同人批評論集『渡邉大輔文芸論集』(辻村深月氏インタビュー収録!)販売@第15回文学フリマ


渡邉大輔です。
今週末の11月18日(日)に、東京流通センターで開催される第15回文学フリマ(11時〜17時)に、サークル<限界研>で参加します。
公式サイトはこちら⇒文学フリマ | 小説・評論・詩歌 etc.の同人/商業作品展示即売イベント
ブースは、「エ‐32」です。

商品は、限界研の既刊同人誌2冊と、限界研の新刊『21世紀探偵小説』(南雲堂)

21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊

21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊


そして、僕と、メンバーのSF評論家・翻訳家の海老原豊さんが、個人で同人評論集を販売します!
僕の本は、『渡邉大輔文芸論集』とし、2005年の評論デビューからこれまでの文芸評論関係の論文や書評、エッセイなどの中から、代表的なものをセレクトし収録しました。
そして、なんとなんと、特別掲載として、今年7月に第147回直木賞を受賞された、辻村深月さんの録り下ろし特別ロングインタビューも掲載しています!!
直木賞受賞後、ますます人気若手作家の地位を不動のものとしている辻村さんですが、今回のインタビューはその中でも、『21世紀探偵小説』との問題意識も絡めた、「本格ミステリ」という視点から、辻村さんのこれまでのお仕事と現在、そしてミステリの今後を見通す、とても濃密なインタビューになっています。
これはお買い得。ぜひぜひお求めいただきたいと思います。
ちなみに、目次はこちら。

[特別掲載]「分家の子」として、次世代にミステリを手渡す――辻村深月インタビュー

Ⅰ 純文学

死児とメディア化――赤坂真里論

青春の変容と現代の「死霊」――埴谷雄高

地図のように仮面のように――中上健次

Ⅱ ミステリ

複雑さをめぐって――西尾維新

経験と実在――『オイディプス症候群』論

虚無から天啓へ――『天啓の器』論

笠井潔<矢吹駆シリーズ>論

メフィスト系の考古学――高里椎奈

高田崇史について

現代ミステリは「希望」を語る――辻村深月

辻村深月について

Ⅲ ライトノベル

<セカイ>認識の方法へ――セカイ系あるいはリアルと(しての)倫理
ライトノベルミステリの現在

自堕落さをめぐって――『ヤクザガール・ミサイルハート』論

伝承と数理をめぐって――『狼と香辛料』論

辻村インタビューの冒頭部分、および序文もそれぞれ掲載いたします。

――このたびは直木賞受賞、おめでとうございます。まずは、ご受賞後のお気持ちからお聞かせいただけますか。
辻村 ありがとうございます。実は『鍵のない夢を見る』は兼業作家から専業作家になったタイミングでまとめて連載をお請けした八本のうち最後の作品で、それで直木賞をいただいたんですね。だから私のなかではこの二、三年取り組んできた八本全部で賞をいただいた気がしています。連載がひとつひとつ終わってくれて、その度ほっとしつづける日々でしたから、今回、受賞作として評価いただいたのは、何か「ポイント」があったんだろうと思います。
――その意味でも、ご自身のキャリアのひとつの区切りになったということですね。辻村さんといえば閉鎖された不思議な学園空間を舞台にした『冷たい校舎の時は止まる』でメフィスト賞を受賞してデビューされたこともあり、当初は「青春ミステリの旗手」というイメージが強かったと思います。実際、初期のころは扱われる題材やテーマにしても、かなりはっきりと一貫していたように思うんですね。一方、ここ最近の作品は、ファンタジーあり、ホラーあり、さらに青春小説、恋愛小説もあり、一気に作風やテーマが広がった印象があります。しかも、先ほどもお話にあったように、それらじつに多彩な作風のものを並行して書かれていた!それは改めてすごいことだな、と思います。
辻村 あれこれ書いてきて、いまは正真正銘「貯金がゼロになった」という状態ですね。今回、ご依頼いただいて嬉しかったのは、私は「ミステリの子」でいたいんですよ。自分はミステリに育ててもらったと思っていて、この間、書いてきた全部のものがミステリのロジックやタメと外し、間合いの取り方、呼吸の仕方を使って書いてきたんです。だけれども「ミステリに距離を置いている」という読み方をする方もいると思うんですね。限界研のご本にもそんなふうに書かれていましたけど、そんなことはないんです!(笑)
 ただ、なにがミステリなのかとか、SFなのかファンタジーなのかというのは、自分の決めることではないと思っていて。書かれた作品を読んで「これはミステリだ」と言われる方もいるだろうし、そういう向きが大半なのであれば世間的にミステリとみなされるのであろうし、そうでないと言われれば、そうなのであろうと。たとえば『オーダーメイド殺人クラブ』はミステリの年間ランキングにも入れていただいたんですけど、きっとミステリだと思って読んでいない人もいる。『鍵のない夢を見る』にしても「ミステリでないもので受賞になって」と思う方もいるかもしれないんですけれど、うち一編(「芹葉大学の夢と殺人」)は推協賞(日本推理作家協会賞)にノミネートさせていただいていますし、「こんなに『事件』を書いているのに!」と思いもします。
 もしこのタイミングで「ミステリと距離が開いた」という風に見られるのであれば今後、意図的に詰めるようなことをしてみたい、どうやって詰めたらいいだろう、という気持ちがあって。今日お話するなかでそのヒントを見つけられればなと思って、お請けしました。
――ありがとうございます。辻村さんのミステリに対する思い入れはいま、充分に伝わりました(笑)。限界研の最新評論書『21世紀探偵小説』は、「本格ミステリ的な想像力が変容しているのではないか」という、ひとつの大きな批評的仮説のもとに文脈づけたものなので、もちろん、個々の作家さんのお気持ちとは背反する部分も当然あると思います。実際、近作もミステリ系の読者や文学賞からも変わらず注目されていますね。ぼくたちとしても、そうしたミステリ評論側から提示してみた見取り図と辻村さんご自身のお考えを照らし合わす、いい機会をいただけたと思っています。
ともあれ、辻村さんもあと数年で作家生活十年を迎えられますし、ぼくたちも「新本格ミステリ誕生二五年」を機に『21世紀探偵小説』を刊行しました。メフィスト賞誕生からも間もなく二〇年です。今回の辻村さんへのインタビューを通じて、ここ十数年のミステリシーンの変遷の一端が浮かび上がってくればいいなと思います。
 さて、辻村さんのデビュー作から現在までの作品を見ると、大きく二つの時期に分けられると思うんですね。〇四年のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』から〇七年の『名前探しの放課後』までは――後者が前者のある種の「リメイク」とも呼べる作品だったように――、主に学園を舞台にして中高生の主人公たちが活躍する、「青春ミステリ」的なモティーフの作品をわりと書かれていた。そして、それはある人物の「名前」を解き明かすという物語によって、ミステリ的な趣向ともスムースに繋がっていたと言えます。そこまでで「第一期」と言いますか、ひとつのサイクルが終わったように見受けられます。続いて、二〇〇〇年代末の『太陽の坐る場所』(〇八年)、あるいは『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(〇九年)以降は新しいフェイズに移ったのではないでしょうか。
具体的には、それ以降は、わりと郊外や地方に住む二〇代から三〇代、とりわけ女性(女子、母娘……)のコミュニティとそこで起こる葛藤をしばしば描くようになり、そして今年のご受賞に至った感じがするんですね。仮に以上のような切断線が引けるとして、近年の「第二期」とも言うべき作品と「第一期」とで変わったところ、あるいは逆に一貫しているところも当然あるわけですが、その点について、ミステリの関わりも含めて辻村さんご自身のお考えをお聞かせいただければと思うのですが。
辻村 自分でも『太陽の坐る場所』が転換点になったな、と思っています。サイン会で「どの作品がお好きなんですか」と訊くと、長く来て下さる読者の方からは『名前探し』までのタイトルしかほぼ出ないんです(笑)。『名前探し』までを愛して下さる十代のファンがすごく多い。
『名前探し』のときまでは「連載」ではないんですよね。そこまでは書き下ろしで書いていた。それが『太陽の坐る場所』以降は連載をはじめ、並行して連載が増え……というかたちになりました。連載と、書きおろしでは体力の使い方、脳の使い方が違うんです。書きおろしは自分のなかでずーっと熟成されてきた物語に向き合って、そのことだけを考える作業のような気がするんですが、連載は「違う世界」にも目を向けてみようと思う感じなんです。新しくフィールドを開ける、というか。
 それと連載の場合には連載媒体の雑誌があるので、その媒体ごとにいる読者のひとたちにむけてどんなものを作っていくかという、職業として小説を書く感覚が書き下ろしのときよりも生まれますね。
 書き下ろしで書いてきたときには一〇代の、教室に縛られているような閉塞感について書いてきたけれど、教室を出ても自分たちがまだ自由ではないという、その息苦しさについて書いてみたいな、という気持ちがだんだんと芽生えてきたんですね。うっすら“もや”がかかったような絶望というか……死にはしないし、切実でもないけれど、だからこそ真綿で首を絞められるようなイヤさ。そういうものについてまだ誰も名前をつけていないし、書いていない。そう思って。でも、そのただなかにいる子たちは、苦しいときに本当はフィクションの力を借りればいいところを、物語には助けを求めないで自分の現実、「いま・ここ」だけを見てしまって、遠くに目がいかない。でもその子たちが自分の状況やきもちをあらわす言葉をもたないのであれば、言語化するようなことをやってみたいと思いはじめたんですね。[…]

続きは本誌で。ご受賞後のお忙しい中、快くインタビューに応じてくださった辻村深月さん、ほんとうにありがとうございました!!

この同人誌は、わたしの批評家としての二〇〇五年のデビューから現在までのうち、各種単行本などに未収録の文芸評論関係の原稿を整理し、その代表的な仕事を選択・収録したものである。
まず、本誌を編むことになった経緯を簡単に記しておきたい。
繰り返すように、二〇〇五年から出発したわたしの批評家としてのキャリアはまだほんの七年ほどだが、その仕事の内容は大きく二つの時期に区分できる。すなわち、二〇〇八年を境として区切られる、文芸批評やサブカルチャー評論を中心にしていた時期と、その後の映画批評系の仕事を行っている時期である。
わたしはもともと大学では映画を専攻していたこともあり、関心の中心は映像方面にあったのだが、デビューのきっかけが、批評家の東浩紀氏が当時主宰していた同人メールマガジン波状言論』に投稿し掲載された「セカイ系」というオタク系文化関係の論考であったことで、当初は、いわゆる「ゼロ年代の批評」などとも呼ばれていた東氏周辺の文化圏で若手批評家として出発した。さらに、その後、最初に依頼を受けて書いた原稿が文芸誌の評論特集だったこともあり、デビュー後の三年ほどは文芸評論やサブカル評論の方面で仕事をしていたのである。それが、二〇〇八年の『ユリイカ』誌で特集されたスピルバーグ論を寄稿したこと、あるいは大学院で本格的に映画史を研究し始めたことで、次第に、仕事の領域を映画批評に移していった。
わたしは、この批評同人誌の刊行と前後して、二八歳から二年近くにわたってやってきた映画/映像文化論の仕事を一冊の書物にまとめることになっている。『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』と題されたその書物は、人文書院から刊行される予定である。したがって、現在のわたしの仕事の中心はいまやほとんどがその著作に連なる映画や映像批評になっている。
しかし、この度の映画/映像文化論の単著の刊行を機に、これまでのそれ以外の自分の仕事の成果をまとめておきたいと考えた。そして、それを少なからず世にも問うことで、今後の仕事のいっそうの広がりやこれまでの足場の再確認もしたいと思うようになった。それが、本誌を企画した主な動機である。

 本誌には、二〇〇五年から二〇〇九年の四年間にかけて発表した一五編の原稿を収録した。内容は、作家論を中心とする論文から軽めのエッセイ、書評、時評、文庫解説まで多岐にわたっている。そして、それらを便宜的に、属するジャンルにしたがって、「純文学」「ミステリ」「ライトノベル」の三つに区分して割り振った。
 以下に簡単に内容を紹介しておきたい。
 第Ⅰ部には純文学に関係する三編の文芸評論(作家論)を収めた。最初の「死児とメディア化――赤坂真理論」は、『群像』〇五年一〇月号の「評論特集:11人評論競作」という評論特集に寄稿したもので、わたしの商業誌デビュー評論である。その前のデビュー評論がセカイ系という、非常にオタク系の主題を取り上げた内容だったので、次作はそこから振り幅をつけ、九〇年代「J文学」の小説言語を自分なりに検討してみようと思ったわけだ。当時、同じ特集に寄稿した福嶋亮大氏からも突っ込まれたが、文体は完全に蓮實重彦のパロディ。こんなしょうもない悪ふざけができたのも、若気の至りである。ちなみに、陣野俊史氏から『新潮』の編集長がこの原稿を褒めていたと聞かされた。思い出として記しておく。続く「青春の変容と現代の「死霊」――埴谷雄高論」は、同じく『群像』〇七年五月号の埴谷雄高没後一〇年特集の原稿。文体のノリが違うのは、当時の編集長に「こんな感じのイメージで書いて」と提示された石川忠司氏の評論文のスタイルを意識したもの。最後の「地図のように仮面のように――中上健次論」は、『ユリイカ』〇八年一〇月号の中上特集の原稿。ここで素描的に書きつけた(しかし、いかにも乱暴な…)言語哲学の知見などを借り受けた「規約=慣習」という問題系や文学言語の「エソロジー」という批評的アプローチのイメージは、いつか機会があれば、本格的に探究し直してみたいと思っている(いちおう)。
 純文学系の作家では、他に限界小説研究会編『サブカルチャー戦争』(南雲堂)所収のやや長めの阿部和重論があるので、関心のある読者は参照されたい。
 第Ⅱ部には最近の共著『21世紀探偵小説』(南雲堂)まで通じる、主に限界研(限界小説研究会)の活動を中心とした本格ミステリ関係の八編の文章を収録してある。最初の「複雑さをめぐって――西尾維新論」は、〇六年初頭に、限界研が主宰していた書評ブログ「限界小説書評」用に書いた<戯言シリーズ>(とりわけ『ネコソギラジカル』)の書評。次には、笠井潔についての三編の文章を採録した。「経験と実在――『オイディプス症候群』論」は、これも〇六年刊行の『オイディプス症候群』カッパノベルス版の巻末解説として記した原稿。その後、〇八年に光文社文庫版にも一部を加筆修正して再録された。「虚無から天啓へ――『天啓の器』論」は、〇七年刊行の『天啓の器』創元推理文庫版の巻末解説。どういう手違いか、編集者からの締切のメールを見落としていて、直前での催促のメールを見て驚き、速攻で書き上げた覚えがある。「笠井潔<矢吹駆シリーズ>論」は、『ジャーロ』四三号(一一年)の『吸血鬼と精神分析』特集用に依頼されたもの。こうして振り返ると、笠井潔氏にはデビューから現在まで実に多面にわたり影響を受けてきたことにあらためて驚く。この恩はいずれ何かの形で返さねばならないだろう。
 後半の四つの文章のうち、「メフィスト系の考古学――高里椎奈論」と「現代ミステリは「希望」を語る――辻村深月論」は、『メフィスト』で限界研が連載していた評論「ミステリに棲む悪魔」のための論文。この二つの前に書いた森博嗣論は、現在、本格ミステリ作家クラブ編『見えない殺人カード』(講談社文庫)に収録されている。残りの「高田崇史について」、「辻村深月について」は、いずれも『本格ミステリー・ワールド』の〇八年度版、〇九年度版に寄稿した作家紹介的なコラム。ちなみに、辻村深月氏は、いままでわたしがもっっとも多く論じた小説家である。
 ミステリ系の評論は、先に挙げた『21世紀探偵小説』と、それに先行する限界小説研究会の共著『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)にも計四編が収録されている。
 最後の第Ⅲ部は、主にライトノベルやその周辺のサブカルチャーをめぐる四編の原稿を集めた。最初の「<セカイ>認識の方法へ――セカイ系あるいはリアルと(しての)倫理」は、東浩紀氏の『波状言論』に掲載されたセカイ系についての投稿論文であり、二二歳の時に書いたわたしのデビュー評論である。正直にいって、自分としてはそこまで出来のよい論文だとは現在も思っていないのだが、何にしてもいまのすべてのキャリアの出発点となったテクストとして感慨深い。ちなみに、発表後は、『ファウスト』第五号所収の元長柾木氏のセカイ系論で名前を出していただいたり、斎藤環氏の『文学の断層――セカイ・震災・キャラクター』(朝日新聞出版)でかなりの紙幅を割いて批判的に検討していただいたりした。「ライトノベルミステリの現在」は、『本格ミステリー・ワールド』〇八年度版に寄稿したライトノベルミステリについての時評的文章。最後の二つの書評、「自堕落さをめぐって――『ヤクザガール・ミサイルハート』論」、「伝承と数理をめぐって――『狼と香辛料』論」は、いずれも「限界小説書評」用の原稿である。『狼と香辛料』論は、管見の限り、このヒット作をめぐって記された、最も初期の本格的な作品論ではないかと思う。

 いずれの原稿にもそれぞれに思い出があり、それについても触れていきたいのだが、またそれは別の機会にしよう。
 ともあれ、ここ最近のわたしはすっかり「映画論のひと」になってしまっている感があるが(それはそれで不満はないのだが)、もし映画系の仕事しか知らない読者の中で、本誌でわたしのそれ以外の原稿の存在を知り、その議論に少しでも広がりを感じていただけたとしたら、文筆業を続けてきた者としてうれしく思う。
 また、わたし自身も、いささか腕が鈍ってきたとはいえ、機会があれば、「文芸評論家」としてもまた復帰したいと考えてもいる。本誌がそのための有効なきっかけになることを願っている。

ということで、もろもろよろしくお願いいたします。
文フリ当日は顔を出せるかどうか、まだわからないのですが、自分の同人誌も売るし、単著も出すので、なるべく駆けつけたいとは思っています。ともあれ、よろしくお願いいたします!