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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20160729(Fri)

[]インド好きにもインドを知らない方にもお勧めしたいインド本『インド人の謎』 インド好きにもインドを知らない方にもお勧めしたいインド本『インド人の謎』を含むブックマーク インド好きにもインドを知らない方にもお勧めしたいインド本『インド人の謎』のブックマークコメント

■インド人の謎 / 拓徹

インド人の謎 (星海社新書)

インド滞在12年――気鋭の研究者が、インドの「謎」を解く!

神秘、混沌、群衆……インドにはとかく謎めいたイメージがつきまといます。こうしたイメージは、興味をかき立てるだけでなく、往々にして私たちとインドとの心理的な距離を拡げてしまいます。そこで、なにはともあれ「謎のヴェール」をいったん剥ぎ取ってしまおう、というのが本書の趣旨です。なぜ、カレーばかり食べているのか? なぜ、インド人は数学ができるのか? なぜ、物乞いが多いのか? 本書はこれらの疑問に、歴史・地理・文化といった分野の知見を駆使してお答えしていきます。そして、「謎のヴェール」を剥ぎ取った時、より魅力的なインドの素顔が見えてくるはずです。さあ、ともにインドの素顔を確かめる旅に出ましょう!

■インドの事をもっと知りたいと思った

インド映画を観始めて、インドに興味を持ったものの、自分はインドの事をつくづく何も知らないなあと思い、何冊かの本をほんのザックリと読んだことがあった。これについては以下にまとめてある。

インドの事をあれこれ勉強してみた - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

ここで読んだのはヒンドゥー教やイスラム教、インド神話についてまとめられた本、ヒンドゥー教の聖典と呼ばれる『バガヴァット・ギーター』、それと戯曲『シャクンタラー姫』といったものだった。こういった本を選ぶとき、注意したのは「日本人がインドに行った体験談」を外すことだった。インドと日本の違いにびっくりしたり難儀したりといった内容はどうでもよかった。知りたかったのは「インド人の心象の核にあるもの」であって、それを「日本人がどう感じたか」なんて興味が無いのだ。ただ、本それ自体は面白かったものの、それによってインド映画により深い理解ができたかどうかというとそんなこともなくて、結局思ったのは「むしろDVDの英語字幕ちゃんと理解するために英語勉強したほうがよかったんじゃないか?」というオチがついてしまった。

それからしばらくインド本には触れていなかったが、たまたま『インド人の謎』というタイトルの本を知り興味を持った。最初はよくある「日本人がインドに行った体験談」の一種だろ、と高をくくっていたが、著者の履歴を見るとれっきとしたインドの研究家の方ではないか。

拓 徹 カシミール研究者

1971年生まれ、愛知県出身。専門は現代カシミールの社会史・政治史。2000年から2012年まで、インドはジャンムー・カシミール州の冬の州都・ジャンムーに滞在。多様なバックグラウンドを持つ学生たち、道をふさぐ牛、そして教室に迷い込んでくる野良犬やリスなど、さまざまな価値観と生き物に囲まれながら研究に従事し、州立ジャンムー大学で博士号(社会学)取得。帰国後、カシミールの禁酒運動についての研究報告が2015年度日本南アジア学会賞を受賞。一方で、『キネマ旬報』など一般向けの媒体にも寄稿している。本書が初の単著となる。現在、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科客員准教授、人間文化研究機構(NIHU)総合人間文化研究推進センター研究員。

おお、これはなにか面白そうなことが書かれていそうだ、と思い早速手に取ってみた。そして読み終わってみると、予想通り実に蘊蓄が深く、さらにこれまで知っていたつもりのインドの内情がさらに覆されるような有意義な読書体験となった。著者はもともと「巷にあふれるインド本の嫌インド的記述に胸を痛め、インド観光地の状況を客観的に解説するガイドブック」を目指したそうなのだが、いやいやどうして、これはガイドブック以上にインドの実情を解析した本であり、インド好きにもインドを知らない方にも是非お勧めしたい。という訳でザックリと内容に触れてみよう。

■インド近代とカースト、そして宗教

『インド人の謎』は5つの章に分かれて書かれている。第1章が「インドの近代とカースト制度の謎」第2章が「インドの宗教の謎」、第3章が「貧困とどう向き合うか」第4章が「手ごわいインドの観光地の謎」、第5章が「食・動物・音楽―インドの楽しい謎」となっている。この章分けから見て分かるように、250ページ程度の分量の中に著者があらゆることを詰め込もうとしたことが伺われる。第1、2章はインドの基盤となるものの話で、第3章はインドの現在、第4、5章はずっとくだけて著者が体験したインドの様々な出来事と、その根底にあるインド人の心象を読み解いたものとなっている。硬軟併せ持った構成となっているのだ。

自分が最も興味深く読んだのはインド近代とカースト、そして宗教の章だ。そんなことなら知ってるよ、と思っていたことが次々に覆されたのだ。例えばインド近代の農民についてだ。インドは代々封建的で、強欲な領主と虐げられた農民がいて……とずっと思っていたが、実は18世紀では農民は武装しており、さらに非定型的な流動性を持っていて、よりよい労働条件を求めて移動していたというのだ。労働条件が酷ければ逃げ出せばいいのである。これが覆されたのが近代におけるイギリス支配時代で、イギリス藩主による定住農耕化が推し進められたが故の「強欲な領主と虐げられた農民」という構図というわけなのだ。

カースト制度についても同様である。カースト制度の単位である「ヴァルナ=ジャーティ制」は11〜17世紀の中世に確立されたが、こういった「階級制」は実の所中世にある世界のどこの国でも散見したものである。日本でもかつて「士農工商」といった階級が存在したが、それが決して厳密なものではなかったのは多くの日本人は知っているだろう。しかしインドにおいてそのカースト制がより強固に形成されることになったのは実はイギリス植民地になってからなのだという。イギリスは統治の過程で「住民基本台帳」的なものを作成し、そこでカーストを詳細に記帳することになる。これによりそれまでインド人にとって無意識的なものだったカーストがより強烈に意識せざるを得ないものに変化してゆく。イギリスはさらにカーストごとに差別を助長し、それがいつしかインド人の中に刷り込まれてゆく。そういった過程を経たものが近代における「カースト制」のありかただったのだという。

さらにヒンドゥー教だ。ヒンドゥー教は古代のヴェーダ諸聖典から発生したものだが、長くそれは一つのまとまった宗教としてとらえる概念が無く、ヒンドゥー教徒が自らを「ヒンドゥー」とみなすようになったのは、イスラム教徒が10世紀にインド大陸に侵入してさらに時を経た15世紀のことだという。さらに一つのまとまった「ヒンドゥー教」と見なすようになったのは19世紀だ。それは18世紀末に諸外国がインド理解の為にインド宗教を一括りに見なし、それが逆輸入のような形でインド人の中に「ヒンドゥー教」という意識を生み、さらに西洋のキリスト教に対抗する形で古代のヴェーダ文献を統括した、"近代的な"「ヒンドゥー教」が成立したのだという。

こうして見てみると、現在インドを成立させているものにみえる様々な事柄が、そしてインド古代から連綿と存在すると思わされていたものが、実は近代において外圧から成り立ったものであることが分かる。つまり「悠久不変のインド」というのは実は幻だったともいえるのだ。もうこの辺を知るだけでも相当にエキサイティングな読書体験だった。

■観光地としてのインド、そしてインドの文化

後半はもっとくだけてインドの安宿や恋愛状況や映画を代表する文化について述べられている。インドの安宿は基本的に流れ者がやってくるのでろくな食事を出さないのは当たり前だとか、習慣のまるで違う欧米からやってくる観光客へのとまどいから現地インド人も態度が硬化するのだ、といったこと。外国への劣等感。また恋愛と結婚に対する意識が厳密に分かれていて、結婚はステータスを与える行為だから欧米みたいなラブラブな結婚とは違うんだよ、といったこと。インド映画はどちらかというと若い人たちの為に作られていて、たいていのインド人は20代半ばを過ぎると映画みたいな虚飾の世界には興味を無くすんだよ、といった話にはちょっと耳が痛かった。それよりもインド文化というと実は詩や歌だったりするのらしい。

インド人の謎 (星海社新書)

インド人の謎 (星海社新書)

20160728(Thu)

[]透徹した描写力で描かれた驚くべきファンタジー世界〜『ガラスの剣』 透徹した描写力で描かれた驚くべきファンタジー世界〜『ガラスの剣』を含むブックマーク 透徹した描写力で描かれた驚くべきファンタジー世界〜『ガラスの剣』のブックマークコメント

■ガラスの剣 / シルヴィアーヌ・コルジア、ラウラ・ズッケリ

カ?ラスの剣

緑溢れる牧歌的な世界と不思議な生物相。 少女と老剣士は、死へと向かうこの美しい世界を救うことができるのか?

少女ヤマが暮らす村に、ある日、一振りの剣が舞い降り、聖なる岩に突き刺さる。それは触れる者をみなガラスに変えてしまう神秘の剣だった。残忍な傭兵オルランドのせいで、両親を失ったヤマは、いつかガラスの剣を抜き、彼に復讐することを誓う。やがて彼女は、かつて将軍にまで登りつめた老剣士ミクロスと出会う。ヤマが語る空から落ちてきた剣の話は、ミクロスにある予言を思い出させる。いずれ太陽の光が弱まり、世界は死へと向かう。その時、4本の剣が空から舞い降りる。それらが1つの場所に集まった時、別世界への扉が開き、人々は救われる――。はたしてヤマは復讐を遂げ、ミクロスとともに4本の剣を集めることができるのか? 2人の冒険の旅が始まる!

物語の舞台となるのはファンタジー的な異世界だ。ある日太陽から4つの剣が放たれ、その一つがある村の"聖なる石"に突き刺さる。それは触れるものをガラスの彫像へと変える神秘の剣だった。騒ぎの中現れた帝国軍傭兵によって主人公少女マヤは両親を失い、森へと逃げ込む。マヤは森の中で隠者として暮らす老剣士ミクロスと出会い、いつの日か神秘の剣を手に入れ復讐することを誓って修行の日々を送る。一方剣士ミクロスは、その剣がこの世界を救うを4つの伝説の剣の一つであることを知っていた。こうして4つの剣を探す二人の旅が始まる。

こうした粗筋からはエクスカリバー伝説を基にした少女の復讐と成長の物語だということは容易に想像できる。また、旅の途中で出会い仲間となる様々な人々、さらに他の3つの剣を持つ者の探索、そして同じく剣を我が物にせんとする凶悪な帝国軍との戦い、といった物語の流れは王道的なファンタジーのプロットでもあるだろう。しかしこの『ガラスの剣』はただそれだけのありふれたファンタジー・ストーリーでは決してないのだ。

この作品の大きな魅力の一つはそのグラフィックの細微に渡るディテールの在り方だ。特にコスチュームや装飾品の意匠は古代や中世の様々な民族のものをより合わせ、それを独自のデザインのもとに統一した非常にオリジナリティを感じさせるものだ。

もう一つは作品の中で描き分けられた様々な土地と、そこで刻々と移り変わる時間や気候を巧みに表現するその力量だ。緑豊かな平原、鬱蒼とした森林、荒涼とした荒地、どんよりとした沼地、寒々とした雪山、猥雑なスラム、壮麗たる帝国、これらを美しく説得力あるグラフィックで描き分けているだけではなく、そこには朝があり昼があり夜があり、焼き付ける太陽がありしとど降る雨がある。それはひとつの世界であれば当たり前のことなのだが、これを表情豊かに描き切ったことにより、あたかも実際にこの世界が存在しているような錯覚さえ覚えさせられるのだ。

さらにそこで生きる人々は誰もが情感に溢れ、複雑な過去とその結果としてある現在に生き、成就せねばならない未来を持っている。どのキャラクターも生き生きとした魅力を持っているのだ。こうした徹底した描写力がひとつに合わさることにより、この『ガラスの剣』はありふれたファンタジー・ストーリーであることを回避した、実に物語性豊かでエキサイティングな作品として結実している。しかもファンタジー・ストーリーと思わされていたこの物語はクライマックスで一転するのだ。

こういった部分で、グラフィック・ノベル『ガラスの剣』は、凡百のファンタジー作品を遥かに凌駕した豊潤な物語として読む者を楽しませるだろう。タイトルや表紙だけからは容易に想像できないその素晴らしい作品世界を是非堪能してもらいたい。

yoyoshi yoyoshi 2016/07/29 10:17 日本の作品ではないのですね。十二国記や精霊の守り人を思い出させます。ファンタジーこそ細部までリアルに描写しないと世界に入り込めないから作者の腕が試される。

globalheadglobalhead 2016/07/29 10:22 バンドデシネってやつですね。作中に登場するデザインは好みが分かれるかもしれませんが、実に独特でありそして美しいということは言えると思います。

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20160727(Wed)

[]『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼』を読んだ 『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼』を読んだを含むブックマーク 『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼』を読んだのブックマークコメント

■蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼 / ケン・リュウ

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

人を惹きつけてやまない天性の魅力をもったクニ・ガルと、皆殺しにされた一族の復讐を胸に生きる男マタ・ジンドゥ。ザナ帝国打倒の旗印のもと、ふたりは永遠の友情を誓ったはずだった―。帝国との戦いが激しさを増すなか、マタは鬼神のごとき活躍で都市を制圧していく。いっぽうクニは驚きの奇策を講じ、帝国の首都パンでついに皇帝を捕らえる。だが、ある行き違いから自身が裏切られたと思い込んだマタは、クニと袂を分かち、覇王として即位することを宣言する。運命に選ばれたふたりの男を中心に、戦いのなかで煌めく人の願いと祈りを描き出した幻想武侠小説、第二巻・第一部完結篇。

傑作短編集『紙の動物園』のケン・リュウによる初長編『蒲公英(ダンデライオン)王朝記』、『巻ノ一: 諸王の誉れ』に続きこの『巻ノ二: 囚われの王狼』で堂々完結です。この『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 』、もともと本国では1冊で刊行されていましたが、あんまり長いので日本では2分冊で発売されていたんですね。ちなみに『巻ノ一』の感想はこちら(↓)で。

『紙の動物園』ケン・リュウによるシルクパンク・エピック・ファンタジイ巨編『蒲公英(ダンデライオン)王朝記』開幕開幕〜! - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

『蒲公英(ダンデライオン)王朝記』は『項羽と劉邦』で知られる紀元前3世紀の中国で起こった楚漢戦争を題材に、架空の世界を舞台とした"シルクパンク・エピック・ファンタジィ"として書かれたものです。『巻ノ一』では物語の舞台である多島海世界ダラ諸島を統べる帝国に叛乱の狼煙を上げた二人の主人公の、武術と戦術に裏打ちされた戦いの様子が描かれてゆきますが、この『巻ノ二』ではダラ諸島を制圧した彼らが思わぬすれ違いで対立することになってしまいます。なにしろ『項羽と劉邦』ですからねーとか言いつつ『項羽と劉邦』読んでませんが。

とはいえ、『巻ノ一』は大変楽しみながら読んだのにこの『巻ノ二』はなんだかイマイチだったんだよなあ。これ、後半からパワー落ちたということではなく、1巻目と2巻目の発売に間が空いていたもんですから、2巻目を読み始める時に状況やら人間関係やらを思い出しながら読むのがしんどかった、というのがあるんですよね。読む方の側のオレの勢いが殺がれてたんですよ。まあ若い方ならそんなことはないと思うんですが、なに分年寄りなのですぐ忘れちゃうんですよ。それと、当然ですが1冊目と同じ世界観なのでそれを改めて読まされるのに新鮮さを感じなかったというのがありますね。要するに一気に読めなかったのが難だったんですよ。ええはい全部オレが悪いんです……。

もうひとつ詰まらなかった理由は、奇妙に"政治的に正しく"描かれている部分が垣間見られてて、そこがなんだか乗れねえなあ、物足りないなあ、と思った部分だったな。もとが武侠小説なんですから、もっと血腥く残虐で、狂ってて理不尽で、現代のモラルなんて通用しない世界を描いて欲しかった、というのがあるんですよ。でもこの『蒲公英王朝記』はなんだか現代的でクリーンで賢い匂いがするんですよ。数十万と言う大量虐殺を描いていても狂った感じがしないんですよ。この辺、作者ケン・リュウのあまりの知性と理性の高さが邪魔したような気がするなあ。まだ続編が書かれるようですが、続きは読まなくてもいいかなあ。

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

yoyoshi yoyoshi 2016/07/27 17:16 ケン・リュウ賢すぎ説に大いに賛同致します。元になった項羽と劉邦は、数多の小説や漫画で取り上げられていますね。赤龍王とか大好きです。家柄、才能、武勇に秀でた項羽よりも、はぐれものの親分みたいな劉邦に王朝の始祖の座が与えられた運命の不思議。

globalheadglobalhead 2016/07/27 17:24 そつなく書けてはいるんですが、「血沸き肉躍る」って訳ではなかったのが残念でしたね。

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20160726(Tue)

[]一人の口上師の死を巡るスラップスティック〜『素晴らしきソリボ』 一人の口上師の死を巡るスラップスティック〜『素晴らしきソリボ』 を含むブックマーク 一人の口上師の死を巡るスラップスティック〜『素晴らしきソリボ』 のブックマークコメント

■素晴らしきソリボ / パトリック・シャモワゾー

素晴らしきソリボ

誰がソリボを殺したか?クレオール作家の画期的小説!!カーニバルの夜、語り部ソリボは言葉に喉を掻き裂かれて死ぬ──クンデラに「ボッカッチョやラブレーにつづく口承文学と記述文学の出会い」と激賞された、クレオール文学の旗手の代表作。

カリブ海に浮かぶフランスの海外県(まあ植民地ですわな)マルティニーク。ここで一人の男が謎の死を遂げているのが発見される。男の名はソリボ・マニフィーク、「語り部」と呼ばれる言葉の達人だった。彼は"言葉に喉を掻き裂かれて"死んだという。彼に何があったのか?なぜ"言葉に喉を掻き裂かれ"たのか?マルティニーク生まれの作家パトリック・シャモワゾーによる小説『素晴らしきソリボ』は、こんなミステリアスな冒頭からとんでもなく狂騒的なスラップステックを展開する物語です。

作者パトリック・シャモワゾーは「クレオール作家」と呼ばれますが、クレオールというのは植民地生まれということを指すのだそうです。総じて「植民地生まれの混血児」ということが言えるかもしれません。またクレオール言語というのは異文化同士の言語が混じり合い、それが母国語化したものを指すようです。まあ植民地語といったところでしょうか。

物語はこうして、「フランスの植民地で被抑圧者として生きる人々」が主人公となります。物語の中心は主人公ソリボの死ですが、それを巡って官憲と現地クレオール人とが上を下への大騒ぎを演じてゆく、というのがこの物語の流れです。そしてそれは植民地で同化させられ生きる人々の明るく陽気ではあるが貧困と無知にさらされている生活を垣間見せるんです。その生活は猥雑さに満ち、誰もが明日のことなんか考えていません。まあ、植民地化されてなくても南国の人はそんな感じかもしれませんが、宗主国フランスの抑圧は確かにそこにはあるんですね。そもそも舞台となるマルティニークって先住カリブ人はフランス人に絶滅させられて、連れて来られた黒人奴隷とその混血が住んでるってことらしいですから。いやあ植民地政策って酷いもんですよね。

そういったクレオール人の生活を描くのと同時に、この物語は失われてゆく「口上」そして「口承文芸」を憂いたものでもあるそうです。「口上」というと『男はつらいよ』の寅さんの、「結構毛だらけ猫灰だらけ」の啖呵売を思い出しますね。この『素晴らしきソリボ』でもソリボの口上が収められていますが、なにしろ口上はリズムと語呂勝負なので、クレオール語で書かれたそれを日本語に訳すのは『フィネガンズ・ウェイク』を日本語訳するぐらい大変な作業だったでしょう。まあそれが成功しているかどうかは各自の判断ってこってすかね。

ただし読む側としては、ミラン・クンデラが評する「終わりつつある口承文学と生まれつつある記述文学の出会い」とかいうことはピンとこなくて、むしろそのミラン・クンデラの否定する「一見ローカルでエキゾチックな小説」の部分に目が行っちゃいましたね。なんかこう訳者のあとがきでも思いましたが、みんな考え過ぎじゃないのかなあ。確かにクレオール史、クレオール文学の文脈で読み解くとこれはそういう小説だってことなんでしょうが、むしろ植民地政策の傷跡がこの物語の中心なんじゃないの?失われたクレオール言語たって、そんなものが生み出されなければならなかった責任はどこにもないのかなあ。そういった部分で、ひと時の暇つぶしの娯楽小説として手に取ったオレとしては、あえて皮相的に南国ならではの奇想天外なマジック・リアリズム展開こそを面白がって読んでいました。

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20160725(Mon)

[][]『女神は二度微笑む』のスタッフが集結して製作されたサスペンス・スリラー作品『Te3n』 『女神は二度微笑む』のスタッフが集結して製作されたサスペンス・スリラー作品『Te3n』を含むブックマーク 『女神は二度微笑む』のスタッフが集結して製作されたサスペンス・スリラー作品『Te3n』のブックマークコメント

■Te3n (監督:リブー・ダスグプタ 2016年インド映画)

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8年前と同じ手口の誘拐事件が発生。迷宮入りしたかつての事件の被害者、捜査した警察官らが再び集い事件解決に挑む、という2016年に公開されたインド産サスペンス・スリラー映画です。タイトル『Te3n』は「Teen」の当て字みたいなもので、ヒンディー語で「3」の意味なのだとか。

この作品、なんといっても名作インド・スリラー『女神は二度微笑む』(2012)のスタッフが集結して製作されているというのが見所ですね。製作が『女神〜』の監督スジョーイ・ゴーシュ、そして『女神〜』主演のヴィディヤー・バーラン、ナワーズッディーン・シッディーキーが出演しているというんですから見逃せません。さらに舞台は『女神〜』と同じコルカタです。主演はアミターブ・バッチャン、監督は『Michael』(2011)、アミターブ主演によるTVシリーズ『Yudh』のリブー・ダスグプタ。ちなみにこの作品、韓国映画『悪魔は誰だ』(2013)のインド・リメイク作品となっていります。

《物語》8年前、誘拐事件により孫娘を失った老人ジョン・ビスワス(アミターブ)は、未だ解決されないこの事件の捜査進展を聞きに警察に訪れるが、警部サリタ(ヴィディヤー)からは色よい返事を聞けなかった。一方、かつてこの事件を担当していた警部マーティン(ナワーズッディーン)は、捜査失敗による罪悪感から神父へと身を変えていた。そんなある日、8年前と全く同じ手口の誘拐事件が発生する。サリタは捜査協力の為マーティンを呼び寄せ、事件解決のため奔走する。一方、ジョンはある証拠から事件真犯人の糸口を掴み、徐々にその人物へと近付いていた。

原作である『悪魔は誰だ』は残念ながら未見なんですが、韓国産サスペンス・スリラーというと綿密なプロットと残酷なまでのリアリティにこだわった作品、というイメージがあります。この『Te3n』も原作のそういった部分を踏襲したのか、非常にしっかりしたミステリー構造を成し、錯綜した事実から真実を導き出すといういわば"謎解き"をメインとしたプロットとなっています。この物語では「真犯人は誰か?」「なぜ8年前と同じ誘拐事件が引き起こされたのか?」という部分がそれに当たるでしょう。観る者は物語に張り巡らされた謎や伏線を的確に見定めながら自らも事件の真相を推理してゆくことになるんですね。

ただ、個人的にミステリーが得意じゃないというのもあるんですが、非常によく出来ていることは理解しつつも、こういったミステリー構造がちょっと窮屈に思えて、今ひとつすっきりした感想じゃ無かったんですよねえ。なんていうんでしょう、トリックの為に物語が奉仕している、という部分が苦手だったのかなあ。原作はきっと秀逸だったのでしょうが、それをあえてインド映画としてリメイクする必然性(つまりインド映画としての独自性)もあまり感じなかった。それと併せ、特に後半の時制の分かり難い描写の在り方は、これはミスリードを誘ったものなのか自分の理解力の足りなさのせいなのか分かりませんが、ちょっと卑怯に感じたなあ(あ、「そんなもん普通分かるだろ?」と言われそうだ……)。それと登場人物全員が最初から周知のことである筈の「最初の事件の娘の死」の真相が最後に明かされるのもなんか変な感じがしたなあ。

主演のアミターブ・バッチャンは最近の作品の多くと同じように徹底的にお爺さん演技に徹しており(まあ実際お爺さんだから当たり前ですが)、にもかかわらずどの作品のお爺さんともやっぱり違う、という部分が流石だなあと思わされました。一方ヴィディヤー・バーランはどちらかというとゲスト出演ぽくて、あえてヴィディヤーじゃなくてもよかったような役柄だったかなあ。そしてナワーズッディーン、この人はルサンチマン抱えた演技させたらやはり右に出る者はいないと感じました。作品は個人的にはまあまあだったんですが、完成度はそれなりに高いと思われますので、サスペンス・スリラー好きの方は是非チャレンジするべき作品でありましょう。

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女神は二度微笑む [DVD]

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悪魔は誰だ [DVD]

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20160722(Fri)

[][]眠い目つきのアイツはシックスパック!〜アクション映画『Baaghi』 眠い目つきのアイツはシックスパック!〜アクション映画『Baaghi』を含むブックマーク 眠い目つきのアイツはシックスパック!〜アクション映画『Baaghi』のブックマークコメント

■Baaghi (監督:サッビール・カーン 2016年インド映画)

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悪い奴らに奪われた恋人を取り替えせ!とばかりに超絶拳法使いの青年が敵をバッタバッタとなぎ倒してゆくという今年インドで公開された爽快アクション・ムービーです。主演は『Heropanti』(2014)に続いて主演2作目となる新人スター、タイガー・シュロフ。彼はインドの名俳優ジャッキー・シュロフを父とする2世俳優なんですね。インド映画界世襲多いよなあ。共演に『Ek Villain』(2014)、『ABCD 2』(2015)など、最近話題作によく出演してるシュラッダー・カプール。

物語はなにしろシンプル。主人公ロニー(タイガー・シュロフ)は武術修行の為赴いた南インドの町でシア(シュラッダー・カプール)という名の娘と恋をします。しかしロニーが入門した道場の息子ラーガヴ(スディール・バーブ)もまたシアに目を付けており、陰謀を巡らせ二人の仲を引き裂きます。2年後、未だ傷心のままでいるロニーに、シアがラーガヴに誘拐されたという知らせが届きます。ロニーはシアとの愛を再び取り戻す為、ラーガヴのいるバンコクに飛びますが、ラーガヴは手下どもを従え要塞のようなビルに立て籠もっていたのです。

この作品、ロマンス要素もたっぷりあるにせよ、なにしろアクションが基本です。道場で鍛えに鍛えた主人公ロニーは鋼の筋肉を持つ強力な拳法使いとして登場しますが、最大の敵ラーガヴもまた道場師範の息子として恐るべき技を兼ね備えた男なのです。そしてラーガヴが従えた部下たちもいずれ劣らぬ拳法使いとしてロニーの前に立ちはだかります。ロニーはこれら強敵を、強靭な肉体を駆使し電光石火の早業で次々と叩き潰してゆくという訳です。インド・アクションは数ありますが、拳法に特化してアクションを見せてゆく作品は珍しいかもしれません。いうなればインド映画を観ながらにして香港アクション、タイ・アクションの醍醐味が味わえるという訳なんですよ。

この作品は主人公ロニーを演じるタイガー・シュロフの魅力をどこまで引き出すかということに力を入れたものなのでしょう。まあなにしろ2世なんで鳴り物入りで売り出したいんでしょう。しかしこのタイガー君、デビュー作の『Heropanti』では、こう言っちゃなんですがちょっと顔がキモくて食指が動かなかったのが正直な所です。なんかこう、眠そうな目をしていて、マコーレ・カルキンに筋肉増強剤を20リットルぐらい投与したらこんなになりましたあ、ってな風情だったんですね。しかしこの『Baaghi』では髭も生やしてワイルドさが増し、鍛えまくったシックスパックをこれ見よがしに披露しているもんですからイメージがだいぶアクション・ヒーローっぽくなりました。しかも身体能力が高く拳法使いの"型"もしっかりしていて、アクション・シーンが実に見栄えがしていいんですね。踊りのシーンもキレがあったなあ。

ただ、逆三角形でシックスパックでアクション抜群で踊りもキレッキレというなら、インド映画にはリティック・ローシャンという人がいますし、おまけに色男ぶりではリティックの方がどう見たって上だし、なんかこうリティックの二番煎じに見えないことも無いんですね。そういった点でどうもタイガー君はB級というか次点のスターに見えてしまうんですよ。とはいえ、リティックが今後こんなアクションに出演することはなさそうだし、その穴を埋めなおかつB級なアクションにガンガン出てその地歩を固めれば、意外といけるかもしれないですね。それと彼、意外と笑顔が可愛いので、かつてシュワやスタローンがミスマッチを狙ったコメディに出演したみたいにコメディ作品に出演する、という手もありますね。

映画として見るなら、物語自体は割とありきたりな上、構成が御都合主義的な部分が多くて雑に思える部分が多いです。そもそも敵役ラーガヴはロニーとシアの仲を引き裂いたのに、なんで2年も待った挙句シアを誘拐したのでしょう。大体このお話、ザックリ言えば女の取り合いといった内容なんですが、悪の帝王みたいなラーガヴなら幾らでもイイ女拾ってこられたでしょうに。とはいえ、兎に角アクションを見せたいんだッ!ということでしょうから、ここはB級と割り切って、スカッとしたアクションを楽しめればいいんじゃないかと思います。特に戦いが熾烈さを増す後半の展開はノリノリになって観られますよ!

この後半、要塞めいたビルを頂上目指して上りながら次から次へと敵を倒してゆく、という構成がインドネシア映画『ザ・レイド』(2011)を彷彿させて盛り上がりますね。『ザ・レイド』ファンも比較の為に観てみるというのもいいかもしれません。これって『ザ・レイド』側から盗作批判もあったようですが、この構成って古くはブルース・リーの『死亡遊戯』(1978)からあったし、『パニッシャー:ウォー・ゾーン』(2008)でも『ジャッジ・ドレッド』(2012)でも使われていましたから、そんなに目くじら立てることないんじゃないっすかねえ。逆にアクション映画のフォーマットの一つとして流行らせると面白いのに。

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20160721(Thu)

[][]女子嬰児殺しの村〜映画『Kajarya』 女子嬰児殺しの村〜映画『Kajarya』を含むブックマーク 女子嬰児殺しの村〜映画『Kajarya』のブックマークコメント

■Kajarya (監督:マドゥリータ・アナンド 2015年インド映画)

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新進女性ジャーナリストが祭の取材のため訪れた村で知ってしまった恐ろしい事実。それは村ぐるみで行われていた大量の女子嬰児殺害だった。2015年にインドで公開された映画『Kajarya』はインドで深刻な社会問題となっている「女子嬰児殺し」をテーマにした社会派作品である。監督のマドゥリータ・アナンドはジェンダー・子どもの権利に関する多数の短編・ドキュメンタリー作品を監督・製作してきた女性であり、この作品は彼女の2番目の長編映画作品となる。

《物語》デリーに住む新進ジャーナリスト、ミーラ(リディマ・シュッド)は毎年恒例の祭の取材のため、デリーから80キロ離れたある村に訪れる。しかし、村の不穏な空気に胸騒ぎを覚えた彼女は、聞き込みの中で祭の巫女である女、カジャリア(ミーヌ・フーダ)が村で生まれた女児新生児を殺す役割を負っていることを知る。ミーラはこのニュースをメディアで取り上げ、カジャリアを告発する。だがカジャリアもまた、女性蔑視の渦巻く村で惨めな生を生き続けてきた女だった。

インドでは英領期から女子嬰児殺しが問題になっていた。これは家長としての男児が望まれていることと同時に、ダウリーと呼ばれるインドの持参金制度が大きくかかわっている。インドでは結婚に際し嫁の親側が多額の持参金を支払わねばならない。この額は娘が二人三人といればマハラジャですら家が傾くとも言われ、女児が生まれた時から持参金を貯蓄し始めることもあるという。このダウリー制は現在法律で禁止されているが、地方ではいまだに根強く残っており、この持参金を巡って嫁が殺されるという事件も多発している。

インドでは家族の名誉を傷つけたとか、花嫁の持参金が少ないといっては、女性に火をつける家族や義理の親族が今も後を絶たない。政府の統計によると、花嫁の持参金に関するもめごとで約1時間に1人の割合で女性が死亡している。また、虐待から逃れるために、考えあぐねた末に自ら火をつける女性もいる。

持参金問題で嫁が焼き殺されるインド - WSJ

将来的な持参金負担の重圧を逃れるため、生まれた子供が女児であった場合、これを闇に葬ってしまう。これがインドの"女子嬰児殺し"の理由の一つであるが、これは決してインドが古来から持つ"野蛮な風習"というわけではなかった。

植民地インドにおいて、嬰児殺しは一部カーストの文化・悪習ととらえられていたが、実際には植民地行政下で新たに誕生した部分が大きいという。その例が徴税官階級ザミーンダールだ。イギリスの徴税改革によって仕事を失ったザミーンダールたちは一族の財産を守るために高額な持参金が必要となる女児を避けるようになった。こうして嬰児殺しという「伝統」が生まれた。他のカーストにおいても植民地政府の管理が厳しくなるなか、嬰児殺しの「伝統」が生まれる。裕福なカーストから貧しいカーストへと風習は広がり、植民地政府が取り締まろうとした時には立派な伝統に変わっている。

【ブックレビュー】「嬰児殺し」という作られた伝統=『女性のいない世界』を読む : 中国・新興国・海外ニュース&コラム | KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

またこれに付随し、インドでは出生前の性別検査と、女児と分かったうえでの堕胎が法律で禁止されているが、これも違法な医療行為として横行しているという。

インドの男女出生比率は、1991年には男児1000人に対し女児945人だったが、2011年には1000対918になった。国連人口基金によれば、同国では男女産み分けや幼児殺害、育児放棄などにより、毎年40万人の女児が「行方不明」となっている。(中略)出生前の性別検査は、1994年以降禁じられている。2003年にはこの目的で超音波を使うことを禁じる法律改正が行われたが、これによってかえって、悪徳医師や適切な医療訓練を受けない起業家がサービスを提供する闇市場が繁栄する結果となった。

インドで違法な男女産み分け横行、巨大地下産業に - WSJ

作品はこうした背景の中で物語られてゆくが、こういったテーマだからこそ女性が中心となって描かれてゆくところがユニークである。まず事件を発見し告発したのが女性である。また村で嬰児殺しを担っていたのもまた女性である。しかしこの女カジャリアもまた、男たちによって村の暗部をたった一人で背負わされ、なおかつ"忌むべき存在"として虐げられている被害者でもある。ここには幾重にも重なった女性差別と女性蔑視が存在する。

ジャーナリスト、ミーラが初めて訪れた事件の村は、通りのあちこちに男たちがたむろするものの、女の姿は一切なく、ただそれだけでも異様な雰囲気に満ちている。その後女たちはぽつぽつと村の通りに姿を見せるが、彼女らは一様に顔を隠しうつむきながら足早に歩くのだ。この呪われた地で、"女"であることはそれ自体が"望まれぬ生"という名の烙印なのだ。こういった描写を通し、"嬰児殺し"そのものだけではなく"女の疎外された世界"の異様さがひたひたと恐怖を醸し出す作品でもあった。

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