大𠮷原展見学

歌舞伎の演目に新𠮷原を舞台にした助六由縁江戸桜というのがあり、(詳細は是非歌舞伎でご覧いただきたいのですが)その物語の中には助六が置いてある大きな天水桶の中に入り身をひそめるいわゆる水入りというシーンがあります。なんであんなところに都合よく天水桶が?と不粋で些細な疑問をずいぶん前に私より頭が良い彼氏に投げたことがあるのですがそのときは「火事と喧嘩は江戸の華というだろ?」と返され、ああなるほど…と腑に落ちています。いまでも浅草寺本堂には人が入れるくらいの防火用の天水桶があり、江戸期の新𠮷原に人が入れるくらいの天水桶があっても不思議ではありません。些細な疑問はいったん解決しています。

そのときは。

別の機会に眺めた新𠮷原を描いた浮世絵には屋内に天水桶がなぜか省略せずに描かれていて、以降新𠮷原を描いた浮世絵に桶があるかどうかを気にするようになっています。くわえて助六にでてくる福山のかつぎの福山は実在したうどん屋でPRを兼ねてたことを知ると疑念は深まり、火事と喧嘩は江戸の華とはいえ桶をアピール必要性があったはずなのではないか?と考えるようになっています…って、浮世絵を眺めてて・歌舞伎を眺めてて「そんなこと気にするほうがおかしくない?」と云われそうなことをもうちょっと書きます。

話はいつものように横に素っ飛びます。

現在上野の芸大の美術館で大𠮷原展というのを開催していて土曜に見学しています。その大𠮷原展のいちばん最後のほうの展示で火を付ける遊女の存在について触れられていていました。新𠮷原は複数回出火していて、つまりそこに居る当事者からすれば耐えがたい状況下で逃げることもできず結果的に奉行所に勾引され重罰を覚悟のうえで火をつけて…という放火が起きていて、当事者にしてみればかなり苛酷な環境であったことが伺えます。遊郭は二度とこの世に出現すべきではないという趣旨の田中優子前法大総長の発言が展示会場の冒頭に掲げてあるのですが、付け火をとってみてもひどくよくわかる主張であったりします。話を桶に元に戻すと、当時不特定多数が目にしたであろう浮世絵に描かれた桶や歌舞伎に登場した天水桶は「防火対策はしっかりしてますよ」という顧客に対するせめてものアピールなのかなあ、と想像します。今回の大𠮷原展で積年の謎のヒントが少し得られたような気が。

大𠮷原展の展示品のある程度は浮世絵もしくは日本画で、やはり屋外屋内関係なく桶がしっかり描かれてるものが多かったです…って桶は横に置いておくとして、まともなことを書くと喜多川歌麿酒井抱一など名前はどこかで聞いたことのあるはずの作品が大英博物館を筆頭にあちこちから借りて展示され所狭しと並んでいます。負の側面を承知しつつも、𠮷原が当時の絵画に与えた影響はデカかったのかなあ、と想像できました。描いてる方が愛情をもってるのではないか?と思われるものもあってそれらを眺めてるだけでもけっこう時間泥棒です。

会場内には台東区下町風俗資料館所蔵の𠮷原の妓楼の立体模型が飾られていて

じっくり見入ってしまっています。ただどちらかというと江戸期の絵画に与えた影響について力点が置かれすぎていて、それ以外の側面は、たとえば衣装や建築に関しての影響はそれほど触れておらず、ちょっとそっけない扱いは否定できないような。

なお会期は19日まで。

仇討ちもしくは『研辰の討たれ』について

史実はどこまでほんとかは知らないものの赤穂浪士の討ち入りの物語で吉良上野介はイヤなヤツとして描かれることが多く、そして吉良上野介浅野内匠頭に対する扱いはいまもある知識のある人が知識のない人を小バカにするのに似ている気がしてならず、ので斬りつけるのも妙に理解でき個人的には情状酌量の余地もある気がしてならず、なのに喧嘩両成敗にもかかわらず赤穂だけ取り潰されるのも不当に思え、いつのまにか赤穂方の味方をしていて、ゆえに赤穂浪士の物語で本懐を遂げると「よくやった…」感があったりします。そう考える根っこには「イヤなヤツは成敗されるべきである」というのがどこかあるせいかもしれません。実質あほう学部でもいちおう法学部出身なのでいくらか云い難いのですが、私の身体の中には仇討ちの名を付した暴力の肯定が伏流水のように流れています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

いまは亡き勘三郎丈が野田秀樹さんと組んで『研辰の討たれ』という歌舞伎を歌舞伎座で上演したことがあります。題に討たれと入っているのでご想像がつくと思いますが仇討ちもので、研ぎ屋から侍になった主人公の守山辰次を勘三郎丈が演じています。不粋なネタバレをお許し願いたいのですが、吉良上野介のような根っからのイヤなヤツは居らず、にもかかわらず仇討ちは成功します。どういうことかを含め詳細はDVDになってるのでそれらでご覧いただくとして。

さらにもう幾ばくかのネタバレをお許し願いたいのですが、イヤなヤツはいませんが強いて言うならば仇討ちと知るや否や態度を変えさらに当事者でもないのにそれを消費しヤジを飛ばす道後の人々がかなり印象に残っています。と同時に、上記に書いたようにわたしも仇討ちの名を付した暴力の肯定が伏流水のように流れていますから仮にその場に居合わせ仇討ちと知ったら同じことをする軽薄さがおのれにもあるなあ…と首筋にスッと冷たい刃物をあてられた触感が当時はありました。

はてなの編集画面に「あれは名作だった」を教えて!というのがここのところずっとでていて、見るたびに浮かんでいたのが『研辰の討たれ』です。もっとも名作ってのはいったいなんなのか,、そもそも名作とはどういうものを指すのか、観ているこちらにいくばくかの内省を求める批評性のあるものは名作といえるのか、無産無知識無教養なので正直わかりません。そしてだれもがこれぞ歌舞伎の名作!というかどうかもわかりません。今週のお題「名作」をひっぱったのに、ねえ、それじゃダメじゃん

たこ焼きにおける紅ショウガの存在意義について

これから答えのないくだらないことを書きます(いつもくだらないことを書いていますが)。

昨日、出かけた先で屋台のたこ焼を食べています。

そのたこ焼には紅生姜が脇に添えられていました。爪楊枝は2本で、箸はナシ。キャベツ等と一緒に紅しょうがを刻んで生地に入れる醤油ベースのたこ焼に馴染みがあり、紅生姜別添えをどうやって喰うのだろう…と戸惑い、隣にいた彼氏を観察してると爪楊枝を二本平行にして器用に紅生姜の群れをすくい上げたこ焼の上に載せていて、ああなるほど…と合点がいってます。

でもそれなら最初から上に載せて出てくるはずだよな…という疑問が無いわけではありません。ので、試しに1玉は紅生姜を載せずに食べて紅生姜を適量すくって口直しのように口に放り込み、残りの玉は残りの紅生姜をすくって載せて食べています。個人的にはたこ焼の別添の紅生姜は口直しなのではないか?説を唱えたくなっています。

が、私が紅生姜好きでそれだけで味わいたい意識がある点も否定できず、くわえてたこ焼きの歴史もあるべき食べ方もよくは知りません。ので、このへんで。

あてにならない舌の記憶

今月の半ばぐらいに久しぶりに口内炎ができちまいました。口内炎の原因は生活習慣の乱れとかストレスとかいわれるものの、抱えてる仕事を放り出すわけにもいきませんしそもそもその状況に好きこのんで追い込まれてるわけではありません。どないせえちゅうねん…とぼやいたところでどうしようもなく、抽象的な論は横に置いておくとして、なにかが足らないのは理解し、しかしそのなにかがわかりません。「こんなもので治るわけないよな…」と考えつつあてずっぽうでそのときはヨーグルトにイチゴが入ってるものに変えています。それを数日続けたらいつの間にか症状が治まってます。ただ偶然に過ぎない可能性もあるので「口内炎にはイチゴの摂取が有効」とここで言い張るつもりはありません。

食欲の落ちる盛夏は桃を食べますが、春はほとんどど果物を喰べてきませんでした。いましばらく忙しい日が続くので、これは口内炎予防を口実に継続して食べた方が良いかも…と半ば強引に理由付けして買い物カゴの中に果物類を入れるようになっています。輸入物ではあるもののグレープフルーツを見かけてて、そういや砂糖をまぶして食べたな…と郷愁を感じて直近ではそれを手に取っています。

さてそのグレープフルーツ、砂糖をまぶして実食したあと気が付いたこととして砂糖要らなかったかも感がありました。以前より甘く、でもって以前は酸味がもっとキつかった気がするのですが。

舌の記憶ってあんがいアテにならないかもしれなくて、だとすると、酸いも甘いも噛分けるって案外難しいことなのではないかな、と(異論は認める)。

朝起こすときのことばについて

ここのところしばらく著書を追いかけている山梨出身の網野善彦という歴史学者の説はどちらかというと日本が均質的な単一民族であるかのような考え方に批判的です。詳細は著作をお読みいただきたいのですが『東と西の語る日本史』(網野善彦講談社学芸文庫・1998)という本の冒頭に名古屋市の電柱にあった広告の「ひち」がなんだかわからなかった…という体験的告白があってそこから東国と西国の差異に論が進み、その本を読んで言葉に限らず西と東の差異が確かにあるよなあ…などと思っていました。

話がいつものように横に素っ飛んで恐縮です。

いま『日本語の大疑問2』(国立国語研究所編・幻冬舎新書・2024)という本を読んでいて、その中に

はっきりいう/遠回しにいうといった地域による話し方の差について違いはありますか?

という質疑と応答があり(P60)、本書では実証的な客観的な裏付けを基に違いがあることを答えるのは困難としつつ、谷崎潤一郎の文章を紹介するカタチでいわゆる大阪のほのめかしが東京人にはわからないこと等が紹介され、次いで眠っている子(正確に書けば孫)の起こし方に差異についての2002年の調査が紹介されていました。

やさしくいう場合:「起きたらいい」「起きたらどうだ」(勧め表現)は東日本に多く、「起きなきゃだめ」「起きなあかん」(状況提示類)は西日本に多い

きびしくいう場合:「なぜ起きないんだ」「いつまで寝てるんだ」(状況問いかけ類)は東日本に多く、「起きなあかん」などの状況提示類は西日本に多い

『日本語の大疑問2』(P62)

西日本では一貫して状況を教え示すように言い、東日本では勧めや問いかけで、ああそんなところにも東西の差異があるのか…と興味深く読んでいます。

個人的なことを書くと私は子も孫も居ませんがコーヒーが冷めるから起きてとか離床を勧める東日本型で、なぜそんなふうな「勧め表現」でいうのか説明ができるようでできません。強いていえば「起きなあかんで」というような、しなければならない系の状況提示の表現に云われたらイヤ的な抵抗感があります。じゃあそれはなぜ?と云われると説明しずらく言葉に詰まるのですが。

どうしてそうなったのだろう?という解明のしようのない疑問とともに、日本語って謎が多いなあ、と毒にも薬にもならない感想しか出てこないのでこのへんで。

清水観音堂のモッコウバラ2024

博多華丸大吉師匠の漫才について何度か書いているはずですが、その中に昼はちゃんぽんやったけど夕食として食べたものがなんだったかを思い出せず、なので人間の記憶力は不確かであるという趣旨のネタがあります。抱腹必至のネタですがひとのこと云えるかというと怪しいです。1582年いちごパンツ本能寺の変とかくだらないことをいまでも覚えていますが、風呂に入る前にメガネを置いたはずなのだけど置いたはずの場所にメガネが無くどこに置いたか覚えてない…ということも先日の富山旅行の際にあったりしました…って相変わらず余計なことを書いている気が。

上野へ出た際に上野公園の清水観音堂のすぐそばにモッコウバラがあった記憶を思い出しそろそろ咲いているのではあるまいか?と予想して遠回りになるものの寄ると

ちょうど真っ盛りで見事で

めずらしくおのれの記憶力を褒めたくなっています。

もっとも年一回しか役に立ちませんが。

弁当における蒲鉾の存在意義について

いつものように匿名を奇貨としてくだらないことを書きます。

死んだ両親は蒲鉾を食すほうではなく、なので蒲鉾をどうやって食べるのかほぼ知らないまま大人になっています。神田の蕎麦屋では蒲鉾を薄く切ってわさびと醤油を添えて出す、というのは目撃していたのでそれが唯一の知識でした。崎陽軒シウマイ弁当には小さいころからシウマイのほかに蒲鉾も1枚入っていたはずで、その蒲鉾には神田の蕎麦屋での知識があったので一緒に入っていた醤油を蒲鉾に垂らして食べていました。

ところが弁当に常に醤油が付いてくるとは限りません。

社会人になりたての頃に大阪に放り込まれ、その時期の新大阪の駅で売っていた弁当には蒲鉾が入っていても醤油がついておらず戸惑った記憶があります。名古屋駅はすべてを確認したわけでは無いので云い切れないものの幕の内系には醤油が入ってないものがそこそこあり、同じ愛知の豊橋駅の幕の内は横浜同様醤油入りです。静岡駅や富士駅は幕の内の中に醤油のほかにわさび漬けが添えてあることが多く、私は蒲鉾にわさび漬けを載せて食べています。もちろんそれが正解かどうかは謎ですが。

話はいつものように横に素っ飛びます。

蒸留所見学で去春に仙台へ行ったときにかの地の笹かまぼこがおやつ代わりになりうるものだと知りました。私は長いこと蒲鉾というのはおかずというか副菜というかそれでごはんを食べるものだと考えていたのですが、それは思い込みに過ぎなかったのでは?と思い知り、そしてそれ単体で味わう前提なら醤油が無くても腑に落ちたというか。実際仙台駅の弁当に笹かまが入っていても醤油は入っていませんでした。

もっとも弁当における蒲鉾はデザートなのか?というとちょっと違う気がしてなりません。ここではてな今週のお題「お弁当」をひっぱるとさも当たり前のようにそこに居る蒲鉾の弁当における存在意義はいったいなんなのか、去春以降、よくわからなくなっています。もっとも旅先で買った弁当に醤油やわさび漬けが蒲鉾とともにあったら今までと同じくそれらをつけて食べてしまうと思うのですが。