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辰巳柳太郎

(アート)
たつみりゅうたろう

本名・新倉武一、1905年(明治38年)4月20日 - 1989年(平成元年)7月29日)は、昭和期の俳優。島田正吾とともに新国劇の屋台骨を支えたスターである。

兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)に生れる。「大阪市立甲種商業学校(現・大阪私立天王寺商業高等学校)を中退し、旅回りの一座に入り、長野で初舞台を経験する。1926年、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入る。東伍作の名で舞台に立つ。

そのうち、新国劇の沢田正二郎の魅力に引かれ、1927年(昭和2年)、道頓堀の浪花座で公演中に沢田を楽屋に訪ね弟子入りを直談判し、新国劇に入団する。『国定忠治』の駕篭かき役で初舞台を踏む。その後、芸名を「辰巳柳太郎」と改める。しばらく端役が続いたが、1929年(昭和4年)、沢田正二郎が急死すると、俵藤丈夫文芸部長によって、島田正吾とともに、沢田の後継者に大抜擢される。

その後、『大菩薩峠』の「机龍之介」や『宮本武蔵』、『王将』の「坂田三吉」などの主人公を豪放磊落に演じきり、島田と共に二本柱として新国劇を支える。

戦後になると、映画でも島田とたびたび共演し、「辰巳・島田ブーム」が巻き起こる。しかし、大衆演劇の衰退と共に、客の入りが悪くなり、1987年(昭和62年)、70周年記念公演終了後、新国劇を解散する。それから、2年後の1989年(平成元年)死去。弟子に大友柳太朗、緒形拳らがいる。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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