学徒隊と防衛隊

藤原彰沖縄戦――国土が戦場になったとき」(青木書店、1987年)
10 学徒隊と防衛隊 P114〜P122をテキスト化しました。

女子学徒隊の悲劇

沖縄県民も軍によって根こそぎ動員され、戦いに加わった。その代表的なものが学徒隊と防衛隊である。沖縄戦と聞くとすぐに"ひめゆり"と連想するほどひめゆり学徒隊は有名である。南部の米須(こめす)の、ひめゆりの塔が建っているそばの壕は、陸軍病院の第三外科が最後にあった壕で、沖縄戦が終わろうとしていた六月一九日に米軍の攻撃をうけ、ひめゆり隊の女生徒三五名と教師五名、ほかに看護婦などをあわせて約一〇〇名が最期をとげたところである。この壕にいた女生徒のなかで生き残ったのはわずか五名であった。ひめゆり隊はその前日に解散命令をうけて壕から脱出しようとしていたが、脱出する前に攻撃をうけたのである。別の壕の女生徒たちの大部分は脱出できたものの、逃げ場もなく砲火のえじきになったり、集団自決をして多くの犠牲をだした。女生徒たちを使うだけ使って、最後には彼女たちを戦場にほうりだし、米軍に保護されることも許さなかった軍の勝手さ、無責任さと、降伏を認めず死を強要する皇民化教育がこの悲劇を生んだのである。


ひめゆり隊とは、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒の隊の名前で、戦後、このように呼ばれるようになった。ひめゆり隊には三二二名の女生徒が参加し、そのうち一九〇名(あるいは二〇〇名ともいう)もの犠牲をだした。女子学徒隊はひめゆり隊だけでなく、ほかに五つの高等女学校――県立第二(白梅)、県立第三(名護蘭)、県立首里 (瑞泉)、私立積徳(積徳)、私立昭和(梯梧)――の生徒も動員され、女子学徒隊全体では五八一名が参加し、うち三三四名(五七パーセント)が犠牲となった。


今の高校生あるいは一部は中学生にあたる年頃の彼女たちは、各地の軍の病院に配属されて即席の看護婦になり、傷病兵の看護や飯上げ(炊事)、水くみ、死体の処理などの仕事をさせられた。暗い病院壕のなかで、薬や包帯もたくなり、つぎつぎと死者や発狂者が出るなかで、不眠不休で看護にあたった。炊事や水くみも砲爆撃のあいまをぬっておこなう命がけの仕事で、しばしばその犠牲になった。


男子学徒の鉄血勤皇隊

師範学校や中学校、各種実業学校の男子生徒は、下級生(ほぼ今の中学生)は通信隊員として、上級生(今の高校生)は戦闘要員として「鉄血勤皇隊」の名で動員された。沖細師範学校、県立第一・第二・第三中学校、県立工業学校・農業学校・水産学校、那瑚市立商業学校、私立開南中学校、県立八垂山中学校の一〇校から、一七八○名の男子学徒が陸軍二等兵(最下級の兵)として鉄血勤皇隊に参加し、八九〇名(五〇パーセント)が戦死した。


沖縄帥範学校の生徒の場合、野戦築城隊、斬込隊、千早隊(情報宣伝)などに編成され、他の学校も通信隊や各部隊に配属された(大田昌秀鉄血勤皇隊』)。通信隊では配属された生徒三五〇人のうち二四七人(七〇パーセント)もが戦死するという大きな犠牲をだしている。これは通信網が寸断されたため、砲火のなかを伝令として壕から壕へととびまわらされたからである。


北部の名護にあった県立第三中学校では、二年生(約一四歳)以上の生徒が遊撃隊などに配属され、遊撃戦と特攻斬り込みの任務を与えられた。特攻斬り込みと称して、人間が一人入れるぐらいの穴を掘って、そのなかに隠れ、戦車が来たら爆雷をかかえて戦車の下にとびこんで、わが身もろとも爆破するという対戦車肉迫攻撃の訓練をさせられた(宮里松正『三中学徒隊』)。ほかの学校の生徒たちも、こうした対戦車肉迫攻撃や敵陣への夜間の斬り込みなど、生きてかえることの許されない戦闘にかりたてられたのである。


強制された学徒隊参加

学徒隊への参加は、法的根拠がないため、生徒の志願というかたちがとられ、保護者の承認がいることが建前とされていた。だが、学校が勝手に印鑑をつくって書類を作成したこともあり、事実上強制参加と同じであった。また生徒たちは、天皇と祖国のために命を捧げることを当然と思うように、日頃から徹底して教育されており、学徒隊への参加に疑問を持つこともなかった。


同時に見すごせないことは、参加しない者には強い圧力が加えられたことである。


沖縄師範学校女子部の場合でみると、生徒が九州に疎開すれば、そこの師範学校に委託生として入れることになっていた。ところが、学校内では、「疎開するのは非国民だ、国賊だ」と言われ、委託生としての疎開を許可する権限をもっていた生徒主事は、疎開するならこれまでの給費(奨学金)を全部返せとか、疎開先で死んだら犬死だが、残ってみんなといっしょに死んだら靖国神社に祀られる、どちらを選ぶか、と脅しともいえるような言葉で疎開をやめさせようとした。そのため疎開をあきらめ、ひめゆり隊に加わり戦死した生徒もあった(仲程昌徳『沖縄の戦記』)。「志願」とはいいながら、とりわけ師範学校ではそれ以外の道を認めない有形無形の圧力が強かったのである。


忘れられた防衛隊

ひめゆりの塔や健児の塔(男子学徒隊の塔)には観光客や慰霊団が絶えないのに比べ、防衛隊には碑もないし、本土ではその存在すらほとんど知られていない。


防衛隊とは、陸軍防衛召集規則(一九四二年九月制定、四四年一〇月改正)によって防衛召集された人びとをよぶ名称で、沖細では約二万二千人あるいは二万五千人が防衛召集をうけ、そのうち約一万三千人が戦死した。すでに徴兵で兵隊にとられていた人以外に、一七歳から四五歳までの男子が対象とされ、本来なら兵隊にとられなくてもすむ人びとまで根こそぎ動員された。しかも実際には人数をそろえるために一二歳から六〇歳くらいまでの人びとや病人までも召集された。すでに一九歳からは現役の兵隊にとられていたので、一九歳未満の青少年と三〇代・四〇代で家庭をもった人びとがほとんどであった。


防衛召集は、大きくいって三つの時期にわたっておこなわれ、その性格も変化している。


第一は改正前の陸軍防衛召集規則による召集がおこなわれた時期で、一九四四年になってから在郷軍人を対象に、主に特設警備中隊というかたちで編成された。これには予備役の若い人びとが中心に召集をうけ、警備にあたった。


本格的な防衛召集の実施

一九四四年一〇月に規則が改正されて、徴兵検査をうける前の一七・一八歳の男子も召集可能となり、一〇月から一二月にかけて一七歳から四五歳までの男子を召集の実施したのが第二の時期である。この背景としては、すでに九月頃までには第二四師団、第六二師団が沖縄に到着し地上兵力は充実したが、航空作戦を重点とする大本営の立場からすると、そのための飛行場建設がなおざりにされているとみられた。そこで大本営は飛行場建設を急ぐよう第三二軍に命じたため、九月以降、軍は戦闘部隊をも投入して本格的に飛行場建設に取り組むことになった。同時に防衛召集によって特設警備工兵隊を編成し、伊江島、中飛行場(嘉手納)、北飛行場(読谷(よみたん)、石垣島などに配備して飛行場建設にあたらせた。


石垣島で白保飛行場の建設にあたった第五〇六特設警備工兵隊(九〇〇名あまり)では、軍服も支給されず、衣類や日用品もすべて私物で、もちろん銃も与えられなかった。雨の日には外套もないので、「みのかさ」をつけて作業をしたため「みのかさ部隊」と呼ばれた。武器のないこの軍隊は、連日飛行場建設にあけくれ、飛行場が完成したあとは、空襲で穴だらけになった滑走路の穴うめ作業に追われた(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)。


なおこのときに防衛召集された青年の一部は、遊撃隊に配属され、遊撃戦の訓練をうけている。第三の防衛召集は、一九四五年の二〜三月の時期であり、とくに三月六日付だけで約一万四千人(本島のみ)が召集されており、防衛召集の多くがこの時期に集中している。これは、一月に第九師団が台湾に引き抜かれたため、急いでその穴をうめるために大規模な防衛召集をおこなったもので、召集されたものは、これまでのような特定の部隊だけでなく、広く各部隊に配属された。警備や飛行場建設ではなく実戦に防衛隊員を投入することが考えられた。


だがこの防衛召集者たちにたいしても、ある小隊では、銃剣は全員に支給されたものの、小銃は米軍が上陸してから、ようやく三人に一梃が支給されただけというありさまであった(池宮城秀意『戦場に生きた人たち』)。


これらの防衛召集による者以外にも、戦闘が始まってから各部隊が使えそうな住民を勝手に徴用し、それらも防衛隊と呼ばれている場合がある。


捨て石にされた防衛隊員

防衛召集されながら、「防衛召集」という言葉すら知らない者も多かった。召集令状も普通の赤紙ではなく、青紙であったので、すぐに家に帰れるだろう、という程度の認識の者さえいた。だが彼らは陸軍二等兵に任命され、その望みもすぐに消えた。ほとんどが一度も銃を持ったことも軍事訓練をうけたことなく、家族持ちか未成年で、およそ軍隊とは言えない、"群隊"であった(池宮城前掲書)。


防衛衛隊員は戦場で弾薬・食糧の運搬、陣地の構築などの作業をさせられたが、それだけでなく手榴弾爆雷をかかえての斬り込みにも駆りだされた。


また米軍が上陸した渡具知(とぐち)海岸の正面には、日本軍は、特設警備工兵隊や飛行場建設・警備を任務とする飛行場大隊、学徒隊などから特設第一連隊と歩兵大隊一つをおいただけで、日本軍主力は後方の中・南部に温存していた。この特設第一連隊では防衛召集者が過半数以上を占めるとみられ、歩兵大隊にもおよそ五〇〇名程度の防衛召集者が含まれていると推定され、防衛隊員の比重がきわめて大きい部隊である。彼らは対戦車肉迫攻撃や夜間斬り込みの訓練をさせられたが、圧倒的な米軍の前に二〜三日で突破されてしまった。軍はそれらの部隊にほとんど期待をしておらず、支援するつもりもまったくなかったのであり、主力を温存するための捨て石にしたのである。


このことは、フィリピンでも軍の主力がマニラを放棄したあと、在留邦人を召集してマニラ防衛軍に配属し、多くの無意味な犠牲者をだした点と共通している。これが軍の姿勢であり、一般の住民が軍主力の盾にされてしまうのである(久田栄正・水島朝穂『戦争とたたかう』)。


また防衛隊ではないが、壕入口の警備という非常に危険な任務は、沖縄出身の初年兵におしつけられることが多く、防衛隊員を含めて沖縄出身者は、軍のなかで本土の軍人から差別されていたのである。


無意味な死を拒んだ防衛隊員

防衛隊員のなかには、負けるとわかっている戦争で命を捨てるのはばかばかしいと考え、また置いてきた家族のことが心配で、部隊から逃げだして家族のもとへ走った者が多かった。彼らは日頃より本土出身兵に差別されることに反発をもち、玉砕するのがあたりまえという軍の論理にそまっていなかったからである。防衛隊員ら沖縄人を差別する本土出身兵を、みんなで「クルセー、クルセー(やっつけろ)」と袋だたきにした防衛隊員たちもいた(『浦添市史 第五巻』)。


普通の市民としての生活をとおしてえた常識を持ち、また移民帰りが多く国際的な感覚をいく分かでも持っている防衛隊員たちは、負けるとわかっていながら兵隊に死を強いる日本軍のばかばかしさを見抜いていたのである。だから沖縄戦をただ祖国のために沖縄県民がすすんで命を捧げたドラマとして描こうとする人びとからは、防衛隊の姿はあるべからざるものとして切り捨てられてきたのである。


だが防衛隊員の犠牲者約一万三千人が、学徒隊の犠牲者一二二四人の約一〇倍にものぽることをみても、また日本軍の特徴を考えるうえでも、防衛隊はもっと注目されるべきであろう。


「一木一草」まで戦力化

学徒隊と防衛隊以外に、婦人たちも軍のための炊事や救護、弾薬・食糧の運搬などに動員されただけでなく、手榴弾を渡されて戦闘要員としても使われた。伊江島などでは婦入も斬込み隊の一員として戦闘に参加した。学徒と同年齢の青年たちは義勇隊として参加し、多くの犠牲をだした。


日本軍は「軍官民共生共死」をとなえ、「一木一草」まで戦力化する方針であり、実際に少しでも戦力になりそうなものを根こそぎ動員したのである。


もちろん一方で、六〇歳以上の老人や小学生以下の子ども、婦人の疎開もおこなわれたが、疎開といっても、今日その言葉から連想されるような住民の生命や安全を守るためという観点はほとんどなかった。そもそも全県民が戦闘に参加すべきであるが、いざというときに軍の足手まといとなる老幼婦女は、戦闘の邪魔にならないよう前もって去れ、というのが疎開の考え方であった(『沖縄新報』一九四五年二月一五日)。つまり、彼らは邪魔物としか見なされず、人道的な発想とは無縁であった。このことは、戦闘のためといって住民を壕から追いだしたり、住民を殺害したことと共通する日本軍の発想であろう。「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」(軍人勅諭)と兵士の命を粗末に扱い・「命令一下欣然(きんぜん)として死地に投じ」(戦陣訓) よ、と天皇のために死ぬことを強制するのが日本軍のの特徴であったが、それは、一般住民にも強制された。降伏することは許されず、最後までたたかって死ぬか自決すること強制され、これが女子学徒隊などの悲劇をもたらした。沖縄県民もそうした日本軍によって動員され、多くの生命が奪われたのである。


「殉国美談」はすり替え

生き残った女子生徒たちは、学徒隊員の死が「殉国美談」にすりかえられることに反対している。師範学校の教師としてひめゆり隊をひきい、生き残った仲宗根氏はつぎのように語っている。


昔から平和であった沖縄のこの美しい空を、この青い海の上を、戦闘機の一機も飛ばせたくない。戦争につながる一切のものを拒否する。……沖縄戦を忘れてはならない。戦争体験を風化させてはならない(仲宗根政善ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』)。


これが彼女たちの願いである。

【追記】沖縄戦全般に関してこちらのHPが詳しいです。
http://k0001.jp/sonsi/index.htm