大阪の朝

起きて窓から外を見ると、薄日が差している。天気は回復したようだ。ところが、朝食をすませてから部屋に戻ると、窓外一面に雪が舞っている。娘たちは、「初雪だ!」と喜んでいる。天気予報を見ると、京都府兵庫県日本海側は雪になっているようだ。帰りの新幹線は大丈夫だろうか。

適塾

9時前にチェックアウトする。ホテルから2ブロックほど離れたところに、緒方洪庵の私塾「適塾」(重要文化財)がある。町屋建築の当時の姿がそのまま残っており、特に道路に面した教室の部分は、大部分が1792年頃の築という。まだ、開館時間ではないので、外部から眺めて満足することにした。

歴史的建造物の数々

栴檀木橋を渡って中之島に渡る。1918年竣工の「大阪市中央公会堂」(重要文化財)を眺める。ヨーロッパの教会建築のような重厚な赤煉瓦造りだ。大阪市役所の横を通って御堂筋に出ると、日本銀行大阪支店がある。こちらは1903年竣工の優美な石造りだ。日本橋の本店と同様、銅葺の屋根が美しい。

彫刻ストリート

御堂筋は、別名「彫刻ストリート」とも呼ばれ、土佐堀通から長堀通までの御堂筋の両側に全部で27点の彫刻が屋外展示されている。御堂筋の東方を歩いて下っていく。ブルデルの「休息する女流彫刻家」(1906)や「腕を上げる大きな女」(1909)、中村晋也の「姉妹」(1988)などがある。高村光太郎の遺作「みちのく」(1953)は、なぜか見落としてしまった。ルノワールの「ヴェールを持つヴィーナス」(1914)を観たかったので、長堀通まで歩こうと思っていたのだが、風雨が強くなってきたので、御堂筋線本町駅のところで断念した。地下鉄の入口の斜向かいには、御堂筋の名前の由来となった西本願寺津村別院(北御堂)の巨大なコンクリート造りの伽藍が聳えていた。

今宮戎

御堂筋線大国町駅まで行き、今宮戎神社へお参りに行く。「十日戎」、別名「えべっさん」で有名な神社だ。外柵には紅白の提灯が無数に取り付けられ、祭りの準備は万端という感じである。境内は意外に小さく、ここに大阪中の商人が押し寄せたらどうなるのだろうとひとごとながら心配になった(実際、たいへんな人込みになるようである)。拝殿の中では、神官や福娘が集合して神事の最中だった。神様は、「十日戎」に来ない不信心者には厳しいのか、雨が強くなってきたので、早々に引き揚げた。地下鉄堺筋線恵美須町駅まで歩く。交差点の向こうに通天閣が建っていた。側面に表示された「元気な大阪、美しい水の都」という標語がいかにも大阪らしい。堺筋線日本橋駅まで行く。

国立文楽劇場

いよいよ、この旅の最大のイベント、国立文楽劇場での文楽公演鑑賞である。日本橋駅から歩いて数分で国立文楽劇場に到着する。文楽の殿堂である。幟が立てられて、芝居小屋らしい賑々しさだ。正面玄関を入ると、大きな鏡餅と大阪名物「にらみ鯛」が供えてあった。

開場には時間があるので、1階の資料室を見学する。文楽の歴史や三業の解説を豊富な展示物で紹介している。太夫の見台、砂袋、腹帯、尻引、太棹三味線、主遣いの舞台下駄などの実物に触れられるのは、さすが本場だ。さらに、一人遣いの文楽人形「文ちゃん」「楽ちゃん」をボランティアの方が持っており、次女に「楽ちゃん」を持たせてくれた。背中から手を入れて胴串を握り、自分の右手を出して人形の右手にする。神妙な顔つきの即席人形遣いだった。

開場時間になると、弁当を買ってから2階の入口に上がる。2階ロビーには、静御前と弁慶の人形が飾ってあるほか、初春公演の文楽道具帳が掲示してあるなど、文楽専用劇場らしい雰囲気だ。場内も、天井が高く、周囲の壁には紅白の提灯が取り付けられており、芝居の感興が盛り上がる。大阪の人たちは、こういう場所で文楽が鑑賞できてうらやましい限りだ。10:45から「幕開き三番叟」が始まる。いよいよ文楽公演の始まりだ。

花競四季寿

日本の四季を描く舞踏劇だ。床から舞台まで、太夫7人・三味線6人がずらりと並び、壮観である。

「万才」は、太夫(紋豊)と才蔵(幸助)の万歳で京都の正月の風物を表現する。初春らしい、のどやかさだ。昨日、正月の京都を訪れたばかりなので、感慨深い。

「海女」は、月明かりの海の景色から始まる。海女(清之助)が恋の悩みを戯れ歌で独白しているところに蛸が現れ、邪魔をする。いわばチャリ場だ。

「関寺小町」は、晩秋の薄野で老醜を晒す小野小町(文雀)の姿を描く。寺の鐘で妄想から我に返り、杖をつきながら、とぼとぼと歩みだす姿が哀れだ。文雀の繊細な遣いに息を呑む。

「鷺娘」雪の原で鷺の化身の娘(勘十郎)が傘二本を持って優雅に舞う。うしろぶりが何とも言えず美しい。さすが女形が得意な勘十郎だ。

いずれも見事な舞であった。美しい四季があり、それを繊細に表現する伝統のある日本に生まれてよかったと改めて思う。

30分の休憩。席で弁当を食べる。

御所桜堀川夜討

「御所桜堀川夜討」から「弁慶上使の段」。先日観た「義経千本桜」の「堀川御所の段」の外伝のような物語だ。「義経千本桜」では、卿の君を無駄死にさせた弁慶が、本作では悲劇の主人公となる。

奥を勤めたのが伊達大夫と清治。伊達大夫は、ダミ声だが、観客をぐいぐいと物語に引き込んでいく迫力がある。信夫(簑二郎)がまだ見ぬ実の父・弁慶に謀殺されると、母・おわさ(和生)は狂乱する。胸が塞がる愁嘆場だ。しかし、それ以上に、初めて見える娘を我が手に掛けた弁慶(玉女)の苦悩が凄まじい。玉女がカンヌキを切れ味鋭く決めながら、弁慶の葛藤を剛直に描いていく。子殺しという究極の悲劇にもらい泣きしたのは、太郎(玉輝)・花の井(文司)夫婦だけではない。これまで、オペラを観て涙が頬を伝ったことはない。

終了後、長女が一言、「凄かったね。」彼女もちゃんとした鑑賞眼を備えつつあるようだ。

壺坂観音霊験記

「土佐松原の段」義太夫は、咲甫大夫と清馗。咲甫大夫は、朗々とした美声を聞かせる。年配の太夫のような深みはないが、真摯な語りには好感が持てる。お里を遣う文雀は、出遣いではなく、黒頭巾を被っていた。

「沢市内より山の段」まず、住大夫と錦糸が沢市(文吾)とお里(文雀)の会話を語る。元日にNHK教育で放送されたのと同じ箇所である*1。実演は、いっそう渋みを感じさせた。

切は、十九大夫と富助・龍聿(ツレ)。「塩谷判官切腹の段」、「寺子屋の段」、そして本段と、切場ばかり十九大夫を聴いたが、おそらく今、最も脂の乗った切語りではないか。深々とした重厚な声は、切に相応しい。富助の三味線も、ここぞというところで鋭い撥捌きを聞かせた。この人も大成が期待できる三味線だ。文雀・文吾の枯れた人形遣いも味わい深いものがあった。

3作ともすばらしい公演だった。わざわざ大阪まで観に来た甲斐があったというものだ。最初から見事に嵌った文楽だが、すでに、引き返せない一線を越えてしまったような気がする。玉女と勘十郎には、長女ともども御贔屓筋になってしまった。

帰り際、もう一度、資料室を覗いていく。今度は、長女も「楽ちゃん」を持たせてもらった。劇場を出た後、案の定、二人に「ねえ、パパは文楽の人形持ったことある?」と聞かれた。うぬ、私も持たせてもらうべきだった。

*1:帰宅後、床本と照らし合わせながらビデオを視聴すると、ところどころ省略があることに気づいた。一部の台詞が放送コードに抵触したようだ。

文楽先人たちの墓所

後ろ髪を引かれる思いで国立文楽劇場を後にし、千日前通を東に歩いていく。谷町九丁目の交差点の手前を左折し、しばらく進むと、本経寺の山門の脇に「豊竹若太夫墓所」の石碑が建っていた。若太夫は、竹本座と競った豊竹座の興行主である。文楽中興の祖の一人だ。

谷町筋に出て、谷町六丁目の交差点の近くまでいくと、「国指定史跡・近松門左衛門墓」があった。マンションとガソリンスタンドに挟まれた狭い路地の奥に、夫人と並んで戒名の彫られた墓石があった。これは供養墓で、尼崎の廣濟寺の墓が本墓という説もあるが、三人で手を合わせる。

大阪城

地下鉄谷町線谷町六丁目から谷町四丁目まで移動する。目指すは大阪城である。大手門(1628年築:重要文化財)をくぐって二の丸に入る。大阪夏の陣で焼失し、天守閣は昭和の再建なので、全体に新しいと思っていたら、多聞櫓(1848年築:重要文化財)、千貫櫓(1620年築:重要文化財)など、江戸時代の建造物が数多く残っている。また、城壁には、呆れるほど大きい巨石がごろごろ使われており、100t前後の推定重量もさることながら、土木工事を担当させられた大名の財政負担の重さに同情したのであった。

桜門をくぐって本丸に入る。高さ55mの天守閣は、1931年の建造だが、なかなか壮麗である。天守閣の前には、1970年の日本万国博覧会の記念行事である「タイム・カプセルEXPO’70」が埋設されていた。1号機の開封は、何と6970年だという*1。SFでもまずお目にかからない気宇壮大な時間感覚だ。5000年後もこの地が陸上にあり、かつ開封できるだけの技術を持った文明が栄えていることを期待しよう。

天守閣8階の展望台まで登ってみると、夕暮れ時の大阪市内がぐるっと見渡せた。東には生駒山信貴山の山並みが見える。南西には、通天閣を望むことができた。残り時間が少なくなってきたので、天守閣内の展示物の見学は、そそくさと済ませ、北側の極楽橋で内濠を渡る。京橋口から城外へ出る。天満橋から地下鉄谷町線に乗る。

*1:2号機は、2000年以降、100年毎に開封するという。次回開封の2100年は、閏年ではない特異年なので、要注意である。

曽根崎心中

最後の訪問地は、東梅田の露天神社である。近松門左衛門浄瑠璃曽根崎心中」の舞台となった神社で、お初に因んで「お初神社」と愛称されているようだ。今回の旅の最後のお参りをする。境内には、お初と徳兵衛の銅像があった。遊女と手代の道行は哀れだが、このように二人仲よく並んだ姿を後世に留めることができて、本望だろう。像に手を合わせる。

石の鳥居の基部には、「先の対戦中大阪駅方面から飛来したという米軍グラマン戦闘機による機銃掃射弾丸跡」という貼紙があり、その近くに弾痕が4つ残っていた。艦載機F6Fの12.7mm機銃か。

新大阪駅の静御前

露天神社大阪市内観光を終え、梅田から地下鉄御堂筋線に乗り、新大阪に行く。ここまで来れば安心だ。中央口にある文楽人形を娘たちに見せる。文雀拵えの静御前だ。最後の最後まで文楽尽くしの旅であった。

帰京

お腹がすいたので、大阪名物たこ焼きを食べようと、地下の「たこ昌」に入る。あつあつのたこ焼きを三人で頬張る。私は生ビールを飲んで打ち上げ気分だ。

その後、買い物をしたり、駅弁を買ったりした後、18:30発のぞみ40号に乗車すべく、26番線に上がる。やはり悪天候のためか、5分程度遅れるという。18:35頃到着した700系C58編成に乗車。11号車5番A・B・C席に座る。発車後すぐに駅弁を食べる。食後、旅の疲れがどっと出て、寝てしまった。検札は、ひとり起きていた次女が対応してくれたらしい。頼りにならない父親である。

例によって熱海のあたりで目が覚める。名古屋から先で遅れを取り戻したらしい。20:57定刻通り新横浜に到着。横浜線東横線南武線の乗り継ぎもよく、21時半過ぎに無事帰宅できたのであった。今回も、1泊2日とは思えない濃密な旅だった。娘たちは、この旅のことを覚えていてくれるだろうか。