古代史料の天文記事を読み解く ― 斉藤国治『星の古記録』(評価・B)

 

星の古記録 (岩波新書)

星の古記録 (岩波新書)

 

星の動きから「天の啓示」を見きわめようとした陰陽師が残した記録とは?
古史料の天文記事を現代天文学で解き明かす、教養人向けの新書。
 

 かつて、天体の異変は地上の失政を警告する啓示と見なされていた。古代史料に天文記事が多いのは、為政者が星の動きを重視していた現れである。
 現代の天文学では、天体の動きは数式化され、過去や未来の夜空を正確に再現できる。だから、古代文献の天文記事の真否を判別できるのだ。
 例えば、『日本書紀』に記された、日本最古の日食記事は事実なのか。『大鏡』に出てくる、安倍晴明天皇退位を予見した天文異変は何だったのか。
 その研究を、著者は《古天文学》と名づけている。
 本書は《新書》ということで、専門外の者でも楽しめるように、様々なエピソードが紹介されている。キリスト教神話の「ベツレヘムの星」をこじつけようとしたケプラーの話。藤原定家『明月記』の一節が欧米学者の注意をひいた話、明治6年の金星過日を観測すべく欧米の天文学者が大挙して日本に来た話など。
 ただし、本書は1982年に初版発行されている。著者はすでに故人。本書で最新の宇宙理論を知ることはできまい。
 それでも本書が魅力的なのは、《古天文学》を通じて、天の啓示を見定めようと星を観測してきた古代天文官である陰陽師たちの眼差しを知ることができるからだ。本書は、古代の人と天との繋がりを知る格好の一冊だろう。
 



 

 日食と為政者の死は、古代の歴史作者にしばしば捏造されてきた。
 日本最古の日食記録は『日本書紀』に記述された、推古天皇三十六年(628年)のものである。その日食の五日後に推古天皇崩御する。
 記録された628年4月10日の天体を再現すると、たしかに日食があったことがわかる。当時の都であった飛鳥京では、食分0.9という部分食になっていた。
 おそらく、推古天皇は日食を病床で聞いたであろう。天皇家蘇我氏の権力争いの中で生きた女帝が、この知らせに自らの死期を感じたのでは、と思いをはせてしまう。
 以降『日本書紀』の日食記事は、しばらくは正確であるが、持統天皇天智天皇の皇女、天武天皇の皇后)の時代から怪しくなる。
 持統天皇五年(691年)から和銅二年(709年)の19例の日食記事のうち、事実に即するのはわずか3件。食分0.9以上となると1件にすぎないのだ。
 市井の人でもわかる日食の記録を、なぜ国史たる『日本書紀』が誤っているのか。その理由は690年に採用した『儀鳳暦』にあるらしい。
 『儀鳳暦』は当時の文化先進地である中国の新暦であり、日本もそれにあわせた暦(カレンダー)作りが、持統天皇に命じられたとある。
 この『儀鳳暦』には「日食計算法」があったという。すでに、日食や月食には周期があると考えられていたのだ。その計算方法は現在に伝わっていないが、『日本書紀』の誤った日食記事は、この儀鳳暦の数式にもとづいたものであるらしい。
 実際の観測よりも、最新の暦の計算を真とするのは、科学的に誉められた姿勢ではないが、『日本書紀』がこの(ずさんな)計算法を採用したことは「日食はもはや天文異変にあらず」という、当時の気概を感じることはできまいか。日食を地上の出来事とこじつける史観から『日本書紀』は脱したのである。
 実際、平安時代陰陽師安倍晴明の時代になると、日食・月食については「天の啓示」とは見なされていない。『日本書紀』の日食記事の過ちは、そんな我が国の天文学の歩みを垣間見ることができる。
 

 陰陽師とは「陰陽寮」の役職の一つである。彼らの任務は、天文気象を昼夜交代で観測し、暦を編纂したり、天の異変を占文を添えて密奏していた。いわば、公的占星術師である。
 安倍晴明はそんな天文官の一人であった。有名なエピソードが『大鏡』に書かれた、天変により986年の花山天皇退位を予見したという場面である。
 はたして、安倍晴明が見た天変とは、どのようなものであったのか。
 その日、986年7月31日の天体を再現すると、木星が天秤座α星に接近していたことがわかる。
 木星は東洋では「歳星」という。ほぼ12年で天球を一周するので、歳を数えるのに利用しているから、その名がついた。国家または帝王を代表する星ともされたので、安倍晴明の予見には、天体の根拠があったのである。
(余談だが、古代エジプトでは、おおいぬ座α星シリウスを年の基準とした。夏至の頃、はじめてシリウスが見えた日を年の初めとしたのである。彼らが紀元前に一年を《365.25日》とする暦を制定できたのは、シリウス基準の暦だったからである)
 

 惑星とは、他の星とは異なり、天体で独自の動きをすることから「惑う星」と名づけられた。
 今では、水・金・火・木・土という5惑星の動きは地動説モデルで説明できるが、かつて人びとは、そこに「天の啓示」を見出そうとしていたのだ。
 この5惑星の天文異変が歴史にいかされた有名な例は、紀元前207年の中国のものだろう。
 「項羽と劉邦」で知られる劉邦が、秦を滅ぼす直前、東の夜空に5惑星が集結したと『漢書帝紀』に記されている。新たな時代を告げる天変にこれほどふさわしいものはあるまい。
 しかし、これは事実に反する。紀元前206年に期日をずらせば、四惑星が相次いで、双子座に入宿しているが、火星の位置は大きく離れている。
 おそらく、半年前の天文気象を『漢書』編者である班固は、秦の滅亡を啓示したかのように演出したようである。『漢書』は、司馬遷の『史記』と比較され、権力におもねった歴史書と後世に批判されているが、天文記事でもその執筆姿勢を発見することができるのだ。
 なお、古代中国の天文記録は驚くほど正確であると著者は記している。『漢書』の捏造は、それゆえに目立っているのだ。
 

 天文学の文献といえば、西洋のものを指すのが一般的だと考える人は多いだろう。しかし、東洋の文献にしか書かれていない天文記事が、新たな発見を裏づけることもあった。
 昭和九年(1934年)、射場保昭という日本アマチュア天文家が、米国通俗天文誌『ポピュラー・アストロミー』に次のような寄稿をした。藤原定家の『明月記』に記された1054年の《客星》は、かに座超新星爆発のことではないかと。
 《客星》とは、通常の天体にはあらわれない星のことを指す。彗星や新星のことだ。藤原定家は13世紀の人であるが、『明月記』には過去の客星の事例として、1054年の観測があげられている。
藤原定家筆まめな人で、現在では失われている古資料の多くを筆写し『明月記』に書きとめられている)
 当時の中国の文献を調べると、同じような客星観測の事例が見つかった。これにより、かに座超新星爆発が起きた時期が実証されたわけである。
 なお、欧米人は自分たちの文化の中に、この1054年の超新星爆発を記録した史料を必死で探したが、見つけることはできなかったという。
 古代天文記録に関しては、西洋よりも東洋が優れていたのだ。我々には、そんな豊かな文化遺産があることを忘れてはならないだろう。
 

 現在では、日食・月食だけでなく、惑星の動きも数式化され、過去や未来の夜空を再現することができる。
 だから、陰陽師たちが惑星の動きから「天の啓示」を見出そうとしたことを、愚かしく感じるかもしれない。
 しかし、天の啓示を見定めようとしたからこそ、多くの発見があった。地動説モデルを完成させたケプラーも、キリスト教神話の「ベツレヘムの星」が何であるか探したことが、真理に達する鍵となったのである。
 本書は、そんな古代の人と天の繋がりを感じられる一冊である。30年前に初版発行されたものであるし、教養人向けの敷居の高さがあるので評価はBとしたが、古典や天文学に興味がある人には楽しめる内容だ。
 

星の古記録 (岩波新書)

星の古記録 (岩波新書)