アメリカでは Episcopal Church との名称が一般的。
16世紀にヘンリー8世の離婚問題を発端として成立した。もとはカトリック教会の一部だったため、典礼(聖餐式など)ではカトリックと共通する点が多い。その後に海外宣教を行い、世界各地に教会を建設した。日本には、日本聖公会がある。
http://www.anglicancommunion.org/
ようやくまともな言葉が聞けた。 www.bbc.com トランプ大統領に釘を刺す説教だったらしい。この男には「妨げの岩」が必要だ。しかも多くの岩が必要だと思う。その為に尚更、頑なになるかもしれないが。 妨げの岩とは・・・ 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる (イザヤ書8章14節 新共同訳) のことをさす。他にも・・・ 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙9章33節 新共同訳) また、/「つまずき…
昨秋11月のある日、閑静な住宅街の中にある下鴨幼稚園でおひさま発電所の点灯式があったので出かけた。 おひさま発電所とは、自然エネルギー(太陽光)を利用した発電所を市民が参加する形で設置する認定NPO法人きょうとグリーンファンドのプロジェクトで、今までに主として保育園や幼稚園など25か所に設置してきた実績がある。 26番目となる下鴨幼稚園では、スイッチを入れると十字架が点灯するというパフォーマンスで式が始まり、 その後、「太陽エネルギーを身近な存在に」というミニ講演会も行われた。 地球温暖化を少しでも食い止めるために今を生きる我々では手遅れなので、未来を担う子どもたちが自然エネルギーを体験し、正…
2024010.12 あ~あ、行けなかった、教会へ。 会えなかった、新郎新婦に。 わたしの教会周辺の付き合いでは 大体が新郎の教会で 礼拝を持つようになるケースが多いです ケースバイケースではあるけど。 婚約式は新郎🧑の教会、 結婚式は新婦👩の教会が多いのですが、 今回は新郎🧑の教会で結婚式でしたね わたしの教会では すべての準備のそれぞれにおいて 腕前と感性の長けたメンバーが揃っているので、 式に関するすべてを 手前みそで準備できます 式周辺のタイムテーブルもしっかりと作って。 祭壇の花を活ける人、 バージンロード敷く人、花を飾る人、 オルガニスト、受付の準備、 ブーケを作る人、来客の案内誘…
左足の母指球が痛い。痛風である。旨い物の食べすぎ、あと、酒の飲み過ぎだろう。 立教学院諸聖徒礼拝堂のチャペルキャンプが8月17日~18日の1泊2日、清里で行われた。参加者は総勢17人。私はキャンプの責任者チーフとして、企画、運営、引率を担当した。 兄弟ブラザーフランシスコ菊地雄大くんが用意したプログラム「イエスの足跡を辿る黙想と礼拝」は好評で、清里の森を散策しながら、聖書を朗読、聖歌を奉唱した。最後の方は正直、根性が必要だったが、信仰とはこういうものだ。 チャプレン李相寅イサンイン先生のアングリカン・ロザリオを用いた「出来事中心の黙想」では、新しい発見があった。導入にあたって、キリスト教とハイ…
有栖川旧邸の南側にあるのが聖アグネス教会で、日本聖公会京都教区のカテドラルであり、平安女学院の礼拝堂でもある。いかにも荘厳な西洋風な教会建築は、烏丸通を挟んだ和の京都御所(御苑のことを市民はこう呼んでいる)との対比が美しく、昔から市民に親しまれている。 この前を数えきれないぐらい通っているが、中に入ったのは初めてである。 設計者のガーディナーは宣教師で、円山公園にある長楽館の設計者でもある。 多数のステンドグラスに飾られているが、これも彼のデザインであるらしい。 近くにあるヴォーリス建築の大丸ビラと似ているようだが、ガーディナーという名は初めて知った。 井戸(活水と読める)にカエルの石像がある…
春は別れの季節であると同時に出会いの季節である。去る3月24日、日本聖公会・東京教区・環状グループで、聖アンデレ主教座聖堂に異動する卓志雄先生の送別会が行われた。私はチャペル会衆委員会の渉外担当ではないので、本来、出席は義務ではないのだが、「他の教会の人々と交われるし、懇親会ではお酒が飲めるよ」という名親の言葉に釣られて、去年の夏から参加している。仕事柄、いつもカメラを持参しているので、私は教会付属のジャーナリストのようである。 環状グループ協議会に参加して、ふだん接することのできない街場の教会の人々に出会うことは、多くの気づきを与えてくれる。私の怠慢から礼拝堂チャペル以外の教会に出かけること…
誕生日プレゼントで頂いたモンブランの万年筆を使って、塚田理『キリストと共に生きる』の抜き書きをする。その中の特に心に残った一節を紹介する。 聖人はくそまじめで、陰気臭い、特殊な人間ではなく、「全人的」な従って、楽しい人物のはずです。ですから、私達が他の人達の中に「聖性」を見れば、いつも心惹かれるのです1。 主イエスにおいて体現された神の言葉が、他の場所でも語られることができるはずです。神の恵みは、キリスト者と呼ばれている一部の人にだけ限定されているわけではありません。それはすべての人々に及ぶものです2。 「共にいる」ということがキリスト教の核心です3。 キリストと共に生きる作者:塚田 理聖公会…
クリニック開業準備の慌ただしい中、一瞬の息抜きのために2泊で軽井沢に行ってきました。さいわい天気にも恵まれほっとする3日間を過ごすことができました。 軽井沢は朝晩の冷え込みが強く、紅葉が始まっていました。初日はレンタサイクルを借りて旧軽を回りました。旧軽銀座は海外からの観光客と思われる人が多く、混み合っていましたが、それでも食事に並ばなければならないと言うほどの人手ではなく、ほどよい観光地感でした。 レンタサイクルを借りて回りましたが、サイクリングコースのマストと言えるシュー記念礼拝堂は人が少なく静かでいい感じ。 ここに来るまで知りませんでしたが、このA.C.ショー師は日本聖公会の宣教師であっ…
魂の夜が続いている。クリスチャンであれば、神が、キリストが救ってくれるではないか、と思われるかもしれないが、神はときどき人を荒野に置き、試練をするので、仕方がないと思う。キリスト教が現世御利益を保証するような宗教であれば、私は信仰しなかっただろう。来世で報われるという説があるが、私は来世に関心を払う余裕がない。現世のことで精一杯である。 医学的には躁鬱病に違いないが、意味の崩壊がこの病気の症状なのかは分からない。「世界がバラバラになるのを感じたら、釣りに行こう」と、開高健は言ったが、趣味のない私は会社に仕事に行くか、教会に礼拝に行くしかない。 この頃、牧師になるように勧められる。そう言って貰え…
昨日、港区芝の聖アンデレ教会で堅信を終えた。 堅信とはキリスト教で、受洗(洗礼を受ける)のあとに行われる、信仰を確認する儀式のことだ。 私の所属する聖公会では、洗礼は司祭によって、水(と油)を用いて行われるが、堅信は主教によって、精霊(神の息吹)を通じて行われる。 神学上いろいろと細かい所があるが、要するに、自身のキリスト者としての思いを新たにした上で、神と人が「お前、頑張れよ」と励ましてくれるのである。 ようやく、聖公会のキリスト者として一人前になることができた。人生の後半のスタート地点に立った。 キリスト者になると善いことがある。教会の看板を背負っているから、怪しい所、いかがわしい所に出入…