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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170118(Wed)

[][]家同士の対立で引き裂かれた二人〜映画『Parineeta』 家同士の対立で引き裂かれた二人〜映画『Parineeta』を含むブックマーク 家同士の対立で引き裂かれた二人〜映画『Parineeta』のブックマークコメント

■Parineeta (監督:ビマール・ロイ 1953年インド映画)

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1953年にインドで公開されたモノクロ映画『Parineeta』は、カルカッタを舞台に、愛し合う一組の男女が家同士の諍いにより引き裂かれてしまう様を描いた文芸作品である。監督は社会派で知られ、『Do Bigha Zamin』(1953)で第7回カンヌ国際映画祭国際賞を受賞したビマール・ロイ。主演にアショク・クマール、ミーナ・クマリ。原作はあの名作インド映画、『Devdas』の原作者シャラッチャンドラ・チョットッパッドヤーイによるもの。

《物語》19世紀から20世紀への変わり目にあるカルカッタ。富裕なナビン家に生まれ育ったシェーカル(アショク)は、隣家にある貧しいグルチャラン家の娘ラリター(ミーナ)と秘密の結婚を挙げていた。しかし借金を巡り二人の家同士は険悪な仲となり、遂に家の間に煉瓦塀が築かれてしまう。困ったラリターの父は古い恩人ギリン(アシット・バラン)から金を借り借金を返そうとするが、同時にギリンとラリターの結婚を勝手に決めてしまう。シェーカルはそのことを知り激しく動揺する。

実はこの作品、2005年に再び映画化されており、自分はそちらのほうを先に観ていた。主演はサイフ・アリー・カーン、ヴィディヤー・バーラン、サンジャイ・ダット。

『Devdas』原作者による一組の男女のすれ違いを描く文芸ドラマ〜映画『Parineeta』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ(監督:プラディープ・サルカール 2005年インド映画)

時代設定は20世紀中葉になっており、出演者たちの演技、そしてカラー作品ならではの美しい映像が印象的だった。それと同時に、1953年版と2005年版では同じ原作を元にしながら、テーマの中心となるところが異なるところが興味深く思えた。それは2005年版ではロマンス要素を中心にしっとりとした文芸作として完成していた部分を、この1953年版では、ビマール・ロイ監督作ということもあってか、より社会的なテーマが浮き上がったものになっているのだ。

それはシェーカルの父ナビンとその取り巻きたちの傲慢さだろう。そしてそれは自らのカーストの高さを根拠とした傲慢さなのだ。ナビンとラリターの父グルチャランは同じカーストにあったが、グルチャランが金を借りたギリンは下のカーストだった。とはいえグルチャランとギリンはカーストの垣根を越えた信頼関係にあり、家族同然の付き合いをしていた。借金にしてもラリターをギリンの結婚相手としたこともそういった信頼があったればこそだった。ナビンはそれをコミュニティを破壊する行為だと非難するが、グルチャランは逆にそんなカーストなど無意味だと言い返すのだ。困窮する相手を助ける者がいることこそ真のコミュニティであり、それはカーストなど何も関係ないことだと。

1953年版と2005年版ではどちらが原作に忠実なのかは確かめる術はないが、ビマール・ロイによる1953年版は1947年のインド独立間もない頃の製作であり、と同時にカーストによる差別撤廃の機運が高まっていた頃でもあったのだろう。そういった高い時代性がこの作品には加味されていたように思える。映画としてみると前半は二つの家を行き来するだけの映像に若干退屈したことは否めない。それとこれは個人的なことなのなのだろうが古いモノクロ映画のせいか登場人物の区別が最初付きにくくて混乱した……。

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20170116(Mon)

[][]デヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきた デヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきたを含むブックマーク デヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきたのブックマークコメント

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先日は友人とデヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきた。

この展覧会はもともと2013年に英国ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催され世界9都市を巡回していたもので、開催当時は「そのうち日本にも来そうだけどいつになったら実現するのかなあ」と首を長くして待っていたのだが、きしくもボウイが逝去した1年後に日本で開催されることとなったのだ。現地で開催された当時は「現在進行形のボウイ」をたっぷり味わうお祭りだったものが、本当に「逝ってしまったスーパースターを回顧する博覧会」になってしまった。ちなみに、展示物には2013年以降のボウイの活動に関するものも若干付け加えられている。

回顧展の観覧は2時間刻みの時間指定になっており、入場者数も限定されているようだ。混雑防止もあるのかもしれないが、実際は入り口で貸し出される受信装置付きヘッドホンの数に限りがるからだろう。このヘッドホンが独特で、展示物の前に行くと自動的にボウイ・ソングや説明を受信し、様々な来歴を知ることが出来るようになっているのだ。一般の美術展でも解説が成される装置を貸し出すことはよくあるが、それに音楽が重なってくると展示物への引き込まれ方がまた格別のものになる。会場自体にもボウイ・ソングが流されているが、これがまた有名曲が次々にミックスされたもので、あの曲かと思うとこの曲、次々に流れるボウイ・ソングの数々にあっと言う間にボウイ・ワールドに飲み込まれてしまうことになる。

展示物のメインはボウイがアルバム毎に変えていった奇抜で美しい衣装の数々になる。ボウイの衣装はアルバムと、その時演じていたキャラクターと混然一体となったものであり、衣装を見ると「あの時のアルバムの!」とファンならすぐさま分かる。ボウイほどキャリアの長いアーチストだとその数も膨大で、さらに演じたキャラクターも多岐に渡るので、衣装の変遷からボウイの変遷を見て取ることが出来るのだ。そしてやはり初期の頃、ジギー・スターダスト時代の衣装をじかに見ることが出来るというのはオレのようなファンにとって万感の思いなのだ。さらにそちこちで流される当時のライブ映像や記録映像の数々は、今まで観たことの無かったものが多く、オレは展示が始まって割合すぐの場所にあった「スターマン」の展示で既にウルウルしてしまったほどだ。

衣装の奇抜さということであればジギー・スターダスト時代なのだろうが、個人的に最も思い入れの深いボウイ・アルバムは『ステイション・トゥ・ステイション』であり、その時のキャラ「シン・ホワイト・デューク」の、白シャツに黒ベスト&パンツの衣装を観た時には陶然となってしまった。どの衣装もそうだが、「ボウイが、これを着てステージに立っていたんだ」と思うと胸が熱くなって堪らない。それは単なるステージ衣装なのではなく、その時々のボウイ世界の一端を象徴したものでもあるからだ。そんな衣装とは別に、ボウイが書いた歌詞の肉筆原稿がまた心ときめく。衣装はボウイ世界の外面だが、肉筆原稿にはその曲を作った時のボウイの魂そのものが籠っているからだ。それと『ヒーローズ』製作に使用したとされるシンセサイザーの展示もこれまた興奮した。

以前から感じていたが、ボウイは、物凄く王道であったり、本質を究極まで突き詰めた何かを表現する人と言うよりは、何かそこから外れた、ある意味「変な事」「変わった事」をとことんやっていた人で、その「変な事」の視点を力技で周囲に認知させてしまった人なのではないかと思っている。常にアバンギャルドであることを由としていながら、凡百の輩のようにそこに安住せず、それをポップ・スターのアイコンにすり替えてしまうのが巧みな人だったのだろうと思う。自分は、10代からボウイ・ファンではあったけれども、これは決してメイン・ストリームなロック・ミュージックではないのだろうな、とはいつも感じていて、そんなアーチストが実は世界中で敬愛され様々な人々に影響を与えていたことにかえって驚いたぐらいだった。ボウイは、先端的なアーチストであったというよりも、「変な事や変わった事をやっていたって全然構わないんだよ、そして実はそれが一番カッコイイことなんだよ、なぜなら、僕を見なよ!」ということを、ボウイ・ソングを聴くファンの胸に役付けた人だったのだろう。ボウイがこうして愛されるのは、そんな部分にもあったのではないかな、と改めて思った回顧展だった。

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20170113(Fri)

[]あれこれCATVドラマ観た〜『ハップとレナード』『ゲーム・オブ・スローンズ 第六章』『死霊のはらわた リターンズ』 あれこれCATVドラマ観た〜『ハップとレナード』『ゲーム・オブ・スローンズ 第六章』『死霊のはらわた リターンズ』を含むブックマーク あれこれCATVドラマ観た〜『ハップとレナード』『ゲーム・オブ・スローンズ 第六章』『死霊のはらわた リターンズ』のブックマークコメント

■ハップとレナード〜危険な2人〜

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ジョー・ランズデールの長編小説「ハップとレナード」シリーズといえばオレの最高にお気に入りのクライム・ノベル・シリーズだ。80年代のアメリカ南部を舞台に、草臥れまくった白人中年男ハップと黒人ゲイ・レナードのコンビ(ただし二人はあくまでただの友人)が、南部独特のドロドロしたおぞましい事件に巻き込まれる、というのがあらかたの内容となる。原作小説はあらかた読んでいて、オレのブログで「ハップとレナードシリーズまとめ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ」としてまとめてあるから興味の湧いた方はドウゾ。

さてその「ハップとレナード」シリーズがドラマ化されたというからオレは居ても立ってもいられなくなったのである。しかもDVDやBlu-rayの発売ではなく、Amazonオリジナル作品であり、Amazonビデオのみで視聴可能なのだ。そんななので思い切ってAmazonプライムに加入し、遂にこの『ハップとレナード〜危険な2人〜』を観ることが出来たという訳である。しかもこの物語、シリーズで唯一翻訳書籍化されていない第1作『Savage Season』のドラマ化というではないか(実はここに全訳がある)。これはさらに楽しみだ。

物語は仕事(しょぼいバラ農園)を失い八方ふさがりになっていたダメ男ハップの元にかつての妻(なんでだか超グラマー)が現れ、危険な仕事を依頼する、というもの。ハップはうんざりしまくっているレナードの助けを借り、その仕事を請け負うが、その果てには裏切りと死の罠が待ち構えていたのだ。冒頭こそなにやら怪しげに始まるお話だが、これが後半、血で血を洗う冷徹かつ残虐な展開へとどんどんなだれ込んでゆくのが素晴らしくいい。ハップとレナードが関わったのは60年代ヒッピーカルチャーの末裔みたいな連中で、こいつらのダメさ加減がまた味わい深い。そう、この物語にはハップとレナードを含め負け犬しか出て来ないのだ。そこがまたいい。負け犬同士で潰し合い、そこにさらに理解不能の狂人が登場する。これはもはや地獄の有様だ。

とはいえ、この物語はクライム・ストーリーを語るだけで終わっていない。ハップと元妻との悲しい過去、さらにハップとレナードが出会うきっかけとなった子供時代の悲しい事件も描かれ、物語に大きな膨らみをもたらす。ハップとレナードは単なる負け犬ではない。彼らは、現実が悲しすぎるものだから、あえて負け犬であることを選んだのだ。そんな深いドラマ性が胸に響く逸品だった。続編もあるというから、いよいよシリーズ全篇が映像化されるのか。あの至高の超バイオレンス作『罪深き誘惑のマンボ』もか!?うわあ、これは物凄く楽しみだぞ!

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ハップとレナード〜危険な2人〜(字幕版)

ハップとレナード〜危険な2人〜(吹替版)

■ゲーム・オブ・スローンズ 第六章: 冬の狂風

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ジョージ・R・R・マーティンファンタジー小説氷と炎の歌』シリーズを原作としたテレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』も遂に第6章である。物語は中世ヨーロッパを模した世界を舞台とした剣と魔法とドラゴンの登場するファンタジーであるが、入り乱れまくった人間関係、常に小競り合いを続ける一触即発の王国派閥、そして北方から押し寄せると言われる人外の軍団の恐怖を描いたひたすら重厚な物語なのだ。そしてまたこれが観ていてどんよりしてしまう鬱展開が毎話これでもかと連打されるのである。まあこれが病みつきになる原因でもあるが。

それにしても第1章が放映された2011年から足掛け6年、第6章までで全60話、いやあ、長い長い……。しかもあまりに登場人物が多く舞台となる国々も多岐に渡り、その中で敵か味方かも判別しない陰謀術数が乱れ飛ぶので、はっきり言ってオレは物語全てを把握できていない。毎回「これは誰?ここはどこ?こいつとこいつに何の因縁があるの?」と頭に「???」をいっぱい浮かべて観ているザマなのである。

ただ基本的な大筋と言うのはあって、それは瓦解した北方王国の再建と北から来る人外の軍団との戦いの予兆であり、さらに南方に追放されたかつての覇王の娘がドラゴンを駈って王都奪還を目指す物語である。今回の第6章では第1章で描かれた様々な破綻と怨恨とがようやくぐるりと回ってこの物語がどこを目指そうとしているのか明確な輪郭を現してきたのである。それは北の氷原からやってくる者たちを表わす「氷」と、南からやってくるドラゴンの「炎」がいよいよ対峙する様になったことの予感だ。それはきっと王都を蹂躙するのだろうが、同時に北と南とが最終的に融和するであろう予兆でもある。だからこその原作タイトル『氷と炎の歌』なのだろう。

ホントここまで来るのが実に長かった。本国では第8章をもって終章とすることがアナウンスされているが、確かにこの流れだとあと2章をたっぷり使って終焉を迎えるであろうことが見えてきた。いやあ、今までも盛り上がってたけど(どんよりと)、これからのラストスパートも相当盛り上がりそうだなあ。

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死霊のはらわた リターンズ

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あのアッシュが帰ってきた!?というホラー・コメディ、『死霊のはらわた リターンズ』である。そう、かつてサム・ライミ監督により製作された伝説のグヂャグヂャドロドロ&大バカ・スプラッター・ホラー映画『死霊のはらわた』3部作の続編が、TVドラマになって戻ってきたという訳である。当然主人公はブルース・キャンベル演じるアッシュ、片手にチェーンソーを装着したニクイ奴である。そもそもこの設定で大バカである。

アッシュは30年前、きったない山小屋で『死者の書』なる悪霊召喚術の本に呪われ、まあなんというか夥しい死体を築いてきた中で生き残った男なのである。そんなアッシュが所持していた『死者の書』の呪文をうっかり詠んでしまったばっかりに、この世界に再び悪霊が召喚されてまたぞろ町は血の海死体の山さ!というのが本作になる。それにしても「うっかり」って。要するに全部アッシュのせいなのである。しかし本人はすっかりヒーロー気取りで(バカだから)、「悪霊は俺が退治する!」とはりきってるのである。やっぱりバカである。

このドラマではそんなアッシュのバカ振りと、彼と対決する悪霊のグヂャグヂャドロドロの造形、そして「これTVでやっていいのか」と思わせてしまう大量の血!血!血!が見所となるのだ。だから物語というよりもどんだけバケモノが出て人体が破壊されて床中血塗れになるのかだけをひたすら楽しむドラマとなっているのだ。そしてさらに、バカなのである。即ち、この『死霊のはらわた リターンズ』では、「楽しいことしか起こらない」のである。ああなんと素晴らしい作品であろう。続編も放送されるそうなんで超楽しみ。

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20170112(Thu)

[]最近読んだコミックあれやこれや 最近読んだコミックあれやこれやを含むブックマーク 最近読んだコミックあれやこれやのブックマークコメント

■レベレーション-啓示-(2) / 山岸涼子

レベレーション(啓示)(2) (モーニング KC)

レベレーション(啓示)(2) (モーニング KC)

山岸涼子ジャンヌ・ダルクを描く『レベレーション-啓示-』第2巻、とても楽しみにしていた。山岸はこれまで「見える筈の無い"怪"を見てしまう者の物語」を多く描いてきたが、この作品で描かれるのは「見える筈の無い"神"を見てしまう者の物語」である。ジャンヌ・ダルク物語とはいえ山岸のテーマとしては一貫しており、ここでは「神が見えてしまうことの異様さ」をクローズアップする。言ってしまうならば"神"はいないしそれゆえに見える筈はない。それが"見える"というのは"狂信"の成せる業でありそしてそれは認知心理学の領域なのだと思うが、山岸はここで解釈も批評も差し挟むことなく「見えたもの=神」をそのまま描いてしまう。その唐突さと説明の無さがなにより異様なのだ。

■JJM 女子柔道部物語(1) / 小林まこと, 恵本裕子

小林まこと、今度は"女子"柔道部物語である。小林ならではの伸び伸びとしたストーリーテリングが魅力な作品だ。ただ、この作品はアトランタオリンピック柔道女子61kg級金メダリストであり原作者でもある恵本裕子の自伝の形を採っており、小林らしい逸脱や乱調があまり期待できそうにない所は少々寂しい。

幼女戦記(1)(2) / 東条チカ

カルロ・ゼンによるWEB小説が書籍化したもののさらにコミカライズされたのがこの『幼女戦記』。おっさんが異世界に幼女として転生し第1次世界大戦然とした戦いの中に放り込まれるがこれがまた異様な策士で連戦連勝という、設定だけで全てを物語ってしまっているお話。いわゆるラノベ系列ということなのだろうが、この辺の事情には暗いので余計なことは言わないことにする。言ってしまえばどこまでもチートなお話なのだが、まあこういうのが昨今の若者にはウケるのだろうな、と遠くから眺めるように読んでいた。とはいえグラフィックはよく描けているし、戦記物データパンパンの原作もこれはこれで悪く無いだろう。

■わたしの日々 / 水木しげる

晩年の水木しげるが老年期の徒然なる日々と遠い日の思い出とを描く自伝コミックだが、まず形態が一話4ページのオールカーラーである、という部分が特筆すべき点だろう。そしてその4ページの中に水木ならではの驚くべき精緻な筆致で描かれた風景が見開きで描かれ、これが水木ファンのオレですら見入ってしまうほどに素晴らしいのだ。水木自伝はあちこちで読んでいるがこの作品はまた別個の味わいを持っている。さらに何篇かでは若き日の水木が描いたスケッチや漫画絵が挟まれ、これがまた実に素晴らしい。ちなみにこの作品は水木の遺作にあたるのらしい。

■私はゲゲゲ 神秘家水木しげる伝 / 水木しげる

これもまた水木の自伝。水木自伝は数あるが、これは幼少時から比較的晩年近くまでをサクッと単行本一冊分の分量でまとめてあり、これはこれでコンパクトで読み易い。そして、数々の水木自伝で知っている筈のこと以外も盛り込まれており、やはり驚かされるのだ。

■神秘家列伝(4) / 水木しげる

オカルティスト、宗教家、作家など、古今東西の"神秘家"を水木独自の切り口で描く『神秘家列伝』だが、実は随分前に3巻まで読んでおり、これで完結だと思っていたらなんと4巻まであったことを最近知り慌てて買い足した。この『神秘家列伝』は水木のオカルティズムへの深い造詣が描かれ、代表作の一つとってもいいほど完成度が高く、これは是非万人に読んで貰いたいなと思う。

20170111(Wed)

[][]出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』 出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』を含むブックマーク 出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』のブックマークコメント

■Do Bigha Zamin (監督:ビマール・ロイ 1953年インド映画)

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映画『Do Bigha Zamin』は困窮のためカルカッタ(現コルカタ)に出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人間関係を描くドラマである。インド公開は1953年、モノクロ作品。タイトルの意味は『2エーカーの土地』。監督はベンガル語映画監督であるビマール・ロイ、主演はバルラージ・サーヘニー、ニルパ・ロイ(『Deewar(1975)』でアミターブの母親役)。この作品はイタリアのネオリアリズモ運動に触発された社会派作品であり、1954年に第7回カンヌ国際映画祭の国際賞を受賞している。

物語はベンガルの農村から始まる。農夫のシャンブー(バルラージ・サーヘニー)は病弱な父と妻パロ(ニルパ・ロイ)、息子のカンヘイヤ(ラタン・クマール)の4人暮らしだったが、地主からの悪辣な借金取り立てで農地を失う瀬戸際だった。シャンブーは借金を返すため大都会であるカルカッタへ出稼ぎに行くが、この時息子カンヘイヤがこっそりと列車に同乗してシャンブーを慌てさせた。カルカッタに付くも仕事も住むところもなく、あまつさえ荷物さえ盗まれ困り果てていたシャンブー親子だったが、彼らを救ったのが靴磨きの少年ラルと長屋の女将ラニだった。ラニから部屋を借りたシャンブーは人力車の仕事を、カンヘイヤは靴磨きの仕事を始め、少しずつ金を貯めて行った。しかしある日シャンブーは事故を起こし仕事に出られなくなってしまう。

映画『Do Bigha Zamin』は1953年の公開作品となる。ざっと時代背景を調べてみるなら、まず舞台となるカルカッタは1947年のインド独立後に西ベンガル州の州都となった都市だ。だが「この分離独立の際、イスラム教徒の多い東パキスタンからヒンドゥー教徒の難民が多数カルカッタへと流れ込み、600万人ともいわれるベンガル難民の多くがカルカッタ郊外や空地へと定住した*1」のだという。当時のカルカッタにはこの映画の主人公のように困窮した地方農民で溢れかえっていたのに違いない。カルカッタ自体もこの難民問題と社会不安、分離独立による地勢的な支障から経済的な衰退状況にあったのらしい。いわんや農地の窮状はそれどころではなかっただろう。

そんな困難な状況から始まる物語ではあるけれども、都会に出たシャンブー親子を迎えるのは決して辛苦ばかりではない。置き引きに荷物を奪われ困り果てた二人を助けたのは浮浪児の少年だし、金の無い二人に後払いでいいからと住居を提供するのもスラム街の女将なのだ。そして二人にそれぞれの仕事を世話するのもやはりスラムの人たちだ。ここには貧しい者同士のネットワークと互助精神があり、日本で言うなら「世話焼き長屋の人情話」といったところだろう。また、父親恋しさにこっそりついてきた少年も、最初は足手まといと思わせながら、実は彼がいるからこそ父親が助けられるといった展開を見せる。観ているこちらも最初はこの親子、どうなってしまうんだろうとはらはらしていたが、次第にほっこりさせられるのだ。

こんな感じで「貧しさの中の助け合い」を描き人の情けの美しさを謳い上げるこの作品、このまま理想主義的なお話で終わるのだろうか、となんとなく安心でもあり物足りなくもありつつ観ていたら、なんと最後の最後で大波乱が訪れる。そもそもこんな不幸な状況は当時でも幾らでも転がっていたんだろうとは思うが、ここまで理想主義的に進んできた物語のクライマックスに、こんなとって付けたようなリアリズムを持ってこられるので少々面喰ったのは確かだ。ただこう考えてはどうだろう。ラストに用意された悲惨なリアリズムは、遅かれ早かれ彼ら家族を襲ったのだろう。そして残念ながらこれが当時の現実だったのだろう。ただ、それでも、その過程で彼らは貧しさの中の人情を体験したのだと。あの一見過酷なラストの後でも、この家族は再び希望を見出し石に齧り付いても生き抜こうとするだろうと。

余談。この作品はラージ・カプール監督主演によるインド映画の歴史的名作『Awaara』のすぐ後に観た作品だったのだが、作中、少年たちが当時大流行していたのであろう『Awaara』の歌を歌い始めたのにはちょっとしたシンクロニシティーを感じてしまった。『Awaara』は1951年作なのでこの作品とはそれほど公開年数が離れていないのだ。

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20170110(Tue)

[][]『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の原型ともなった輪廻転生物語〜映画『Madhumati』 『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の原型ともなった輪廻転生物語〜映画『Madhumati』を含むブックマーク 『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の原型ともなった輪廻転生物語〜映画『Madhumati』のブックマークコメント

■Madhumati (監督:ビマール・ロイ 1958年インド映画)

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物語は嵐の夜、倒木によって立ち往生してしまった車の様子から描かれる。車に乗っていた男たちはとりあえず近くにあった古い邸宅に避難する。廃屋となった誰もいないその邸宅で、物語の主人公となる男デヴェンドラ(ディリップ・クマール)はある肖像画を目にして驚愕する。それは、彼自身を描いた肖像画だったのだ。そして彼は、これまで記憶に無かったはずのある事件を思い出す。そしてそれは、男の前世の記憶だったのだ。

1958年にインドで公開されたモノクロ映画『Madhumati』は、こんな、まるでホラー映画のようなオープニングを迎える。そしてそこから描かれるのは、悲痛な愛に彩られた世にも奇妙な物語なのだ。監督は映画『Do Bigha Zamin』(1953)で世界的に有名なインドの社会派、ビマール・ロイ。主演のディリップ・クマールは歴史大作『Mughal-e-Azam』(1960)でムガル帝国皇子を演じた男優だ。ヒロインに『Sangam』(1964)、『Jewel Thief』(1967)のヴァイジャインティマーラー

男は、前世においてアナンド(ディリップ・クマール)という名だった。彼は西ベンガルのシャイアムナガー木材地所に新たな管理者として訪れ、そこで地元の娘マドゥマティ(ヴァイジャインティマーラー)と出会い恋をする。一方、アナンドの雇用者であり地元の君主ウグラ(プラン)もまた、地所を歌い歩くマドゥマティに魅せられていた。ウグラは奸計を巡らしマドゥマティを屋敷へとおびき寄せる。そしてその日から、マドゥマティはぱたりと姿を消してしまう。マドゥマティの身になにが起こったのかも分からず、悲痛な毎日を送るアナンドは、山を彷徨い歩いているうちに、遂にマドゥマティと出会う。しかし、それは彼女ではなく、瓜二つの顔を持ったマダヴィ(ヴァイジャインティマーラー)という女性だった。

この物語はシャー・ルク・カーン、ディーピカー・パードゥコーン主演の名作映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』(2007)の原案ともなった作品である。またこの『Madhumati』は、『OSO』を始めとする輪廻転生を描いた多くのインド映画作品の草分けともなった作品なのらしい(Wikipedia『Madhumati』の”Influence”の項参照)。さてここで『OSO』の原案となった作品と書いてしまうと、『Madhumati』がどういう展開を迎える作品なのか多くのインド映画ファンは分かってしまうだろう。だがしかし映画製作現場を舞台にした華々しいドラマである『OSO』と西ベンガルの美しい大自然を背景とした『Madhumati』ではやはり雰囲気が違う。モノクロ作品なのにもかかわらず、自然の描写の美しさは特筆すべきだろう。また、モノクロ映画ということもあって、『Madhumati』には暗くしっとりとしたゴシック・ノワールの雰囲気に満ちている。

だがしかし、『Madhumati』には『OSO』と違う展開を迎える部分もある。それは『OSO』は物語を"事件・転生・復讐"という直線的な時系列で描くが、『Madhumati』においては"全て過去に起こったことの記憶"として描かれている部分にある。これ以上のことは書かないが、この時系列の描き方の違いにより二つの映画の物語展開が違ってきているのだ。その為『Madhumati』と『OSO』ではクライマックスがある意味別のものとなっているのである。さらにラストはもう一ひねりしてあって、『OSO』を念頭に置いて観ているとちょっとびっくりさせられる。こういった点から、古い映画ではあるが『OSO』ファンにも是非観て貰いたい作品だといえるだろう。

さてこの作品は『OSO』原案ということ以外にも見所がある。それは監督がインド映画界で名高いビマール・ロイであるということだ。ビマール・ロイ作品はたいして観ていないので知ったことは言えないのだが、かの監督は社会派であるという思い込みが強かったため、この作品がごく大衆的な娯楽作に仕上がっていることに少々驚いた。そしてその物語性はインドの地域性のみに依存するものではなく、どんな国が舞台でも成立する部分が面白い。時代を古いものにし、因業な地主と地方役人と村娘、というキャスティングであれば、それが日本の昔話でもヨーロッパでも通用しそうではないか。つまり物語として普遍性を持っているということなのだ。

個人的には、この作品で観ていてよくわからなかった部分があった。それはマドゥマティの住む集落の人たちの民族や宗教である。まず集落に墓があったが、これはヒンドゥー教徒ではないということだろうと思う。さらになにがしかの朽ちた神像を礼拝していたが、これはヒンドゥー神に見えず、さらに偶像崇拝を禁じたイスラム教徒ではないということでもある。ひょっとして仏教徒だったのか?服装がサリーなどではなく、馴染の無いもっと違ったものであったこともそうだ。単なる自分の勘違いかもしれないのだが、彼らはインドの少数民族のひとつだったのだろうか。

20170108(Sun)

[]バイオなハザードがファイナルだっぺ!?〜映画『バイオハザード ザ・ファイナル』 バイオなハザードがファイナルだっぺ!?〜映画『バイオハザード ザ・ファイナル』を含むブックマーク バイオなハザードがファイナルだっぺ!?〜映画『バイオハザード ザ・ファイナル』のブックマークコメント

バイオハザード ザ・ファイナル (監督:ポール・W・S・アンダーソン 2016年アメリカ映画)

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あの「バイオハザード」がファイナルらしい。映画『バイオハザード ザ・ファイナル』はシリーズ6作目にして最終章となるのだ。

しかし・・・・・・ぶっちゃけ、「バイオ・シリーズ」って6作も続くほど面白かったっけか!?と思うのである。1作目は、そりゃまあオレも結構好きだった人気ゲームの映画化ということで好意的に観たけど、2作目からの突っ込みどころ満載なクオリティの低さは啞然とする領域だった。あんまり酷かったから3作目からは「笑って楽しむホラーアクション」ということにした。するとアラ不思議、「もともとしょうもない」と思えるとこのシリーズが許せるようになってきた。かといって劇場で観るほどのもんでもないなと思い5作目である前作『バイオハザードV リトリビューション』はDVDでお茶を濁したが、この5作目は意外とよく出来ていた。

さてその『ザ・ファイナル』である。映画冒頭、これまでのまとめ映像を流してくれてこれがとても親切だ。というか「あ、そういうお話だったの?」とやっと理解できたというオレである。これはバイオのせいばかりではなくオレの伸び切ったパンツのゴムのような記憶力の成せる業である。

しかし分かりやすいこれまでの粗筋の後の、廃墟をうろつく主人公アリスがいったいなにやってんのか皆目分からない。なんでうろついているのかすら分からない。ここにきて既に「バイオ節」炸裂である。すろと今度はアンブレラのAIレッドクイーンが現れて、「T-ウイルス感染者撲滅剤をアンブレラが作ったからそれを本拠地ラクーンシティ地下基地へ取りに行きやがれ。48時間以内に撲滅剤播かないと人類全部死ぬから。ゲラゲラ」とかなんとか言い腐るのである。というわけで『ザ・ファイナル』のお話が始まるというわけである。

とはいえこの設定がまず分からない。アンブレラはある陰謀からT-ウイルスをばら撒き人類を滅亡させたが、もう人類なんて殆ど残ってないんだから撲滅剤さっさと播いて地球をクリーンにしちゃえばいいだけじゃないか。播かない理由は「最後の一人まで人類を根絶やしにする」ためなのだろうが、そもそも生き残りがどこに何人いるとかどうやって分かるんだ。そして分かっていてさらにそれを壊滅させたいならさっさとぶっ殺しに行けばいいじゃないか。あと、48時間ってどこから算出された時間なんだ。オレがなにか見落としたのかもしれんが・・・・・・(たまにあるので見落としだったら失礼)。

そんなこんなでラクーンシティへ向かうアリスだが、ここで早速アンブレラ軍と遭遇、戦いも空しく拉致られるのだ。ってかさあ、この時点で「人類の生き残りは約4千人」とか言ってるけど、もう3900人ぐらいはアンブレラの兵隊なんじゃないの?人類の人材資源なんて既に枯渇しているのにアンブレラってやたら兵隊無駄使いしまくらない?4千人って「アンブレラ関係者以外で」って意味かしらん(クライマックスでその謎が明らかになるが、それにしても4千人ってどうカウントしたんだ)?で、アンブレラ軍から脱出したアリスは今度は反アンブレラ隊と共闘してラクーンシティを目指すが、反アンブレラ隊って10人ぐらいはいるんだよな。だから4千人っていったい・・・・・・。

ラクーンシティ地下基地に着いたら着いたでアンブレラの熾烈なトラップがアリスらを襲うんだけども、トラップ仕掛ける暇あるんならさっさと生き残り掃討作戦展開して根絶やしにしとけばいいじゃんよう。どうせ人類なんてもう4千人ぐらいしかいないんだからよう。とはいえ、このトラップに次ぐトラップがこの映画の面白さといえば面白さでもあり、なにしろ「ゲームPV映画」だからその辺割り切って観ると楽しいともいえる。その後も色々あるが細々書くと突っ込みだらけになるからこの辺で止める。

それにしても今回の『ザ・ファイナル』、画面が暗すぎる。屋外では茶色いフィルター掛けたくすんだ色だし、屋内は暗くてなにがなにやらわからない。これまでいかにもセット撮影でございといわんばかりの薄っぺらい色調の画像で、見るからになにもかも見た目が安っぽかったんだが、その反省なのだろうか。ポール・W・S・アンダーソンはちょっとか映画監督みたいなことをしたかったのだろうか。その結果がこの画像の暗さというのも芸のなさを露呈しているけど。

とまあグダグダ書いたが、それでもこの映画、ファイナルということで一応物語をきちんと畳もうとしている努力の跡は見られる。ああこれはこういうことだったのね、と理解のできるお話になっているのである。やれば出来る子じゃんアンダーソン監督。まあうまく誤魔化しただけのような気もするが。そもそも「バイオ・シリーズ」は「見せ場だけ繋いで物語は全然空っぽ、整合性はお座成り」「派手なアクション見せたいばかりにリアリティは皆無」という映画というものなんだが、逆に「ゲームを補完するイメージ映像集」と割り切って観ると、その派手さと馬鹿馬鹿しさはそれほど悪いもんでもない。要するに「ゲームPV」であって「映画」でもなんでもないのだ。全ての設定が破綻しているのに無理やり1本の映画として成り立たせようとしているあの厚顔無恥な開き直りっぷりがいいとも言える。

というかアンダーソン監督、『イベント・ホライゾン』とか『デス・レース』とか意外といい作品も撮っていて、『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』も結構好きな作品だったりするし、「バイオ・シリーズ」はどれも高い興行成績上げており、ホントはバカにしちゃいけない監督なのである。だからこのシリーズの妙にしょうもなく感じる部分というのは、実は監督が割りと私的に自由に楽しみながら作ってから(嫁が主役だし)、という部分があったからなのかもしれない。そういうわけで『バイオハザード ザ・ファイナル』でした。

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