Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170621(Wed)

[]ニコラス・ケイジ主演、ポール・シュレイダー監督によるユルくて奇ッ怪な犯罪ドラマ〜映画『ドッグ・イート・ドッグニコラス・ケイジ主演、ポール・シュレイダー監督によるユルくて奇ッ怪な犯罪ドラマ〜映画『ドッグ・イート・ドッグ』を含むブックマーク ニコラス・ケイジ主演、ポール・シュレイダー監督によるユルくて奇ッ怪な犯罪ドラマ〜映画『ドッグ・イート・ドッグ』のブックマークコメント

ドッグ・イート・ドッグ (監督:ポール・シュレイダー 2016年アメリカ映画)

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ニコラス・ケイジ主演の『ドッグ・イート・ドッグ』ってェ映画観たんですけどね。なにしろ主演がニコラス・ケイジってェ段階で、たいていの映画ファンは「ああ(察し)」って感じで遠い目をするでしょうけどね。オレは以前から思ってたんですよ、この世の中には二種類の人間がいる。それはニコラス・ケイジの映画を観る人と観ない人だ、って事なんですが。その辺で言うと、オレなんかはニコラス映画を観る人間なんですけどね、じゃあ好きかって言われると、いやあ、って考えちゃうんですけどね。なんかこう、ニコラス君って「しょーもねーなー」って雰囲気がビンビンしまくっててね、そのしょーもなさを味わいたいがためについついニコラス映画を観ちゃうっていうかね。

ただね、毎回ニコラス映画の新作が公開されるたびに、「もう見るのは止めよう」と思ってしまう自分もいることは確かでね、今回も一瞬思い悩んですけどね、「ニコラス映画なんだから別にソフトになってからでもいんでね?」とね。しかしねえこれがアナタ、今回の共演はウィレム・デフォーなんですよ。まあ実はついこの間まで「ウィリアム・デフォー」だとばっかり思ってたんですが、なにしろこのデフォーさん、なんかもう腹空かせた野良犬みたいな顔してますよね。ほとんど(本人が)怪奇な俳優ですよね。いやでも嫌いじゃないんですよ。このデフォーさんとニコラス君が並んで立っているだけでもう見ちゃいけないものを見てしまったような危険な匂いがビンビンしますよね。

それだけじゃない。なんと監督がポール・シュレイダー。あの『タクシードライバー』(レヴュー)の脚本家としてオレの脳裏にパンツの染みみたいにこびりついている名前ですよ。ニコラス・ケイジウィレム・デフォーポール・シュレイダー。いやあクセありまくりですよね。コーラで煮詰めた牛モツみたいなメンツですよね。これはもう映画館で観るのが運命というものでしょう。ちなみに原作はエドワード・バンカーの同名小説なんですが、このエドワードさん、タランティーノ映画『レザボア・ドッグス』でミスター・ブルーの役柄だった人でもあるんですよ。

物語はっていうと、要するに犯罪ドラマですよ。ムショ帰りの3人のクズ野郎が出所も果たしたことだしさっさとヤヴァイ仕事やって一発儲けようや、とクズにしかできないクズ思考で再び犯罪行為に手を染めるっちゅうよくあるクライムストーリーなんですね。で、ヤクの売人襲って小金をせしめて図に乗った彼らは、今度は高額の報酬を提示された誘拐計画に乗り出すんですが、不測の事態が次々に起こり3人はピンチに立たされる、とまあこれもよくあるお話ではありますね。そういった点では新しいものはなんにもないんですが、そんなお話自体よりも、3人のクズっぷりと、なんだか知らんがミョーな演出が続いてゆくその展開ぶりが愉快な作品なんですよ。

主人公の3人というのはムショ仲間同士だったトロイ(ニコラス・ケイジ)とコカイン中毒のマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)と巨漢のディーゼル(クリストファー・マッシュ・クック)。この3人がなにしろもう負け犬を極め尽くしたクズ野郎なんですが、特にデフォー演じるマッド・ドッグの頭のおかしさが格別。最近公開されて話題となった『トレインスポッティング2』(レヴュー)でいう所のべグビーみたいなヤツでね、でもべグビーなら暴力だけで済むんですがマッド・ドッグはすぐぶっ殺しちゃうんですな。

それと全編に渡るミョーな演出。冒頭なんてなにからなにまでピンクの部屋でマッド・ドッグがダラダラとTV観ていたりとか、3人に再会の場所であるストリップ・バーではなぜかモノクロだったりとか、ヤクをやるシーンではとても楽しげにサイケデリックなエフェクトがかかったりとか、小金を手にした喜びのあまりお互いケチャップやマスタードをかけあってキャッキャウフフする3人組とか、そしてなにより呆然とさせられるあのラストとか、なにしろミョーだしある意味ドラッギーでもあるんですよ。おまけにそんなシーンに被さるサウンドドラックがまた微妙にユルくて奇ッ怪な雰囲気を盛り上げるんですね。犯罪ドラマではありますが緊張感溢れるサスペンスとアクション!とか全然そういうのではなくて、バカでダルくて頭がおかしい、そんな方向のお話なんですね。

これ、何かに似てるなーと思ったら、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『バッド・ルーテナント』(レヴュー)やウィリアム・フリードキン監督の『キラー・スナイパー』(レヴュー)あたりのトチ狂った雰囲気とでもいうのでしょうか、実際これらの作品ほど極め尽くした感じはまるでないんですが、「犯罪ドラマだと思ったらなんか変なモノ見せられた…」とあっけにとられてしまう感覚は通じるんじゃないかと思います。それと感じたのは、この映画のユルい快感というのは映画館の暗がりで観てナンボのアンモラルさが漂っているからで、これを日常品で埋め尽くされた部屋でDVDで観ても退屈な凡作としか感じないでしょう。だからね、皆さんも終わっちゃう前に劇場で観ましょうよ。

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20170620(Tue)

[]ガイ・リッチー版剣と魔法のアーサー王伝説〜映画『キング・アーサーガイ・リッチー版剣と魔法のアーサー王伝説〜映画『キング・アーサー』を含むブックマーク ガイ・リッチー版剣と魔法のアーサー王伝説〜映画『キング・アーサー』のブックマークコメント

キング・アーサー (監督:ガイ・リッチー 2017年 アメリカ・イギリス・オーストラリア映画)

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君は「アーサー王伝説」を知っているか。オレはそのう、ええっと多分イギリスのお話で聖剣エクスカリバーで円卓の騎士でランスロットがどうとかで聖杯探究で魔法使いマーリンで、……という単語ぐらいしか出て来ない知識度である。知ったかぶったことをこのブログに書こうと思って今Wikipediaを開いたのだが、あんまり長々と書いてるから読むのを止めた。まあ、要するによくは知らないから許してくれ、ということである。

そのアーサー王伝説をガイ・リッチーが映画化するのだという。映画の惹句は「スラムのガキから王になれ!」となっている。予告編を観るとなんだか現代劇っぽいルックスのアーサーさんが暴れまわっている。なんじゃこりゃ、と思ったのである。なんだか軽い。伝説は伝説でも「バリバリ伝説」のほうに限りなく近い。しかもなにやら異様に話題になっていない。しかし、なにしろ監督が『シャーロック・ホームズ』『コードネーム U.N.C.L.E.』のリッチーさんだ。まあそれなりの出来にはなっているんじゃないか、少なくともこの間の『グレート・ウォール』程度には面白く出来ているんじゃないのか、と思いオレは劇場へと向かったのである。

お話はいきなり王様の軍隊と蛮族っぽい連中との白兵戦である。切り立った岩山に建つ城郭とそこに通じる長い長い橋が戦闘の舞台だ。おまけに初っ端から巨大な象みたいな魔法生物がのっしのっしと進みながら王国軍を蹴散らし、それを操る悪い魔法使いが目を金色に輝かせているのである。王国軍は壊滅寸前だ。そこに!聖剣を掲げた王様が突撃してゆくのだ!おおーファンタジーだー。まさしく剣と魔法だー。なんか『ロード・オブ・ザ・リング』みたいだー。とそこそこに盛り上がるオレである。なかなか悪く無いじゃないか。

で、まああとはアーサー王伝説っぽく進んでゆく。前述のとおりアーサー王伝説良く知らないけど。王と妃は王の弟の奸計により惨殺され、一人王の嫡子である赤ん坊だけが生き残るが、彼は娼館に拾われ己の身元も知らずにヤンチャに育ってゆくのである。だが!「岩に刺さった抜けない剣」を抜いちゃったことにより、自らが王の真の跡目であることを知るのだ。このアーサーを演じるのが『パシフィック・リム』のチャーリー・ハナム。実に精悍で王の跡継ぎっぽく見える。一方新しい悪い王様はジュード・ロウがなかなか憎々しく演じていた。

このアーサーと彼を助ける仲間、さらにアーサーを亡き者とするべく襲い掛かる王国軍の戦いを描いたのがこの『キング・アーサー』というわけなのである。全体的に実にガイ・リッチーっぽい映像と話の流れを持つ映画で、ある意味映画『シャーロック・ホームズ』を中世イギリスを舞台にし主人公を変え、スチームパンク的だった『シャーロック』を今度はファンタジー風味に仕上げたのがこの『キング・アーサー』だと思ってもらえればよろし。妙に現代的な雰囲気があったり、早回しやスローモーションや痙攣的にカットを繋いで時間感覚を操作したりといった部分も一緒。生活感溢れるごみごみした市街地なんかも同様。ちょっとスカした会話も通じるところがあるだろう。

ガイ・リッチーは『シャーロック・ホームズ』の時のように誰もが知る人気キャラを彼独特のセンスで弄りまわし換骨奪胎して一本映画をでっち上げたかったのだろうと思う。ただポップで軽妙洒脱だった『シャーロック・ホームズ』と比べるとこちらは歴史モノということもあってもっと重々しいし、それほどお馬鹿なことはやっていない。「父を殺した悪い奴に復讐だああ」というお話は少々ストレート過ぎて遊べる要素が少なかったんだろう。アーサーのトラウマを描くシーンはちょっとくどかったし。それでも「聖剣無双」なアーサーの戦いっぷりは実に迫力たっぷりで、「伝説の騎士」というよりも超能力を駆使したスーパーヒーローっぽくさえある。なにより、きっちりと「剣と魔法のファンタジー」を描きあげた部分は十分嬉しいから、ガイ・リッチー映画の好きな人、ファンタジー物語ファンの人はきっと楽しめると思うよ!

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20170619(Mon)

[]アメリカ国民の持つ不撓不屈さ〜映画『パトリオット・デイアメリカ国民の持つ不撓不屈さ〜映画『パトリオット・デイ』を含むブックマーク アメリカ国民の持つ不撓不屈さ〜映画『パトリオット・デイ』のブックマークコメント

パトリオット・デイ (監督:ピーター・バーグ 2016年アメリカ映画)

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映画『パトリオット・デイ』は2013年、ボストンマラソン開催中に発生した爆弾テロ事件の真相を描く実話映画だ。主演を『トランスフォーマー/ロストエイジ』(2014)、『トランスフォーマー/最後の騎士王』(2017)のマーク・ウォールバーグ、監督を『ハンコック』(2008)、『バトルシップ』(2012)のピーター・バーグが務める。この二人がタッグを組むのは『ローン・サバイバー』(2013)、『バーニング・オーシャン』(2016)に続いて3回目となる(ちなみに今年日本公開された『バーニング・オーシャン』も凄まじく面白かったのでお勧め)。

正直に書くと最初この映画、全く観る気が無くてスルーするつもりだった。ボストンマラソン爆弾テロ事件の実話映画という内容に興味をそそられないこと、「パトリオット・デイ=愛国者の日」というタイトルに「またぞろアメリカさんらしい国威掲揚映画なんだろうなあ」と辟易していたことが理由だ。ウォールバーグ&バーグのアメリカ軍人映画『ローン・サバイバー』もどうにも国粋主義的で好きじゃ無かった。今回もまたその流れなんだろ?と思ってしまったのだ。

だが、ツイッターTLでの評判が妙にいい。単なる「テロリストを追いつめるイケイケ国家アメリカ万歳!」という映画ではなさそうなのだ。こりゃ何かありそうだな、といそいそと劇場に足を運んだところ、これがもう、最初に抱いていたネガティブな印象を全て吹き飛ばしてくれるほど面白く、そして良質な作品だった。爆弾テロにとどまらず次々と凶行を続けるテロ犯、それを憤怒と執念で追いつめてゆく捜査班、この二者の追跡逃走劇がおそろしいほどに緊張感たっぷりなのだ。オレはあまりの緊張に座席の肘掛けを思いっきり握りしめていたよ……。

なにより、爆弾テロ事件の後にこのようなことがあったこと自体初めて知ったので、事件の全貌に呆然としてしまった。逃走するテロ犯を警戒しボストンの街は戒厳令状態となり、そしてそのボストンは犯人と警官隊によって遂に戦場と化すのである。こんなことがアメリカの大都市の真ん中で本当に起こっていたのだとは。そんな恐るべき状況に至るまでの冒頭の描き方もまたいい。ボストンマラソンが開催され、そしてそこでテロが行われることを誰も知らずに始まる朝、複数の人々の日常が丹念に描かれるのだ。そしてこれら一般市民らが、事件とどうかかわってゆくのかを固唾を飲んで見守ることになるのである。

この作品は、テロ事件の顛末を映画いている部分から、どうしても「テロ対アメリカ国家」の図式を想像してしまいがちだが、実際はそうではないのだ。テロそれ自体を生み出す要因を自ら作り出しながらアメリカの正義を謳い上げる自己欺瞞的な作品とは全く別個にとらえるべき作品なのだ。それは、テロ犯と対峙するのが、アメリカ国家なのではなく、ボストンの街に住みそれを愛する警官たちであり、そして一般市民である、という構図がそこにあるからなのだ。

これは、実話作品であるこの映画の主人公警官トミーが、実は実在の人物ではなく、当時捜査を担当していた様々なボストン市警官の象徴化された存在である、という部分に表れているだろう。ボストンの街を愛しているからこそ犯人の凶行に断固とした怒りを表明し、ボストンの街を知り抜いているからこそ犯人の所在へ肉薄し、夜も眠ることなく街の警邏を行い続け、そして遂に犯人を追いつめてゆくトミーだが、しかし彼一人が犯人逮捕のヒーローだというのではなく、トミーに象徴される多くの警官たちの尽力がそこにあったからこその事件解決だったのだ。

そしてこの映画に感銘したもう一つの理由は、アメリカという国に住む人たちのその精神性の在り方を非常にストレートに描いている部分だ。「パトリオット・デイ=愛国者の日」というタイトルは事件があったテロ事件がまさに「愛国者の日」であったからであり、その「愛国者の日」に起こった惨劇を愛国者だからこそ執念で解決しようとする、アメリカ人の不撓不屈の精神をまざまざと見せつけられる作品だったのだ。

その精神は、捜査陣だけではなく、このような恐ろしい事件に直面したボストン市民のあくまでも前向きな態度にも現れる。映画『オデッセイ』観た時にも思ったが、アメリカ人という連中は、なにがなんでも諦めないし絶対遣り遂げようとする、少なくともそんな精神を礼賛する。それは一つ間違えば利己心と自己中心主義へと繋がり、アメリカという国家そのものを煙たく思わせる理由の一つになるけれども、同時に楽観性に彩られた強靭な前向きさを発露するのだ。そんなアメリカ国民の精神性に触れさせられるという部分において、とても驚嘆させられ、そして感銘させられる作品でもあった。

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20170616(Fri)

[]不思議に彩られた里山への畏怖と畏敬〜『里山奇談』 不思議に彩られた里山への畏怖と畏敬〜『里山奇談』を含むブックマーク 不思議に彩られた里山への畏怖と畏敬〜『里山奇談』のブックマークコメント

■里山奇談 / coco、日高トモキチ、玉川数

里山奇談

オレは海育ちのせいか、山にはちょっとした憧れがあった。オレが18まで住んでいた北海道の漁港の町は、三方を寒流の海に囲まれ、それこそいつでも飽きるほど海を眺められたが、これが山となると、せいぜい小高い丘程度の高さのものがある程度だった。しかも北海道特有の粘土質と、寒冷による植物相の北限により、植林されたもの以外にこれといった樹木も生えず、当然林だの森だのといった植生が存在しなかった。生えているものといえば北国独特の小振りな草花と、貧相な色をした雑草と、あとは見渡す限りのススキノだけだ。だからTVや映画や漫画で見る「森」というものに、木々を始め様々な草花が生い茂る山という存在に、密かな憧れを抱いていた。

だから今の相方さんと知り合った頃、ちょっとしたことがあるといつも山にハイキングに出掛け、意外と体力量のいる作業を要するそんな休日に、相方さんが不満を漏らしていた、なんていう笑うに笑えない話まである。ただ、オレは、子供の頃憧れていた、山が、見たかったんだ。そんな山の中を、歩いてみたかったんだ。

coco、日高トモキチ、玉川数氏3人による短編集『里山奇談』は、そんな山の、それも、里山を題材にした物語を集めたものだ。"里山"とは、深山の対義にある言葉だという。それは「人の暮らす地と、今なお不思議が色濃く残る山との境界である」だと、まえがきでは書かれている。執筆者3方は、それぞれに野山に生息する昆虫をはじめとした動植物に親しみ、それらを擁する自然を愛する方たちであり、そしてそんな彼らは自称か他称か、"生き物屋"と呼ばれているのらしい。そんな"生き物屋"の彼らが、鬱蒼とした野山の、里山の自然に密かに息づく、奇妙で不可解で不思議な物語を集めたものが、この『里山奇談』というわけなのだ。

それらは、まるで黄昏時のような、薄昏く、曖昧模糊として、所在のはっきりしない、そして容易に説明のつかない物語ばかりだ。そしてそれらは、怪談や恐怖譚というよりも、ただ不思議であるとしかいいようのない、"奇談"を集めたものなのである。

確かに、山には畏怖や畏敬を覚える独特の空気が漂っている。それは霊性だの神性だのという話ではなく、植物、動物、昆虫といった、あまりにも多くの生命を抱え込み、そしてそれらが息を潜め、あるいは百花揺籃として息づいている、その溢れるような生命の蠢きに、たった一個の人間という個体でしかない自らが、圧倒されてしまうからなのではないだろうか。そして、その認識こそが、里山と、そこに住まう幾多の生命への畏敬へと繋がるのではないか。そして"生き物屋"と呼ばれる人たちは、そんな畏敬を人並み以上に持った人たちなのではないだろうか。そう、『里山奇談』は、奇談を通じて描かれる、畏敬についての物語集なのである。

この本には、数ページ程度の短めの物語が幾つも収められている。伝聞や体験談の形を取っており、語り口調は平易で、どれもすぐに引き込まれてしまう不思議の物語ばかりだ。読者は、最初の1ページを開いた時から、自らも鬱蒼とした里山に分け入ったような錯覚に囚われる。そして幾多の物語を経ながら、あたかも里山の奥へと奥へと彷徨いこんでいるような気にすらさせられる。こうして最後のページを閉じ、現実の世界へと戻ってきたときですら、その思いは、どこかにある、緑豊かな、あるいは黒々とした口を開けた、里山の世界を漂い続けることになるだろう。その時すでに、あなたは里山に魅せられているのだ。

里山奇談

里山奇談

20170615(Thu)

[]最近聴いたエレクトロニック・ミュージック 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックを含むブックマーク 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックのブックマークコメント

■The Distance / Gaussian Curve

The Distance

Gaussian Curveはアムステルダムを拠点として活躍するGigi Masin、Jonny Nash、Marco Sterkの3人によるユニットだ。このアルバムは彼らの3年振りとなる2ndアルバムだというが、今までこのユニットのことは知らなかった。分類としてはニューエイジ・サウンドということになるのだそうだが、このアルバムに関してはIDMなテクノとどう違うのか分からない。とはいえ、多分レトロ機材も使用しながら構成したと思われるその音は非常に澄み渡ったアンビエント/チルアウト作品であり、リズムボックスや時折聴こえるギターの旋律の使い方からはかつてのファクトリー・レーベルの鬼才、ドルッティ・コラムを思わせるものすらある。このあたりのしっかりした美しいメロディの存在と楽器音の絶妙な使い方が凡百のアンビエントと違う部分だろう。これはいつまでも聴き続けたい名盤の一つと言ってもいい。 《試聴》

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The Distance

The Distance

■Reflection / Brian Eno

ブライアン・イーノが今年の1月にリリースしたアンビエント作は全1曲、53分59秒である。このコンセプトは1985年にリリースされた『Thursday Afternoon』と同じである。それにしてもイーノのアンビエント曲はどうも広義の意味での"環境音楽"していないような気がする。茫漠とした音の連なり(垂れ流しとも言う)のように思えて実は相当に計算された構造(偶然要素も含めた)となっており、部屋で流しっぱなしにしていてもなんだか落ち着かないのだ。落ち着かない環境音楽ってなんだ。だいたい音が重いんだ。というよりも、イーノのアンビエントが流されるべき場所は尖がった現代建築の広いホールやアートしまくったギャラリーを想定しているような気がする。オレの4畳半しかない居間ではアートしすぎてそぐわないのだ。「アンビエントなんて聴くやつに限って4畳半に住んでるんだよな」と揶揄する漫画を以前よんだことがあったが、確かに4畳半だよ悪かったな。 《試聴》

■Lux / Brian Eno

そこへゆくと2012年にリリースされたこのアンビエント作『Lux』はまだまだ"環境音楽"として機能していると思う。20分弱の曲が4曲、という構成がいい。このぐらいのほうが流していて時折空気感が変わる感触を味わえる。なんでもリリース当時グラミー賞にもノミネートされたのらしい。アンビエントグラミー賞、なんだか全然結び付きが感じないのだが。ところでオレはアンビエントに限らずイーノのアルバムは好きだし、イーノのアンビエント作も結構買っていたりする。ただ正直に書くと半分ぐらいはピンとこない。昨今のエレクトロニック・ミュージック・アーティストによるアンビエント作のほうがしっくりくることは否めない。単にイーノ・ブランドに踊らされているのかもしれない。ううむ。 《試聴》

■Defected Presents Dimitri From Paris: In The House Of Disco / Dimitri From Paris/Various

Defected Presents Dimitri from

Defected Presents Dimitri from

オレにとってハウス・ミュージックDJといえばディミトリ・フロム・パリス(以下DFP)であり、実は結構な枚数のMixアルバムを購入していたりする。なんだろ、奇妙にノスタルジックでセンチメンタルな味わいがあり、ベタで、スイート。ハウスというよりもディスコティークな雰囲気。不思議なもので、このDFPをはじめ、フランシス・Kやローラン・ガルニエなど「極めちゃってるなあ」と思うのはみんなフランスのDJなんだよな。このMixアルバムは2014年発売のもので、これまでと比べると若干淡白になっちゃったかな?という印象。いやーこれまでがこってりでしたから。 《試聴》

■Death Peak / Clark

Death Peak

Death Peak

UKの鬼才Clarkによる3年ぶり8作目のアルバム。前々作『Feast/Beast』(2013)や前作『Clark』(2014)は相当よく聴いたなあ、神懸りだったなあ、と思ってこのアルバムも楽しみにしていたが、うーむ悪く無いんだがちょっと不完全燃焼ぽくないか。 《試聴》

■II / Vermont

II

II

ドイツのKompaktレーベルからリリースされたVermontのセカンド・アルバム。Kompaktらしい実に整理整頓された電子音が五月雨のように響き渡る美しくもまた心地よいアンビエント・アルバムで、朝の通勤時はよく聴いていた。 《試聴》

■The Light Years Reworks / Planetary Assault Systems

The Light Years Reworks

The Light Years Reworks

UKテクノの重鎮Luke Slaterによるプロジェクト、Planetary Assault Systemsのリミックス・アルバム。過去作品を精鋭アーチストがリワークしたものらしい。オールドスクールな重いミニマルテクノ・サウンドがズシンと響き渡る。64分に渡るメガミックスも収録。 《試聴》

■Presence / As If

PRESENCE

PRESENCE

デンマーク出身のプロデューサーKenneth Wernerによるプロジェクト、As Ifの新作。流れる雲の如くゆったりとしたアンビエント・テイストのミニマルテクノ&ダブ作品。和みの1枚。 《試聴》

20170614(Wed)

[]物語は人に何をもたらすのか〜映画『怪物はささやく物語は人に何をもたらすのか〜映画『怪物はささやく』を含むブックマーク 物語は人に何をもたらすのか〜映画『怪物はささやく』のブックマークコメント

怪物はささやく (監督:フアン・アントニオ・バヨナ 2016年アメリカ・スペイン映画)

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映画『怪物はささやく』は『永遠のこどもたち』(レヴュー)のJ・A・バヨナ監督作品によるダーク・ファンタジーだと知って観に行くことにしました。『永遠のこどもたち』、物凄くいい映画でしたね…(そんなこと言いつつ同監督の『インポッシブル』は観て無いんだけど)。配役もこれまたよくて、『ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー』のフェリシティ・ジョーンズ、『エイリアン』シリーズのシガニー・ウィーバー、さらにリーアム・ニーソンが声の出演をしていたりします。主人公役の少年は『PAN ネバーランド、夢の始まり』に出演していたとのこと(観てない)。原作はイギリス作家パトリック・ネスによる世界的ベストセラーということらしいですが、これ、日本でも課題図書として結構取り上げられているのだとか。

《物語》13歳になる少年コナー(ルイス・マクドゥーガル)の母親(フェリシティ・ジョーンズ)は重い病を患っていた。それだけではなく、学校ではイジメに遭い、嫌いな祖母(シガニー・ウィーバー)が家に押しかけ、コナーは暗く憂鬱な日々を送っていた。追い打ちを掛けるように、彼は悪夢を見るようになる。それは窓の外に見える墓地の巨木が怪物と化し、彼に迫り来る、という悪夢だ。そして怪物(リーアム・ニーソン:声とモーションキャプチャー)はコナーにこう告げる。これから3つの「真実の物語」を語るということ、そして4つ目の物語はコナー自身が語らねばならないということ。悪夢の怪物は日毎コナーの元を訪れ、それに影響されたコナーの日常も次第に変容してゆく。そして、母の容体は刻一刻と悪化してゆくのだった。

この物語における「怪物」は、あくまで悪夢の中の存在であって、実際に超常現象が起こったり本物の怪物が出現したり、といったホラー作品という訳ではありません。あくまでダーク・ファンタジーなんですね。そして、悪夢の中で怪物が語るそのお話は、悪夢を見ている少年自身の深層心理の中の物語であり、それは即ち「寓話」である、ということにすぐ気が付かされます。しかし、最初の幾つかの物語は、それがどう少年自身の内面に関わった物語なのか容易に想像つきません。それら3つの物語は、即ち少年の深層心理は、少年に何を伝えようとしているのか?というのがまずこの物語の面白さの一つになります。そして、怪物の物語るお話が、非常に美しいアニメーションで表現されているのがこの作品のもう一つの見所になります。

最初はもやもやとした御伽噺にしか過ぎなかったそれら物語は、次第にコナー少年の現実の行動に影響を与えてゆきます。というよりも、コナーが常日頃押さえつけてきた感情が、実は悪夢の中の怪物であり、それが怪物という形を取ることで、現実世界に表層化してゆくんです。しかしそれだけなら、怪物に姿を変えたフラストレーションの発露、という単純な仕組みのお話に過ぎません。そうではなく、そもそもこの物語の発端は、母親の病にあるのです。悪夢の怪物が顕現しだしたのは、コナーの母親の病気が悪化の一途を辿り始めてからです。怪物は、母親の死病について、コナーに何を伝えようとしているのか、というのがこの作品の本質となるのです。

それは、物語は、現実を変えられるのか?という命題です。そして、物語ごときで、現実は変えられない、という事実です。さらにそれは、それならなぜ、人は物語を求めるのだろう?という問い掛けでもあります。辛く厳しい現実を前に、人は何一つなすすべもないことがあります。物語はその時、せめてもの慰めになることもあるでしょう。それでは、物語は、慰み以上でも以下でもないものなのでしょうか?映画はこうした問い掛けの中、最後に「語るべき4つ目の真実の物語」を主人公コナーに要求します。ここで言う「真実」というのは何なのでしょう。なぜ「真実」でなければならないのでしょう。これらが明らかになった時、映画は、「物語は、人に何をもたらすのか」ということを静かに観客の胸に刻み付けるのです。

こうしてこの映画は、残酷な現実の中にある一人の孤独な少年の魂の救済を描く作品であると同時に、ひとつの「物語論」としても展開してゆくことになるのです。"物語"を愛する全ての人にとって、映画『怪物はささやく』は、大切な贈り物のように心に残る作品になる事でしょう。傑作です。

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20170612(Mon)

[MOVIEオレもエル・ファニングに添い寝されたい〜映画『20センチュリー・ウーマン[MOVIEオレもエル・ファニングに添い寝されたい〜映画『20センチュリー・ウーマン』を含むブックマーク [MOVIEオレもエル・ファニングに添い寝されたい〜映画『20センチュリー・ウーマン』のブックマークコメント

20センチュリー・ウーマン (監督:マイク・ミルズ 2016年アメリカ映画)

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1979年のカリフォルニア州サンタバーバラを舞台に、息子との関係に悩むシングルマザーと二人を取り巻くアパ―ト住人たちとの心の交流、そしてそれぞれの人間模様を描いたのが映画『20センチュリー・ウーマン』だ。

まず主演となる3人の女優と彼女らの演じるキャラクターがそれぞれに個性的で魅力に溢れている。なんといっても主人公である母ドロシー(アネット・ベニング)だ。知性に溢れ好奇心旺盛でいつも明るく前向きであり、常にパワフルで息子への理解も深く、片親だからと言ってもなにひとつ遜色なく息子を育てている。新しい伴侶を求めているがあまりに完璧な彼女に夫など必要なのかとすら思えてしまう。

アパート住人アビー(グレタ・ガーウィグ)は音楽好きの写真家だが、体に悩みを抱えている。パンク/ニューウェーブ真っ盛りのこの時期に、ドロシーの息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)をクラブに連れてゆき音楽の楽しさを教え込む。アパートの近所に住むいつも気だるげな少女ジュリー(エル・ファニング)はジェイミーと幼馴染であり、いつも彼の部屋に忍び込んで添い寝してゆくが「セックスしたら友情は終わり」とジェイミーに堅く言いつける。

そんな3人の女性に囲まれた15歳の高校生ジェイミーは丁度反抗期と言うこともあってか母親とうまく行かない。そんな息子を心配して母ドロシーはアビーとジュリーに助けを求める、というのが物語となる。

全体的に感じたのはそれぞれの女性たちの心の機微を繊細に、かつ大胆に描いていることだろう。特にアネット・ベニングの溌剌として輝く演技の素晴らしさには個人的にアカデミー賞を上げたいぐらいだった。アビーとジュリーにしてもそれぞれに生き方を持ちながら悩みを抱える女性であり、演じるグレタ・ガーウィグエル・ファニングの存在感溢れる演技は素晴らしかった。また、全編を通じて流れるこの当時のパンク/ニューウェーブ系のロック・ミュージックが、同時代に現役で聴いていた自分には実に懐かしく、また嬉しいものだった。まさかスーサイドが流れるとは。

ただ、そんな女性たちに比べて男性の描き方がパッとしていないように思えた。息子ジェイミーは高校生にしては大人しすぎて、ヤンチャこそするもののなんだか周りの目を伺いながらのようにも見えてしまう。しかしこれは母子家庭にいる一人っ子というものが他よりも早く大人びてしまうからということなのかもしれない。フェミニズム本で頭でっかちになる部分は苦笑したがこの年齢ならではなのだろう。一方アパートの住人で元ヒッピーのウィリアム(ビリー・クラダップ)も男臭さに欠けているせいか存在感が薄い。ドロシーと恋が生まれるか否かといった展開もあるが最初っからキャラクター的にまるで合うように見えず、ドロシーのような女性に興味を持つようにすら見えない。

一番感じたのは15歳のジェイミーが性に対してあまりに淡白に見える事だ。魅力的な美少女ジュリーがいつもあんなに側にいてちょっかいを出してくるのに「友達だからセックスしない」と言われて大人しくしているなんてまるで説得力が無い。所謂草食系の走りだったのか?女性たちの性は奔放に語る物語なのに15歳の男の子の性欲は綺麗に描き過ぎじゃないか?15歳の少年なら頭ン中エッチのことでいっぱいなんじゃないのか?それともそんなドスケベな高校時代を悶々と過ごしていたのはオレだけだったのか?

ところで自分事になるがこのオレも母子家庭の生まれだ。しかし母親はこの物語のドロシーのように聡明でも闊達でも学識があるわけでもなく、仕事は水商売だったし家は貧乏だった。ドロシーは最高に素敵な女性だったが所詮シングルマザーでも問題なく生きていける成功者ではないか。そこには努力もあるからだが、70年代アメリカの豊かさと、そして運だってあるのだ。だから完璧な女性であるドロシーはオレには絵空事のような白々とした非現実さ、一歩譲っても自分とは関係ない世界の住人にしか見えなかった。そしてもしドロシーが自分の母親だったら、なんでもお見通しなその態度に辟易して話もしなかっただろう。一人にしてくれ、と思っただろう。

そしてもしアビーとジュリーのような女性がオレの近くにいたら、股間をパンパンにさせながら幼稚極まりない方法で求愛して見事に鼻であしらわれ、心を傷つけてとても不幸になっていただろう。アビーとジュリーぐらいの年代の、これまで沢山ボーイフレンドのいた女子だったら15歳の頭でっかちな童貞高校生なんて単なるガキかせいぜい可愛い玩具でセックスする相手じゃないからだ。でもリアリズムなんてそんなもんだ。

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