Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170526(Fri)

[]悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』 悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』を含むブックマーク 悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』のブックマークコメント

■人生の段階 / ジュリアン・バーンズ

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

誰かが死んだことは、その存在が消えることまでは意味しない――。最愛の妻を亡くした作家の思索と回想。気球乗りは空の高みを目指す。恋人たちは地上で愛しあう。そして、ひとつに結ばれた二人が一人になったとき、遺された者はもう生の深さを感じられない。―― 有能な著作権エージェントにして最愛の妻だったパット・カバナをとつぜん喪ったバーンズは、その痛みに満ちた日々をどのように生きたのか。胸を打つメモワール。

英国作家ジュリアン・バーンズの『人生の段階』は奇妙な作品だ。物語は3部に分かれる。第1章「高さの罪」では19世紀ヨーロッパにおける熱気球の勃興が描かれる。ここはノンフィクションだ。第2部「地表で」ではやはり19世紀を舞台に実在した英国軍人とフランス女優とのフィクションの恋が描かれる。そして第3部「深さの喪失」では、作者ジュリアン・バーンズが2008年に亡くした妻へ想いとその悲しみとが書き綴られている。これは作家個人の自己の心情吐露ということになる。

当然本題となるのはこの第3部だろう。しかし、それ以前の2章とはなんの繋がりがあるのだろう。確かに各章の最初に書かれる「組み合わせたことのない二つのものの組み合わせ」ということでは、第1章の気球と写真、第2章の立場の違う男女の恋、そして第3章における作家バーンズと妻との出会い、という点において一致しているのかもしれない。第1、第2章で言及される"気球"は、天の高みと地との距離という点において、悲しみの底に落とされた作家の心情的な落差を表わしているのかもしれない。

ただ、どちらにしても遠回しすぎ、3つの章の関連性は希薄なもののように思えてしまう。しかしこう考えたらどうだろう。作家バーンズは、核心である第3章を書くために、そこへの心情的な距離をどうしても置かねばならなかった。さらにバーンズは作家として、生々しい心情吐露だけの文章を書くことはできなかった。だからこそ、一見関連性がありそうでなさそうな、2つの物語を書き終えた後でなければ、その核心を対象化し文章化することができなかった。それは作家の性ともいえるし、作家であることの良心ともいえる書き方だったのだろうと思う。

突然の伴侶の死は、バーンズにとっては身を裂くよう悲しみだったろう。しかし、「身を裂くような」などという陳腐な表現はオレのような凡俗がこんなブログに書き散らかす為にしか使えないものであり、バーンズはその"悲しみ"の在り様を徹底的に整理し抑制しさらに合理性が高く含蓄に富んだ文章へと落とし込もうと格闘するのだ。そしていかに整理し抑制して書かれようとも、そこからどうしても染み出さざるを得ない感情の底にあるものの姿が浮き上がってくる部分に、作家というものの業を感じ、また作家が作品をしたためることの凄みを感じてしまうのだ。

そしてこの3章で書かれる伴侶の死に、その悲しみの本質に、バーンズは安易な同情や共感を求めようとしない。本書の中でバーンズは、病床にある妻の間近の死に際し、同様の体験本を幾つか購入し、否応なく訪れるであろう悲嘆への心の準備をしようとしたが、それらは、全く役に立たなかったという。悲しみは、どれも個別のものであり、何かと同じとか、似ているということはないのだという。これは、バーンズのこの本を読む我々にも当てはまる。バーンズの悲しみは、理解することも、想像することもできるけれども、しかしバーンズの悲しみそれ自体を、体験することは決してできないのだ。けれども、読者への共感と追体験を描く職業作家が、共感と追体験の不可能性へと辿り着いてしまうということが、逆に否応なく彼の悲しみの深さを浮き上がらせてしまうのだ。

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20170525(Thu)

[][]御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』 御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』を含むブックマーク 御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』のブックマークコメント

■Teesri Kasam (監督:バス・バッタチャリヤ 1966年インド映画)

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1966年にインドで公開された『Teesri Kasam』は一人の御者と踊り子との淡い恋を描いた作品だ。主演にラージ・カプール、ヒロインにワヒーダ・レーマン。タイトルの意味は「三つの誓い」といったものらしい。

《物語》牛車の御者を生業とするヒラマン(ラージ)は、闇市の品物、竹材と、どれも厄介事ばかり起こす荷物に辟易していた。もうこんなものは二度と積まない…そう心に誓うヒラマンの次の荷物は女性客だ。うへえ、まさか女怪じゃあるまいな?だがその女性ヒラバイ(ワヒーダ)はとても気さくな上魅力的な女性で、ヒラマンは密かに心ときめかす。ヒラバイは踊り子だった。彼女を巡業先のテントで下したヒラマンは、彼女の踊りを愛おしそうに見ていた。だが、土地の有力者もまたヒラバイの踊りに魅せられ、彼女を強引に自分のものにしようとしていた。

奇妙な懐かしさを覚える物語だった。インドには縁もゆかりもない自分が、どうして60年代のインドの田舎に懐かしさを覚えてしまうのだろう?それは広々とした自然や、貧しくともおおらかに生きる人々や、それらののんびりした時間感覚にあったかもしれない。それと併せ、主人公ヒラマンの朴訥で純情な田舎者ぶりに、どうにもこそばゆい共感を覚えたからかもしれない。なんというかこう、心に和むものを感じる作品なのだ。どこか「日本昔話」に出てくる村のお百姓さんを見ているような気分にさせられたのだ。

とはいえ、物語は決してほのぼのした昔話風というものではない。ヒロインであるヒラバイは、踊り子であることから陰で娼婦呼ばわりされ、土地の有力者からは金さえ積めばどうとでもなる女だと目されてしまう。この作品にはこうした女性蔑視への批判も盛り込まれる。ヒラバイ自身はいつものことと無視するが、ヒラマンにはそれが許せない。騒ぎを起こしヒラバイに迷惑をかけ、いさめられると不貞腐れる。しかしヒラバイはそんなヒラマンの純な心に癒される。ヒラバイはいわば「成熟した大人の女」であり、ヒラマンの思うような「可憐な乙女」ではなかったけれども、彼の無心な一途さに心洗われていたのだ。

しかしドラマは決してロマンスの成就へ向かおうとはしない。所詮純朴な田舎者と世知に長け芸事に秀でた踊り子では釣り合わないのだ。夢の如き愛の妄想の後につきつけられる現実の味はどこまでも苦い。こうした「寸止めのロマンス」がこの作品を奇妙に切なく、そして非凡なものにしている。この展開を観て何かに似ているなあ、と思ったら日本が誇る人情喜劇『男はつらいよ』だった。主人公寅次郎は美しいヒロインに恋しながら常にそれは成就しない。それはヒロインが、寅次郎を愛しつつ住む世界の違いを如実に感じていたからなのだろう。こうして物語はインド版『男はつらいよ』とも呼ぶべきペーソスに溢れた展開を見せてゆく。

主演のラージ・カプールはそんな、朴訥でおっちょこちょいな「インド版寅さん」を哀歓たっぷりに演じ、ひょっとしたら彼のベスト・アクトのひとつかもしれない(まあそんなに沢山ラージ・カプール主演映画観て無いんだけどね)。ちょっと太り過ぎている部分はあんまり「貧しい村人」っぽくは見られないんだが。そしてヒロインのワヒーダ・レーマン、踊り子が主演の作品ということもあって、舞台で演じられる彼女の歌と踊りのシーンは、本当にどれも美しく楽しいものだった。ああそうだ、この時代のインドのサウンドトラックの、チャカポコしたリズムと旋律が、なんだか日本の祭囃子と似てなくもなくて、それでオレはなんだか懐かしい、と思ってしまったのかなあ。モノクロのクラシック作品ではあるが奇妙に記憶に残り愛着の湧く一作だった。

20170524(Wed)

[]エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (後編) エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (後編)を含むブックマーク エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (後編)のブックマークコメント

■ウイングス・オーバー・アメリカ / ポール・マッカートニー&ウイングス

ウイングス・オーヴァー・アメリカ

エルトン・ジョンのアルバムと同様に部屋でしょっちゅう流していたのがポール・マッカートニー&ウイングスのライブ・アルバム『ウイングス・オーバー・アメリカ』だ。LPレコードで出ていた当時は『ウイングスU.S.Aライブ!』という日本タイトルだったと思う。これも中学の時によく聴いていたアルバムだった。

中学生の頃、周りがビートルズ・ファンだらけだった。中学生のクセにソロも含め殆どのアルバムを持っている奴までいた。しかしオレはというと、そんなに興味が無くて、友人から借りた『アビーロード』と『サージェント・ペパーズ』をカセット・テープに録音して聴いていたぐらいだった。この2枚のアルバムはロック史に残る名作アルバムではあり、オレもこりゃスゲエと思って聴いてはいたが、かといってもっとビートルズを!という風にも思わなかった。当時のオレからしてもビートルズはとっくの昔に解散したバンドであり、現在進行形の、もっと新しくて、刺激的な、今聴くべきロック・バンドやアーチストは山ほどいたからだ。

ポール・マッカートニー&ウイングスに関しても、知ってはいたがやはりそれほど興味が湧かなかった。だが、かのバンドの曲で、ひとつだけ頭に残って離れなかった曲があった。実はこれも映画繋がりなんだが、ポール・マッカートニー&ウイングスが手掛けた『007/死ぬのは奴らだ』のテーマなのである。いやなにしろ、中学生の頃はロックよりも映画だった(映画自体は小学生の頃観たんじゃないかな)。

このアルバム『ウイングス・オーバー・アメリカ』がリリースされたのはそんな時期だった。その当時、FMラジオの音楽番組で放送される音楽を録音する「エア・チェック」というのが流行っていて(まあ流行っていたというよりはお金が無くてレコードを買えない中学生には、音源を手に入れる大きな手段だった)、FM番組表の載ったFM雑誌(当時そんなのがあったんですよ)で『ウイングス・オーバー・アメリカ』が放送されると知り、早速エア・チェックすることにしたのだ。知っている曲は『死ぬのは奴らだ』だけだったけどね。

エア・チェックした『ウイングス・オーバー・アメリカ』は実にゴキゲンなアルバムだった。そりゃもうノリノリだった(古臭い表現をお許しください……なにしろ当時の感覚ですから)。『死ぬのは奴らだ』は当然盛り上がったがその他の曲もよかった。だが残念に思ったこともあった。それは、FM番組ではこの『ウイングス・オーバー・アメリカ』を全て放送しておらず、即ちアルバム全てを楽しむことが出来ていないからだ。しかし、たいていはアルバム全曲放送するFM番組でこのアルバムが全曲放送されなかったのはそれなりに訳があった。

なんとこの『ウイングス・オーバー・アメリカ』、LPレコード3枚組だったのである。当時3枚組のLPレコードといえば5、6千円はしただろうか。1枚もので2500円、2枚組で4千円ぐらいだったと思う。なにしろ中学生の小遣いではちょっと手の出ないものだった。お年玉を貯めに貯め、清水の舞台から飛び降りるつもりでイエスの3枚組ライブアルバム『イエス・ソングス』を買ったことがあったけれども、イエスは欲しくてたまらなくて買いはしたが、『ウイングス・オーバー・アメリカ』は興味津々でありつつも大枚はたいて買うべきものなのか、迷いに迷っていたのである。それからというものレコード店に行ってはこのアルバムを手にしては(3枚組だから非常に重い)買わずに帰ってくる日々が続いたのである。

それから十余年、いや20年以上経ってからか、サラリーマンになったオレは積年の恨み(?)を晴らすべく、CD2枚組となったこのアルバムをやっと手に入れることが出来た。買ったことで達成感はあったが、実の所、このアルバムはその頃聴いていた音楽ジャンルとあまりにもかけ離れていたため、殆ど聴かなかった、という余談もあったが。

そんなアルバム『ウイングス・オーバー・アメリカ』を、今再び引っ張り出し、何度もリプレイして聴くようになるとは、人間不思議なものである。この背景は、先に書いたエルトン・ジョン同様、「中学生の頃とてもよく聴いていた音楽だった」という懐かしさがあったからだろうと思う。そして、『ウイングス・オーバー・アメリカ』以外のポール・マッカートニー&ウイングスのアルバムを聴きたいとはまるで思わない。なにしろオレが聴きたいのは「昔聴いていたあの曲」だからだ。

「懐かしさ」とは書いたが、同様に昔あんなによく聴いていたはずのボウイやロキシー・ミュージックや、プログレッシブ・ロックは、再び聴きたいと思わないのだ。ニューウェーブ系の音も、別に聴きたいと思わないのだ。そもそも、ロックというのは、ひりひりとした表現なんだと思う。そのひりひりとした表現を聴く側にも、ひりひりとした心象があるのだと思う。だが今の自分は、別にひりひりともしていないし、したくもない。落ち着きたいし、和みたい。年寄りだからだ。エルトン・ジョンもそうだが、ポール・マッカートニーの楽曲センスも、ロックではなくポップ的なものであると思う。その辺が、「部屋で流しっぱなしにできる賑やかなタイプの音楽」として楽しめた側面だったのではないか。

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20170523(Tue)

[]エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (前編) エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (前編)を含むブックマーク エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (前編)のブックマークコメント

■キャプテン・ファンタスティック / エルトン・ジョン

キャプテン・ファンタスティック+3

「2月に引っ越してから、なぜかエルトン・ジョンポール・マッカートニー&ウイングスばかり家で聴いていた」というお話である。

まあ、別に好きなもの聴いてりゃいいだろ、って事ではあるが、このエルトン・ジョンポール・マッカートニー&ウイングスというのは、実はオレがまだ中学生の頃によく聴いていて、その後全く聴かなくなっていたアーチストだったのだ。今じゃ聴くのはエレクトリック・ミュージックばかりだし、好きなロック・アーチストと言えばデヴィッド・ボウイの名前を挙げるオレではあるが、意識的にロックを聴くようになる前によく聴いていたのはエルトン・ジョンやウイングスやキッスだった。オレにとっていわば「懐かしの」アーチストなのだ。それをなんで今更聴き出したのだろう。

そもそもエルトン・ジョンはオレが初めてロックのシングルやアルバムを買ったアーチストだった。中学の頃から映画好きだったオレは、映画のサントラレコードのシングル盤を買うのを趣味としていたが、ケン・ラッセル監督のロック・オペラ映画『トミー』のサントラとしてエルトン・ジョンのシングル『ピンボールの魔術師』を買って聴いた時は、その凄まじくもまた煌びやかなキーボード・プレイに文字通り"ノックアウト"された。このシングルがオレにとってロックの入り口だった。

まあ、エルトン・ジョンは現在ではロックというよりはポップ・アーチストとして認識されているようだが、とりあえず当時のオレにとってあれがギンギンにロックだった。その後エルトン・ジョンの有名なアルバムとしてこの『キャプテン・ファンタスティク』や『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』なんかを購入してよく聴いていた。『キャプテン・ファンタスティク』はその微妙に暗いファンタスティック風味のジャケット画が好きで、レコードに封入されていたポスターを部屋に貼ったりしていた。

まあしかし、アルバム『キャプテン・ファンタスティク』は、「ギンギンにロック」というものでもなく、ピアノをメインとした、非常にセンチメンタルでノスタルジックな味わいのポップ・アルバムではあった。しかし完成度は異様に高かった。中学生には最初ちょっぴり静かすぎたが、そのうちずっぽりとハマっていった。そういう年代でもあったのだ。

まあそれはそれとして、何故この今、昔よく聴いていた、エルトン・ジョンだったのか。これはひとえに、引っ越し先のアパートではあまり大きな音で音楽をかけることが出来ず、とりあえずエレクトリック・ミュージックは部屋でかけなくなっていたことがある。それと、荷物の整理が済み新しい家具が揃えられた部屋がとても落ち着けたものだから、なんだかその平和な環境が、長閑だった中学生の頃を思い出させたことがあるのかもしれない。まあ、それまで住んでいた部屋があまりに殺伐としていたからな。オレもすっかり歳だし、新しいものよりは、懐かしいものに囲まれたかったからなのかもしれない。この辺はちゃんと分析できないな。

整理の終わった新居では、数週間ぼけっとばかりしていた。引っ越し疲れもあったが、今までみたいに、時間に追われながらあれやこれやをやるのが嫌だった。あの頃、ブログの原稿もまるで書かなかったし映画館にも行かなかった。もうブログも映画も止めていいかな、とまで思っていた。そのエアポケットみたいな環境に、昔懐かしい音楽はよく馴染んだ。

とはいえ、今は以前のように時間に追われながら映画を観てブログ原稿を書いている。エレクトリック・ミュージックも、小さい音ながら、部屋でしょっちゅう流している。結局前の生活と変わらない。でも、このエルトン・ジョンのアルバムは(『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』も含め)、やっぱり今でも素敵だと思っているし、前より頻度は減ったがたまに引っ張り出して聴く。そういやジャズのアルバムもよく聴くようになったな。やっぱりリラックスしたいんだろうな。

(後編へ続く)

キャプテン・ファンタスティック+3

キャプテン・ファンタスティック+3

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20170522(Mon)

[]カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだ カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだを含むブックマーク カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだのブックマークコメント

■人みな眠りて / カート・ヴォネガット

人みな眠りて

カート・ヴォネガットの没後10年だという。ヴォネガットの死に際してはこのブログに弔辞めいたものを書いたことがあるので(カート・ヴォネガット氏死去 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)、そうか、このブログ自体もう10年以上書いているのか、というヴォネガットと全然関係ない感慨まで抱いてしまった。

その没後10年に合わせたわけでもないだろうが、この度ヴォネガットの未発表短編集『人みな眠りて』が刊行された。ヴォネガットがまだ駆け出しの作家だった頃、タイプしたまま引き出しに仕舞いっぱなしだった没原稿集だという。実は2014年にも同じ初期没原稿集『はい、チーズ』が刊行されていたのだが、まだまだ残っていたということらしい。この『はい、チーズ』についてはこのブログでもこんな感想を書いた。

今は亡きヴォネガットのお蔵出し短編集『はい、チーズ』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

この『人みな眠りて』の帯には「これでお別れ。最後の短編集」といった惹句が書かれているが、訳者あとがきを読むと実はまだ訳出されていない落ち穂拾い的な書籍が幾つかあるのらしく、多分これもいつか刊行されるのだろう。

どちらにしても以前出た『はい、チーズ』にしろこの『人みな眠りて』にしろ作者の没後に発見されたお蔵入り原稿集ということなのだが、"お蔵入り"だったにも関わらず質の高い短編が並んでおり、"クオリティが低かったので今まで発表されなかった"というのとはわけが違う。多分ヴォネガット自身にとっては「生活費の為に書き飛ばした三文小説」とばかりに個人的な評価が低かったのだろうが、そもそもが高いテクニックを持った作家の作品だけに、どれも遜色なく"読ませる"作品なのだ。確かに生前発表されていた長編や短編集と比べるとシニカルさや批判の度合いがかなり薄められており、「ヴォネガットならでは」といった作品ではないにしろ、逆に「ヴォネガットだからこそ」高水準な作品だったりするのである。そういった癖のなさ、といった点では、ヴォネガット・ファンにもそうでない人にも十分楽しめる作品集となっている。

個々の作品をそれぞれ紹介することはしないが、なにしろ全体的にヴァラエティに溢れ、さらに短編ならではの軽妙で軽快な作品が多く並ぶ。若干オチの伝わりにくい作品もあるのだが、その辺は没原稿の愛嬌ということで良しとしよう。どの作品にも共通するのは、どこか問題があったり、人生の厳しい岐路に立たされたりする登場人物たちへの、ヴォネガットの暖かなまなざしを感じる部分だ。かつてヴォネガットは亡父に「おまえは小説の中で一度も悪人を書いたことがなかったな」と言われたというが、人はそれぞれに已むに已まれぬ理由と事情を持ち、時としてどうしようもない運命に直面しなければならなくなる存在である、というヴォネガットらしい人間への共感と同情がそこにあるからなのだろう。

もうひとつ感じたのは、これらの作品が書かれたアメリカ50年代の、その戦後景気に沸く輝かしい黄金時代の雰囲気が如実に伝わってくるという部分だ。ひょっとしたらアメリカの50年代は、その豊かさと楽観性において人類で最強の時代だったのかもしれない、とすら思わせる。もちろんこれは"アメリカ中流白人にとっての"という但し書きが付き、実際は冷戦の存在と激動の公民権運動が繰り広げられていたことは忘れてはならないけれども、こと"アメリカ中流白人"にとって、大量生産と大量消費、それを支える雇用と給与の充実による、最も成功した資本主義経済の恩恵を預かっていただろうということは間違いないと思う。

この『人みな眠りて』の原稿を書いていた時代のヴォネガットは、好景気を反映して高額の原稿料で高級紙にその短編を掲載していたというが、そういった読者層に合わせた作品であることを考えれば、「豊かで安定した国アメリカ」がまず前提にあったとしてもおかしくはない。ただ実際の当時のヴォネガットは個人的にも家庭的にもあれこれ問題を抱えていたらしく、そうした生活と「豊かで安定した国アメリカ」という世相の間に乖離があったであろうという想像もできる。そして第2次大戦における彼のドレスデン従軍体験は、これらの豊かさと楽観性を、単なる幻想にしか過ぎないと看過していたことだろう。

ヴォネガットはこうして「アメリカ黄金の50年代」の豊かさを描いた短編小説を家計の為に書き飛ばしながら、大量生産と大量消費の果てにある資本主義社会ディストピアを描いた処女長編『プレイヤーピアノ』を遂に書き上げるのだ。こうした作家史の一環を垣間見せるといった点でも、この作品集の存在はユニークと思えるのだ。

はい、チーズ

はい、チーズ

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20170519(Fri)

[]ジェフ・ダロウの超絶描き込みアメコミ作品3作〜『ザ・ビッグガイ』『少林カウボーイ』『ハードボイルド』 ジェフ・ダロウの超絶描き込みアメコミ作品3作〜『ザ・ビッグガイ』『少林カウボーイ』『ハードボイルド』を含むブックマーク ジェフ・ダロウの超絶描き込みアメコミ作品3作〜『ザ・ビッグガイ』『少林カウボーイ』『ハードボイルド』のブックマークコメント

■ジェフ・ダロウというアーチスト

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アメコミ・アーチスト、ジェフ・ダロウのコミック2冊が日本でも立て続けに発売されることになり、ここでザックリと紹介してみたいと思う。彼のプロフィールについてはこちらこちらのリンクを参考にしてもらうとして、このジェフ・ダロウ、なにしろ物凄いアーチストなのである。何が凄いって、それはグラフィックのとんでもない描き込みの量なのである。

それはフォトリアルな緻密な描き込みというのではない。ジェフ・ダロウの本領はまずモブ・シーンで発揮する。ページ4分の1ぐらいの大きさのコマに40人ぐらい平気で描き込むし、これが見開きページともなると100人200人は優に超える人間を描き込む。この辺、コピペもあるのかもしれないが、この人だったら実際に全部描いてるんじゃないのかと思わせるような膨大な人物量なのだ。

そしてもう一つは破壊描写の際の、空中を舞いさらに地面にばら撒かれる、破砕した物体の細々とした描き込みだ。爆風や煙で誤魔化すのではなく、微速度カメラで撮影された映像のように、飛び散るそれらを一つ一つちまちまと描き混んでいるのだ。破壊描写に限らず、地面には常にゴミやらなにやらのオブジェが散らかっており、血糊や血飛沫さえポチポチチマチマと克明に描写され、「それは別に省略しても構わないしあえて描く必要もないんじゃないか」と思えるにもかかわらず、でもやっぱり描き込んであるのだ。

そうして生み出されるのは、眺めているだけで目が回り気が遠くなりそうな幻惑性と、有無をも言わさぬ圧倒的な迫力である。ページを繰る度、コマを見る度、「なんでここまで描き込まなければならないんだ?」と呆然としてしまう。そしてそんなページなり一コマ一コマを、何がどう描き込まれているのかじっくり舐めるように眺めてしまう。そんなとんでもない吸引力を秘めたグラフィックがジェフ・ダロウの魅力なのだ。

今回発売となる作品は『少林カウボーイ』と『ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット』。さらに日本では1994年に発売された『ハードボイルド』をここで紹介する。

■ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット

ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット

この作品は日本が舞台となる。遺伝子操作実験の暴走により生まれた"トカゲ状の"巨大怪獣が、(多分)東京の街をなぎ倒してゆくのである。まあ、要するに『ゴジラ』である。それに対抗するため日本政府が送り出したのは、巨大ロボ「ザ・ビッグガイ」と、小型少年ロボ「ラスティ・ボーイ」であった、というのが本作である。まあ、要するに『鉄人28号』と『鉄腕アトム』である。つまりこの『ザ・ビッグガイ』、日本を舞台に『ゴジラ』『鉄人28号』『アトム』が暴れまわるという、とても安直なジャパニーズ・ポップ・カルチャーへのオマージュで成り立っている作品なのだ。しかし原作が『シン・シティ』『300』のフランク・ミラーであり、それをジェフ・ダロウのグラフィックでもって描かれているものだから、一筋縄の「ロボットVS怪獣バトル」という訳にはいかないのである。ここでもジェフ・ダロウの超絶描き込みが炸裂するのだ。破壊されるビルの細かな砕片の一つ一つ、吹き飛ばされる車両のディティール、逃げ惑い右往左往する人々の一つとして同じものの無いポーズ、そして東京のみっちりと密でごみごみした街並みが、これでもかこれでもかと微に入り細に渡り描き込まれているのだ。おまけに怪獣の毒液でモンスターに姿を変えられた人々が通りを埋め尽くして暴れまわり、しかもそれがそれぞれに姿が違うものだから、画面の情報量が過飽和に達しているのである。「ロボットVS怪獣バトル」であるにもかかわらず、もっと異様なものを見せられているのである。日本の閣僚や自衛隊の皆さんも登場するので、『シン・ゴジラ』でヤラレタ人も読むといいのである。ただ『ゴジラ』というよりはどっちかっていると『クローバー・フィールド』に近いもんがあるが。

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■少林カウボーイ

少林カウボーイ SHEMP BUFFET (DARK HORSE BOOKS)

この『少林カウボーイ』は何故かカウボーイ・ルックの拳法使いのおっさんが、ゾンビの群れを延々倒してゆく、という"だけ"のコミックである。主人公のおっさんは"少林"から連想されるような精悍な肉体をしているわけではなく、割と緩い体型をしている。作者は「勝新太郎座頭市からインスピレーションを得た」そうだから、このルックスはそのせいなのだろう。だからこのコミックでも座頭市が百人斬りをするかの如くゾンビを斬り倒してゆくのだろう。しかし少林カウボーイの武器は仕込み杖ではなく、長い棒の両端にチェーンソウが取り付けられたものだ。まあ、素直に、バカな武器だな、としみじみと感嘆する。で、このダブルチェーンソウをぶんぶん振り回しながらゾンビの群れを切り刻んでゆくのだが、なぜゾンビなのかは、実はよく分からない。しかしとりあえずゾンビだから倒さねばならない。で、このコミックの狂った所は、殆どのページが、異様に描き込まれた無数のゾンビを、少林カウボーイがただただ切り刻んでゆく、鉄拳を打ち込んでゆく、というそれだけのシチュエーションを、数10ページ、数10コマに渡って、ひたすら延々と描き込まれてある部分である。正直、物語もカタルシスもないのである。読んだ人は例外なく「なんだこれは」と唖然とするだろう。「まだ続くの?全部これなの?」と呆れ返るだろう。そして、描かれる殆どのゾンビは、よく見るとそれぞれ刺青がしてあり、さらにセミの幼虫が無数にたかっている。なぜこんなものをいちいち描き加えるのだ?と思う。訳が分からない。とはいえ、実はこれ、コミック1冊丸々使ったコンセプチュアル・アートということもできはしないだろうか。

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■ハードボイルド

ハードボイルド

この作品は『ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット』に先駆け、フランク・ミラー原作・ジェフ・ダロウ画により1990年に発表されたものだ。日本語翻訳版は1994年に発売され、オレが最初にジェフ・ダロウを知りその作品に衝撃を受けたのもこの作品からだった。日本語翻訳版は現在廃刊となっているが、それほどややこしいお話ではないし、ジェフ・ダロウのグラフィックをとことん楽しみたいだけなら、現在も発売されている洋書を入手すればよいのではないかと思う。で、この『ハードボイルド』、タイトルから渋い探偵物語を連想させるけれども、実はSF作品なのだ。舞台となるのは未来の(多分)アメリカの都市、主人公は収税官吏ニクソン。収税官吏とはいえそこは混沌とした汚濁の未来都市、ニクソンはブラスターガン片手に暴れまわることになるのだ。しかもこのニクソン、実はアンドロイドなのだが自分ではそれを知らず、その隠された来歴により自らのアイデンティティを崩壊させてゆく。その崩壊する自我の中でニクソンは暴走してゆき、さらなる破壊と殺戮を生み出してゆくのである。いってみれば『ブレードランナー』を『ダイ・ハード』のタッチで描いたのがこの作品だということもできる。そして例によって、この作品でもジェフ・ダロウは狂気の如き描き込み量を見せつける。おまけに全編に渡り凄まじいバイオレンスとアクションが展開してゆくので、どのページにおいても大量破壊と大量殺戮がつるべ打ちとなって描かれており、そのいちいちに事細かな描き込みが成されているため、読んでいて目を見張ること必至だろう。それによりこの作品は、非常にショッキングな、そして美味しいものとして仕上がっている。今回紹介した3作品の中でもダントツの問題作であり名作だろう。SF、バイオレンスの好きな方は是非入手して読んでもらいたい。

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ハードボイルド

ハードボイルド

Hard Boiled

Hard Boiled

20170518(Thu)

[]「海」と「異類婚姻譚」~映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『レッドタートル ある島の物語』 「海」と「異類婚姻譚」~映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『レッドタートル ある島の物語』を含むブックマーク 「海」と「異類婚姻譚」~映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『レッドタートル ある島の物語』のブックマークコメント

■「海」と「異類婚姻譚

アニメ作品『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と『レッドタートル ある島の物語』をやっと観た。両方とも去年劇場公開されていたのだが見逃していて、この間ソフト発売されたのだ。共にヨーロッパ資本の入ったアニメーションであり(ただし『レッドタートル』は日本のジブリとの共同製作)、どちらかというとアート・アニメに近い感触の作品だ。そして面白いのは、どちらも「海」が重要なキーワードとなり、さらに「異類婚姻譚」を扱っているということだ。

異類婚姻譚」とは日本の昔話でいうと「鶴女房(鶴の恩返し)」であったり、グリム童話でいうと「蛙の王様」のような説話のことである。動物が人間に姿を変え、あるいは人間が動物となり、人間と婚姻を結ぶのだ。これらは古代の族外婚による信仰、生活様式の違いに起源を求める説があるという*1。では作品をざっくりと紹介してみよう。

■ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (監督:トム・ムーア 2014年アイルランド・ルクセンブルク・ベルギー・フランス・デンマーク映画

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《物語》海ではアザラシ、陸では人間の女性の姿をとる妖精・セルキー。そのセルキーの母親と人間の父親の間に生まれた兄妹。妹が生まれた夜、母は家族を残して突然海へと姿を消してしまいました。そして妹シアーシャの6歳の誕生日、兄妹はおばあちゃんに町へ連れて行かれますが、そこで突然、シアーシャがフクロウ魔女マカの手下に連れ去られてしまいます。兄のベンは妹を救うため、消えゆく魔法世界へと不思議な旅に出発します…。アイルランド神話を基に描く、幼い兄妹の大冒険、そして別れが、絵本から動き出したかのような、息を呑む圧倒的な映像美で紡がれていきます。(HPより)

「絵本から動き出したかのような」とあるが本当に凝った絵本を紐解いているかのような気にさせる美しい意匠に溢れたアニメだった。その意匠の中にはスコットランド先住民族であるピクト人の遺跡装飾を模したものも含まれ、物語の幻想性を高めている。そういえば以前『第九軍団のワシ』という映画を観たことがあるが、あれに登場したローマ軍と戦う異様な風体の蛮族がピクト人だったのだろうか。

と同時にこの作品はいわゆる「宮崎アニメ」並びに宮崎駿がかつて在籍していた東映動画のアニメ作品の影響が如実に表れている作品でもある。正直ここまで似せなくとも、と思ったぐらいだ。最も連想させたのは『崖の上のポニョ』だろう。あれも海を舞台としたファンタジーだったし、他にも『隣のトトロ』や『千と千尋の神隠し』を思わせるシーンやキャラが幾つかあった。そういった部分で妙な既視感を覚えてしまい、少々新鮮さに乏しく思える部分が無きにしも非ずではあった。

ところで、紀元8世紀にスコットランドに併合され姿を消したピクト人は、文字を残さなかったため"謎の部族"と呼ばれているのだという。そして物語に登場する妖精たちがこの「太古に消え去った部族」の精霊化した姿だったのかと考えるとまた物語世界の幅が広がるのではないか。即ちここで描かれる「異類婚姻譚」は、現代人の中に眠る太古の存在の"血"を甦らそうとした試みであり、また、時を超えてやってきた過去からの声である、と考えるのも面白い。この作品はそもそもがアイルランド神話に基づいてるそうだが、神話と現在を結びつけることで、今現代に生きる者が何者であり、どこから来てどこへ行こうとする存在であるのかを、ファンタジーの形で指し示そうとしたのがこの物語なのかもしれない。

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■レッドタートル ある島の物語 (監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ビット 2017年日本・フランス・ベルギー映画

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嵐の中、荒れ狂う海に放り出された男が九死に一生を得て、ある無人島にたどり着いた。必死に島からの脱出を試みるが、見えない力によって何度も島に引き戻される。絶望的な状況に置かれた男の前に、ある日、一人の女が現れた――。(HPより)

そこへゆくとこの『レッドタートル』はジブリ提携作品ながらまるでジブリの匂いのしない面白い作品だ。そして一つの島を舞台に殆ど人間が登場せず、また台詞が一切なく、さらに物語もグラフィックも徹底したミニマリズムを貫いているといった部分で野心的な作品である。調べると監督は2000年に発表された短編アニメ作品『岸辺のふたり』の作者だというではないか。あの作品もシンプルなグラフィックと語り口調の中に眩いばかりの情念の煌めく傑作だった。

物語は無人島に漂流した一人の男と、不思議な"アカウミガメ"が化身した女との「異類婚姻譚」となるが、しかし、ドラマのようなドラマが語られることは無く、無人島における男の孤独と絶望、そこに現れた女とのささやかな幸福に包まれた日常、そして……という事がらが、ひたすら淡々と描き続けられるだけなのである。にも関わらず、この作品は全く退屈させられる部分が無かった。

それはまず、空と海と島、という非常にシンプルなグラフィックで構成されていながら、注意深く見るならそれらが非常に丹念に質感と色彩を再現している部分に感嘆させられるのだ。海の水の透明感の凄まじさ、島に生える草木の細かに描かれた葉の一つ一つ(プロシージャルか?)、浜辺の岩のざらざらとした質感がグラデーションを成している様、それらが混然一体となり迫真的な世界を形作っているのである。

もうひとつ、この世界に登場する生物の動きのリアルさだ。人間キャラはモーションキャプチャーなのかもしれないが、海を泳ぐ亀や浜辺を行き来する蟹の動きのリアルさはなんなのだろう。特に物語に頻繁に登場する蟹の動きの面白さは、実はこの作品の隠れた魅力かもしれない。

そして時間や天候によって刻々と移り変わってゆく光線や自然の事物の動き、その色合いがまた美しい。なにより驚いたのは夜の情景を描く時だ。夜は画面がモノクロになるのである。光がない以上色彩も存在しない訳ではあるが、当たり前のこととはいえアニメーションの表現としては画期的なのではないか。これら卓越した"動き"と"グラフィック"を兼ね備えたこの作品は既にそれだけでアニメーションの中のアニメーションと言っていいのではないか。

さらにその物語だ。島での、一人、あるいは二人での生活を淡々と描くこの物語は、実はそれが寓話であることにいつしか気づかされる。孤絶した島での孤独な生活も、そこから出ていけない男も、そこに現れ男の魂を救った女も、そしてその女が何がしかの化身であることも、全ては寓意なのである。そして寓話であり寓意であるからこそ抽象的なまでにシンプルな物語なのだ。それら寓意が何を現すものであるかは、観る者それぞれの心で解釈すればいいのだろうと思う。興行的には失敗したとされているが、この先10年の世界アニメ史にしっかりと名前を刻む傑作であることに間違いないだろう。

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