語学に精通したラッセルと哲学に見る思考の解放性


偉大なる数理論理学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell, 1872〜1970)は、“ラッセル卿”と呼ばれるようにイギリスの名門貴族の傍流の家系*1に産まれた貴族であった。
ラッセルは、かなり小さな頃から語学領域に天才的な才能を見せ始めていた。祖父母は、厳格なイギリス国教会スコットランド長老会派の熱心な信者であった為、裕福ではあったが贅沢な生活を享受することはなく、庶民以上の極めて質素で規則的な生活を送っていたらしい。
しかし、華美な生活や豪華な食事や遊興とは無縁であっても、祖母はイギリス貴族として高度な教養を身につける事をラッセルに求め、公教育ではなくお抱えの有能な家庭教師によって綿密な教育を受けた。
彼が幼時からドイツ語に堪能であったのは、天賦の才もあろうが家庭教師がドイツ人であったことも多分に影響していたと思われる。
しかし、祖母の回想によると5歳時に、少なくとも英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を文法規則を踏み外す事無く使いこなすことが出来たというから、多少の誇張表現が含まれているとは言え驚異的である。
語学を習得するには、普通、ある程度の年齢になってしまうと相当な年月がかかるものだが、日常会話に耐える程度の基礎的な部分の語学能力は、記憶中枢の可塑性とニューロンネットワークの柔軟性に富む幼少期であれば複数の言語を同時に短期間に習得できるものなのかもしれない。
ある仮説では、幼少期に余りに多くの言語を同時に詰め込むことは、言語的アイデンティティの分裂や葛藤を生み出して情緒不安定で神経過敏な性格を生み出すとも言うし、生来の語学への適性がないと幾ら無理矢理に詰め込んでもラッセルの様に複数言語を容易に習得するというわけにはいかないだろう。
また、多数の言語に精通することは世界観や知識の幅を広げる事につながるが、語学や文献資料研究の専門家でなければ、自分の人生に必要な言語だけを習得するだけでも不都合はないし、多くの人が英語以外の言語にそれほど関心を示さないのは言語のグローバルスタンダードとしての英語に実用性や有効性を見ているからだろうと思う。

そうであっても、母国語である日本語と同等に英語を使いこなせる人はやはり少数派だろう、何より、趣味の英文読解を楽しむくらいであれば、ヒアリングやスピーキングの能力を高めるモチベーションが湧かない。故に、実用的なコミュニケーションスキルとしての英語は、仕事上の顧客に外国人が居て、ビジネス交渉を英語で進めなければいけないとか、親しい英語圏の家族や友人がいるなど必要性に迫られない限り、余り高まらないように思える。英語圏の人間と実際に話す環境や海外旅行に頻繁に行く予定もないのに、ひたすら英会話を練習するというモチベーションが高まることは考えにくい。

それらから総合して言えるのは、日本人で英語が得意といっている人の大半が、読解と記述の能力に偏っているという事であり、これは『受験英語の弊害』として指弾されることもあるが、私としては必要に応じた適応ではないかと思う。つまり、話す英語・聴く英語が得意でない人は、英語圏の人間とコミュニケーションを取る目的を持たず、自分の興味のある文献・資料・論文・小説・雑誌などを読む英語を求めている結果なのである。英語を聴く機会は、洋画を見る機会の多さに比例して多くはなるが、大多数は英語を聴く耳を鍛える為に映画館に行くのではなく、迫力ある映像と魅力的な俳優や面白いストーリーを求めて映画館に行く為、脳は英語を聞き取る聴覚皮質よりも、字幕を読み取る視覚皮質をフル回転させることになり、結局、ヒアリング能力を高める事にはつながらない。意識的に聴く姿勢がなければ、外国語を明瞭に聞き分け、概念相互を結びつけて論理を追う聴く耳はできない。
というのは、映画館で、ぼんやりと映像と字幕の日本語を追う事の多い自分に対する一つの戒めを込めた話でもあるが・・。

ケンブリッジ大学入学の為にギリシア語やラテン語までも学習し、バイリンガルの域を遥かに超越したラッセルの関心は、無神論的な世界観*2を経由して数理学と社会科学という対照的な学的領域に向けられていく。

抽象的理念(数学・論理学の成果)から具体的事物(政治経済的現実)へ理性は明晰な軌跡を描き、その軌跡はブーメランのように具体的事実(政治経済的な情況)から抽象的理念(数学・論理学のような一般法則・普遍原則)へと舞い戻ってくる。
私は、ラッセルの20代の知的好奇心の行く末を見る時、そういった抽象と具象の間を揺れ動く人間精神の本性を見るような思いに囚われる。
抽象的な概念を創造し、論理的な法則や科学的な理論を作り出す作業は、具体的な自然世界や人間社会の現象を説明し予測できる時、あるいは社会に生きる人間の心に訴えかける時に力を持つ。
具体的な政治活動や社会行動を観察する時に、個人個人のバラバラに見える振る舞いの中に、ある因果や共通する性質や関係を見つけ出す事で、抽象的な概念や数値を用いる『一般的規則や普遍的法則』へと帰納していく。

具体的な現実世界だけを見るだけでは、偶然性の確率に盲目的に賭け続ける博徒になってしまうかもしれないし、抽象的な概念世界に耽溺するだけでは、現実世界との接点を失って、自分一人の内面に閉じた世界を彷徨い続ける事になる。
具体的な現象と抽象的な観念は、どちらが優れているともどちらを重視すべきともいえない、相互補完的な不即不離な関係にあり、それは人間の自然な精神活動の中でうまくバランスが取れているようにも思える。

ラッセルは、後輩の俊英ムーアとの出会いによって、弁証法を根拠とする主観と客観のアウフヘーベン止揚)としての絶対精神を説くヘーゲル哲学を脱却し、カント哲学の思弁的な理性と倫理の学を捨ててしまう。

倫理に関するラッセルの言葉に、以下のようなものがある。


http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/R601.HTM

哲学では、倫理的中立性はこれまでまれにしか求められなかったし、それが達成されるということはほとんどなかった。人々は自分たちの望みを思い出して、それと関連させて諸哲学(=哲学者たち)を評価してきた。善悪の観念が世界を理解する鍵を与えてくれるにちがいないという信念は、個別科学の世界から追い出されると、哲学に避難所を求めるようになった。しかし、この最後の避難所からさえ、もしいつまでも哲学が心地よい夢の集合であってはならないと考えるならば、この信念は追い出されなければならない。
 幸福は、それを直接追いかける人たちによってはうまく手に入らない、とはよく言われることであるが、このことは、善についても成り立つように思われる。ともかく、思想においても、善悪を忘れて事実だけを知ろう求める人たちのほうが、世界を自分の望みという歪んだ媒介物を通して眺める人たちよりも、より善を実現する見込みが多いようである。

哲学に限らず、あらゆる学問領域において、自然科学においてさえも、その学的成果の利用まで含めると、倫理的中立性を保つことは難しい。ラッセルを見ながら、フロイトの『分析者の中立性』という概念を思い出してしまった。
人間は、善悪の判断基準を、自分という社会的位置付けや経済的利害関係から離れて自由自在に下す事は難しいが、私は、ラッセルの言うような『純粋に客観的な事実』が人間社会において成立可能かという点に若干の懸念を感じる。
社会には『自分の望み』以外にも、マスメディア、集団的利害、経済戦略など無数の媒介物が存在し、それを介在して私たちは価値判断を迫られる。
媒介物からのバイアスや人生経験からの先入見としての偏見を出来うる限り排除して、事象を怜悧に見つめたいという思いを新たにしたい。


哲学の価値は、多くはその不確実性そのもののうちに求めるべきものである。哲学と無縁の人は、常識、あるいは年齢または国籍による習慣的信念、あるいは慎重な理性の協力または同意なしに自分の心に生い育ってきた確信等に由来する偏見にとらわれて生涯を送る。そのような人にとっては、世界は明確で有限で明白なものとなってしまいやすい。ありふれた対象は問題を呼び起こすことなく、未知の可能性は軽蔑的に拒否される。ところが反対に、我々が哲学的思索を始めるや否や、始めの方の諸章で見たように、我々はごく日常的な事物でも極めて不完全な答えしか与えられないような諸問題に導いてゆくものであることを知るのである。哲学は、それが提出する疑問に対して真の答えが何であるかを確実性をもって教えることはできないが、我々の思考を拡大し、習慣の専制から思考を解放する多くの可能性を示唆することはできる。従って、事物が何であるかということについて、我々の確実性の感じを低減させるのではあるが、事物がなんでありうるかという知識は大いに増大させてくれる。それは人を自由にする懐疑の領域に足を踏み入れたことのない人々のいささか尊大な独断論を除去し、普段なれ親しんでいるものを見慣れない相貌において示すことによって、我々の驚異感を生き生きと維持してくれる。

現代における哲学の価値の一部は、『世界把握の自由性の開示と自由性を保障する為の既存価値体系の相対化』にあると考えている。
今まで当たり前で何の疑問も魅力も感じなかった事象(常識・習慣・規範)や事象と結合した概念を、自分の理性と感性で見つめなおし、懐疑し、新たな解釈や認識を生み出すこと、それを他者の解釈や認識と相互参照して更なる新たな可能性を探し出すこと・・そういった終わりなき言語的な思索活動の循環から得る驚嘆や快楽に哲学の魅力を感じる。

言語の論理形式や物理的対象との関係を巡る言語哲学、人間理性の象徴としての言語機能と客観世界の照応を巡って人間は自己言及的に世界と他者のあり方を『言葉』で問い続けるのでしょうか。

*1:ラッセルは、幼少期に両親を揃って亡くし、祖父母に引き取られて18歳まで養育される。祖父は、第6代ベッドフォード公爵の三男であり、伯爵位エリザベス女王から下賜されている。

*2:ラッセルは、成育環境が厳しいキリスト教的雰囲気に包まれていた反動なのか、10代で自由主義を提唱したJ・S・ミルなどの著作を読み進める中で、この現実世界以外に天国や地獄を想定する形而上学的な世界観を放棄する。ラッセルが、世界の成り立ちに用いる最高の武器としたものは、明晰で揺ぎ無い理性であり、その点において彼は、数学や論理学といったアプリオリな知による20世紀の数理的合理精神を代表する哲学者である。

アニミズムの衰退と自然世界の機械化

id:cosmo_sophy:20041222で、原始宗教の心情的基盤にあったアニミズムの思想について触れました。

シャーマン(精霊術師・呪術師・呪医)が、近代以降の社会から消えた最大の原因は、自然科学的世界観の普及です。
デカルトが、人間精神(思惟)と事物・現象(延長)を明確に切り離す二元論を展開し、徹底した機械論的自然観を採用して、自然や動物植物を科学の観察実験対象としました。
個々の事物(延長)は、物質の本質である延長の制限された部分に過ぎず、自然界の一切の質的な違いは、形・大きさ・運動の量的差異に還元され、自然界に起こる運動や現象は、物理学的法則によって機械的に規定され、人間精神は科学的手法によって自然界を統御する法則を知ることが出来るというのがデカルトの自然観の要約です。
自然世界を機械仕掛けの劇場と見て、自然に生きる動物達を神によって精巧に作成された機械と見るようなデカルトの考え方は、現代社会の環境破壊活動を抑止する根拠を持たない極めて人間中心主義的な独善です。

近代的科学精神の進行そのものが、自然世界の全てに不可侵の生命力や神秘的な力が宿るとする原始的アニミズムや自然界の山や川、大岩、大木に神々の霊性を見いだす汎神論を否定する流れと解釈する事ができ、文明論で言えば西洋の合理主義が東洋の神秘主義を啓蒙し駆逐する過程とも言えます。
20世紀の著名な発達心理学者のピアジェなども、アニミズムを人間精神の幼児的な初期の発達段階だというような言い回しでアニミズムを低く評価しているようですが、それは近代思想の枠組みにどっぷりはまり込んでしまった為の勇み足だったのかもしれません。
自然の壮大な景観(峻険な岩山・雄大に流れ落ちる滝・多様な生命を養う川・何百年も生き延びた巨大な木々)、動物の愛らしい姿や生物の巧妙な生命維持の仕組みの中に、生気論のような特別な生命エネルギーを見出す認識や解釈であるアニミズムを『幼稚な妄想だ』と簡単に片付けるのは、人間の感受性や想像力を無情に切り捨ててしまうようで少し淋しい気もします。
自然科学は自然科学の思想や手法で、生命と非生命を切り分ける必要はもちろんありますが。

自然を合理的精神によって克服し『利用すべき物質』と見るのか、共生的精神によって融和し『共存すべき生命』と見るのか、近代から1900年代後半に至るまで、自然は人間の為に利用され続ける物質として扱われましたが、様々な環境破壊の影響が露になってきた結果、現在では自然環境保護や破壊された環境の再生、産業の為の自然開発の抑制やCO2削減などが声高に叫ばれるようになりました。

そういったエコロジーな環境思想の気運の中で、森羅万象に精霊が宿るとするアニミズムの思想を見直すべきだとする意見も活発に為されているようです。
近代思想は、自然の擬人化や自然の神秘性を抑圧して、徹底的に人間の生活水準向上の道具として利用することを目指しましたが、やはり、自然への畏敬や感謝の念を完全に忘却してしまうのは危険であるという環境思想の揺り戻しが起こっています。
自然は、時に、雷や大地震を起こし、強力な台風や津波を起こして、人間に対して残酷で猛烈な破壊力を見せ付けますが、それでも、人間の生命は、地球という閉じた系に蓄積された資源や循環する生命によって支えられています。

自然と文明の対立から自然と文明の融和へ、というのが21世紀に課された一つのテーマでもあるでしょう。


ドイツの風力発電に関する環境問題では、発電する方法が再生利用可能かどうか、環境に被害を与えないかという基準以外に、従来の農村や自然の景観や美観を損ねないかが問題となっているようですが、日本は、都市部の画一的で雑然とした景観の魅力の無さに代表されるように、都市整備において余り景観を重視してこなかった国ですが、もう少し広告や看板の基準を統一して都市の美しい景観作りに努めて貰いたいと思うところもあります。

日本の政令都市の駅前や地方都市の繁華街の景観が、何処にいっても余り変わり映えがせず、魅力的な個性がないところや全体としての統一感や建築物相互の均整が取れていないのは、場当たり的な都市計画行政の問題と同時に、経済的繁栄の饗宴の中で景色の美しさの価値を軽視してしまった私たちの問題でもあるのかもしれません。

日本列島改造計画というスローガンを掲げた首相もいましたが、やはり、人工的に自然を改造しようという近代のフロンティア開拓精神が背景にある気がします。
『改造』という言葉は、今では余り使用する事がなくなりましたが、改造人間キカイダーを彷彿させるような工学的な人工的改変というかメカニカルな改造を想像させられます。
以下に、ドイツの風力発電と景観問題についての記事を引用しておきます。



http://www.eic.or.jp/library/pickup/pu041216.html


原子力発電所 vs 反対派市民」「有害物質を出す工場 vs 市民団体」。以前の環境運動の構図は簡単明瞭でした。保護派には明確な「敵」がいました。現在の環境問題はちょっと複雑です。廃棄物問題、交通公害などに代表されるように、「敵」=問題の原因は環境団体の中、また自分自身の生活の中にもあります。
 風力発電と景観問題でも、その構図が成り立ちます。風力のエネルギー利用は気候変動防止に貢献します。しかし、設置場所の周囲の自然や、景観を損います。「グローバルな環境の問題 vs ローカルな景観保護」というジレンマを生み出しています。
(中略)
設置数15,797機、設置容量は約15,000メガワット(2004年6月現在)。ここ10年、ドイツの風力発電利用は急激に伸び、現在世界ダントツのトップです。その背景には、まず、1991年に施行された「電力供給法(Stromeinspeisungsgesetz)」があります。風力や太陽光など、再生可能なエネルギー源によって作られた電力を電力供給会社が20年間買取ることが義務づけられ、その最低買取額が定められました。再生可能エネルギーを作れば必ず誰かが一定額以上の値段で買ってくれ、生産者に必ず利益が出る仕組みができたのです。一種、自由競争を妨げるようなシステムですが、これにより、発展途上で市場も狭く、原子力化石燃料に比べて生産コストがかかる再生可能エネルギーを普及させるのがドイツ政府のねらいでした。この法律は、2000年、EU内での電力市場自由化に伴い、内容の修正、拡張が行われ、「再生可能エネルギー法(Erneuerbare Energie Gesetz)」として新たに制定されました。現在、ドイツの一次エネルギー総消費に占める再生可能なエネルギーの割合は、約3%、総消費電力に占める割合は9%です(2003年データ)。風力エネルギーの買取価格は1kWh当たり約9セント(約12円)、太陽エネルギーは約50セント(約70円)となっています。
(中略)
上に挙げたような法律で、ドイツ政府が再生可能なエネルギーを手厚く保護するのは、風力や太陽熱が、問題の多い原子力化石燃料に替わるエネルギー源として将来必要になる、公共の福祉に役立つ、と認識したからです。今もっともその恩恵を受けているのが、エネルギー減価償却期間が1〜1.5年と短く効率がいい風力発電です【1】。しかし、最近のプロペラは、全長140〜160メートルと巨大で、広範囲に渡って周りの景観に視覚的影響を与えてしまいます。
 景観はひとつの公共資源です。連邦自然保護法の第一章では、動植物とともに、景観(美観)も、守られるべき資源であるとはっきりと明記されています。景観は、人々が保養する空間、そして文化遺産です。社会全体で見れば、風力発電は、気候変動防止という意味で公共の福祉に役立ちますが、ローカルな観点では、同じく公共の福祉として重要な景観に損失を与えかねません。建設法第35章によって風力発電に与えられている特権は、ここで自然保護法第一章と衝突します。ただ、景観が美しいかどうか、価値があるかどうかは、客観的に表すことが困難です。見る人の知識や経験によって変わってきます。風車建設の際、一番解決に困る問題です。

景観が保護されるべき公共資源であるという点には強く同意しますが、ドイツ人の環境景観に対する審美眼はかなり厳しそうですね。サイトの写真を見る限り、黒い森をバックにして、悠々と回転する大きな風車は景観としての違和感は、私としてはそれほど感じませんでした。
そこの部分が、『客観的に数値化できない景観の美が、見る人の知識や経験によって変わってくるので、風車建設の際の解決困難な問題だ』という引用部の最後の警句に該当するところなのでしょう。