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・・・忙しい毎日の片手間に、ちょっと戦争に反対してみる。
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▼<米銃乱射>容疑者は同大在籍の韓国出身学生 計画的犯行か
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/virginia_tech_shootings/?1176819198

嫌韓厨おおよろこび、かと思ったら、↓

長崎市長、銃撃され心肺停止…殺人未遂で暴力団幹部を逮捕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070417-00000012-yom-soci

ショボーン('・ω・`) 




・・・長崎とヤクザと自民党、といえば思い出すことがある。

小沢和秋衆院議員による国会質問(2003年)
http://www.mmjp.or.jp/jcp-ozawa/new_page_227.htm 
>小沢氏は、自民党長崎県久間章生衆院議員の政治資金収支報告書をもとに今回調査したとして、「同県内の自民党支部は165。その支部長はほとんどが地方議員や企業・団体の社長や役員で占められ、事務所は建設会社や銀行のなかにおかれているものもある。報告書の食い違いも目立つ」と説明。
>小沢氏によると、自民党県連は、1995年から2001年までの7年間に諌早湾干拓事業および県内の港湾・漁港工事受注企業から総額4億3430万円の献金を集め、ほぼ同額を県内の自民党地域支部などに政治活動費として支出されており、そこからさらに地方議員などに配られている形です。
>久間議員の場合は、自らが支部長を務める「長崎県第2選挙区支部」から、2001年までの7年間に、選挙区内の各支部と県議や市議・町議、町長らに約8300万円を支出。きめ細かく地域支部と議員に政治資金を配分し集票力と権力基盤を維持している構図が浮きぼりになっています。・・・

・・・とおもったらこんな報道。

▼「温泉施設工事巡りトラブル」容疑者の文書、テレ朝報道 [朝日新聞]
http://www.asahi.com/national/update/0417/TKY200704170356.html
テレビ朝日は17日夜のニュース番組「報道ステーション」で、城尾哲弥容疑者が送付してきた伊藤一長市長を批判する文書の内容を報道した。同番組によると、文書は封筒入りで長崎中央郵便局の15日付の消印があり、長崎の公共事業の受注状況に不満を述べたうえ、伊藤市長との間で温泉施設の解体工事の受注をめぐってトラブルがあったと主張しているとしている・・・

・・・市長についてはこういう声も。

伊藤市長は政府が国民保護計画で核攻撃を「手袋、帽子、雨がっぱ等で」しのぐよう指示したことをはっきり拒否した人。
http://www.asyura2.com/07/senkyo33/msg/607.html
核廃絶が唯一の手だて 広瀬方人(まさひと)・長崎原爆被災者協議会理事の話
>手袋や雨がっぱなどで被ばくを防げないのは被爆者なら誰でも知っている。長崎市国民保護計画案が核攻撃を想定した項目を除外したのは評価できる。国民を守る唯一の手だては核兵器廃絶しかないということを国は認識し、そのための外交努力に徹すべきだ。


Q2:「虐殺がなかったから、南京の人口は増えた」?

南京事件FAQ(JOHNVOIDさん作)
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nankin_faq.html

・・・上記サイトは今では閉鎖されているので、勝手ながら
サルベージさせてもらっている。
ちなみにQ1はこちら。http://d.hatena.ne.jp/claw/20041002
で、今回はQ2。

南京事件FAQ(JOHNVOIDさん作)
Q2
 南京で虐殺はなかった。その証拠に日本軍が南京に入場した時の難民の数は20万で、1か月後には人口25万人に増えている。虐殺があったのなら、一般市民は南京に戻らないはず。


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A2 事実
 南京市の人口が25万に増えたというのは嘘。否定派の使用する初歩的なトリック。

(1)南京市には最初から25万人の市民が残っていた
 ラーベら国際安全委員会では、南京市に残る市民の人口を事前に20万人と見積もっていたが、実際に統計調査をして確認したわけではないので、当てずっぽうの見積もりだった。
 日本軍の占領後にスマイス博士らが統計調査をした結果、安全区に避難した人口が20万、安全区外の南京市に残っていた人が5万人で、合計25万人の市民が逃げずに南京市に残っていたことが判った。 

事前に予測した難民数 実際に残っていた難民数
約20万 約25万

 この「予測と実際残っていた難民数の差」を「市民が戻ってきて増えた数」にすり替えているのが否定派のトリック。

 これらの安全区外の市街地に残っていた5万人の人々も日本軍の暴行・略奪・放火に耐えかねて安全区に逃げ込んできた。これらはラーベの日記の1月17日の記述と日本軍特務機関の報告書で確認できる。

 難民数は今や約25万と見積もられている。増えた人たちは廃墟になったと
ころに住んでいた人たちだ。彼らはどこに行ったらいいのか判らないのだ
 「南京の真実」p190



(2)南京市に戻ってくる難民はほとんどいなかった。
  城外から南京市に戻ってくるくる市民がほとんどいないことは、南京攻略軍の司令官であった松井中将が占領地行政の問題点として雑誌記者に語っている。

雑誌「改造」昭和13年3月号

 松井指揮官・山本実彦対談

 三軍を統べて我民族のために上海、蘇州、講習、南京で大捷し、歴史的の偉業を、基地でホット休養している松井指揮官を私は大晦日の午後に訪問いたしまして約一時間会談を遂げることができました。
(中略)
山本: 南京もよく行きましたね。あれほど早く陥ちるとは思ひませんでした。
松井: 実は僕らも、もう二週間ぐらいは後になるだらうとおもっていたが、案外に早かった。蒋介石の教導総隊だけは相当に抵抗をつづけたが、後はたいした抵抗をしなかった。だから南京は都合の好いことには余り破壊されていない。蘇州も十分の一位しか壊れていないが、占領地域の人民の帰って来るまでにはやはり一月位はかかるだらうね。今でも一日に六百人位は帰って来るとか云ふ話だ。
(後略)
    偕行社「南京戦史資料集II」p197

 昭和12年12月末の時点で、松井司令官は日本軍の占領した南京や蘇州に一般市民が戻ってくるのに1ヶ月はかかると見ている。
 東中野修道が昭和13年1月になって南京安全区の人口が25万となったことを根拠に「市外から南京市に市民が戻ってきた」と主張していることが成り立たないことが判る。
 一日に600人ぐらいの難民が戻ってくるのなら、5万人の人間が増えるのに要する期間はおよそ83日間、2ヶ月半もかかる勘定になる。



ポイント
(1)20万人は事前の推測にすぎない。
(2)戻ってくる難民がほとんどいない事を軍が認めている。



Q3:「良民票の数からみて、民間人は殺されていない」?

南京事件FAQ(JOHNVOIDさん作)
Q3
 日本軍は南京が平静を取り戻したのち、軍人と民間人を識別するために「良民票」を発行したが、その発行数は約20万で、これは外国の機関にも確認されている数である。つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということである。



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A3.事実


(1)民間人が多数死亡している。
 これは、敗残兵を処刑した兵士自身が自覚しており、日記に書き記している。

 真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。
       (水谷荘日記、「南京戦史」P502)

 国際安全区委員会のベイツが友人に書き送った手紙の中でも、民間人の殺害者が1万人を越えている事が記されている。

 南京で殺された民間人の数についての我々の最終的な合計は、1万2000人です。そのうち9割は当時市内にいて、戦闘行為とは無関係に殺された、多くの婦人や子供、老人が含まれています。この数字は当時南京市内で、4家族にに1人の割合で殺されたことを意味します
 われわれには居住家族を調査した特別な報告があります。調査にさいして、報復を恐れての若干の非協力や隠蔽もありましたが、その結果五家族につき1人が殺されたか、負傷したか、あるいは拉致されて戻ってこない事が判りました。
アメリカのキリスト者へのベイツの回状「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」p337



(2)日本軍が南京で20万票を発行したという資料はどこにもない。

 国際安全区委員会の「第19号文書」には、良民票をもらうために登録した人数は16万人としか書いていない。

 貴下が登録した市民は16万と思いますが、それには10歳以下の子供は含まれていないし、幾つかの地区では、年取った婦人も含まれていません。ですから、当市の総人口は多分25万から30万だと思います。
 (「日中戦争資料集 9」p142-144)

住民宣撫を目的とした、南京特務機関も良民票を発行しているが、そこでは中島師団が15万人、特務機関が10万人登録したと記されており、両方合わせるとようやく25万で、20万ではない。

  此の結果良民として(老婆及12歳以下の小児を除く)安居の証を交付せるもの左の如し
   中島兵団 150,000
   特務機関 100,000
    計    250,000
 
 南京特務機関第一回報告(1月21日提出)
15年戦争極秘資料集13「華中宣撫工作資料」p152

 同じ報告書の中で、難民が南京市の城門を通行する事が厳重に制限されていた事が記されているので、逃げ遅れた難民が場内に最初から25万人以上いたことになる。これによって、南京が安全になったので難民が戻ってきて人口が20万から25万に増えたという否定派の主張がウソである事が判る。


(3)南京場内は平静ではなかった。


 平静でなかったのは、日本軍が敗残兵狩り、略奪、暴行、放火を行っていたから。このことは東京裁判で日本の無罪を主張したパール判事でさえ認めている。 

南京における日本兵の行動は凶暴であり,かつベイツ博士が証言したように,残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり,合計6週間に渡って、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見られたのは、ようやく2月6日あるいは7日すぎてからである。
  「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(講談社学術文庫)P600



 国際安全区の委員会のベイツは、手紙の中で次のように述べている。

 みなさんには、無防備である民衆の中にあって、長期にわたってそのような恐怖と危険にさらされ続ける生活がどんなものであるか、考えられますか。1人の兵士が通りに現れたとき、あるいはドアをとんとんと叩いた時、あるいは悪評高い警察の雇われ人にでっちあげ上げの報告をされた時、それはただちに人身に危険が及ぶ事を意味し、ほとんど例外なしにわずかな持ち物を失うことになるのを。占領後3週間は極度にひどく、そしてそれが和らいで、6月になってやっと終わりを告げ、生命と五体の合理的安全が得られる状態になったのです。
  (アメリカのキリスト者へのベイツの回状「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」p338

・・・ということで、


ポイント
(1)中国の民間人を殺害していることを大日本帝国の兵士自身が自覚していた。
(2)民間人の殺害は少なくとも1万人以上あった。
(3)民間人への殺害は、アメリカ人ベイツの報告で裏付けられており、またパール判事がこれを認めている。



Q4:「原爆でもなければ何万人も虐殺できない」?

南京事件FAQ(JOHNVOIDさん作)
Q4
 何十万人もの人間を短期間で殺すためには組織的な準備が必要である。ナチスの収容所のような所でも、一度に殺すには限界がある。ちなみに広島の原爆で人口30万6500人のうち24万7000人が死んだ。それに匹敵する人数を、数日間で行うことは物理的に不可能である。仮に東京を絨毯爆撃しても7〜8万人が限界であると考えられている。しかし、もちろん日本軍はそのような準備はしていなかった。



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A4 事実


(1)日本軍はほんの数日で大量虐殺したのではない。

 南京での虐殺は12月13日の南京陥落から約二ヶ月間の長期間にわたって続いた。何万人も死んだのは虐殺がそれだけ長期間続いたため。
 虐殺が長期間続いた事は、極東軍事裁判で日本に有利な判決を主張したパール判事でさえ認めている。

南京における日本兵の行動は凶暴であり,かつベイツ博士が証言したように,残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり,合計6週間に渡って、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見られたのは、ようやく2月6日あるいは7日すぎてからである。
  「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(講談社学術文庫)P600



当時海軍航空隊に所属し、南京爆撃に参加した奥宮正武氏は南京攻略から13日たった時でも虐殺が行われていることを目撃している。

   そこで、翌25日から、市の内外を調査する事にした。
  第一日目は、通訳時計開閉1名を伴って、市の東部を巡回する事にした。
   (中略)
  そこから、更に車を北西方に走らせて南京城外に出て、揚子江岸にある下関(シャーカン)に行くことにした。そこで、そこで、図らずも、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺しているのを見た。
  江岸の処刑場と思われるところにはいると、それぞれ30数名をのせたトラックが次々と城内から到着していた。そして、陸軍兵たちは、彼らを処刑所の一隅に連れて行って、後ろ手に縛ったのち、江岸に引き出してきて、流れに沿った場所に一列に並ばせたのち、日本刀や銃剣で殺害していた。そして、死体を江上に投棄していた。それでも死にきれないものは銃撃で止めを刺していた。
 (中略)
 翌々日の巡回のさいにも、下関で同様な光景を目撃した。それにしても、多数の中国人を大した混乱もなく、下関まで連れてくる事に疑問を感じたので、処刑場の入り口を警戒して一人の下士官に尋ねた。彼の答えは、
「南京場内で跡片付けをさせている中国人に、腹の空いた者は手を挙げよ、と言って、彼らを食事の場所に連れて行くかのようにしてトラックに乗せてくるとの事です」
 ということであった。
 (中略)
 そのような処刑が、南京占領後二週間以上もたってからも、連日手順良く行われているとのことであった。そのことから察して、それが戦場特有の一時的な興奮状態であるとは私にはどうしても思われなかった。言い換えれば、それはある種の統制のとれた行動であると感じざるをえなかった。
   奥宮正武 「真珠湾までの50年 真実の太平洋戦争前史」(PHP)P314-318



(2)30万人を殺すのに原爆が必要だというのは嘘。
 広島の原爆で24万人も死んでいない。広島での原爆による死亡者は以下に示すように7万人で、長崎の死亡者と合わせても10万人にしかならない。

広島 7万8150人 1945年11月末広島県警調べ
長崎 2万3753人 1945年11月25日長崎市調査

「戦史叢書 本土防空戦」P642,P649



(3)原爆なしで何万人も殺せる。
  一方通常の空爆で死亡した死者の数は、以下の通り。何万人もの人間を殺害するのに原爆など必要ない事が判ります。ドレスデン爆撃では広島より多くの死亡者が出ています。
 原爆を使わなければ無理などというのはウソです。

東京大空襲 7万2000人 警視庁消防部調べ。「東京大空襲・戦災誌3」、「日本防空史」
ハンブルク爆撃 5万人 「攻撃高度4000」(カーユス=ベッカー)、「ドイツ空軍、全樹発進せよ」(ジョン=キレン)
ドレスデン爆撃 13万5千人 「ドイツ空軍、全樹発進せよ」(ジョン=キレン)、「続ドイツ空軍戦記」(S・W・ミッチャム)、「ヒトラーの戦い9」(児島譲)

 


ポイント


(1)日本軍は2ヶ月間かけて大量に殺害を行った。
(2)広島の原爆で24万人も死んでいない。
(3)何万人も殺害するのに原爆は必要ない。

・・・「川べりで中国人を殺して、死体は川に流す」というのは、当時の南京で第16師団に所属していた祖父の話とも合致する。手足を縛って冬の川に突き落とせば、犠牲者はほっといても凍死または溺死するうえ、死体の始末も必要がないのである。
・・・また、「ルワンダの虐殺」では、粗悪なナタを持った民間人によって、一説には100万人もの犠牲者が発生している。
もしや大日本帝国の英霊たちは、ナタを持ったアフリカの民間人にも劣るほど、殺傷能力のとぼしい無能な兵隊だったのであろうか?(@∀@)そんなことはあるまい。

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」