長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)
幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。幕府は蛤御門の変を理由に、元治元年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示した。幕府は慶応2年長州再征を行ったが敗退し、撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。
参預会議の不調を受け長州の動きが復活した。不穏な動静に警戒を強めた新選組は、元治元年(64年)6月5日に長州藩士を襲撃した(池田屋事件)。激した長州は実力での天皇の身柄拘束を狙い、7月19日に御所を襲撃するも、護衛していた会津藩と桑名藩(薩摩藩も加勢)に制圧された(禁門の変)。 この暴挙で長州は朝敵とされ、9月には諸藩からなる大軍が派遣された(第一次長州征伐)。同時に、英仏蘭米の四国艦隊は長州に本格的な報復を行い、砲台を破壊し多数の大砲を鹵獲した(馬関戦争)。戦況不利と見た長州は山口城を破却、三家老を切腹させ攘夷派藩士を処刑して幕府に恭順を誓った。 征伐に勝利した幕府は、慶喜、容保、松平定敬(…
青嵐の旅人(下) うつろう朝敵天童荒太毎日新聞出版2024年9月20日 印刷2024年10月1日発行 『青嵐の旅人(上) それぞれの動乱』の続き。幕末の幕府vs倒幕の争いに巻き込まれていくヒスイと救吉は・・・・。 megureca.hatenablog.com 本の紹介には、 ”絶体絶命の親藩。その命運は、二人のきょうだいが握っていた―― 江戸幕府消滅。そして明治へ。激動の時代を圧倒的スケールで描く感動の歴史長編 藩士・大原観山の命で新選組の原田左之助を訪ねたヒスイと救吉は、旅の途上で、かつて山中で命を救った坂本龍馬と再会。その後、沖田総司ら新選組の隊士たち、長州の桂小五郎、高杉晋作ら新しい世…
「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない」ということこそが人の道である。人としての努力をすることもなく、ただ死に向かうのは人の道ではない。(高杉晋作) 一条真也です。言葉は、人生をも変えうる力を持っています今回の名言は、高杉晋作(1839年~1867年)の言葉です。彼は、幕末期の長州出身の武士です。尊王攘夷の志士として活躍しました。松下村塾の門下生。29歳没。 下級武士や農民もいた勤王の志士の中にあって、高杉は上級武士の息子でした。そんな彼が、武士階級を否定する「奇兵隊」を創設したという事実を考えると、彼の中には、西洋的な合理主義があったものと想像できます。彼は尊王攘…
其の十七 美しき日本語の世界。 美しき日本語の世界。 幾重にも張り巡らされた粋な謎かけで大ヒットしたおはぎ 時は幕末、江戸時代末期 長州おはぎ 粋すぎる売り文句と買い文句 意味が真逆の青餅もヒット 見習いたい反骨精神 幾重にも張り巡らされた粋な謎かけで大ヒットしたおはぎ 時は幕末、江戸時代末期 どんな時代の庶民でも、必ず持っているのが権力者への不満である。 お上だろうと誰だろうと、とりあえず文句を言ってみるという姿勢は、今も昔も変わらない。 江戸末期の日本は開国によって一気に貿易量が増えたはいいものの、日本の小判が海外へ大量に持ち出されたり、これまでの流通の仕組みが崩されたりして、凄まじいイン…