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2016-09-12

国家/内戦/シン・ゴジラ

 

地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた

                                  ――ヨブ記41.33

 

 近代国家を聖書に出てくる大怪獣リヴァイアサンに喩えたのはホッブズであった。ホッブズによれば、人間の自然状態は万人の万人に対する闘争であり、そこに安息は無い。従って人間たちは自らの権利を国家へと委譲する契約を結び、国家の保護を得る。保護と服従の関係が、国家と国民の関係を規定する。国家はその領域において唯一の主権的共同体である。

 カール・シュミットは、『政治的なものの概念』において、国際社会を複数のリヴァイアサンが競合する多元的な空間として考えている。国際間においては、国家の国民に対する保護は、他の国家からの保護でもある。むしろ国民は他の国民に対抗するために国家をつくる。国民の結集は、「政治的なもの」によって行われる。つまり、友と敵の存在論的な区別によって行われる。国家の主権者は、政治の概念に即して、国家の敵を正しく識別しなければならない。

 シュミットの最晩年の著書『パルチザンの理論』は、「政治的なものの概念の中間的論考」という副題がついでいる。国家の領域内単一性は、人々が友と敵の区別によってそれぞれの国民へと結集することによって成り立っている。ゆえに、国家は友と敵を正しく区別する力を失ってしまったとき、単一の主権者としてのリヴァイアサンたることをやめてしまう。その際、国家を救うのは誰か?シュミットはその役割を土地に根ざしたパルチザンに託した。土地に根ざしたパルチザンは、侵入者を国土から追い出すという明解な目的を持つことによって、友と敵の正しい区別のもとに闘い、既存の国家にかわって国家の単一性を回復するのである。

 しかし、パルチザンは他方で、既存の権力とっては、自らを打ち倒す力ともなりうる諸刃の剣でもある。国民の中でも「意識の高い」人々の集まりであるパルチザンは、国家と国民を守る潜勢力であると同時に、内戦の原動力となる潜勢力でもあるのだ。プロイセン国家は対ナポレオンのために非正規兵を招集したが、途中で解散させた。非正規兵を利用することによって、プロイセンは自らの体制が脅かされると考えたからだ、と『パルチザンの理論』の著者は述べている。

 

 国家に決断する能力を再び与え、政治的なものを回復するパルチザンと、内戦の原動力たるパルチザンは双極的な関係をもつ。それは近代科学文明における技術的なものの双極性と関連している。その双極性とは、陶酔と制御である*1。技術とは人間のために人間が制御し使役する手段である。しかしその技術が発展と改良を重ね、人間の制御不可能な地点まで極まったとき、人間はむしろ技術によって駆り立てられる。スマートフォンは「感性を疎外しない透明なメディウム」*2として、人間の生活を利便化させるために発明された。しかし、今や人間はスマートフォンに駆り立てられている。外出先でポケモンGOを楽しむのではなく、ポケモンGOを楽しむために外出する。近代技術は人間の制御を離れ、自律的に運動し、人間を陶酔のうちに巻き込んでいく。『技術への問い』の著者は、近代技術の本質をゲシュテル(総駆り立て体制)とよんだ。ゲシュテルとしての技術は、人間を道具として使役し、その本来あるべき場所を喪失させる。

 ゲシュテルとしての技術の際たるものは、原子力技術だろう。それは過去には「明るい未来のエネルギー」として、人間社会にただ幸福をもたらすものと考えられてきた。しかし実際には、人間はその技術を制御できず、電力を取り出せたとしてもその後はただ最悪のカタストロフを防ぐためだけに10万年もの間、技術を管理し続けなければいけない*3。もはやそれは原子力技術に人間が駆り立てられているといわざるをえない。そして、この原子力技術が制御を離れ、自律的に運動するようになるとどうなるか。もちろんそれは答えるまでもなく、チェルノブイリやフクシマの現状を見ればはっきりと分かるのである。制御を離れた原子力技術の暴走はカタストロフを生む。そして、そのような技術から誕生した生物がゴジラである。

 

 作中でも指摘されているように、ゴジラは水と空気さえあれば半永久的にエネルギーを取り出すことができ、文明が滅びるまで世界を破壊しつくす可能性がある「人類の敵」である。しかし、『シン・ゴジラ』の世界の中ではむしろゴジラは「国家の敵」であって「人類の敵」ではない。ゴジラを「人類の敵」とみなす国際連合は、日本国家を犠牲にゴジラを抹殺しようとする。しかし、東京もろともゴジラを核攻撃するという判断は、きわめて「政治的」である。この決定に対して、日本政府のあらゆる構成員は反発の色を隠そうとはしない。彼らは「人類」ではなく、「日本」へと結集するのである。世界を救うために一つの国(国民)を犠牲にせよという命令には、誰も従わせることはできない。

 一方、矢口はヤシオリ作戦を発動させる際、自衛隊員を前に演説を行う。彼の命令は、自衛隊員自らの命を代償に国家(国民)を救えというものである*4。『政治的なものの概念』の著者は次のように言っている。すなわち、敵を殺すために人に死を要求できるのは、「政治的なもの」つまり「国家」だけだと*5

 ゴジラという最悪の脅威に立ち向かう中で、日本「国家」は政治的なものの強度を高めていく。ゴジラの攻撃で、それまでの政府要人はほぼ全滅する。代わってゴジラ対策の主導権を握るのは、若手の政治家や官僚たちである。彼らはそれまでの世代とは異なり、ゴジラという例外状態において「決断」する能力を持っているのである。

 彼らは一体何者なのだろうか?ゴジラは正攻法では倒すことができない。ゴジラを倒すために必要なのは、叡智と技術と「地の利」(ビルや線路も彼らの武器なのである)である。したがってゴジラ対策チーム及びその支援者たちには、「パルチザン」の名を与えてもいいだろう。彼らは日本という土地に張り巡らされたネットワークを駆使して、ゴジラを倒す。そして国家に決断する能力を再び与え、新しい体制をつくりあげるのである。国家とは怪獣「リヴァイアサン」である。ゴジラという怪獣に対抗するために、日本もまた一匹の怪獣となる。国際社会の多元性の中で、戦争がリヴァイアサンの必要性を自覚させるように、ゴジラもまたリヴァイアサンの必要性を自覚させる。ゴジラは戦争の象徴であり、ゴジラ対策チームは「政治的なもの」を再興するパルチザンの象徴である。

 しかし我々は、ここで考察の歩みを止めるわけにはいかない。ゴジラが単に「外敵」の象徴であるならば、この物語が2011年の大地震および原発事故を反復しようとしていることの説明はつかない。ゴジラが、震災の被害者のみならず東京の犠牲となった地方の怨念をあからさまに体現しており、実際にそのような観点からゴジラを支持する人もいることを考えなければならぬ。

 

 ゴジラを東京の権力に対する地方の反乱(荒ぶる神)として考えるなら。ゴジラは「内敵」ということになろう。「外敵」と「内敵」、双極的な概念をゴジラが一匹で体現していることに驚きはない。シュミットにとって、「外敵」がリヴァイアサンたる国家に必要であったのと同様に、ジョルジョ・アガンベンによれば、「内敵」(内戦)もリヴァイアサンたる国家には必要だったのである。

 アガンベンの著作『スタシス』には、古代ギリシアにおいて内戦は国家がポリス(都市)からオイコス(家族)へと成長するために必要な過程であったことが書かれている。当時のギリシア人にとって、内戦は近代人がそう考えるようにけして忌み嫌われるべきものではなかった。結果に対する訴訟や復讐は許されないにせよ、内戦の記憶自体は将来にわたって想起されるものだったのである。

 アガンベンは、『リヴァイアサン』の著者にとっても、新たな主権を打ち立てるためには内戦は必要だったとしている。ホッブズによれば、個々の人間ひとりひとりの「群がり」は「人民」ではない。「人民」とは単一の概念であり、けしてそれ自体を可視化することはできず、代表されることによってのみ可視化されうる。社会契約を結び、単一の人民となれるのは「統一されてないない群がり(disunited multitude)」である。それに対して、社会契約を結んだはいいが単一の人民たる力を失ってしまった群がりは「解体された群がり(disunita multitudo)」である。このふたつの群がりは違うものであり、後者がまた新たな主権契約を結ぶためには、いったんまた前者に戻る必要がある。しかし「解体された群がり」の一度結んでしまった主権契約は変更できないので、それを破壊するために必要な作業が内戦なのである。

 内戦の勝者が主権者として新たな国家をつくる。『シン・ゴジラ』において勝者は「外敵」であると同時に地方人の怨念としての「内敵」たるゴジラではなく、下っ端とはいえ東京の政府の一員であった矢口たちであった。彼らはパルチザンとしてこの戦いを戦った。そして「解体された群がり」からゴジラ=内戦によって「統一されていない群がり」となった日本の人々を再び「人民」へと高め、選挙に勝利するよって主権契約を結ぶのだろう*6。だが一方で、内戦の敗者たるゴジラは用済みとなってしまったのか?そうではない。ゴジラは冷却されただけで死んではいない。怪物はその姿を保ったまま眠っている。人々がいなくなった東京の中心部で。

 

 『リヴァイアサン』の有名な表紙*7――人間たちがひとつの人格を構成している――で、描かれている都市に人々がいないことについて、『スタシス』の著者は、次のように解釈している。すなわち、統一された「人民」は都市に住む群衆とは違う。群衆はいったん「人民」として代表されてしまうやいなや、いなくなってしまう。逆に「人民」は都市には住まず、君臨するだけなのである。

 『シン・ゴジラ』の群衆は、序盤から中盤にかけて描写されている。ゴジラから逃げ惑う人々であったり、野次馬としてスマホ撮影やSNSの書き込みをする人々であったり、脅威が一度鎮静化すればすぐに忘れ去る人々であったりする。だが、旧政府の指導者たちが死に、日本が次第にひとつの「人民」=リヴァイアサンとして立ち上がっていくにつれて、その描写は少なくなっていく。そしてゴジラがついにその活動をやめたとき、もはや群衆の姿は無い。

 群衆はどこへ行ったのか?もちろん作中では疎開が完了している設定なので、彼らはきっと地方のどこかの避難所に分散して避難しているのだろう。だが、この問いはより根源的に考えられるべきだ。「群衆」はどこへ行ったのか?「解体された群衆」は「統一されていない群衆」を経て、「人民」となる。かの冊子の表紙を思い出してほしい。「人民」となった群衆はリヴァイアサンの中へと入るのである。ホッブズがその著書において国家をひとつの神話的形象によって象徴したように、群衆がいない東京の中心にもリヴァイアサンに並び立つ神話的象徴がある。「呉爾羅」と言う名の。

 ここで、ゴジラという存在をもう一度整理してみる必要がある。ゴジラは「外敵」であり、日本というリヴァイアサンと戦う。しかし、そこには二匹の怪獣がいるのだろうか?ゴジラは「外敵」であると同時に「内敵」でもある。そしてそれは日本国家がリヴァイアサンたるためには必要な存在である。この意味で、ゴジラは日本国家に対する単なる「対手」ということはできない。むしろそれは日本国家に対する影のような存在である。ゴジラの成長に合わせて、日本国家もまた「成長」していく、という劇中での言及を考慮すると、むしろ「鏡」というのが良いのかもしれない。日本国家はゴジラを敵として見ることによって、自らの姿を顧みるのである。

 

 いまや我々は、『シン・ゴジラ』に天皇が登場しない真の理由を理解することができる。日本国憲法下の天皇制に制度体保障*8以上の法的意味を求めるとするなら、ノモス(法)としての天皇という以外にない。『天皇制と国民主権』の著者は、真の主権は国民にではなく国民がより良き政治を志向するというノモス(法)にあり、その象徴が天皇だとして、宮沢俊義の八月革命説に対抗しようとした。国民が天皇をよりよき政治の鏡として仰ぎ見ることによって*9、天皇制の国民統合機能は保たれる*10

 この法哲学者の天皇論は当然ながら主流派憲法学によって一蹴された。しかしそれは、「イン・エゴイストス」の著者の言を借りれば、「我々の法学の中に、いわば「不発弾」として埋め込まれている」*11。『シン・ゴジラ』の世界には天皇の姿はなく、代わりにゴジラがいる。

 ゴジラは「人民」となった日本国民の象徴であり、鏡である。そしてまたパルチザンの神話的な拠り所となる「大地のノモス」でもある。ゴジラの尻尾にはグロテスクな人間の姿が浮き出ている。それが単一化され代表された「人民」の姿なのか、内戦の敗者の姿なのかは問題ではない。いずれにせよ、それらはゴジラの中に統合されている。ゴジラがそれを象徴していることが決定的に重要なのである。「統合理論(R・スメント)」*12を引き合いに出せば、解釈が何であれ、皆がゴジラを鏡として見ているということが重要なのであるから。ゴジラは東京の中心に鎮座し続ける。ゴジラがいることにより、日本国民は「内敵」の可能性と「外敵」の可能性を忘れない。ゴジラは国家と人民を仲介する。それがある限り、日本というリヴァイアサンの政治的なものの強度は高いままに保たれるであろう。

 

 いずれにせよ、『シン・ゴジラ』はヒットした。驚くようなことではないだろう。少なくともここ20年、日本のオタクの多くは「強い国家」を希求してきた。この映画はその欲求にこたえる力がある。それは『リヴァイアサン』の表象そのものがもつ力と同じような「神話的な力」といえるだろう。

 ところで、政治的なものの強度の高い国家は何ができるのか?いまいちど、『政治的なものの概念』の著者の述べるところをおさらいしておこう。それは決断できるのである。危急の場合には自らの生命を犠牲にして、他国民を殺せと構成員に命令できる決断を。

 さらに付け加えると、そのような強度の高い国家を、いつまでも「冷却」して「制御」し続けることができるとは限らないのではないだろうか。いかなる方向性での統合であれ、「陶酔」へと至る道は内容の問題ではなく強度の問題なのであるから。

 

参考

*1:G・シュトゥンプ「陶酔と制御」(鍛治哲郎・竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学』青土社、二〇一四年 参照。

*2http://d.hatena.ne.jp/kanose/20080820/sensibility

*3http://www.asahi.com/articles/ASJ807DWVJ80ULBJ017.html

*4:確かに犠牲を最小限にする努力は行われているが、それでも薬品の注入は彼らに死を覚悟させねばならない代物だし、実際に犠牲も出ている。

*5:Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen, Berlin, 2009, S.43

*6:赤坂はこれから総選挙だと言っていたが、与党が圧勝するにきまっている。

*7https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Leviathan_by_Thomas_Hobbes.jpg

*8:制度体保障については、石川健治『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』日本評論社、二〇〇七年 参照。

*9:大御心!

*10:別儀ではあるが、憲法に定められた国事行為以外のグレーゾーンをこなすことこそがむしろ天皇の本来の仕事であると天皇自身が信じており、それをゆゆしきことだと思わない日本国民の多さも想起されたし。

*11:石川健治「イン・エゴイストス」長谷部恭男・金泰昌編『法律から考える公共性』東京大学出版会、二〇〇四年、一九四頁

*12:シュミットが政治的なものをはかる尺度に「強度」を選んだのは、スメントの動態として国家を捉える国法理論の影響があるといわれている。

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