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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170327(Mon)

[]どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!〜映画『パッセンジャーどうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!〜映画『パッセンジャー』を含むブックマーク どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!〜映画『パッセンジャー』のブックマークコメント

パッセンジャー (監督:モルテン・ティルドゥム 2016年アメリカ映画)

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「どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!」というSF映画『パッセンジャー』でございます。

エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)が目覚めたのは地球から植民惑星を目指す宇宙船アヴァロンの船内。このアヴァロンの中では乗客5000人がコールドスリープされ、120年かけて目的地へと向かっていたんですが、二人は予定より90年早く目覚めてしまったんですな。再びコールドスリープすることもできず、このままだと目的地に着くころには二人は死んじゃってるんです。「理不尽ジャー!いったいどうしたらいいんジャー!でも美人と二人だから意外と悪く無いかもテヘペロ」というのが映画『パッセンジャー』のざっくりした内容です。

最初この映画の予告編を観た時は、「あー若い男女が二人っきりで極限状態でそして愛が芽生えちゃっていろいろ大変なこともあるけど愛で全てを乗り越えちゃおうというお花畑なお話なんかなー主演のジェニファー・ローレンスは『ハンガーゲーム』の人だし要するにヤングアダルト系のユルイ映画なんかなー」と思ってたんですけどね。でも監督は『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』の人だし脚本は『プロメテウス』のジョン・スパイツだしどうなんかなーということで観てみることにしたんですが、物語が進んでゆくと最初思ってたようなお花畑でもないんですよ。

この辺はネタバレになるので書きませんが、なんといいますかちょっと鬼畜なお話でしてね。広大な宇宙の中二人っきりの世界、ではありますが決して愛が全てさ!というお話ではないし、モラルの強い人は「こんなのぜってー許せねー!」とか拒否反応起こしちゃうかなー。人間が鬼畜に出来てるオレですらちょっと引き気味に観ちゃったことは確かでね。でもどうなんでしょう、極限の中の人間が起こした事を簡単に断罪出来んのか、というなんかもにょもにょした感情を抱えて観てしまったし、これの落としどころはどうするつもりよ?と、固唾こそは飲みませんでしたが少々心配したままラストまで観てしまいましたね。

そういった部分で賛否両論出ちゃうとは思われますが、実の所オレは好きな映画でした。まず舞台となる宇宙船アヴァロンの造形やその内部のデザインが実に美しくさらにSFっぽく作り込まれていて見ていて心奪われるんですよ。5000人もコールドスリープされてるわけですからこれがまたひたすらだだっ広くて、さらに様々な施設が完備されていて未来のホテルみたいなんですね。そのアヴァロンから眺める広大な銀河宇宙とその星々の輝きがまた美しく、こんなに魂吸い込まれそうな宇宙空間を描き出した部分だけでも「SF映画観てるなー」と気分が乗ってくるんですね。SF設定は結構雑だとは思いますが、SF的なビジュアルはとても素晴らしいんですよ。

でも広大な宇宙船と広大な宇宙空間に、目覚めて活動しているのはたった二人の人間だけで、舞台が広大であればあるほどそこで生きなければならないことの孤独感が押し潰されそうなぐらいヒリヒリと伝わってくるんですよ。若い男女二人なわけですから愛し合っちゃったり楽し気に船内デートしちゃったりもしますが、予定されていたはずの希望に満ちた新天地に辿り着くこともできず、理不尽な状況の中で人知られず死ぬであろうことは変わりないんですね。なんかこの、絶望的であることが確定しているにも関わらずその中で小さな幸せを無理矢理見出して己の人生を肯定しなければならない、確かにそこに鬼畜な要素は実はあるんですが、人は絶望とか孤独に対してどう向き合おうとするのかという物語なのだと自分は受け取りましたね。

例えば同じように宇宙での極限状態を描いたSF映画に『オデッセイ』や『ゼロ・グラビティ』といった作品がありますが、あれは生き延びるために遮二無二力を尽くす、生死の綱渡りを演じる戦いみたいな物語なんですよ。でもこの『パッセンジャー』は生きるか死ぬかではなく、宇宙船が壊れない限り死ぬまで安全に生きられる、ただし希望も無くひたすら孤独に、というお話なんですよ。戦いなんてないんですよ。ただ茫漠とした毎日だけがあって、メシ食ってウンコしてたまにセックスして、でもあとは死ぬだけなんですよ。ただそれだけの人生を生き続けなければならない、生きざるを得ない、映画『パッセンジャー』は、そういった生き方への虚無感と諦観がじわじわと沁みだしてくる部分に、そういったものを描き出そうとした部分に、とても感心した作品でした。

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20170323(Thu)

[][]映画『アサシンクリード』は「エヴァンゲリオン」だった? 映画『アサシンクリード』は「エヴァンゲリオン」だった?を含むブックマーク 映画『アサシンクリード』は「エヴァンゲリオン」だった?のブックマークコメント

アサシンクリード (監督:ジャスティン・カーゼル 2016年アメリカ映画)

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映画『アサシンクリード』はSF的な設定で展開する現代と、テンプル騎士団とアサシン教団とが対立するルネサンス期のスペインの二つの時代を行き来して描かれる物語だ。

現代。死刑囚カラム・リンチ(マイケル・ファスベンダー)はマドリードにある謎の研究施設・アブスターゴ社に幽閉され、先端科学によるある実験の被験者となっていた。それは彼のDNAを遡り、その先祖が体験したある時代を再現する実験だった。その時代とはルネサンス期のスペイン。そしてリンチの血に眠る先祖とはテンプル騎士団と対立するアサシン教団の一人、アギラールだった。アブスターゴ社の博士ソフィア(マリオン・コティヤール)とその父アラン(ジェレミー・アイアンズ)はアギラールの行動を通して歴史の闇に消えた秘宝"エデンの林檎"を探し出そうとしていたのだ。そしてその"エデンの林檎"には恐るべき力が秘められていた……。

とまあそういう内容の『アサシンクリード』である。映画の見所は中世スペインの目を見張るような壮麗な建造物の映像、そしてその建造物を縦横無尽にバルクールしまくりながら敵と戦うアサシン、さらに現代、DNAの歴史を遡る為に作られた奇怪な装置群とよく分かんないけどチカチカしてなんだか物凄いインターフェイス、さらにマイケル・ファスベンダーマリオン・コティヤールジェレミー・アイアンズシャーロット・ランプリングといったヨーロッパ俳優が重厚な演技を見せるといった部分だろう。監督は観てはいないけど『マクベス』を映画化した人なのらしい。いやー今やゲーム映画もこんだけ豪華な事やっちゃうんだなあ、としみじみと思った。

ところでオレはこの映画を観ながら「エヴァンゲリオンみたいだなあ」と思えてしまった。まず主人公リンチはシンジ君だ。彼は望んでもいないのに歴史遡行マシンに乗せられるが、オペレーターがシンクロ率をやたら連呼する所がまずエヴァっぽい。リンチが本人の知らない理由で"選ばれた者"である所もエヴァらしい。

リンチが中世世界で戦い現代に戻ってくるとエヴァで戦った後のシンジ君みたいに無味乾燥な病室(のような部屋)で目覚めるのもエヴァを彷彿させる。傷ついたリンチが漬けられる薬液プールはLCL溶液を思わせた。リンチは首筋にケーブルを埋め込まれるがこれなんかはアンビリカルケーブルだ。ということはリンチはシンジ君でありエヴァ本体でもあるということだ。だからこそ後半、リンチはエヴァよろしく暴走し、そして覚醒する。

リンチの面倒をみるソフィア博士はいわばミサトさんだろう。ソフィア=ミサトさんはリンチ=シンジ君には優しく同情的だ。そして彼のプロジェクト敢行を信じ、彼の行動を半ば黙認する。そのソフィアの父であり全てを取り仕切る男アランはゲンドウということになる。だからリンチ/ソフィア/アランのいる施設はネルフということだ。アランはリンチを道具としてしか見ていないが、これはシンジ君とゲンドウの関係性を思わせる。そのアランは歴史遡行プロジェクトをある目的により遂行しているが、その目的自体がエヴァの人類補完計画に似ている。

さらにアランの背後では怪しい教団が指示を出しており、これはさしずめゼーレということになる。アランと教団の目的を完遂するには"エデンの林檎"なる歴史的遺物が必要なのだが、これは人智を超えたパワーを持ったキーアイテムなのだ。これなどはエヴァでいうところのロンギヌスの槍そのものだろう。さらにクライマックス、アブスターゴ社の職員が虐殺されまくるシーンはエヴァのクライマックスにおけるネルフ職員虐殺シーンと被さる。

こんな具合に『新世紀エヴァンゲリオン』とよく似ている部分の多い『アサシンクリード』だが、まあたまたま似ただけか、もしくはオレが勝手にこじつけているだけなのだろう。そういえば中世スペイン世界ではアギラールと随行する女性キャラがいたが、これはレイとかアスカの役割なんだろうか。やっぱり「あなたは死なないわ、わたしが守るもの」とか言ってほしかったな!または「あんたバカァ!?」とか。それにしても実はオレ、ゲームのほうの『アサシンクリード』は全くやってないんだが、この映画観たらやりたくなってしまったな!

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20170321(Tue)

[][]引っ越し日記序章:『トリプルX 再起動』でオレも映画館再起動した 引っ越し日記序章:『トリプルX 再起動』でオレも映画館再起動したを含むブックマーク 引っ越し日記序章:『トリプルX 再起動』でオレも映画館再起動したのブックマークコメント

トリプルX 再起動 (監督:D・J・カルーソ 2017年アメリカ映画)

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まあ映画の感想とかそういうのではなく、「2か月半ぶりに映画館で映画観た」という話である。だから「映画館再起動」というわけなのである。

今年の元旦に『バイオハザード ザ・ファイナル』を観て以来、忙しすぎて暫く映画館で映画を観ていなかった。2月に引っ越しがあり、それに前後してあれこれと膨大な雑務を片付けなければならなかった。引っ越してからも家具を揃えたり身の回りの細々としたものを揃えたりと、そっちのほうに気が行ってしまっていて映画館で映画観るどころではなかった。家では結構DVDやらBlu-rayやらをダラダラと観ていたのだが、映画館どころかどこかに出掛けるという気分ではなかったのだ。一時は「このまんま映画館リタイアしてもいいかな、あはは」という心境にまでなっていた。今回の引っ越しについてはまた日を改めて何か書こうと思う。

そんなこんなで毎日を過ごしていたのだが、やっと落ち着けるようになり、改めて新居の居心地の良さをしみじみと堪能しまくっていた。しかし落ち着いてみると今度はぐうたらと酒ばかり飲んでいる。ずっと忙しかったものだからその反動である。ああ、オレは頑張ったよ!オレのような社会生活忌避者によくここまで出来たと我ながら感動したよ!ここでこうして落ち着いてられるのは頑張った成果なんだよ!飲もう飲もう酒飲もう!という訳である。

それと併せ、ネットだけが工事が完了せず全く手持無沙汰だったというのがある。なにしろ今までのオレは暇さえあればパソコンの前に座りブログ原稿を書いていた人間なのだが、ネットが繋がらないとブログを書くこともできず(あれこれ調べながら書くもんだから)、実はブログ自体2か月半殆どまるで書いていなかったのである。それでも毎日更新をしていたのは、あれは全て去年に書き溜めた原稿だからだ(しかし書き溜めた原稿だけで2か月半ブログをもたせられるというオレ自身にもどこか狂ったものを感じるが)。

しかし今度はぐうたら酒飲んでばかりいるのにも飽きてきた。「……そうだ、映画でも観に行こうか」。ここにきてやっとオレは映画館に行く気になったというわけである。それと、新居の最寄り駅から駅ひとつの所にシネコンがあり、容易く行けるのを思いだしたのだ。そんな近くなら会社帰りに気軽にレイトショーだって行けるじゃないか。会社にも近くなったから6時7時に帰っても飯作って食ってシャワー浴びた後でもまだ余裕で映画館に行ける。だったら行かにゃ損損!

そしてそんなオレが映画館再起動に選んだ映画が『トリプルX 再起動』という、もう語呂合わせの様な映画だったというわけである。

実の所1作目の『トリプルX』はそんなに面白くなかった。大味だった。主演のヴィン・ディーゼルが観ているだけで胸焼けしそうなキャラクターだった(しかしこのヴィン・ディーゼル、今調べたら『プライベート・ライアン』に出演していたことを初めて知った)。この『再起動』はシリーズ3作目だということらしいが、2作目があったことすら知らなかった。しかしそんな作品をなんでまた観ようと思ったかというと、インド映画の至宝・ディーピカー・パドゥコーン様が出演なさっているからである。それだけではない。観てから気付いたが、ドニー・イェントニー・ジャーまで出演しているではないか。これはもうオールスター・キャストということでいいんではないか。このメンツが並んでいる姿を見られるだけでも料金分楽しめるではないか。

内容はというと例によって大味である。エクストリームスポーツ云々というヤツも、きょうびVFXでどうとでもなるのだから見て特に驚きもしない。それにこの映画はちまちまカットで繋ぐから見せ場が見せ場に見えず、さらに見せ場である筈なのに短い。ドニーさんやトニーさんが出演してるのにそのアクションをしみじみ堪能できない。そもそもヴィン・ディーゼルの「余裕ぶっこいた笑いを浮かべるコレステロールハゲ」といった容貌にはあまり興味を抱けない。

しかし支離滅裂で荒唐無稽すぎる物語は逆にコミック・タッチの乗りの良さと受け止めたし、とりあえず派手でバカでハゲだからしみじみと許してしまえる。特に最初ノーチェックだった狙撃手役ルビー・ローズがなかなかによくて、彼女がディーピカー様と背中合わせになって銃撃するシーンでは「よくわかんないけどもう最高傑作ということでいい」と心の中の拳を突き上げたぐらいである。なにしろ特に何も考えずに観られるのがいい。映画館リハビリにはぴったりではないか。というわけでオレの映画館再起動は無事果たされたのである。

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20170317(Fri)

[][]聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】 聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Ram Teri Ganga Maili (監督:ラージ・カプール 1985年インド映画)

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■聖なる河ガンジスを題に採った作品

ガンジス河はヒンドゥー教徒にとって聖なる河である。このガンジス河=ガンガーを題に採って物語られるのが1985年に公開されたラージ・カプール最後の監督作品『Ram Teri Ganga Maili』だ。主演はラージ・カプールの息子ラジブ・カプール、ヒロインにマンダキーニ。

《物語》主人公はカルカッタに住む青年ナレンドラ(ラジブ・カプール)。彼は祖母の為に聖なるガンジス河の清い水を採ろうと、ガンジス源流のある聖地ガンゴートリーへ訪れる(ちなみに実際の源流はさらに山に入ったゴームク)。ここでナレンドラは美しい娘ガンガー(マンダキーニ)と出会い、愛し合うようになる。やがて二人は結婚を誓い一夜を共にするが、ナレンドラはカルカッタに一時帰郷することになる。しかし郷里に着いたナレンドラは家族から強引に他の娘と婚約させられ、逃亡を図ったナレンドラは今度は家に監禁されてしまう。一方ガンガーはナレンドラの子を産むものの、待てど暮らせど帰らないナレンドラに会うためカルカッタへと向かう。だが彼女は道中何度も危険な目に遭い、遂にバナーラスの町で踊り子の館に軟禁されてしまう。

■物語背後にある神話テーマ

タイトルの意味は「ラーマよ、あなたのガンガーが汚される」といったものだが、このラーマはインド叙事詩ラーマヤーナに登場し、ビシュヌの化身とされるラーマ王子のことであり、同時に主人公も指すのだろう。ガンガーはガンジス河を神格化した女神であると同時に、この物語のヒロインの名でもある。ラーマヤーナではラーマ王子の妻シータがさらわれ、そこで不貞があったのではという疑惑が持ち上がるが、それと重ね合わされているのかもしれない。この物語でもヒロインは性的に危険な目に何度も遭うのだ。主人公の名前ナレンドラは「神に似た人」といった意味らしいが、これに女神ガンガーと同じ名前のヒロイン・ガンガーが絡むわけだから、ザックリと神様同士のカップルと言ってもいいわけで、これは当然神話的な意味合いを持たせようとしているのだろう。

この物語はさらに、サンスクリット劇最大の傑作と言われる戯曲『シャクンタラー姫』をも題材にしている。インドには疎いオレだが、この『シャクンタラー姫』だけは読んだことがあるのをちょっとだけ自慢させてほしい(レヴュー:インドの事をあれこれ勉強してみた - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)。『シャクンタラー姫』は仙人の隠棲所で出会ったドウフシャンタ王と天女の血筋を持つシャクンタラー姫との恋愛ドラマである。相思相愛となり周囲からも祝福され婚姻の目前にあった二人はしかし、とある仙人の呪いによりその想いを成就することができなくなる。やがてシャクンタラー姫はドウフシャンタ王の子を産み、子を連れて王都へと向かう。こういった骨子はまさにこの映画そのものである。さらにこの映画においてナレンドラとガンガーは村独特の風習によって婚姻を結ぶが、これは『シャクンタラー姫』において主人公カップルが結ばれる"ガンダルヴァ婚(結婚の儀式を経ないで性的関係によって成立する結婚)"と非常に良く似ている。

■物議を醸した乳房シーン

とはいえ、「神話を題に採った物語」というなにやら高尚な趣のある作品に見せながら、実はこの物語、相当に大衆的な、ある意味下世話とも言えるエピソードの盛り込み方をしており、当時でも相当物議を醸したらしい。なによりこの作品、ヒロイン演じるマンダキーニが劇中何度かその豊満な乳房を披露するのだ。まずヒロインが滝で沐浴するシーンだ。ここで水に濡れた薄物の衣装から彼女の乳房がありありと透けて見える演出が施される。↑の写真を見て貰えば一目瞭然だろう。次は子供に授乳するシーンでやはり乳房が露わになる。

「Ram Teri Ganga Maili」で画像検索するとヒロインの乳房シーンばかり出て来る。この作品の関心度がどの辺にあるのか伺えるというものだろう。2016年に公開されたインド映画『カプール家の家族写真(Kapoor & Sons (since 1921))』に登場するお爺ちゃんが青春の思い出として後生大事にしていた女優の等身大ポップアップが実はこの映画のヒロインの乳房シーン写真だったりするのだ。日本だったらアグネス・ラムって所なのかな?

こういった煽情はナレンドラとの川での逢瀬を描くシーンでも現れる。鼻と足が冷たいというナレンドラの鼻にガンガーは口づけし、足をさする。女性が男性の足を触るというのは婚姻したもの同士の行為であるらしく、ここで主人公がときめきを覚える、といった具合だ。

さらに結婚を誓った二人が床を共にするシーンも、口づけや愛撫を経て衣服を脱がし始めるといった様子を克明に描き十分にエロティックだ。しかし村のヒロイン・ガンガーを奪われ怒り心頭に達した村男たちが、二人の夜伽を襲おうと迫りくるのだが、これにガンガーの兄が応酬する。この部分の描写がなにしろ凄くて、頭に血の上った村男たちとガンガーの兄が血塗れの戦いを繰り広げる、といったシーンと、カップル二人のアハンウフンなシーンが交互に描かれるのだ。ここではエロと暴力が代わる代わる画面に登場し、異様な効果を上げている。

■エロティシズムと暴力

後半は乳飲み子を連れカルカッタを目指すガンガーが、地獄巡りともいえる恐ろしい体験を経てゆく様子が描かれる。一方のナレンドラは逃亡するも連れ戻され、自宅でしょんぼり望まぬ結婚を待っているだけというからある意味対称的過ぎる。ガンガーはバスの途中駅で降りたところを親切を装った女に汚い赤線地帯に連れ込まれ、客を取らされそうになって逃げ出す。その後も汽車の途中駅で放り出され、やはり親切を装った男に娼館に軟禁され、歌い手としての生活を余儀なくされる。クライマックスは内容には触れないがやはり暴力的だ。さらにこの作品、冒頭でガンジス河の河辺に転がる本物の死体や河を流れる本物の死体が画面に登場して度肝を抜かされる。

これらエロティシズムと暴力は、実は後期ラージ・カプール映画の二本柱とも言えるものだ。『Mera Naam Joker』(1970)では既に主演女優のヌードシーンが登場していたし、『Bobby』(1973)でもヌードこそ出ないが主演女優の露出度の高さと後半の暴力が目を引いた。『Satyam Shivam Sundaram』(1978)と『Prem Rog』(1982)は暴力の嵐だった。暴力描写自体は初期の頃から存在していたが、それでもまだ文芸路線を保とうとしていた。この文芸路線の初期からエロティシズムと暴力の後期への転換は、徹底した商業映画監督への転換ということなのだろう。しかもただ単に商業映画監督なのではなく、非常に野心的な試みをインド映画界で成そうとしていたように思う。

自分がラージ・カプール作品を面白いと思い、その監督作品全てを観てみようと思ったのは、彼の芸術性や社会的テーマの在り方と、それと裏腹な見世物に特化した映画の描き方にあった。凡百の映画監督はそのどちらかで終わってしまう所を、ラージ・カプールはその両方をやってのけている。この『Ram Teri Ganga Maili』でも「聖なる河ガンジス」を謳いながらそこを流れる死体を見せ、神話に基づく物語とうそぶきながらエロと暴力に走る。聖と俗が混沌とあり、美と醜がない交ぜになり、清と濁が併せ呑まれる。これは、インドそのものではないか。インド映画を観始めてこうしてラージ・カプールに辿り着いたことを自分はとても嬉しく思えるし、同時にインド映画の奥深さをまたしても思い知らされた気持ちだ。

ラージ・カプールは晩年喘息に苦しみ、この作品が公開された3年後、1988年に喘息の合併症により68歳で死亡している。

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

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[][]【ラージ・カプール監督週間】まとめ 【ラージ・カプール監督週間】まとめを含むブックマーク 【ラージ・カプール監督週間】まとめのブックマークコメント

というわけで10回に渡ってお送りした【ラージ・カプール監督週間】いかがだったでしょうか。レビューの掲載順は映画の公開順にしなかったため、ここでレビューのリンクを映画公開順に並べて貼っておきます。

Aag (1948)

Barsaat (1949)

Awaara (1951)

Shree 420 (1955)

Sangam (1964)

Mera Naam Joker (1970)

Bobby (1973)

Satyam Shivam Sundaram (1978)

Prem Rog (1982)

Ram Teri Ganga Maili (1985)

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20170316(Thu)

[][]失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】 失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Aag (監督:ラージ・カプール 1948年インド映画)

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■顏の焼けただれた男

それは新婚初夜のことである。ベッドの上で艶めかしく微笑みながら夫を待つ妻。寝室に夫が入ってきて妻に呼びかける。恥じらいに伏し目がちにしていた彼女はゆっくりと顔を上げる。だが夫の顔を見た彼女は絶叫を上げる。なんと夫の顏は、その半分が焼けただれていたのだ。相手の顔を見ることなく結婚が決まることもあるインドならではの悲劇なのだろう。そして怯えて泣きじゃくる妻に、夫はゆっくりと自らの哀しみに満ちた半生を、火傷のわけを語り始める…。

1948年、23歳のラージ・カプールが初監督した記念すべき作品『Aag』は、まるでハマー・フィルムのホラー作品を思わす猟奇的なオープニングから始まる。タイトル「Aag」の意味は「火」。それは主人公の顔を焼き尽くした火の事なのであろうか。彼の身に過去、いったい何が起こったのだろうか?

《物語》

主人公の名はケワル。彼は幼い頃(シャシ・カプール/子供時代)芝居に目覚め、友人を集めて素人舞台を立ち上げるほどだった。しかしその初演の日、ヒロインを務める筈だった少女ニンミが親の都合で突然町を去り、ケワルの最初の舞台は遂に演じられることはなかった。

それから10年後、学生となったケワル(ラージ・カプール)は再び演劇に挑む。その演目のヒロインに、ケワルはニンミと呼ばせてくれと頼み込み、それを承諾してもらう。ところがこの舞台もヒロインの降板で頓挫してしまう。

その後ケワルは父親と同じ弁護士になるため試験を受けるもこれが不合格。この時、ケワルは演劇の道に進むことを決意し、父の反対を押し切って家を飛び出す。だが世間の風は冷たく、失意のまま彷徨う彼は、ある劇場に入り込む。その劇場のオーナーである芸術家のラジャン(プレムナス)はケワルの窮状を知り、彼に舞台演出を任せてみる。

夢の叶ったケワルは劇を書きあげ、出演者のオーディションに挑む。そして彼の舞台のヒロインとして抜擢された女性(ナルギス)に、ケワルは再びニンミと名乗るよう懇願する。度重なる稽古の中で芸術家のラジャンはニンミを愛するようになる。しかしニンミが恋していたのはケワルだった。そしてその三角関係は遂に破局を迎えることになる。

■ラージ・カプールのエッセンスが詰まった初監督作

処女作にはその作者の全ての要素が詰まっているという言葉があるが、ラージ・カプールの初監督作品となるこの『Aag』にも、その後のカプール作品に表れるモチーフがふんだんに盛り込まれていることが発見できて非常に面白い。長々と粗筋を書いたのはその共通点を示唆するためだ。

まず「顔半分が焼けただれた男」だ。これは「顔半分が焼けただれた女」として1978年公開の映画『Satyam Shivam Sundaram』に登場する。そして「演劇を目指す男のヒロインが人生の節目節目に三度変わる」という物語の流れは、1970年公開の『Mera Naam Joker』において「道化師を目指す男の人生に登場する3人の女」に呼応する。さらに「一人の女性と友人との三角関係に至るが、主人公は友情を選ぶ」というモチーフは1964年公開の『Sangam』そのものだろう。こじつけを承知で書くなら「放逐された弁護士の息子」は1951年の『Awaara』になるか。ううむこれは無理矢理すぎるか。

もう一つはカプール監督の奇妙な猟奇趣味とその要因ともなる暴力だ。この『Aag』でいうなら「醜い火傷のある男」でありその火傷が出来た原因ということになる。娯楽映画に暴力的要素が盛り込まれるのは珍しくはないが、カプール作品においてそれは突発的であったり衝動的であったりするため驚かされるのだ。要するに物語内において「飛び道具」のように使われるのである。その最たる例が『Satyam Shivam Sundaram』だが、他にも『Barsaat』(1949)における監禁と暴力、『Sangam』(1964)の衝動性、『Bobby』(1973)の集団リンチ、『Prem Rog』(1982)の凄まじい銃撃戦、といった形で表れる。

これら猟奇と暴力は物語の中心的要素では全くないのだが、カプール監督の密かな趣味なのかそれともサービス精神なのか定かではないにせよ、なぜだか劇中に突発的に盛り込まれるのだ。どちらにしろ、様々なカプール作品を鑑賞した後に観るならば、この『Aag』は多くの発見があり楽しめるだろう。

■失われたミューズを乞い求める物語

映画内容それ自体で見るなら、初監督ということでまだ慣れていないせいか、前半は物語の核心へ繋げるための段取りに終始し、どこか作業的に物語られている部分が無きにしも非ずだ。そしてヒロインであるナルギスが中盤まで登場しないため、それまで主人公が右往左往するだけの華の無い物語が進んでしまう。しかしナルギス登場後はその艶やかさと歌と踊りの充実でようやく楽しめる作品になってくる。というかナルギスは本当にいい、いろいろな古典インド映画を観て本当によかったと思ったことのひとつはナルギスの素晴らしさと出会えたことだ。

この作品において主人公ケワルは最初に出会った少女ニンミの名前を二人目三人目の女性にも名乗らせようとする。日常的な恋愛感覚で考えてしまうとこれは異様なことではあるが、これにはどういった意味が隠されているのか。最初自分は「これはファム・ファタールを追い続ける男の物語なのだな」と思っていたのだが、しかしよく見てみるなら、ケワルにとって"ニンミ"は単なる恋人ではなく、常にケワルが演出する舞台のヒロインとして登場しているのだ。そこに恋愛感情が無かったとはいえないが、それよりもまず、"ニンミ"はケワルが劇作を生み出す想像力の核であったこと、すなわちミューズであったということなのだ。だからこそ、ミューズという核を失った劇はすぐさま頓挫することになるのだ。失われたミューズを乞い求め続けるこの物語は、つまりはケワルが自らの劇作の完全なる完成を乞い求め続ける物語であったということができる。いうなれば監督ラージ・カプールが、不安と葛藤の中、その初監督作品の成功を懇願しつつ悪戦苦闘と試行錯誤を繰り返す、その過程そのものがこの作品だったのではないか。

乞い求めるほどに離れていってしまうミューズの存在にケワルは苦悩し、遂にクライマックスにおいて「顏の火傷」の原因となった事件が起こってしまう。それだけだと暗澹たる物語として終焉するが、しかしこの物語にはある救済が用意される。そしてこれが素晴らしい。観終わって「ああ、こういう物語だったのか!」と叫んでしまったほどだ。このラストの構成によってラージ・カプールはその非凡さを大いに世に知らしめることになっただろう。このラストは、監督ラージ・カプールが遂に自らの作品の納得できる完成に辿り着いた瞬間をも表わしているのだろう。こう考えると、「顏の火傷」それ自体すら"名監督誕生"の"聖痕"であったともいえないだろうか。

20170315(Wed)

[][]対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】 対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Barsaat (監督:ラージ・カプール 1949年インド映画)

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ラージ・カプール主演・監督作品として1949年に公開された映画『Barsaat』は処女作『Aag』(1948)に続く監督第2作目となる。共演はナルギス、プレム・ナス、ニンミ。二組の対称的なカップルの愛の行方を描いた作品だが、後半で奇妙な乱調を見せるのが独特だと言えるかもしれない。タイトルの意味は「雨期」。なお今回は結末まで触れるのでご注意を。

物語の中心となるのは正反対の性格をした二人の男。一人は芸術家肌で気難しいプラン(ラージ・カプール)、もう一人はリアリストで享楽的なゴパル(プレム・ナス)。二人は都会からインドの田舎へ遊びに行くが、車が故障し近くの村で数日過ごすことにする。その間、プランは村の娘レシュマ(ナルギス)と出会い恋をし、結婚まで考えるようになるが、レシュマの父は決してそれを許さず、会うことすら禁止した。一方ゴパルはニーラ(ニンミ)という娘と出会う。ニーラは心の底からゴパルを愛したが、ゴパルにとってそれは行きずり恋のつもりだった。そしてそれぞれのカップルに悲劇が待ち構えていたのだ。

監督第2作目ということからか、ラージ・カプール監督作品としてはテーマの選び方やその話法にまだまだ未熟でぎこちない部分を感じるのは否めない。まず主演となる二人の男だ。一途に愛を信じそれを与えることを惜しまない男プランと、刹那的で浮気性、愛に関しては不誠実な男ゴパル。「愛」に対して正反対な態度を取る二人の男を描くことで、この物語は「愛の本質」を描こうとしたのかもしれないが、どうにも図式的に感じてしまう。ラストはその「愛に対する態度の違い」により、二人は相応の結末を迎えることになるが、これも教訓的過ぎて白けてしまう。また、ナルギス演ずるヒロインの、いちいち鼻をすする演出も余計に感じた。

それと併せ、主演・監督を務めるラージ・カプールが、自らの役柄をてらいもなく格好よく描き過ぎている部分に少々苦笑してしまった。スーツをパリッと着込み、ピアノとバイオリンをたしなみ、憂いのこもった顔で愛こそは至上と語り、そして美女ナルギス演じるヒロインと睦みあうのだ。自身の監督作ならむしろ嫌われ者になるであろう浮気性の男を演じないか?まあ自らの監督主演作で自らの役柄を格好良く描くことが間違いだとはいわないが、こんなラージ・カプールがなんだかお茶目さんだなあ、と思えてしまった。

こういった部分で多少引っ掛かりはあったが、作品自体はそちこちに見所がある。光と影の具合が巧みに計算されたモノクロ映像は十分芸術的であり技巧的であり、そして美しい。この時代の一般的なモノクロのインド映画がどの程度の芸術水準にあったのかは知らないので、この作品だけを取り出して芸術的だとは言えないのかもしれないが、それでもカプール監督の映像に対する意気込みやこだわりのほどは十分に感じた。まあ、見方によれば気取り過ぎとも取れる映像だが、決して悪いとは思えない。先程触れたお茶目ぶりといい、この映像の気取り方と言い、将来の大監督の余裕が見え隠れするともいえるではないか(というか最初から大監督だったのかな?)。

しかし「二人の男の対称的な愛」を描くこの物語は後半異様な方向へと乱調する(ここからクライマックスに触れます)。父親に結婚を反対されたレシュマは、流れの早い川を縄だけを伝って川向うのプランのもとに行こうとする。怒り心頭に達した父親は縄を切ってしまい、レシュマはそのまま川に流される。言ってしまえば父親による殺人(未遂)である。半死半生のレシュマは下流である漁師に拾われる。この漁師というのがいかにも独り者の異様な風体の男で、看病から覚めたレシュマを監禁し、自分の嫁にしようとするのだ。プラン恋しさに泣きじゃくるレシュマだがいよいよ結婚式の日がやってくる。だが外で車の事故が。事故車から結婚式場に連れ込まれた男は、なんと瀕死のプランだったのだ。瀕死の男がレシュマの想い人であることを知った漁師はブランを殺そうとする。

とまあ以上のような展開を迎えるのだが、それまで美しく切ない「愛の物語」だったものが一転、暴力と殺人と監禁と強要がドロドロと描かれる猟奇的な物語へと変貌するのである。観ていてなんじゃこれは?と思ったのである。ラストにおいて瀕死のプランはレシュマの愛により命を取戻す。反対にゴパルの愛を得られなかったニーラは自ら命を絶つ。これによって「真実の愛こそが命を助ける」という結論を付けたかったのだろうが、それにしてもシナリオのコントラストが激しすぎる。異様なのだ。ここまで必要だったのかとすら思えるのだ。しかし、この過剰さは後のラージ・カプール作品で随所に見られることになる。それがサービス精神なのかラージ・カプール天性のものなのかは分からないが、ラージ・カプール監督作の特徴ともなるものを垣間見せた初期作であるとは思う。

20170314(Tue)

[][]大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】 大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Shree 420 (監督:ラージ・カプール 1955年インド映画)

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大都会ボンベイ(現ムンバイ)への長い道のりをトコトコと歩く男がいた。彼の名は身なりは貧しいが表情はどこか明るく輝いている。きっと田舎から夢と仕事を求めてやってきたのだろう。彼は自分の心の様を描いたような歌を歌いだす。「おいらの靴は日本製 履いてるズボンはイギリス製 頭の赤帽ロシア製 それでも心はインド製(「mera joota hai japani」)」。ラージ・カプール主演・監督により1955年公開された映画『Shree 420』はこんな具合に始まる。共演となるヒロインはラージ・カプールと16作の映画で共演したというナルギス。自分もこの間二人の共演作『Awaara』(1951)を観たがとても素晴らしかった。また、この作品はシャー・ルク・カーン主演『ラジュー出世する(Raju Ban Gaya Gentleman)』(1992)のオリジナル作品となっている。

主人公の名はラージ(ラージ・カプール)。夢と希望に燃えボンベイに辿り着くも、どこにも職は無いわ持ち金は掏られるわ、路上で寝ようにも金を要求されるわで早速都会の厳しさを思い知らされる。そんな彼だったが質屋で出会った娘ヴィディヤー(ナルギス)と恋に落ちてしまう。ヴィディヤーは下町で教員を営むが、彼女もまた貧しい暮らしをしていた。ラージはようやくクリーニング屋の仕事を見つけるが、洗い物の届け先に住む踊り子の女マーヤー(ナディラー)にトランプの腕を見込まれ、いかさま賭博の片棒を担がされるようになる。みるみるうちに大金をせしめるようになったラージは、正直者の顔を失い、あぶく銭に奔走する詐欺師と化してしまう。だがそんな汚れきったラージを、ヴィディヤーは決して快く思わなかった。

タイトルの「Shree 420」とはインド刑法の詐欺・不正行為を罰する法律セクション420に由来し、「詐欺師」とか「いかさま野郎」とかの意味になるのだろう。これは物語の最初で真っ正直な男として登場した主人公が都会の汚濁に染まりいかさま野郎と化してしまう様子を表したものなのだろう。物語で象徴的に描写されるのは、ムンバイに着いたばかりの主人公が質屋で「正直者コンテスト優勝メダル」を質入れしてしまう部分だ(もともと住んでいた村で獲得したものらしい)。いわば魂を大都会という名の悪魔に売り渡したというところだろうか。こういった象徴性も含め、物語は半ば寓話的な構成を成しているように思えた。物語では常に単純な対立項が描かれる。金持ち/貧乏人、正直者/よこしまな者、利己的な者/他者を思い遣る者、といった具合だ。これらは即ちモラリズムについての言及であり、さらには当時のインドの理想主義を体現したものだということなのだろう。

こうして主人公ラージの魂はムンバイという魔都を彷徨いながら善悪の狭間で揺れ動く。それはメフィストフェレスに魅入られたファウストであり、煉獄を道行くダンテである。ではグレートヒェンでありベアトリーチェであるものが誰なのかというとそれがヴィディヤーなのだ。彼女は罪悪に染まったラージの魂を照らす【善良さ】として登場する。これは同じラージ・カプール監督作品『Awaara』において、悪に染まった主人公ラジをヒロインであるリタが【希望】の象徴となって救済するのと似ている。これらはまた貧困からの救済を意味し、それが『Shree 420』においては【善良さ】という部分で説かれているのだ。確かに善良であるだけでは貧困から逃れることはできないかもしれない。それではこの【善良さ】とはなんなのかというと、冒頭で高らかに歌われる「心はインド人」であるということ、即ち「善良であろうとするインド人のプライド」ということになるのではないだろうか。

こうした役を演じる主演者二人が素晴らしい。ラージ・カプールは冒頭では無邪気で朴訥な田舎者の顔で登場しながら、中盤からはタキシードで身を包む涼しげな目つきの伊達男へと様変わりする。この鮮やかな変化に演者の力を見た。主人公キャラクターはチャップリン映画『小さな浮浪者』に影響を受けたものらしく、この『Shree 420』自体は純然としたコメディではないにせよ、弱者への同情や悲哀といった点で共通するものがあるだろう。一方ナルギスは清廉潔白すぎる役柄というきらいがあるにせよ、主人公ラージを時に鼓舞し時に叱咤し、主人公の心を大いに揺り動かすファム・ファタールとして神通力はこの作品でも如何なく発揮されていたように感じた。この二人がベンチでチャイを飲むシーンでのやりとり、そして雨の中傘を差しつつ歌うシーンは圧巻だった。

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