→坂本龍馬
京都ラーメンの新星。あっさり系でNo.1の新鋭!
花園にあった「漁師屋」の店長がやっている。やたらサービス精神が旺盛な店長は、なぜか「船長」という名札をつけている。
2005年6月に一度閉店したが、9月に百万遍の「とさか家」跡にリニューアルオープンした。
長崎へ一人旅をした。 先月軍艦島へ行った際、新幹線かもめに乗ってみて案外近いと分かったので。 長崎へは修学旅行を始め、3,4回行ったことあるが車でしか行ったことがなく、市電やバスを使って観光したのは初めてである。 長崎はさすが昔からの観光都市、市電やバスでどこへでも行けるし観光客にも優しい。 行ったことがないところへ行ってみようと思い、車では行けないという場所に行ってみた。 坂本龍馬が作った日本初の商社「亀山社中」記念館。 行ったことがないのもそのはず、公開は2009年(平成21年)からだそうだ。 この記念館は、亀山社中の遺構を所有者の好意により、長崎市が整備・公開しているものだそう。 建物も…
すまきとすまりんがこのたび訪れた鞆の浦(とものうら)は 広島県福山市の港町です 鞆の浦は 瀬戸内海のほぼ真ん中にあり この辺りで東西の潮の流れが変わることから 瀬戸内海を横断する船はここで一旦 潮の流れが変わるのを待ちました ということで 鞆の浦は「潮待ち港」として知られ 江戸時代を偲ばせる建物がたくさんあります そういえば「崖の上のポニョ」の舞台になったとも言われていますね(^_-)-☆宮﨑駿監督が鞆の浦の古民家に滞在中「崖の上のポニョ」の案を練られたとのこと… 今回は小さな宝石箱のような鞆の浦の町を巡ってみたいと思います 観光の順番が前後しますが この順にご紹介します ❶東洋一の景色の寺 …
三吉慎蔵は世紀の改まった明治34年(1901)に71歳で長府で永眠した。慶應2年(1865)正月の龍馬と生死を共にした寺田屋遭難から35年後になり、今年は没後122年目になる。 明治11年末の慎蔵 晩年の写真 慎蔵の晩年の日記は、字がミミズがのたくったかの様な筆で極めて読みにくい。年を取るに従い、筆力が弱くなったかようだ。 晩年の日記には、家族の中では孫の梅子の事がよく出てくる。梅子の母友子は一昨年32年に病死しており、父の玉樹は東京にて大村家に奉職している。長府で一緒に暮らしている慎蔵・伊予夫妻には、孫の梅子が生きがいになっているかのようだ。親戚巡りやイベントなどによく連れ出し、たとえば、明…
honto.jp 『竜馬』の許嫁、千葉さな子さんの後日談小説。 前に司馬さんのエッセイ『千葉の灸』でも書いたが、私は龍馬と関係のあった女性の中では、凛とした、一本筋の通った千葉さな子さんが好きである。 なので、この本に出会えたことは、とても嬉しかった。佐那さんの、龍馬亡き後の、明治期の人生がどうだったか、やはり気になっていたからだ。 明治の時代に生きた、竜馬関係者である千葉さな子の姿が小説になった。 明治期のさな子さん、佐那さんは、華族女学校の職員になっていた。 許嫁の自分というものがありながら、勝手におりょうと結婚した龍馬を忘れようとしながら、忘れきれない。龍馬を描いた小説『汗血千里駒』が世…
坂本龍馬を顕彰した江崎権兵衛は、伏見の事業家であり初代伏見町長を勤めた人物だが、その履歴を調べてみた。 弘化元年7月23日、先代江崎権兵衛の次男として、字家書に生まれる。幼名は源三郎。 初代は江州坂本在仰木村出身で、330年前に伏見両替町に来住し、大工であったが、のち阿波橋東詰において近江屋の屋号で材木業を営んだ。 祖父の代に、盛業をきわめ、使用人は200人を超えた。 父権兵衛のとき西浜(字家書)に移転し、禁裏および紀州ほか数藩の御用商人となり、上賀茂下鴨神社・石清水八幡宮・春日神社・大宮御所などを造営した。母モトは京都の若山清兵衛の女。 明治元年 兄房丸が少年時代出家していたので、明治元年父…
龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏と寺田屋で戦い隙を見て逃走した途次、隠れた材木納屋がある。 ただし鳥羽伏見の戦いで焼失しているので、写真の材木納屋は当時のものではない。 この材木小屋について、伏見奉行所の報告には、 「村上町財木渡世 近江屋三郎兵衛財木納屋へ 龍馬手疵を受候侭立入」とある。 材木商・近江屋三郎兵衛のものと確認されているこの納屋は、今現在の村上町370番地の北川本家ビン工場を含む場所にあった。 で、この場所は、幕末頃の絵図では大名屋敷の敷地となっている。 大坂の蔵屋敷でもそうだが、藩は敷地の一角を出入りの商人に貸し与えることがある。この材木納屋もおそらく藩から貸し与えられた土地で、貯木…
以前京博にて、「大政奉還150年記念 鳥羽伏見の戦い」展を拝見した。 僕にとっては重要な史料が多いが、目的は、 ①幕末の伏見の地図 ②薩摩藩伏見屋敷の平面絵図 の確認。 展示場に入るとすぐ後ろから、宮川禎一上席研究員が立命大の刀女子2名を案内してやって来るのに出会い、展示品の解説を拝聴する機会に恵まれた。 展示品の数は30弱で少ないが、このうち京都城南宮の所蔵品が12を占める。ただ何故か、「薩摩藩伏見屋敷平面図」には城南宮所蔵と明記がない。 ①伏見の地図は、 「瓦版 慶応四歳正月大火」 と、「戦跡実施調査記録」にみることができる。 「瓦版 慶応四歳正月大火」は、残念ながら紙面の大きさの限られた…
寺田屋の裏の車町の通りから、村上町の材木納屋までの逃走ルートを考えてみたい。 まず幕末時の地図を確認する。(但し地図は、京都府紀伊郡伏見役場が後に作成) 右端(東)に「御役屋敷」と表示して伏見奉行所がみえる。 過書町や村上町は材木商いが活発で、貯木場など木場があったが、実際には地図には描かれていないことに注意。 拡大図 明治5年当時の図 伏見の町は多くが戊辰戦争で戦火にあったが、幕末時と町割りはほとんど変わらない。 寺田屋は十五区と書かれた場所にあった。 なお、過書を含む十一区は、町制発布前のこの頃は江崎権兵衛が副年寄副区長を務めていた。 材木納屋の南側一帯は、因州鳥取藩伏見屋敷があった場所で…
龍馬と慎蔵が避難し隠れた材木納屋を確認したい。 二人が隠れたという材木納屋があった辺りの写真。左側に大手橋(昭和15年11月竣工)が見える。 東京大学史料編纂所所蔵の写真。左側にも納屋がみえる 龍馬は書簡に、 寺田屋の裏の住家を破ってから、「町に出て見礼バ人壱人もなし。是幸と五町斗りも走りしに、・・・・、つひに横町にそれ込ミて、御国の新堀の様なる処に行て町の水門よりはひ込ミ、其家の裏より材木の上に上り寝たるに」と書き、 三吉慎蔵は日記に、 「走る途中一寺あり此囲を飛越んとするに近傍多数探索するの様子有之、甚た切迫に付路を変し走出て川端の材木の貯積を見付け其の架際に両人共密に忍込み」と綴る。 司…
坂本龍馬と三吉慎蔵が逃走した経路を調べている。 まずは出発点の寺田屋のその敷地について。 鳥羽伏見の戦いで焼失した寺田屋について、その敷地が実際に記録にあらわれるのは明治になってからなので、これから調べてみる。 江崎権兵衛が明治26年5月27日に購入した旧寺田屋があったと思われる土地は、今の町名で南浜町262番地。 江崎は、この地所以外にも、明治27年6月1日に南浜町263番地と車町282番地(のち大正8年に車町281番地と合併)、明治27年11月26日に車町281番地(のち昭和4年に分筆)を、相次いで購入している。 南浜町262番地には、その入手目的でもあった、明治27年の33回忌に「薩藩九…