『宗教で読む戦国時代』


 いつの世も人心に不安は尽きない。経済が混迷を極め、世界各地でテロが頻発する現代もそうだが、今からおよそ500年前の戦国時代、謀反、裏切り、飢饉に一揆、明日をも知れぬ生活の中で人々の不安はさぞかし大きかったことだろう。著者の神田千里は日本中世史が専門。本書ではイエズス会宣教師、一向一揆島原の乱などを切り口に、戦国時代における日本人の宗教観をあぶりだす。

 興味深い内容がいくつかあったので列挙しよう。「当時の日本人はキリスト教を自分たちの仏教と同じようなものととらえた」「一向一揆という名は江戸時代になってからの呼称。当時はただの一揆であって宗教一揆ではなかった」「織田信長は宗教に対し極めて寛容だった」「島原の乱は重い年貢に耐え切れずやむなく立ち上がったのではなく、信仰を求めた純然たる宗教戦争だった」・・・・・・。

 本書の中、あちこちに登場するのが当時の日本人の考え方の中心にあった「天道思想」。天道(てんどう)は人知を超えた天の采配であり、武運を司るのも天道。嘘や裏切りを諫め、報恩や親孝行を説く。天道に外れれば当然神仏の罰が下る。あの織田信長でさえ、その次男信雄が伊賀国で敗戦したことを「天道の報い」と書状で叱責している。教団もなければ教義もないのだが、きわめて一神教的な発想であるこの観念を、著者は「天道思想」と呼ぶ。


 「天道思想」とは初めて聞いた言葉だが、何となくピンとくる。太陽をあらわす「お天道(てんとう)様」というのもこれに含まれるのなら「お天道様が見てるよ」「お天道様の下を歩けない」など、我々にも馴染み深い。著者の言うようにこれを一神教と考えると、これがなかなか面白い。一般的に日本は多神教の国と言われている。イザナギイザナミ天照大神、海幸彦山幸彦・・・。ギリシア神話やエジプト神話同様、神々の物語が語り継がれてきた。この点において間違いなく日本は多神教の文化を持つ。しかし、奈良時代の仏教伝来以降、旧来の信仰との折り合いをいかにつけるかが日本にとっての大きな課題だった。一つ間違えば国を二分する宗教戦争となる状況下、「神仏混合」「本地垂迹」、あの手この手で神と仏を撚り合わせようとしてきたのが日本の歴史の一面だ。また、仏教もその時代その時代の求めに応じ、新しい宗派を生んできた。そんな日本にあって「天道思想」はメタ宗教として人々の心に宿っていたのではないだろうか。個々の宗教よりさらに高次の考え方を用意することで、全ては相対化され、神か仏かという究極の選択に「どちらも(天道に外れぬ限り)大切なことだ」という、第三の選択がアリになる。

 日本は多神教ではなく、「天道思想」というソフトな一神教との国であると考えると非常に納得がいくことに気ついた。正月は神社に詣で、キリストの前で結婚を近い、仏式に葬儀を行うことは日本人の宗教的な程度の低さを表すと言われるが、そんな事はない。天道に外れていなければ問題はないのだ。一方、神社や寺、教会での無作法はどれも等しく「罰当たり」と考える。それは天道に反するからだ。異教徒は殺しても構わないという発想にはそれがどんな宗教であっても眉をひそめる。「(天道に照らして)間違っているんじゃない?」と考えるからだ・・・・。

 戦国時代は遠い。しかしDNAを通じて遺伝的に、また習慣・風習を通じて文化的に、間違いなく彼らと自分たちはつながっている。本書の主題からはいささか外れているが、戦国びとの心にあったという「天道思想」に思いを馳せた。

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)
作者: 神田千里
メーカー/出版社: 講談社
発売日: 2010/02/11
ジャンル: 和書